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藤圭子さんの死

藤圭子さんの死

 藤圭子さんの突然の逝去を知って、ギター片手に“怨歌”を歌っていた頃を思い出した。
 「圭子の夢は夜ひらく」は鮮烈だった。
 もともと元祖三姉妹の園まりさんのヒット曲だった。
 園さんの粘つくようなコケテシュな歌も良かったし、それはそれでヒットしたのだ。ところが藤さんのそれは、園さんの歌とは対極といっていいほど、突き話した醒めた、なにか隙間風がさむざむと吹き抜けるような歌だった。まったく同じ素材を使いながら、これほど違ってしまうものかと、感嘆したものだった。
 園さんの歌は、レコード会社の演出、企画物だったろう。しかし、藤さんのそれは個性だった。
 藤さんはデビューから個性が際立っていた。
 個性そのものが芸だった。
 そして、その芸が飽きられてしまえば、それで終わりだ。
 個性は容易に変えられないのだから、時間勝負の大衆歌謡の世界では落後していくしかない。どうにもしょうがない。
 前川清と結婚、離婚・・・そしてニューヨークに移住、というところまでは耳にした。
 そして、後年、宇多田ヒカルの“母親”として再登場した。だが、それだけだ。
 ヒカルさんも個性豊かな歌手だ。デビュー時からグレードが違っていた。ヒカルさんの歌は最初、メキシコで聴いた。正直、日本を主舞台にせず米国を中心に活動していればクリスティーナ・アギレラぐらいの人気を獲得でいると思った。でも、彼女は日本を重要拠点とする。アギラが母国エクアドルとは距離を置いたのとは行き方は違った。
 日本人はやはり戻ってしまう。米国のなかに巨大なスペイン語マーケットを活用できるヒスパニック系歌手との感傷性の違いだろうか?
 藤さんは人気歌手だった。娘の才能の開花を自分の青春になぞらえることはできても、“母親”には徹することはできなかったのだろう。娘の才能をさらに豊かに、その才能に群がる海千山千の壁になろうというような、美空ひばりさんのおかあさんにはなれなかった。
 娘が稼ぎ出す金をひたすら消費する。それは自分が人気歌手だった当時、稼ぎ出しながらも超多忙で遊興に使うことのできなかった時代を、遅れて補うような日々であったのではないか。
 しかし、そんな生活はしょせん虚栄・・・相変わらず地に足のつかない生活だ。
 藤圭子は飛んだ。一閃の飛翔・・・イカロスより高く飛ぶことはできなかった。
 自死もまた、彼女にとっては個性だったに違いない。
 不可解な死とはいうまい。
 彼女は遺言で、葬儀をいらないと書いたそうだ。死をあくまで孤的なものとして選択した彼女は、赤の他人の涙を峻拒(しゅんきょ)したのだ。葬儀の周囲でしらじらと批評されることを拒んだのだ。

 
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旅立ったアノ人、コノ人 其の四 石垣りんさん 「お茶汲み」で思索した詩人

旅立ったアノ人、コノ人 其の四 石垣りんさん 「お茶汲み」で思索した詩人

 気忙しい師走二十六日、石垣りんさんが逝った。悲報に違いないが、たちまち柔和な笑顔が思い出された。私の知るりんさんは六十代前半で若々しい。それこそ「凛」とした印象だ。一九八〇年、りんさんの詩を月一回、当時、勤めていた新聞の月の最初の号に寄稿していただいた。
 戦前、高等小学校を卒業すると日本興行銀行に入行、定年まで文字通り「お茶汲み」一筋で過ごしたと追懐されていた頃、りんさんに季節感がなんとはなしに感じられるような詩を、と連載をお願いした。最初の原稿はジングルベルが響く大田区の商店街の小さな古風な喫茶店でお受けした。
 寡作な詩人だった。けれど、最良の読者に恵まれていた詩人だった。
 最初の詩集を出されたのが三十九歳、詩の世界では遅咲きかも知れない。第二詩集はそれから十年後。初期の詩は、組合活動のなかで機関紙や壁新聞などに発表されたものだった。といって直截な言葉で〈闘争〉することはなかった。生きがたい生活の真実を、日常語を選別して鋭利な有機物に換えていた。それは人を傷つけなかったが、読者の心奥に喰い込んだ。組合活動に積極的に加わっても「お茶汲み」から解放されたわけではない。
 詩集がH賞や田村俊子賞を受賞しても仕事は代わりばえしなかった。そのことに不満を漏らしも、退職願を出すことなくきっちり勤め上げた。しかし、「お茶汲み」の場から人間の本質をじっくり観察しつづけていた。その眼光の鋭さは退職後も変わらなかった。
 一二ヵ月間、詩を戴くために都内で定期的にお会いした。四方山話、何を話したか……。会話が途切れる。言葉を選別するような一瞬の沈黙のなかに鋭利があった。それはしばらく私を捉えた。
 正月、古い年賀状を整理していたら、りんさんから戴いた八年分の年賀状(それも佳品)とともに自筆原稿が出てきた。当時どこの文具店でも売っていた四百字詰めコクヨ製原稿用紙に鉛筆で清書された「汗をながしたあと」。一九八〇年元旦の新聞に掲載された。
 
 新しい年が明けたら
 どの辺に虹が立つか
 目を上げて見張っていよう。もし虹が立ったら
 見つけた者から渡っていこう
 誘い合って。
 向こうに新しい町をつくる
 戻れない橋をしっかりと渡って行く
 
 その詩には、「汚職と利権と専横に陰る古い町」という一節があって、そんな「古い町」とおさらばし、希望と可能性にみちた「町」を目指せと語る。それは現実の町を意味しない。人それぞれが抱える濁を振り払って前へ前へと背を押す詩だったが、今度はりんさん自身が、汚濁に満ちた現世におさらばし、永遠に「新しい町」に旅立ってしまった。享年八十四歳だった。合掌。 (2005年1月記)

旅立ったアノ人、コノ人 其の三 松田優作さん

旅立ったアノ人、コノ人 其の三 松田優作さん

 カッコよかった。流星のような一閃の出会いで、記憶の襞に絡みつくように印象を遺す人がいる。深く刻み込まれる。男惚れ……するということがどういうものか実感をもって掌にはいってくるような、そんな瞬間であった。松田優作さんだ。
 練馬の大泉にまだ東映の撮影所があった。でも、追っ付け閉鎖になるということが視野に入った終焉期だった。もう何年もあらたな設備投資はおこなわれず既存の機材だけで斜陽をゆっくりと、しかし確実に転げ落ちていた。撮影所全体がパラフィン紙を透かしてみえてくるような心もとない印象だった。大泉の撮影所に行って、しばらくして取材で中国の上海撮影所、アジア映画史のなかでも特筆される巨大な撮影所だが、そんな撮影所の活気を見たとき、つくづくビジネスとしての日本映画は零細化しているのだと思った。
 いまは巨大ショッピングセンターとなっている撮影所のなかに何棟かあったスタジオのひとつで松田優作主演のテレビ映画が撮影されていた。風吹ジュンさんとのベッドシーン。監督は後年、『月はどっちに出ている』でブレークする崔洋一さん。そのテレビ映画の撮影に入る前に、崔監督はデビュー作に内田裕也主演で『10階のモスキート』という映画を撮っていた。ちょっとキケンな警察官役を、裕也さん地で行くような危なさで演じてささくれ立つようなザワザワした雰囲気に満ちた作品だった。その崔監督にあうために僕は撮影所でベッドシーンを側から眺めていた。撮影が終わるのを待っていた。この映画はしばらくして、『松本清張の断線』というタイトルで放映された。ビデオ発売されたときはタイトルは変わっていたように思う。
 撮影が終わり、撮影所前にある薄暗い喫茶店で僕は崔監督とお茶を飲んでいた。『10階のモスキート』の取材であった。半時間ほど話し込んだ頃、優作さんが数人の男性と一緒に店内に肩から入ってきた。そして、崔監督と僕の話に割り込み(むろん、僕に一礼して)、それから別の席にうつり、そこで若いスタッフになにごとか注意を与えるような、ちょっと詰問調で話し込んでいた。何を飲んでいたか? 終わると、そのスタッフ連中と一緒に風のごとく消えた。……それだけの話だ。
 優作さんは店内でもサングラスを外さなかった。ロングコートを着ていたように思うから、晩秋か初冬といった季節だったろうか。そのテレビ映画が放映は確か12月だから、その少し前ということになる。それから、6年後に優作さんの訃報をきくのだ。遺作はマイケル・ダグラスと共演したハリウッドの映画『ブラック・レイン』だが、そのブラック=黒ということで思い出すが、大泉であった優作さんの印象を色でたとえれば黒である。黒に五彩ありというが、その五彩のオーラというのだろうか、それを周囲に解き放って、その空間を小劇場のようにしていた。それは優作さんの日常であるかも知れない。まわりの凡人は、ただただ、その存在感に圧倒される。鮮やかといえばそういえるような、けれど居心地の悪さも感じさせる。妙に落ち着かない。そこは五彩のカオスなのであった。こういう男とはそうそう出会えるものではないだろうと思った。
これまで多くの俳優さんと日常の場面で会ってきた。けれど、優作さんに比類するような男とはまだ出会っていない。ただ現役のアーティストのなかにひとりだけ存在する。カテゴリーは違うし、風貌もまったく異なるけど、ピアニストの高橋悠治さんは、ぼくにとって優作さんに比類する才能と思って接している。

旅立ったアノ人、コノ人 其の二  熊井啓さん

 旅立ったアノ人、コノ人 其の二
   熊井啓さん

その頃、熊井啓監督は都下のよくある住宅地の一棟に住んでいた。堅実な中流サラリーンマンが退職金まで見込んで建てたという、あまり個性のない家だった。その二階、よく陽の入る座敷で、僕はひたすら監督の烈火のごとき怒声に打たれていた。打たれてはいたが怯えていたわけでもなく、恐れおののいていたわけでもなかった。
「あぁこれが噂に聞く熊井さんの癇癪か」と納得したような、実際に確認できてよかったと思うような気分で、ただただ殊勝にしていただけだ。
監督の怒りはとめどなく口角泡を飛ばしつづくのであった。僕はなかば呆れ、そして、どこかで憐れんでいた。こういうふうに人と対峙することが普通と思われるような人の生活のザラザラした焦燥のような感情表現を幼いとも思った。
 熊井啓さんは、戦後の日本映画の良心ともいえる才能だ。その評価を損ねるつもりいささかもない。でも、作品と人は別である。
僕への怒りは、当時、公開されて間もない監督の新作『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』への批評原稿を某評論家に依頼、多少、映画に対してきつい内容であったが、ひとつの見解として成り立つと思い、編集者として掲載した。それを、たぶん俳優座経由で読んだ監督から連絡があり、「お話したいので是非、拙宅へ」となって、その日一日、監督のために費やした。
 監督のいかにも神経質そうな痩身はテーブルの向こうで揺れ、ふるえ、ときに伸びあがり前のめりしながら激越な批判はつづくのであった。僕はもう何も聞いていなかった。聞いていない代わりに、僕がみてきた監督の作品を順繰りになぞっていた。処女作は1964年の『帝銀事件 死刑囚』であった、『黒部の太陽』もみた。『地の群れ』の印象はいまも強い。『忍ぶ川』『サンダカン八番娼館 望郷』と栗原小巻主演映画がつづき、『天平の甍』の後に、GHQ占領下で起きた下山事件の謎を監督は映像で迫ったのだ。その映画は当時、すでに珍しくなっていたモノクロ作品であった。劇としてより、ドキュメント性を重視しようという姿勢が当時の雰囲気をより再現できるモノクロームのフィルムを選択させたようだ。監督が長年、ひめていた私見というものを開示する手段でもあった。しかし、それが定見となるわけではなく、批判が出るのはまた当然であった。僕が依頼した原稿はそのひとつの批判に過ぎない。しかし、監督は、その批判を完膚なきまでに叩こうとするかのように、けっして耳触りのよいとはいえない言葉を並べていた。
一度、奥さんが遠慮がちに冷たいお茶をお絞りとともに運んできた。ポプリ研究家で1980年代のポプリブームの火付け役となった熊井明子さんだ。短い閑話休題……なまぬるい静寂がふと訪れた。むろん、それで切り上げとはならなかった。
 監督と、批評文を書いた評者のあいだで、僕を迂回してのやりとりもあり、とうじ、すこぶる面倒なことだと思ったが、新幹線があったにも関わらず、時間の都合で東京・仙台間を飛行機で往復して解決を図ったのだ。その時、仙台市内から空港までタクシーを飛ばしたのだが、その車の後部座席に僕と監督は並んで座っていた。そして、その日の監督は過日の口吻はまったくなりをひそめ、真逆としかいいようのない柔和な口調を崩さなかった。いや、むしろ猫撫で声といっていいぐらいのものだった。僕はそのあまりの急変ぶりに戸惑うと同時に、なぜか憐れみたい心境になっていたのだった。そして、空港構内に車が入ってから、なにを思ったか、「これでなにか美味いものでも食べてください」と千円札紙幣を数枚、僕の手に押し込んできたのだ。むろん、断った、鄭重に。しかし、監督は執拗だった。僕はそれ以上、押し返せば、またぞろおかしなことになると思い、ありがたく頂戴したのだった。
 それから監督は『海と毒薬』『千利休 本覚坊遺文』『深い河』など軸のぶれない硬派な作品を撮りつづける。その大半は、僕がラテンアメリカに移住してからの作品だった。監督の作品は長く残っていける力のあるものだ。それは疑うものではない。しかし、そうした作品が生まれるまで、この監督は繰り返しスタッフ、キャストに罵声を浴びせ、苛立ちを隠さなかった人なのだろうと思った。それは作品に掛ける執念というものの体現かもしれないが、人はそれぞれ個性的なもので僕のように、不当と思えば、竹輪耳になって平然とできるタイプもあれば、それに痛く傷つき、熊井監督とは二度と仕事をしたくないと思ってしまう者だってあったはずだ。そうしたことは作品の価値とはまったく別の事柄だが、ひとつの回顧として、やはり書かずにはいられなかった。

旅立ったアノ人、コノ人  其の一  淀川長治さん

旅立ったアノ人、コノ人  其の一  淀川長治さん

 仕事柄、さまざまな職業の方とお付き合いをし、また貴重な一期一会の機会をもった。そして、ふと後ろを振り返ると、なんと多くの人が鬼籍に入られたかと思う。自分もいつバナナの皮にすべりもんどりうって後頭部をしたたかに打ちすえ昇天するかも知れないし、ある朝、目が覚めたら17歳の少年に舞い戻ってしまい、本人は〈青春〉を謳歌しているつもりでも、まわりはとうとうボケたかと暗然としているやも知れぬ。記憶の確かなうちに私だけが知る故人の一面を語っておきたいと思う。

  淀川長治さん
 最初に映画評論家の淀川長治さんを選んだのは、それなりの理由がある。
 私が生意気盛りの中学生時代、確か3年の春だったと思うが、なんと淀川さんに長文の手紙を書いたのである。無知とはすばらしい。常識をはるか彼方にキックオフして、なんと〈仕事の相談〉をしたのである。ファンレター、というようなものではなかった。僕は映画が大好きで近い将来、映画に関係した仕事に就きたいのである。したがって映画界で活躍されている貴方はそうした相談をするにはもっともふさわしい先輩とお見受けするので、こうして一筆したためたものである……と書いたどうかは定かではないが、ともかくそんな内容の文面をせいいっぱい、キリンの首のように延ばして書き、雑誌『映画の友』であったか、「淀川長治編集長殿」宛に送りつけてしまったのである。果敢さと無知の見事な同居……しかし、向う見ずな中学生もさすがに返事がすんなり来るとは思っていない。
 ……ところがさほど日をおかず葉書が届いたのだ、淀川さんから……。
 あの「怖いですねえ、恐ろしいですね。ハラハラドキドキしましたか」と品のよい笑顔が行間からこぼれるようなやさしい文章で、「あなたはまだまだお若くお勉強をする時間が与えられた幸せな時を過ごしているのですから、あわてて将来の進路をいま決めることはありません。これからの時間と、あなたの努力がやがて仕事を自然と選ばせるでしょう。そのとき、まだ映画の仕事をしたいと思えば相談にいらっしゃい」といった内容だった。
 当たり前の内容が中学生でも読みやすい書体で書かれてあった。淀川さんには返事を書く義務はいささかもない。でも書いてくれた。インターネットの時代でなくてよかった。葉書はいまも大事にとってある。
 後年、映画批評や、監督や俳優さんへのインタビューの仕事に少しウエイトをおくようになってから淀川さんと触れ合う機会を幾度ももった。エレベーターに二人きりになったこともある。私は下を向いた。なんだかとても恥ずかしかった。むろん、淀川さんは、かつて無遠慮極まりない手紙を送り付けた中学生のことなど忘却の彼方だろう。しかし、一度、確かめたいと思っていた。「へんな中学生の手紙のことを覚えていませんか?」。それを言い出す機会はいくらでもあったのだが、とうとう訊けずに終わってしまった。
 淀川さんの元気な姿を近くでみたのは、ある若い監督の映画の完成を祝う席だった。淀川さんは、その監督を「先生」とよんで作品を褒めあげていた。淀川さんは、創作する側のひとたちをいつも尊重していた。撮影監督、美術、音声……淀川さんは映画を掛け替えのない総合芸術を位置づけていた。けっして偉ぶるところのない人だった。心の底からやさしい人だった。そのやさしさは辛口の映画批評を本業とはさせなかった。映画愛好家、紹介者として徹することに潔しとした。淀川さんの文章におけるお仕事はさほど多くない。しかし、『自伝』はみごとな「文学」でもあり、近代史の傍証になる貴重なお仕事だった。
……こうして、淀川さんの思い出をいま吐いてみて、なんとなく肩の荷がおりたような感じがする。いま、あちらの世界でにこやかにしている淀川さんに向かってはじめて手が振れると思った。
「淀川さん、ありがとう。それでは次週(とはいきませんが、そちらでお会いできるまで)、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」……。     (2010年11月記)
 
 
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上野清士

Author:上野清士
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