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バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その3

 今年6月、サッカー・ワールドカップのブラジル大会が行なわれる。大会に旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)が参加する。クロアチアは2大会ぶり2度目、ボスニアは初出場になる。
  旧ユーゴスラビア、ボスニアのサッカー事情を知らなくても、前日本代表チームの監督だったイヴァン・オシムの名はサッカー・ファンならずとも記憶されていることと思う。オシム氏はボスニアの首都サラエボ出身で、ユーゴスラビア解体前、最後のナショナルチームの監督であった人だ。そして、オシム氏が生まれ育ったサラエボのグルヴァヴィッア地区は内戦中、もっとも破壊的な悲劇を生みだしたところだった。民族浄化という 惨劇も繰り返された場所であった。
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オシム氏は内戦後、こんなふうに語っていた。
 「グルバヴィッツァで20世紀、人類として恥じるべき、また運命的な悲劇が繰り広げられた物語を語るなかで、人類は二度と決してこのような悲劇をいっときも、如何なる場所においても繰り返してはならないというメッセージを発している。グルヴァヴィッァは、20世紀、人類の良心モラルがかき消され、憎悪心にあやつられた武装兵士たちによって計画的に組織された民間へのレイプ行為が繰り広げられたことで、この紛争の一大悲劇の舞台となり、世界史上においても類なく稀な場所となってしまった」と。
 これはボスニア内戦がもたらした母と娘の悲劇を描いた映画『サラエボの花』の日本公開に先 立って、映画を上映する岩波ホール作成のプログラムに寄せたものだ。
 オシム監督に率いられたユーゴスラビア・ナショナルチームは1990年イタリアW杯で準々決勝まで進出、南米の強豪国で同大会で準優勝国となったアルゼンチンと互角に渡り合い延長戦となるも0-0に決着せずPK戦にもつれ破れている。そのアルゼンチンには国民的英雄ディエゴ・マラドーナを擁していたのだ。つまりオシム監督のユーゴ代表は決勝戦までいける可能性があり、優勝さえ狙える実力国であった。
 1992年、サラエボがユーゴスラビア連邦軍に包囲され砲撃を受けているとき、皮肉にもオシム監督はまだユーゴスラビア代表監督であり、国内にあってはセルビアの名門チーム、パルチザン・ベオグラードの監 督であったのだ。つまりオシム監督は“敵国”の首都ベオグラードの真っ只中にいて、“敵国”の最強チームの監督を務めていたのだ。オシム自身の存在がユーゴスラビア解体後の坂道を転がり落ちるように激化した内戦の悲劇を象徴する存在であった。
 オシム監督指揮下にあったチーム・パルチザンとは元々、故チトー大統領が第二次大戦下、ナチ・ドイツ、イタリア・ファシスト軍と戦うために創設されたユーゴスラビア人民軍のクラブであった。
 サラエボが包囲されているとき、オシム監督の妻と娘は、その「人民軍」の砲撃に曝されていたのだ。
 オシム氏は自らクラブ監督、代表監督を辞任し以後、ギリシャ、オーストリア、そして日本と国外生活を強いられることになった。< /div>
 1994年のアメリカ大会にはユーゴ「セルビア」代表は国内紛争で国連の制裁を受けていて国際試合を禁じられ予選すら戦えなかった。この時代、代表チームのキャプテンを務めていたのがサッカー史に名を残すドラガン・ストイコビッチ選手であった。日本のサッカー・ファンならこの選手のことを知らないものはない。1994~2001年まで名古屋グランパスで活躍したからだった。本来なら欧州の名門チームに厚遇で迎えられ活躍できる選手であったはずだ。しかし、彼の母国セルビアはユーゴスラビア連邦解体後、対スロベニア、対クロアチア、対ボスニア、さらにコソボ紛争への加担で国際的な制裁を受けたため、スロイコヴィッチ選手だけでなく多くの名選手が名門欧州リーグから締め出され、欧州 で の活動を阻まれていた 。いわば日本サッカーはユーゴの悲劇という“漁夫の利”で平時なら獲得できるはずもない名手を迎えることができたのだ。1992年から開幕したJリーグの黎明期、あきらかに格オチの環境のなかで真剣にプレーをつづけ日本サッカーの実力を高めるのに貢献したのだ。その92年、オシム監督は約2年ぶりに内戦を生き延びた妻と長女と再会することになった。
 日本と旧ユーゴスラビア連邦、特にセルビア、ボスニアとの関わりはかくも強いだの。

 オシム氏のサッカー人生はそのままユーゴスラビア連邦の歴史と重なるし、第1次大戦後に発足したサッカーW杯の歴史とも重なる。サッカー話題ついでに、もう少し付き合って欲しい。
 W杯の第一回大会は1930年、南米ウルグ アイの首都モンテビデオを開催された。ウルグアイ建国100周年を祝う国家事業として行なわれた。この大会にユーゴスラビアは参加し、同大会で優勝したウルグアイと準決勝で戦い3-1で敗れている。
 当時のウルグアイは英国の伝統的サッカーを学び、ブラジルを凌ぐ力があった。第2回大会は1934年、イタリアで開催された。1936年のドイツ・ベルリン五輪がナチ五輪、ヒトラーのオリンピックといわるように、W杯イタリア大会は独裁者ムッソリーニの国威発揚大会となった。イタリアが優勝してムッソリーニの政治的プロバカンダの成果もあがった。この大会にユーゴスラビアは参加していない。
 1936年、日独防共協定が締結されている。欧州でファシズムの嵐が吹きは じめたとき、強風はたちまち小国の政治、経済、そして民族問題に火を点ける。後年、民族的英雄となるチトーことヨシップ・ブローズは有能で活動的なユーゴ共産党組織局書記でしかない。ユーゴはムッソリー二のためにW杯に参加していない。38年のW杯フランス大会も見送っている。国内事情がそれをゆるさなかった。
 ユーゴスラビアがW杯に復帰するの戦後、1950年に開催されたブラジル大会からであった。チトー大統領の政権がスターリンのソ連政府からたえず“異端”と批判され政治的、経済的な圧迫を受けていた時代だ。
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このブラジル大会で予選リーグを2勝1敗の好成績を残しながら予選敗退する。1敗とはブラジル戦であった。その試合直前、ユーゴの中心選手が怪 我を負い、一人欠いたまま試合に臨んでの敗戦であった。以後、W杯出場の常連国となりバルカンの強豪国として名を馳せるようになる。
 
 本連載の第1回目で、旧ユーゴスラビア連邦の前史をバルカン半島で展開した周辺強国の盛衰ともに記し、第2回目で連邦解体後に勃発した内戦について書いた。
 今回は、7カ国(コソボも含め)に分裂してしまった旧連邦諸国の近未来を予見するなりして短い連載を締めるべきなのだろう。しかし、正直言って、それは天に向かって唾するような行為で、いくら高らかにそれを晴天の空にむかってあげようとも、やがて自らの顔に塵あくたをともなって落ちてくるを受け止めるようなことなのだと思う。
 いち早くEU入りしたイタリアに面したスロベニア、昨年、加盟を果たしたクロアチア、この両国は歳月を経るごとに脱ユーゴをはかってゆくことは確かだ。旧ユーゴにあって両国はカトリック国として独自の習俗を残し、経済活動も西欧を向いて展開していた。特に、クロアチアはアドリア海に面した世界遺産都市ドブロブニク、スピリットの歴史的遺構を含め、穏やかな海に面してリゾート地を開発、ドイツをはじめ北欧からの観光客を集め外貨を稼いでいた。観光はクロアチアの重要な産業だった。ユーゴ連邦解体後の内戦下にあってもアドリア海沿岸地は、一時的にセルビア軍の砲撃を受けるなどして停滞した短い時間を除いて観光産業は持続されていた。陸路でドイツなどから車を飛ばしてくる観光客を迎えるため、入り組 んだ沿岸道路も快適に整備されていた。それはまったく快適な景観の優れた道路であって現在も、トンネルを建造している箇所がいくつもあり、海岸道路特有の入り組んだ道をできるだけ快適な直線コースにかえようとしている。そして、各主要都市をつなぐ高速道路も整備された。鉄道はここでも大量貨物輸送を除けば衰退しつつあるように思えた。
 旧ユーゴ時代、スロベニアとクロアチアは域内の 先進地域であった。両国で稼いだ金はベオグラードの中央政府に吸い上げられていた、とみなしていた両国の民族主義者が多かったが、それも一理ある。
 スロベニア、クロアチア両国がふたたびベオグラードのセルビア政府と“ユーゴ人”同胞として一体化することはもはやないだろう。
 もともと歴史的概念の曖昧なユーゴ人というだけで連邦形成したこと自体が間違いであったのかも知れないが、偏狭な民族主義を抑えるためにチトー政権はときに力の行使もためらうことなく実行し、これを抑えてきた。戦後、スターリンの指示ひとつで軍事侵攻を招きかねない政治状況のなかにあって、ユーゴスラビアは一体である必要があったし、大戦を戦ったチトー元帥指揮下のパルチザンの精鋭はそのまま新生国家の国軍として残った。その軍隊は、西側諸国との戦闘のためでなく、スターリンの赤軍との戦いに備えるためだった、ことを明記しておく必要があるだろう。1956年、ハンガリー動乱、68年、チェコ事件はソ連軍のあからさまな武力介入によって民主化が逼塞された事件だったが、戦後東欧史の年譜はそうした大きな事件だけで なく無数のソ連介入史の歴史である。チトーの評伝一冊を読んだだけで 、東欧各国の戦前からアクティブであった活動家、クレムリンの意向にあわない政治家が次々と粛清されていったことが分かる。そうしたソ連の意に逆らう活動家、政治家が政権の中枢に君臨していたのがユーゴスラビアという国であった。そして、その政府は連邦の分裂を招きかねない民族主義の芽を摘み取りつづけたことも確かだ。ソ連の力の行使が現実に展開する光景を国境の向こうにみてきたチトー政権にとって、それは国の政体を守るための要諦であった。
 その象徴として国民的スポーツ、サッカーのナショナル・チームは他民族出身の選手が混在するまさに連邦チームであった。サッカーは民族主義の偏狭な垣根を取り払っていた。
 ここに東欧のサッカー事情に詳しいサッカ ー評論家・木村元彦氏が作成した「旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国及び出身選手たち」という表がある。木村氏が選んだ名選手となるが、かつてユーゴ代表としてW杯に出場も多数含まれる。セルビア、クロアチア、ボスニアといったユーゴ・サッカーを牽引した強国だけでなく、マケドニア、モンテネグロ、そしてコソボ自治州から満遍なく有能な選手が輩出していることがわかる。
 今年はW杯ブラジル大会が開催される。そこに旧ユーゴ諸国から2チームも出場する(それだけも旧ユーゴの実力が知れるわけだが)こともあって、サッカーの話題から入った。

 内戦終結から12年を経た。
 内戦で拗(こじ)れきった旧ユーゴの諸民族、諸国家である。家族から内戦の犠牲者をだした 人たちにはまだ記憶がなまなましいだろう。その憎悪の深さを第1回目のボスニアの旅のなかでの見物、道路標識の焼き焦げ跡に象徴して書いた。スロベニア、クロアチアはEUに加盟し、すでに独自の経済活動で国づくりをしている。旧ユーゴ諸国の経済格差はますます広がっているのが現実だ。歴史はどんな奇跡を引き起こすかわからないが、21世紀初頭のリアリズムでいえば、今後、歴史が風化しない限りはチトー時代のように非同盟諸国を統合したかつての栄光をユーゴスラビア連邦として取り戻すことはありえない。しかし、連邦時代の栄光の記憶のなかにサッカー代表の華々しい活躍の歴史があるだろう。そこには、ユーゴ人の心の記憶として長島や王、大鵬がいたようなものだ。彼らはユーゴ人で活動していたの だ。もし、旧ユーゴスラビア諸民族の和解が訪れるとしたらサッカーにその芽があるように思う。それが糸口となって憎悪はほころびていきそうな気がする。
 おそらく、W杯ブラジル大会に地区予選で敗退してしまったサルビア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニアの人たちも大会中、密かに、あるいはおおぴらにクロアチア、ボスニアを応援するように思うからだ。そのためには参加2国は大会でできるだけ勝ち進み、ユーゴ紛争の和解のために健闘しなければならない。FIFA(国際サッカー連盟)はW杯はもとより競技場での政治的活動を禁じ、抵触しかねない行為に厳格に対応するが、ユーゴ諸民族の和解がそれで促進されるなら、W杯そのものが政治的に有効な平和的活動というものだろう 。


★3回にわたる連載中、時に引用し、また参照、参考資料として活用させて戴いた主要資料は下記の通りです。引用した書籍以外にもDVD、VHS、CD、画集等も参考にしました。
☆東欧史及びバルカン諸国史関係
 梅田良忠・編『東欧史』(昭和45年・山川出版社)
 木戸蓊・編『バルカン現代史』(昭和52年・山川出版社)
 F・フェイト『スターリン以後の東欧』(熊田亨・訳/1978年・岩波書店)
 南塚信吾・編著『東欧の民族と文化』(1989年・彩流社)
☆ユーゴスラビア連邦史
 H・F・アームストログ『チトー評伝~ユーゴの巨星』(鎌田光昇・訳/1956年・国際文化研究所)
 V・ヴィンテルハルテル『チトー伝~ユーゴスラヴィア社会主義の道』(田中一生・訳/1972年・恒文社)
 マルセル・ドゥ・ヴォス『ユーゴスラヴィア史』(山本俊朗・訳/1973年・白水社)
 ライコ・ポポト『ユーゴスラヴィア~社会と文化』(山崎洋・訳/1983年・恒文社)
☆連邦解体後の内戦関係
 千田善『ユーゴ紛争~多民族・モザイク国家の悲劇』(1993年/講談社)
 今井克、三浦元博『バルカン危機の構図』(1993年・恒文社)
 スラヴェンカ・ドラクリック『バルカン・エクスプレス~女心とユーゴ戦争』(三谷恵子・訳/1995年・三省堂)
 小川和男『東欧 再生への構築』(1995年・岩波書店)
西川長夫、宮島喬・編著『ヨーロッパ統合と文化・民族問題~ポスト国民国家時代の可能性を問う』(1995年・人文書院)
 イヴォ・サナーデル、アンテ・スタマッチ『この苦難のときに~クロアチア平和祈念詩集』(藤村博之・訳/1996年・第一書林)
 スラヴェンカ・ドラクリック『カフェ・ヨーロッパ』(長場真砂子・訳/1998年・恒文社)
 高木徹『ドキュメント戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争』(2002年・講談社)
 ヤドランカ、長原啓子『アドリア海のおはよう波』(2009年・ポプラ社)
☆サッカー関係書
 木村元彦『悪者見参~ユーゴスラビアサッカー戦記』(2000年・集英社)
 後藤健生『ワールドカップ』(2001年・中公文庫)
 宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール~国家権力とロシア・東欧のサッカー』(2002年・みすず書房)
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バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その2

バルカン 戦争・民族・宗教 第2回 
 バルカン史のなかの旧ユーゴスラビア諸国


 チェコ・プラハ生まれのドイツ人で大学卒業後、米国に移住、著名な政治学者となったカール・ドイッチェの著書『ナショナリズムとそれに代わるもの』のなかに、次のような言葉がある。ヨーロッパに伝わる巷説として引用しているものだ。
 「民族とは、自分たちの先祖に対して抱く共通の誤解と、自分たちの隣人に対して抱く共通の嫌悪感とによって結びつけられた人びとの集団である」(勝村茂・星野昭吉訳)
 この巷説ほど旧ユーゴスラビアという国の「民族」の内実を言い当てたものはないだろう。

 ドイッチェが世界的に知られるようになったのは、1957年に提唱した「安全保障共同体」で、主義主張の対立を武力に頼らず、さまざまなに表象されている相違も、歴史、地域、言語、宗教など共同体感覚、相互の共感、信頼、共通利益などによって結びつけようという概念を提言し、現実的に実現可能な政治理念として注目された。
 実は、このドイッチェの著書は、今回、バルカン史及びユーゴスラビア史などさまざまな文献を漁(あさ)っている過程で手にしたものだ。1977年に刊行された大部な『バルカン現代史』(木戸蓊著・山川出版社刊)の冒頭で引用されていた。むろん、チトー大統領下のユーゴスラビアは安泰で亀裂の気配はまだみえていない時代だ。そればかりか1984年のサラエボ冬季五輪へ立候補の準備をしていた頃で、大いに“国威”が発揚していた時期にあたる。
 それでも著者の木戸氏は、バルカン史を精密にたどりながら当時の現状を客観視しつつ、歴史の真実に「平和」はいつまで保たれるのかと示唆している。しかし、木戸氏の先見性に気づいた読者は少ないだろう。
 そして、いまボスニア=ヘルツェゴヴィナやクロアチア、さらにバルカン半島南下の拠点としてハンガリーの首都ブタペストで現代史を旅し、車を走らせ、散策し、市民と接触してきた後日談として、これを書いているわけだが、木戸氏がその著書の冒頭で記したドイッチェの引用が、そのまま使えてしまう現実に暗澹たる思いがする。
 旧ユーゴスラビアの諸民族のなかに内在していた「共通の誤解」と「共通の嫌悪感」が内戦をかくも凄惨にしたものであったことを今更ながらに認識するのである。
 木戸氏は、旧ユーゴスラビアをドイッチェ提唱の「安全保障共同体」のひとつの変形として見なしもしただろう、がしかしという保留をつけて歴史を検証していた。その著書の刊行から15年ほどで「共同体」は炎に包まれて、燎原の火となってチトーが築いた母屋も土台ごと崩れた。
 ドイッチェの死は1992年11月であった。ボスニア内戦が始まったのは、その年の4月であり、その前にスロベニア独立紛争、つづいてクロアチア紛争をドイッチェは最晩年の日々に望見していたのだ。
 ヨーロッパの巷説が硝煙と血の臭気とともに浮上した。そのことを、あたらめて確認しながら、一介の政治学者が現実政治に有効に関われることなんて実際、たいしたことはないと諦観しつつ現世に別れをつげたのではあるまいか。

▽和平交渉の場で
 1995年12月14日、パリでボスニア内戦を終結に導くため当該国首脳を参集して交渉が行なわれ、和平のための調印式まで漕ぎつけた。
 この調印式にはボスニア、セルビア、クロアチア三カ国の首脳に加え、クリントン米国大統領、シラク仏大統領、メイジャー英国首相、コール独首相、そしてゴンザレス・スペイン首相がEU議長の資格で参加した。
 調印式の後、旧ユーゴスラビアの三カ国首脳の挨拶が行なわれたが、それはセレモニーとして勤めなければならないもので、不承不承、求めに応じて仕方なしに演台に立ったというものだった。
 三カ国首脳は誰も納得していず、こんな調印書一片でバルカンの和平が長続きすると思ったら間違いだぞ、と内外にあらためて宣言しているようなものだった。しかし、内心はそうであっても、3カ国とも内戦に倦み、疲弊していた。とりあえず、矛をおさめよう、という消極的なものだった。したがって、「調印書」で旧ユーゴスラビアの諸処の紛争すべてが解決するものではなく、あくまでボスニア内戦に関する和平であって、コソボ紛争への関与はいっさい除外されていた。
 さて、その演台にあがったボスニア、クロアチア、そしてセルビアの三カ国首脳たちの挨拶を記しておかねばならない。それは以下のごとき寒風吹き込むような荒涼としたものだった。
 ボスニアのアリア・イゼトベゴヴィッチ幹部会議長は、
 「私の政府はこの協定に参加 するに当たって、如何なる熱意をもっていず、苦(にが)いけれども効果のある一服の薬を飲む者として参加しています」と言い切ったものだ。
 小国の苦々しい悲哀がそこに表出されているとともに、こんな調印“一服”で完治するような軽い疾患ではない、と言い切っているようなものだ。
 クロアチアのフラニョ・トゥジマン大統領は、
 「(旧ユーゴスラビアの)危機はまことに根深い理由によって生じた。本質的には(第一次大戦後の)ヴェルサイユ平和条約によって拍車をかけられたものでありますが、もっと遡ればローマ帝国が西と東の両帝国に分解したことに因があります。オスマン・トルコ帝国の侵入のことはいまは申しますまい」と語った。
 内戦の根本たる原因、その責任は自分たちにありません。近隣の超大国の覇権争い、そう貪欲な帝国主義によって翻弄されてきた私たち小民族の歴史のなかにこそ主因があるのです。よって責任は大国の横暴にある、と宣言しているようなものだ。
 後に戦争犯罪の罪に問われ、ハーグ(オランダ)に収監中に独房で死亡したセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は、それまでボスニアで組織的と思える人権犯罪に手を染めていたことなどなかったかのように、
 「和平協定の施行と和平維持軍隊(NATO)の役割に関しては、いずれも公平さが成功の鍵であり、偏向は失敗の鍵であります」とシラッと述べたものだ。
 セルビア一国を責めるのは将来にわたって周辺諸国もろとも禍根を残すことになりますぞ、と脅しているようものだ。
 要するに、三者三様、まったく和平協定に調印はしても、いささかも尊重する気配はない。しかし、国際的に約束することは事実だから、昨日までの敵が協定違反を犯さない限り守りましょう、と消極的選択したに過ぎないとも語っているのだ。
 それぞれの不信の念は根強いわけだから、和平後も武力は放棄せず、近い将来起きるかも知れない紛争に備え、冷戦終結後のあらたなパワーポリティカルを考慮しつつ“味方”をそれぞれ選択した。
 スロベニアははやばやとEU入りし、つづいてクロアチアが加盟した。セルビアはロシアに接近し、ボスニアはあきらかにトルコなどイスラム穏健派ばかりでなく、内戦下で原理主義の影響も受けた。
 いまは静穏にそれぞれの国づくりに励んでいる。クロアチアの美しい沿岸地方は北欧からの観光客を迎えて潤っているし快適な高速道路が国土を縦断する。内戦で荒廃したサラエボの復興も著しい。

 しかし、内戦はつい昨日の記憶だ。内戦中に噴き出した「共通の嫌悪感」は、親兄弟姉妹の犠牲の記憶とともに世代を超えて生きつづけることは確かだろう。
 パレスチナ民衆や、イスラム原理主義の対イスラエル、対米国対英国などへの自爆攻撃は、愛する家族が犠牲になった子、兄弟姉妹、あるいは妻たちが率先して自らが生ける爆弾となったことによって大きな破壊力をもった。「共通の嫌悪感」を現在ただいまシンボライズするものとして、本連載の第1回目のボスニア紀行のなかに書いた。道路標識の焼け焦げ痕を……。

▽紛争につぐ紛争の歴史
 クロアチアのトゥジマン大統領はパリの調印式での挨拶のなかで、欧州史を紀元前まで遡(さかのぼ)ってバルカン諸国の矛盾、係争の根の深さを語ろうした。古代ローマ帝国の盛衰まで言及したら、以後、無数に変遷した国境のことを書くだけでたちまち紙幅が尽きる。
 同大統領は、「オスマン・トルコ帝国の侵入」に触れた。ボスニア内戦でもっとも悲惨な状況におかれたムスリム系市民のことを思えば、この地を深く喰(は)んだオスマン・トルコの征服時代から書くのが妥当かと思う。
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オスマン・トルコがこの地をほぼ占領し終えたのは15世紀だが、それより遥か以前、紀元前の古代ギリシア・ローマ帝国時代以来、ヨーロッパ文明だけでなくアジア・中近東の諸文明、諸帝国が武力を先頭に仕立ててバルカンの地で衝突を繰り返していた。ここは諸文明が交差する天然の通路であった。
 バルカン半島には、征服を困難にするアルプス、ピレネー山脈のような天然の要害が存在しない。海からも陸路からも侵入しやすい地勢だ。そして、バルカンの地にさまざまな文化が並存することになったのは、各地域が隣接地域とは山で隔てられていたことによる。対外的には開放的であったが、対内的には閉鎖的な空間が無数に林立するという特異な地勢であることも問題を複雑化した。そして、その閉鎖的な空間のなかで、それぞれ異なる宗教共同体を生み出した。サラエボはそうした諸地域の住民が交流する都市であったため、それぞれの宗教を信奉する人たちがおおまかな居住地空間をつくっていた。したがって、平和な時代は国際的融和を謳うオリンピックの開催地として、これほどふさわし い町はないが、一端、民族的紛争が勃発すれば銃弾飛び交う凄惨な地となってしまった。
 オスマン・トルコ軍が武力でバルカンの地に入ったのは1354年のことで、現在のセルビアに入ったのは1385年のことだ。1463年には現在のボスニアに侵入し、支配を開始する。この支配の当初にボスニアの古いカトリック共同体であったボゴミール派と呼ばれる住民の多くがトルコ人との交流によって生み出される経済的利益を考慮してイスラム教に改宗したといわれる。
 このオスマン・トルコの侵入はバルカン半島各地に血縁的共同体として結束していた土着領主・貴族たちを一掃した。トルコ軍は、辛酸を舐めていた(南スラブ人)農民たちにとっては解放軍であった。そこから改宗も容易に起こった。トルコの支配がバルカン全土に比較的早く覇を唱えることができたのも、当時の社会的条件がトルコ軍に幸いしたからだ。そして、その占領上昇期に統治機構が完成、熟成されて4世紀にわたる支配が持続することになった。
 この時代のバルカン諸民族を、かつてエンゲルスは、「歴史なき民族」と言わしめた。4世紀の占領時代は、民族固有の歴史が剥奪された空白期となった。
 17世紀はオスマン・トルコ帝国の絶頂期であり、1683年にはオーストリアの首都ウィーンを攻囲するまでに勢力を拡大した。
 モーツァルトの有名なピアノ曲「トルコ行進曲」は、トルコ軍楽隊の打楽器の音色を模倣したものといわれるが、ウィーン攻囲から約百年を経た西欧社会にトルコ文化が深甚な影響を与えていたことが、それで分かる。
 オスマン・トルコ帝国の衰退は1565年、スレイマン大帝の死去とともに顕著になる。帝国の形成期には帝位継承権も実力主義でもぎ取られていったが、安定期に入ると王家の最年長者の男子が器量に関係なく帝位につくことになった。そのため凡庸な皇帝を取り込んで権勢をふるうようになる高官がでてくるのは世の常、その高官たちが派閥争いをはじめるようになると、大帝国の行政機関への監視も疎かになり、伸びきった国境線から侵食されてゆくようになる。
 18世紀には入ると独立を求めるナショナリズムがバルカン各地に芽生え、19世紀に入ると武力でトルコ占領軍と戦う独立戦争が各地で起きる。そして、1914年6月、サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年によって暗殺され第一次大戦の引き金となり、この大戦でトルコは敗戦国となるのだが、これによって現在のような国境線に区切られたバルカン諸国が誕生する。
 巨大なトルコ占領軍と戦うため、指導者たちは同朋を糾合し戦闘員を集め、シンパを広く確保するために共通の理念、共同体意識を模索した。4世紀の歴史の空白期に範を求めることができない指導者たちは、各民族の最盛期、過去の古(いにしえ)、もっとも勢力を誇っていた時代に憧憬を見出した。それは必然の成り行きというものだった。
 各民族はオスマン・トルコ占領時代前の歴史において、それぞれ“栄光”の時代を持っていた。しかし、過去の栄光史は近隣諸国を従属・隷属した歴史でもあった。独立闘争を求めるに急で、独立後の近隣諸国との共存共栄まで配慮することはなかった。あまりにも民族主義を拙速に謳(うた)いあげた。トルコからの独立はそのまま国境紛争の火種となった。そこに西欧諸国やロシアなど覇権国家が権益を求めて影響力を行使する機会を与えてしまった。
 今日の旧ユーゴスラビア諸国の紛争にことどく関与するセルビアの民族主義は、この時代に芽生えた「大セルビア主義」を根とする。
 コソボ紛争はまだ終結していない。コソボの現在の最大人口はアルバニア系だ。セルビアがコソボの独立を認めようとしないのは、その地はセルビア正教会の発祥の地だからだ。セルビア人が少数派になったのはトルコ占領時代における抑圧からだ。ベオグラードのセルビア政府は西欧社会からの非難にも関わらずコソボに執着するのは民族の精神的な揺籃の地とみるからだ。と同じように、ボスニア・ヘルツェコヴィナの地も、セルビア人が総人口の30%を占めるとして、その独立ないしはセルビアとの融合を企図して内戦を苛烈なものにしたのだ。
 ……と簡略、駆け足そのものというべき歴史を俯瞰するだけでも、パリでの和平交渉における各首脳の熱意のない挨拶ぶりが理解できると思う。

 ここまで2回分の原稿を書いてきて気づかれた方もいると思うが女性の名が登場しない。「女性」と書くとき、それは内戦
における無名の被害者としての存在だけだった。むろん、女性も内戦に加担してきた。「民族浄化」が行なわれていることを知りながら沈黙した女性たちも多かったし、セルビアの独裁者ミロシェヴィチ大統領の夫人ミラは、夫の“勇断”を支持して止まなかった。
 旧ユーゴ解体後の社会を冷徹に見据えたルポを書いた女性作家もいたし、女性の視点で内戦をルポしたジャーナリストもいた。そうした著作は筆者の知見を豊かにしたことは確かだが、引用する機会はなかった。しかし、今回は最後に女性たちの真摯な活動を記しておきたい。
 現在、クロアチアのアドリア海沿岸に浮かぶブラック島にSekaと呼ばれる保養施設がある。セルボ(セルビア)・クロアチア語で「姉妹」を意味する。内戦下、性暴力の被害にあった女性、精神的障害を負った女性やこどもを救済する目的で作
られた施設だ。民族や宗教の違いを超えて運営されている。欧米諸国のアーティストたちも支援活動を行なっていて、先年、アルバム『SEKA』を作成、収益を全額寄贈している。
 運営の主体は旧ユーゴ諸国出身の女性、西欧諸国の女性たち。内戦でもっとも傷ついたのは女性であ り子どもたちだ。戦火はいつも弱者をいちばんの被害者とする。そして、まっさきに救助に手を染めるのも無名の女性たちだ。真の勇者はそうした女性たちだ。その人たちの名を上げる機会はないが、ここに記憶にとどめておきたい。

バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その1

第一回
 クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ紀行  

3月下旬(2013)、中欧ハンガリーの首都ブタペストにパリ経由のエール・フランス機で入った。日本からの直行便はない。東欧諸国や旧ソ連圏のスラブ諸国、コーカサス諸国もまた、冷戦時代の不便さは解消されたものの日本からの直行便は数カ国で実現しているぐらいで現在もアクセスは悪い。
 ブタペストは季節外れの大雪に見舞われていた。中央ヨーロッパ諸国を厚く覆ったその降雪は、やがて5月下旬にドナウ河で急激な数位の上昇を招き、流域に洪水をもたらした。
 そのブタペストから南下、旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア、ボニスア・ヘルツェゴビナを地元でレンタカーを借りて走りまわってきた。
 陸路で国境を越える旅はラテンアメリカで暮らした筆者にとっては当たり前のことだったが、国境を幾つ越えても基本的に聞こえてくる言葉は同じスペイン語、町の作りもカトリック聖堂を中心に置き、広場を設け周囲に官公庁を配置する佇まいも変わらず、ほとんど違和感なく溶け込めるものだった。カーラジオで聴くヒット曲も共有されていた。
 しかし、クロアチアはカトリック、ボスニア・ヘルツェゴビアに入ればイスラム寺院のモスクが、コーランを朗誦して聴かせる塔ミナレットで所在を主張するイスラム圏となる。ややこしいことに現在のボスニアのなかには、内戦の拡大、それが隣国へ飛び火することを恐れたユーロ諸国、NATO軍によって強引だが、民族浄化など戦争犯罪を止めるためには必要であった停戦交渉のなかで、東方正教会系のセルビア人居住区に高度な自治権を与える「スルプスカ共和国」というのが並立することになった。首都のサラエボもまた目にみえない境界線で分割されているのだ。

 極端でもなんでもなく1日車を飛ばせば3つの宗教圏を横断できてしまう。それがかつて旧ユーゴスラビアを、“五つの民族、四 つの言語、三つの宗教、二つの文字”から成る国とわれた錯綜を象徴するものだろう。チトー大統領戴いたユーゴは、六つの共和国と二つの自治州からなる連邦制度のもとで結合していた。しかし、民族的にはみな同じ「南スラブ人」なのである。ユーゴスラビアとは、「南のスラブ人の国」という意味なのだ。この同じ民族が何故、バベルの塔を作りつづける人間の驕りをいさめるように神は破壊し、話す言葉をばらばらにして離散させたという神話のごとき状況になってしまったか、それが本連載の主要テーマである。
 しかし、第一回は旅の見聞を中心に現状報告して連載の序章としたいと思った。
 
 クロアチアの旅は同国第二の都市スプリトからはじまった。この町の旧市街がアドリア海に突き出た小半島に古代ギリシャ、ローマの遺構があり、その上にカトリック教会を中心に市街が広がる要塞都市を持つ。ユネスコの世界遺産に登録されているところだ。
 このスプリトを含む沿岸地方をダルマチアという。ディズニー映画『101匹わんちゃん』でおなじみのダルマチア犬の原産地である。また、モンゴル帝国を歩き『東方見聞録』を遺したマルコ・ポーロはこの沿岸沖に浮かぶ小さな島で生まれた。彼はヴェネチア人(イタリア)であったが、当時のダルマチアはヴェネチア共和国の直轄領であったため、この地にカトリック文化が根付いた。現在、東京を拠点に世界各地で音楽活動をつづけている女性歌手ヤドランカさんはユーゴ解体前のボスニアの首都サラエボで生まれスプリトを含むダルマチアで幼少期を過ごした。そして、ユーゴ人として日本で活動中、母国は崩壊、パスポートは無効になり、そしてボスニア内戦が勃発して帰国するができなくなった 人だ。
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 アドリア海はほんとうに美しい。スプリトから海岸線に沿って往復二百キロほど走ったと思うが、水面の美しさだけでなく、沿岸の町、車道にけばけばしい広告看板は一切なく、美しい自然の景観はそのまま残され、大気はまったく清涼で、日本の臨海道路を走らせて感じる湿度のある潮臭さというものには無縁であった。
 西欧諸国の観光客でにぎわうスプリットから車で早朝、出発すれば、その日の夕方にはボスニアの首都サラエボのモスクに詣でることも可能な距離であった。第2次大戦後、欧州でもっとも激しい戦争となった旧ユーゴ諸国の内戦はほんとうに狭い地域で起きたことを知る。クロアチアは九州より一回り広い程度、ボスニアは北海道と岩手県を合わせた程度である。いまも紛争 がつづくコソボに至っては、岐阜県とほぼ同じ国土面積だ。そうした領土の狭さは戦闘に巻き込まれる一般市民の犠牲者が多く出るということでもあった。筆者がかつて暮らした中米グァテマラ、そして隣国のエル・サルバドルの2カ国は深刻な内戦に苦しんだが、それは国土の狭さもあったからだと思う。   
  
 70年アンポ世代というものがあった。アンポは日米安全保障条約の「安」と「保」を貼り合わせた略語だが、すっかり歴史用語となってしまった。その時代、既成左翼のカビ、滓を徹底的に排したいと多くの「新」左翼組織が誕生した。
 既成の政治組織を超えた運動の在り方といってもモデルがいる。スターリンに追われメキシコに亡命し謀殺されたトロツキーの思想に学ぼうという若者が現れる。中国の文化大革命のバーバリズムの実相もしらず、毛沢東派なのる輩も出てくる。そんななかでソ連とも中国とも距離をおいた社会主義の道を実現していた(と見えた)ユーゴに模範と光輝を見い出そうという若者が出てくる。しかし、チトーが死去し、ユーゴが解体しみれば膨大な対外債務が遺されていた。チトーはソ連に加わらないとういう西側諸国との“約束”によって、繁栄する西欧からの経済援助を受けつづけ、借金が膨らむと、またさらなる援助を求める、という豊満財政下にあったことが解体後、明らかになった。ただし、西側諸国への窓を開きつづけたお陰でロシア 東欧圏より工業化は進み、観光客の誘致に励んだおかげで潤った。その最大の恩恵地はアドリア沿岸地方だった。
 クロアチアとスロベニアがもっとも経済発展したが、むろんチトーの手腕によるものではなく、西側諸国に国境を接していた地の利、この二ヵ国のみ西欧と文化的な価値観を共有しやすいカトリック国であったからだ。
 日本の付け焼刃的な「新」左翼活動家たちはバルカン諸国とオスマン・トルコ帝国との攻防史を学ぶことはなかった。彼らにとってユーゴとはチトーの時代から始まるものであった。それではボスニア内戦の内実は何もみえない。
 第二次大戦下、ナチ・ドイツ、ファシスト・イタリア軍と果敢に戦ったチトー将軍指揮下のパルチザン勢力が、戦後、ベオグラードを首都とする ユーゴスラビア連邦共和国を成立させた。初期にはソ連の援助で、後には西側の経済援助によって他の東欧諸国とはまったく異なる経済発展を遂げた。表現の自由、外国人観光客の出入りもオープンな、それは現在の社会主義キューバ並みの開放性をもつものだった。
 1991年6月、スロベニアが独立宣言をした。ユーゴ解体の始まりだ。スロベニア独立に対してセルビアの「連邦軍」が武力介入し、小規模な内戦がはじまった。この時、セルビアが独立を力づくで抑え込もうとしなければ、その後にはじまる旧ユーゴの悲惨な内戦はなかっただろう。独立を志向する他の旧ユーゴ諸国は、ベオグラードのセルビア政府が武力で「独立」を阻止しよというなら、それに抵抗できる武器・兵力を持とうと、まずクロアチアが動いた。スロベニアの武力介入が悪例をつくったといえる。クロアチアとセルビアとの内戦がはじまる。ボスニアの少数派であったセルビア人は勢力圏の拡大を狙って武装蜂起し内戦がはじまる。現在もこう着状態にあるコソボの内戦も惹起した。
 
 1994年2月、ノルウェーのリレハンメルで冬季オリンピックの開会式が行なわれた当日、筆者は熱帯のカリブ沿岸の小国ベリーズの首都ベルモパンのホテルでクーラーの効いた部屋にいた。ベットに横たわりながらTVで華やかな開会セレモニーを眺めていた。
 その開会式が行なわれたスタジアムの電光スクリーンにサラエボの荒廃したオリンピック元会場が映し出された。1984年、社会主義国としてはじめて冬季オリンピックの主会場となったスタジアムである。そこは仮設の墓地となっていた。
 内戦中、多くの市民が市街戦、射殺、爆殺、そして虐殺によって殺された。市内の墓地は飽和状態となり、郊外の墓地に行くにはセルビア人武装勢力の支配地域を通過しなければならなかったボスニア人は、“空き地”となっていたスタジアムの土を掘り起こし仮設墓地とした。サラエボの平和の祭典は、リレハンメル大会からわずか10年前のことに過ぎない。そのとき五輪のはなやぎのなかでサラエボ市民はおろか世界中でTV中継を視聴していた者、誰がオリンピック競技場がまもとな墓標もない 無惨・荒涼とした墓地に変貌してしまうことを想像できただろうか? 
 先に紹介したヤドランカさんは、サラエボ大会の開会式で、クロアチア生まれのマルコ・ポーロの遥かな旅に託し、平和はひとびとを時空を超えて繋ぐと朗唱したのだった。

 リレハンメル大会から数年後、中米エル・サルバドルで人権・平和活動に献身した人(団体)を顕彰しようと「オスカル・ロメロ賞」が創設された。同国は12年の激しい内戦で多くの犠牲者を出した。その内戦の初期、首都サン・サルバドル大司教がミサの最中に暗殺された。政府軍右派の青年将校のテロだった。大司教は、食事もままならないスラム民衆によりそって献身的な活動をつづけた。そして、教会放送を通じて政府軍の暴力を諌め、独裁政権を批 判することもためらわなかった。大司教の善意は、右派政権から左派的な社会改革活動とにらまれ、“赤い聖職者”として再三、暴力による威嚇を受けていた。しかし、神の導きによって困窮する民衆に寄り添い、民の声を代弁しつづけると不退転の姿勢を崩さなかった。そうして暗殺された。賞の名は、その大司教の名を冠したものだ。
 12年のエル・サルバドル内戦が終結し、社会が平穏化した時期、同国の人権団体などがロメロ大司教の志を汲むように、その名を冠した平和賞を創設したのだ。その第一回目の受賞者がサラエボで、戦火のなかでも一つの民族に偏しない報道をつづけていた新聞社オスロボジェーネに贈られたのだ。
 ラテンアメリカで13年生活しているあいだに私がもっとも鮮明に思い出すことができるボスニアの話題はその二つだ。そのボスニアに行くことなど、当時、考えも及ばないことだった。オリンピック競技場が墓場に変わることなど誰も想像できなかったように。

 ボスニアはただ、車で走っているだけで内戦の〈傷〉が露出しているのを散見できた。
 たとえば、道路の分岐点の前にたつ地名標識はボスニア語とセルビア語で書かれている。ボスニア語はローマ字で示され、セルビア語はキール文字で示される。そのキール文字のほとんどが黒々とした乱暴な線で消されていたり、なかにはガスバーナーで焼かれたと思える焦げ痕があるのだった。内戦時代の古いものではない。あきらかに新しく立てられたと思われる標識も損傷されているのだった。そんな〈傷〉を舐めるように車を走らせた。ネレト バ川に沿って走り峠の道を昇り降りしてサラエボに入った。
 かつてスナイパー通りといわれた見晴らしのよい道路のすぐそばに内戦中、世界中のジャーナリストを宿泊させたホテル・ホリディーインがある。映画にも幾度か登場したホテルだ。砲撃を受けながらも営業を続けていた。限られた食材を工夫しながら記者たちをもてなしていたが、デザートはしなびた林檎であった。
 スナイパー通りとは、セルビア人武装組織の射撃手がサラエボ市民を狙い撃ちし、多くの犠牲者を出した通りの俗称だ。その通りにはおしゃれな路面電車が走っていた。内戦中、路面電車の車輌は焼け爛れ鉄さびをさらしていた。いまは2両編成の路面電車として復興して滑るように走っていた。その電車の横を走り抜けてサラ エボの旧市街へ向った。

 サラエボはミリャツカ川いう小さな川沿いに発展した町だ。第一世界大戦開戦の導火線は、この川の畔、川に架かる石畳の橋の袂で起きた。オーストリアからの独立を求めるセルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を射殺した事件が発端だ。その事件現場はいまも保存され、サラエボ観光のランドマークとなっている。
 モスタルの石橋
そのミチャツカ川はやがてネレトバ川に吸収され、アドリア海に注ぐ。そのネレトバ川に沿ってサラエボから車で3時間ほど西へ走らせると古都モスタルに着く。オスマン・トルコ時代の名残りを色濃くとどめた町で、ネレトバ川に架かるスターリ・モストと呼ばれる美しい石の橋の両岸に発展した。トルコ人がつくった橋で、その周辺の景観は世界遺産に指定されている。橋は第2次 大戦の戦火にあっても落ちなかったが、ボスニア内戦の爆撃で破壊された。対外戦争で破壊を免れた橋が、昨日までの友人であった者との戦いのなかで無惨に落ちた。それほどボスニア内戦は烈しかった。
 スターリ・モストの近くに小さなイスラム寺院に抱かれる墓地があった。墓標がみな新しく、しかも形状がほとんど同じだった。ふと思い当たることがあって、墓地に入っていた。白い墓標群に汚れはまったくなかった。墓標の記しをみると「1994」、ほとんどが同じ没年を記しているのだった。20~30代の夭折が無惨に林立していた。 ボスニア現代史から1994年の項目を探す。
 NATO軍がボスニア内戦に武力介入しセルビア軍に対して空爆を繰り返した時期だった。この空爆に対しセルビア軍は中立的立場で活動していた国連保護軍の兵士を人質にとってNATO諸国に揺さぶりを掛けるなど、戦況は泥沼化していた。墓に眠る若き兵士たちはこの時期に戦死していた。
 同じような墓の仕様、没年がほぼ同じ若者の墓の林立というのを数年前にみたことを思い出した。
 中央アジアのウズベキスタンを訪れた時のこと、大戦の敗戦で満州などに展開していた日本人将兵はシベリアに抑留された。その将兵たちの多くが労働力としてウズベキスタンで運河作りに動員された。そこで横死した日本将兵たちは国内数カ所にまとめて埋葬された。その墓地の一角に必ず若い青年たちの墓が林立し、その没年が ほぼ同じだった。
 アフガニスタンの戦場で斃れた将兵たちであった。ソ連時代、赤軍は作戦行動を容易にするためアフガニスタンの主要言語であるタジク語を理解できる中央アジアの連邦諸国から多くの若者を狩りだし戦地に送ったのだ。日本ではロシア人兵士とアフガニスタン・ゲリラとの戦いと思われているようだが内実は違う。ソ連時代、中央アジア5カ国の多くの青年たちがソ連兵士として前線で戦い死んでいるのだ。ソ連解体後、ロシアからの独立を求めて戦ったチェチェンからも多くの若者がアフガニスタンに派遣された。チェチェン内戦は、かつてアフガニスタンで戦友であった兵士たちが、敵味方に分かれて凄惨な戦いを展開したのだった。北京オリンピック開催中に起きたグルジア戦争もまた同じような状況を呈した のだ。
 ウズベキスタンはソ連解体後、民族的伝統を復興させ、イスラム寺院の多くを再興させ、聖職者などを育成する教育施設マドラサも建てられた。墓の多くもイスラム仕様になっていただろう。ボスニアも同じような宗教化が起きている。サラエボでは広壮なイスラム寺院が内戦後に建てられている。

 冷たい雨の降る古都モスタルの墓地の前を、ヒジャブで頭部を覆った若い女性たちの一群が通った。ヒジャブとはイスラム教徒の女性たちが頭髪を覆うスカーフの名である。さまざまな色のヒジャブだったが、みな淡いパステルカラーでとてもおしゃれな印象。それはごく自然な光景として町に溶け込んでいた。
 ボスニア内戦下、ボスニア人はイスラム回帰、宗教性を深めたといわれる。原理主義に民族性を求める若者も増えた。一方、クロアチア各地で訪れたカトリック聖堂はどこも日曜礼拝に多くの老若男女が集っていた。ハンガリーのブラペストでも。ポーランドから東欧圏出身の初の法王としてヨハネ・パブロ二世が選出され、同国のカトリック教会は豊かになった。ロシアでは正教会が次々と復活し、旧ユーゴ諸国の各地の内戦では欧米諸国から“悪者”と指弾されたセルビア軍、武装勢力を精神的に支えたのはロシアと同じ正教会への信仰でもあっただろう。世界でもっとも古くキリスト教を国教と定めたコーカサスの小国アルメニアは、世界中に四散した同胞たちの精神的な支柱の位置を獲得した。
 冷戦後、イスラム原理主義の台頭ばかりがいわれるが、キリスト教圏でも原理主義的な組織の台頭を含め、多くの能動的な活動が生じたことは忘れてならないだろう。
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