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コンクールの後の精進について ~宮谷理香ピアノリサイタル

コンクールの後の精進について
 宮谷理香ピアノリサイタル
宮谷硬さをもった北風が窓を打つ音を聞きながら、ふと流亡の日々のショパンの音色を浮かんできた。それは4つのバラードだった。ショパンの祖国ポーランドが国境を接する覇権国家によって分断統治され独立を失った時代、彼がフランスにあって遠く故郷を想いながら書いた第1~第4番のなかのどれかで、それをいちいち確認しようとは思わず、ただ、風音とともに蘇生してくるピアノはつい最近、聴いたばかりの宮谷理香さんの見事な演奏から発している。
 今年も多くのピアノを聴いた。ショパンもさまざまプログラムで聴いた。そして、いちばん深く静寂を破る風の音とともに沁みこんできたのが宮谷さんの「バラード」第1~4番までの演奏だった。それを聴 きながら、私は演奏家の精進というものを、なにかに促されるままに想っていた。
 宮谷さんは1995年の第13回ショパン・ピアノコンクールで第5位に入賞し注目をあつめた才能だが、この5位という成績は正直、生き馬の目を射抜くショービジネスでの世界では実際のところ小さな効果しかもたらさない。それはご本人がよく知るところだったろう。宮谷さんはその成績の吟味を再スタートの低い位置と自覚し、その後の研鑽怠りなく堅実に精進し、実績を着実に積み上げてきた。その熱意ある精進というものが凛然と輝いているようなショパンが、11月23日に聴けたという感動であった。
 そんな宮谷さんのショパンを聴きながらコンクールの魔性、といっては言い過ぎかもしれないが、優れた音楽家の、そこから先の来し方を変え ることが多々ある事実を直視しないわけにはいかない。その日の宮谷さんのピアノはコンクールで弾かれた音とは、まったく質の異なるものに違いない。コンクールの時点からの発展というのではなく、その演奏家の周囲に否応もなく生起しては消えてゆくさまざまな変化そのものを受け入れ、対処しながら演奏を磨いてゆくという人間として音楽家として迫られる問い直しがあったように思う。そういうことを想いながらコンクールを考えてしまう。
 ショパンコンクールは1927年にはじまった。その第一回目の参加者のなかに後年、ソ連ロシアを代表する大作曲家となるショスタコーヴッチがいた。当年20歳のレニングラード音楽院の英才だったが、記録にのこる第4位までの入賞者にも入っていない。早々と落選してしまったのだ。一説には盲腸炎の痛みで思うように演奏できなかったといわれるが、今となっては確認しようのないことだ。体調不良とはいえ落選したのは20歳の青年にはそうとう堪えるものだったろう。それが転機になったか、本格的な作曲活動の道を自ら拓くことになる。落選は今日のわれわれに巨大な秀作群を遺すことになった。これは落選させた審査員諸氏に率直に感謝しなければいけないだろう。
 戦時中の中断から戦後、再興されたコンクールの受賞者たちの顔ぶれは凄い。この受賞者一覧そのものが同コンクールを至高の極みにまつりあげた。残念ながらまだ日本人の優勝者は出ていない。最初のアジア人の優勝者はベトナムから出た。ダイ・タン・ソンである。しかし、優勝後、しばらくは国境を越えた演奏活動をしていたが、今日、ほとんど話題にのぼることがなくなっている。国内にあっては、おそらく“国民的英雄”として雑事にそうとう翻弄されたと思う。そんな情報ももれ聞く。まだ国内にはベトナム戦争直後の疲弊した経済環境のなかで生きて行かねばならなかったダイ・タイ・ソンは社会主義国家の名誉称号を公的に活用されることを甘受しなければならない立場にあった。
 その次の優勝者がソ連時代、最後のロシア人優勝者となったスタニスラフ・ブーニンである。本国ではさほどの評価を今日でも高くないが、なぜか日本ではロックスター並みの圧倒的な支持を得た。武道館でのコンクールなんていうこともやった。おそらく日本のみの発売となっただろうが早すぎる自叙伝も出した。日本のブーニンなのだ。そのうち、その自叙伝については書こうと思っているが、ソ連時代のクラシック界の裏情報というか裏話がペレストロイカの影響か、けっこう生なましく書き込まれていて一個の証言集として資料にしておきたいものだ。しかし、彼もまた伸び悩んでいる。現在時点では絶対に宮谷さんのピアニズムの芳香のほうがはるかに豊かなはずだ。そして、これからも熟成されてゆく確実な予感がある。
 もし、宮谷さんが仮に95年に優勝でもしたら過度な演奏ツアーのなかで押しつぶされていたかも知れない。私たちは、すでに米国テキサス生まれの天才ヴァン・クライバーンの悲劇を知っている。ソ連のチャイコフスキー・コンクールで優勝し、米国で破格のギャラでのオファーに抗しきれず、過度の演奏ツアーの波に呑み込まれ腕の筋肉をボロボロにしてしまった青年演奏家の失楽を・・・。
 宮谷さんには是非、マイペースで精進してもらい。演奏家としての道はまだ長いはずだから。
*2016年11月23日、東京文化会館小ホールにて。
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「時代は変わる」ボブ・ディラン、ノーベル文学賞

「時代は変わる」ボブ・ディラン、ノーベル文学賞
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 60年代初期のボブ・ディランの時代批評歌に「時代は変わる」がある。いまでもベストアルバムが編まれれば必ず入る名曲だ。その一節に、「ペンでしか予言できない作家や批評家たちよ 目を見開いてみろ~」と、当事者意識を欠いたインテリを批判するところがある。ディランのノーベル文学賞受賞とは、そのインテリのアカデミズムの牙城に取り込まれることであったのかも知れない。ディランがノーベル財団からの電話を長いこと受けることができなかったのも、そういう躊躇い、戸惑いがあったのかも知れない。しかし、歌の表題ではないが、確かに「時代は変わる」のである。
 米国歌手ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の知らせは大きな驚きをもって迎 えられた。
毎年、候補に挙がる 村上春樹という大きな存在をもつ日本では文学賞の発表 は特別な思いを込めて注目さ れる。
 大戦後、英国のチャーチル元首相の回顧録が受賞した時も「文学」かという異論が出た。ディランの本業は 歌だから違和感を覚えた人も多かった。ディランは なにより歌唱の人。まず訴えたい言葉を紡ぎ、その言葉をのせる旋律とリズムを書いた、いわば三位一体の表現者。これを雅語的形容で“吟遊詩人”。受賞は、歌詞に対する評価であった。けれど、ロバート・アレン・ジマーマンというユダヤ人としての出自がわかる本名ではなく、ボブ・ディランという芸名をもったのは、英国の詩人ディラン・トマスに対する畏敬からであったとすれば、ディランはまず詩を詠む怒れる若者として時代を批評したのだ。その意味では文学賞に価する詩人である。

 ディランの歌が日本に 浸透したは70年安保の前夜だ ったろう。日本の若いフォーク歌 手らによって意訳されたともいえ るディラ
ン詞の暗喩と隠喩に富 んだ時代性が注目されら。ディ ランの歌のヒットで、ディラン ・トマスの詩集が初翻訳され、筆者も その箱入り上製の詩集を購入したものだ。当時の私にはそれがどう優れているものか良くわからなかった。けれど、ディラン・トマスの影響からアレン・ギンズバークを知り、訳者の諏訪優さんとささやかな交流がはじまったのだった。その諏訪さんも鬼籍が入られた。

 ディランの受賞は途上国の詩人や歌手たちにとって朗報となったと思う。識字率の低い国の若き改革者たちは、本ではなく、歌で民衆 にナニゴトかを告知、主張しよとす る。それは文学表現の積極的な拡張行為だ 。そうした才能を鼓舞したように思うのが、 今回の文学賞ではあったと思う。 個人的な感慨を吐露すれば、デ ィランの前にジョン・レノンに与え て欲しかったし、レノンの活動期、冷戦下のモスクワで、かつてのディランのようにアコースティック・ギターを片手に権力の抑圧と闘いながら多くの歌を遺した
ヴィソツキー(ヴラジーミル)に授与して欲しかった。彼の寿命ももう少し延びたかも知れない。
 文学賞選 考委員が世代交替しているとい われるが、ノーベル文学賞もや っと時代に追いついたとい印象だ 。やっと、「時代は変わる」季節を迎えた。  

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に沈着する憂愁を    ~カメラータ・ド・ローザンヌ初来日公演

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に沈着する憂愁を
   ~カメラータ・ド・ローザンヌ初来日公演

 スイスのローザンヌ市で2002年に結成された弦楽合奏団カメラータ・ド・ローザンヌの初来日公演の初演を7月7日、天の川がまったくみえない夜に聴いた。ふたりの日本人女性がヴィオラ奏者として参加する清新な活気に満ちて統一感の若い合奏団。当夜の公演では同合奏団がもっとも精神を傾注させて演奏したのは四曲目、チャイコフスキーの「弦楽セレナード ハ長調」だろう。彼らのチャイコフスキーについては、もう一夜、第2部をチャイコフスキーの作品を集めた演奏会があるので、それに譲りたい。
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 7日のプログラムにモーツァルトの作品中、もっとも有名な(優れたという意味ではない)作品「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が取り上げられていた。小さな夜想曲、セレナーデ。清廉な快活にあふれたアレグロがはじめってから、ふと、これをコンサートで聴いたのはいつだったか、と思った。まったく思い出せないくらい昔のことだ。
 たぶん、聴いたとしたら、セミプロ・オケの演奏とか、東京音楽祭とかで、どこかの広場で演奏される家族向けのフリーコンサートとか、そんなところで触れたのが最後じゃないかと思う。そう、この名曲は意外とコンサートで取り上げられることは少ない。著名な交響楽団の定期演奏会などでもプログラム入りする機会はほとんどないはずだ。そういう特異な作品だ。しかし、この 作品にはそれぞれ一家言、といえばオーバーだか、人それぞれ私的なアプローチの言葉をもっているのではないかと思う。そんなふうに親しまれている作品だから。
 神童に嫉妬する宮廷音楽家サリエリの視点からモーツァルトを描いた映画『アマデウス』のなかで、サリエリは思わず口ずさむ曲のひとつに、「アイネ~」があった。というふうに、クラシック・ファン以外を広く集客したいと考える商業映画は、なるべく親しまれている曲の注入をはかるわけで、「アイネ~」はそのように取り上げられるポピュラー作品であるということだ。むろん実際のサリエリがそんなふうに口ずさんだという証言はない。
 カメラータ・ド・ローザンヌは地元では青少年向けのコンサートなどを積極的に行なっているようで、「アイネ~」はプログラムに欠かせない作品だろう。当夜のコンサートでも、いかにも手馴れ熟知した演奏という感じで明朗に響きわたった。
 しかし、筆者はこのセレナーデは意外な難曲だと思っている。
 モーツァルトの澄明な響き、快活な明朗さというのは少々、厚みのあるオブラートであって、31歳、生命力が枯渇しはじめた時期で、父レオポルトを失い、『ドン・ジョヴァンニ』作曲中の緊張のなかで自ら癒しを求めたように書かれたセレナーデであった。どこの演奏であったか、筆者にもっとも響いてきた「アイネ~」は澄明な響きのすき間からこぼれ出てくる〈憂愁〉ともいえる哀調の陰の徘徊であった。その〈憂愁〉の静謐さの記憶が、カメラータの演奏を聴きながら蘇ってきた。カメラータの演奏には、その〈憂愁〉、あのモーツァルトの横顔にあるような気配はまったくなかった。
 帰宅後、モーツァルトのCD群を抜き出しながら収録曲を点検する。「アイネ~」はなかった。たぶん、「名曲集」とかそういう企画モノには収録されているのだろうが・・・。
 ずいぶん昔に筆者を捉えた「アイネ~」の〈憂愁〉はレコード時代のLPのなかにあった。いまは誰の演奏家か思い出せない。でも、そのLPで筆者の「アイネ~」像は刻印された。
 小林秀雄は彼の「モーツァルト」をト短調交響曲を主調音にして描きだしていたが、筆者にとってのモーツァルトの音楽は「アイネ~」のなかから立ち上ってくる、やるせないような〈憂愁〉なのだ。それは合奏する演奏家たちの哲学といっては大げさかもしれないが、一度、蹉跌でもあじわったものでもない限りでてこない音、その集積だと思う。
 かつて筆者をわしづかみにした〈憂愁〉の鎖を投げてきた演奏家たち、それは1970年以前の録音であったはずだから、おそらく例外なく演奏家たちはみな大戦下の欧州のどこかで、それぞれ近い人の死に遭遇してきた世代だ。あるいは自ら引き金を引いたかも知れない、そんな時代を生き延びた人たちの演奏であったはずだ。
 演奏思想に経験則はむろんないが、でも時代に捉えられてしまう音というものがある。嫌味でいうのではないが、カメラータ面々の音は、きわめて優秀で才能にあふれた人たちの自信にあふれたものであった。「アイネ~」も合奏団のアットホームな暖かさのなかで充足していたのだ。でも、それは筆者の感興にはならなかった。(7月7日、東京文化会館小ホールで)

11日の築地・浜離宮朝日ホールでの演奏会は、チャイコフスキー・プロといってよい内容であったが、前半の小曲集はカメラータのメンバーが自己紹介的にソロを取るといったサロン的雰囲気に終始するもので、それぞれの実力のほどを知らしめる効用は確かにあったが批評を乞う、といったものではなく、いかにも弾きなれた作品を選んでいるという印象であった。そして後半の「フィレンツェの思い出 作品70」の弦楽合奏版の演奏となった。
 チャイコフスキーに限らず帝政ロシア時代の知識人たちは陽光を求めるようにイタリア詣でを繰り返していた。革命前の知識層のほとんどは上層階級から出ている。遠くイタリアまで旅をする余裕があった。宗教的な類縁地ギリシャのエーゲ海がオスマントルコの勢力図のなかにあってみれば、ロシア知識人はカトリック本山のイタリアに足を延ばさざる得なかったのだろうか? 革命後も、たとえば映画監督のタルコフスキーは晩年、イタリアにアフリカからの南風を感得しようとした。そういうロシア知識人特有のイタリア観を理解しないと、チャイコフスキーの同曲も良くできた作品、ケレン味ない良質な演奏というしかないだろう。

作曲家マスカーニ、1945年8月の死

作曲家マスカーニ、1945年8月の死

 映画『第三の男』再考のなかで新ウィーン楽派の作曲家アントン・ウェーベルンの不条理な死について触れた。1945年9月、戦火で荒廃したウィーンの夜に起きた悲劇であったが、その1ヶ月前、ローマ市街の片隅で廃残の身を憂いて自ら死期を早めた作曲家がいたことを思い出した。
 19世紀後半、イタリア歌劇史に新たな傑作を加えたピエトロ・マスカーニの憔悴の死であった。ムッソリーニを独裁者の椅子から引きづり降ろしたイタリア民衆は、そのファシスト政権の擁護者たち、その利権にありついた者たち、不当な地位に上り詰めた者たちを容赦しなかった。
マスカニーニ
 イタリア音楽界にあってスカラ座の監督に就任し、そこで指揮を執るのは最高の栄誉だ。マスカーニはムッソリーニに取り入って、その座を簒奪しようとした。しかし、時代はトスカニーニの時代である。ムッソリーニといえど、それはできない相談だった。マスカーニのそうした行動は友としてのトスカニーニを失い。楽界で孤立を深めるも人気歌劇『カヴァレリア・ルスカティカーナ』の作曲家、そして指揮者として、名声は維持され収入も大きかった。しかし、音楽家マスカーニにとっては、じっさいむなしいものであったはずだ。
 27歳の若さにして『カヴァレリア~』を書き、作曲家の一生を決定的に縛り付けることとなる成功を収める。その後、15曲の歌劇の他、多くの作品を世に送り出すも、聴衆は『カヴァレリア~』しか求めないというジレンマのなかで過ごしてゆくことになる。音楽家としての焦燥が旧友トスカニーニの毅然とした態度をみらなうことなく、ムッソリーニにへつらおうとしたのだろう。
 
 時代の狂熱は民衆から冷静さを奪う。マスカーニに重大な犯罪行為があったわけではない。しかし、1945年という年は大戦で大きな人的被害を体験した国では戦勝国、敗戦国を問わず、多くの罪なき人たちが戦争を生き延びた後に犠牲となった。イタリアが連合軍に無条件降伏した後、マスカーニは全財産を奪われた。70歳を超えた老音楽家にとって、それは死刑に等しいいものだった。
 27歳の歌劇『カヴァレリア~』に正直、芸術的感銘度は低い。あの有名な「間奏曲」にしても、美しい哀切の旋律として後世に遺贈されてゆくだろうが、19世紀後期の音楽としてみればすこぶる伝統的な作法で書かれたもので、音楽史に特筆されるような作品でもない。しかし、美しい、確かに美しい。
 政治の激変のなかで財産を失う前、指揮者として最後にタクトを振ったのも『カヴァレリア~』であったというマスカーニの晩年。名声に包まれつつ、芸術家のプライドは依然として満たされない生活。ファシズムの実相を検証することなく接近してしまったマスカーニの心の闇を思う。自ら振った最後の「間奏曲」、それは若い日の恋の甘美、哀切、思いだけでは恋する人の心を動かせない焦燥、そんな沈痛な思いも旋律の揺らぎとなり、抑制と制御の旋律となって聴くものの胸をときにしめつける。出口を求めてさまようような恋の旋律である。若い芸術家にしか書けない真実がそこにある。名声を得た後では、技術として書くことができるとしても、名もなき青春の悲痛の真実は消える。天才なら書けることも、マスカーニにはそれはもうできない。無名であった当事のマスカーニだから書けた旋律であった。
 その美しい「間奏曲」にイタリアの詩人マンツォーニが詩篇を重ねる。それが『マスカーニのアヴェ・マリア』。孤老の作曲家の慰めもまた「間奏曲」、その一篇であったように思う。
 死から11年後、マスカーニの名誉は回復されるが、それは彼の伝記の余禄にすぎない。写真は、『カヴァレリア~』成功に満腔の自信を抱いていた若き日の肖像である。

水谷川優子と旧ソ連邦圏の現代チェロ曲     ~つづき「水谷川優子の「鏡の中の鏡」

水谷川優子と旧ソ連邦圏の現代チェロ曲
    ~つづき「水谷川優子の「鏡の中の鏡」

 水谷川優子さんの名演「鏡の中の鏡」について若い友人に話をしたら、すぐ「ミヒャエル・エンデ」と関係あるのと返された。なるほど、ドイツの作家にして詩人エンデの作品のほうが日本でははるかに有名であるのは仕方がない。
 エンデがそれを発表したのは1984年で、アルヴォ・ベルトのチェロ曲のそれが書かれたのは1978年だが西側にその名曲の存在がしられるようになったのは1984年に最初の作品集がアルバムになってからで、まったく無関係である。
 多作家ベルトの作品が録音されたのは、50歳を迎えてからで、その発見もソ連の音楽界ではなく西ドイツののコンテポラリー・ジャズに重点をおいたECMであった。
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 水谷川さんのリサイタルではベルトの作品はもう一曲、前半の冒頭に演奏された「フラトレス」があった。旧約聖書の詩篇のひとつに取材した小曲で、「鏡の中の鏡」の前年に書かれている。クレムリンの支配下にあったエストニアにあって、宗教への傾斜を強めた作曲家が官製楽壇から無視されるのは当然だ。ベルトは、西欧音楽の基底をなす古典宗教曲へ回帰してみる必要があると意識的に考えたとき、それはクレムリンの文化政策を否定することでもあったわけだ。
 そうしたベルトの作品を前と後ろにはさんで演奏されたのが起伏の激しいドラマチックなアルフレード・シュニトケの作品「チェロソナタ第1番」。これも初聴の曲でとても読解への糸口に立てない難解さに満ちた作品で、水谷川さんにとってみれば、チェロの現代話法の可能性を色彩豊かに象徴する作品として選曲したものかも知れない。
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このアルフレード・シュニトケ(1934~1998)という作曲家もソ連邦下の西部地域に位置するヴォルガ・ドイツ人自治共和国にユダヤ系ドイツ人として生をうけた。1961年にモスクワ音楽院を卒業、同校で講師を務めるも、数年で辞め、映画音楽などを書いて糊口をしのいでいたらしい。ソ連下の作曲家にとって、この映画音楽を関わると言うことは、とても大きな意味をもつ。
 ロシア革命期、爆発的に革命のBGMとなったロシア・アヴァンギャルドの芸術革命であったが、スターリン独裁の開始とともに逼塞する。多くの芸術家が方向転換するか、政治犯として処刑されるか、シベリア送りとなるか、あるいは亡命するかという弾圧の季節を迎える。その時、少なくない作曲家が自分の良心にしたがって、スターリンの文化政策を甘受する道を断つけれど、映画という表現手段の融合のなかで音楽を書き、効果的音響のなかに実験性を保持したのだった。シュニトケも一時、そうしていた。
 ソ連時代の名匠タルコフスキー監督の映画における音楽はそうした作曲家たちの働きがあったのだ。
 現在、バルト三国ばかりでなく、旧ソ連圏で作品を遺した作曲家の存在が、その豊穣な作品とともにロシアばかりでなく、若い演奏家の手によって蘇生している。
 先年、スペインの若きトランペット奏者のアルバムの解説を書いたとき、数曲、まったく存在を知らなかった小品があって、それらがみな旧ソ連邦に生きた作曲家のものであった。そこで勉強させられたのだが、今後、多くの作品がスラブの大地から発見されてゆくだろういう嬉しい予感が大いにある。水谷川さんの世代がそのレパートリーを拡張していくとき、スラブの大地に鍬を入れてゆくのだろう。

水谷川優子の「鏡の中の鏡」

水谷川優子の「鏡の中の鏡」
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 日本とドイツに拠点をおいて活動するいま充実の季節を迎えているチェリスト水谷川優子さん。昨夜、私にとって3度目か4度目になるリサイタルを聴く。プログラムは、「バッハ ~響きの鏡像」というもので、前半をバッハの無伴奏チェロ組曲第2、第3番と、現在、イタリアで活動をつづける日本人作曲家・杉山洋一さんの新作「ベルリンのコラール『目覚めよろ呼ぶ声す」によるチェロ独奏のための」であった。しかし、昨夜は私にとっては後半の3曲にいたく感じ入ってしまった。特に最後の曲アルヴォ・ベルト「鏡の中の鏡」を。曲の途中で、このまま永遠にリフレインして欲しい、しばらく終わって欲しくない、この音のなかで瞑想していたいと思わせる演奏だった。たぶん、これを聴かなければ、これを書いてやしない。
 バルト三国のひとつエストニア共和国の作曲家アルヴォ・ベルトが1978年に発表した10分に満たない小曲だが、簡素ゆえの清涼感のただよい、それは尊厳なただずまいまである。ピアノの分散和音の流れにたゆたうようにチェロの弦が行きつ戻りつしながら限定した音数のなかで静寂を誘う。それは敬虔な宗教曲の味わいすらあった。フォーレの声楽曲にこれに似た感想をもった作品がったことなど思いだしながら、水谷川さんの弦に誘われた。水谷川さん自身、とても慈しんで弾いている、と思った。そんな掌の温かさに満ちた演奏だったのだ。
 場所は東京文化会館の小ホールである。長年の共演者・黒田亜樹さんのピアノとの呼吸もピッタリだったし、ホールの大きさ残響速度も見事に融和していたのだろう。名演だと思った。
 作曲家はこの作品を、いまだ母国がソ連支配下にあった時代にこれを書いている。多くの宗教曲を書いている現代作曲家だ。それゆえ、作曲家は当時のソ連楽壇の外縁での活動しかゆるされなかった。したがって、当時の国営レーベル・メロディメカに録音をゆるされず、西側にしられることなく“地方”楽壇で、その個性的な世界を育んでいた。多作家であった。
 現在、この「鏡の中の鏡」を前走者としてアルヴォ・ベルトの作品が少しづつだが、世界にしられるようになっている。
 昨夜、「鏡の中の鏡」から私のような印象をもった聴衆は多かったのではあるまいか? 
 

原田光子さんのクララ・シューマン  ~清新な才能にめぐり合う悦び

原田光子さんのクララ・シューマン
 ~清新な才能にめぐり合う悦び

 日常、わたしは最低3冊の本をほぼ同時進行で読んでいる。うち1冊は必ず文庫か新書に決めている。電車のつり革に片手を預けて読むためである。もう一冊は、当面の仕事に必要なもので、文庫や新書がそれの関連本だったりする。そして、もう一冊は積読になっていたもの、あるいは関心が薄いが書評などで世評の高いもので、これには年二回の芥川賞や直木賞作品あたりも入っている。あるいは、たまさか観た映画に関心して、その原作を読みたくなるという感じだ。
 その最後のわたしにとっては暇読といった領域の読書時間を充実させてくれた本として、原田光子さんの『真実なる女性 クララ・シューマン』があった。長いこと書棚に放置されてあったものだが、クララの半生を描いた劇映画三作を観なおす機会があって、それに触れる文章を書く前に読んだ。その文章は仕事に関係なく備忘録として書いたようなものだから、原田さんの著書も暇読のカテゴリーに入っていた。

 A5判2段組277ページだからなかなかの長編である。読みはじめて数時間、これはちょっと襟を正して読む必要がある、と思った。少し、読み進むうちに実に丹念な仕事であることに気がついた。構成も巨視的にみて挿話の面白さである章を膨らますという俗性もなく、淡々として淀みない。かつ並みのクラシック・ファンを読者想定した、その目線の位置を維持しながら、19世紀後半のピアノ演奏芸術を文字通り牽引した女性ピアニストの生涯を誕生から死まで誠実に追っていこうという動機づけが実にしっかりしているものであることが読み取れた。
原田光子

 クララの生涯は奇跡的な充実に満たされたものである。演奏家として、ロベルト・シューマンの恋人として妻として、彼との結婚生活15年ほどのあいだにもうけた8人の子の母として。シューマンが46歳で早世した後は、精神障害をおった子の生育も含めて、家計を維持するため欧州諸国を巡業してまわるのだ。しかも、彼女は当時、演奏される機会もなかった時代を先取りした作品をひろくしらしめるという興行的には敬遠されるプログラムを組みながら遂行したのだった。そこに亡夫シューマンの遺作を継承するという強靭な意志も働いていた。
 家計が苦しくなることも再三あった。生前のシューマンに弟子入りした無名のブラームスとの友情は有名な話だ。功なり遂げたブラームスが再三、経済的な援助をクララのプライドを傷つけないように申し出るのだが、それも鄭重に拒絶しながら奮闘する老いたクララまで描き出す。そのブラームスとの交流を紐解くなかで、巷間、いまだに語られるブラームスとの恋愛という説も、反証という形で語るのではなく、その友情の実質をクララの生涯を語る叙述に埋め込むとことで、ゆたかで誠実な交友関係を賞賛してゆくのだ。まったく凛とした気配に満ちた著作である。
 
 原田さんのこの評伝は昭和16年の秋に出版されたものである。30歳の出版であった。
 そして、その文章は現在でも行間に涼やかな高原の風が吹きぬけているような若さがある。少しも古びていないことに驚く。
 『クララ』の前年に『愛国の音楽者パデレフスキー』を出し、それが処女作である。デビュー以来、ピアニスト、、ピアノ曲に大きな功績を残した作曲家の評伝を遺した。原田さん自身、ピアノ演奏家を目指して大正時代にドイツに留学した人だ。その留学生活でドイツ語を習得、帰国後、自由学園で英語も学んでいる。そんな原田は20代の後半で音楽批評家として活動をはじめ、啓蒙的な時評に見向きもせずに、最初から明確な意思をもってピアノ芸術に関する著作を上梓した。『クララ』も当時、日本にあって入手でき資料を丹念に読み漁り、自ら訳出しながら書いている。晦渋的な修飾もなく文章はあくまで平易で風通しが良い。すでに80年近く経った著作でありながら、原著の若い人でもそのまま読めるということは大変なことだ。これは、おそらく原田さんより20歳ほど年長の村岡花子さんが名訳した『赤毛のアン』がそのまま読めるような成果に等しい。
 しかし、原田さんの仕事は、戦後、幾たびか再刊されたが現在はみな絶版になっているようだ。彼女が『クララ』の後、書いたショパンやリストなどは、その後、多くの評伝などが出て乗り越えられたと思う。しかし、『クララ』に関しては本書が群を抜いた出来映えだろう。
 原田さんの仕事は3年余りに過ぎなかった。それも昭和10年代の後半、もっとも日本が混迷を深めていた時代の所産だ。食べるものも乏しい時期での心労がたたって終戦の翌年5月に死去した。享年36歳。まさに夭折であった。
 30に満たない原田さんは、老成したクララの後半生にもゆったり寄り添いながら人生の秋を描く。原田さんは結婚されているが、間もなく離婚し、お子さんもなかったようだ。クララを描くペンは若々しいが、しかし、老いを見つめる冷淡な観察眼もしっかりあるし、社会活動におけるクララの不自由な立ち位置もつきあはなしてしっかり書いている。ピアノ演奏の技術をもった原田さんにとって、より深く書きたいと思う場面も、自身の批評として書くのではなく、同時代の批評を引用することで客観性を与えている。

 本書を半分ほど読み進めた頃から、わたしは一日一章しか読み進まないことにした。愛すべき読書はゆったりと終りは遠いほうがいい。そんな思いを抱かせる本というのは実に少ない。そういう稀有な書とであった悦びとして、ここに記す。是非、再刊して欲しい一書である。 (2016年4月記)

*生前の原田さんの面影を伝える文章として故野村光一さんが書かれたものがある。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sound78rpm2/5020551.html

ドミニカ共和国   メレンゲの祭典に国境を越える参加

中米・ドミニカ共和国
  メレンゲの祭典に国境を越える参加

 女子バレーの世界大会をテレビ観戦していた。バレーの試合を観るのは好きだけど、日本国内で開かれる国際大会はあまりにも日本びいきでテレビ局が盛んにそれを煽っているように思う。好ましい愛国主義はいいが、度が過ぎれば排他主義だ。
 その試合はドミニカ共和国のナショナル・チームとの熱戦だった。この大会に出場した国のなかで距離的にも精神的にももっとも遠い国だろう。だから、試合開始前にでもドミニカ共和国について少しぐらい視聴者に情報を与えるべきだと思った。
 いま筆者は、ドミニカ「共和国」と書いている。理由は、ドミニカと書くと、筆者の感覚でいうと同じカリブ海の島国ドミニカ国を指すからだ。英連邦の「共和国」よりさらに小さな国だ。昔、広島東洋カープに「共和国」の選手が入団した。そのときの記者会見だったか? 当の選手のテーブルの前に「ドミニカ国」の国旗がすえられたのだ。よく「ドミニカ国」の国旗があったと関心する一方、これは選手にとっては屈辱的なことだろう。その選手が憤慨して席を立ったとしても、それを批判することはできない。批判されるべきは球団だろうし、その場を設営した企業だろう。そう、日本ではことほど左様にドミニカについては無知である。
 無知だけでは済まない。かつて、戦後日本は中国大陸から引き上げてきた家もなければ仕事もない日本人の集団をろくな調査もせず、やっかい払いと「共和国」に移民させ、飢餓に陥れたことがあった。「共和国」についてなにもしらず、当時の大統領が東郷元帥の胸像を執務室に飾るほどの親日家だというようなうわさぐらいで日本政府は移民計画を進行させた結果の悲劇だった。その大統領が国内でどのような立場にあるのか、政局もまったく無視したのだ。
 バレーの、そう「共和国」選手の頑張りをテレビ観戦しながら、その試合会場から横溢する“日本”の過剰に辟易しなら、そんなことをつらつらと思い出していた。

 その頃、8月下旬だが、「共和国」の首都サントドミンゴでは「フェスティバル・デル・メレンゲ」が開催され、9月25、26日には同国のリゾート地プエルト・プラタで延べ30アーティストが参加して開かれることをしった。

 日本でメレンゲ、といえば洋菓子レシピとなるだろうが、ラテン音楽、特にカリブ地域の音楽を少し知る者なら濃密なリズムで構成されるメレンゲの音がたちまち立ち上ってくるはずだ。
 メレンゲはドミニカ共和国(以下、依怙地にならずドミニカと書く)の音楽の定番である。バチャータを加えて、ドミニカの車の両輪にあるような二大音楽だ。
 白人系及びメスティーソ層から多くの才能が出て人気を獲得しているバチャータより、同国の人口を反映してアフロ系音楽から発生したメレンゲが民族音楽的な位置に立っているのは当然の成り行きだ。
 同フェスティバルは同国観光省と砂糖キビから醸造される酒ロンのメーカー、ブルガル社とが共催とのことだが、同フェステバルの主旨を発表する記者会見の席上で、わざわざ「会場となるプエルト・プラタはブルガルの故郷だ。ドミニカ生まれのロンは優れた力をもつドミニカ音楽のように世界50カ国以上に輸出され愛好されている」とリップサービスも。
 メレンゲはまずハイチの黒人奴隷のあいだに生まれたメリングエから発祥した。砂糖黍畑で過酷な労働を強いられたアフリカ人たちのあいだの夜の慰安となった音楽から発生し、ドミニカに浸透して同じようにアフリカ系住民のなかで育まれメレンゲとなった。

 フェステバルの出演者選び、構成はメレンゲのビックバンドを率いるディオニ・フェルナンデスが、“メレンゲの王様”との偉名をもつホセイート・マテオらの協力を得て充実したステージを作った。

 ドミニカからカリブ周辺諸国に拡散したメレンゲは現在、アメリカへ流入しやいすということもあるが米国自治領プエルトリコのアーティスト、つまりオルガ・タニョン、エルビン・コステロたちの土俗的熱気がぬけた都市音楽となったメレンゲが国際市場に出ていて、日本に入ってくるメレンゲの主流でもある。しかし、ドミニカのより濃厚なメレンゲも聴かれるべきだろう。
 同フェスティバルにメレンゲ中興の祖、あるいは“ドミニカの声”とまでいわれたジョニー・ベンチューラの名がないのが寂しい。1990年代には同国の国会議員をつとめ、1998年から2002年まで首都サント・ドミンゴ市長を務めてステージから遠ざかることになったが、思えば今年75歳。すでに一線から退いているのだろう。余談だが、ベンチューラが所 属したドミニカ革命党(PRD)は社会主義インターに所属し、歌手ではなく政治家として日本訪問も実現している。
 ベンチューラ
同フェスティバルはそんなベンチューラのメレンゲを子守唄にして育った世代が大挙、出演した。  

バルトーク・ベラの晩年  ~没後70周年を迎え

バルトーク・ベラの晩年  ~没後70周年を迎え
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 2年前の3月下旬、季節外れの大雪に見舞われたブタペストに滞在していた。
 投宿したホテルの近くに、ネオルネサンス様式のブラペスト歌劇場の威容があった。ドナウ河両岸の観光スポットに向かう道すがら歌劇場の前を幾度も行きつ戻りつした。シーズンオフの劇場は重い扉に閉ざされたままだ。その扉の横に劇場内を見学できる小さな扉があって、スーベニールのお店に直面するという配置だ。
 歴史を刻みこむ重々しい回廊の奥からバルトーク・ベラの音は立ち上ってこない。耳を澄ませば、リストのピアノ、マーラーの歌曲が聴こえてくるような気配はあるけれど、バルトークはそこにない。彼の盟友ゾルタン・コダイの音も存在しない。バルトークの歌劇『青髭公の城』の初演の場であったと知っても、劇場ファサードの扉はバルトークを閉ざすばかりだ。

 バルトークの音楽は劇場の近くを流れるドナウ河が市街地に入る手前の村落、流れる先の肥沃な大地で民衆が育てた民俗音楽の泉から水を引き滋養としたものだ。そう、それに間違いないのだが、バルトークがマジャールの自然に分け入り採譜の旅に汗を流す前に、ポルトガルの旅の途上、ジブラタル海峡を越えてアフリカに渡り濃密なアラビア音楽の音色に浸っている。
 バルトークはその音楽に魅了される。おそらくウードを中心にしたマグレブのアンサンブルだろう。そして一日5回、中空を流れるアザーンの祈りの旋律にも耳を澄ましたことだろ。
 西欧のアカデミズムが育てた音楽とまったく異質な響きとリズムに霊感を与えられたということだ。
 バルトークは後年、回顧する。
 「私はかつて知ることのなかった生命の燃焼による昂揚感に充たされると、広く散逸し、当時何の脈絡もないように見えていた土着の歌を関連づけて編み上げた音楽分布図を、さまざまに思い描いていたのだ」(*)
 
 
 ハンガリー民謡の採譜がバルトーク芸術の母胎、温床、という形容は繰り返しきかされてきたものだが、作曲家をしてそれを駆り立てる動機を与えたのが北アフリカの大地にあったことは不勉強かも知れないが、見落としてきた。バルトークは最初の短いアフリカ行の後、再度、旅装を整え採譜して回るのだ。
 バルトークの盟友コダイは、ハンガリーの土俗音楽の蒐集に充足したが、バルトークは違った。最初から国境を越える好奇心の赴くままに歩を進めた。ハンガリーをベースキャンプに国境をまたぐ。

 そんな作曲家が死んで70年を迎えた今年、各地の演奏会場で例年になくプログラムにのることになった。けれどバルトーク・プロだけの演奏会はない。モーツァルトやショパンのようには客が呼べないという実益性からだろう。
 しかし、晩年の傑作であり難曲の『管弦楽のための協奏曲』の演奏回数が目立つ。しかもアマチュアのオケが取り上げているのが目立つ。日本の音楽レベルは高い。アマでも難曲に挑戦する力がある。

 バルトークの最晩年は米国ニューヨークにあり、そこで客死した。
 遺言でソ連の影響下にあるような祖国に埋葬されたくないと記した。『管弦楽のための協奏曲』の一部にソ連のショスタコーヴッチの交響曲『レニングラード』の一節が批判的、いや揶揄的に登場する。そのスコアは瑕疵(かし)だ。芸術音楽としてみれば不用だが、作曲家の民族性、反骨がそれを記した。20世紀前半、国際政治に翻弄された小国に生きた芸術家の苦悩が没後70周年の今年、蘇生するのだった。 

 バルトークが米国に事実上、亡命生活を求めた際、携行したトランクのひとつが紛失した。そのなかに、バルトーク自身が採譜した膨大なルーマニア民謡のコレクション、手稿が失われた。しかし、多くのトランクの一つにもルーマニア民謡のコレクションがあったらしく、それの研究を米国ではじめている。もともと、米国でのあらたな生活を決意させた要因のひとつに、ハーバード大学で収蔵され、適任者がいないまま放置されていた中部ヨーロッパの民族音楽コレクションをコロンビア大学に貸し出し、そのコロンビア大学からの研究費用をバルトークの生活に役立てるという具体案があったことだ。
 バルトークは民族音楽にはじまり、終わった特異な作曲家であった。
  *アガサ・ファルセット著『バルトーク晩年の悲劇』(野水瑞穂・訳/みすず書房刊・1973)

ラグタイムとショパン

ラグタイムとショパン 
 ジョプリン

 昨夜もショパンを聴いてきた。
 アレクセイ・ゴルラッチ、ウクライナはキエフ出身の22歳のショパン。剛毅かつ自由奔放なショパンだった。“憂国の士”でもあったショパンの憤激というものを聴かされた感じだ。

 今年(2012)は“ピアノの詩人”フレデリック・ショパンの生誕200周年ということで年初から全国各地のホールの壁にショパンのポロネーズやマズルカが染み込むぐらい果断なく演奏された。たぶんクリスマス前後にもう一度、ショパンを聴く。ショパンに始まり、そして終わるのが私の2010年のコンサート行脚である。
 というわけで今年はショパンの生涯、音楽について考えることがやたら多かった。CDも聴きくらべ、あらためてウラディーミル・アシュケナージの解釈に共感をおぼえたことを記しておこう。そのアシュケナージのショパンはソヴィエトを去り、亡命してから録音されたものだった。亡命と同時に、クレムリンは彼の国内における輝かしい公式記録いっさいを抹殺する。そんなピアニストに、ショパンの望郷を重ねるのは安易かもしれない。アシュケナージという姓はなんと彼を象徴していることだろう。ディアスポラのユダヤ人、なかでも東ヨーロッパに定住した人たち、その子孫を意味する言葉でもあるからだ。
 しかし、アシュケナージのピアノにはそうした個人的事情を超越する普遍的な深さがあった。憂愁は思索となって政治の鎖は溶解する。それはロシア革命直後に亡国の人となって創作の泉を荒れさせたラフマニノフの憂愁とは別のものだった。近年、指揮者としての表現活動に傾注しているアシュケナージであることが、彼のピアノのファンとしては少し残念が気がする。

 そんなことをつらつら想いだしている時、ふとした狭間を縫ってラグタイムの軽快な音色が聴こえてきた。
 むろんスコット・ジョップリンのアップライトのピアノだ。1868年、米国テキサス州の農園に繋ぎとめられた奴隷農夫の子として生まれた刻苦の作曲家。10代から酒場で、酔客の心もとないダンスを活気づける職人として稼ぎはじめた。でも、そんな場末のピアノ弾きで終わろうとは思っていない。野心は青年のものだ。本格的に音楽を勉強したいと20代の半ばに黒人専門の大学の門を叩く。そこでショパンと出会っている。むろん、モーツァルトもバッハも知り、学んだ。
 おそらく、ジョップリンは、ショパンの憂愁を、己の体内に宿る血と共鳴させながら、よく表現しえた音楽家だと思う。彼は祖先の地も知らない。奴隷商人によって、家系は歴史の闇に掻き消された。その哀しみを、創作の手段をもった才能がどこかに痕跡を留めようとするのは当然だろう。彼にとって、ピアノは生き延びる手段だったが、それをただの道具にはしなかった。天賦の才能は、やがて時代を先取りするラグタイムを次々と書き一世を風靡する。

 ラグタイムは、シンコペーションと呼ばれるリズム構成の面白さにある。ミニマム形式のなかに私はふと西アフリカの太鼓のリズムを連想する。ラテンアメリカのリズムの豊かさは西アフリカに起源をもつといわれるが、ラグタイムもそうしたリズムの援用だと思う。けれどたくさん書かれたラグタイムのなかで、彼の作品が依然、聴かれているのは、ある種の憂愁だと思う。
 ジョップリンがいくらショパンやモーツァルトを時代の感性に沿って弾いたところで、白人は黙殺した。黒人音楽家の活動の場は限られていた。しかし、ジョップリンにはピアニストとして、作曲家としての自負があった。オペラも書き上演の機会に恵まれた最初の黒人作曲家でもあった。しかし、彼の皮膚は黒かった。
 ……そう聴こえるのだ。彼のラグタイムには当時の最良の黒人演奏家たちのいらだちと悲哀が。リズムの虚飾の内に、その奥深いところに憂愁が潜んでいる。彼ほど安酒場で貧しい者たちの悲哀を若くしてみてきた音楽家は珍しい。彼は貧しさゆえ、黒人なるがゆえの苦悩と貧困を知り尽くしている。

 昔、『ラグタイム』という映画があった。後に、『アマデウス』でモーツァルトとサリエリを描いたミロシュ・フォアマンが監督した秀作だ。彼もまた1968年の、“プラハの春”の民主化運動がソ連の戦車によって圧殺されたのをきっかけとして米国に亡命した才能だった。『ラグタイム』はジョップリンを主人公にしたものではなかったが、ラグタイムの弾くのはジョップリンであった。記憶が正しければ、ジョップリンも助演級の役柄を得て登場し、バッハ? モーツァルト? を弾く場面があった。しかし、その卓抜なパッセージも自重され、ラグタイムのシンコペーションに切り替わるのだった。ショパンも弾いたはずだ。 (2010年12月記)
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上野清士

Author:上野清士
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