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文庫化されない本のために 019  落合清彦『江戸の黙示録』思索社

文庫化されない本のために 019 
 
 落合清彦『江戸の黙示録』  思索社刊

 1983年の出版。主に歌舞伎を中心に論じて、バブル期の日本のいわゆる爛熟を照射していた、と思う。傾聴すべき諸編が多数収録されている。
 歌舞伎でいえば玉三郎全盛期、その相方としての片岡孝夫(現・仁左衛門)などが見出された時代になるわけだが、この当時、歌舞伎を論じて、異端モノ、奇異譚、鶴岡南北の闇があやしき燐光を放ち、泉鏡花の作品が玉三郎などによって新装、あらたな展開をみせた時代でもある。市川猿之助(現・猿翁)のスペクタルなスーパー歌舞伎への助走が・・・要は歌舞伎の世界も社会のバブル景気に寄り添っていた。そんな時代を反映し象徴もしている一冊となろうか。
 「日本怪奇劇の展開」「返り血をあびる男」「遊里と男色と歌舞伎」といった緒論の表題を取り出すだけ で本書の雰囲気がにわかに漂ってくると思う。緒論の一遍に、「三島歌舞伎のせりふと技巧」というのがある。小説論は無数にあるといって良い三島文学だが、三島歌舞伎八編を詳細に論じたものは少ない。これを論じる力は小生にはないけど、貴重な論考として留めておきたい。
 そして、最後、本書における終章に挿絵画家・小村雪岱を論じた「繊細なる妖しさ」がある。泉鏡花の新聞小説などの挿絵を手がけ、本の装丁もまかわされた画家。画家の余技として見られる挿絵に自己表現を仮託した埼玉は川越生まれの美術の職人。喜多川歌麿も川越生。
 著者は、鏑木清方、木村荘八、そして雪岱を近代日本の挿絵家の三絶と評価する立場から論じている。今日、清方はあの流麗な女人像などによっ て全集の一巻を占める位置を獲得しているが、荘八、雪岱の仕事は、たとえば、泉鏡花の全集などが繰り返し再刊されても、新聞連載当時の「挿絵」は無視されてしまう。だから、これを論じる人は必然、少なくなってしまう。
 雪岱が描く挿絵は江戸から明治、大正にかけての風俗、そして小説中の人物たちであった。
 小村
昔のあだな女を「小またの切れあがった女」と比喩したけど、それはこんな女たちなのだろうと若き筆者に指し示したのは雪岱の絵であったように思う。雪岱は、挿絵、本の装丁ばかりでなく舞台美術も数多く手がけた。というより雪岱の出自が舞台装置家であったことを著者より教えられた。
 近代日本の大衆文学は芝居と切り離すことはできない。優れた舞台装置とは芝居を 象徴的に解釈するものとすれば、雪岱の挿絵が小説の巧みな解釈となるのは必然だったろう。この人気作家は多忙な“職人”として仕事を抱えながら54の働き盛りのなかで斃れた。

*昭和58年5月初版・絶版。思索社刊行。
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文庫化されない本のために 018 近藤道生『茶ごころ』 ~茶人としての益田孝(鈍翁)

文庫化されない本のために 018
 近藤道生『茶ごころ』 ~茶人としての益田孝(鈍翁)

 明治・大正・昭和三代の歴史に大きな足跡を遺した益田孝を、三井財閥の統帥として支えた財界人としてみるか、益田鈍翁としてみるかではその評伝の記述は大きく異なってくる。全貌を語った書には、すでに白崎秀雄の名著『鈍翁・益田孝』がある。幕臣の子としての出自、明治維新史にも大きな役どころを得、そして明治の大財界人としての自ら語った書には『自序益田孝翁伝』(長井実編)もあり、この二著は文庫化されている。
 しかし、本著は、白崎著作と違った位置から親しく観、知った大茶人としての鈍翁(どんのう、と読む)記であり、著者の実父が、 晩年の鈍翁の主治医であったことから無自覚に歴史的証人となってしまい、後年、その重さに気づき証言者として上梓した、という感じだ。

 横浜・本牧の名園・三渓園の創設者・原三渓との交流を語ったところも貴重だ。原は明治末代から大正にかけて製糸・生糸貿易で財をなした財界人。原の兄弟子筋にあたるのが、千利休以来の大茶人といわれた鈍翁である。鈍翁自身も小田原に古希庵・掃雲台を作庭したが、いまは失われてしまった。あれば近代の名園として、三渓園以上の評価を受けていたのかも知れない。造園における滝の挿話なども面白い。
 
 東京ではさまざまな趣向で鈍翁にまつわる企画展が開催される。その豊かな財力(明治の混乱期、益田によって海外流出を防いだ国宝・重文級の美術品は多い)をもってあつめた名物を展覧するものだが、そのたびに充実した図録類が作成され、それに寄稿される文章も多い。そうした展覧会図録などで語られる幾多の鈍翁論がまとめられることはない。おそらく発行点数でいうなら財界人としての孝伝より、鈍翁としての益田本の方が多い と思う。日本人男性に多い歴史好きの多くは益田孝に傾斜しているだろうが、その哲学、審美眼の領域は鈍翁論で充実しているには当然の話であり、その影響力は今日の茶道界に生きている。

 維新後、短期間で近代化を成し遂げた世界史上の“奇跡”はさまざまな要因があるのは無論だが、その先導者たちの明晰な先駆性を支えたのは、“戦国の世”を生きた千利休のように類い稀な審美眼が財界人もあったからだと思わせるものが近代茶道史にはある。電力王といわれた松永安左ェ門もまた耳庵と号した茶人であった。彼もまた、鈍翁に招かれる数寄者であった。

 また、本書にはこの書でしか読めない高橋箒庵の貴重な幕末期から明治・大正時代に書き継がれた日記『万象録』の抜粋が収録されていることは記しておくべきだろう。福沢諭吉に師事すること6年、新聞記者として健筆を古い、西欧に留学してのり三井系の会社で重責をになった後、箒庵と号した茶人であった。本書などを読んでいると、茶人たちの資料から、これまで書かれなかった明治史が著せるのではないかと思う。
*平成8年3月初版・新潮社刊。

文庫化されない本のために 017    トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』

文庫化されない本のために 017 
  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』

 一読、こんな素敵な短編集を書棚の隅に長年、押し込んだままにしていたことを後悔した。
 1920年、米国カリフォルニア州オークランドに生まれた日系二世の作家が第二次大戦前に書きためた短編を編み1949年に刊行したものだ。大戦中はユタ州の砂漠のなかの日系人収容所に強制収監されていたこともあって戦後の出版となったのだろう。
 ヨコハマと作者が名づけた小さな町、その周辺で暮らすさまざまな日系人たちの諸相を丁重に描く。実に渋味のある話が22編も収録されている。使い古された形容だが、このような短編を指して珠玉の・・・と冠したい。
 作者のことは後追いで色々、知ったのだが、それも感銘を受けたからだ。ウィリアム・サローヤンに激励されながら作家への道を進んだ、ということも知り、なるほどと思った。サローヤンはアルメニア移民の子。その作品には、米国で暮らすアルメニア人たちの生活が描かれる。私には、サローヤンより現在、米国各地で活躍しているチカーノ作家、メキシコ系米国人作家たちの作品に近い感触を得た。そういえば本書の訳者、大橋吉之輔氏にサローヤンの名訳があったことを思い出す。

 モリが描く日系人たちはたいてい貧しい。米国移民の典型である園芸農場、園芸店、洗濯業、零細小売業(昔の萬屋)・・・これはペルーなどの移民の仕事でもあったが、そうした仕事の苦労話もさりげなく描かれている。園芸での成功者にはキューバの日系人たちもいる。一世たちの労苦などは作者ともおもわれる青年の母への追想という形で描かれていたりする。
 こうした日系人社会へ布教活動する日本の仏教徒の存在とか、明治維新後、海外に出稼ぎに出た曲芸団の芸人が帰国せず、日系人社会のなかに溶け込んで生活していたことなども描かれていた。そうした出稼ぎ芸人たちは米国だけでなく、中南米諸国へでの巡業記録がある。中米グァテマラにも数十年前まで存命していた女性の話は地元の日系人のあいだでは伝説となっていた。そう・・・そういうことは、つい最近まで各地にあったのだろう。

 言葉の不自由ななかでの苦労、それは下層労働者として強いられるものだが、それに負ける者もあれば、積極的に溶け込む者もいる。誰もが異国で生き抜く知恵と力をもっているわけではない。幸運に見放された者も数知れない。モリはそういう人たちに寄り添って描く。といって同情とかそんな弱い視線ではない。そこにやわらかな感動の熱がある。日系人たちの生活を描きながら、人間普遍の悲哀を見つめているから、こうして時代を超えて感動の波動を受け取れる。

 「世界中の卵」という作品。セッシュウ・マトイという初老(らしい)酔っぱらいが主人公の話。イタリアの映画監督にエルマンノ・オルミいるが、彼の傑作とされている一巻に『聖なる酔っぱらいの伝説』というのがある。過去に犯した罪の呵責に責めれるように酒で身を滅ぼす男の話だが、私にはこれが何故、傑作と言われるのかよくわからないでいた。ルトガー・ハウナーの抑制された演技は認めるとしても、自責の念に抗しきれずアルコールの力を借りて逃避しようとする人の話はいくらでもある。映画の主人公は教会の祭壇前で息絶えて、結局、イエス・キリストへ浄化を委ねる。そういう終息への安易すら感じる。一神教世界の特徴かもしれないないが、神に問題を預けることなく苦悶する姿こそ、そこに哲学が生まれ、思想があるのだと思う。私はオルミ監督の映画への反証としてモリの佳編「世界中の卵」を差出したいとさえ思った。人生の矛盾だらけだ。自分一個の力ではどうしても軌道修正できない歯車のリズムがある。でも生きてゆかなければならない。短いダイアローグのなかでつぶやきつづけるセッシュウ・マトイの苦痛は“聖なる酔っぱらい”の口吻、日常的な言葉の連なりのなかで紡がれているのだった。

 日系人たちの文芸活動は各地にある。それらの成果はときどき邦訳されて紹介されることがある。しかし、文庫化されたものは寡聞にして聞かない。すでに本書はだいぶ前に絶版になっているので入手も不可能だろうが、日系作家の佳作として講談社学芸文庫あたりに収めて欲しい一書である。 
 ▼1978年12月初版。毎日新聞社刊。大橋吉之輔・訳。

文庫化されない本のために №016  金子厚男著『シーボルトの絵師 ~埋もれていた三人の画業』

文庫化されない本のために №016
 金子厚男著『シーボルトの絵師 ~埋もれていた三人の画業』

 地方出版書の文庫化は少ない。全国区になりにくい題材を扱っているものが多いからだが、もちろん例外もまた多い。
 本書は江戸幕末から明治前期の美術史ということになるが、類書のなかに置いても十分、資料的価値を有するものだ。しかし、取り上げれた三人の列伝ということでは文庫化は至難だろう。
 まず、表題の「シーボルトの絵師」として働いた画家は、川原慶賀だけで、他のふたり百武兼行、倉場富三郎はシーボルトとの交わりはない。また、慶賀、兼行にしてもすでに評伝が書かれ、慶賀は充実した回顧展も開かれているので、とても「埋もれていた」とは言いがたい。こうした“売らんかな”のタイトルのつけ方は戴けないし、著者の仕事の価値を貶める。
 関連書が“全国区”で頒布されている慶賀、兼行についてはここでは省く。倉場富三郎に関してのみ記しておきたい。本書を手にするまでまったく筆者は不勉強にして、その存在すら認識していなかった。
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 幕末から明治期、政商として長崎で活躍したトマス・ブレーク・グラバーが日本人ツルと結婚してもうけた長男トミー改め富三郎、グラバーに倉場と当て字して、父の後を継いで実業家になった人である。絵師ではないが、画業はあった。それは、シーボルトが日本人絵師の力量を評価して幾多の博物図譜等を描かせたように、富三郎もまた日本近沿海で獲れる魚介類の図譜を描かせたからだ。富三郎生前中には印刻はされなかったが没後、長崎で刊行されている。そうした画業より、明治・大正・昭和の三代を英国人の血をもつ日本人として生きた男の物語として興味深く読んだ。
 明治の世は倒幕、維新政府に多大な貢献をなしたグラバーの子としての遇された富三郎も、日米英開戦となってから身辺が険呑になる。日本男子として生きてきた富三郎にも特高の監視がつくことになった、英国人の血をもつ“敵性”日本人となった。そして、八月九日の原爆でも生きながらえながら敗戦国から十一日目、自ら首を括って自死したのだ。そして、被爆死した人たちとともに荼毘にふされた。
 自殺のほんとうの理由はわかっていない。著者はもちろん推測を試みているが、それはむろん確証ではない。墓は長崎にあって父グラバーに寄り添って建つ。グラバーの碑銘は英語だが、富三郎のは日本語である。
 *昭和57年3月初版。青潮社刊(熊本市)。

文庫化されない本のために №015  深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』

文庫化されない本のために №015
 深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』

 本書は今年9月、新宿・紀伊国屋ホールで観た青年劇場の芝居『郡上の立百姓』を読み解く資料と手にし、ページを捲るごとにたちまち芝居の感興から離れ、刺激的な示唆に富む一書として知的興奮を味えた。日本の庶民の基層を考えるうえで貴重な一書であると思う。文字通りの労作であった。しかし、読み易い本ではないし、煩瑣ですらあると思う。しかも扱っている人物も、本書で可視化されるまでまったくの無名、歴史に埋もれた農民であったから文庫化は望めない。ここで取り上げる意味があると思った。
 1978年前後、朝日新聞社から「朝日評伝選」という書下ろしシリーズが刊行された。企画者の慧眼が光るもので、たとえば大菩薩峠の作者「中里介山」(松本健一)、金次郎伝の読直し「二宮尊徳」(守田士郎)、宗教家としての「出口なお」(安丸良夫)といったラインアップで、それぞれの専門分野で評伝が書かれることはあっても「平将門」「親鸞」「福沢諭吉」といった顔ぶれと並んだ日本史上の列伝のなかに、前記のような人物が取上げられることはなかったはずだ。本書はその「評伝選」の一巻として書き下ろされている。そして、選集中、唯一、苗字をもたない文字通りの市井の農民を取上げた実にユニークなものだった。埋もれるべきではない一書だ。

 無名の農民たちの評伝を書くという作業は至難であったことは随所に窺えるもので、推理・推測で行間を埋めていく作業の労苦はそのまま読みにくさにも繋がっているのだが、それでもそこかしこで次第に浮かび上がってくる農民像に、この国の民衆の忍耐力、知恵、したたかさなどを観る思いがした。
 八右衛門は、文政十三年(1830)、上野国東善寺村(現在の群馬県前橋市)で牢死。兵助は、慶応三年(1867)、甲斐国犬目村(山梨県都留市)で71歳で死去。信州伊那郡米川村(長野県飯田市)の伴助、明治十七年(1884)、89歳の長寿を全うして死す。その三者の生き様を、かれらが関わった百姓一揆の推移とともに書き下ろしたのが本書となる。
 三者三様、実に個性豊かな人たちで、江戸期の封建制のなかで精いっぱい自我を押し通した農民たちであった。
 教科書が教える無味乾燥な百姓一揆の記述はまったく農民個々の血が通っていない。だから、子どもたちの胸に染み込まない。反面、講談や芝居などで語る義人として脚色されてしまった佐倉惣五郎のように史実から遊離してしまった。しかし、本書の三者は地に足のついた膂力を感じさせるものだ。

 百姓一揆の首謀者は、その正当な要求行動に関わらず獄門晒し首、資産没収など、もっとも重い刑罰を伴うもので、それが一揆の抑止力となりもしただろう。しかし、現実に江戸期に3200件の一揆が各地で族生している。そして、首謀者がけっして極刑に処せられたものではなかったことが本書で、その理由とともに知った。本書で取り上げれた三者のうち死罪となったものはひとりもいない。八右衛門のみ牢死しているだけだ。
 八右衛門像の構築の手がかりは彼が牢中で書き残し、子孫に伝えられた手書きの「勧農教訓録」の一書で、それを中心に地域に残る古文書などを漁りながら肉付けしてゆく作業であった。兵助像は、一揆後、捕縛の手を逃れ北陸、山陰、山陽、四国、畿内から三河、房総と驚くべき逃避行を重ねながら記していった備忘録が奇跡的に残っていたことだ。そして、伴助は明治期まで生き延びたということで比較的記録類が多く残り、彼を知る人たちも近くの時代まで暮し、それぞれ口碑として残った、という事情もある。
 江戸時代を語る書は年々歳々、増量していくが、農民、ましてや酷税、飢餓などに苦しめられた地方・寒村で地を這う農民の姿を掘り起こした書はまことに少ない。本書は「一揆」の指導者となったことで歴史に名を残すことになった三者の像を等身大にする作業のなかで、江戸時代の生活人の姿に血肉を与えた。

 兵助は逃避行の糧を、算盤算術指南で得ていた。江戸時代は庶民のあいだいに和算が驚くべき水準で定着していたことは、金森敦子さんの短編集『瞽女んぼが死んだ』収載の「算士とその妻」でも書いていた。芸は身を助けるとはこのことだろう。平助は晩年、一揆を起こした故郷へ戻り、捕縛もされず長寿を全うした。当局は、兵助の名望を尊重せざるえなかったようだ。村落治安維持経営のためにも手出しはできなかったのだろう。一揆後の事情はけっして極刑を与えることで終息をはかったわけではない、柔軟な大岡裁きが各地であったということだ。
 伴助は賭場にも出入りしたハズレ者であった。生粋の農民というわけではない。しかし、弁も立ち、お上を恐れない「強情者」として立ち現れる。江戸下町におけば「いなせな」若衆というところだろうか。おらが村の窮状に際しては一命を賭しても一肌脱ごうという男だった。そういう男も一揆の先頭に立ったことを記す。幕末、牢にあったが維新の特赦で娑婆に出た。

文庫化されない本のために №014 秦恒平『猿の遠景』

 秦恒平『猿の遠景 ~絵とせとら文化論』 
     ~今上天皇、皇太子時代のある慧眼
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 明仁親王、今上天皇の皇太子時代のエピソード。南宋時代の画家・毛松の作と伝えられる『猿図』(現東京国立博物館蔵)をみて親王は即座に「日本猿ですね」と指摘した。その指摘をそばで聞いていた学友・徳川義宣が雑誌『淡交』にそのエピソードの顛末を書いた。
 親王の指摘を受けた博物館の学芸員は慌てて動物学者数人にコンタクト、すると皆、日本の固有種「日本猿」と鑑定した。そこで困ったのが南宋の名品と鑑定した美術史家や学芸員。日本固有種の猿をみたこともない南宋の画家がかくまで精妙に描写することはできない。であるなら「伝毛松」という美術史的鑑定は崩れる。そこで美術史家たちが 出した結論は、「日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった絵」とすることにした。徳川氏は、くだんのエピソードを紹介しながら美術学者の権威というものを皮肉ったのだと思う。
 ここで思うのは、著者は指摘していないが、親王の指摘だったから慌てて動物学者の知恵を動員することになったのだろう。これが、生物学を専攻する一学徒、いや動物学者の指摘であっても無視できただろう。やがて天皇に即位する親王の指摘であったから慌てたのだ。そして、本書も生まれた。
 本書は、重要文化財であった「永仁の壺」真贋論争ではないが、小説の名手でもある著者は、『猿図』の由来を求めて少々、粘着的に探求をはじめるが、それが推理小説を読むようなストリー性があって興味深く、楽しいのだ。おもわず惹かれて読み進めてしまう・・・しかし、著者の考察は枝葉に分け入り、やがて本筋から離れ、読者としてはどこか肩透かしをくらった感じになる。本書が著者の代表作となり得なかった欠点だろう。
 *紅書房版・平成9年3月初版・絶版。

文庫化されない本のために 013 王凱『苦悩に満ちた宮廷画家 ~郎世寧による異文化の受容と変貌』

王凱『苦悩に満ちた宮廷画家 ~郎世寧による異文化の受容と変貌』
 カスティリオーネ
カスティ

 冒頭に掲げた2枚の絵はともに同じ画家の手になるものだ。それを記憶されたい。
郎世寧、と書いて、その作品を思い浮かべることができる日本人は近世中国絵画史にそうとう精通した人だけだろう。ジュゼッペ・カスティリオーネが本名である。イタリア生まれ、イエズス会の宣教師にして画僧。
 清朝、康熙皇帝は西洋科学と芸術につよい関心をもち、イエズス会を通して西洋人画家の派遣を要請した。その求めに応じたのがカスティリオーネであった。すでにイタリアにおいて多くの作品を発表していた画僧だ。冒頭の洋風の絵画は、その時代のものでルーブル美術館に収蔵されている。
 1715年、1年数ヶ月の船旅の末、カスティリオーネは北京入りし、紫禁城のなかで宮廷画家として3代の皇帝につかえながら多くの作品を遺すことになった。この画家の作品を論じたのが本書だ。著者は1959年、中国・杭州市出身で早稲田大学で美術史を専攻した人だ。ちなみに本書は日本語で書かれた。

 多作家であったカスティリオーネだが、その作品はアヘン戦争以降の中国国内の政変などで散逸した。日本の東京国立博物館など公的施設の他、個人蔵などで19点があることが確認されている。日中国交回復後、文化的交流イベントとして中国のさまざまな美術を紹介する展覧会が開かれているが、清朝皇帝を描いたカスティリオーネの作品は、郎世寧の作として紹介されることもある。
 台湾にも約80点ほどが収蔵され、2点を除いて台北の故宮博物院にあるのは、蒋介石が戦乱から守ったからだ。生きているときも数奇な運命をたどった画家だが、遺した作品もまた政治に翻弄されたといってよい。
 欧米諸国から東アジア諸国にひろく散逸してしまったため、その研究は遅れ、今日まで王凱の労作以外ではまとまった研究はなかった。それが日本語で書かれた、という意味でおおきな価値を有すると思う。

 これまで日本語で読める中国美術史の通史としてもっとも流布しているのは新潮選書の一環として昭和47年に刊行されたマイケル・サリバンの『中国美術史』だと思う。わたしが現在もっている版は7刷目のものだが、最初に手にしたのは初版のもので、当時、中国美術への目を開かせてくれたものとして感謝している。最近、王凱の著書を偶然、手にして、あらためてサリバンの「清朝時代」の章を開くと、3ページに渡っての記述が確かにあるのだが、北京における建築設計士との紹介であって、画家としての記述は1ページ程度なのだ。ということもあって、わたしはまったく記憶にとどめることはなかった。
 いま本書を読んで、マルコ・ポーロから遅れること約500年、中国皇帝に従ったイタリアの才能について興味を抱いた、という報告しかできない。彼の絵画論へ言及するなんてとんでもない話だが、本書によって否応なく刻みこまれた関心はこんご長く持続するものと思う。
 *2010年4月初版・絶版。大学教育出版刊(岡山市)

文庫化されない本のために №11 『ロイと鏡子』湯浅あつ子

湯浅あつ子『ロイと鏡子』
 
 「ロイ」とは戦後、日本語の達者な外タレ第一号としてラジオ、テレビで活躍したロイ・ジェームス、「鏡子」とは三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』の舞台になった富豪の館の娘の名前だ。その「鏡子」さんが本名で書いた夫ロイ・ジェームスを追悼・回顧する文章を中心としたエッセイ集。
 この本を読む気になったのは、先頃、NHKで放映された「トットテレビ」に出演していた米国出身のタレントさんが、「演じることになってロイ・ジェームスさんのことをはじめて知った。スゴイ人だった。尊敬に価いする」という語っていたのがきっかけだ。その「スゴイ」ことの内容がまったく語られなかったので、さてどういうことなのか、と思っていたところに本書に出会った。
 昭和59年3月、中央公論社から刊行されている。初版だけで重版されることなく書棚から消えた。同社が倒産し、読売新聞の傘下に入ってからは、こうした売れない本は永遠の絶版になるしかないだろう。
 kcb8.jpg 写真は、全盛期のザ・ピーナッツと。

 日本の民放テレビ黎明期に活躍したロイさんの端正な佇まい、江戸下町仕込みの歯切れのよい日本語はいまもでも記憶に鮮やかに残っている。モクロク時代のテレビだったせいもあるけど、いつもダークスーツに綺麗に整えられた髪、そして黒縁の眼鏡姿は知性にあふれていた。別にどの国の出身とも思わず、なんとなく「アメリカ人」と思い込んでいたフシがある。
 ところが、本書を読んでロイさんがトルコ人であったことを知る。父母ともにトルコ人である、と著者は書いているが、ロシア革命によって追われたカザン・タタール人である。本名を、ハンナン・サファといい1929年3月、東京下谷に生まれた。父アイナンは戦後、東京回教寺院で導師イマームを勤めた人だから、ロイ・ジェームスもまたイスラム教徒であった。
 下町生まれのロイは地元の小学校へ通い、明治大学を卒業した。日本語が達者なのは当たり前だが家族とは古いトルコ語でやりとりしていたようだ。そんなロイであったが戦時中は敵性外国人とみなされ、憲兵に捕まり天井から荒縄で逆さづりの拷問を受けたり、軽井沢に強制収容された後、日本語に不自由な6人家族を食わせるために人夫として働いている最中、極度の栄養失調で倒れ、ごみのように空き地に捨てられ、その後、収容された外国人たちの献身的な世話で生き延び戦後を迎えた体験をもっている。そうした半生は、たぶん、妻となった著者にしか語らなかった部分も多いと思う。
 ロイがテレビに登場する前に、すでに一個の人間として語るべき「半生」を体験していたひとであった。著者はプロの物書きではないし、亡き夫への愛慕の念から綴らねばいられないという思いにかられ、請われるままに筆記したものようだ。「事件」に対する資料的な裏づけ作業はそこにないけれど、あの時代を思えばさもありなんと思える事柄だ。しかし、タレントとしてのロイは、そういう自分をいっさい語らなかったし、本人は「僕はチャンバラのむしり(かつらの一種)にあこがれ、六大学の野球にあこがれ・・・・・〈旅姿三人男〉〈花笠道中〉〈りんご追分〉、虎三の浪花節、志ん生の落語がぴったりの江戸っ子」を自負したまま喉頭がんのため53歳の若さで死去したのだ。
 戦後、上品さの欠けられもなかった(と、あつ子は語る)ロイを、あの端正で気品のある流暢な日本語を語るタレントに仕上げる土壌をつくったのが著者であり、「鏡子の家」に集う各界の名士たちとの交流であったことも語られる。その「家」に売出し中の三島が出入りし、ロイとも交流をもったのだ。「家」に出入りしている時期の三島の面影は、三島資料としても貴重なものだと思うが、本書が再刊されることはもうないのだろう。本書に若き日の三島と著者との貴重なツーショットが収録されている。本書中、唯一の写真である。 
三島 005

文庫化されない本のために 009~010『法王暗殺』『知られざるバチカン』

文庫化されない本のために 009~010

▽009
 『法王暗殺』ディヴィッド・ヤロップ著(徳永孝夫・訳)

 本書は購入してから数年、積読のまま他の書籍に圧殺されたままだった。一読、これはカトリック教会にとって大変な問題を含んだ問題作だと思った。ちなみに、法王庁は黙殺を決め込んだ。バチカンの保守派にとっては禍々しい本との烙印を捺しただろうし、改革派はこれをテキストに採用しただろう。ともかくバチカン物では、領域を超えていうのだが『ダヴィンチ・コード』より濃く面白かった。事実はやはり比重が違う。

 1978年、ヴェネツィア総大司教であったアルビーノ・ルチャーノが、パウロ6世の死去を受けて行なわれたコンクラーヴェ(教皇選出会)において第263代目の使命を受けた。そして、自らヨハネ・パウロ1世という複合名を初めて名乗ってカトリック教会の最大の権威となった。。
 カトリック教会を抜本的に改革しようとする人たちは新法王の誕生を等しく祝った。反面、保守派は新法王を尊重しつつ(しなければ仕方がない)改革路線は鄭重に無視、または拒否するという態度で臨む……はずだった。しかし、聖職者にならなければジャーナリスト、しかも社会正義のために労を惜しまなかっただろとう、自ら公言していた聖職者であった。就任と同時に保守派の攻勢を削ぐために、バチカンの資金管理を担当していた聖職者たちの不正にメスを入れようとしていた。財政だけでなく、長年、抱えていた「離婚」、「妊娠中絶」、「同性愛」についての教会法を女性の目線、マイノリティの視線で改革しようとしていた。問題が山積することを、むしろ新法王は歓迎していたぐらいだ。幸い頑健な健康体をである。難問は望むところ、それこそ、自分が法王に選出されたことは神 の意思として、自身の正義のために不正と因習の壁を突き崩そうとしていた。しかし、法王在位、わずか33日で急逝してしまったのだ。
 その不可思議な死の真相に迫ろうとしたのが本書の主題だ。
 しかし、英国人の著者は急逝の謎そのものにだけ焦点を当てているわけではない。ルチャーノの個人史を実に丹念に取材し、法王に選出されまでの“赤貧”を貫いた歳月を丹念に綴っており「ヨハネ・パウロ1世」伝、ないしは「アルビーノ・ルイチャーノ」伝として読んでも一級の評伝ではないかと思う。
 ヴェネツィア総司教の座は世界でも有数のカトリック教区の長ということである。世が世ならば「ベェネツィア共和国」の権力者として巨万の富を作ることができただろうし、20世紀でも大きな資産を作ることも可能だった。しかし、無欲な人だった。
 法王としての豪奢な聖衣も役どころの衣裳だから仕方がなくつけているだけだ、と本気で思っていたひとだろう。なりより不正を厳しく排除するという姿勢を、物静かで穏和な人柄のなかに包みこんだひとであった。多くの聖職者から慕われていた。
 そうしたルイチャーノ個人の人柄を造形していくなかで著者は恣意的な想像力は排除し、誕生からバチカンまでの道のりを丹念に取材し、多くの証言を集め語らせるという手法で等身大の像を読者に結ばせようと試みている。
 ルイチャーノがコンクラーヴェで選出されると、すぐバチカン銀行の調査に着手した。
 当時、バチカン銀行はポール・マーチンクス司教が総裁として君臨していた。米国でも有数の教区シカゴの枢機卿であった。有数ということは信徒から厖大な浄金を集まっていた、という意味を持つ。その浄金を私的に流用していたことは長年、公然の秘密だった。その金の流れについて本書はかなり踏み込んだ書き方をしている。新法王はそのマーチンクス司教をバチカン銀行総裁の座を外そうと考えていた。それは、新法王が就任からすぐ着手した。そして、動かぬ証拠を押さえ、反証が困難と見極めたところで辞令を発するつもりでいた。その直前で、証拠とともに“暗殺”された、と著者は強調するのである。
 バチカンの保守派とは蓄財に熱心な派閥ともいえる、と著者は語っているように思う。その派閥を金銭問題で追及し、バチカンの統治機構から排除すれば、あたらしい時代にふさわしい教会法を認めさせることも容易だと新法王は考えていたようだ。しかし、急逝した。
 著者が本書を刊行した時点でマーチンクス司教は総裁の座に留まっていた。その時、バチカンはポーランド出身のカロル・ユゼフ・ヴォイテイワ枢機卿が選出された。“空飛ぶ法王”と呼ばれた歴代法王のなかでもっとも活動的な新法王ヨハネ・パウロ2世の誕生だった。2世は教義的にはもともと保守的な考えの持ち主であったが、前法王の遺志はできるだけ受け継ぐという意味で「2世」を名乗った。あるいは、「1世」の死因を憶測は避けねばならないだろうが、ある程度、知っていたのではないだろうか? 「1世」は不審死ということで司法解剖や、検察の所見も受けていない。それをするとすればローマの検察が行なうのだが、そこはバチカン市国という“国家”である。その“主権国家”のなかで起きたことにイタリア政府は踏みこめない。マーチンクス司教はイタリアの銀行を活用して不正を行なっていた、行なっているとも追及されていた。しかし、同司教がバチカンを出ない限り拘束できず、2世の下で総裁の座は安泰だった。
 本書が英国で刊行されたのは1982年。2世がポーランドの独立自主管理労組「連帯」支援を公然とすすめていた時代で、世界の目はソ連邦の解体、東欧諸国のソ連圏からの離脱という20世紀後半期の世界史的な激変を注視していた。そして、そのなかで2世は地球大の活動を行なっていた。バチカンとは2世の行動そのものだった。そのなかで、1世の死はすっかり埋没してしまったのである。
 *1985年4月初版(原書は84年刊行)文藝春秋刊

▽010
 『知られざるバチカン』ジョージ・ブル著(関栄次・訳)

 本書も英国のジャーナリストの仕事。1982年の刊行だから、『法王暗殺』に先行する。そして、ともにヨハネ・パウロ2世の前期に属する時代のバチカン機構を丹念な取材によってルポしたものだ。「国家」としてのバチカンについて、その財政問題にも踏み込んでいるということでも注目されたわけで、日本のカトリック作家・遠藤周作が「長い間、知りたかったことを次々と知ることができた」という推薦文を寄せる理由があった。
 本書では1世の急逝を書きながら、その不自然な死については全く無視する。しかし、2世の誕生に際して枢機卿たちが求めたのは、1世のような改革派ではなく、「神学では伝統主義者」であることを求めていたと書いている。著者は、1世が排除しようとしたマーチンクス司教(リトアニア系米国人であることを本書によって知った)にも単独インタビューしている。同司教のバチカン銀行も関与していた投機的事業を認めながらも、それは深く追及されないが、「教皇の富の貸借対照表」という一章を本書の最後におかくという意図になんらかの批評性があると思われる。『法王暗殺』と合わせて読むとなかなか興味深い。
 2書とも非カトリック圏のジャーナリストによって成されたという意味も留意しておく必要はあるだろう。『ダヴィンチ・コード』もまたそうだ。カトリック信徒にはなかなか踏みこめない暗黙の領域というものが存在しているのかも知れない。
 *1988年7月初版(原書は1982年刊行)日本放送出版協会刊。

文庫化されない本のために 7~8 モーツァルト関係書

文庫化されない本のために 7~8
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★

☆007 高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』
☆008 H・キュング『モーツァルト/超越性の痕跡』

▽高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』

 小林秀雄の「モーツァルト」論で語られる作曲家の像はヨーゼフ・ランゲの筆になる、あの未完成の肖像画である。
 小林がどこから引用したものかは知らないが、小林がモーツァルトの音楽を聴き、その芸術について語るとき、彼の脳裏にあったのはランゲ筆の像であることはまちがいないだろう。1789年頃の肖像といわれるからモーツァルトの死の3~4年前の像ということになる。
 ややうつむき加減で大きく眼を見開いたモーツァルトの横顔はほぼ完成し、胸から下部が余白のままに残された未完成作品だが、肖像画としてはほぼ完成しているものだ。下部はクラヴィィーアに向かって弾奏しているか、作曲している最中を描いたものと推定される作品だ。
 現在、このランゲ筆の肖像を含めて、真正といわれるモーツァルト肖像画が14点遺されている。そして、その肖像画はみな美術史にほとんど無視されている画家か、アマチュアによるものだ。

 本書は、その14点を巡って「肖像画」論を展開する。14章プラス1章で、その追加の1章は肖像ではなく音楽に触発されて描かれた絵をかたるエッセイ的文章となっている。
 著者は音楽研究家でないから、取っ掛かりとしてモーツァルトを語りながら、美術評論家としての筆が各章で自在に進み、たちまちモーツァルトとも音楽とも無縁なところで美術論が展開される。
 本書は、モーツァルトの音楽を常識的に知り、その幾つかのフレーズを口ずさむことができる美術愛好家といったあたりの人がもっとも良く味わえるものだと思う。

 私自身、本書つうじて、いろいろ確認できて面白かった。
 たとえば、作曲家としての創作が充実していた時期の肖像画としてドラクロアの「ショパン像」や、アングルのデッサン「パガニーニの肖像」があったことをあらためて確認した。ショパン像は音楽のイメージから想像するものに大変、近いと思う。パガニーニの超絶技巧の演奏ということで、映画などではすこぶる個性的に描かれたりするけど、アングルのそれからは、かなり全うな常識人という印象を受ける。音楽史的には小さな存在かもしれないがケルビーニの肖像もアングルが描いている。女性画家による作曲家像として好きな作品にバラドン(ユトリロの母)の「エリック・サティ像」も忘れがたい。

 あるいはドル紙幣など、米国にあふれる建国の英雄にして初代大統領のワシントン像が流布した縁起なども教えられて面白かった。ギルバート・ステュアートという、画家としては三流の売り絵、注文絵描きが、生活のために売れるワシントン像を大量に描いた。しかも、同じような肖像画。画家は、オリジナルとしてまず描き、注文はすべて、その模写、レプリカを描きつづけた結果、極めつけのワシントン像になってしまったという話など・・・そんな話がふだんに収められている。文庫にしても面白いと思うのだが。(小学館刊*1996年)

▽H・キュング著『モーツァルト/超越性の痕跡』(内藤道雄・訳)

 数多(あまた)あるモーツァルト書のなかで、これは日本人には容易に書けない類いの論集だと納得させるのが本書。少々、乱暴に概要を書けば、モーツァルトの音楽、その芸術のなかにカトリックもプロテスタントも超越した「神への理性的な信頼に支えられた現実的な人間存在」への信頼、あるいは賛歌の内実に迫ろうというものだろう。

 モーツァルトの父レオポルトは青年期、イエズス会士から約12年間、教育を受けている人で、子ヴォルフガングにもカトリック教育を熱心に施している事実を著者は語ってゆく。そうした文脈からモーツァルトの作品を取り上げて、彼の信仰の姿勢を語る。
 また、モーツァルトのカトリック信徒としての生活を認めながらも、それは教条主義的なカトリシズムではなく、「プロテスタント的ではない啓蒙化されたカトリック性」と書く。
 おそらく宗教改革以降のキリスト教圏の作曲家あるいは音楽家にとって、その音楽性に対して、このような本がそれぞれ書かれているものだと思う。ただ、邦訳までされるのは、その極一部でしかないということだろう。“売れる”モーツァルトだから邦訳が出たということだろう。
 本書がプロテスタント系の宗教書の刊行を生業とする出版社から出されたことも示唆的だ。一般の出版社が容易に手をつけかねるモーツァルト論を出してくれたことに感謝したい。同じ出版社からはカール・バトルの『モーツァルト』も出版されているが共に少部数の刊行である。

 本書を正確に論評できる立場ではないが、一読書子としてモーツァルトの聴き方にあたらしいベクトルが与えられたことは確かだ。訳注や解説ページを除けばB6判で80ページにも満たない論考だが、その実質は大変、深い。(新教出版社刊*1993)
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