スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アラル海  20世紀最大の環境破壊  …ウズベキスタン紀行抄

アラル海の激しい後退
  20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

 
 ヒロシマの「原爆ドーム」を核戦争の象徴としてユネスコが世界遺産とするなら、今またアフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊跡を人間愚行の証しとするなら、消滅しつつあるアラル海の荒廃そのものも収奪的経済がもたらした環境破壊の最大の現場として世界遺産とすべきだ、と思った。

アラル海

 想像を絶する光景だった。
 「ここは激しい波が打ち寄せる断崖絶壁だった」とタクシーの運転手が言った。
 しかし、見渡すかぎり広漠とした無彩色の空間がはるか彼方、地平線まで果てしなくつづいていた。
 第二次世界大戦の巨大な戦勝記念塔がそこに建つ。おそらく、戦勝塔は、ナチドイツの鉄の暴風によく耐え、戦い抜いたソ連人民の不屈の精神を象徴するのだろう。絶えず吹き寄せる海風を受け止める、そんな苛烈な場所に建てられた意図はそういうものだと思う。
 そう、戦勝碑が建立された当時、アラル海の波頭はその岸壁を洗い、豊かな魚影は近在の村を潤していた。しかし、岸辺ははるか彼方、二〇〇キロも後退してしまったのだ。
 「アラル海がここから去って、冬は厳しく、夏は過酷になった。ひどいもんだよ。美味い魚は食えなくなるし」とも運転手は言った。
 彼はカラカルパクスタン人、モンゴル族の末裔となる。母語はウズベク語の縁戚にあたるカラカルパック語だからロシア語が拙いのは仕方がない。文法はもとより時制もいい加減で、みな現在形で処理していると通訳してくれた在タシケントの日本大使館職員が言った。
 まだ四十年にも満たない前の話。タクシー運転手の幼少期には、アラル海は世界第四位、琵琶湖の約一〇〇倍の巨大湖であった。それが一九六〇年代から急激に水位を下げはじめ八〇年代には水面が一五メートルも下降し、湖面積で六二%、水量で八四%も減少し、現在は中洲が露呈して三つに分断されてしまった。涸れた湖底ではそこかしこで塩が凝固し、やがて風に削られ、微粒子となって宙に舞い上がる。そして、近在の農地に降り注ぎ、土壌を荒廃させているのだった。破壊の連鎖は止まらない。
 戦勝塔の建つ岸壁から三キロほど下ったところに漁港があった。かつて沿岸最大の水産加工工場をもったムイナクである。すでに岸と湖の境い目は消滅し、打ち捨てられた漁船、輸送船、そして沿岸の町をつないで航行していた小型客船の残骸があちこちに点在し、かつてそこが湖であったことを教えているだけだ。廃船は赤錆を晒して無惨である。甲板は指で押せばポロポロと剥離してしまうほど脆くなっている。
 アラル海はムイナクを見捨てたが、町はまだ生き延びている。しかし、ゴーストタウンといってもおかしくないほどの過疎状態だ。異様な静寂にみちている。映画館の扉が打ち付けられている。四、五階建ての公団住宅もあるが、人の気配がない。町の佇まいは立派だが荒廃感が著しい。子どもの姿がみえない。生活臭がまったく希薄なのだ。
 アジアやラテンアメリカのスラムは住民の過剰がその体臭とともに荒廃感を漂わせているものだが、ムイナクは住民の過少が町を“スラム”化し、冷たい風が人いきれを凍りつかせている感じだ。
 水産加工工場へ行った。かつて地域経済を支える柱であったところだ。正門の鉄扉には、湖から魚を捕獲する漁民の姿が描かれていた。絵具がまだ剥落せず残っている。つい最近まで操業していた、という印象だ。しかし、誰もいない。施設を管理する者もいない。
 最盛期には、年間四万トンの水揚げがあったアラル海の漁業はほぼ壊滅した。湖面積が縮小するのに比例して、残った湖水は塩分濃度を高めた。そして、カザフスタン側に分離して残された小アラル海でわずかに魚影をみるだけで、南の大アラル海側では魚影は消えたといわれる。
 ムイナクの町の入り口にたつ案内塔には、魚の絵が波の象徴とともに描き込まれていた。繁栄する漁港の面影は、住民たちの心にまだ生きている。アラル海はそれほど急激に衰退したということだ。


 アラル海は城壁をもたない遊牧国家スキタイの昔から中央アジアの人と自然を潤してきた。
 モンゴル族の侵出、ティムール帝国の盛衰、ロシア帝国の南進、そしてソ連邦に併呑され、やがて独立へと……人間社会の興亡に寄り添い、数千年のあいだワガママな人間社会に豊かな富を分け与えていた。人間たちもアラル海を畏敬し、さまざまな祈りの言葉ともに崇めてきた。仏教、ゾロアスター教、そしてイスラム教……祈りの言葉が貶められ、宗教をアヘンと見なした“労働者”の政府がはるか北方に誕生したときアラル海は荒廃へと助走しはじめた。
 ウズベキスタンの首都タシケントからティムール帝国のかつての王都サマルカンドを車で訪ねた。その道沿い、その左右にはてしなく綿花畑がひろがっていた。
 その大半が大戦後、クレムリンの命令型計画経済によって強制された土地改良、不毛の砂漠や荒蕪地を綿花畑に変える一大プロジェクトによって生まれたものだ。
 綿花栽培には多くの水を必要とする。
 ウイグル語で天山山脈をテンリ・タグというが、ここを源流とするのがシルダリア川。そして、七〇〇〇メートル級の高峰がつらなるヒンドゥークシュ山脈から流れ出す大河アムダリア川、この二大河川の豊かな水量をソ連政府は無限のものとみなした。そして、両大河から乾いた大地に水を引き込む運河を通し、四通八達させて綿花栽培地を拡大しつづけた。
 この運河建設に大きな足跡を残したのは大戦直後、ソ連軍に抑留された日本兵たちだった。というより、ウズベキスタンの運河は日本の抑留兵の存在抜きにしては語れない。
 首都のタシケントをはじめ各所に祖国に帰還することなく息絶えた抑留兵士たちの墓地がある。過酷な運河建設にたずさわり、病いなどで倒れた兵士たちが眠っているのだ。
 首都タシケントにウズベキスタンのボリショイといわれる国立ナボイ歌劇場がある。華麗とはいいがたいが質実剛健でティムールの末裔たちの首都にふさわしい剛毅さはある。この劇場の建設に日本の抑留兵がかかわり一九四七年に完成した。抑留された日本の若者たちの血と汗の結晶といってよい。
 「若者たち」と書いたが、歌劇場の建設に従事した日本抑留兵は「タシケント第四ラーゲリ」に収容されていた。歌劇場の建設を担当した抑留兵隊長は当時、二十五歳の永田行夫陸軍大尉であった。みな若かった。
 一九六八年、タシケントは都市直下型の大地震に見舞われる。スターリン時代に建設された建物の大半が壊滅したといわれる。しかし、ナボイ歌劇場はビクともしなかった。以後、ウズベキスタンでは、「日本人たちの優れた技術、誠実な仕事が堅牢な建物を残してくれた」との賞賛が定着した。
 ソ連から独立して以後、ウズベキスタンは、「わが国は日本と交戦したことはない。戦争はモスクワの政府がやったことだ」という“論理”で親日国であること宣明している。そのリップサービスに酔ったか、中央アジア五カ国中、ウズベキスタンは日本からの経済援助をもっとも多く享受している。しかし、政敵を非合法手段で逮捕、拘禁し、健全野党の存在すら認めないイスラーム・カリモフ大統領の“独裁”を擁護する姿勢は、欧米の人権諸団体からは懐疑の目で見られていることは認識すべきだろう。
 さて、ナボイ歌劇場建設でみせた日本抑留兵の堅実な仕事は、運河建設でも例外なく発揮されたのは当然である。当時の日本人の愚直なのだろうか、激しい労働にも関わらず慢性的な食糧不足、医療設備の不備、そして厳しい気候風土にも関わらず「手抜き」をしなかった。しかし、そうした仕事への誠実さは抑留兵たちの肉体を蝕んだ。多くの犠牲者を出した。コーカンド二四〇人、アレグレン一三三人、ベガワード146人、チュアマ三二人……と確認されているだけで八〇〇人以上の抑留兵が帰還することなくウズベキスタンの荒野に眠ることになった。
 戦後、運河建設に関わった人たちの手記や記録などが数種出版されている。けれど、その多くが私家版で広く読まれることにはならなかった。筆者が手にした自費出版を幾つか読んでみて、あらためて当時の日本人達の労働観、あるいは責任感の強さを知った。建設に携わった人たちが皆、「恥じない仕事」という意識をもっていたことだ。
 彼らの名が歴史に刻まれるわけではないが、「日本人の仕事」として残ることの意味を日本人として責任を待たなければならないと思っていた。日本人としての矜持が妥協を赦さない、という心根を皆、もっていたのだ。戦前の日本は、そうした美質をもった人たちをふつうに育てていたのだと思う。昨今、見つからなければ数本、鉄骨を抜いても、細くても安く上がれば 、それで良い。利潤を追求することを最優先させた“構造疑惑”など、ウズベキスタンの荒野で血と汗を流した人たちには理解できないことだろう。


 日本人たちが建設した運河は無論、現在も使われている。
 もちろん日本人に責任はないが、結果として堅牢に作られた運河はアラル海に流れ込むべき二つの大河の流れを急速に細くしてしまった。
 大規模灌漑事業は第二次大戦後から一九七〇年代まで引き継がれた。日本人たちが建設した運河から支脈も延びた。そうして七〇年代には六二〇万haの灌漑農地が造成されている。
 スターリン時代、綿花増産と運河建設の近視眼的な生産第一主義は、「やがてとんでもない自然破壊を引き起こす」と警告する農学者がロシアやウズベキスタンにも存在し、条理を尽くして反対していたという。しかし、そうした勇気ある学者は反ソ的存在として“粛清”されていった。また、ソ連邦中枢の科学アカデミーとその傘下に多数の研究機関が存在しながら、灌漑事業の推進による環境被害を食い止める調整制御機構をつくれなかったのは、生産向上というスローガンに乗らないと研究資金が政府から得られないという体制上の問題も無視できない。
 綿花栽培を主体的に担ったのはウズベク人であることは間違いないが、彼らはもともと遊牧の民であった。農耕を好まない民族である。しかし、ソ連政府はロマ族(ジプシー)の定住化を強制したように、中央アジア諸国の遊牧民の定住化を、イスラム教団の活動を停止させ、影響力を殺ぎながら推進した。
 一所不在の民族譜を織りつづけてきた遊牧民を定住化するには、生活の糧の創出がなければならない。急速な工業化社会が実現できない以上、農地を確保しなければならなかった。しかし、元々、痩せた地で収益を出せる換金作物は限られていた。伝統的な綿花栽培を拡大するのが一番、手っ取り早かった。しかし、綿花栽培には大量の水が必要だった。米国南部に綿花畑が広がったのは、カリブ海から吹き寄せる雨雲による降雨量があったからだが、中央アジアの降雨量の絶対値は少ない。そこで二つの大河から運河で水を敷くこととなったのだ。
 ラテンアメリカやアフリカ諸国の多くが旧宗主国から砂糖、コーヒー、あるいはバナナなどモノカルチャー経済を強いられ、今日まで構造的な貧困から抜け出させないでいるのと同じような状況によってもたらされた人災なのだ。クレムリンは中央アジア諸国にモノカルチャー経済を効率よく短期間で強いたともいえる。
 

 これまでウズベキスタンのアラル海として書いてきたが、正鵠を欠く。
 何故ならば、アラル海の沿岸を持つ地はウズベキスタンではなく現在、防衛と外交権をタシケント政府に委ねているカラカルパック自治共和国なのだ。ソ連邦崩壊後、短期間、「独立国」として存在いた時期もある。その独立以前、この小国は世界から弧絶した「封鎖国」であった。
 一九三〇年にスターリンはこの小国に「調査団」を派遣した。この国に散在する歴史的建造物の「科学的調査」を実施するというのが目的だった。調査の本当の意味は、いかにモスクワ政府に従わせるかの一点のみ。調査の結果として、一〇〇のモスクと二〇のマドラサ(神学校)が三四年、たった一年間で取り壊された。ただ破壊されたのではない。モスクなどの廃材はそのままソ連スタイルの役所などの建設資材として活用されていったのだ。
 カラカルパクスタンの首都はヌクス。中央政庁前の通り駱駝が日がな一日、寝そべっているような町である。その政庁の周囲には旧ソ連各地でみかける無彩色で堅牢な建物が幾つも建っているが、その建材にモスクやマドラサの廃材が使われたわけだ。こうした宗教破壊はロシア革命後、全土に及んだ。そして、イスラム教国では宗教施設が、宗教を否定する役所の建材に転用された。こうしたことが集約的に起きたのがコロンブスのいわゆる〈新大陸発見〉以後のアメリカ大陸、特にマヤ文明、アステカ帝国があったメキシコから中米諸国であった。ピラミッド型の広壮な神殿は次々と破壊され、その神殿跡地に山積した石材を組み直してカトリック教会の大伽藍を作ったのだ。
 現在、新大陸一の規模を誇るメキシコ市のカテドラルはアステカ帝国の中心地に、神殿を破壊して建てられたものだ。その地下には、幾層ものアステカ期の遺構がいまも眠っている。そう、スターリンが中央アジア諸国で行なった宗教施設の破壊は、スペイン征服軍のエルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードなどがやった蛮行と基本的に変わらない。
 スターリンの犯罪は宗教者への弾圧で加速した。カラカルパクスタン政府の資料によれば、宗教施設の破壊の完了とともにはじまり三七年から翌三八年に掛けて約四万一千人が逮捕され、七千人が処刑された。おそらくカラカルパクスタン人の抵抗はつづいたのだろう。三九年からスターリンが亡くなる五三年までに約10万が逮捕され、一万三千人が処刑されたという。逮捕者のなかにはシベリアなどのラーゲリに送られ、獄死したものも多かったはずだ。そうした犠牲者の存在は、現在でも総人口百五十万の小国にあっては知識人と宗教者の大半が消された、ということだ。当時のイスラム社会にあって知識人とはイスラム神学者、高位聖職者であることも意味した。
 こうして抵抗勢力を徹底的に殺いだ後、スターリンはカラカルパクスタンを「封鎖国」として外国人の入国を制限し、ヌクス郊外に地元民をまったく雇い入れない秘密軍事工場を建設し、さらに、アラル島の孤島ボズロジェーニエに生物兵器を研究・開発する赤軍直轄の研究所を設立し、炭疽菌やペスト菌などによる動物実験を繰り返していたという。同島にはソ連軍侵入以前には漁民が暮らしていた。その住民が何処へ強制移住させられたか不明だが、無人となった島に赤軍が生物兵器の実験場としたのは、カラカルパクスタンにソ連の強制執行の「調査団」が入る前年の三六年であった。
ソ連邦崩壊後、九一年に赤軍撤退にあたって施設は無菌状態に戻され、完全封鎖して引き上げたといわれた。しかし、約一〇年後の二〇〇〇年に米国の疫学調査団が入島、殺菌され地下数メートルに遺棄されていた炭疽菌の胞子数一〇トン(!)のうち一部が生きていることが確認されたという。同調査団は無論、緊急処置を施し、細菌の流出を止める処理し、本格的な除去をできるだけ早い時期に実施するということになっているが、現在のところ、その作業はまだ済んでいない。
 同研究所の細菌の一部がなんらかの理由で漏洩し、カザフスタン沿岸周辺で八八年にはペストが流行し、八八年には家畜五〇万頭が原因不明の病気で死んで、周辺住民に避難命令が出たことがあった。
 かつての漁港ムイナク周辺の乳幼児の死亡率がウズベキスタン平均を上回り、アラル海の後退による何らかの原因と予測される。


 アラル海から揚がった水産物はムイナクだけでなく水量の豊かだったアムダリア川を遡上して首都ヌクス郊外に岸辺に作られた加工工場に運ばれた。その工場も現在は閉鎖され、従業員の宿舎は空き家となった。工場で働く従業員のほとんどがロシア人であった。ソ連崩壊後、ロシア人は引き上げ、空き家となった宿舎に地元民が入居した。その村に住む老人の案内で、「アムダリア川が消滅している場所はすぐそこだよ」ということで案内してもらった。
 そこにも漁船、小型輸送船や係留されたまま朽ち果てているのだった。その一艘の船体には「レフ・トルストイ号」とあった。
 「すぐそこまで水量はあったんだ」と老人が示す辺りから、数十メートル先まで下降したところに細い流れがあった。無論、大河の面影はまったくない。
 村の近くの路上で魚をビニールシートの上にならべて売る人たちがいた。アムダリア川から獲ってきたものだが、こんな魚も数年後には揚がらなくだろう。
 ウズベキスタン政府は非公式だが、アラル海の再生をあきらめたという。
 アムダリア川とシルダリア川の水量をかつてのように戻し、アラル海に注ぐ量を増やすためには膨大な綿花畑を潰さないといけない。そこで生計を立てる農民の再就職先を確保しなければできない相談だ。それに綿花の輸出に頼る経済構造を急激に替えるわけにもいかないし、同国東部のファルガナ盆地では地域格差を放置するカリモフ政権に対する根強い反対勢力が存在し、二〇〇五年には中央アジア諸国が独立して以来、最大規模といわれる暴動、それを鎮圧するための過酷な弾圧が行なわれ女性や子どもを含む五〇人以上が殺されている。これ以上、貧しい農民の生活を困難にする施策は絶対にとれないのが同国政府の現況だ 。
 ただ、同じような独裁的な国家であるカザフスタンだが、独自に同国領で分離して残された小アラル海では漁獲が認められること、保全が可能ということで水量維持するためのダム建設、及び南の大アラル海につながる水路を封鎖する工事が進められている。この一連の工事のためにカザフスタン政府は世界銀行から多額の資金を借り受けている。この返済に見合うだけの価値が小アラル海の一連の再生事業に見合うものかどうか、それは先の問題である。
 ダムは永遠に使用できるものではありえないし、世界的な傾向としてダムそのものの見直しが始まっている。それに、これまで世界銀行が融資する、いわゆる「開発援助」事業の多くが広大な環境破壊に繋がっていることは周知の事実で、たとえば“ 地球の肺”と呼ばれるブラジル・アマゾン地帯の荒廃に拍車をかけたロンドニアの植民事業に世銀が積極的に融資した。一九九七年、インドネシアの熱帯雨林二六万ヘクタールが消失し、隣国のマレーシア全土まで煙幕で覆った“人災”も世銀が融資した開発事業計画に遠因がある。世銀の絡んだ“人災”は一九六〇年代に開発途上国を対照に開発融資を行なうようになってから、地球の各所で引き起こされるようになった。


 ムクスの博物館で三〇年ほど前にモスクワで発行された豪華な写真集〈今日のウズベキスタン〉を売れ残っていた。退色した表紙をめくると綿花の収穫が飛躍的に伸びた、と自画自賛する本であることが分かる。農民の顔は晴れやかであり、役人も自信に満ち、灌漑用水に勢い良く水が流れている。言うことなし。計画経済の勝利、社会主義バンザイである。この制作された映画などでも広大な綿花畑を映し出すものがあったし、海外にでなかった歌、教宣的小劇(街頭劇)、プロバカンダとしての詩や小説にも繰り返し描かれただろう。それがソ連という国であり、スターリンの時代にそうしたことが国の文化政策として決定した。しかし、その社会主義バンザイはアラル海の荒廃を告げる晩鐘のなにものでもなかった。 2007/6
スポンサーサイト

トルコ系クルド人は埼玉県蕨市をワラビスタンと呼ぶ~トルコ大使館前の乱闘事件について

トルコ系クルド人は埼玉県蕨市をワラビスタンと呼ぶ
 ~トルコ大使館前のトルコ人とクルド人の乱闘について


 ワラビスタン、日本に在住しているクルド人ならたいていしっている日本の“地名”だ。
 埼玉県南、日本でいちばん小さな面積しかもたない蕨市を、クルド人はそう呼ぶ。蕨を中心に川口、戸田地域は日本でもっとも多くのクルド人が住むが、彼らにとっては蕨を中心にした広がりを国を意味する「スタン」をつけて命名したのだ。
 国をもたないクルド人たちにとって「スタン」をつける心性を思わずにはいられない。そう蕨はクルド人にとっては圧政者トルコ人のいない自由な自分たちの空間なのかも知れない。
 しかし、彼らとてトルコ政治から逃れられない。それを象徴するような事件が10月25日、東京原宿のトルコ大使館前で起きた。クルド人とトルコ人の乱闘事件だ。それは蕨にも波紋を広げた。

 埼玉県南でクルド人の人権問題などをサポートする市民団体は重軽症者9人を出したといわれる乱闘事件の夜には、現場に居合わせたクルド人二人から聞き取りを行なった。そこで証言されたことはテレビや新聞などで報道されたことはだいぶニュアンスが違う。
 マスコミ各社が事件の知らせを受け現場に到着したのは午前11時以降のもので、それ以前の混乱な報道されていない。事件は当日早朝からはじまっていた。
 
 日本に在住するトルコ国籍をもつ人たちは約3700人、うちクルド系が推定1000人といわれる。その大半が蕨を中心に埼玉県南に住む。トルコ人は日本全国に散在して住むがクルド人は集住しているのが特徴だ。理由は明白だ。クルド人の多くがトルコ軍の迫害や、政治活動で国内に留まれなくなった人、あるいは生活に困窮し縁故を頼って日本に渡航してきた立場の弱い人たちが、同胞が集まる地域に引き寄せられるからだ。そうしたことは全世界で起きていることだ。
 そのクルド人たちもトルコ国籍である以上、本国の総選挙への在外投票権を持つ。トルコでの総選挙は11月1日だが海外では前倒しで25日に行なわれ、投票所となった大使館にトルコ人もクルド人も集まり、そこで乱闘が発生した。

 事件当夜、蕨で現場に居合わせたクルド人たちへの聞き取り調査が行なわれた。クルド人たちの人権問題に関わる地元の市民団体の活動家、弁護士などが行なった。
 聞き取りによれば、週末の夜を六本木周辺で遊んでいた若いクルド人5人が、帰宅せずにトルコ大使館前に車で乗りつけ投票が開始されるまで待機しようとした。そこへ、クルド人の車を挟み込むように2台の車が停車し、その車から降りてきた数人の男たちがいきなりクルドの青年たちを殴りつけはじめた。その時、暴力行為に出た男たちは、「この前は(6月の選挙)俺たちがいなかったから、あんなことになってしまったが、今回は前回のようなわけにはいかない」と言ったという。
 「この前の選挙」とは2002年から13年間にわたり過半数の国会議席を占め、単独政権を維持してきた保守系のエルドアン大統領の与党AKP(公正発展党)が、クルド系の政党の票に食われるかたちで過半数割れを引き起こした選挙を指す。
 選挙直後から政権の安定を図るためエルドアン大統領は野党と連立工作をはじめるが不調に終り、今回の再選挙でふたたび過半数の獲得を目指したのだ。
 
 しかし、6月の選挙以来、エルドアン政権は、イスラム国(IS)が勢力を拡大していると称しクルド人が多く住むイラク北部、国内のクルド人居住区へ空爆を重ねた。さらに10月10日には首都アンカラでクルド人たちが平和的に集会をしていた会場で爆弾テロが起き100人あまりが死亡する事件が起きた。爆弾事件の真相はまだ明らかにされていないが、事件によってクルド人たちが穏健な集会すら自制しなければならなくなった、という意味では政権に利するものとなった。
 という意味では25日以前に、大統領支持派の在日トルコ人とクルド人との間には一触即発の緊張があったが、少なくともクルド人には乱闘を引き起こして、自らの投票行動を放棄する理由はまったくなかった。

 蕨での聞き取りによれば午前7時前に名古屋から来た2台のミニバスに約50人が乗っていて、乱闘に介入。その時、現場にいた警官は3人で、蕨在住のクルド人A氏が警官に、「このままで大変なことになる、もっと大勢の警官を呼んでください」と要請。A氏によると、最初に暴行を受けた若いクルド人は重症を負い病院に搬送されたが、「警官がいなければ殺されていた」と証言している。
 その間にも乱闘騒ぎを知らないクルド人が投票のために次々と到着、緊張感はさらに増長し、事件をしらず子どもつれでやってきたクルド人女性も多く、身の危険を感じて近くのコンビニに逃げ込み、日本人店員が店を閉じて匿ってくれたと証言している。また、乱闘のなかでトルコ人の一人は、「クルド人からパスポートを取り上げろ」と叫んでいたとも話す。

 クルド人の大半はこのままでは正常な投票ができない、あるいは大使館のなかでパスポートを取り上げれる危険も感じ引き換えした。
 事件の真相はこれから解明されていくだろうが、結果論でいえば、この乱闘事件で漁夫の利を得たのはエルドアン大統領の与党ということだ。また、一部のマスコミが、「クルド人がクルド人政党の党旗を取出したことが」火に油を注いだかのような報道があったが、クルド人自身が自らの投票の権利を放棄するような挑発行為をわざわざ行なうことはない。このことは強調しておきたい。
 乱闘事件によってクルド人政党に流れる票が阻止されたという事実だけが残った。また埼玉でクルド人を支援する日本の市民団体が当日、TVなどマスコミの取材に応じて発言したことはいっさいカットされたことも記して起きたい。 
 
 28日には怪我をしたクルド青年も参加して川口で記者会見、「私たちは争うつもりは全くなかった。平和に投票をしたかっただけ」と訴え、「理由はどうあれ日本人に迷惑を掛けたことをお詫びしたい」と語っている。

セルジュ・ラトゥーシュ「消費社会からの脱出」

講演会
 セルジュ・ラトゥーシュ「消費社会からの脱出」

 フランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュ(パリ南大学名誉教授)が提唱した脱成長理論は、いま世界の覆っているグローバル経済の構造的矛盾を克服する新しい経済理論として世界的な注目を集め、「新しいコミュニズムの仮説」とも言われる。その思想を自らの語る講演と、日本でラトゥーシュ理論に賛同し研究者を集めた講演会が5月24日(2014)、東京恵比寿の日仏会館で行なわれた。

 「1958年、米国の経済学者ガルブレスが『豊かな社会』という著書を書き世界的な注目を集めた。それは消費社会のまやかしを批判する書として先駆的な価値があり、経済成長の限界を主張したものだった。
 ガルブレスの予見は、フランスにおいては1968年の5月革命や、2008年のリーマンショック後の混乱を言い当てるものだった。
 ガルブレスの予見から約半世紀のあいだに西洋文明はいくたびも経済的な危機を繰り返し起こしてきたし、地球の自然環境は悪化するばかりだった。こうした危機的状況を救うには、有限の地球資源を構造的に無駄づかいするしか経済成長できない仕組み、矛盾を問い、脱却しなければならない。日本は明治維新以来、西洋型の消費社会に入っていき、おなじような矛盾を 抱えることになった。
 私がいう消費社会とは成長が成長を促す止めどもない経済システムを指している。
 「成長」という信仰に支えられたシステムだ。それは無際限の資源の搾取であり消費である。人間に必要なものはわずかしか生産せず、生活にさして必要でないものを、あたかも必要であるかのように見せかけ、人に消費意欲を生じさせ、依存を生み出すシステムだ。
 生活に対して必要でないものを大量に生産し、それを買わせるためにはCMが必要になる。モノの大量消費のためにはCMは不可欠な存在だ。何故なら、もともと生存に必要でないものを買わせるわけだから、消費者に幻想を与える必要があるからだ。
 そうした幻想に惑わされた消費者は、購入資金が足りないとクレジットに容易にア クセスできる仕組みを企業は用意した。不況のなかでもクレジットやリボリングで消費者に金を提供し、借金地獄に追い込むシステムだ。
 現在、パソコンは必需品となってしまった。それは故障もするし消耗もする。しかし、故障を修理するより、新型を買った方が安いというシステムができている。絶えず新しい機種を作り出し買い替えという“消費意欲”を造形し、消費を刺激する。古いパソコンはすぐ使えなくなり、反故となったパソコンはただの有害物となって先進国ではもてあましモノとなり、途上国に送られて処理されている。
 消費社会とは大量に必要でもないものを生産し、それを作り出すために資源を搾取して自然環境を破壊し、さらに不要になったモノは有害物質となり、その破棄の過程で自然を汚したり、人を病いをもたらすシステムだ。
 私たちはもはや「簡素な豊かさ」を求めるしか生存できない時代に来ている。
 地球の財力を守ること、必要に応じて使うことでしか自然は再生しないだろう。生態系の破壊は地球大に拡大している。人間が生き延びるためには大胆な再建案が必要だ。
 そこで私たちは現に地球上の各地で実践されている真の豊かさをもとめる運動に注目する。それらの動きは現在、みなバラバラに行なわれているが、その地域の特殊性に応じたやり方で自然環境を阻害しない脱成長運動である。それはまったく統一する必要はない。多様性こそが力なのだ。(2013年5月)

西谷修・東京外国語大学教授
 日本は東日本大震災で多くのことを学んだ。特に原発事故による被害は日本における消費生活というのを抜本から見直された。被災地では人が助け合いながら被災直後を生き延び、都市では節電のなかで暮らしを工夫するなかで、ひとそれぞれが生き方を問い直しなどをしてきた。原発が作り出す大きなエネルギーは都市の夜を照らし出し、さまざまな家電商品を稼動させ生活の快適さを与えていたと思い込まされていた。そのことを原発事故で知らされた。原発は快適さどころか社会を根底から破壊しうるものであることを示してくれた。そうした状況のなかでラトゥーシュ氏の一連の著書が翻訳され、消費社会は麻薬への依存のような構造を示してくれた。
 現在の経済システムは100年先などみない 。1年どころか上半期といった時間で動く。そんなシステムからは地球の未来を到底、見通すことはできない。
 
ラチューシュ氏の新著『〈脱成長〉は、世界を変えられるか?』
 同氏の前著『経済成長なき社会発展は可能か?』で提示した理論の実践的な例を世界各地の活動を紹介し、さらに無駄に消費しない価値観の創出として、「贈与・幸福・自律」の多様性を模索する。カテゴリーでいえば経済学の著書であろうが、アジアで唯一のノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・セン氏の著書がそうであるように領界を超え、経済学の論述で語られた文明論としても読める。グローバル経済の弊害が露呈するなかラトゥーショ氏の「経済成長なき社会発展」論は、もうまったなしで、この時代に生きる人間に対する警告であるかもしれない。 作品社刊。2400円。

もう一つの太平洋戦争

もう一つの太平洋戦争
  南米の国境紛争ペルー、チリ
イキケの海戦  太平洋戦争  当時の「イキケ海戦」を描いた歴史画

 ラテンアメリカにおいて、「9・11」は南米チリのアジェンデ政権が、ピノチェット将軍の軍事クーデターによって圧殺された日(1973年)として記憶されている。「太平洋戦争」もまたチリ、ボリビア、ペルーが交戦した戦争として記憶される。
 広大な太平洋は南北半球を越えて多くの国の沿岸を洗う。その広大な海を排他的な経済圏にしようというのがTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)だ。そのTPPの加盟国チリ、交渉参加国ペルーとのあいだで争われていた太平洋海域の領有権問題がオランダのハーグ国際司法裁判所の先ごろ、裁定が出て決着した。

 この領海問題は1952年から係争となっていたものだが、起因はもっと根深く1879年から84年に及んだペルー、ボリビア両国とチリとのあいだで戦われた「太平洋戦争」に遡る。海戦の勝敗が重要な分岐点となったという意味で、その名がある。
 この戦争は火薬をつくるのに欠かせない硝石、そして鉄鉱が埋蔵される広大なアタカマ砂漠の領土権をめぐっておきた。戦争の結果、チリが優勢な海軍力によって勝者となり、それまで沿岸地帯をもっていたボリビアの領土はチリに奪われ内陸国となってしまった。ちなみに南北アメリカ大陸で内陸国はボリビアとパラグアイの2カ国のみだ。
 南米の太平洋戦争は、スペイン植民地時代の行政区分の曖昧さが遠因にあり、独立時も辺境の国境線は正確に測量されなかったことが起因だ。現在も紛争の火種を抱えるところは幾つもある。アフリカや中東諸国などともに15世紀以来の欧米の帝国主義の残滓はまだ根深い問題を残しているのだ。
 
 ペルーとチリが執拗に領海権をめぐって紛争をつづけたのは、そこが沿岸漁業者にとって掛け替えのない豊かな魚場であるからだ。両国はラテンアメリカにあってめずらしく魚料理を発達させた。南極海域から北上するフンボルト寒流が魚を育て運んでくるのだ。また、寒流のおかげで沿岸地帯は温暖で人の生活にふわしい風土を形成した。赤道から船で南下しその沿岸地帯にインカ文明をはじめ幾多の先住民文化が栄えた。沿岸漁業者にとって魚場が広いほど良い。
 ハーグの裁定を報じたペルーのマスコミは、「これまで維持してきた魚の宝庫であった領海は守られた」と勝利宣言をした。チリもまた勝利宣言をしている。ペルーは当初のもくろみより領海は減ったが魚の宝庫海域は維持され、チリは当初より領海を拡大したのだから勝利だということらしい。しかし、チリの漁民は反発し、ペルーに隣接する町アリカの零細漁業者たちは街頭デモで政府批判を展開しているし、ペルー南端地方の沿海漁業者も裁定によって遠くまで出ていかなければならないことになって、現実は痛み分けとなったようだ。
 両国の沿海漁業者たちは、中央のおえらがたは海の実情も知らずに海面だけで判定したという怒りがあるだけだろう。政府間で合意できたとしても両国の漁民は今後も領海侵犯を繰り返すことになるのだろう。 (2014)

竹島と日本人~猟師・中井養二郎/2月22日、「竹島の日」には中井翁の継承を

竹島と日本人~猟師・中井養二郎 
  2月22日、「竹島の日」には中井翁を継承せよ

*下記の文章は、2013年1月に書いたものだ。本日2月22日、「竹島の日」をめぐるさまざまな報道を目にして、にわかに拙稿のことが思い出された。転載しておきたい。

りゃんこ島  中井翁が自ら手書きして農務省に提出した「りゃんこ島図」


 明治末期、島根県隠岐島周辺でアシカ猟を営んでいた猟師に中井養三郎(1864-1934)という人がいた。当時、アシカの皮と油が珍重されていた。このアシカの猟場が当時りゃんこ島と呼ばれていた現在の竹島であった。中井はアシカの乱獲を恐れ、資源保護を訴え1904(明治37)年7月、農務省水産局に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を、中井自ら手書きした「りゃんこ島図」とともに提出した。これが、現在の日本政府による竹島領有県主張の有力な根拠となるものだ。

 当時のりゃんこ島、竹島は毎年5月頃になると数千のアシカが繁殖のために集まってきた。このアシカに目をつけて猟をはじめたのが中井である。日本沿海だけに棲息したニホンアシカという固有種である。
 日露戦争前の時勢がアシカの皮と油を高騰させ、それまで中井の独壇場であった竹島のアシカ猟にあらたに参入する猟師が増え乱獲をはじめた。
 それまで資源保護のために牝や子に手をつけなかった中井だったが、新規参入者たちは短期間の利益を求めて見境ないのない猟を行なった。そこで中井は自らの独占的権益と資源保護を考え、さらにそうした保護を有効にするためにはいまだ領有がはっきりしていない、りゃんこ島を日本領土として正式に認め、政府は内外に領有権を宣言しろ、と訴えた。それが日露戦争開戦の年であった。
 当時、りゃんこ島と呼ばれていたのは、1849年、フランス船リアンコールトの船員が小島の連なりを発見し船名を取って「リアンコールト列岩」と名づけたことから始まるといわれる。この名称の変遷には多くの資料があるが、ここでは中井の事跡にそって紹介するに留める。
 中井は島根県所属隠岐島司・東文輔の紹介状をもって農務省を訪れ、「貸下願」を提出するが当初、相手にされなかった。内務省、外務省にも日参、陳情をつづけたが功を奏さなかった。その中井の「貸下願」を海軍省水路部が関心をもった。アシカ猟ではなく領土編入そのもに関心を持ったのだ。
 避けがたい日露との海戦の主戦場を日本海と想定する海軍省として無関心ではいられなかったからだ。東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を迎え撃ち勝利したのは翌年5月、竹島の西南沖のことである。
 1905(明治38)年、中井の「貸下願」は、「北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島ヲ西北八十五浬ニ在ル無人島」として島根県所属隠岐島司の所轄と決まった。そのとき「竹島」と正式な呼称が与えられた。しかい、中井の独占は認められなかった。そのためアシカの捕獲量は増大したようだ。
 日露戦後、アシカの皮、油の需要が減り、猟での実入りも少なくなった。しかし、資本投下した事業者は利益を確保するために量を求めて乱獲に走り、アシカの生態数を激変させた。やがて、竹島でのアシカ猟そのものが中断し、ふたたび静寂の島になっていった。

 現在、韓国がヘリポートや埠頭、警備隊宿舎などを建造し権益を主張しているが、一連の建造によって竹島のアシカは絶滅したといわれる。そのあいだ韓国政府は信じられないが、もっとも自然破壊に手に加える軍事的施設を建造しながら、「天然保護区指定」をしている。韓国という国は法を作って魂こめずの国であることは一連の人命無視の人災で象徴される。人の命を軽んじる国がアシカを配慮することなどない、ということの例証。竹島の自然を破壊しても“領土保全”を図ろうというのは、この国のバーバリズムだろう。
 これまで竹島問題を自然保護、エコロジーの立場から「政治」抜きで論じられることはなかったが、かつて希少種ニホンアシカの繁殖地でもあった自然の宝庫としての竹島を再生する論議があってもいいだろう。日韓の論争に自然保護の観点を加える必要はないだろうか。
 
 今日、中井養二郎のくわしい事跡を手軽るに読むことはできないようだ。筆者が中井の詳しい活動を知ったのは故・駒田信二さんの『近代奇人伝』に所載された評伝であった。絶版になって久しい旺文社文庫にそれがあった。かつて日本人なら誰でも廉価な文庫で中井伝を読むことができたのだが…… 。こうした評伝を再販することも「竹島の日」の活動とすべきだろう。

スペイン領内の英国領土ジブラタルの紛争

スペイン領内の英国領土ジブラタルの紛争

 地中海と大西洋をつなぐ海の要衝ジブラタル海峡の存在は誰でも地理の教科書で知るところだが、そこに6・5Km2の英国領が300年間も存在していることは意外としられていない。いま、この小さな地を巡ってEUを巻き込んだ騒動が起きている。
ジブラタル  ジブラタルの恒久的支配を想定していると思われるジブラタル通貨。エリザベス女王の肖像を刻みつけるのは英国植民地における常道だ。

 10月22日(現地時間*2014)、英国ジブラタル自治政府が北アフリカのアルジェリアからポルトガル経由で海を埋め立てるため約二五〇〇トンの石を運び込み、あたらな紛争に発展しそうな気配だ。
 スペイン・イベリア半島南東端、ジブラタルの地は1713年から英国の支配下にある。英国が海外にいまだ維持する14の海外領土のひとつだ。スペイン王位継承戦争の講和の際、結ばれた1713年のユトレヒト条約で英国領有が決まった。それから300周年を迎え、スペインとしては今年を返還への道筋をつくる年としたかった。
 しかし、英国は、そんなスペインの思惑をあしらうように恒久的支配を企図してか、ジブラタル空港の海に7月、コンクリートブロックを埋めて人工の環礁を造った。スペインはこれに抗議し、漁民から漁場を奪い、環境も破壊したとしてEU本部を巻き込む騒動となった。
 スペイン政府は英国のジブラタル領有は陸地に限られたものであって領海の使用は認めていない、という立場だ。現に国際的なインターネット辞書ウィキペディアは、「領海0」と記載されている。
 スペインは対抗措置として国境通過税を徴収、スペイン国内に住むジブラタル出身者に対する脱税調査などを実施等、国内法の整備で圧力を掛けられる手段を講じている。むろん、そうした措置に英国は反発し、EU域内の自由な移動を保障するという原則に反していると抗議する。
 騒動から紛争に拡大するのを恐れたEUはスペイン、ジブラタル自治政府、英国の各政府が話し合いの席に座ることを求め、実効ある解決策を講じるべきという姿勢だったが、そんなスペインの妥協的姿勢を冷笑するように、石材を運び込んだ英国に対し強行姿勢を取らざる得なくなるだろう。
 大戦中、ジブラタルを軍事要塞化したことによってドイツ海軍は著しく作戦行動に難をきたした。「地中海の鍵」と呼ばれるのは、そうした軍事的な要諦の地だからだ。
 英国がジブラタルをみすみす手放すことはないだろうし、南大西洋上にアルゼンチンと戦火を交えた離島フォークランド(スペイン語名マルビナス諸島)の領有権問題も抱えており妥協しにくい立場にある。また国内的には英国は北アイルランド問題だけでなく、スコットランド独立問題を抱え、スペインにはカタロニア州やバスクの独立問題が頭痛の種だ。そうした動きを抑制する意味でも小さな領土ジブラタルは、国内の民族主義運動の推移に影響を与えかねない大きな問題なのだ。
 ギリシャの経済問題だけでなく領土紛争もまたEU分裂の火種となりうる。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。