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署名アラカルト №22 小野田寛郎 〈最後の日本兵〉

署名アラカルト №22 小野田寛郎
小野田寛郎 太平洋戦争終結後、29年(!)も日々、臨戦態勢でフィリピンのジャングルのなかで銃の手入れ怠りなかった〈最後の日本兵〉。予備陸軍少尉に与えられた任務は、諜報活動。ヒロシマ・ナガサキを知り、天皇の人間宣言を知り、東京オリンピック、新幹線の開通など日本の繁栄を把握しつつ、任務が解かれるまで戦いつづけることを帝国軍人の誇りとした人だ。
 フィリピンで戦中の上官だったひとに任務が解かれ、日本に帰国したときに「英雄」として迎えられもすれば、「軍国主義の亡霊」といった蔑みすらあった。
 私は小野田さんを肯定的にみている。帰国後、保守的な組織や団体に、その名の力を貸していたことも当然の成り行きだと思う。大東亜戦争を肯定する思想をもたなかれば、戦後29年もの歳月はむなしいものになるだろうし、戦後ともにジャングルで暮し戦った戦友を27年目に亡くしてしまったことは慙愧でしかなくなる。
 虚勢で信念は貫徹できない。〈最後の日本兵〉小野田さんの署名は律儀な常識人の筆使いだ。そこには左翼系から指弾されるような「亡霊」とか、「軍国主義の権化」と指弾された狂信的な気配は筆の一画に影を落としていない。不特定多数の人の求めに応じて記された署名だがら、早書きの緩みはある。でも、できるだけ丁寧に応じようという気配はしっかり伝わってくるものだ。

 
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署名アラカルト №21 松本侑子

署名アラカルト №21 松本侑子
松本侑子私の周囲には、『赤毛のアン』の熱心な愛読者が世代を問わず複数いる。最初の海外旅行が、アンの聖地プリンス・エドワード島だった人もいる。『君の名は、』聖地めぐりより遥かに能動的でとても好ましい。
 松本侑子さんといえば、『拒食症の明けない夜明け』で時代に切り込んできた才能だったが、彼女もまたアンにおおきな影響を受けた人であったことを知る。御自身のホームページではアン関係にもっとも力を入れているように思える。
 松本さんの署名本は幾度も私のもとに来たりて去ったけど、たいてい、マジックペンのぞんざいな感じのものばかりだった。ところが、2008年初版の『赤毛のアンへの旅』の署名本はごらん通り、まったく見事に少女趣味的で ある。女子高校生でも、こんなふうなやりかたをするのではないかと思ったりする。
 それまで、私の手元に来た松本さんの署名は漢字四文字くっきり書き分けた特徴のないものばかりだったが、これはローマ字筆記体。最後の〈to〉のOは、ハート型になっている。雅印は隷書のようだが、その硬さを和らげるように、否、いとおしげにというか、プリンス・エドワード島の花園でも思い出したか、深紅のバラのシールが添付されているのであった。そこには、愛らしい乙女心満開の松本さんがいる。女性は、アンの前ではにわかに思春期を取り戻すらしい。
 アン本のそこに45歳の可愛い松本さんが確かに存在するのだった。

署名アラカルト №22 橋本聖子  リオ・デ・ジャネイロ五輪選手団長

署名アラカルト №22 橋本聖子
 リオ・デ・ジャネイロ五輪選手団長。
IMG_20161202_201845-3.jpg今回はリオ・デ・ジャネイロ五輪における日本選手団の活躍に敬意を表し、338選手を率いた橋本聖子団長の署名。橋本さんは、日本オリンピック委員会(JOC)常務理事、日本スケート連盟会長、自民党所属の参議院議員でもある。
 橋本さん、まるでオリンピックの申し子のような人である。1964年10月4日、そう1964年、東京オリンピック開会式の6日前に北海道で産ぶ声をおあげになった。スピードスケーターとして84年のサラエボ大会から94年のリレハンメル大会まで連続4回出場。88年の夏季ソウル大会からは自転車競技にもエントリー、96年の夏季アトランタ大会まで出場する。メダルは92年、冬季アルベールビル大会での1500mの銅が最高だが、長年、日本の女子スピードスケート界を牽引してきたことは間違いないし、トレーニングの一環としてはじめた自転車で代表選手となったのは、この人の天賦の才能と努力の結果であるだろう。
 署名は、早書き上から下へ流れる線で芸能人に多いかたちだ。これは人気アスリートとして長年、夥しいサインをしなければならなかった生活のなかで生まれたカタチで、国会議員となっても換えれない癖、習い性のようなものだろう。スピードスケーターといより、フィギュアスケーターに似つかわしい線の乱舞のように思えてしまうところが妙。
 参議院議員として3期目にあった時期の署名ということでみると、国会議員としての“風格”に欠くきらいがあって、そろそろ換えても、とも要らぬお節介か・・・。しかし、ご本人、ビロードの椅子のなかでも身体は鈍っていない、筋力はまだまだアスリートとしての矜持を保っているとの主張かも知れない。ふつう、3期目も半ばとなれば、こうしたかたちの署名はしないものである。雅印も少し軽る味で、滲みの少ないのは気になるところか。

署名アラカルト №21 床山・床寿(日向端隆寿)

署名アラカルト №21 床山・床寿(日向端隆寿)
床寿 床山とはお相撲さんの大銀杏を結う技芸者。もともと江戸・元禄期、上方歌舞伎の大看板・坂田藤十郎が舞台用に髷を結い上げたときに生まれた名称、そして専門職化したらしい。
 大相撲界は七つの部門に分かれる。
 主人公というべき力士を頂点として、親方、若者頭、世話人、行司、呼び出し、そして床山となる。正直、若者頭、世話人というのは筆者にはよく分からない。分かるのはTVで写る人たちと、写らない人たちが多数、興行に携わっていること、多くの専門分野があるということぐらいだ。床山さんも影の仕事、裏方だが、なくてはならない仕事だ。そんな人の署名が世に出るには、床寿さんが、その仕事を自叙伝の文脈で綴った『大銀杏を結いながら ~特等床山・床寿の流儀』(PHP研究所)を刊行し、献呈先のために記したからだ。取立て個性のある筆跡ではなく、裏方として誠実に場所を勤めてきた職人の堅実さがそこに表出されているといえるか。
 床寿さんの著書によって、床山さんにも番付があることを知った。それも平成20年初場所の番付からはじまった、あたらしい伝統のようだ。その番付掲載に尽力したのが著者の師匠筋にあたる床邦という人らしい。著者が床邦さんをついて触れるとき、特等と頭に振る。床寿さんも特等。現在、50数人の床山さんを抱える相撲界のようだが、特等とはつまり力士でいえば横綱ということだろう。知らない世界、仕事を知るのはいつだって楽しい。






署名アラカルト №20 平山郁夫 

署名アラカルト №20 平山郁夫 
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 前回の六代幸兵衛・加藤卓男と平山郁夫には世界史上の運命的な日付を共有している。ふたりはヒロシマで被爆体験をもつのだ。奇跡的に生き延び、それぞれの分野で個性的な仕事を完成された。
 平山が画家としてヒロシマを主題にしたことは1作のみ、それも被爆から34年目のことだった。その作品を「広島生変図」という紅蓮の炎で覆いつくされた図である。被災者は描き出さなかった。平山についてあらためてここで紹介するまでもないだろう。
 引用した署名はそれから数年後、ライフワークであったシルクロードを主題とした作品をあつめた回顧展の図録に記されたものだ。
 平山の署名本は多い。その多くが回顧展のカタログに記されたものだ。とくにユネスコの仕事に関わり、アフガニスタンのバーミンの巨像がイスラム過激派タリバンによって破壊された後、特に精力的に展開されたと思う。私自身、シルクロードの遺跡の保存に関する氏の講演に接している。また、数年前、中央アジアのイスラム国ウズベキスタンへ旅したとき、首都タシケントの宿泊先にほど近い場所に平山が私費を投じて建てた記念館があった。そこには平山作品も展示されていた。
 紹介した平山署名は、氏の典型的な筆体で、特徴がよく出ている。私はその文字から明晰で清廉な印象を持つ。筆体そのもは違うが、私は何故か、北宋八代目の皇帝・徽宗(きそう)の書を思い出してしまう。

署名アラカルト №19 加藤卓男(六代目幸兵衛) アラビア文字の署名

 署名アラカルト №19 加藤卓男(六代目幸兵衛)
  アラビア文字の署名
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 美濃・瀬戸……日本陶芸の有数の名産地。その地で代々、染付け・青磁等を至芸としてきた家系から出てきた才能、と紹介するのは陶芸に少し詳しい人ならなにを今更となるのだろう。そう幸兵衛窯六代目を継承した名陶匠である。
 しかし、六代目はそれまでの幸兵衛窯では焼かれなかったペルシャのラスター彩の再現に精力を傾注した執念の匠であった。署名にそれが象徴されていることはいうまでもない。大文字は「卓」だが、その横にアラビア文字が記されている。六代目署名の特徴である。そこに自らの作風を語る「ペルシャ陶器と織部」が仮託されているわけだ。
 アラビア文字で署名にする人は、おそらくアラビア文学や文化の専門家にいるかも知れないが 、名門陶家に生を受け、人間国宝とまでなった陶芸家にはこの人をおいて存在しない。六代目以降も、しばらく出ないのではないかと思う。その意味で貴重な署名である。
 ラスター彩とはペルシャの地で9世紀から13世紀に至る400年間に作られ、モンゴルの侵入によって破壊され、技術の継承も失われ地上から姿から消した。その再現を目指したのだから、その再興の道が狭隘であったのは必然だろう。その狭隘の道には繰り返されたペルシャ行があった。その旅日記は地元の中日新聞に連載されたりしていた。手馴れたアラビア文字の署名もそうした旅の成果の一つかも知れない。
 ラスター彩の再興といっても、ただ遺物を真似ただけではない。この人の言葉を引用しよう……
 「ペルシアのラスター彩ですと“空間の恐怖”といいますか、すきまなくびっしりと描かれる。で、日本的な間といいますか、空間を生かしたラスター彩をやりたいと」
 六代目の仕事からあらためて日本工人の才能を素晴らしさを確認させられる。

署名アラカルト №18 黒柳徹子

署名アラカルト №18 黒柳徹子

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 徹子さんについての紹介は不要。このサインは、超ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』を書いた頃だから、もう40年近く前のものとなる。添書きに「愛をこめて!」と記されているが、今でも、署名時に掌の余裕があれば、そう記す徹子さんかも知れない。
 徹子さんの署名本は小生の家を幾度も行き来した。それだけ、徹子さんの署名本は多い。この署名は京都のあるライオンズクラブでの創設何十年かの式典に、徹子さんが招かれて講演した際に記されたものらしい。
 この頃の徹子さんの署名はかなりギスギスして角ばっているものが多い。指先の力加減が伝わってくる感じ。太文字マジック特有の先に角があるものを自在に扱った署名だ。ギスギスしてはいるが、芸能人とか人気野球選手のようないいかげんな省略はない。律儀である。でも、忙しい、という気配は伝わってくる、充実した多忙な日々・・・。
 現在の徹子さんの署名は、おなじように角ばった印象はあるものの、風通しの酔い隙間感がある。署名の枯淡というのは語弊があるかも知れないが、芸能人にしては破格に著書の多い徹子さん、繰り返しされたであろう署名も歳月を重ねるうちに変遷してゆくのは当然である。

署名アラカルト №17 俵万智

 署名アラカルト №17 俵万智

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 俵さんのデビュー作にしてミリオンセラーとなった歌集『サラダ記念日』。200万部が突破したとき出版元は「限定700部天金謹製」と銘打ったA5判箱入り上製本を非売品として刊行した。その本が巡り巡って小生の手元に落ち、そして数ヶ月、滞留した後、千葉の方に飛んでいった。写真の署名は、その本に記されたものである。700部のなかの一部に記された。
 ミリオンセラーとなったオリジナル本にも俵さんの署名は多くみられる。20代になったばかりの若き才能、美女というより可愛い俵さんはあちこちの書店などのサイン会にひっぱりだされたのだろう。その結果、オリジナル本の署名が多くなった。
 小生の手元からはなれる前に、歌集を拾い読みする。若き鋭敏な才女、それも日常の場から射光された一首、その一行にあらためてハッとする。男として、在りし日のわが身への刃かとも思ってしまう。
 〈手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛〉
 〈「そのうちに」電話する気もない君に甘えた声で復讐する〉
 〈「今日で君と出会ってちょうど500日」男囁くわっと飛びのく〉
 〈我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり〉
 〈この部屋で君と暮らしていた女(ひと)の髪の長さ知りたい夕べ〉
    ・・・・切がないので、もう辞めよう・・・
 端正ですっきりとした穏和でいて、どこか意思の強さもうかがえる俵さんの署名であった。

署名アラカルト №16 千代の富士関

署名アラカルト №16 千代の富士関

 関取が自著を出すのは、だいたい引退後。他のスポーツを比較すると、それは顕著な特徴だ。人気高揚期に自著を出し、おおいに印税を稼ごうというさもしさは希薄だ。髷を落としてからの仕事となる。
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 けれど世間はそうはさせない。相撲記者とかが、人気力士の半生を書いたりする。いわゆる出版社の企画モノ。それはけっこう多くて、そういう評伝モノに、主人公となっている関取が墨こんあざやかに署名することは稀ではない。
 こんかいは昨日、訃報のあった千代の富士貢、九重親方の署名である。引退後、三役以上を勤めた関取衆の著書は多い。その著作への署名は、たいてい現役当時の四股名と現職としての親方名が併記することが慣わしのようになっているのが相撲界。
 ここで紹介する署名もその例にもれないものだ。ただ、黒地の中表紙への署名ということで銀メタル筆ということもあって、あまり貫禄がない。
 九重親方の署名本はたいていぞんざいにみえるものが多い。それは正直、残念だが、それなりの理由がある。
 かすれたマジックペンでの署名本というのも結構ある。横綱に登りつめた関取のなかでは、九重親方の署名本は比較的ひろく流布した。それだけ著作が売れたということでもあるし、親方のサービス精神の豊かさの証明かもしれない。土俵では名横綱の誉れにふさわしいきびしい取り口で観客を湧かせたが、引退後は、ファンとしての読者へのサービスを大盤振る舞いしていたようだ。それが署名本の多さに比例しているのだろうし、次から次へと押し寄せるファンのためには速書しなければならないという事情が、いっけんゾンザイにみえる筆体となった。あるいは、小出版社からの刊行本もあって、親方、損をさせてはいけないと、署名を相当部数、書き込んでいる。多忙な親方であったから、必然、署名にかける時間も少なかっただろから、芸能人なみの早書き署名の筆体とならざるえなかった。
 まだ61歳であったとか、まだまだ後進の指導にあたれる年齢であっただけに残念だ。合掌・・・

署名アラカルト №15 中村紘子 ピアニスト

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 日本のピアノ演奏の歴史は明治20年代に活動を開始した幸田延からはじまる。作家・幸田露伴の妹だ。ヴァイオリニストでもあった。日本の西欧音楽のプロ演奏家として幸田延は2楽器で劈頭の人だ。
 そして、時代はクラッシック音楽がレコードとステレオの普及にともなって大衆化していく。そんな時代の波にのり、美貌にも恵まれた紘子さんは語弊はあると思うが、ピアニストにおける最初のアイドルとなった。
 そして演奏家として、もっとも多忙であった活動の全盛期、作家の庄司薫さんと結婚した。『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞した人である(とわざわざ書くのは、庄司氏、中村さんと結婚して間もなく、作家として沈黙しているからだ)。
 写真の署名は、中村さんの2冊目のエッセイ集『チャイコフスキー・コンクール』に記されているもの。コンサートを終え、会場フロアで開かれたサイン会で忙しくなく書かれたような速筆感があるのはやむおえない。で、そのエッセイ集を読んだとき、その達者な文章力、とくにユーモアある観察眼にいたく感心したものだ。刊行年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するが、当然と思える力量だ。このエッセイ集によってクラッシックファンなら世界三大ピアノコンクールのひとつの内幕を知りうることができたし、この本によってクラッシック音楽の扉を開いた読者も多かったはずだ。
 文章にユーモアがあるのは、これは天賦の才。感傷的に、シニカルに、深刻ぶってかくのは易い。しかし、ユーモア(もちろん品の好い快感)の響きが行間からただよわすことができるのは技術、テクニックでは為せない手技である。こうした才能の持ち主に、だいぶ前に早世されたロシア語通訳者・米原万理さんがいた。活動中の作家・萩野アンナさんもそのひとりだ。
 中村さんがエッセイを書き出した頃、伴侶となった庄司氏の代筆ではないかという声もあった。仲の良いご夫婦なら互いに影響しあうのは当然だし、旦那が作家でなくても、最初の読者に選んだりするのは少しも不自然なことではない。ピアニスト中村紘子しか知りえない芸術・技術上のこと、チャイコフスキー・コンクールの審査員と参加したことで知りうる内幕。中村さんのペンである。
 むしろ、庄司さんは中村さんと結婚して、わが妻の多彩な才能に兜を脱いで休筆し、主夫たることを選びとったのではないか? その庄司さんにみおくられて、26日(7月)中村さんはピアニストとして永遠の巡業の旅へと去った。享年 72歳。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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