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横井弘三の世界展 ~没後50年“日本のルソー”

横井弘三の世界展
横井弘三

 素朴画家と異端画家は反アカデミズムで共通しているし、基本的に描きたいことを我欲に逆らわずに放出してきた個性をという共通項もある。
 けれど、やはり油と水のようにお互い反目しあう個性でもある。
 異端画家、極端かも知れないが、わかりやすくいえば、たとえば“責め絵”の伊藤晴雨などは夜の絵画で、月光の下で映える絵だが、素朴画家の絵はそうじてあかるい陽光をうけて輝きを増すところがある。それらの絵を展示したギャラリーの様相もまた違う。晴雨の絵を並べたギャラリーは陰鬱な沈黙が支配するだろうし、観者たちの表情も硬くなっているだろう。異端画家が不遇のうちに死去したとしても安易な同情の念は生じないが、素朴画家だとおおいなる感傷の涙を誘うかもしれない。
 素朴画家の回顧展にはほのぼのとした華やぎに満たされる。言葉がそこにながれていなくても暖かな雰囲気にみたされているはずだ。下手だけど味わいがあるね、と批評も穏やかになる。異端の画家の筆は総じてシャープだが、素朴 画家たちのそれは穏やかだ。横山弘三の世界はむろん後者のものである。

 横山の創造世界は誰にでも、「ほら、こんなふうに自由自在に描きたいことを描けばいいんですよ。何かなやみでもあればクレヨンでおおきな紙にぶつけてしまいなさい。それで少しは慰安されますよ」と言っているようだ。
 しかし、横山の絵の「素朴」はなかなか技巧的だ。曲者である。いっけん、無造作に描いたような雲のたなびきも工夫のある、作為的な記号だ。天女の衣の襞も風を受けて意志持つ躍動性があるし、晩年、執着した焼き絵では焼き付ける木材それぞれの材質を見極めての色合いを計算している。だいたい、素朴画家というものは文字による自己表現を多くしない。けれど、横井は素朴画家としては多弁だし、自己主張もつよい。
 1915年(大正4)、25歳の頃、第2回二科展に出品、有望な新人に与えられる樗牛賞を受賞などして、それなりの評価を得ている。ただし、当時の洋画画壇というのは無論、今日ほどの力はないし、市場価値も小さい。在野の二科展が世間の話題になることすら少なかったし、それは洋画界という狭い世界の出来事でしかない。そんな時代の二科展で有望新人と推奨されたところで生活の糧とはなりえない。けれど若い横井には自信になっただろうし、創作も昂揚感にみたされていっただろう。
 横井は二科展の姿勢にあきたらず、自ら誰でも自由に出品できるアンデパンダン展を組織、趣意書とかポスターを描くなどして実現する。それは意思的で活動的なオルガナイザー横井の批評精神である。けっして脱俗の素朴画家の姿勢でありえない。戦前戦中の昭和期の横井の画業は、タブローに表出される“素朴”さとは裏腹に世評を求める世俗の画家であった。絵の素朴さ加減と心根が相反しているところがある。本当の素朴画家というのはそれが合体している。
 戦争が激化していくなかで生まれ故郷の長野に疎開する。そして、そこが活動拠点となる。東京から離れたことによって、はじめて素朴画家へと助走しはじめたのではないか。結局、横井画の本領はその時代からはじまるのだろう。
 すでに画壇での名声も、物質的な豊かさももとめなくなった横井は、故郷のあたたかな掌(たなごころ)のなかで自由で精力的な創作活動に展開する。その長野での生活、つまり支援者に目に映った横井の姿は脱俗的と映り、それが横井の代名詞となっていったのだろう。
 しかし、晩年の横井の絵にもやっぱり、その背筋には一本、つよい批評精神が通っている。それを見逃すとまま“日本のルソー”などの形容詞を鵜呑みして、横井の本質がみえてこないと思う。ルソーとはフランスのアンリ・ルソーのことだが、そのルソー自身、自分は素朴画家とは全然、思っていなかった。正当なアカデミズムの画家と確信していたのである。しかし、ルソーはその格差を意識していない。けれど、横井は文字や言葉で残していないのかもしれないが、素朴な絵となっても自分の絵が素朴画などとは思っていなかったと思う。自己表現の発露として、そういう絵になったということではないか。
 だいたい、集客を念頭に美術展はかならずコピー的なサブタイトルを求める。本展の「日本のルソー」もその類いだ。
 没後50年を記念する充実した回顧展を通覧しての率直な感想である。
 *6月4日、東京・練馬区立美術館で。
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舟越保武彫刻展から

 9月上旬、平年なら残暑の厳しい季節ということになるが、今年は8月下旬にいっきに気温が下がってから暑気とほとんど無縁な日がつづいている。地球の温暖化の下、すでに「平年」という言い方は通用しなくなりつつあるのかもしれない。

 振り返ればうだるような暑気のなか、今夏もまた、仕事柄とはいえ多くの映画を観、絵画や彫刻に触れ、コンサート会場に詣でた。すこし旧盆が過ぎたら湿度の少ない山間の集落に涼をもとめ小旅行しようと思っていたのもつかの間、急速に夏は手の届かない時空に過ぎ去ったようだ。そうしていま、今夏、さまざまな五感のふれあいをふるいにかけてみると、そこに残っているのが舟越保武の回顧的な規模の彫刻展だった。それは「まなざしの向こうに」とサブタイトルがついていた。
 舟越

 わたしにとって舟越の彫刻は、とても静謐で無骨なほど誠実な仕事から生まれてきたものだという印象があった。むろん、回顧展を見終わった後でもその印象はいささかもゆるぎない。
 同時代の代表的な具象彫刻の作家に佐藤忠良さんがいる。宮城県に生まれ北海道で少年期を過ごした人だ。舟越さんも岩手に生まれ、そこで少年期を送った人だ。わたしのなかでおふたりとも北のすがすがしい冷気が少年期の感性を磨いたのではないのかと思ってしまう。まず、そういう印象のなかにおふたりの作品はわたしのなかで屹立している。

 佐藤さんとは生前、小体育館のようなアトリエでくつろいだインタビューをしたことがある。舟越さんとはお会いすることはできなかった。
 佐藤さんはけっこうフットワークの良い人だった。多弁でもあったし、社会を辛らつに批評する眼力もあった。しかし、作品にはそうした通俗は入りこまい人だった。舟越さんがどういう人であったかしらないが、熱心なクリスティアンだったということで、その造形精神は通俗の塵を払いつづけるしなやかな意思のなかにあったように思う。多くの作品がそう語っている。

 舟越さんの作品中、もっとも公的な成功をおさめたのは1962年に全貌が示された聖フィリッポ教会「長崎26殉教者記念像」だろう。いまでもなく豊臣秀吉の命、キリシタン弾圧のなかで殉教した日本人信徒をふくむ外国人宣教師たちの最期の日々を象徴するものだ。この殉教者のなかにメキシコ出身の修道士フェリペ・デ・へススがいるのだが、それはメキシコ市近郊の町クエルナバカの中央聖堂のフレスコ壁画にも描かれていたため、メキシコ暮しをしていたわたしには舟越さんの創像はやはり気になっていた。
 その「~記念像」はわたしがラテンアメリカ暮しをするまえに一度、観ている、いや「見ている」といったほうが正しいだろう。長崎湾にうかぶ炭鉱の島の閉山の取材の帰り、足を延ばして「見た」だけに過ぎないからだ。炭鉱はいま「世界遺産」とか騒がれている軍艦島を望む島の炭鉱だった。

 回顧展では、教会から「記念像」をもってくることができないので写真、エチュード、下書き等、そして岩手県立美術館所蔵の合成樹脂による聖人像などで語る構成となっているが、それらの作品をレイアウトした空間はどくとくの沈思の気配があった。そう天草四郎が貧しい農漁民らを率いて徳川幕府のキリシタン禁制に“聖戦”をのぞんだ島原の乱を象徴する「原の城」もあって、それが一個の作品として名作展示されているのではなく、「殉教者像」との連続でそれをみると、また異質の気配を覚える。

 しかし、その舟越回顧展での最良の美は、わたしにとっては1970年代最終期から1980年代を通して制作された、歴史上の(西欧の)聖女もふくめた若い(日本の)女性たちの頭部像だった。そこに絶対美、在るがままの崇高な気配すらただよう、あるいは孤高の美が見事に時の刻みを止め、永遠の美をとどめていた。具象彫刻を観て、そうした感動はすぐる年、ルーブルで観た「ミロのビーナス」以来、味わうものだった。そのフロアではまったく建物を囲繞する猛々しい夏のおごりは地に沈んでいた。
 その一連の像を連作のように造形していた舟越が、そこにたどり着く前の作品群、習作期から1960年代までの作品はそれはそれで見事な完成度を示しているのであるけれど、作家はモデルとなったひとの生活感、内なる心根をなんとか表出しようと熱意、作為、あるいは作家の野心まで想起されているもので、なんとなく湿度の高い像というものだった。感心はするものの心をゆさぶるようなものではなかった。
 1980年代にはいると作家は無我のなかでつかんだ〈美〉そのもの、そして〈美〉のはかないことを知るものだけが、その〈美〉に永遠性を与えようと作為したときに生まれる衝動としての創造性、造形精神のカオスとしての芸術行為を感得した舟越そのものの精神がそこに在るように思えた。

 しかし同時に、わたしは日本の明治以降のカトリック受容史の限界も舟越にみてしまう。
 カトリック受容がラテンアメリカのようにとき夥しい殺戮があり、弾圧・迫害の血にまみれ、阿鼻叫喚の地獄があり、強姦や淫欲もあった猥雑な人間なまみの野卑がむき出しになった歴史、それと比べると教養主義的な弱弱しさを舟越作品を透して日本知識人の脆さもまた感じてしまうのだ。ゆえに日本ではカトリックは知識人の営為によってしか流布せず、所詮、新興仏教教団のバーバリズムに打ち克つことは所詮できないことだった、としか思わずにはいられない。美術館であらためてそんなことも考えてもいた。
 そして、〈美〉の絶対性によって、そうしたカトリック通史の雑念を洗ってもらいたく、その感動をとどめたく、一巡り回顧展をたどった後、そのフロアに立ち戻り、その後は、ほかの作品に視線を遊ばせず美術館を出たのだった。
 

フリーダ・カーロ欧州展、好評のうちに終了

欧州各都市をまわったフリーダ・カーロ展、好評のうちに終了


 フリーダ・カーロ(1907~54)の生誕100周年を記念して2007年、メキシコ市で新発見、新資料を含めた今日、考えられる最高規模の回顧展が開かれた。
 その記念年を前に人気女優サルマ・ハエックが体当たりでフリーダ演じた評伝映画もヒットし、フリーダの劇的な生涯とその作品は世界的に注目された。日本でも生誕祭を前に繰り返しフリーダの絵を前面に押し出したメキシコ絵画展が幾度か開催されていた。私自身、フリーダはもとより同時代を生きたメキシコの魅惑的な女性画家、写真家、舞踊家などをあつめた『フリーダ・カーロ~歌い聴いた音楽』(新泉社)を"生誕100周年”に便乗して一冊、上梓してしまった。
 
 それから7年を経た現在、日本でのフリーダ・ブームは一段落したが、メキシコでの回顧展に及ばないまでも、海を渡るという規模では充実したフリーダ展が欧州主要都市を巡廻したあ。。イスラム圏でははじめとなるインスタンブールでの開催もあった。その欧州展の最後の地となったイタリア・ローマはクィリナーレ宮殿、現在の大統領官邸内の展覧会場で今年3月から開催されていた『フリーダ・カーロ展』が8月末、終幕となった。延30万人が会場に足を運んだ、とメキシコ各紙は誇らしげに書く。

 同展には死の直前に描かれたスケッチが展示された。生誕100周年を前に発見されたものだ。
 フリーダには遺そうという意図はなくゴミ箱に捨てたものを、当時、フリーダの家で働いていたお手伝いさんが取り出し秘匿していたものだ。捨てた"作品”だから日付けが記載されていないので、厳密にはなんともいえないが、「遺作」であるかも知れない。その「遺作」も、フリーダの主要作品がみな自画像であったように、それも痛切なポートレートであった。自画像の両側に、月と太陽が沈んでいく構図であった。それは自分の生命が地平線にいまや沈まんとする自覚から描かれたものだろう。フリーダは最後まで自分を凝視しつづけていたのだろう。
 76点のフリーダ作品、夫ディエゴ・リベラの作品60点、そしてふたりの生活を撮った記録からアート性の高い写真80点という構成だった。作品はメキシコはもとより米国、欧州諸国から集められた。(日本にも名古屋市美術館に、「死の仮面を被った少女」(1938年)が所蔵されていることを記しておこう。生涯点数の少ないフリーダの作品が日本にあることは誇りとしていいだろう。)
カーロとリベラ フリーダの「青い館」の二階の廊下にあたるとこに据えられたフリーダのベット。晩年の写真だろう。夫ディエゴとともに。

 欧州各地の大気にさらされたフリーダの絵はやっと彼女が愛して止まなかった母国メキシコの大気のもとに帰還する。フリーダが生まれ死んだ「青い館」(現美術館)にもまた生前の姿に戻るだろう。 (2014年9月記)

「ユーゴスラビアの素朴画」といわれたクロアチア素朴画

  
1970年代から日本では、いわゆる「素朴画」派の企画展が多くなった。おそらくルネサンスからはじまりフランス印象派を通過し、ピカソから戦後のアヴァンギャル美術という流れを教科書的に見せられることに、食傷していた鑑賞者が多くなっていたのだろう。

 戦後、ニューヨークで爆発的に紊乱したアヴァンギャルの描き手も一部をのぞけばアカデミックに学んだ優等生たちであった。そういうプロでない描き手の画家が注目された。それはポスターやイラストなど職人のアートが「芸術」として認識されはじめた時代でもあった。

 この70年代に、故坂崎乙郎氏が盛んに正統派の美術史の行間からこぼれ落ちた異端、偏執、異形、風狂……要するに個性的な美術家を狩猟し、連作のように芳香に満ちた美術家論集を上梓していた。それをけっこう夢中で読んだものである。乙郎氏の厳父は、日本でクールベの価値を知らしめた坦氏であったが、父子二代の美術批評による反骨性もまた魅力的であった。もっとも乙郎氏には文体を修飾する遊びがあって、それが若い私を惹きつけた。
 
 その70年代、ユーゴスラビアの「素朴画」として多くの名も知らぬ画家たちの作品が日本に紹介されることになった。
 イヴァン・ラブジン、イヴァン・ラツコヴィッチといった画家が注目された。それは自然美を独自のニュアンス、繊細な筆致で色彩感あふれる幻想美のなかに描き出したリリカルな世界だった。
 農業を生業としながら、農閑期に絵筆を取る“日曜画家”だとも喧伝された。それにしては、技術がある、という疑問も、この国の「社会主義はそのような学びの場が公共空間に存在しているのかもしれない」と自ら打ち消した。しかし、そのうち詳しい情報が入るようになって、「素朴画」でプロとして立つ画家の存在も知った。

 そして、彼らが海外でユーゴスラビア人画家として認識されている時代、彼の国にはキナ臭さはいささかも存在していなかった。サラエボで冬季オリンピックも開催された時代でもある。そのオリンピック競技場が墓場と化すような、民族浄化といわれる内戦が始まろうとは誰が予期しただろうか。      

イヴァン・ゲネラリッチ
*    *    *

クロアチアの首都ザグレブに国立ナイーヴアート美術館がある。そこにイヴァン・ラブジンをはじめとするクロアチアの代表的な素朴画家の作品がほぼ網羅されている。

 クロアチアを訪れる前、筆者にとって「ユーゴスラビア素朴画」は固有名詞であった。「クロアチア素朴画」という概念はなかった。
 しかし、クロアチアを訪れる前、資料集めをしているとき、かつて東京で繰り返しみてきた「ユーゴスラビア素朴画」の大半ほとんどがクロアチア、しかも東部地方フレビネ村の農民画家に発していることを知った。

 つまりユーゴスラビア解体前、日本でも愛された「素朴画」は、「クロアチア素朴画」であったのだ。
 おそらく、ユーゴスラビア解体以前、連邦の首都であったベオグラード、現在のセルビア共和国の美術館に収蔵されたはずの「クロアチア素朴画」は内戦下、あるいは内戦後、どのような扱いを受けたのだろうか。
 クロアチアはセルビアと戦った。ドナウ川を挟んでセルビア領と接するクロアチアの町ヴコヴァルでの戦闘は第2次大戦以来、市街戦として最悪の戦いと知られ、町は完全に破壊された。

 クロアチアの素朴画家は内戦を描いていない。まだ描いていない、といえるかも知れない。しかし、フレビア派の始祖的な画家イヴァン・ゲネラリッチは農民暴動をテーマに描いている。身近な素材として、それを描いた。素朴画は生活感に満ちたものだが、その生活が脅かされた内戦の記憶は画家たちの記録に色濃いはずだ。

 内戦以降、「クロアチア素朴画」と銘打った企画はまだ日本ではない。もし、開催されるとしたら、内戦以降に描かれた「素朴画」をみたいと思う。  

メトロポリタン美術館展

メトロポリタン美術館展 2012・秋
糸杉・別

ゴッホ「糸杉」、本展中の白眉。
 盛夏、自然の生命感がうねるような勢いで描き出された凄い絵。良く知られるように生前、まったく絵が売れなかった兄ゴッホのために画商の弟テオは、そうばん褪色すること承知で安物の絵具しか購入しなかった。
 愛する兄ではあっても、描きつづける絵に芸術的真価までは見出しはしなかった。安物の絵具はまず発色効果から減退した。あの「ひまわり」も、麦畑の光景も描かれた当時の色彩感とはだいぶ違うものだ。それでも類まれな勢いがある。
 「大地、海、空」が企画テーマ、自然そのもの。「糸杉」に温帯の夏が象徴される。
 133点の絵画、陶芸、金属細工、織物等で綴る人類4千年の芸術行為の営みは、人類が自然とどう対話し、感応し造形してきたかと検証する試みだ。
 鑑賞者はそれぞれ、思い思いに堪能しつつ、それを感知できる構成だ。それはそれで素晴らしい。北半球温帯の自然観。日本人には等しく理解容易なもの。その意味では心地よいし、難渋なところはいっさいないが、温帯での営みとはまったく違った豊かな日常生活のあった熱帯人が融和した自然観は丁重に退けられている。
 しかし、21世紀、こうした北半球の西欧造形の審美観にばかり象徴させる“古典的”企画はそろそろ再考すべきだと思った。
 ゴーギャンのタヒチの女があったが、それは西欧インテリの感傷だ。そうではなく熱帯を生命力を、と言いたい。
 ゴッホやゴーギャンが生きた時代の“熱帯”でも旺盛な表現活動は息づいていた。当たり前のことだ。ただ、ビジネス的流通システムは確立していなかっただけの話だ。そのあいだに、そうした“熱帯”芸術も北半球の商品たちに掠め取られていき、北からの文化的侵略のなかで減光していった。 
 メトロポリタン美術館は新興国USAの華となった。
 しかし、いくら背伸びしたところでルーブルやプラド、エルミタージュ美術館などからすれば後発の文化施設だ。収まるべき西欧美術の精華は“量”として欧州に蓄積され、米国は落穂ひろいのように、その経済力で貪欲に芸術を購入しなければならない立場だった。そういう事実を念頭に本展を鳥瞰してみれば、工芸品の優品が目立つことに気づくだろう。
 比較でいうのだが、絵画や彫刻よりも割安であった無名の匠たちが制作した工芸品を蒐集した美術館の見識はさすがだと思うし、優れた審美眼が蒐集作品に象徴されている。“用の具”として人間の手技と、時代の技術が象徴化されている工芸に「歴史」の刻印と、「時代」の息吹きもみようとしての蒐集であっただろう。鑑賞と装飾の絵画ではなく、実用の具ともなった工芸品を系統的に織り込むことによって本展における人類4千年の審美が眺望できる仕組みだ。
 筆者は絵画を堪能しつつ適宜、ギャラリーの流れにフォルテシモのように配置されるさまざまな工芸作品に目を奪われた。
 しかし、本展を鑑賞する人たちのいったい幾人が、日本人の東洋人としての自覚のうえにたって、たとえば、上野の国立博物館における瑞穂の国の「大地、海、空」を充実を知って、メトロポリタンの回廊を歩いているのだろうか、と思った。縄文からはじめる日本人審美眼の蓄えも知らないで印象派もないものだと思う。
 私がながいラテンアメリカ生活に見切りをつけて日本でふたたび生活をはじめてから数ヶ月後、国立博物館の年間館員になって日本人の「大地、海、空」観を堪能したものだった。(2012年11月記)
 

極私的な雰囲気に充足した豊穣  第97回 二科展を観て

極私的な雰囲気に充足した豊穣

 第97回 二科展を観て
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かつて古い都美術館のスペースに合わせて出品点数は制限されていたはずだが、六本木の国立新美術館というおおきな空間を得て二科展の出品点数は絵画を基軸にして肥大したようである。その辺りの事情は同展の“経営”問題というものだろう。その辺りは詮索してもはじまらない。
まず作品の数に圧倒される絵画約1100点、彫刻175点、写真に至っては約1400点、加えてデザイン、イラストレーションが幾つもの壁を占拠するが、もう数える気にもならない。
全ギャラリーをおなじような鑑賞熱度で歩くのは人間ワザではない。耐力勝負というもので、美的鑑賞とはまったく別次元の話となる。会場を訪れる入場者もたいていは誰々さんの作品は何処に在りや、と作品「早見表」と睨めっこし、ついで壁面番号を確認し、だいたいソコへ直行するのだ。そのあいだに気になる絵でもあれば、ちょっとそこで停滞するといったぐあいだ。賢い「二科展の歩き方」というものだろう。けれど別に贔屓の作家を二科にもたない筆者は“美”の雑木林、いや密林のなかに踏み込んでゆくようなものだ。
 最上階に押し込められた絵画群のレベルが素人目にも低いことを除けば、技量もだいたい申し分ないし、それなりに個性的でありよく考えられた作品を見い出すことは容易だ。二科なりの自負をきちんと納得させるものである。しかし、そこに〈現代〉がありながら肉感の手触り感がほとんど伝わってこない。個的な世界に充足し満ち足りている気配だ。それは、孤高といった志の高さとまったくちがう。社会的感度の鈍磨といえなくもない。たとえば、これほど数がありながら絵画で「3・11」に触発された2点ほどしかない。それを悪いとはいうまい。個人の創作動機はそれぞれは責任を負うべきものだ。しかし、より現実的光景を借景し、切り取るワザに優れた「写真」部門にすら「3・11」は4点ほどしか見い出せなかった。昨秋の段階では大震災体験はまだなまなましく作家個々の批評性は消化されなかっただろうから、3・11主題が少なくても納得できる。しかし、1年が経過し、さらに原発事故の後遺症が依然つづき、毎金曜、首相官邸が万余の原発反対のデモにさらされている現実のなかで、ここの作家たちの現代ニッポンの姿はあまりにも軽い。臨場感がまるでない。
 内閣総理大臣賞を受賞した粕谷正一「ハコブネ」は、筆者には二科の現状を内部からシニカルに批評しているように思えてならかった。作者にとってはおそらくニッポンの現在を批評してみせたものであろうが、第一義的には二科の現状批判にあるように思われならなかった。舵が流出した人影のないハコブネに乗せられたあふれるモノはほとんど人間生活を維持するのにさして必要とされない奢侈品であり装飾品、玩具、人形といったモノばかりなのだ。そんな作品に今年の最高賞といえるものが授与されていることに、二科の“健全”な諧謔が象徴されているように思えたのだが……如何?

大岩オスカール幸男の「廃墟」と、東日本大震災のイメージ

ブラジル出身の大岩オスカール幸男の廃墟のイメージ


黒い雪 送り用
 戦後移民としてブラジルに渡った両親の子として1965年にサンパウロに生を受け、1991年に東京に活動拠点を移し精力的な活動を展開し、12年後、米国ニューヨークに移動した画家に大岩オスカール幸男がいる。
 日本に12年滞在し繰り返し野心的な個展を開いたこともあって、日本にも熱狂的なファンがいる画家だ。最近、偶然なのだが1998年3月、東京・墨田区の現代美術制作所で開催された『VIA CRUCIS』展のカタログを開いて驚きとともに戸惑い、なにか肌がそば立つような衝撃を受けた。
〈3・11〉後、日本人は例外なく東日本大震災で惨酷な光景を眼底に焼き付けることになった。津波で次々と街が破壊され呑みこまれてゆく無惨至極な光景、波が退いた後の荒廃、そして廃墟と化し、死の沈黙におおわれた市街を眺望しつづけてきた。そればかりか福島第一原発が津波で被災し電源が失われたことから生じた災厄はいまも現在進行形で予断のならぬ事態と付き合わされている。
 原発の被災はとめどなく荒廃を広げているのだが、放射能の被害ということでは南関東の人間も等しく「被災者」のようなものだが、すでに慣れ、惰性が生じてきている観がある。原発に隣接していないし、放射能が目にみえないからどこか安穏としている。事態は深刻なのだが。必然、原発隣接地の荒廃はすさまじい。町や村から住民はいっせい避難し、町は無人となった。津波の被害を受けていない市街地に沈黙が固着した光景は不気味だ。そんな放射能が降りそそぐ町にもカメラが入り、住民の生活が中断凝結したシュールともいえる映像も繰り返し眺めてきた。それは、かつてチェルノブイリ原発事故後のウクライナやベラルーシの被災地を撮った写真や映像と重なるものであった。
 かつて、スラブの大地の悲惨は僻遠の彼方ともいえる場所で起きた惨事でしかなった……とそのようにしか、やはり見ていなかったことが、福島原発事故に遭遇して今更ながらに思う。福島原発事故の解釈にチェルノブイリの無惨さは大して役に立たなかった。そういう状況のなかで、大岩オスカール幸男の個展カタログを開いて衝撃を受けたのだ。

 大岩自身が東日本大震災や福島原発事故をどのようにみているか知らないし、かつて日本で描いた作品群があたかも〈3・11〉以後のニッポンの象徴的な光景を暗示・隠喩するような効果がある、とみてしまう私のような存在を意識しているかどうかも知らない。しかし、作品のいくつかを例示して大岩に指し示せば、彼自身がそれなりに首肯できるところがあるように思われる。
 たとえば『黒い雪』(1997)という作品がある。大岩自身「寒い国は白い雪、暑い国は黒い雪というイメージでサンパウロ郊外の家並を描きだした。その黒い雪は銃弾のイメージもあって、犯罪の多いサンパウロを象徴している」というふうに解説していた。
 日本人にとって、市街に降る「黒い雪」は、かつてヒロシマに被爆直後、降った「黒い雨」を連想させるものだ。寒い東北に降る雪は外見は白い雪でも、放射能に汚染された雪のイメージは灰色ないしは黒ではないか。『黒い雪』に限らず、個展に出品された多くの作品がいずれも廃墟、ないしは荒廃した現代光景を描いていて、一種の〈負〉の連環で成り立っているのだった。
 『赤いソファ』、『空気になる家』(いずれも1997)は無人となった家を描く。『赤いソファ』の光景はまるで原発事故で生活が突然中断された瞬間、その膠着そのものを描き出している、と説明されれば、そうだろうと思える絵だ。着の身着のままで避難した家人に放棄された家、散乱の光景がクライシスの象徴として定着されている。そういう絵はチェルノブイリで被災した子どもたちが「思い出」として描き、義援金を募るために制作された画集などに収録されている。
 大岩の絵は日本の家屋を描いているものがあるから、よりリアルに福島浜通りの無人の市街地のイメージに重なってしまうのだ。
 『ライト・ピット』(96)という絵。人気のない気配に、一部が壊れたまま放棄されている板塀をただ描いた作品。これもチェルノブイリの被災地でよくみられる光景であった。被災地から人の生活が遠退いて行き、福島のあちこちの市町村ではよくみられる光景となるように思われる。
 大岩が大震災、原発事故を予見して描いたわけではない、から「怖い」。明日を当たり前に迎えることを前提にきょうの営みがある……それが暮らしというものだ。そんな平凡さが呼吸しあい寄り添っているのが市街地であり村落だ。そんな暮らしの吐息が失われるとき、その廃墟は癒しがたいデスぺレートなものとなる。CGを巧みに使った近未来映画に描かれる廃墟は、かつての惨劇の敷衍である。そういうものとしてしか人は創造できない。そして、それは作り物だから安心してみられる。
 しかし、いま〈3・11〉を体験したあとでは、ドイツ・ロマン派たちが繰り返し描いた田園のなかの廃墟美すら胸に突き刺さってくるような痛みを味わってしまうものになった。
 さらに大岩の履歴に引きずられて書くのだが、2000年代前半に花の群生を繰り返し描き出す。その群生も『温室効果』(2001)であったり、放射能の影響かなにやら異形化した花の群生を思わせるものだったりするのだ(と見える)。色彩感ゆたかな絵なのだが、けっして居心地良く、素直に受け取れない。放射能を知らない印象派画家の花卉ではないのだ。
 広島・長崎が反核運動の世界的拡大のなかでヒロシマ・ナガサキとカタカナ表記されていったように、福島もまたフクシマとグロバール化してゆくなかで変質する土壌から芽ばえる花とも思えてくるのだった。
 やがて大岩の作品も虚心に眺めるときがくるだろう。
 そういう“慣れ”の季節もまた人間は確実に迎える。怠惰や忘却を嫌悪してはならない。悲惨を癒す精神作用としてそれもおだやかに受け入れべきだ。しかし、原発事故を視野に入れるとき〈3・11〉は根深く地に延び、しばらく日本人の胸奥を浸食しながら増殖しつづける。そして今日をいきる表現者は〈美〉の証言者として、その根を引き抜く作業をつづけていくはずだ。すでに仙台の若い作家たちが〈3・11〉と対峙しうる表現を模索しはじめているという報告もある。    

イサム・ノグチとフリーダ・カーロの恋、そして壁画

イサム・ノグチとフリーダ・カーロの恋、そして壁画

メキシコの歴史

 このところ、メキシコ・シティの旧市街で、終日喧騒につつまれたアベラルド・ロドリゲス市場にある縦約二メートル、横約二〇メートルの壁画が注目をあつめている。
 日系米国人イサム・ノグチ(1904~88)の彫塑の複合体壁画《メキシコの歴史》である。
 もっともメキシコを象徴するような記号はほとんどなく、欧州でのファシズムの台頭を敏感に捉えて造形化した一種のプロバカンダ的作品である。メッセージ色の希薄なノグチ作品には珍しく、ナチの鉤十字に押しつぶされる人間、肉体労働者たちの腕と拳、鉄骨やらツルハシ、建設重機などを直裁に造形し、量感と躍動感に満ちている。しかし、説明的に過ぎた作品であることは間違いないと思う。
 この壁画は長いこと忘却されていた。
 ここに来てにわかに注目されたのは、市内のルフィーノ・タマヨ美術館でイサム・ノグチ回顧展が開かれたからだ(6・3~9・5)。会場に参考資料として《メキシコの歴史》の大判写真が展示され、訪れた市民たちの間で、「え、こんな壁画も作っていたの?」「どこにあるの?」と、ちょっとした話題になったのである。回顧展では、パリ留学時代にブランクーシの助手を務めながら制作した初期作品から、縮小サンプルを活用しながら舞台美術、造園プロジェクトまで網羅する試みを含め約五〇点の作品が紹介された。
 そもそもノグチがグッゲンハイム財団の留学資金を得てメキシコ・シティを訪れたのは一九三六年、三二歳のときである。市当局は、制作スペースとして、イエズス会の元神学校を改造した市場の階段の踊り場に面した壁を与えた。
 植民地時代から大きな資産と、政治的な影響力をもったイエズス教団は一時、メキシコから追放され、その資産は政府に没収された。元神学校もそうして没収された施設だった。
 ノグチは、与えられたスーペスで野心的な試みを実現しようとした。多色セメントとレンガ彫刻による立体的な複合壁画の制作に八カ月奮闘することになった。
 メキシコには都市部を中心に無数の壁画が散在する。シケイロスやディエゴ・リベラ、オロスコらが主導的役割を果たした壁画運動は、一九二〇年代前半にメキシコ革命の煽りを受けて点火され、三〇~四〇年代に最盛期を迎えた。それ以後も、五〇年代の鎮静状態を経て、今日までおびただしい壁画が制作されてきた。
 
 壁画運動の最盛期は、メキシコ政治の変革期でもあった。ノグチとて時代の大気を吸わなければならない。造形じたいは類型的だが、ノグチの壁画には、力任せに壁に取り付いた若い息吹きが確かにとどめられている。ノグチはその時期、壁画制作の一方でディエゴ・リベラ夫人フリーダ・カーロに夢中になっていた。十代から共産党のシンパだったフリーダとの恋愛もまた、反ナチ的な壁画づくりに大きな影響を与えただろう。フリーダの父ギジェルモはドイツ系ユダヤ人である。
 フリーダがノグチに近づいたのは、夫リベラに対する絶望ではなかったか。ノグチが壁画に取り組んでいた頃、フリーダは《ちょっとした刺し傷》という血なまぐさい絵を描き、リベラに突きつけていた。そして、夫から経済的にも精神的にも自立しようともがいていた時期にあたる。そこへ若く野心的な芸術家ノグチが現われた。ノグチはフリーダより三歳年長である。親子ほども年齢のはなれたリベラに求めても得られない、同世代的な感性の触れ合いもあっただろう。ふたりは、たちまち恋に落ちた。
 夫リベラとの決別を考えていたフリーダだが、当時、まだサン・アンエルの家に同居していた。同居とはいってもリベラの大きな棟と、フリーダの居住兼アトリエの小さな棟と分かれていた。外側の通路で繋がっているだけで、それぞれ独立した空間を維持して暮らしていた。その小さな棟にノグチは足しげく通った、ということだが真相は分からない。リベラはリベラで大作壁画の制作と、若い愛人との恋愛で大忙し。そんなある日、ノグチとフリーダの不倫は発覚してしまう。密会用のアパートを借りようとしたふたりの引越し費用の請求書がリベラの手元に届いてしまったのだ。リベラはピストルを片手にふたりの寝室を急襲。ノグチは片足だけ靴下をはき、中庭のオレンジの木によじ登り、屋根伝いに遁走した……と。不倫発覚のエピソードは異説ある。そのサン・アンヘルの家屋は広い庭に囲まれている。隣家の尾根へすばやく昇り伝って遁走するには軽業師的な身のこなしが必要だと思う。とすれば、この話は後日、作られたものだろう。
 フリーダとの情熱的な愛といい、社会参与を意図した壁画といい、これはメキシコの熱帯高原の大気がノグチの五臓六腑を浸したせいだとしか思えない。
 ノグチがセメントを捏ねていた頃、おなじアベラルド・ロドリゲス市場の壁や天井に取り付いていた若い画家たちがいた。パブロ・オイギンス、アントニオ・ブホル、マリオン・グレース・グリーンウッド……彼らの壁画も忘れられ、無惨な状況にある。零細店舗が蝟集する市場は終日、客寄せの声、ラジカセの割れた音に満たされている。塵芥が舞い、段ボールが壁に沿って積み上げられ、ときには清涼飲料水が飛び散る。そこの壁画は消費される「装飾」ごとく扱われている。
 
 この市場のある界隈は観光地図で見向きもされず、自ら“中流”と意識するメキシコ市民なら近寄りたがらない。在留邦人も、誰が言い出したか知らないが「危険」で「汚い」場所として、実態知らずで敬遠している。確か在メキシコ日本大使館も旅行者などに、「絶対近づくな」と注意を呼びかけている地域だが、メキシコ庶民のぬくもりに満ち、貪欲な生活感がなまなましく横溢する貴重な場だと思う。
 元来、壁画運動は識字率の低い民衆に対して、絵画でもって民族意識や労働者の権利意識を教宣し目覚めさせるという社会運動の側面が強かった。民衆が日々、あつまる市場ほど壁画にふさわしい場はない。けれど運動が下火になれば、貴い理念もきょう明日の生活に追われる庶民には無縁な存在になる。
 ノグチの壁画は、零細店主たちの会合に使われる階段踊り場の壁に据えられている。せっかく回顧展で再認識されても「危険」とされる区域にわざわざ足を運んでみようという美術鑑賞者はいない。市場で汗し働いている労働者はイサム・ノグチを知らないし、おなじ市内の一角でノグチ回顧展なるものが開催されることなど無論、知らない。
     (『芸術新潮』1999年11月号掲載。拙著『フリーダ・カーロ』(新泉社刊)の第2部に収載))

美術(フランス現代史)書評  『パリは女 セーヌ左岸の肖像』アンドレ・ワイス・著

本書の著者アンドレ・ワイスもまたパリ・セーヌ川の左岸界隈に1920年~30年代に生き、活動した女たちの存在を知り、それをエッセイ的年代記に仕上げた。

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山本容子のメキシコ旅行  フリーダ、そしてディエゴ・リベラの愛

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テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

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