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グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯 其の壱

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス
  ~屋須弘平の生涯  其の壱
yasu結婚四季の移り変わりを知らない風土に暮らしていると、時の流れを容易に知覚できない。
 季節(とき)はとても緩慢にのっぺりとゆっくりと滑ってゆくような印象で、あるとき乾季から雨季の端境いまでが1年にも思えることがある。ましてや温暖な大気しか流れこまない熱帯盆地に刻まれる心音はいたって怠惰で、その振幅のゆるやかさは午睡をさそう。
 中央アメリカ地峡の北端グァテマラの首都から車で40分ほど走ったところにあるパンチョイ盆地。標高1400メートルに地は、熱帯に位置しながら涼しい。乾季の早朝にはセーターすら欲しくなるほど冷える。まるで軽井沢の夏である。太陽は一年を通して、その勢いを減じることはないが、ひとたび日陰に潜りこめば、そこは爽やかな緑の風が吹き抜けるサロンである。
 大宇宙と、精緻きわまりない〈聖〉数学ともいえる知識を獲得し、神聖文字を媒体に対話しつづけた文明マヤの民を、野蛮で無慈悲な武力で制圧したスペイン征服者は1527年、この地の一角にアルモロンガというスペイン風の小さな町を建てる。そこが火山の噴火によって発生した泥流に押し流されると、こんどは五キロほど下った地に1541年、サンチャゴ・デ・グァテマラという都市を築いた。
 その地はマヤ先住民カクチケル族の神殿のある聖地でもあったが、スペインの征服者たちは無論、容赦しなかった。マヤ神殿を崩し、そこに大聖堂を建てた。いまもその聖堂は町の信仰の中心として活きている。裏庭の一角にはいまも神殿の小さな地下部が遺り、日曜日にはひっそりとそこに詣でる民族衣装の一団がいる。
 サンチャゴ市は創建早々、中央アメリカ一帯を占有したスペイン人たちの中心地としての役割を担うことになる。以後、大地震で首都機能を喪失するまでの230有余年、アメリカ大陸有数の都市として殷賑をきわめた。南北アメリカ地域における4番目の大学がこの地に設けられ、ローマン・カトリックの各修道会の中米における布教の本拠地となる大伽藍が次々と建立されていった。
 絶頂期には6万の人口を数え、グァテマラ総督府、軍隊施設、60の教会・修道院、市庁舎、大学、造幣局、幾多の宿泊施設が建ち並ぶことになった。しかし、1773年7月、サンチャゴを大地震が襲う。瞬時に破壊され廃墟と化した。総督府は町を放棄し、建物の残骸は放置された。しかし、この町を愛する人びとは大伽藍の廃墟を避けながら復興に手をつけ、やがてサンチャゴは植民地時代の面影を遺す都市モニュメントとしてユネスコの世界遺産となるのだが、むろん、それは後年の話だが、町の名は単に「古い」を意味するアンティグアといつしか呼ばれるようになった。
 このアンティグアに、日本の元号でいえば明治26年、写真館を開いた日本人がいた。この町、最初の写真館である。彼の名を屋須弘平という。屋須はそれまで足掛け17年、グァテマラに暮し、その生活はすっかり、グァテマラに溶け込み自ら洗礼を享けファン・ホセ・デ・ヤスと名乗っていた。
 アンティグアでは多くの顧客を獲得する傍ら、折りをみては“芸術”と自覚することなく創意工夫あふれるプライベートな写真を撮りつづけていた。
 1917(大正6)年に死去するまでの22年間、屋須の生活はこの地にあった。その後半生は、波乱にみちた前半生の歳月と比べるとき、信じられないほど平穏な日々であった。
 前半生を嵐の海というなら、アンティグアでの生活は内陸の淡水湖のような静穏な気配に満ちていた。ただ、そんな静穏も老弱した肉体を襲った病いによって奪われた。
 死期を悟ったのであろうか、屋須はふたつの手記を書く。ひとつはスペイン語で、もうひとつは日本語で……。スペイン語の手記は、文節の冒頭を花文字で飾り、備忘録でも手元において綴ったのだろう、月日の記述も克明なものである。そして小さな手帖の余白に日本語で手記というより、覚え書き、雑記といった感じでつれづれなるがままに記していた。そこには家族への控え目な不満が書き込まれ、日本語で書くことによってグァテマラ人の妻は理解できないという前提で、屋須の本音が零(こぼ)れてる。しかし、その日本語を誰に読ませようとしたのか? 首都グァテマラ・シティに当時、明治前期、日本の遊芸団が幾つかラテンアメリカ各地を巡業していたのだが、どういう事情かはいまとなっては分からないが、帰国の旅費を工面できずに住み着いた日本女性がいたことが確認されているので、あるいは、そうした人の手に渡ることを想定していたのかも知れない。しかし、あくまで憶測の域はでない。
 病いに伏せた床のなかで日本語を走らせた数行のメモの一つに、いま食べたいものとして、日本の食材を想い出すままに書きつけている。それは屋須の晩年の孤愁を感じさせるものであった。 (つづく) ☆後日、補筆・訂正の予定あり。
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アラル海の激しい後退   20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

アラル海の激しい後退
  20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

 
 ヒロシマの「原爆ドーム」を核戦争の象徴としてユネスコが世界遺産とするなら、今またアフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊跡を人間愚行の証しとするなら、消滅しつつあるアラル海の荒廃そのものも収奪的経済がもたらした環境破壊の最大の現場として世界遺産とすべきだ、と思った。
アラル海

 想像を絶する光景だった。
 「ここは激しい波が打ち寄せる断崖絶壁だった」とタクシーの運転手が言った。
 しかし、見渡すかぎり広漠とした無彩色の空間がはるか彼方、地平線まで果てしなくつづいていた。
 第二次世界大戦の巨大な戦勝記念塔がそこに建つ。おそらく、戦勝塔は、ナチドイツの鉄の暴風によく耐え、戦い抜いたソ連人民の不屈の精神を象徴するのだろう。絶えず吹き寄せる海風を受け止める、そんな苛烈な場所に建てられた意図はそういうものだと思う。そう、戦勝碑が建立された当時、アラル海の波頭はその岸壁を洗い、豊かな魚影は近在の村を潤していた。しかし、岸辺ははるか彼方、二〇〇キロも後退してしまったのだ。
 「アラル海がここから去って、冬は厳しく、夏は過酷になった。ひどいもんだよ。美味い魚は食えなくなるし」とも運転手は言った。彼はカラカルパクスタン人、モンゴル族の末裔となる。母語はウズベク語の縁戚にあたるカラカルパック語だからロシア語が拙いのは仕方がない。文法はもとより時制もいい加減で、みな現在形で処理していると通訳してくれた在タシケントの日本大使館職員が言った。
 まだ四十年にも満たない前の話。タクシー運転手の幼少期には、アラル海は世界第四位、琵琶湖の約一〇〇倍の巨大湖であった。それが一九六〇年代から急激に水位を下げはじめ八〇年代には水面が一五メートルも下降し、湖面積で六二%、水量で八四%も減少し、現在は中洲が露呈して三つに分断されてしまった。涸れた湖底ではそこかしこで塩が凝固し、やがて風に削られ、微粒子となって宙に舞い上がる。そして、近在の農地に降り注ぎ、土壌を荒廃させているのだった。破壊の連鎖は止まらない。
 戦勝塔の建つ岸壁から三キロほど下ったところに漁港があった。かつて沿岸最大の水産加工工場をもったムイナクである。すでに岸と湖の境い目は消滅し、打ち捨てられた漁船、輸送船、そして沿岸の町をつないで航行していた小型客船の残骸があちこちに点在し、かつてそこが湖であったことを教えているだけだ。廃船は赤錆を晒して無惨である。甲板は指で押せばポロポロと剥離してしまうほど脆くなっている。
 アラル海はムイナクを見捨てたが、町はまだ生き延びている。しかし、ゴーストタウンといってもおかしくないほどの過疎状態だ。異様な静寂にみちている。映画館の扉が打ち付けられている。四、五階建ての公団住宅もあるが、人の気配がない。町の佇まいは立派だが荒廃感が著しい。子どもの姿がみえない。生活臭がまったく希薄なのだ。
 アジアやラテンアメリカのスラムは住民の過剰がその体臭とともに荒廃感を漂わせているものだが、ムイナクは住民の過少が町を“スラム”化し、冷たい風が人いきれを凍りつかせている感じだ。
 水産加工工場へ行った。かつて地域経済を支える柱であったところだ。正門の鉄扉には、湖から魚を捕獲する漁民の姿が描かれていた。絵具がまだ剥落せず残っている。つい最近まで操業していた、という印象だ。しかし、誰もいない。施設を管理する者もいない。
 最盛期には、年間四万トンの水揚げがあったアラル海の漁業はほぼ壊滅した。湖面積が縮小するのに比例して、残った湖水は塩分濃度を高めた。そして、カザフスタン側に分離して残された小アラル海でわずかに魚影をみるだけで、南の大アラル海側では魚影は消えたといわれる。
 ムイナクの町の入り口にたつ案内塔には、魚の絵が波の象徴とともに描き込まれていた。繁栄する漁港の面影は、住民たちの心にまだ生きている。アラル海はそれほど急激に衰退したということだ。

 アラル海は城壁をもたない遊牧国家スキタイの昔から中央アジアの人と自然を潤してきた。モンゴル族の侵出、ティムール帝国の盛衰、ロシア帝国の南進、そしてソ連邦に併呑され、やがて独立へと……人間社会の興亡に寄り添い、数千年のあいだワガママな人間社会に豊かな富を分け与えていた。人間たちもアラル海を畏敬し、さまざまな祈りの言葉ともに崇めてきた。仏教、ゾロアスター教、そしてイスラム教……祈りの言葉が貶められ、宗教をアヘンと見なした“労働者”の政府がはるか北方に誕生したときアラル海は荒廃へと助走しはじめた。
 ウズベキスタンの首都タシケントからティムール帝国のかつての王都サマルカンドを車で訪ねた。その道沿い、その左右にはてしなく綿花畑がひろがっていた。
 その大半が大戦後、クレムリンの命令型計画経済によって強制された土地改良、不毛の砂漠や荒蕪地を綿花畑に変える一大プロジェクトによって生まれたものだ。
 綿花栽培には多くの水を必要とする。
 ウイグル語で天山山脈をテンリ・タグというが、ここを源流とするのがシルダリア川。そして、七〇〇〇メートル級の高峰がつらなるヒンドゥークシュ山脈から流れ出す大河シルダリア、この二大河川の豊かな水量をソ連政府は無限のものとみなした。そして、両大河から乾いた大地に水を引き込む運河を通し、四通八達させて綿花栽培地を拡大しつづけた。
 この運河建設に大きな足跡を残したのは大戦直後、ソ連軍に抑留された日本兵たちだった。というより、ウズベキスタンの運河は日本の抑留兵の存在抜きにしては語れない。
 首都のタシケントをはじめ各所に祖国に帰還することなく息絶えた抑留兵士たちの墓地がある。過酷な運河建設にたずさわり、病いなどで倒れた兵士たちが眠っているのだ。
 首都タシケントにウズベキスタンのボリショイといわれる国立ナボイ歌劇場がある。華麗とはいいがたいが質実剛健でティムールの末裔たちの首都にふさわしい剛毅さはある。この劇場の建設に日本の抑留兵がかかわり一九四七年に完成した。抑留された日本の若者たちの血と汗の結晶といってよい。「若者たち」と書いたが、歌劇場の建設に従事した日本抑留兵は「タシケント第四ラーゲリ」に収容されていた。歌劇場の建設を担当した抑留兵隊長は当時、二十五歳の永田行夫陸軍大尉であった。みな若かった。
  ↓・・・・・ウズベキスタンの紙幣にも描かれるナボイ劇場
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 一九六八年、タシケントは都市直下型の大地震に見舞われる。スターリン時代に建設された建物の大半が壊滅したといわれる。しかし、ナボイ歌劇場はビクともしなかった。以後、ウズベキスタンでは、「日本人たちの優れた技術、誠実な仕事が堅牢な建物を残してくれた」との賞賛が定着した。
 ソ連から独立して以後、ウズベキスタンは、「わが国は日本と交戦したことはない。戦争はモスクワの政府がやったことだ」という“論理”で親日国であること宣明している。そのリップサービスに酔ったか、中央アジア五カ国中、ウズベキスタンは日本からの経済援助をもっとも多く享受している。しかし、政敵を非合法手段で逮捕、拘禁し、健全野党の存在すら認めないイスラーム・カリモフ大統領の“独裁”を擁護する姿勢は、欧米の人権諸団体からは懐疑の目で見られていることは認識すべきだろう。
 さて、ナボイ歌劇場建設でみせた日本抑留兵の堅実な仕事は、運河建設でも例外なく発揮されたのは当然である。当時の日本人の愚直なのだろうか、激しい労働にも関わらず慢性的な食糧不足、医療設備の不備、そして厳しい気候風土にも関わらず「手抜き」をしなかった。しかし、そうした仕事への誠実さは抑留兵たちの肉体を蝕んだ。多くの犠牲者を出した。コーカンド二四〇人、アレグレン一三三人、ベガワード146人、チュアマ三二人……と確認されているだけで八〇〇人以上の抑留兵が帰還することなくウズベキスタンの荒野に眠ることになった。
 戦後、運河建設に関わった人たちの手記や記録などが数種出版されている。けれど、その多くが私家版で広く読まれることにはならなかった。筆者が手にした自費出版を幾つか読んでみて、あらためて当時の日本人達の労働観、あるいは責任感の強さを知った。建設に携わった人たちが皆、「恥じない仕事」という意識をもっていたことだ。名が歴史に刻まれるわけではないが、「日本人の仕事」として残ることの意味を日本人として責任を待たなければならないと思っていた。日本人としての矜持が妥協を赦さない、という心根を皆、もっていたのだ。戦前の日本は、そうした美質をもった人たちをふつうに育てていたのだと思う。昨今、見つからなければ数本、鉄骨を抜いても、細くても安く上がれば 、それで良い。利潤を追求することを最優先させた“構造疑惑”など、ウズベキスタンの荒野で血と汗を流した人たちには理解できないことだろう。

 日本人たちが建設した運河は無論、現在も使われている。
 もちろん日本人に責任はないが、結果として堅牢に作られた運河はアラル海に流れ込むべき二つの大河の流れを急速に細くしてしまった。
 大規模灌漑事業は第二次大戦後から一九七〇年代まで引き継がれた。日本人たちが建設した運河から支脈も延びた。そうして七〇年代には六二〇万haの灌漑農地が造成されている。
 スターリン時代、綿花増産と運河建設の近視眼的な生産第一主義は、「やがてとんでもない自然破壊を引き起こす」と警告する農学者がロシアやウズベキスタンにも存在し、条理を尽くして反対していたという。しかし、そうした勇気ある学者は反ソ的存在として“粛清”されていった。また、ソ連邦中枢の科学アカデミーとその傘下に多数の研究機関が存在しながら、灌漑事業の推進による環境被害を食い止める調整制御機構をつくれなかったのは、生産向上というスローガンに乗らないと研究資金が政府から得られないという体制上の問題も無視できない。
 綿花栽培を主体的に担ったのはウズベク人であることは間違いないが、彼らはもともと遊牧の民であった。農耕を好まない民族である。しかし、ソ連政府はロマ族(ジプシー)の定住化を強制したように、中央アジア諸国の遊牧民の定住化を、イスラム教団の活動を停止させ、影響力を殺ぎながら推進した。
 一所不在の民族譜を織りつづけてきた遊牧民を定住化するには、生活の糧の創出がなければならない。急速な工業化社会が実現できない以上、農地を確保しなければならなかった。しかし、元々、痩せた地で収益を出せる換金作物は限られていた。伝統的な綿花栽培を拡大するのが一番、手っ取り早かった。しかし、綿花栽培には大量の水が必要だった。米国南部に綿花畑が広がったのは、カリブ海から吹き寄せる雨雲による降雨量があったからだが、中央アジアの降雨量の絶対値は少ない。そこで二つの大河から運河で水を敷くこととなったのだ。
 ラテンアメリカやアフリカ諸国の多くが旧宗主国から砂糖、コーヒー、あるいはバナナなどモノカルチャー経済を強いられ、今日まで構造的な貧困から抜け出させないでいるのと同じような状況によってもたらされた人災なのだ。クレムリンは中央アジア諸国にモノカルチャー経済を効率よく短期間で強いたともいえる。
 
 これまでウズベキスタンのアラル海として書いてきたが、正鵠を欠く。何故ならば、アラル海の沿岸を持つ地はウズベキスタンではなく現在、防衛と外交権をタシケント政府に委ねているカラカルパック自治共和国なのだ。ソ連邦崩壊後、短期間、「独立国」として存在いた時期もある。その独立以前、この小国は世界から弧絶した「封鎖国」であった。
 一九三〇年にスターリンはこの小国に「調査団」を派遣した。この国に散在する歴史的建造物の「科学的調査」を実施するというのが目的だった。調査の本当の意味は、いかにモスクワ政府に従わせるかの一点のみ。調査の結果として、一〇〇のモスクと二〇のマドラサ(神学校)が三四年、たった一年間で取り壊された。ただ破壊されたのではない。モスクなどの廃材はそのままソ連スタイルの役所などの建設資材として活用されていったのだ。
 カラカルパクスタンの首都はヌクス。中央政庁前の通り駱駝が日がな一日、寝そべっているような町である。その政庁の周囲には旧ソ連各地でみかける無彩色で堅牢な建物が幾つも建っているが、その建材にモスクやマドラサの廃材が使われたわけだ。こうした宗教破壊はロシア革命後、全土に及んだ。そして、イスラム教国では宗教施設が、宗教を否定する役所の建材に転用された。こうしたことが集約的に起きたのがコロンブスのいわゆる〈新大陸発見〉以後のアメリカ大陸、特にマヤ文明、アステカ帝国があったメキシコから中米諸国であった。ピラミッド型の広壮な神殿は次々と破壊され、その神殿跡地に山積した石材を組み直してカトリック教会の大伽藍を作ったのだ。
 現在、新大陸一の規模を誇るメキシコ市のカテドラルはアステカ帝国の中心地に、神殿を破壊して建てられたものだ。その地下には、幾層ものアステカ期の遺構がいまも眠っている。そう、スターリンが中央アジア諸国で行なった宗教施設の破壊は、スペイン征服軍のエルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードなどがやった蛮行と基本的に変わらない。
 スターリンの犯罪は宗教者への弾圧で加速した。カラカルパクスタン政府の資料によれば、宗教施設の破壊の完了とともにはじまり三七年から翌三八年に掛けて約四万一千人が逮捕され、七千人が処刑された。おそらくカラカルパクスタン人の抵抗はつづいたのだろう。三九年からスターリンが亡くなる五三年までに約10万が逮捕され、一万三千人が処刑されたという。逮捕者のなかにはシベリアなどのラーゲリに送られ、獄死したものも多かったはずだ。そうした犠牲者の存在は、現在でも総人口百五十万の小国にあっては知識人と宗教者の大半が消された、ということだ。当時のイスラム社会にあって知識人とはイスラム神学者、高位聖職者であることも意味した。
 こうして抵抗勢力を徹底的に殺いだ後、スターリンはカラカルパクスタンを「封鎖国」として外国人の入国を制限し、ヌクス郊外に地元民をまったく雇い入れない秘密軍事工場を建設し、さらに、アラル島の孤島ボズロジェーニエに生物兵器を研究・開発する赤軍直轄の研究所を設立し、炭疽菌やペスト菌などによる動物実験を繰り返していたという。同島にはソ連軍侵入以前には漁民が暮らしていた。その住民が何処へ強制移住させられたか不明だが、無人となった島に赤軍が生物兵器の実験場としたのは、カラカルパクスタンにソ連の強制執行の「調査団」が入る前年の三六年であった。
 ソ連邦崩壊後、九一年に赤軍撤退にあたって施設は無菌状態に戻され、完全封鎖して引き上げたといわれた。しかし、約一〇年後の二〇〇〇年に米国の疫学調査団が入島、殺菌され地下数メートルに遺棄されていた炭疽菌の胞子数一〇トン(!)のうち一部が生きていることが確認されたという。同調査団は無論、緊急処置を施し、細菌の流出を止める処理し、本格的な除去をできるだけ早い時期に実施するということになっているが、現在のところ、その作業はまだ済んでいない。
 同研究所の細菌の一部がなんらかの理由で漏洩し、カザフスタン沿岸周辺で八八年にはペストが流行し、八八年には家畜五〇万頭が原因不明の病気で死んで、周辺住民に避難命令が出たことがあった。
 かつての漁港ムイナク周辺の乳幼児の死亡率がウズベキスタン平均を上回り、アラル海の後退による何らかの原因と予測される。

 アラル海から揚がった水産物はムイナクだけでなく水量の豊かだったアムダリア川を遡上して首都ヌクス郊外に岸辺に作られた加工工場に運ばれた。その工場も現在は閉鎖され、従業員の宿舎は空き家となった。工場で働く従業員のほとんどがロシア人であった。ソ連崩壊後、ロシア人は引き上げ、空き家となった宿舎に地元民が入居した。その村に住む老人の案内で、「アムダリア川が消滅している場所はすぐそこだよ」ということで案内してもらった。
 そこにも漁船、小型輸送船や係留されたまま朽ち果てているのだった。その一艘の船体には「レフ・トルストイ号」とあった。
 「すぐそこまで水量はあったんだ」と老人が示す辺りから、数十メートル先まで下降したところに細い流れがあった。無論、大河の面影はまったくない。
 村の近くの路上で魚をビニールシートの上にならべて売る人たちがいた。アムダリア川から獲ってきたものだが、こんな魚も数年後には揚がらなくだろう。
 ウズベキスタン政府は非公式だが、アラル海の再生をあきらめたという。アムダリア川とシルダリア川の水量をかつてのように戻し、アラル海に注ぐ量を増やすためには膨大な綿花畑を潰さないといけない。そこで生計を立てる農民の再就職先を確保しなければできない相談だ。それに綿花の輸出に頼る経済構造を急激に替えるわけにもいかないし、同国東部のファルガナ盆地では地域格差を放置するカリモフ政権に対する根強い反対勢力が存在し、二〇〇五年には中央アジア諸国が独立して以来、最大規模といわれる暴動、それを鎮圧するための過酷な弾圧が行なわれ女性や子どもを含む五〇人以上が殺されている。これ以上、貧しい農民の生活を困難にする施策は絶対にとれないのが同国政府の現況だ 。
 ただ、同じような独裁的な国家であるカザフスタンだが、独自に同国領で分離して残された小アラル海では漁獲が認められること、保全が可能ということで水量維持するためのダム建設、及び南の大アラル海につながる水路を封鎖する工事が進められている。この一連の工事のためにカザフスタン政府は世界銀行から多額の資金を借り受けている。この返済に見合うだけの価値が小アラル海の一連の再生事業に見合うものかどうか、それは先の問題である。ダムは永遠に使用できるものではありえないし、世界的な傾向としてダムそのものの見直しが始まっている。それに、これまで世界銀行が融資する、いわゆる「開発援助」事業の多くが広大な環境破壊に繋がっていることは周知の事実で、たとえば“ 地球の肺”と呼ばれるブラジル・アマゾン地帯の荒廃に拍車をかけたロンドニアの植民事業に世銀が積極的に融資した。一九九七年、インドネシアの熱帯雨林二六万ヘクタールが消失し、隣国のマレーシア全土まで煙幕で覆った“人災”も世銀が融資した開発事業計画に遠因がある。世銀の絡んだ“人災”は一九六〇年代に開発途上国を対照に開発融資を行なうようになってから、地球の各所で引き起こされるようになった。

 ムクスの博物館で三〇年ほど前にモスクワで発行された豪華な写真集〈今日のウズベキスタン〉を売れ残っていた。退色した表紙をめくると綿花の収穫が飛躍的に伸びた、と自画自賛する本であることが分かる。農民の顔は晴れやかであり、役人も自信に満ち、灌漑用水に勢い良く水が流れている。言うことなし。計画経済の勝利、社会主義バンザイである。しかし、そのバンザイはアラル海の荒廃を告げる晩鐘であったのだ。 2007/6

英国、EU離脱 民主的手続きを経た排他性の承認 ~トランプ米大統領候補の同調

英国、EU離脱 民主的手続きを経た排他性の承認 
 とトランプ米大統領候補の同調

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 EU離脱に賛成票を投じた英国の有権者を煽った重要なファクターは移民問題。離脱が決定した直後、スコットランドを訪問中だったドナルド・トランプ米大統領候補は記者会見で、いみじくも「英国民は国境を越えて侵入する移民に怒っている」と語り、離脱はそうした英国人の民意だと断言した。メキシコ国境に高い壁をつくって“犯罪者”の侵入を阻止し、イスラム教徒の入国を禁ずると主張し、「米国を再び偉大な国にする」と語った排他的民族主義と、英国の“民意”は通じると認めるのだ。英国のEU離脱派は、「大英帝国」の誇りを取り戻すと謳っていた。

 英国のEU離脱が決まったことで、欧州各国の右派政党も「国民投票」を求めるだろう。無論、彼らの主張の根底にあるのは排外主義だ。つける加えるなら自分たちに都合の悪い歴史を検証せず、反省しない偏頗な民族主義だ。
 いまEU諸国を揺るがせている移民問題の発端は内戦がつづくシリアからの難民に象徴されるが、それ以前から中東や東欧諸国からの難民流入に悩んでいたことは確かだ。英国をはじめ欧州各国の労働者は移民に「職を奪われる」「彼らは無料の医療や生活保護など社会保障にただ乗りしている」という不満、そして治安の悪化に対する危機感が強かった。米国でトランプ候補を支持した層もまたヒスパニック移民などに職を奪われるという危機感や、共和党の党是によって銃が野放しになっているにも関わらず治安の悪化を不法越境者に負わせる詭弁(きべん)に通じる。

 EUの発足理念は、大戦を繰り返してきた悲劇に終止符を打つという高邁な思想だ。
 ドイツでヒトラーが政権を握ったのは、いうまでもなくドイツ人(及び欧州全域)に燻るユダヤ人に対する偏見を沸騰させたところにあった。抽象的な政治理念より、大衆はみえる“敵”を与えられたとき具体的に行動する。ヒトラー政権の誕生は、当時の世界にあってもっとも進歩的で民主的といわれたワイマール憲法下での選挙を通じて行なわれたのだ。今回の英国の国民投票もまた、民主主義の反映として行なわれた。

 離脱を支持した英国人は「大英帝国」の誇りを掲げる。
 かつて、その「帝国」は七つの海を支配した。世界各地に植民都市を築き、広大な地域から富を奪って英国は繁栄した。石油と地政学的に重要だった中近東諸国を支配したのも英国とフランス、南の海の出口をもとめて南侵をつづけたロシア帝国であり、今日の中近東の“国境”はそこに生きる民族が求めたものではなく、当時の覇権国家の思惑から線引きされたものだ。それが今日の混乱の発端であり、シリア内戦の遠因である。

 米国へ南から多くの不法越境者が入って行くが、元をただせばメキシコ独立当時、同国北部州であった地域である。カリフォルニア、テキサス、ネバダなど西南部各州はすべてメキシコ領であった。現在のメキシコ国土にほぼ匹敵する広大な地域だ。この北部州を米国は、メキシコ独立期の混乱に乗じた侵略戦争によって事実上、強奪したのだ。メキシコの小中高の歴史教科書は繰り返し、民族の屈辱として、その史実を教えているし、首都メキシコには、侵略された歴史を中心に「メキシコ史」を展覧する博物館まである。米国へ越境するメキシコ人の多くは現在の法では確かに不法越境だと認識するも、罪の意識はない。もともと自分たちの土地だったという思いが強いからだ。

 トランプ候補は、米国史の暗部にあえて目を閉じる。EU離脱に賛成票を投じた英国人の多くも世界の海で海賊行為を繰り返した祖先の“犯罪”を正視しない。ビートルズ揺籃の地リバプールは、奴隷売買を中心に栄えた港湾都市であった。現在、タックスヘイブン(租税回避地)となっているカリブ島国の多くは英国の植民地であり、現在もケイマン諸島などを事実上支配している。

 EU離脱の決定を受け、スコットランドでは独立への機運がまた高まるだろうし、北アイルランドはアイルランドへの復帰を模索していくだろう。そうした動きは欧州各国で生まれても驚きに価いしない。
 一連の国民投票を巡る報道のなかで、英国に滞在する「移民」の声、生活、自分たちに投票権のない事態をどう見ていたのか、といったルポはなく、もっぱら市場の混乱という経済面に特化して報道されていたように思う。
 ポーランド移民の親睦団体の事務所が落書きされたり、イスラム系市民に向けたネット上の誹謗中傷など、国民投票で多数派というお墨付きをもらったことでヘイトクライムが急増した。
 大戦後、ドイツ人の多くは、ナチズム独裁下ではユダヤ人を排斥するしか方法がなかったと責任を回避しようとした。そのナチズムに政権を委ねた過去を忘れたように。
 
 英国のEU離脱に市場は多少、混乱するかも知れないが、それは持てる投資家や企業の問題であって、実際のところ庶民レベルにはさほどの影響はないはずだ。それより深刻なのは移民差別の是非が国民の手に委ねられ決定されたことだ。あるべき人権思想、倫理観が討議されず“民意”として象徴されたことだ。この結果は英国史に長く負の遺産となっていくのではないか・・・。 

書評のようなもの『解凍!ヘルツォーク』 編集:パンドラ

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 ヴェルナー・ヘルツォークの名はボクにとってまず、ナスターシャ・キンスキーの父君クラウス・キンスキーを戦闘的に起用した映画作家として記憶されている、と思う。クラウスのアノ悪魔的面構えの遺伝子が、精管を通して子宮に注入され天の配合によってナスターシャの肉体が創造された。ナスターシャの口元には明らかにクラウスの野卑が刻まれているのだけど、それが彼女にあってはサロメ的な淫蕩さをたたえる美となっている。『テス』に主演した頃の話だけど。
 その淫蕩は熱帯雨林の底で油照りの光沢をもつ昆虫たちを誘い込む花弁のものでもある。葉切りアリが地を這う密林のなかの花卉類は陰湿だ。旺盛な太陽も樹冠に閉ざされて地にとどかない。ルノアールの輝く色彩とはまったく無縁なところで生来の色相だけを頼りに生を育んでいる。

 熱帯雨林の花は生来の色相そのもので生きつづける。
 熱帯をときに原色の世界というが、その原色とは色相そのものを捕捉するときに正しい。蘭の淫蕩である。ヘルツォークの“熱帯美”はその原色を描き切った見事さにある。ターザンによって熱帯を消費しはじめたハリウッドの「熱帯」が物分り良く親密であったり、いきなりビックリ箱のようにオドロオドロしい裏切りを見せたりするのは精ぜい後期印象派の色彩でしかみていないからだ。ヘルツォークの意匠はドイツ表現主義派の錯綜した破調だ。

 ヘルツォークの『アギーレ』『フィツカラルド』、そして『コブラ・ヴェルデ』の主人公たちは……それは皆、クラウスによって演じられるのだが……熱帯を市場経済に組み込もうとしたヨーロッパ人のユダ的欲望が叩き潰される悲喜劇の体現者たちであった。大航海時代に〈新世界〉に乗り出したスペイン軍人たちは皆、一攫千金の野望を「カトリック布教」の衣で覆っていた。クリストバル・コロンの「新世界発見航海」もまたカトリシズムの十字架を重石にした市場開拓建白書「インディアス計画」がイサベラ女王によって認証されて行なわれたものだ。
 「発見500周年記念」映画としてコロンの伝記映画が2本撮られたが、その制作者にもっとも相応しいのはヘルツォークであったはずだし、クラウス=コロンで演じられるべきだった。けれど、慶祝行事の誉れから二人はほど遠い。
 ジェノバの商人コロンの野心は、カトリックの敬虔を装うことで出資者を獲得することができた。コロンの物語は、出港前の権謀の日々のほうが断じて面白い。「新世界」での冒険や征服譚なら、コロンからやや遅れて海を渡ったエルナン・コルテスやピサロの方がずっとスケールが大きく流した血の量は川面を満たすほどだ。コロンの偉大は当時、西欧の版図からイスラム勢力を駆逐して権勢を誇っていたカトリック両王を口先三寸で三艘の外航船を供出させたことにあったはずだ。その旗艦サンタ・マリア号の舳先に立たせる英姿こそクラウスのものだったに違いないし、それを使いこなすのはヘルツォークの蛮力であったはずだ。
 筆者に、熱帯生物の営みの豪奢と苛酷、神秘と淫蕩を教えてくれたのは中米ニカラグアの密林で地質調査をしていた鉱山技師にして博物学者のトマス・ベルトであった。かのダーウィンが繰り返し称賛したベルトの仕事だが、それも志なかばにして熱病に冒され中絶する。ヘルツォークが『フィツカラルド』に継いで熱帯を舞台にすべきは、『コブラ・ヴェルデ』の奴隷商人の挫折ではなく、フィツカラルドの足によって絶えず踏みしだかられていた虫の蠢きを観察したベルトの後ろ姿であるべきだった。熱帯生物の過剰こそ“地球の肺”アマゾンの営みを支える根幹であるからだ。
 『アギーレ』や『フィツカラルド』を撮った後、ヘルツォークは暴いてはいけない富のあり方を考える。黄金がそこに埋まっていても掘削してはいけない文化の叡智という反合理主義な視点から『緑のアリの夢見るところ』を撮る。
 『緑のアリの……』の主張はとてもわかり易い。明々白々である。舞台はオーストラリアのアボリジニ居住区。そのアボリジニが〈緑のアリの夢見るところ〉という聖域の地中にはウラン鉱脈があった。白人の開発会社は大規模開発を目論む。アボリジニはそれを拒む。開発断固阻止! といった肩肘張った姿勢ではなく、日々の祈りの感覚で座り込んでいる。会社に雇われているひとりの地質学者は、アボリジニを説得する合理主義者として登場する。……映画の結末がどのようなものであったか全く忘れている。本書読むと、「謎は謎のまま、映画は終わってしまう」とあったから、忘却して当然であった。
 ウランは、人間社会にとって諸刃の剣のような存在だ。生活を快適にする原子力エネルギーを作り出せば、チェルノブイリの破壊ももたらす。『緑のアリの……』は米国スリーマイル島原発事故の5年後、チェルノブイリ原発事故の2年前に公開された。もともと哲学思考に無縁な地質学者がアボリジニと関わるうちに、オレはどうすべきか、と煮え切らない憂鬱をみせてゆく。アボリジニンはきょうもまた気流と対話するようなプリミティブな音楽を演奏して神に祈っている。そんな音を聴いていると鉱山技師も癒されるようだ。といって、彼が開発の是非を問い詰め企業倫理を在り方を問うといった闘士になるわけではない。どっちつかずのまったく曖昧な存在のままでいるだけだ。それは、おそらく筆者自身もふくめて大方の北の人間の怠惰な姿勢そのものであるだろう。ヘルツォーク映画のなかで鉱山技師の存在はすこぶる曖昧な造形のようにみえる。しかし、それは周到に計算されたものだと象徴的存在だと思う。アギーレやフィツカラルドはいわば歴史の寓話のなかで神話化された像であって実態ではないが、鉱山技師は20世紀の実態であった。それこそ20世紀最晩期を生きる文明人の様相に輪郭を与えているのだ。そうヘルツォークからみれば、われわれは鉱山技師のように曖昧なボケた像でしかない、という喝破だった。

 そうしてヘルツォーク映画は投了となったはずだ。
 ふたたび『コブラ・ヴェルデ』のようにヒューマニズムの芽生えの時代に奴隷商人の挫折を描いても書割の物語となってしまう。以後、創作意欲は停滞し退化する。『キンスキー、我が最愛の敵』などは惰性の産物である。そんな仕事は批評家の手に任せおけばよいことなのだ。
 熱帯映画の最後となった『コブラ・ヴェルデ』も含め、ヘルツォークの熱帯はプレコロンビア期の文明から隔絶した場に求めている。欧米文明の地にとって僻遠の地というだけでなく、アステカやマヤ、インカ文明の地からも僻地であった。現在も来世紀もおそらく僻地であることが定められたような場所である。ヘルツォークにとっての熱帯はそれだけで一考するに価するのだが、『緑のアリの……』との関連で思い出したことがあった。
 熱帯低地マヤの権力の拠点は長いことティカル神殿都市にあった。その周囲には群小の遺跡が点在するのだが、そこは現在の行政区分ではグァテマラ共和国ペテン州となる。そこは油田が埋蔵される地としても知られる。本格的な採掘をはじめれば幾多の遺跡が破壊される。無論、マヤ系先住民がいまも生計を営んでいる地である。メキシコのマヤ圏チアパス州にも埋蔵量の豊富な油田が眠っているとされる。マヤ系先住民を主体とした反政府武装組織サパティスタはそのチアパス州高地を本拠地として武装蜂起した。地深く眠るマヤの油田は、メソアメリカの〈緑のアリの夢見るところ〉なのである。

 ……さて、賢明な読者ならお気づきのことと思うが、拙稿は「書評」として書きはじめたものではない。本書には随分、多くの方が原稿を寄せている。筆者がメキシコに在住していた頃に出た本だから、かなり遅い読者として読んだわけだ。もし、筆者が本書への寄稿を求められたら、徒然なるがままに書いたであろう、というのが本稿である。

書評『異才の人 木下恵介 弱い男たちの美しさを中心に』石原郁子

書評『異才の人 木下恵介 弱い男たちの美しさを中心に』石原郁子

☆4月初旬から6月初旬の約2ヶ月、戦後の日本映画の音楽で職人的な手際でサウンドトラックを潤した作曲家・木下忠司の仕事を60編の映画で回顧する「生誕100年 木下忠司の映画音楽」という充実した企画が京橋のフィルムセンターで開催された。そこで木下恵介監督作品を中心に懐かしい映画をみた。忠司氏は、恵介監督の実弟であったら、兄の作品に多く付き合うのは自然の成り行きだったと思う。その企画シリーズが終了してから、5年ほど前に書いた書評『異才の人 木下恵介』があったことを思い出したので、下記の採録しておく。すでに店頭から消えて久しい本なのでなにかの参考になるだろう。☆
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 僕は敗戦から10年ほどの日本映画が好きだ。好きというより愛おしく思う。むろん、その10年の映画をリアルタイムではみていない。みんな1970年以後、当時、都内に相当数存在した、いわゆる名画座でみたものだ。
 両親の青春時代の様子がそこに〈在る〉という愛おしさも確かにあるはずだが、それだけではないアノ時代の総量を背負っているような感じがするのだった。

 たとえば、俳優さんたちは皆、本物の汗を流している。ワイシャツが汗で肌に吸い付いている。女のほつれ髪が汗の額にへばりついている。映し出される都市の光景にはそこかしこに空襲の残骸が残っている。公園や海岸通りの柵にはコンクリートの柱があっても鉄パイプがなかったりする。それでも皆、必死に働いている。喰うために皆、必死の時代だった。映画は、たとえGHQの検閲があろうとも軍国主義の硬直から抜け出した喜びがスクリーンにみちている。清々とした熱気がこもっている。「民主主義」が無垢の地金のように輝いている。俳優さんの顔だって照明焼けではなく、日に焼けたナチュナルな小麦色をしているような感じがする。
 そんな戦後映画に木下恵介の映画が何本もある。けれど僕がよく記憶にとどめているのは『破れ太鼓』(1949)、『カルメン故郷に帰る』(51)、『女の園』(54)、『二十四の瞳』(54)、『野菊の如き君なりき』(55)といったところか。『カルメン』は幾度かみた。けれど、その後の木下映画とは相性が良くない。〈戦後〉の延長として、『喜びも悲しみも幾歳月』(57)、『楢山節考』(58)を見ているが、それ以後となると、83年の『この子を残して』しか記憶にない。『この子を』は全然、感心しなかったが、木下映画でみた最後の作品としての記憶である。
 要するに僕にとっての木下映画は、高度経済成長期に入ってからの作品には敬意を払ってこなかったし、関心もなく、『この子を』をみればがっかりした、という印象だった。そんな僕が本書と真正面から対峙できるわけはないが、著者の視座には共感した。
 「私にとって木下は、世界に類のないほど男性優位である日本映画界でほとんど唯一の例外としての〈女性監督〉だった」。「彼が生物学的に〈女性〉であれば、やはりこうした成功はあの時代にありえなかった」「すくなくとも何か〈男性〉でないもの、ジェンダーの越境者、周縁者、あるいは家父長主義・男性優位社会からしなやかに降りた元・男性だ」という点から著者は、木下映画を洗いざらい再点検してゆくのである。
 その木下映画の大半は未見か、見たとしても記憶が雲散霧消しているものばかりだ。著者自身、取り上げる映画の多くが読者の記憶にないだろうという前提で、シノプシスをしっかり押さえるが、その流れに沿って的確に読者を刺激し、立止まらせる。〈ココなんです〉〈この辺りのニュアンスなんです〉と言葉のマーカーをつけて読者に注意をうながしてゆく。かなり巧妙な書き手だが、第1部「歴史の内側で、そして歴史の消滅する地点へ」は、あんまり感心せず読み進んだ。何故なら、木下映画の対極に男ぶりの大きな黒澤明を据える手法はさもありなんと思わせるだけで、さして新味がないと思った。しかし、「いま見直したい十二の作品と主題」という没個性的な章題でまとめられた各論ページ、映画の腑分けに取り掛かるとブラックジャックなみの執刀妙技をみせはじめる。それは率直に女性の視点の重要さを再認識させてくれるものだ。そうした輝く美点を切り取って引用したいのだが、映画と不可分に結びついて語られていて書評の枠のなかでは収まらない。

 戦後10年間の木下映画が僕にはとても輝いているように思えたのは、著者の言葉を借りれば、「男の弱さに新たな未来を託した木下は、同時に、そうした女の強さにも新たな未来を託していたのだ」ということになる。なんとなく、すっきりする。あぁ、そうか「未来」は限りなく明るくて、その疑念の陰りの薄さを好ましく観ていた自分がいるんだな、と納得する。そこでいう「男の弱さ」を佐田啓二とか佐野周二、石濱朗といった木下映画常連の男優たちに託しながら描きつづけ、「女の強さ」もさまざま境遇のなか、性格のことなる女を描きながら説得をつづける。
 戦争の記憶はまだ生々しい。若い兵士が戦場で命尽きる瀬戸際、「天皇陛下万歳!」ではありえず、「おかあさん!」と叫び、愛する新妻の名を呼び、子どもらの名前を数えながら死んでいったという幾多の証言に支えられた木下の映画があるように思う。著者は書く。「実際は情けない人間であるくせに立派なふりをして強がる多くの日本の男性と違って、情けない姿を情けないままに提示し、決して強がらず、かつ、誰もが強がっている時代に強がらないことで自分を貫き通す」男たちをよく描いたのが木下であり、それはそのまま声高にならない〈反戦〉映画となりえた。だから家庭の日常光景を描きながら、木下映画には戦後「民主主義」の芳香が留められているのだろう。
 〈戦後「民主主義」〉とはあやふやな言葉である。高度経済成長時代にカネの重みに耐えかねて沈んでいった言葉である。木下映画にはその〈戦後「民主主義」〉が輝きをもって定着していることを石原郁子さんの本書であらためて確認した。確認を強制された、と言ってよい。そういう力強さをもった本である。
 本書を読了した者は誰だって、〈女性〉をよく描いたといわれる成瀬巳喜男や溝口謙二の映画について石原さんの言葉に耳を傾けたいと思うはずだ。個人的にいえば成瀬の『浮雲』論を読みたいと思った。この映画、男性と女性とでだいぶ見方が異なることが気になっていたから、その橋渡し的な役割を大いにこなせる批評家だと思った。だから、読了して数日後、本書発行人から「数年前、40代で亡くなった」と聞いたときは一瞬、言葉を失った。仕事を惜しむ、という言葉は若くして鬼籍入りした石原郁子のような才能に捧げる言葉であったろう。合掌。

中国人観光客の“爆買”から質への転換

中国人観光客の“爆買”から質への転換

 中国人観光客のいわゆる“爆買”は続いているようだが、耐久性のある小物家電の購入はさすがに一段落したようだ。それでも薬品、化粧品などの消費は相変わらず旺盛だ。

 先月、私用で福岡、佐賀へ行ってきた。
 博多で逗留したホテルのエレベーターに乗合わすのは中国人と韓国人ばかり。天神、大宰府、九州国立博物館でも中国人観客客が目立った。
 陶芸が好きなので佐賀に足を伸ばした。唐津、伊万里焼の本場で観光地でもある。さすがにここまで来ると喧(かまびす)しい中国人観光客ご一行の面々は少ない。けれど、名品の展示も兼ねた物産センターなどに行くと熱心に手にとり吟味する中国人は少なくない。彼らもよく知っていて唐津では古唐津焼の伝統をつぐ十四代の中里太郎右衛門の作品に食い入るように玩味していたりする。

 伊万里焼の反映には中国の影響がある。特にビジネスということでは17世紀、明王朝の滅亡、あらたな清朝は初期、商船の近海の航行を禁止、中国と欧州諸国との貿易は途絶した。陶磁器を当時、生産できなかった欧州では中国磁器は高値で取引きされ利幅も大きかった。当時の東インド会社にとって香辛料などならぶ重要な取り扱い品目だったから、中国の政変は痛かった。
 そして、中国磁器に替わって目をつけたのが北九州の諸窯で生産されている磁器であった。伊万里の窯に欧州から大量注文が入った。華麗ないわゆる柿右衛門様式はそうした時代の伊万里の繁栄を背景に登場する。

 大きな政変があるたびに芸術活動が中断、名品が国外に流出するのは世のならい。
 最近、中国人が日本で“爆買”しているリストに書画骨董がある。アヘン戦争、日清戦争、辛亥革命、日中戦争、そして毛沢東指導の文化大革命時代まで19~20世紀は中国文物のおびただしい流出の歴史であった。いま、それを懸命に買い戻している印象がある。絶対量が少ないから家電のようには目立たないが一点の金額が高いから日本の美術市場はけっこう賑わっている。
 さらにヤフーや楽天がインターネットで展開しているオークションでは日本に拠点を構えた日本語に堪能な中国人が、本国の顧客から要請を受けてネットでめぼしい書画骨董、希少な印刷物などを買いあさっている。これはなかなか表に出ないが、東京・首都圏を中心に全国主要都市で活動している。
 戦時中、日本で刊行された中国戦線における戦記モノなども落札されている。中国の歴史家などはそうやって資料を集めているのかも知れない。
 現在の中国の印刷技術は日本と遜色ないが、鄧小平による経済開放以後しばらくはひどいものだった。だから美術品に対する観賞眼を肥やすためにも日本の美術書は欠かせないアンテムであるようだ。“爆買”は銀座や秋葉原ばかりが舞台ではない。ネットの世界では深く静かに常態になっている。

「蕨は私にとってサッカーの聖地なのです」 元なでしこジャパン監督・佐々木則夫さん

「蕨は私にとってサッカーの聖地なのです」
      *佐々木則夫さんが、女子サッカー日本代表の監督から退任されたのはもう旧聞に属するが、2013年1月に下記のような原稿を書いていた。偶然、“発掘”したので消える前に掲載。
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 「蕨は私にとってサッカーの聖地です」と言ったのは、なでしこジャパンの監督、佐々木則夫氏である。昨12月、蕨市主催で佐々木氏の講演会が開かれた。その冒頭、話の枕として語られたのだ。
 佐々木氏の父親は転勤族だったらしく中学生のときに埼玉に越してきて地元の学校に転入した。
「それまでスポーツといえば野球しか頭になかった。蕨でサッカーに出会い、たちまちトリコになって熱中した。それがわたしのサッカー人生のはじまりです」
 むろん、蕨が“聖地”なわけではない。偶然の出会いが重なったというだけだ。しかし、偶然を活かしたのは佐々木氏の才覚であろうし努力だろう。
「なでしこ」をW杯の優勝へ導いた才能は、すぐれて佐々木氏の聡明な指導力であり、それによくこたえた選手たちの努力だろう。佐々木氏はけっして自己称賛はせず、聴衆の蕨市民へのリップサービスとして“聖地”といっただけかも知れない。そういう謙虚な人柄はW杯以降、テレビなどを通じてわれわれの良く知るところだ。
 この講演会を長女に誘われて行ったのだ。その講演はとてもこなれたもので聴衆を飽きさせず淀みない。そこには「実績」の自信があることは容易にわかる。上昇気流にある人独特のオーラは雄弁だ。正直言って、佐々木監督の話に新味があるわけではない。しかし、聴いていて小気味よく、暖かい。それが旬のオーラというものだろう。

 久しぶりに娘と二人きりの外出となった。といっても家から10分も掛らないのだが。それでも隣の席に高校1年生の娘が座っているという気分は、父親として妙にこそばゆいものである。

 昨年、長女は高校受験に当たって志望校基準を明確にした。「なでしこ」W杯優勝がきっかけではないが、背は押されただろう。  自転車通学ができる範囲で女子サッカー部とスペイン語を数時間でも学べる学校というものだ。2校あった。佐々木監督の少年時代には考えられない状況だろう。長女は、みずから門を狭めて受験に臨み合格した。
中学生時代は、サッカー部がないからソフト・ボールをやっていた。1年生のときからレギュラーを獲った。サードとショートストップを任されたらしい。高校に入ると同時にグローブは物置でほこりをかぶるようになった。
高校生になった途端、頬が引き締まった。体つきががっしりしてきた。「ともかく、よく食べさせるのよ、クラブで」。この高校は本気なのかも知れない。
娘も早朝、ナイター、週末・休日もいとわず練習に出ていく。しんどいと泣き言はいわない。嬉々としてこなしている印象だ。本気で好きそうだ。好きこそモノの上手なれ、とはいうがもって生まれた才能はどうか? 身体の丈夫さは父親ゆずりだと保障できるが。
“お年頃の娘”の父親として思うのは、怪我するなよ、顔に傷つくるなよ、との思い。いっぽうで、大きな試合で勇躍する娘の晴れ姿を早く観たいというのも本音である。
 *後日談。1年間、サッカー部で奮闘努力したにも関わらず持久力に難があり、長女、人生初の蹉跌を味わい、退部。現在は都内の某大学でスペイン語を選科し学んでいる。来年はメキシコに留学するようだ。本人、留学に備えるべくバイトに勤しんでいる。

増補版 舛添都知事が批判の渦中で自慢した(?)北川民次のリトグラフ「バッタと裸婦」

舛添都知事の品位のない美術コレクション  

 ふだん、TVのワイドショウ、というのか、無駄話のてんこ盛り、ともかく五月蠅い番組は見ない。それでも、ニュースとか天気予報などを待つあいだのながらで横目でみることはある。いま、そういう番組をみていると必ず舛添都知事のセコイ公金横領(とあえて書く)の話題が必ず入ってくる。

 ヤフオクなどで美術品を購入している問題なども盛んに指弾されている。そのひとつに米国現代アートの異才キース・へリングの自筆書簡の購入が明らかになっている。都知事は都市外交のツールとして美術品を購入している、と認めている。しかし、それをどのように使ったとは説明がなく、批判を浴びていた。それを知ってか、弁明の一環としての行為なのだろう、5月31日、都庁を訪れたメキシコ市の経済開発長官との面談の席に、都知事は自前コレクション一点を持参、それを麗々しくみせている場面がワイドショウに流れた。
 その面談を報道した番組のスタッフはそのコレクションに関する知識がなかったのだろう、作者も作品も明示されずに終わった。そのシーンを見ていて、わたしは、アレ、と思った。瞬間、目にとめた絵が一見して北川民次の特徴を表していたからだ。その夜、ネットニュースの静止画像でそのシーンを確認すると、画面が小さいので確信がなかったが、メキシコの役人との面談、そして、都知事のヤクオクでの入札・落札額の平均が3万5千円前後といわれているらしので、それを目安に探索すると、100枚摺られている「バッタと裸婦」であった。日動画廊を通じて流布したものだ。当時、北川が日動との契約上、量産していたリトグラフのシリーズの一点で、北川のメキシコ取材の画像による登場するバッタを表出していることでは、彼の特徴がよくでているものだ。その美術史的価値はともかく、市場価値は低い。思いがけないところでメキシコが登場した一連の騒動をみて、わが家にメキシコ国籍をもつ次男がいるので、これは一語しておく権利ありと思い、これを書いている。

 北川民次は静岡県出身の画家で文才もあった人だ。
 メキシコ革命後、メキシコに在った北川はメキシコ民衆芸術運動に共鳴、メキシコ人芸術家たちに混じって地に足のついた活動を展開した。先住民子弟たちのなかに入り、彼らを絵や造形美術を通して、先住民としてのプライド、アイディンティティの覚醒を促した。帰国後は二科展の重鎮として活動した。いまでも根強い人気のある画家だが、リトグラフの点数は数多く、絵の状態にもよる総じて廉価だ。都知事が提示した「バッタと裸婦」は一見して保存状態が良さそうだ。黄ばみや染みが生じているものならヤフオクなら数千円から入札がはじまるだろう。将来的な価値としてストリート・アートの先駆者へリングの書簡のほうが美術史的価値がある。

 メキシコ訪問団に前に出したリトグラフは、訪問団長に進んで献呈するぐらいのものだ。もし、自分のコレクションとして、いや首都の知事としてみせるなら北川の油彩ぐらい取り出して欲しいものだ。このあたり、おなじ日本人として恥かしい。ちまちましている。だいたいメキシコのインテリ階層なら北川民次のことはしっている。なかには、利根山光人の古代マヤ遺跡のステラ(石碑)や浮彫壁画の巨大拓本を採ったことなどもしられているだろう。
 都知事は世間の批判を考慮してTVカメラの前で拙速に“演技”したに過ぎない。訪問団に手土産として献呈したという報道なら納得できるが、自慢気にみせて話の接ぎ穂とした程度の話なら、またまたセコイ。その程度のスタンスでパリ訪問中、それぞれ個性な審美眼をもつことが求められるフランスの知識人の前で都市外交とやらをしていたかと思うと日本人として思わず赤面してしまう。

 ここでふと、私の拙いブログのなかでささやかな連載ものとなっている「署名アラカルト」シリーズのなかで都知事になる前の舛添氏の署名に触れたことがある。猪瀬直樹前都知事の署名を語るコラムであったが、その比較としてコメディアンで放送作家、そして直木賞受賞作家であった青島幸男さん以来の都知事史のなかで、もっとも立派な筆跡が石原慎太郎さんのもので、いちばん個性的なものが猪瀬さん、そしてもっとも非個性、凡庸、品格のかけらもない、つまり自著に誇りもだいていない著者の典型的として舛添さんの署名がある、と書いておいた。むろん、今回の騒ぎが起こる半年も前に書いたものだが、やはり文字は人を顕す、ということなのだろう。

追記 舛添都知事が美術品の購入を、ご本人が主張するように「都市外交」などのツールとして使っていると公務のために公費をつかったというなら、知事退任時に都が運営する美術館等に収めるのが順当だろう。ずるがしこい都知事のこと、ほとぼりがさめれば私蔵してしまうのは目にみえている。収めるまで都職員は監視すべきだ。

蝶の群れを踏みしめる メキシコのオオカバマグラの群生

モナルカチョウ保護区で数百万頭が乱舞
  モナルカ
  *蝶の数え方は、匹、羽も使われる。けれど学術用語としては「頭」が使われる。自然保護に関する記事でもあるので、ここでは「頭」を採用した。

 昨12月に「ホタルの爆発」、じつはヒカリコメツキムシの群舞であったのだけど。そのホタルとおもったひかり虫をばしばしと打ち避けたことを書いていたら、そういえばと思い出したのが、メキシコ・ミチョアカン州の松林で遭遇した360度、蝶だらけの奇景だった。1993年に次のような記事を書いていた。

   メキシコ・ミチョアカン州アンガンゲオ村の松林にあるモナルカチョウ(和名オオカバマグラ)の保護区ではいま、数百万頭が群生している。
 モナルカチョウは、同州とメキシコ州の特定の山間部、しかも決まった幾つかの松林(保護区)にだけ毎年10月頃に数百万頭が飛来する。ここで、一頭のメスから450あまりの卵が生み出され、孵化する。孵化したチョウや、その子や孫の世代が翌年4月半ばあたりから次々と飛び立ち、広大なメキシコの大地を 北上し、米国に入りロッキー山脈を越えてカナダまで飛んでゆく。その距離、約3000キロ!
 夏を北米で過ごしたチョウたちは半年後、その孫や曾孫世代がメキシコに戻ってきて、ふたたびおびただしい生と死のドラマを繰り返す。
 マナルカチョウ、それぞれの個体は北米とメキシコの航路はいつでも初飛行だ。それにも関わらず迷うことなく確実に行き交う。遺伝子に組み込まれた航路なのだろう。
 一つひとつの保護区には数十万頭には数十万が群生する。無数の松の枝が、チョウの群れの重さに耐えかねてしなっている。チョウたちは、飛翔に必要な体温を蓄えたものから次々と舞い上がる。花吹雪のように飛びかっているチョウは先に日を浴び、からだが暖められたグループだ。何千、何万という飛翔。ま るで森から湧き出し沸騰しているような壮絶な光景だ。
 しかし、いずれの保護区も周囲の森が無残に伐採され、農地に替わりつつある。
 メキシコ政府は、モナルカチョウ保護に気を配っているというが、周囲の農地を買い取って森林に再生するような抜本的な対策を採らない限り、保護区の自然はやがて農薬の散布などでますます破壊されていくばかりだろう。 

 この記事中に書かなかったが、保護区を取材中、わたしはオオカバマグラを無数に踏み殺していた。前に進むも後ろに下がるも周囲の地面にオオカバマグラが群れているのだった。立錐の余地もなく。踏み込むと飛翔する蝶もいるけど、逃げない蝶も多いのだ。たぶん、飛翔するための熱を蓄えていない個体、あるいは寿命が尽きかけている個体も多いわけで、それは靴底でグシャという感触もあたえずに地に沈んでゆく感じ。唯々諾々と踏み潰されてゆく。感触はないのだけど、なんともいえない不快感、やんわりと滑るような感覚。しばらく、奇妙奇天烈な記憶が留まってしまった。帰路は自分の足跡、罪障の痕をみたくないのでルートを変えたが、その分、蝶の“事故死”が増えたわけだが…。ビル街を歩いていたら、空から鉄枠つきの重い看板に頭からグシャと潰される感じなのかなぁ・・・と思ったりして、メキシコ・シティに戻ってから、安全対策も甘い商店街を歩いている間、しばらく車道近くを歩いたものだ。

「イスラム国」とサッカー

「イスラム国」とサッカー

 パリの同時多発テロでフランス対ドイツとの親善試合が行なわれていたサッカー場が標的になった。自爆テロの目的は試合を観戦していたオランド大統領の究極の目的としていたのかも知れない。
 同大統領は、「シリアで計画され、ベルギーで組織され、パリで実行された」と語った。ベルギーの首都ブリュッセルのイスラム教徒が多く住む街は以前から過激派の温床と知られ、武器の密売も行なわれていたことも周知の事実だ。そのブリュッセルで今月17日に予定されていたベルギー対スペインの試合が政府からの要請で中止されることになった。

 サッカーが“国技”のような国で試合が急遽、中止になるほど事件の波紋は大きいということだ。影響が大きいからテロの標的になったともいえるが、「イスラム国」がサッカーそのものを禁じていることは意外と知られていない。彼らは英国起源で西欧諸国のイスラム諸国への侵略、植民地化とともに中近東地域に根を下ろしたサッカーを排斥する。
 シーア派聖職者の神聖国家を目指したイラン、パレスチナ解放機構(PLO)のパレスチナでもサッカーに興じることは自由だった。いや、むしろ奨励されたといっていい。パレスチナが国として、FIFA(国際サッカー連盟)に加盟し、現在、日本代表とどうようW杯のアジア予選を闘っている姿はドラマそのものだ。パレスチナのサッカーをドキュメントした1巻の本が日本でも刊行されているぐらいだ。しかし、「イスラム国」はそのサッカーをも禁じた。

 12月下旬、劇映画としてはじめて「イスラム国」の侵攻、イスラム原理主義的な恐怖支配を描いたアフリカのモーリタリアで制作された映画『禁じられた歌声』が日本でも公開される。制作はモーリタリアとフランスの合作だが、舞台はマリ共和国の古都ティンプクトゥ。2012年頃、「イスラム国」の侵攻を受け、短期間、占領された。その占領下の町で、サッカーが禁じられた日常が描かれている。ティンブクトゥとは砂を固めて建造された“美しい砂の街”として世界遺産に登録されている。
禁じられた歌
 サッカーに興じれば誰でも鞭打ち30回の刑に処す、子どもも容赦しない。それが「イスラム国」の“法”だ。
 映画は、「イスラム国」の北アフリカ諸国や中東地域の各都市、村落への侵攻などを描いた最初の劇映画となった。
 映画のなかで少年たちが、運動場でみえないボールを蹴りあって遊ぶ光景が映し出される。エアーサッカー、と冗談を言っていられない。その懸命なむなしさが伝わってくるから悲劇だ。
 サッカーが西欧起源でダメと教義の徹底性をいうなら、彼らの主要武器である自動小銃カラシニコフは、彼らが敵国としたロシアでソ連時代に制作が開始されものだ。武器も自分たちで開発しろ、と言いたくなる。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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