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メキシコ・クンビアの王道ロス・アンヘレス・アスレス

メキシコ・クンビアの王道ロス・アンヘレス・アスレス

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 クンビアといえば南米コロンビア,コスタ地方(カリブ沿岸)発祥のバジェナートと並ぶ民俗音楽。文学ファンならガルシア=マルケスのマコンドの舞台とおもってもらえば良い。
 バジェナートの拡大は限定的だが、使い勝手のよいクンビアはラテン諸国に広く拡散し、米国のチカーノ社会にも定着している。  なかでも最大のクンビア消費地はメキシコだ。南米ペルーのアマゾン地帯イキトス地方に発祥した個性豊かで熱気に溢れたクンビアを特例とすれば、コロンビア以外での量産地はまちがなくメキシコ。そして、メキシコの影響下に北は米国のチカーノ社会、南には中米地峡諸国の北部地域に伝播した。

 しかし、こうしたクンビアはまず日本に入ってこない。メキシコや中米諸国を舞台にした映画のBGMとしてスクリーンにお見えすることはしばしばあるが、ラテン音楽に詳しくないひとにはクンビアとも思われてないのだろう。
 メキシコ・クンビア界にとっては亜流としか思われていないはずの米国テキサス州、そこに住むメキシコ系市民はテハーノと呼ばれるが、その狭い社会から出て全米のスターになったのが故セレーナ。彼女のテクノクンビアも日本へは、遺作として入っただけだ。
 
 ロス・アンヘレス・アスレスはメキシコ・クンビア界を1980年代前半から牽引してきたグループ。
 取っ掛かりやすいクンビアということでメキシコには無数といってよいほどクンビアのユニットが結成され、いつのまにか消えてゆく。そうしたなかでメキシコ市の庶民街イツタパラパに住むメヒア・アバルテ兄弟によって家族ユニットとして結成され、今日まで30年間も大衆的な支持を受けていることは稀有な存在だ。
 日本ではまったく無名といってよいが、メキシコでいかにメジャーな存在であるかという証明する話題が届いた。
 いまやラテン・ポップス界の大スターとなったナタリア・ラフォルカデが参加したアルバム『ラ・クンビア・デ・インフィニト』が6月3日に発売されることになったからだ。ナタリアとロス・アンヘレスのギターリスト、ロドリゴとガブリエラが曲作りに知恵を絞ったようだ。ここにナタリアの言葉がある。
 「わたしはいつも彼らのファンだった。わたしが作曲という行為に情熱をだくようになったきっかけのひとつが彼らのステージに触れたことがきっけだったように思うの」、だから一緒に仕事するようになったのは、わたしにとってはとても自然なこと語っている。
 
 ロス・アンヘレスたちの音楽は、彼らの主要音色であるアコーディオンの雄弁性に縁取られたところがあって、その殻を破るのはファンも彼ら自身もできない。ある意味、充足した音楽世界だ。ナタリアもここでは突出することなくおだかやにロス・アンヘレスの世界に浸る。これまで多くの人気歌手との共同作業をつづけてきたロス・アンヘレスだが、すべて自分たちの流儀で、ある意味、独善に消化してきた。それで大衆には飽きられていない。まったく稀有な存在だ。
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[ライナー・ノーツ] ナタリア・ラフォルカデ*21世紀の気流に乗って、天翔ける その3

◇CUATRO(4)
 2002年、メキシコの少年少女たちがもっとも支持した映画が『アマル・テ・ドゥエレ(愛することの痛み)』。
 アマル
製作費を湯水のごとく使ったハリウッドCG映画が「見世物」として受けるのはメキシコも日本もまったく同じで、遊園地感覚で受容されていることは事実。けれど、心のうちに響く映画とはなりえない。どの国でも、低予算映画で制作されたものでも、自分たちが生きる国、町、路地裏にカメラが入って等身大の青春を描くスクリーンに声援を送るものでしょう。そこに自分のたちの現在進行形の反映をみるからです。『アマル・・・』はメキシコでそんな映画として若者に支持されたのです。
 ありていに言えば分厚く壁高い階級差を若者の「純愛」は越えられるか、と社会的ロマンティシズムの問題を提起し、現実は甘くないと、涙の破局で閉じた悲恋物語。メキシコは典型的な階級社会で、享受するカルチャーそのものが違います。
 映画の舞台はメキシコ・シティ。高級住宅街と下町をカメラは行き交い、その中間地として広大な駐車場をもつ郊外型大規模ショッピングセンターがあるという設定。若者風俗がドキュメント・タッチの粗い画面で描かれ、物憂げな日常光景を縫ってナタリアの歌がスクリーンから新緑の葉を転がる水滴のように零れ出たのでした。
 映画のサウンドトラック盤は2枚組みでナタリア他、多くの新鋭気鋭の歌手(グループ)が参加。映画公開時点で全国区の知名度をもったアーティストは男性5人組のエレファンテという少々、コマーシャルなロック・グループのみ。 しかも、そのエレファンテの曲は、主人公の少年が恋する少女へ捧げるため、ラジオ局にリクエストするという設定で使われているので、これはある程度知られた曲、アーティストでないと臨場感に欠く、だから既存曲が採用されたわけ。けれど、他の曲はほとんど無名のアーティストによるものでした。映画の制作者は手垢のついていない曲で青春の一コマ一コマを綴らせようと意図したのです。
 映画の制作が決まった時期、ナタリアも無論、無名。そんな新人に、映画の主題歌「アマル・テ・ドュエレ」を任せ、恋人たちの交感を綴るシーンでは「2000年」という曲で彩りを添えました。
 そうアルバム中、最大のヒットとなった「2000年」はもともと映画挿入歌だったのです。残念なことに映画主題歌「アマール~」と、もう一つの挿入歌「ジェバルテ・ア・マルテ」もアルバムに収録されず、サントラ盤でしかいまのところ聴けません。
 その「ジェバルテア・マルテ」のマルテとは映画の主人公の少年がスプレー・ペインティングで描くヒーロー。映画のマーキュリー「火星」。資産家の少女の両親が、どこの馬の骨ともしれない(と思っている)下層階級の少年と会うことを禁じ、自宅での軟禁状態を強います。その時、少女が愛しい少年を思い出すシーンなどで使われる曲でした。そう、ナタリアの歌は主題歌だけでなく、映画の重要なシーンで繰り返し使われているのでした。脚本が完成した以降のナタリアが創作した曲ということにもなります。
 アルバムが昨年2002年発売ながら、「2000年」という曲が成立しているのは、映画が2000年のメキシコ・シティを舞台にしていたからです。

◇CINCO(5)
 「2000年」の歌詞に、リッキー・マルティンの名が登場するかと思えば、ガエル・ガルシアの名が出てきます。
 ガエルは、日本でも公開されたメキシコ映画『アモーレス・ペロス』(2000年東京国際映画祭グランプリ)、『天国の口、終りの楽園』に主演、今年のオスカー外国語映画賞候補作『アマロ神父の罪』でも主演していたラテン世界を代表する若きスターです。
 マルタという名も出てきます。「マルタはミミズだ」と言い切った歌詞で、現メキシコ大統領夫人マルタ・サーグンを名指しで批判しているのです。誰でも知るファースト・レディの名を借りて、資産家たちのスノビズムを歌ったわけです。「大統領夫人はミミズだ」と、否定というより挑発的。現職大統領夫人をこき下ろす行為、姿勢は、ちゃらちゃらしたポップス歌手にはできないでしょう。つまりナタリアの批評精神はロックそのものなのです。
 現在、ロック・エスパニョーラという言葉、強固なジャンルがあって、メキシコ、アルゼンチン、チリ・・・などで優れた才能が出ているのですが、ここメキシコでは、女性ロッカーの鉱脈も豊かで、筆者自身の好みを隠さず並べれば、エリィ・ゲェラ、フリエッタ・バルガス、アレハンドラ・グスマン、そしてエル・トリという長年、メキシコ・ロックを牽引してきたグループの紅一点チェラ・デ・ロラ、都市ゲリラ的展開をみせているサンタ・サビーナのリタ・ゲレーロ他、といったところが売り。その前衛にナタリアを立たせたいとも思います。
 でもアルバムを一聴しただけでは、彼女のしたたかなロック性は判然としません。希釈されているのも事実。そこには、ナタリア売り出しの戦略も働いているでしょうし、OV7を手掛けたプロデュサーの意向も強く働いているでしょう。でも本質はロックンローラー(ロック・エスパニョーラ的に)だし、歌詞にその痕跡を残しているわけです。
 そんなナタリアをメキシコの少女たちが一押し二押しでアイドル視している。ローティーンの少女たちも、となりのお姉さんのようなナタリアが、きっちり自分たちの思いを、喉を通りやすい糖衣錠ではなく、苦さもオブラートに包むことなく代弁してくれる掛け替えのない世代のきらめく装置として支持しているのです。
 10代の少年少女たちがオトナの思惑を無視し本音で、現代のアイドルを選ぶ「Nick賞」というのがメキシコにあります。人気ゲーム・ソフトとか、TVアニメ、ルチャ・リブレ(メキシコ版プロレス)選手とか、いかにもイマドキ異種混合賞。その全14部門すべてを獲得したのが、昨年のナタリア・ラフォルカデでした。 (完)

 [ライナー・ノーツ] ナタリア・ラフォルカデ*21世紀の気流に乗って、天翔ける*その2

ナタリア・ラフォルカデ*21世紀の気流に乗って、天翔ける その2

◇TRES(3)
 メキシコの少女たちが等身大の親近感をもったアイドルを獲得するのは1982年、ティムビリチェという10歳前後の美少女・美少年7人のユニットがデビューして以降のことです。
 それ以前、『クリクリ』という幼児向け、あるいは小学校低学年向けに制作されていたテレビ番組がありましたが、「そんなの子どもぽっくて」という子たちはみない。そんな、おませな少女たちは、世代の空白があって、いきなりお姉さん、お兄さんたちが熱狂しているようなアイドルたちを共有するしかなかったのです。ですから、おませな少女たちを満足させる等身大のスターが要請されていたわけです。そこに登場したのがティムビリチェでした。
 このユニットから後年、いや現在、ラテン・ポップス界をにぎわしているスターたちが幾人も輩出します。まず、シャキーラ登場以前、もっとも勢いがあったのがタリア、いま、シャキーラを追ってパウリナ・ルビオが全力疾走しているように思います。その二人とともティムビリチェで活躍した人気者でした。そのふたりより先行して人気があったのがサーシャ、あるいは現在、連続TVドラマになくてはならない存在になっているエディツ・マルケスがいます。
 子どもをターゲットにした消費市場が拡大し、それにたずさわる労働者が増大するのは経済力の成熟度を示すものです。メキシコはそういう時代を迎えていたのです。
 ティムブリチェ、デビュー以前の数年間、メキシコ経済は年率8~9%という右肩あがりで経済成長をつづけていました。原油の生産、輸出の増大という背景がありました。
 中産階級が着実に増加し、子どもの衣食・教育費だけでなく、玩具や嗜好品にお金を使う、使える親たちが増えたのです。
 ところがティムビチェがデビューした82年は、それまでの高度経済成長がにわかにほころび、対外債務の増大、インフレ、通貨の大幅な切り下げが行なわれたのでした。当時、日本の新聞は、いまにもメキシコでクーデターが始まると物騒な記事を掲載したものです。また、国連の中南米経済委員会や、メキシコに巨額を投資していた先進諸国も独自の調査団を派遣、貸した金を取り戻せるか、と実態調査を行ないました。
 で、各国の調査団がメキシコでみたものは・・・経済の低成長に入ったおかげで公害は減少、消費ブームは去ったことは確かだけど、堅実な生活にギアチェンジした庶民の姿でした。
 メキシコに限らず中南米諸国の市民は、政府の経済政策をまぁ、はなから信用していない。だから、好景気の時期も稼いだ金、メキシコでは通貨ペソとなりますが、日本人のように貯めこまず、せっせと耐久財、不動産など資産価値のある商品を購入し、のこったペソはより安全な通貨として米ドルに換えていました。ですから、ペソが暴落してことによって資産が増えたという人たちがたくさん出たのが実情でした。むろん、米ドルにアクセスできない貧困層、特に先住民社会は不況の波をもろに被ったことは間違いありませんが・・・。
 ティムビリチェは、国の経済破綻を尻目に小金をもっている中産階級の子どもたちをターゲットにして輝くばかりの大成功。その人気ぶりを刺激され、柳の下のどじょう、と美少女・少年、タレント性豊かな子役発掘に血道をあげるレコード会社、芸能プロが出てきます。
 80年代のメキシコは雨後のタケノコのように小生意気な子どもユニットがたくさんデビューした時代でしたが、後発組の寿命はたいてい短かった。メキシコ最大のTVネット・テレビサが、小さな綺羅星をあつめ英才教育にたっぷり資金を出したティムビリチェに、促成栽培のユニットは太刀打ちできなかったということです。
 90年代に入るとティムビリチェのオリジナル・メンバーはほとんど脱退し、入れ替えが激しくなります。サナギから蝶へと羽ばたく者がつぎつぎと出てきたのです。そして、ティムビリチェそのものも停滞期に入ってしまいます。その間隙を縫って、新しいアイドルが登場してくるのは世の常。この時代、個性的な男女混合ユニットが数組、登場します。
 ガリバルディ、KABAH、そしてオンダ・バセリナといったグループです。なかでも、02年、自然消滅的に活動を停止したティム振りチェに変わって人気を獲得したのがオンダ・バセリナ、現在のOV7です。
 ナタリア・ラフォルカデのデビューをアルバムを手がけたプロデューサー、ロリス・セロニこそ、メキシコのローカル・アイドルであったオンダ・バセリナを汎ラテン圏の人気者にした練達の才人でした。OV7とほぼ同時期にナタリアの個性を引き出し、デビューさせたのです。

 ティムビリチェを脱退したタリアはメキシコ版「おしん」ともいえる連続TVドラマ(スペイン語圏ではテレノベラという)に主演し、遠くの東南アジアまで放映されることになり、フィリピンなどで絶大な人気を獲得しました。その当時、ルセロという正統派美女もアイドルの座にありましたが、そういうお嬢様タイプは合わないという少女たちの人気を獲得したのが、じゃじゃ馬タイプのグロリア・トレビでした。その後に、一時はルイス・ミゲルの連続公演・動員記録を塗り替えようか、という勢いもあった(すぐ失速しましたが)フェイ、というアイドルが彗星のごとく登場しました。
 ・・・と例にあげてきたアイドルは、いわば天然素材の美に、海千山千の芸能プロがあれこれと手を加えたところが多かったと思います。曲つくりから立ち上げ、自前で自己主張しようという意欲にかけていました。けれど、ナタリアは出足から違っていた。
 デビューアルバムすべて自前の作品で勝負に出た。旬な素材、柔軟な可塑体を名うてのプロたちが調理し、賞味し、盛り付けて食卓に並べた、それが本作でしょう。
 歌の素材は天然のナタリアのもの。それはある意味でオリナラの小箱にすっぽりおさまり切らない凹凸だらけ不ぞろいであったと思います。これを手際よく調理したプロデューサーの腕は無視できません。

ナタリア・ラフォルカデ、チリ公演

ナタリア・ラフォルカデ、チリ公演
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 ラテンアメリカ諸国の音楽にはは20世紀後半の政治的な激動の後遺症が癒えない傷となっていまも現れることがある。それは域内だけに留まらず、特に中東地域の政変に影響されることがある。
 日本でよく知られたアーティストではコロンビアのシャキーラや、映画『フリーダ』に主演したメキシコの女優サルマ・ハエックなどはレバノン内戦を避けて大西洋を渡った世代の二世だが、中南米諸国が軍事独裁政権に覆われていた1970~1990年代には多くの人が域内では政治的な安定と経済力をもっていたメキシコに逃避した。

 メキシコの早くして中堅歌手として人気、実力とも不動のものにしたと思うナタリア・ラフォルカデもまた、父親が1973年9月にチリで勃発した軍事クーデターによって事実上、国外追放となっていた民主派の音楽家であった。そんな自分の来歴を詳細に語ったのは昨年の春、メキシコの音楽誌のインタビューのなかだった。そこで彼女はプライベート旅行で78歳の父を介助するようにして祖国チリを訪れ、はじめて親族を訪ねたことが記されていた。父にとっても亡命以来、初の祖国入りとなったのだ。そのナタリアが歌手として11月26日、チリで初のコンサートを首都サンチャゴのカリオカ劇場で開いた。デビュー時代から今日までのヒット曲を回顧する内容だった。
 ナタリアの父がメキシコでの活動拠点をおいたのはベラクルス地方だった。音楽教師として生計を立てるためだった。父はチェンバロ奏者であり、母もピアニストだった。そして、父からチリのビオレッタ・パラの歌、そして音楽の基礎もアカデミックに習っていた。そんな家庭環境を包み込むようにベラクルス地方の大気はキューバ渡りのダンソン、ハローチャに代表される濃厚な民俗音楽の芳香に彩られていた。
 メキシコ・シティの大都市の若者の心情をとらえたポップスで人気を獲得し、今年はラテン・グラミー賞の5部門で候補作となり主要4部門で賞を獲得したアルバム『アスタ・ラ・ライス』で大きく飛躍した。サンチャゴでのコンサートはその凱旋公演という色彩であった。
 彼女の生と音楽の「ライス」根っこ、はメキシコとチリにある。『アスタ・ラ・ライス』はスペイン語バラードの世界を若い感性と歌唱力で拡張したような仕事だと思う。
 ナタリアはすでに9月、米国サンフランシスコ公演も成功させており今後、その活動は世界大に拡張していくだろう。デビューから間もなく日本での小さなコンサートを実現してくれたナタリア。そのデビュー・アルバムはラテン圏の歌手として異例の早さで日本でも発売された。そのライナーを書いたのは筆者だった。メキシコからソニーへ原稿を送ったことを懐かしく思い出す。
 しばらくナタリアの日本公演は実現しないだろう。その意味では残念だが彼女が飛躍のときを迎えているということで祝福したい。 

ペペ・アギラール、マリアッチ、一方の雄

ペペ・アギラール、一方の雄
 *前回、アントニオ・アギラールを紹介したので、その子ぺぺについても書き継いでおこう。
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 やはり恰幅のいい男が似合う。それがメキシコ大衆音楽のランド マーク、マリアッチ(ユネスコの文化遺産に指定されれている)、その歌唱と してのカンシオン・ランチェーラ の担い手は美形ではなくヘフェ (統領)といった風格が欲しい。
  メキシコ牧童の盛装チャロが似合 う風貌が求められる。ぺぺはそれ を完璧に身につけている。
 
 現在、カンシオン・ランチェー ラの男性歌手における左右の両翼がアレハンドロ・フェルナンデスとペペ・アギラールだ。
 5月31日、メキシコ市でもっ ともキャパシティの大きなアウデトリオ・ナショナル劇場での公演を控えるぺぺが最近、米国ロスアンジェルスで地元マスコミの取材を受け、自らの芸能生活を振り返る興味深い発言をしていた。
 ランチェーラ界で一世を風靡し た父アントニオ・アギラールと、メキシコ映画の華であった母フロ ール・シルベストレとの間に生まれたサラブレットのペペ。しかし、両親の名の大きさ重石となったか、 “怒れる若者”は両親に反発してパンクロックバンドを結成、都市部の若者からそれなりの支持を受ける活躍をした。
 しかし、所詮、彼にとってのパンク は寄り道であった。ある意味、虚勢。体内に受け継いだ遺伝子に呼び戻されるように破れジーンズを脱ぎ、よれよれTシャツを捨てると、チャロに着替え朗々とランチェーラを歌いだし、たちまち才能を開花させた。
 「ロックを捨てのはあくまで私 自身が決めたことだ。周囲から強いられたことではない」
 アレハンドロも偉大なビセンテ・フェルナンデスの子だが横道に、カンシオン・ランチェーラの王道から逸れずに人気者になった。
 「これまでの25枚のアルバムにはロック 時代のものもあり、私の芸歴そのものを物語っている。むろん、私 ひとりが選択した音楽とはいえないが、その成功でお金が入り、どうじ周囲の雑音もおおくなった。私ももう46歳。これから作曲にも力を注ぎたいと思っている」
 すでにグラミー賞も、ラテ ン・グラミー賞を複数獲得している実力派だが、日本では知る人は少数。アレハンドロがグロリア・エステファンをゲストに迎えてマイアミで制作したアルバムがソニーから発売されているが、ペペの本格的な紹介はまだないのが残念だ。

 時代はすでにペペ、アレハンド ロを継ぐ才能を育てなければいけない時期に入っているが、まだ二人を脅かすような突出した才能は出ていない。 

アントニオ・アギラールを讃える国家規模のイベント

アントニオ・アギラールを讃える国家規模のイベント
アントニオ・アギラール

 7月7日、アントニオ・アギラール(1919~2007)を讃えるイベントがメキシコ市の国立ベイジャス・アルテス劇場にカルデロン・メキシコ大統領をはじめとする各界著名人が参加して行なわれた。

 大戦後、メキシコ音楽を牽引したランチェーラ(*)、しかも演技もできる有能な人材が陸続と輩出した。メキシコ映画黄金期である。
 ペドロ・インファンテ、ハビエル・ソリス、ホルへ・ネグレテ、そしてホセ・アルフレッド・ヒメネス。しかし、インファンテが飛行機事故で夭折するなど、みな病死などで若死にした。それ以後、ビセンテ・フェルナンデスが登場する間隙をひとりランチェーラ界を支えていたのがアントニオ・アギラールという大きな才能だった。
  *日本でよく知られるマリアッチとは、歌手をささえる独特の顔楽器編成をもつ伴奏集団をいう。その伴奏にあわせて歌をカンシオン・ランチェーラという。

 フェルナンデスの全盛期もアギラールは玄人受けする歌手、俳優として独自の道を歩いた。日本の紹介がほとんどなかった才能だが、唯一、メキシコ映画『価値ある男』が紹介された時、アギラールは助演男優として注目を浴びた。映画は全盛期の三船敏郎がメキシコ南部サポテカ先住民の粗野な農夫役を演じたドラマだった。アギラールの存在が日本で知られたのは、その時だけだろうが、メキシコでは誰もが知る大スターだった。これまで、さまざまなところで顕彰されてきたアギラールだがメキシコ芸術の本拠地として知られるベイジャス・アルテス劇場で讃えられるのははじめてのこと、遅きに逸した観もある。

 生涯1500曲の歌を録音し、100本以上の映画に出演した。映画では製作も担当し、自ら書き下ろした脚本も少なくない。共演者リストをみればメキシコ映画界の名優たちが網羅されている。そういう大きな才能だった。 また人権問題に関心深く、メキシコにおける人種差別問題の解消にも尽力したことでも知られる。それは米国におけるラティーノ系市民に対する差別的状況に端を発し、マーチン・ルーサ・キング牧師の暗殺事件にも影響された。そうした人柄もメキシコ国民に広く愛された大きな要因だろう。

 ベイジャス・アルテス劇場の祝賀行事では同劇場のオーケストラがアギラールの往年のヒット曲を演奏し、メキシコを代表するテノール。フェルナンド・デ・ラ・モラが歌った。またサカテカス州の出身ということで同州知事も参列し、アギラールの子でアギラールJrがサカテカスの歌を披露するというプログラムも組まれた。
 生前、日本でほとんど紹介されることのなかったことが悔やまれるが、メキシコ大衆音楽史に欠かすことのできない才能であったことをあらためて強調しておきたい。彼の息子、ぺぺ・アギラール(1968~)はいまやランチェーラ界を背負って立つ中堅、いや重鎮といってもよい貫禄をもったアーティストとして育っている。映画には父ほどの関心を示さず歌一筋で活動している。  (2012年7月記) 

「ククルゥクク・パロマ」のロラ・ベルトラン

「ククルゥクク・パロマ」のロラ・ベルトラン、生地での顕彰
ロラ・ベルトラン

 ラテン歌謡の定番曲「ククルゥクク・パロマ」。この歌をドラマチックな解釈で国際的な名歌として育てたことで知られるカンシオン・ランチェーラの名花ロラ・ベルトラン。その没後19年を命日、メキシコ北部州シナロアの生地クリアカンで顕彰の記念コンサートが3月26日から28日まで開かれた。

 「ククルゥクク・パロマ」はロラ以前に多くの女性歌手が取り上げてきた名曲だが、彼女の歌でいっきに国境を超えた。
 映画、メキシコ映画が黄金期を迎えた時期はロラの最盛期と重なり、スクリーンのなかで演唱したからだ。そして、ラテンアメリカ諸国でも親しまれ大衆化した。最近の「ククルゥクク・パロマ」の演唱も映画のなかにあった。スペインの名匠ペドロ・アルモドバル監督のアカデミー脚本賞など各国の映画祭で高い評価をうけた映画「トーク・トゥ・ハー」。そのなかでブラジルのカエターノ・ヴェローゾが歌った弾き語りの歌は素晴らしかった。彼の歌で名曲にはじめた接した世代もあるだろう。彼の演唱、その骨格もロラ様式を踏襲している。
 さて州都クリアカンで行なわれる記念コンサートでは地元の大学オーケストラが出演、地元の民俗舞踊団ロス・エルマノス・ロメロなども参加し祝祭的な催しとなった。同時に、ロラの遺児たちも審査委員に加わって、「ククルゥクク・パロマ」に特化した歌唱コンクールを行なわれた。なにやら「江差追分」に特化した北海道江差の民謡コンクールを思い出させる。メキシコではかくも「ククルゥクク~」が愛唱されているということだ。

 この機会にメキシコのランドマーク音楽、世界遺産にも登録されたマリアッチ。その歌唱をカンシンオン・ランチェーラというが、その女性歌唱の分野の創唱者といってもいい才能にルチャ・レイエスがいた。悲劇的な自死を迎えたルチャの後の不在を見事にうめたがロラ・ベルトランだった。メキシコ市のマリアッチの聖地といわれるガリバルディ広場には歴代のランチェーラ歌手の銅像が建っているが、女性歌手ではロラだけだ。

 メキシコ映画黄金期に歌手としての成長期を迎えたロラは50年代初頭から60年代、多くの映画に出演している。客演的に歌だけ披露するものも多いが女優として主要な役を演じている作品も多い。
 その共演者にはアルゼンチンから“エビータ”ことエヴァ・ペロンに追い出され失意のなかでメキシコにたどりつきブニュエル映画に出演することになるリベルタ・ラマルケ、フランス映画『フレンチ・カンカン』などにも主演したマリア・フェリックスなど往年の名優たちのリストのようなものだ。「ククルゥクク・パロマ」もそうした映画に主演し歌ったことによってラテン諸国のスクリーンでおなじみの歌となったのだ。全盛期、ロラは「カンシオン・ランチェーラの大使」といわれた。日本ではわ かりやすく「マリアッチの大使」と訳されていただろう。そうした異名が与えれたのも映画の力が大きい。
 今日ではロラの主演した映画が再上映されることはフィルムライブラリーでしかないが、その歌う映像は貴重な資料となっている。
 2008年、メキシコ・ワーナーから239曲を収録した20CDを収めた決定版の歌唱集が発売されている。
 (2015年4月記)

ナタリア・ラフォルカデ、チリへの想い

 メキシコポップス界の精鋭ナタリア・ラフォルカデ、故国チリへの想い
ナタリア

 ナタリア・ラフォルカデ、デビューアルバム『natalia lafourcade』が日本でも即、発売されたメキシコの若手女性歌手として記憶される。このデビュー・アルバムのライナーノーツは私が書いた。
 そのアルバムの日本発売から間もなく日本公演も実現させた。メキシコ・ポップスの俊英。デビュー当時(2003年)17歳だった少女ナタリアも今年、28歳。2年前に制作したアルバム『ムヘール・ディビーナ』は往年のボレロ歌手にして作詞作曲家であったアグスティン・ララに捧げられたアート性豊かな作品として評価され、ラテングラミー賞で確か2部門にノミネートされた。そのビデオ・クリップのなかで歌う姿には、女の成熟した色香のただよっていた。

 そのナタリアが4月に発売された音楽雑誌『YA』で父の国チリへの思い、私的な旅の思い出を語って注目された。
 ナタリアの父ガストンはチリに民主革命を起こした故アジェンデ大統領とその政権の熱烈な支持者であった。1973年9月11日、軍事クーデターが起きる2日前、偶然、チリを出ていたため弾圧、あるいは虐殺から逃れることができたチェンバ
奏者であった。
 「父はよくビオレッタ・パラ(チリの国民的歌手にして音楽学者)の歌を弾いてくれたの。わたしが歌を作るようになったとき、彼女の音楽に知らないうちに影響されていたことを知った」

 軍事独裁下のチリから多くの市民が国外脱出、メキシコも多くの政治亡命者を受け入れた。ビオレッタの息子アンヘル・パラなどは有名でメキシコ市内にチリ民族音楽を聴けるベーニャを開いた。

 ナタリアの父はメキシコにあって、「チリ人オルガン・チェンバロ奏者連盟」を組織し、チリに民主主義が復活することを願いながら演奏活動を続けていた。母ナタリアもピアニストだった。そんな音楽的環境に恵まれたナタリアがクラシックの道に
進まず、メキシコ市井の若者たちの感情を歌い込んだ作品でデビューした。最初から完成度が高かったのは両親から受け継いだ血であろうか。

  「昨年、78歳の父に付き添ってはじめてチリを旅し、父の兄弟、親族に逢い、民族料理を食べたり、自然を堪能した充実した旅だった」
 ナタリアはビオレッタの名作『グラシアス・ラ・ビダ』に托して自分自身を語る。もし、父がチリに留まっていたら、私自身の生もなかった、「人生よ、ありがとう」と。
 冷戦時代の中南米諸国の政治的な混乱によって生じた悲劇の残滓は、まだナタリア世代の体内に生きているということをあらためて認識した。  (2014年4月記)

“エル・トリ”は俺たちのものだ メキシコ・ロックのカリスマ

“エル・トリ”は俺たちのものだ
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 W杯ブラジル大会……これまでのジンクス通り、アメリカ大陸で開催される大会は中南米勢の活躍が目立つ。わがメキシコも2勝1分、引き分けは優勝候補筆頭のブラジルと対戦だったから、かなり期待がもてる。本誌が店頭に並ぶ頃には結果が出ているだろうが、期待しないわけにはいかない。
 その堅守、速攻を持久力の高さとともにみせているメキシコナショナルチームの愛称が“エル・トリ”・・・・・・・だが音楽ファンにとっては、メキシコ・ロック界ばかりでなくロック・エスパニョールの重鎮、アレックス・ロラ率いるところの名籍エル・トリである。メキシコ代表の活躍に一喜一憂するメキシコにあって、もうひとつ“エル・トリ”の闘いもまた注目をあつめている。
 メキシコでもかつてオリンピックが開催されたが、その直前にメキシコのロック界は反社会的表現として弾圧の対象となり、逼塞を強いられた。「トラテロルコの虐殺」。
 ロック冬の時代にも灯火を掲げていたのがエル・トリだ。その活動暦はすでに45年に及ぶ。そのエル・トリのアレックスがサッカー界に噛み付いた。
 「俺たちが長年の活動によって築き上げてきたエル・トリの名を、勝手に代表チームの愛称として登録するのは肖像権の侵害だ」というのが趣旨だ。
 しかし、エル・トリはメキシコ国旗の三色も象徴する呼称でもある。アレックスたちエル・トリのメンバーはたちまち賛否両論の渦のなかに巻き込まれた。先ごろ、エル・トリをアレックスとともに支えてきた妻で歌手のチェラが、「もう騒ぎはたくさん、うんざり、この件は司法当局に委ねた」と記者会見。メキシコ代表の活躍によって、さしもの反逆児アレックスの意気もトーンダウンしたのかも知れない。
 アレックスだって、エル・トリという呼称がメキシコを象徴する元来、普遍的な存在であることぐらい分かっているだろう。しかし、アレックスのエル・トリは民衆の叫び、権力に抵抗する民衆の熱情から出ているものだ。権力者も資本家も統合する意味でのエル・トリが代表チームの愛称となってしまうことに対して異議申し立てせざるえなかったのだろう。どう決着がつくかは分からないが、アレックスの怒りはおそらく無視される。しかし、彼らはそれをバネにしてあらたなプロテストとしてロックを作っていくだろう。そういうしたたかを持続しえたからこそ現在もメキシコ・ロック界を牽引しているのだろう。  そのあおりでメッセージ性の強いロックは地下に潜った。
 そのロック冬の時代にも灯火を掲げていたのがエル・トリだ。その活動暦はすでに45年に及ぶ。
 そのエル・トリのカリスマ的指導者アレックスがサッカー界に噛み付いた。
 「俺たちが長年の活動によって築き上げてきたエル・トリの名を、勝手に代表チームの愛称として登録するのは肖像権の侵害だ」というのが趣旨だ。
 しかし、「エル・トリ」そのものはメキシコ国旗の三色も象徴する呼称でもある。日章旗を「日の丸」というごとく。
 アレックスたちエル・トリのメンバーはたちまち賛否両論の渦のなかに巻き込まれた。先ごろ、エル・トリをアレックスとともに支えてきた妻で歌手のチェラが、
 「もう騒ぎはたくさん、うんざり、この件は司法当局に委ねた」と記者会見。
 メキシコ代表の活躍によって、さしもの反逆児アレックスの意気もトーンダウンしたのかも知れない。
 アレックスだって、エル・トリという呼称がメキシコを象徴する普遍的なものであることぐらい赤ん坊のときから分かっている。
 しかし、アレックスの「エル・トリ」は民衆の叫び、権力に抵抗する民衆の熱情を意味しているのだ。権力者も資本家も統合する意味でのナショナルな三色旗としてのサッカー代表チームの愛称となってしまうことに対して異議申し立てせざるえなかったのだろう。どう決着がつくかは分からないが、アレックスの怒りはおそらく無視されるだろうが、彼らはそれをバネにしてあらたなプロテストとしてロックを作っていくだろう。そういうしたたかを持続しえたからこそ現在もメキシコ・ロック界を牽引しているのだ。  (2014年6月)

バンダ音楽の老舗エル・レコード  結成75周年を迎え

バンダ音楽の老舗エル・レコード
 結成75周年を迎え
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 日本ではまったく紹介される機会がないが、メキシコでバンダといえばマリアッチに並ぶ大衆ポップスの 定番。定番音楽だから人材は豊富、 次から次へとメキシコ北部各地から 新しい才能が出てくる。
 スーザフォーンやチューバといっ たブラスバンドでおなじみの大型金管楽器が活躍し、時にはその演奏者も吹奏しながら踊るというバンダのステージはビジュアル的にも面白い。フィエスタ好きのメキシコ民衆に愛好される要素のつまった音楽だ。ただ体力的に男性勢が圧倒的に優勢で女性バンドが極端に少ないのが難点か。
 さて、このバンダ音楽の牽引者が クラリネット奏者で作曲家であった故クルス・リサラァガ。彼が出身地シナロア州マサトランで結成したのがバンダ・エル・レコード。大衆音楽としてのバンダはクルスと、エル・レコードともにはじまる。古い音源
をたどると、歌うグループというよ りインストメンタルを主力にした活動をしていてマンボやルンバが流行 れば、それをうまくバンダ音楽に編 曲して時流にのっているという印象だ。
 もともとカトリック教会の祭礼 用の素人音楽集団として発足したバンダ音楽は現在も各地にのこってい て、セマナサンタ(聖週間)などには植民地時代の形式をそのままに演奏集団が存続している。
 メキシコの南のグァテマラではこのカトリック祭礼の際のバンダの原型が現在でも各地でみられる。
 
 この1月、エル・レコード結成7 5周年を迎えた。現在のリーダはクルスの息子ポンチョ・リサラァガが勤める。
 メキシコでは一世を風靡し たグループというものは日本の家元制度ではないが、グループを解消せずにその名を同族が継承していくことが多い。ト リオ音楽しかり、マリアッチ楽団しかり。
 現在のエル・レコードは無論、歌 モノ中心でヒット曲を出し続けている。75年の歴史のなかで多くの人材が交替し、特に生命線のトップボイスの起用には細心の注意を払っている。いまならレゲトンもこなせる人材ということだろう。
 昨年、そのトップボイスが交通事 故のため活動を中断したとき、予定された公演をゲスト歌手として人気者ジェニー・リベラがその穴を埋めたということがあった。ジェニーもメキシコ大衆音楽専門レーベルフォノビサの看板歌手だ。そうした人気者が急遽、駆けつけるほどエル・レ コードは権威のあるグループなのだ。
  「私たちは神からチャンスを戴き、 これまで恵まれた活動 をしてきた。これからも皆さんに請われる限り私たちの音楽で楽しんでもらいたい。それが私たちの目的であり喜びだ」
 とは75周年を迎え、新聞のインタ ビューに答えたポンチョの言葉。こんな謙虚さもエル・レコードの大衆的人気を支えているのもかも知れない。  
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上野清士

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