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花もつ女たち №74 キキ(アリス・プラン) (モデル*フランス*1901~1953)

花もつ女たち №74
 キキ(アリス・プラン) (モデル*フランス*1901~1953)
キキネットで「キキ」と検索したら『魔女の宅急便』の主人公キキばかりが出てきた。ご時勢だが、でも、原作者の角野栄子さんは、たぶん“モンパルナスの恋人”キキのことを知っていて長ほうきにまたがって空飛ぶ少女に命名したのだと思う。
 キキとはギリシャ語でアリスとなるから、それで芸名としたのだろう。
 ジブリの映画でキキが活躍する海沿いの小さな町はクロアチアのアドリア海に面した港町らしいが、あの爽やかな風が流れる沿岸沿いにはああいう町がほんとうに点在している。ガサツな広告看板もネオンサインもなく、乱暴な音楽の氾濫もなく、ゆったりと日を浴びているのだ。思えばクロアチアの沿岸を南に下っていけばギリシャ、バルカン半島の地政の錯綜はユーゴスラビア時代にはギリシャ文化を継承するマケドニアを包み込んでいた。とすれば魔女キキの名は幽冥界に消える家系をたどらなくても第一次大戦後の混迷のなかで花開いた野のアリスであったかも知れない。宮崎駿監督は、『紅の豚』でもクロアチアの港をモデルにしているわけだが、もしかしたら20世紀の“悲劇”の震源をバルカン半島に求めているのかも知れないと思ったりする。

 先日、新作映画『サラエヴォの銃声』について書いていたら、必然的にアドリア沿岸の町から車でボスニア入りしたことが思い出され、海沿いの町の瀟洒な佇まいが甦り、ついでに『魔女の宅急便』でキキが空から眺望する港町を連想し、しばらく『花もつ女たち』を書いていないから血と肉をもったモンパルナスのキキについて書こうと思いついた。
 本連載は、活字として発表している旧稿と、こうして思いつきのように書いているネット用書下ろしの2本立てで成立している。そういえば、筆者がモンパルナスをはじめて散策したのは、クロアチア帰りで乗り換えのため中継地としたパリでの時間をつぶすための“ブラタモリ”ならぬ“ブラキヨシ”の佳き日であった。
 字数の制限のないネット書下ろしではついつい余計なことを書いてしまう。

 パリのキキもスクリーンに幾度も登場している。魔女のキキちゃんより、その点、ずっと先輩でご本人主演の映画もシュールレアリストのマン・レイの実験的な作3作に主演している。たぶん、マン・レイはキキがもっと長く生活していた男だったから、ノーギャラで出演していたのだろう。キキ没後は、モンパルナスを描いた映画に幾度もそれぞれの女優さんの解釈で登場している。最近も小栗康平監督の『FOUJITA』にも主人公・藤田嗣治のモデルとして重要な役どころを得て登場していた。
 古今、もっとも多く絵画や彫刻でモデル化された実在の女性は誰だろうと思ったりする。それは極めて困難なことだろうが、さしあたりクレオパトラとかジャンヌ・ダルクあたりを思い出すけど、そのモデルたちの実像がきちんとしられるようになってからの時代になると、実に散漫な統計しか手にできない。モンパルナスの有名なモデルといえなキキ以前では、おそらくユトリロの母シュザンヌ・バラドンだろう。バラドンのことはすでに本連載で書いた。筆者はバラドンをモデルより画家として評価している。日本でもユトリロ、バラドン展と母子作品展が開催されているぐらい知られている。けれど、キキはモデルとして実にさまざまな画家、つまりさまざな様式のなかで解釈されてきた、という点では稀有な存在であった。ユトリロ、モジリアニ、スーティン、藤田嗣治、キスリング、マン・レイ……いまでは美術史の参照項目のなかに埋もれてしまった画家や彫刻家たちのモデルとなっていた。
 けれど、キキが職能的にモデルとして生きていたこといえば、そうは言い切れない。ある意味、女性〈性〉の発現として描かれていたようにも思う。彼女には天性の審美眼があったと思う。才能を、個性的な才能を見抜き、解釈する力が自然がそなわっていたと思う。彼女に認められた芸術家は男として、彼女自身が愛情を注げる対称であったに違いない。だから、芸術家たちの要請のなかで、キキは主題のなかに愛の発現として没入してゆくことができた。そういうことは詩的な散文ともいえる自伝からもうかがうことができる。
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花もつ女たち №.73 小倉遊亀(日本画家*1895~2000)

小倉遊亀 (画家*1895~2000)
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 20世紀という激動の時代、年号でいえば明治、大正、昭和、そして平成の世までまるごと生きた画家。104歳の現役の画家としてパリで回顧展を開き賞賛された才能。老いることに抵抗するのではなく行く川の流れをわが身にみるように眺望しながら生ききったひと。
 代表作として知られる幾多の人物像などを差し置き、101歳の秋に仕上げた作品「マンゴウ」を取り上げるのは、生涯点数も多く、たぐいまれな軌跡を描いた閨秀(けいしゅう)画家を象徴するには不適当だという声も出るだろう。それを承知での引用だ。その理由は、創作にかける表現欲求を生涯、枯渇させることなく筆をとりつづけた画家の宿 命というものは、この絵に明晰に留められているように思うからだ。この絵にはいささかも老醜のたわみもなければ隙もない。画面の隅ずみまで画家の充実した観照の世界、そのひろがりを感じさせる。この絵については完成まで身近にみていた孫・小倉寛子さんの貴重なルポ的エッセイがあって、遊亀という画家の天性の資質をみる思いがする。
 遊亀という雅号をもったとき、さすがに「亀」ほどの天寿を迎えるほどになるとは思っていなかっただろう。けれど亀のごとく心置きなく絵筆で「遊」ぶ余裕は失わないように心がけたであろうか・・・。
 世間的な評価では「O夫人坐像」(1954)、「裸婦」(55)、「小女」(57)、「母子」(62)、「兄妹」(64)といった表題から もうかがえるように穏やかで親密な人物像に傾斜して当然なのだが、子どもたちの肌の色艶を描き出すアンチミストな筆の緊張や、筆先へその心情をつたえる感動のそよぎは、「マンゴウ」でもいささかも損なわれていない。もちろん、「マンゴウ」以前にも果物皿やさまざまな形態の器にもられた果実群の絵を繰り返し描いてきた習練の賜物でもある。「マンゴウ」は、その年、院展にも出品し世評を仰ぐことにもためらわなかった。そういう101歳を迎えてなお現役であることに自覚的であった。
 「マンゴウ」図は世評もたかい人気図になって木版画に複製されて流布することになったし、某作家の小説集の挿画にもなった。
 101歳の創作が雄弁な説得性を備え、広く迎えられた、そのこ とも美術史において特筆される記録だろう。

花もつ女たち №72 有吉佐和子 (小説家*日本 1931~1984)

有吉佐和子(小説家*日本 1931~1984)
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 本連載では小説家をほとんど扱ってこなかった。紹介するからには著作の大半を読破してと・・・・・・私なりのこだわり、それなりの誠実さでアプローチしようと思えば思うほど、取り上げずらくなった。というわけで、職能的なカテゴリーのなかで、もっとも紹介が希薄な「作家」群となってしまった。

 無論、その類い稀な才能を畏敬していた。しかし、十分に読んだとはいえないので躊躇してきた。今回、思い切って取り上げようと思ったのは、実娘・有吉玉青さんの自伝的エッセイ『身がわり』を読んだからだ。玉青さんの聡明な文章力が母・佐和子の影響を受けているものとするなら、やはり取り上げておこうと思った。
 私の個人的な嗜好だが、いわゆる芸道モノの小説を好んでいる。何故かその分野での秀作が女性作家の手になるものが多い。有吉作品目録中にも『一の糸』という素晴らしい長編小説がある。
 有吉二八歳という若さで明治・大正・昭和三代にわたる女の系譜を描いた『紀ノ川』という名編がある。有吉文学とは、伝統をしっかり押さえながら、作家の旺盛な好奇心は現代社会の矛盾、あるいは未来の人間社会を真摯に憂慮する視点もゆるがせなかった。そのための勉強はもの凄い労力を傾注させたと思う。たとえば、当時、ボケとしか認識されていなかった認知症を『恍惚の人』という小説を描くことで日本人共有の認識とさせた。日本における「沈黙の春」といえるルポ『複合汚染』という仕事も遺した。そのルポなどは、たとえば鎌田慧さんの仕事と比較しても遜色ない。こうして、逐一、取り上げていったらきりがないほど有吉の作品は質量ともに豊かであることは衆人が認めるところだ。
 戦後昭和を代表する作家として文学史上に大きな座を占めてゆくだろう。そして、玉青さんの自伝を通して、愛すべき母親であったことも確認されたのがなりより嬉しい。

花もつ女たち №71  ナタリア・ゴンチャロワ (舞台美術家・画家 ロシア・フランス  1881~1962)

花もつ女たち №71
 ナタリア・ゴンチャロワ (舞台美術家・画家 ロシア・フランス  1881~1962)
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 ロシア革命の黎明期から革命政権の樹立、そして独裁者スターリンによる苛烈きわまりない粛清までの疾風怒濤のスラブの大地にロシア・アヴァンギャルドという紅蓮の溶鉱炉がそそり立ち、そこから前衛の鋼が幾多も輩出した。そして、その鋼の矛先は国境を超え、時代を超えておおきな影響を与えた。
 
 絵画、彫刻、音楽、バレエ、詩、演劇、建築、映画などあらゆるジャンルと連動した。そこには才能にあふれた「革命」に共感する多くの女性アーティストたちの渦もあって、それぞれ刺激な活動に携わってゆく。なかでもナタリアの仕事はひときわ輝いている。
 時代の波濤に乗っていた1900~20 年代の仕事にナタリアの充実をみる。ロシア近代美術の序章に大きな痕跡を遺すロシア移動派やロシア・ロマン派たちの影響の下に筆をもったナタリアの初期作品に、ロシア農民、民衆の生活に取材した民衆画の素朴な味わいがあるのは、スラブ大地への共感でもあっただろう。しかし、時代は個々の感性を揺さぶりつづける。ナタリアも未来へと向かう悪路を疾走しはじめる。
 ロシア美術史に短いが確かな足取りを遺すアヴァンギャルドの先頭に立つことになる。ナタリアがモスクワ美術学校在学中に描かれた作品ははやくもロシアの新潮流を象徴するものとして国境を超えている。
 ロシア・アヴァンギャルドに担った才能の多くは表現領域を軽々と飛翔し、ことなるジャンルとの融合に積極的だった。そうした時代に稀代の興行師、ニジンスキーやアンナ・パブロワを擁したロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の創設者ディアギレフが存在した。
 ナタリアはバレエ団の野心的なオペラ『金鶏』(リムスキー=コルサコフ)の舞台美術いっさいを担当することになる。その初演の地パリに飛ぶ。そして、ナタリアは二度と故郷スラブの大地に誕生した赤色独裁国家に戻ることはなかった。
 『金鶏』の原作者プーシキン。ナタリアの大叔母ナターリアはプーシキンの妻であった。
 
 ナタリアはフランスに帰化し、パリに客死した。ロシア民衆への愛慕によって開花したナタリアの才能だったが、革命ロシアに疎まれる。いま、こうしてナタリアのことを記すのは、ロシア・バレエ団の芸術が音楽と舞踊に特化して語られ過ぎていると思うからだ。しかし、あの時代に先行してピカソやシャネルたちを瞠目させたロシア・バレエ団の芸術の多くは、まったく新しい舞踊、音楽に拮抗する力をもった舞台美術も必要とした。舞台美術の既成概念を覆すあらたな表現を必要としたのだ。そこのナタリアの才能があったことを忘れてはいけないと思うからだ。

 余談だが、ナタリアの絵は女性作家として破格の価値がつけられている。2007年のクリスティーズのロンドン・オークションで『リンゴ摘み』が490万ポンド、2010年の同オークションでは約640万ポンドで落札されている。
 

花もつ女たち №70 柳兼子(声楽家*1892~1984)

花もつ女たち №70 柳兼子(声楽家 1892~1984)
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 明治期、西欧文化を学び・吸収するという時代の要請に多くの若者が“国”を背負って参加した。あらゆる先進文化を学ぼうと企図した時代の熱狂のなかで実力以上の成果をみせた才能がある一方、志しなかばにして斃れた野心もあった。現在の日本の繁栄は、そうした明治の青春が鍬をいれた土壌のなかから育ったものだ。
 科学・化学分野、産業殖産、軍事に多くの資本が投下されたことはいうまでもないが、明治維新政府の優れたところは、芸術やスポーツの分野ににも目配りしたことだろうし、そこでは男女平等の精神があった。なかでも絵画や彫刻、音楽などに女性を積極的に受け入れることをためらわなかった。
 工部美術学校に多くの女子学生が学んでいた。そのなかから、例えばロシア聖像画家となる山下りんといった異才が誕生している。音楽でも同様で、滝廉太郎のライバルは同窓の女子生徒であった。
 柳兼子は、滝らが学んだ東京音楽学校を1910年に卒業した。滝のライバルの女子生徒たちは幼少期にそれぞれ邦楽の手習いを受けている。その延長で西欧音楽に触れることになった。また、美術教育でも生徒の多くは、水彩や油絵の筆を持つ前に、日本画の手ほどきを受けたものが多い。それが明治の西欧芸術受容の揺籃期の特徴だろう。
 
 兼子は学校でドイツ・リートを専科とした声楽家として活動を開始する。1920年代にはマーラーの歌曲を初演している。現在、兼子の歌を良い録音で聴けるのは日本の歌曲集である。ベルリンに留学した時期、一夜のリサイタルを行ない絶賛され、ドイツ国内を巡る公演の熱心な依頼があったという。傍証として当時のドイツ新聞の公演評もあるから事実に違いない。
 声楽家、演奏家や舞踊家の芸術、その最良が後世に遺贈されるようになったのは1940年代以降の話だから、それ以前に最盛期を迎えた才能はじっさいのところ確認しようがない。しかし、兼子、80代の高齢で録音した日本歌曲集一作をもって、その才能は肯ける。アルトという声質がたゆまぬ努力・研鑽によって、その年齢まで維持されたのだろう。美空ひばりさんのように、類い稀な喉の強さ、柔軟さ、もって生まれた喉の構造という天与の恩恵があったかも知れない。兼子は言う、「みなさん、年をとると歌えなくなるのではなく、歌わなくなるのでしょう」と。でも、ソプラノ歌手であったら兼子もそういい切れただろうか・・・。
 遺された朗唱のなかで江戸・明治の風情を物売りの売り声を取り入れて歌う、「苗や苗」は絶品だろう。人によって推す曲は違うだろうけど、筆者はその曲を採る。
 補足となるかも知れないが、日本民藝運動の創始者とされる柳宗悦は、兼子の夫。その宗悦の研究を支えたのは兼子のリサイタルなどによる収入であった。現在、宗悦が蒐集したコレクションを基礎とする東京・駒場の日本民藝館などに収蔵されている民芸品の多くは、兼子がもたらした収入から得られたものだ。もちろん、蒐集にあたっては宗悦の鍛えられた審美眼に帰するのだろうが、兼子の収入がなかればいかんともしがたい時代があったことを知っておく必要はあるだろう。 

花もつ女たち №70 リリウオカラニ女王(ハワイ王国~米国*

花もつ女たち

 リリウオカラニ (ハワイ王国・米国*王女 1838~1917)
リリウカタニ

 赤道をはさんで多くの島が散在するポリネシア。その海域は、しかし先住民の言語ではなく、ギリシャ語で「多くの島々」を意味するポリネシアと命名されてしまった。西欧起源の言語が公用語となってしまったが、豊かな伝統文化、独自の宗教体系に支えられ現在も多くの言語がいまも生きている。
 ラグビーの強豪ニュージーランドのチームは、戦前の儀式として、勇猛さをシンボライズする儀式ハカを行なう。同国先住民マオリ族の伝統儀式のからきているものだ。そのマオリ族の文化も南ポリネシアを象徴するものだ。タヒチもまた独特の戦士たちの舞いがある。そして、ポリネシアの北部に位置するハワイにはおなじみの民族舞踊と音楽があり、総称してハワイアンとなる。
 東日本大震災で被災し一時、活動の場 を失った福島県いわきのハワイアンズのフラガールは積極的に広大なポリネシア圏の舞踊を研究し消化して日々、ステージで披露している。いちいち解説して踊られるわけではないので観客には理解されていないと思うが、彼女たちの舞いハワイアンではなくポリネシアンなのだ。けれど女性を主体としてはじまったショウであったためハワイアンに傾斜していた。
 マオリやタヒチアン・ダンスが戦闘への闘志を掻き立て、自ら鼓舞するあための儀式であるのに対し、ハワイの舞いは民族神への敬愛、畏敬、あるいは感謝を捧げる儀式としての神技でもあるのだ。それは音楽の洗練さ、華麗で神秘性もそなえた旋律を伴奏とする踊り子たちの舞い姿からも理解できると思う。そして、手の動き、精緻な指の動 きの言語性でも象徴される。指と手が言語化された動きとなるとき優艶な美となった。それはタイの宮廷舞踊にもみられる乙女たちの舞い姿にも似ている。

 ハワイアンの名曲に「アロハオエ」、「カマラヒラ」がある。数多くあるハワイアンのなかでももっとも優美な旋律をもつ作品で世界的に知られる名歌。その「アロハオエ」を作り、「カイマナヒら」の歌詞を書いたのがハワイ王国の歴史のなかで女性として最初の国王になり、そして王国最後の王となったリリウオカラニである。前おきが長くなった。王女に拝謁するためにはしもじもの人間は王宮の回廊を経巡られなければあいけない。

 リリウオカラニが生きた時代、ポリネシア圏では欧米列強が最後の植民地争奪戦が行なっていた。その波濤をまもとに浴びながら米国併呑に必死に抵抗を試みた王女であった。
 1894年、ハワイの王制は米国の支援を受けて倒れるが、98年までハワイ共和国として独立は維持されていた。しかし、ハワイを制するものが太平洋の覇権を握ることができると考えた米国に準州として事実上併合した。今日のカリブ海のプエルトリコと同じ位置だ。現在もハワイとプエルトリコには“独立”を志向する民族派が存在する。

 ハワイ王国の成立は1795年、カメハメハ1世が即位宣言したことにはじまり1810年にハワイ諸島全島を統一し、ポリネシアにおける先住民を主権とする最初の近代国家となった。立憲君主制をしいたハワイの憲法では、リンカーンの奴隷解放宣言よりはやく奴隷禁止令を公布した。
 しかし、ハワイ王朝はリリウオカラニの退位まで約100年で終焉した短命の王朝であった。自壊したのではない、米国の武力による脅迫によるもので、リリウオカラニは強いられて廃位となった。
 ハワイ人、移住植民していたアジア人たちの参政権を無視した米国系白人たちによる共和国宣言に反対する人たちが抵抗するのは当然だった。その精神的支柱がリリウオカラニであった。近代装備に優れた白人たちの共和派の武装勢力は、民族派の抵抗を鎮圧する。その際、捉えられた約200人のハワイ人の生命と引き換えに、リリウオカラニは自ら退位宣言書 に署名したのだ。
 プエルトリコが米西戦争で米国の“戦利品”となり独立を失ったが、ハワイもまた植民在住していた白人たちの利権とワシントンの思惑が一致して独立は失われた。
 もし、米国がハワイに地政学的な戦略性を見出さなければ、ハワイは観光立国として独立を保っていただろう。たとえ、真珠湾に米国海軍の基地が設けられたとしても、それは沖縄や、かつてのパナマにあった基地、あるいはキューバのグアンタナモにある米軍基地として留まっているに過ぎなかっただろう。

 独立を失って、リリウオカラニの後をつぐ王位継承者として指名されたのが映画にもなった美貌の皇女カイウラニアであった。23歳で夭折したこと、小国の皇女ゆえの悲哀、そうした悲劇性ゆえ、その生涯は映画化もされている。そのカイウラニアが5歳のとき訪日、明治天皇に謁見している。彼女は当時の国王カメハメハ7世の姪であった。国王は明治天皇への謁見の場で、カイウラニアを、当時13歳であった山科宮定麿王との結婚を望んだ、という史実がある。国王は、当時、米国の動きを牽制する意味でも日本との関係を強化しようと模索していた。明治政府は米国との関係を思慮し、それを断ったわけだが、その後もハワイ王国とは緊密な関係を維持した。1892年、アメリカ海兵隊による武力「革命」によって王制を打倒しようという試みに対し、「邦人保護」の目的で軍艦を派遣し、 米国の武力外交を批判している。もし、明治天皇がカイウラニアを迎えていたら太平洋の歴史はどのように変化しただろう。歴史に「もし」を持ち込むことはタブーだが、そう思わずにはいられない史話である。
 
 今日、映画化され評伝が刊行されたこともあって“悲劇のヒロイン”カイウラニはハワイ王朝、落日の夕陽のように象徴されているが、その陽の傾きに必死に抗して力尽きたのがリリウオカラニであった。平穏な時代に玉座にあれば、「アロハオエ」「カイマナヒラ」を超える名曲を生み出していたかも知れない。しかし、時代はそれを赦さなかった。

花もつ女たち №69 レオノーラ・キャリントン (画家*英国・メキシコ 1917~2011)

花もつ女たち 
 レオノーラ・キャリントン (画家*英国・メキシコ 1917~2011)
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 メキシコ、古(いにしえ)のアステカ帝国。皇帝たちの憩いの森であったチャプルテペックの深い緑。ここにリスが庭の木々を走りまわる楕円形の国立近代美術館がある。そのギャラリーはフリーダ・カーロをはじめとするメキシコ女たちが描き出した、こ惑的な一群の渦が逆巻く。

 写真家、舞踊家なども含めて拙著『フリーダ・カーロ ~歌い聴いた音楽』の第2章で、カーロとは別にメキシコの女性芸術家たちを取り上げているので読んで欲しいと思うが、そこで甘美な冥界を描きつづけたレオノーラ・キャリントンを取り上げなかった。理由は英国生まれで20代のはじめにメキシコに渡り、晩年は米国ニューヨークに制作拠点を移し、そこで永眠したという事情、そして、彼女の絵からはアステカの血の匂いも、マヤの神秘もほとんど感じられない、という思いからだ。メキシコ画家としての「純粋」さにこだわりがあったからだ。
 しかし、生涯の大半をメキシコで過ごし、51歳のとき米国に一時的に移転したのも、メキシコ五輪直前にメキシコ市中でおきた流血事件への批判だったことを後日、知った。独裁的な大統領が軍に指示、学生・労働者、市民たちへの反政府活動、それはきわめた穏健なものであったが、五輪主催国の長として、“みぐるしい”反政府活動を嫌った。いまだに犠牲者の数が確定していない血の弾圧は、市中心部トラテロルコ(三文化広場)で起きた。非政治的な画家キャリントンにとって、政府にそうした行動で抗議の意思を示すのは、それなりの重い選択であったのだろう。
 今、拙著のなかでメキシコ画家として、取り込まなかったことを筆者の料簡の狭さに恥じ入っている。そのうち、それなりの分量で批評しなければいけないが、いまは書こうと思うが、いまは備忘録的にここに記すのみだ。

 メキシコ美術史を通覧してもキャリントンのような富裕層から出た才能はいないのだろう。
 18歳で英国のジョージ5世の社交界にデビューしたという彼女の出自は異例だ。生家は機織り機械の発明から財をなした資産家であった。つまり、インドなど植民地から血を吸い上げた英国資産階級から出た才能といってよい。キャリントンはそのことにあまり思い煩うということもなかったようだし、またする必要もないだろうが、画家の背景として記しておく必要はあるだろう。
 窮屈な寄宿舎暮しの学生時代をのぞけば、まぁ何不自由ない物理的に恵まれた生活のなかにあった。そこで自由奔放に個性を伸ばし、空想の世界に浸って育ち、自立した。少女のあふれる想像力はやがて絵画の世界に解放されてゆく。その初心は晩年まで尽きることはなかった。 そして、社交界へデビューしたキャリントンではあったが、彼女は男に選ばれる女にはならなかった。あえて苦難の道に進むことになる男に恋をして、メキシコまで流浪することになる。

 少女の想像力はやがて欧州世界の政治的な混沌、ナチの台頭、不条理な弾圧を恋人エルンストとの生活のなかで知る。シュルレアリストとして注目されていた画家エルンストの世界は憂鬱な気配のなかにある。時代の陰鬱な揺らぎがあるが、キャリントンのそれは現実から逃避、あるいは遊離した孤絶した世界だ。繊細な浮遊感に魅力がある世界といえるだろう。
 筆者がフリーダ・カーロと同世代のメキシコの画家として並べなかったのは、キャリントンの資質もあるだろうが批評性の希薄さに物足りなさを感じていたのかもしれない。幻想小説の挿画のようにみえてしまう絵解き図のような文学性も性に合わなかったのかも知れない。
 精神形成期における生活感の欠落、衣食住に満ち足りた香華のなかに育った少女にとって「芸術」は極私的な感興であればよかったという事情が、最晩年の作品まで尾をひいていると思う。しかし、それを初心よりの貫徹させたとみれば、その持続性、執拗さは表現者のおおいなる美点である。少女の夢想は歳月のなかで、生活のさまざまな澱すら養分に換え、それを貪欲に掌(たなごころ)のなかに熟成しながらも、メルヘンの香気を失わなかった精神の若さは脅威である。
 色相があらわにとどめられた初期作品は標高2400メートルの高地の大気のなかで、色相は解体し、固有色はいくども攪拌され微妙なグラデーションのなかで事物はみな詩的な象徴性をもつことになった。夢と現実が分水嶺の境界上で攻めぎ合う。自由と禁制、正義と不正、解放と抑制・・・20世紀後半の世界の揺らぎは人を思わぬ地まで飛ばした。ひとつの鋭い感性が、そんな時代に生きている手触りを確かめようと絵筆で検証していたキャリントン。絵は、彼女なりの極私的な日記のようなものではなかったのか。
 キャリントンの詩想は晩年まで衰えなかった。それは深い森のなかに潜む小さな泉池、濁りも秘めた水面(みずも)が鏡面となって揺らぎ刻一刻と変容する幻視の世界。生きている限り、詩人を捉えてはなさない桎梏でもある。彼女はそれに身を委ねていた。

花もつ女たち №68 クララ・シューマン (ピアニスト*1819~1896)

クララ・シューマン ピアニスト・作曲家
 クララ

 クララは幼いときから晩年まで実に克明な日記を遺した。幼い頃は父ヴィークの代筆で、愛娘の成長日記のようにして書かれはじめ長じて乙女の秘密が封印される日記となる。ヴィーク記の部分は優れたピアノ教師としての教授日記でもあり、19世紀のピアノ教育の一端が記されているという意味でも希少な資料でもある。

 クララとロベルト・シューマンとの恋愛、結婚、そして夫の夭折という「愛」の物語はあまりにも有名で、そこにクララの優れた芸術家としての姿が埋没してしまうこともある。それは、恋愛期の往復書簡も多く遺されているため語りやすく興味を惹くからだろう。
 天才少女の名をほしいままにしたピアニストであったクララ自身がショーマン作品の初演奏者であり、バッハやベートーヴェンの幾多の作品の初公開演奏者という“前衛”に位置していたので、同時代の多くの証言記録が遺されることになった。当時、リスト自身しか弾けないといわれた、リストの難曲も作曲家の前で弾きこなした演奏家がクララであった。そんな逸話に事欠かない。つまり、クララ自身の記録はそのまま音楽史における重要な資料、財産なのである。

 ここにシューマンがまだクララに恋愛感情を覚える前、当時、辛口の音楽批評家として名をしられていたシューマンのクララ評がある。
 「彼女(クララ)は幼少でイシスの女神のヴェールをあげた。この幼女は静かに見あげている。大人たちはその光輝に盲目になるかも知れない」と。13歳のクララの演奏評として。
 また当時、ゲヴァントハウスの指揮者としてライプチヒ市民の偶像であった若きメンデルゾーンも、クララのピアノに驚愕し、「彼女は小さな悪魔のように弾いた」と書き付けている。

 しかし、なんと多忙で意欲的な芸術家として70年近い活動を持続し、敢えて書くが「内助の功」として夫シューマンに寄り添い、シューマン芸術の普及に努め、7人の子(4人は幼くして死去)の母となった婦道の鑑のような生涯はまったくもって頭が下がるような神々しさ。シューマン亡き後はブラームスの控えめで適切な補助があったとはいえ、ひとりの女性が成しえた事業の大きさに瞠目する。ピアノ協奏曲など多くのピアノ曲を作曲した才能であったことも忘れてならないだろう。
 音楽教師としての父親の存在としてモーツァルトやベートーヴェンの事例が物語りとなるが、クララもまた父ヴィークの存在なくしてピアニストとしての大成はなかった。その畏敬する父はシューマンとの結婚に裁判まで起こして抵抗した。クララのその時、“恩師”の父を切ってシューマンに走る。そういうドラマチックな挿話に満ちたクララの生涯は、映画や舞台で愛の物語として繰り返し描かれてゆくことになる。そんななかで、シューマンの「トロイメライ」がクララへの愛の告白のように思われてしまう誤解も生じた。

花もつ女たち №67 ヴィヴィアン・マイヤー (写真家*フランス系米国人*1926~2009) 

花持つ女たち
 ヴィヴィアン・マイヤー (写真家*フランス系米国人*1926~2009)
マイヤー

 数奇な人生、といってしまうと何事かを語ってしまって予見を与える。しかし、ヴィヴィアン・マイヤーという女性のことを思うとき、とめどなく疑問の符点を連鎖したくなり、それを要約すると「数奇」な人生となるのだろうかと思ってしまう。
 家政婦としてベビーシッターとして働くつづけたヴィヴィアン・マイヤーという女性が83歳で死去し、その遺品がシカゴの小さな競売場でオークションに掛けられる。遺品のなかに、古い時代のシカゴの光景が写っている大量のネガが収納されたボックスがあった。それを写真に門外漢の青年が380ドルで落札した。青年はシカゴの歴史を自分なりに再構築したいと考えていたアマチュア歴史家。日本にもよくいる地方史家というものだろう。生業を持ちつつ余暇を趣味としての地方史に使う。ネガはその資料に役立つかもしれないと思ったのだ。それが、すべての発端だった。彼がいなければそのネガはゴミとして焼却され、マイヤーの存在すら彼女を知るひとびとの死去とともにまったき消えただろう。

 青年は写真をプリントしてネットで紹介した。この時代の特有の探索の方法だ。それが思わぬ反響を呼び、終にはニューヨーク近代美術館での回顧展に発展した。
 写真家と書いたが、マイヤーは生前、写真で1セントも稼いでいない。したがって写真家とはいえないのかも知れない。けれど、生涯、たった1枚の絵しか売れなかったというゴッホが画家であるならば、マイヤーも写真家といって良いのだろう。ただ決定的に違うのは、ゴッホは売りたかった、しかし、マイヤーは売ろうともしなかった。それどころかネガのままプリントすることもなく、「作品」としての写真を自分でみていないのだ? モーツァルトの多くの曲が生前、演奏する機会もなく埋もれたという挿話とも異なる。つまり、マイヤーはシャッターを切る、という行為に傾注した写真家といえるかも知れない。
 家政婦、あるいはベビーシッターとして働いたのは、生きてゆく手段であった。好きでやっていたわけでもない。子ども好き、ともいえなかったようで、幼時の面倒をおこたることも多く、ときに暴力でゆうことを効かせるということもしたようで、それが原因で解雇されてもいる。
 マイヤーはそうした家事労働で稼いだ金の大半を写真に注ぎ込んでいたのだ。デジタル時代の話ではないから、フィルム代だけで相当な金額になっていただろう。回顧展が開催された時点では、数十万枚のネガが存在したらしい、その後の発見もあるようだ。その作品総数は確定していなかった。それぐらい厖大な作品を遺した。発見されたネガのプリントも終了していないようだ。
 マイヤーはただひたすらローライフレックス、ファインダーを上から覗き込むタイプの二眼レフカメラのシャッターを切りつづけたのだ。
 このファインダーを上から覗き込むタイプの二眼レフは、筆者が最初にもった同形式のカメラであった。父親から譲られたものだった。このカメラは被写体の人物と視線をそらさずに撮影できるという利点のあって、これに執着したマイヤーは確かに表現者としての個性の持ち主だったことが分かる。しかし、マイヤーはプリントしなかったばかりか、フィルムの存在すら私蔵し、公にしなかった。生涯、独身を通したマイヤーに近い親族もいなかったから、死後、破棄され焼却されてしまう可能性もあったわけだ。マイヤーはそれを回避しようとも、また思っていなかった。
 つまり表現者としてのマイヤーはただシャッターを切ることで終わっていたのだ。
 まったく黙して語らなかったマイヤー。何故、写真を撮るのか、撮りつづけるのか? 何故、プリントしなかったのか? 人にみせようとしなかったのか? すべて謎である。セルフレポートもたくさん撮っている。それは若い時代から晩年に及ぶ。しかし、マイヤーはそれすらもプリントしていない。フィルムにただ記しただけだ。
 マイヤーに撮って写真とは、いや、生きるということはなんだったのか? 謎だらけ。
 マイヤー研究はいま、緒についたばかりだが、その写真と生涯は人間の存在の不思議さを象徴していよう。

花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ(バレリーナ*ロシア)

花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ (バレリーナ*ロシア 1925~2015)
マイヤ・プリセツカヤ

 もし「ロシア革命」なるものの美点をあげるとすれば、まず第一義にアジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域において民衆の自立自尊、独立への機運などを誘発したことだろう。これにつづくのはヒトラーのファシズムの浸透を東の壁となって防ぎ、押し返し崩壊させたことだろう。そして、逆説的な美点となるがロシア・バレエの豊穣を世界各地に放散したということだ。むろん、日本も例外ではない。日本のバレエの基礎は革命を逃れた白系ロシア人のバレリーナ、または講師によってつくられた。革命前からフランスを中心に活動していたディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の精華は革命によって西側に拡散した。冷戦下ではルドルフ・ヌレエフがパリに、バリシニコフが米国に亡命してバレエ芸術をさらなる高みへと導いた。しかし、マイヤ・プリセツカヤはモスクワ・ボリショイに留まった。
 審美眼の欠片ももちあわせていない党官僚からさまざまな嫌がらせ、抑圧を受けながらマイヤは“鉄のカーテン”を越えようとはしなかった。スターリン時代に父親は政治犯として処刑され、母親も禁固刑を受け、その母親とともに僻遠の地にもじ通り流刑されるという辛酸をなめながらも最後までソ連市民のパスポートを捨てなかった。しかも、彼女は帝政ロシア時代も革命ロシア下でも差別され、時には血の弾圧も受けてきたユダヤ系ロシア人であった。
 むろん理由はある。もし、海外公演中に外国公館にでも駆け込めば、当該国ではみなもろ手をあげてマイヤを受け入れただろう。しかし、それをしなかった。亡命すればモスクワに残った母親(すでに政治犯として前科がある)や親族に生命が脅かされることは確かだろう。ただし、マイヤがそれを選べば家族はそれなりの覚悟はしたと思う。その後、作曲家の男性と結婚したことがきっかけで亡命の意思は遠のいただろう、マイヤが外国公演中、夫は“人質”となってロシアで仕事していたから・・・。だが、筆者はマイヤが一度も亡命の意思をもたなかったのはバレエのデーモン、悪魔の存在だと思う。
 マイヤを育てると同時に抑圧もしたボリショイ・バレエ団。その劇場の舞台そのものが彼女を外に向かわせなかったのだと思う。ボリショイの広いステージはゆるやかな傾斜がある。高低差70センチ。マイヤの舞踏芸術はボリショイのステージから生まれたのだ。たとえば、マイヤの代名詞というべき「瀕死の白鳥」は、闇・・・観客席から見て左奥隅に悄然と佇んでいる光景からはじまる。つまり傾斜のいちばん上から下降しながら舞うのである。マイヤの「白鳥の湖」「ドン・キホーテ」「スパルタカス」「アンナ・カレーニナ」「カルメン組曲」もみなボリショイのステージで熟成されたのだ。
 作曲家のプロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらが冷遇されながらもロシアの大地を捨てることがなかったのは、その地に彼らの音楽の源泉があったからだ。ラフマニノフが亡命後、生彩を欠いてしまったのは、ロシアの大地から切り離されたからだ。パステルナークやソルジェニツィンが亡命しなかったのも同じことだ。言霊も大地に宿るのだ。そして、マイヤの舞踏も・・・。
 「瀕死の白鳥」・・・マイヤのそれは“瀕死”にみえない。どっこい生きているぞ、という強い意思が漲っている。表題を逆説的に捉えることで、マイヤはステージから雄弁に、ロシアの良心は共産党独裁下で息たえだえだがまだ死んだわけではない、と自己主張していたようにも思える。その瀕死の白鳥はベルリンの壁の崩壊を鳥瞰し、ソ連邦の解体も見届けたのだ。
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