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[ライナー・ノーツ] リッキー・マーティン『MTV アンプラグド』

リッキー・マルティン MTV アンプラグド  
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 約7年のメキシコ暮しを切り上げようと、帰国の準備をはじめた頃、アイドル・グループ、メヌードからリッキー・マーティンを独立させた某氏(メキシコ人)へインタビューを申し込んだ。約束当日、彼の事務所を訪ねた。不在、ドタキャ・・・。某氏はその朝、マイアミに飛んでいた。離婚訴訟で、妻にマイアミの不動産が取られそうになって慌てて日程を変更したということだ。何故、某氏へコンタクトしたか?
 当時、リッキー抜きで元メヌードのメンバーが短期間、再結成され、地元プエルトリコやメキシコ各地で「レコントロ=再会」というライブツアーを行ない、そのライブ盤もヒットしていた。2000年前半、ラテン・ポップス界ではそんな再結成ブームがあった。90年代、ヌメードと活動が重なった人気グループにティンブリチェという男女混成グループがある。現在ではラテン・ディーバに数えられるタリアやパウリナ・ルビオも在籍していた。彼らの「再会」も話題を集めた。しかし、人気沸騰期のタリアは不参加。リッキーとどうよう懐古に浸る余裕などまったくない。リッキーをメヌードから引き抜いたのが某氏であった。

 リッキーの本格的な芸能活動は1983年12歳、メヌードへの参加からはじまった。そして今日まで、彼は絶えず走っていたように思う。言葉を正しく使おう、ラテン・ポップス界の喧騒のなかに暮らしていた、と思う。それはとてもシンドイことではないかと思う。けれど、彼にも比較的、おだやかな活動期があった。メヌードから独立し、メキシコでテレノベラに出演した時期だ。その連続ドラマの主演者はティンブリチェの人気者で、リッキーは助演。数年後、その立場は完全に逆転するのだが、そういう時代もあった。
 リッキーの名と存在が”グローバル化”したのは、言うまでもなくW杯フランス大会のテーマ曲「カップ・オブ・ライフ」を歌ったからだ。ビルボード№1ヒットとなった「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」をフロントに活動した90年代後半という時期だ。彼にとってラ・ヴィダ・ロカ、そう“イカレた生活”を送っていた時代。ありていにいえば私生活なんて存在しない。それでも彼は自分を見失わず、季節の移ろいのなかで“イカレた生活”が平常に戻るのを待った。
 99年、W杯のテーマ曲を収録した『リッキー・マーティン』は全世界で17億枚という天文学的なセールスを記録するが、これは世界的なサッカー人気の後押しがあってのことで、リッキーの実力を超える。時代が生んだ奇跡のようなものだ。事はリアリズムでみなければいけない。
 「カップ・オブ・ライフ」以後、リッキーはワールドワイドを意識し英語詞のノリを優先した作品づくりに一時、特化させる。彼をこれまで支持してきたと自負するラテンアメリカ諸国のファンには、けっして愉快なものではなかったはずだ。
 近作の英詞アルバム『ライフ』(2005)は、『リッキー・マーティン』以後、もっとも売れなかった作品として記録される。それでも大変な数字だが、リッキーの場合、評価基準は常識を超えている。『ライフ』が失敗作というのではない。良くできたアルバムには違いないが、スペイン語圏にすんなり馴染まずセルースに反映しなかった。リッキー自身、『ライフ』の制作の途上で、そのことを認識していたと思う。『ライフ』後のもっとも重要な仕事として取り組んだ「MTVアンプラグド」は、視聴者の大半がスペイン語族であるという強い認識から発している。
 そのアコースティックなラテンの芳香をただよわせるパフォーマンスを収録した本作は、リッキーの音楽活動のなかで転換期、節目となる傑作である。かつてのヒット曲が新たな土壌から芽を出した異種として蘇生した。それも奇をてらった実験的なものではなく、カリブのシーブリーズのような心地よさに満ちたナチュナルな肌触り。その象徴的な作品が「マリア」。彼の髪が長く、その髪の揺らぎがセクシーなアピールとなっていた時期の代表作。95年のアルバム『ア・メディオ・ビビール』に収録されている。
 オリジナルの「マリア」は導入部でブラジル・バイヤ地方のリズムを導入、それに被さるようにアコーディオンを歌わせ、クーバンジャズ風のフォーンを響かせたりとそうとうアレンジに入れ込んだ曲なのだが、蘇生した「マリア」は海を越えてイベリアの風を吹き寄せている。ギターはフラメンコを意識し、パーカッションはカホン、コーラスもフラメンコのコロを意識。そして、もっとも印象的な音色はスペイン・バスク地方で発達したアコーディオン「トリキティシャ」。オリジナルでもオヤと思った音色が新作では濃厚な味わいになって印象的。リッキーはかなり意識的な操作を行なっている。
 だから、「マリア」とか「ヴェルヴェ」、あるいは「ラ・ボンバ」が収録されていると言ってもスパ二ッシュ曲の単なる焼き直しと思ってはいけない。リッキー・マーティンという歌手は自分自身を支えてきたヒット曲を掌(たなごころ)に包んできた。ラテン系の歌手のひとつの越し方だと思う。消費の概念は希薄だと思う。ヒット曲ほど愛しつづける限り生命力は失わない、との確信があると思う。そんなことを率直に確信させてくるアルバムだ。

 MTVの『アンプラグド』について書いておく必要だあるだろう。
 音楽チャンネルとして世界規模の視聴者を有するMTVだが、その企画番組として意欲的に展開してきたのがアンプランド。スタジオに少人数の聴衆を招いて行なわれる親密的なコンサート。僕がこれまで評価しているアンプランドでのパフォーマンスは、メキシコのロック・グループ「マナ」、ワールド・デビューして間もないコロンビアの「シャキーラ」、ラテン圏女殺し三大ボイスのひとりスペインの「アレハンドロ・サンス」、そして南米チリのロック・グループ「ラ・レイ」といったところか。ラ・レイの「ドュエレ」はメキシコのオルタナティブ系ロックの女性歌手エリィ・ゲエラとのコラボレショーンでラテン圏ポップスの歴史的な作品となった。
 そうしたMTVアンプラグド史のなかで、リッキーの本作は重要な位置を占めることなる。すでに世界100局以上のMTVチャンネルと、一部の放送ネットワークでオンエアされるか、これから放映予定。その視聴者はそれこそ天文学的な数字となるだろう。
 リッキーが出演することは規定の事実であった。そのコンセプトが検討されたが、事は生むが易く、ボリクワ(プエルトリコの美称)としてスペイン語世界に回帰することで実現した。
 「ロラ、ロラ」を単純なラブソングを思ってはいけない。ロラという女性に対する思慕歌だが、ロラは祖国そのものである。『ヴァエルヴェ』(98年)に収録された曲。「ロラ、ロラ」につづく、「ボルベラス(帰ってきてくれ)」も同じような基調の作品で、アルゼンチン・タンゴの名作「ボルベール(帰郷)」のカリブ版といっても良い。これも旧作で『ア・メディオ・ビビール』(95年)の収録曲。
 思えば、リッキーがこうしたアンプラグドの親密的な雰囲気のなかで歌うのはメキシコでの活動期を除けば、ほとんどなかった。その意味でも貴重な新作である。
 リッキーの華やぎは僕のラテン暮しのBGMでもあった。帰国して早四年、リッキーの歌をしみじみと味わっているのが、なんだか不思議な気がする。こんなアルバムを待っていた。   2007・7
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[ライナー・ノーツ] ルベン・シメオ&シエナ・ウインド・オーケストラ『トランペット・サーカス』

ルベン・シメオ&シエナ・ウインド・オーケストラ『トランペット・サーカス』
 *avex-CLASSICS AVCL25365のライナー・ノーツ
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 ルベン・シメオは1992年、スペイン北西部ガリシア地方、大西洋に面した港町ビゴで生まれた。まだ16歳、初々しく聡明な少年だ。
 ビゴはカトリックの聖地として名高いサンティアゴ・デ・コンポステラからそう遠くない。ルベンのお父さんとガリシアの地と文化について、本アルバムの録音時間のあいだに短い雑談をした。
 スペインは地方によって際立った特徴がある。日本語では地方性というが、スペインでは自由自治性というべき“独立”志向と思えるほどの強いコントラストをもつ。ゆえに中央政府(マドリッド)から独立しようという機運がくすぶる州が幾つもある。その象徴がバスク州でありカタルニア州ということになる。ス ペイン北部州は、いつでも武器をもち戦おうと思っている民族主義者が大勢いるはずだ。「スペイン語」と書くけど、それは首都マドリッドを中心にした公用語であって、戦闘的な独立闘争で知られるバスク地方にはバスク語が生きているし、バルセロナを中心とする北東部はカタルーニャ語文化圏である。フラメンコをスペインのランドマークのように日本で語られているが、南部アンダルシアで育まれたもので、バスクやカタルーニャ、そしてガリシア地方では元来、疎遠なものだ。
 ルベンの生まれたガリシア地方は海でカトリック国のアイルランドと、英国を飛び越えて繋がり、その歴史的痕跡が深い。ケルトの影響を受けたバグパイプ音楽が根付いているガリシア地方でもある。ガリシアではバグ パイプとはいわずにガイタという。そして、聖地サンティアゴ・デ・コンポステラに守護された地方ゆえ教会音楽の普及度も高い。そこでは教会堂の外で信者たちが奏する簡素な吹奏楽団を発達させた。この吹奏楽団の古い形式は「新大陸」に運ばれ、植民初期時代に創建された「新世界」の古都に根付いた。ときには先住民共同体にも根付き、セマナサンタ(聖週間)で街頭に繰り出してくる。
 カトリックに縁遠い日本人の感覚では、スペインのトランペットというと闘牛場で吹かれるファンファーレのような音色を想起しがちだが、本来は宗教的な規範によって営まれた信者たちの祭礼のなかでより際立っているものだ。
 「自分もトランペットを吹くんだ」とルベンのおとうさんは語った。若 いときから吹奏楽団で吹いていたという。彼の兄弟もまたトランペット奏者。つまり、ルベンは幼いときからトランペットは玩具として生活のなかにあった。その「玩具」で遊ぶ息子の天分をおとうさんは見抜いたのだ。
 「自分を超えてはるかな地平に立つ才能であるかもしれない」と。おとうさんは活動の一線から退き、8歳の息子に賭けた。
 それから今日までルベンは堅実に修練し、実績を重ねた。ローカルな演奏会を着実にこなし、やがて国境を超えた。その才能の基層はガリシアの教会音楽なのだ。
 やがてフランスの巨匠モーリス・アンドレの目に留まった(耳に留まった)。近年は弟子をとらないことで知られるアンドレだが、ルベンを磨けば光る宝石の原石だと理解し禁を 破った。しかし、日本でのデビュー作となった本アルバムはアンドレ的古雅さからは遠く、ルベン父子の民俗的色調に傾斜した内容になっていると思う。それは収録された曲から感じられると思う。

 プロローグは、R=コルサコフの「熊蜂の飛行」。人口に膾炙(かいしゃ)した名曲を掲げ、聴き比べが容易という利点を活かし、「並みのうではないぞ」とまず認識させる。ゆえにこの曲のもつ軽やかな飛翔感より、技巧感が優先されているように思う。
 つづくラファエル・メンデスの「マカレナ」はトランペット独奏の定番曲となっている名品。演奏者がときに腕自慢的にあざとく披露しつつ、かつフィエスタの華やかな色彩感もあって演奏会でよく取り上げられる作品である。メキシコ出身のメ ンデスが持ち前の循環呼吸の超技巧を披露するために書き上げた作品である。このメンデスという名人はメキシコ大衆音楽のランドマーク、マリアッチ楽団に欠かせないトランペッターとしてプロ活動をはじめ、そのあまりにも雄弁な音色でマリアッチの枠を超えてしまった。メンデスの影響力は大きくメキシコ及びアメリカ大陸はいうにおよばずスペインにも達した。ルベンのおとうさんはメンデスのレコードを親しく聴いた世代だろう。ルベンの「マカレナ」は難易度への挑戦より、闊達で明るく祝祭的な雰囲気をとてもよく表現しているだろう。
 3曲目もまたトランペットのソリストなら誰でも取り上げる定番曲、ジャン=バティスト・アーバン(アルバン)の「《ヴェニスの謝肉祭》交響曲」。金 管楽器の教則本としてあまりにも有名な『アーバン金管教本』に収録された難易度の高い名曲である。
 以上の3曲であますところなく実力のほどを示し終えたルベンは、4曲目以降、本題に入るという編成で曲の順番が設けられているように思う。
 4曲目の「マリベル~スペイン幻想曲」は現代スペイン音楽を代表するフェレール・フェランのよく知られた作品でスペインではコンサートでよく取り上げられる。華やかさの額縁のなかに、フラメンコ艶、闘牛場の賑わい、情熱と哀歓が織り成されたスペイン的色彩で調和した作品として再三、取り上げられる。この曲を演奏していれば、さすがのルベン少年、早くおかあさんの待つ家に帰りたいと郷愁を掻き立てられるのでないだろうか。5曲目 は、Th・ホックの小品「愛の夢」。甘美さのなかに清楚さをただよわせた作品として宴の場などで演奏されるが、ルベンも抑えた演奏でよく応えている。6曲目は「コンチャ・フラメンカ」。コンチャとは「貝」のこと。表題の由来はわからない。
 7曲目「VIVA! ナバラ」はスペイン北部の民俗音楽ホタの面影の残る作品。バスク人のピアニストで作曲家であったホアキン・ラレグラの作品でピアノ曲として書かれた。ラレグラは「ツィゴイネルワイゼン」のサラサーテと親交があった人だ。邦題をつければ「ナバラ万歳!」となる。スペインからの分離独立を求める過激な運動のあった地だが、作品にもどことなく民族の困難な歴史の悲哀、それでも闊達に生き抜いてきたという民族の矜持が包みこまれ た曲だと思う。ときどき軍隊の隊列行進を思わせるフレーズが出てくるが、それは戦闘の描写であるかもしれない。ナバラでの演奏の機会が多いルベンにとっては必携曲になっているのだろう。感情表現の難しい曲だと思うが、これも無難にこなしている。
 8曲目に本アルバム中、もっとも野心的な挑戦を仕掛けたと思われる曲がある。コーカサスの小国アルメニアの現代作曲家アレクサンドル・アルチュニアンの「トランペット協奏曲」である。アルメニアは旧ソ連邦に属していた小国だが、音楽的には見落とすことのできない重要な国である。たとえば誰でも知るヘルベルト・カラヤンの先祖がアルメニア人であるが常識的には「剣の舞」のハチャトゥリアンが思い出されるだろう。アルチャニアンは 、ハチャトゥリアンを継ぐ世代である。民族音楽を取り込んだ作品を書きつづけながら、それと平行して現代的な色彩感に富んだトランペット、テューバ、あるいは金管楽器による多重奏曲を次々と書き、手薄な金管奏曲のレパートリーを豊潤にした異才である。世界中の金管奏者は彼に足を向けては寝れないだろう。
 「トランペット協奏曲」は1949年の作品でスターリン独裁時代に創られた。社会主義的な規範が音楽界を圧していた“冬の時代”だが、そんな停滞した時代の淀みを感じさせない。アルチュニアンの旋律は清涼感と高揚感があって気持ちよい。モスクワ音楽院の卒業作品だったカンタータ「祖国」がソ連邦国家賞を受賞し、その自信と意欲が硬直し窮屈な時代の風潮を無視することが できたのだろう。ルベンは、この協奏曲で自分の門出を祝い、かつ未来のかぎりない地平を眺望するような野心を、謙虚な感性のなかに包み込んで聴かせる。本アルバム中、最長で難曲でもある。
 おとうさんが作曲した最後の作品はガーシュウィン風のジャズ・ティストで、グリュサンドが際立つ小曲「マリのための幻想曲」。現在、ルベンの生まれ故郷ビゴに住む7歳年上の姉マリの明るいキャラクターにヒントを得て作られた作品ということだが、「毎晩、これだけは一吹きし、調子を確認せよ」とおとうさんが提供した“宿題曲”のようなものだ。トランペット吹きとして経験から導き出された練習課題を退屈しないように演奏できるように配慮された愛情あふれる父性愛に満ちた作品といえようか。
 録音に立ち会ったとき、私の前に、そのおとうさんが座っていた。自分で手を入れた譜面をたどりながら息子の演奏を聴いていた。それは、数小節の採録であったが、演奏が終わったとき、ルベンはおとうさんをみた。「良かったかな?」と視線がただよう。おとうさんは手を叩いてそれに応えた。緊張のなかにも、そんな親密な交流を目にしていると父子鷹、といった古い言葉を思い出す。鷹の子は早晩、親鳥から離れ空高く舞って去るのが宿命である。

 モーリス・アンドレのレッスンを受けていると先に書いたが、それは技術的な指導であるより前に、トランペッタ独奏者としての心構え、帝王学のようなものが優先されているように思う。師アンドレの敷いた道を率直にたどるとは思えないのだ。アンドレの最良はバロック音楽の優雅と沈静であると思うが、ルベンにはアルチュニアンなど新しい金管楽曲の馴致と普遍化という21世紀に出立した演奏家としての課題があると思うのだ。さらにロシアの若いトランペッター、セルゲイ・ナカリャンコフが意欲的に取り組んでいる、映像とのコラボレーションも視野に入っていると思う。
 しかし、スラブの宏大な大地が育てたセルゲイと、イベリアの太陽が育てた感性とはまったく違う。なんとはなしに次世代のトランペット音楽の演奏光景の彩が、そんな若いふたりが先行して色づけするのではないかと夢想する。 (2008年5月記)

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その3

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その3

 『魂の贈り物』では、ここ数年の共働者であったセルヒオ・ジョージとオスカル・ゴメスが5曲、半数ずつプロデュースを担当し、セリアの歌を媒体にして実力を競っている。ということでも、この「新作」が、それを言うと辛気臭くなる「遺作」というようなものではなく、セリアが前傾姿勢で取り組んだアルバムであることが了解できる。
 メキシコ及び中米諸国の音楽に長いあいだ肩入れしてきた筆者にとって、エル・ヘネラルが参加した冒頭の曲「エジャ・ティエネ・フエゴ(彼女は火を放つ)を推し出したい。サルサのルベン・ブラデス以来のパナマのビックネームとなったエル・ヘネラルが、スペイン語ラップ(最近ではレゲトンという言葉を当てるようだが)の錬度を熟成させた巧みさでセリアを活気づかせる。カリブのアフロ系音楽において主唱者を活気づかせるための応答部を担当する合唱や助唱者の存在は伝統的に重要な要素である。それはアフリカ西海岸地方の伝統音楽にルーツがある。
 エル・ヘネラル、日本ではまったく無名の存在だが、すでに7~8年前から中米諸国ではフィエスタにおける定番曲となっている「ムエベロ」や、クリスマスソング「ジングルベル」を絶妙なアレンジで聴かせる「ジングルベレレ」、南アフリカのミリアム・マケバの名曲「パタパタ」を換骨奪回した曲など日本でも聴いてもらいたいと思っていたところへ、思いがけず「遺作」の冒頭曲でエル・ヘネラルの存在が日本で知られることになった。
 4曲目の「アイ・ペーナ・ベニータ(ああ、苦しみよ)」も野心作だ。スペインの伝説的な歌手ロラ・フローレスの長女ロリータとの競演で、フラメンコのカンテをたくみに混在させて味わいのある応答歌に仕上げている。厳密にいえばロリータの歌は、フラメンコの土壌を耕したアンダルシア歌謡コプラである。それにセリアが唱和する。フラメンコ・ギターが違和感なく管楽器のきらめきに乗って演奏されている。
 最近のロリータは正直言って、実妹ロサリオの風下に立っている。ロサリオの活躍は目覚しく、2枚のアルバムを連続ヒットさせているばかりか、今夏、日本でも公開されたペドロ・アルモドバル監督の映画『トーク・トゥ・ハート』で女流闘牛士という難役を好演もしている。その妹の活躍に少々、水をあけられている気配だが、ラホ(ひびわれ)、荒く野生的な声の魅力では一枚も二枚もうえのはずだ。ここままで収まらない力を秘めた実力派だ。ゆえのセリアに請われた。セリアに即していえば、コプラ風味はラテン歌謡の重要な構成要素だが、サルサ系歌手が積極的に取り上げることは珍しい。その意味でもセリアの好奇心は最晩年でもいささかも枯れることはなかったということだ。

 筆者はラテン音楽ファンなら誰もしるようなセリアの履歴を追う記述は抑えたつもりだ。前作、前々作・・・のライナーで書き尽くされているし、「新作」でセリアのファンとなったアナタに、魅力的な『シエンプレ・ビビレ』(2000)、『ラ・ネグラ・ティエネ・トゥンパオ』(2001)を是非、入手して欲しいとの下心もあったからだ。と同時に、真に偉大な歌手は、歌そのものが自立、いや屹立しているものだ。天性、人知れぬ努力、それまでの軌跡そのものがすべて呑み込まれているもので、芸そのものをわたしたちは享受すれば良いのだ。スペイン語圏を主要な活動地、あるいは市場としてきたセリアは歌そのもので勝負してきた。キューバ革命後、亡命してあらたな地で再出発した歌手は他にも大勢いる。苦難は黙って歌の肥やしにすればよい。セリアを支えてきたラテン圏の市民は、まずなにより彼女の歌そのものを愛しつづけてきた。
 ラテン・グラミー賞を3年連続で受賞しているとか、クリントン前大統領から栄誉賞を授与された、とかいう話題はアルバムのセールスに大した影響を与えない。というより、新聞を購読する余裕のない庶民に愛されつづけてきた、という事実を重視したいのだ。ラテン圏の都市、街角で暮らす無数のストリート・チルドレンたちがセリアの歌、たとえば「ジョ・ビビレ(私は生きてゆく)」を耳にする。
 「いま想い出したよ、あの時、解き放された青空を探していた時、何人の友を失ったか、どれだけ涙を流したことだろう。でも、私は生きてゆく、ふたたびみんなに出会うために」。この歌の「私」は、アタシにもオレにも自在に置き換えられるものだ。
 「遺作」の最終曲、ボーナストラックとして選曲された歌「ジョ・ビビレ」は、生きがたい日常をなんとかやりくりしてゆく庶民のしたたかさを声援し、鼓舞するものだ。明日への希望を失うな、と語りかける『魂の贈り物』そのものである。

 セリア・クルスと、ムチシマス・グラシアス!
 これから、わたしたち自身がAZUCAR! と自ら鼓舞していかねばならない。「ア、スカ~ル!」・・・こんな調子でいいかな、セリアよ。(2003年夏記)

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その2

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その2
 
 AZUCAR!
 セリアがそれを発するとき、そこの紺碧の空が晴れ晴れと広がる。
 その空を奥行きの深いホリゾントとし、その前方に丈高いサトウキビがカリブ海から吹く寄せる風を受け止めて撓(たわ)み、あたかも大海のうねりのような光景がザァーと音を立てて広がってゆく。しかし、セリアは、アスカール! の真実を語ってことはない。
 徹底した芸人であったセリアは、けっして社会批評的言辞を歌に持ち込むことはなかった。彼女の宿命的とも言える芸人根性が人を楽しませることを天命としていたからだ。いかなるときも陽気さを失わず、そのステージはいつもフィエスタ(祝祭)であった。笑顔はセリアの売りであった。
 セリアのスペイン語は元来、ハバナの下町で培われたものだ。彼女の地言葉はコメ・エセ、「S」を食べる。つまり、「S」の音が発音されない、という意味で、かなりクセの強いものだったはずだ。しかし、残された録音を聴く限り、キューバをはじめとするカリブ諸国特有のイントネーションは希薄だ。特徴のあるスペイン語には違いないが、スペイン語族なら明瞭に了解できるのである。セリアにとって母語のスペイン語は歌の源泉であったし、心のなかを象徴する言葉そのものであった。英語を完璧に話すセリアだが、同じキューバ系移民の米国人歌手グロリア・エスティファンのように英語歌詞で歌ってグローバル市場にでていった行き方はしなかった。

 抜力蓋世(ばつぜんがいせん)という言葉がある。
 気力が人に優れてあふれ漲(みなぎ)っている、という意味だが、歌のフィエスタを司るセリアは、まさに疲れをしらない太陽の巫女であった。
 もう、セリアがそんなフィエスタを主宰することはなくなった。永遠に・・・。けれど、彼女が後世に遺贈した厖大な歌がアルマ=魂は時空を超えて生き延びて行くはずだ。遺作となってしまった本アルバムの表題は誰が命名したのだろうか・・・。『REGALO DEL AKMA(魂の贈り物)』。おそらく死期を予感しはじめたセリアは、長年のファンへの返礼として、これを制作したのかもしれない。
 遺作に違いないが、しかし・・・セリアの死期を確かな予感として企画されらものではない。あくまで次作への発展を期待させる現在進行形の「新作」として発表されたものだ。
 たとえば、「新作」の共演者として迎えられたパナマのエル・ヘネラルの起用にもそれは象徴されている。セリアは彼の実力を見込んで選び出し、あわよくば旬の養分を吸い取ってわがものにしようという野心すらうかがえるものなのだ。
 ここ数年でいえば、セリアの正統な後継者となるはず、そういう立ち位置も自覚していると思われるプエルトリコ出身のインディアがいたし、マーク・アンソニーとの競演もあった。そう、共演ではなく、若いマークとのあくまで技を競う“競”演であった。若手を押し出す場を提供しても、歌の道ではあくまでプロであって、年齢など考慮せず、あくまで実力で競う気概をけっして忘れなかった。それが生涯現役を貫いたセリアの天晴れ、なのだ。 (つづく)

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物』 レガロ・デル・アルマ その1

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』
 EPIC EICP 291『REGALO DEL ALMA』のライナー・ノーツ
セリア・クルス

 セリア・クルスに涙は似合わない。
 太陽の光によって輝く月ではなく、太陽そのものであったセリア。カリブの海を一点の翳りもなく染め抜く熱帯の旺盛な太陽そのものであったセリア。その太陽が永遠に水平線の彼方に没したのだった。7月16日のこと・・・。セリアにふさわしい盛夏のその日に。享年78歳。
 セリアの追悼に涙はいらない。友人をあつめロンを用意し、クーバリブレをつくってグラスに注ぎ、彼女の歌で踊るか談笑を活気づかせているほうがふさわしい。笑顔で送り出そう。「ご苦労さまでした。これからパライソ(天国)の椰子の木陰にハンモックを吊ってユア~ンユオ~ンと休んで欲しい」と、グラスを鳴らそう。

 ・・・・・とは言っても、死は粛然たる事実。セリアの太陽を追うことが永遠に閉ざされてしまった大きな欠落感。けれど、セリアは78年の歳月をかけ国境を政治を、民族、そして世代を超えて無数の人びとの胸を熱しつづけてきた、その熱はそれぞれの胸のなかにいましばらく熱度を失わずに生きていくのだろう。その焔(ほむら)は一人ひとりがそれぞれの生を終えるまで鮮やかな明度を保ちつづけるように思う。それを心火(しんか)という。
 セリアが私たちに遺贈してくれた作品の総量は圧倒的なものだ。そのカリブ音楽の遺産は稀代の放蕩息子といえども消費尽くせないもののはずだ。セリア自身がいささかも出し惜しみせず放射してきた歌に込めた熱量の総体は月へと反照射できるほどのものだ。

AZUCAR!
 アスカール! セリアの必殺フレーズだ。
 「砂糖」、転じて甘味や美味といった意味も。しかし、セリアがそれをキューバ訛スペイン語特有の撥舌音とともに発するとき、彼女自身の万感の思いも込められている。歌の調子の良さで、出来の良さ、あるいは共演者たちの巧みや充実した演奏への賞賛として、リズムを活気づかせるフレーズとして直球型で投擲されるものだが、同時に祖国キューバへの愛着がどうしようもなく息づいているものなのだ。
 首都ハバナから少し郊外へ車を飛ばせばよい。そこは一面のサトウキビ畑。革命は、砂糖の量産をエルネスト・チェ・ゲバラが率先してマチェテ(農民の小刀)を振り鼓舞することによって前進したようなものだ。キューバの銘酒ロンがサトウキビから誕生したように、セリアにとってアスカール! は出自のキューバそのものも象徴する。
 しかし、セリアは1959年のキューバ革命後、祖国へ一度も戻らなかった。当時のメキシコで汎ラテン圏音楽の美点を音楽のマチェテで貪欲に刈り込み、独自の世界を構築していたソノラ・マタンセーラたちとともに充実した活動を行なっていたのだった。その時から、セリアは亡命音楽家の道を歩むことになった。
 当時、メキシコは中南米諸国の大半が米国の圧力に屈して革命キューバとの国交を断つなかにあっても友好関係を維持していた。ラテンアメリカの盟主という自覚からだったが、同時に米国もメキシコをキューバの窓としておくことを容認していたのだ。
 革命キューバを信任したメキシコだが同時に、反革命派のキューバ人の滞在も認め、音楽家たちの就労も黙認した。そのなかにはマンボ王のペレス・プラードのようにメキシコ国籍を収得するものが出てきた。セリアもまた米国に安住の地を見い出すまでメキシコを一時的に活動の拠点とした。
 セリアとソノラ・マタンセーラのメキシコの活躍は、やがてメキシコ直産のキューバ音楽グループ、ラ・ソノラ・サンタネーラを生み出してゆく。セリアもサンタネーラとの録音をメキシコに数多く残している。
 セリアにとってメキシコは、人生の転機を無事にやり過ごすことを暖かく許容してくれた土地であった。セリアは生涯、そのことを忘れなかった。8月19日にはメキシコ市内の教会で、メキシコに住むセリアの友人たちがあつまって特別ミサを捧げたことは銘記されて良いだろう。 

 ハバナの一角にで生を受け、音楽を育み、スター街道に送り出してくれた母国キューバに別れを告げたセリアにとって、アスカール! は望郷のキーワードであったかも知れない。しかし、そこには故郷喪失の悲哀の通奏低音はない。湿っぽさはまったく乾いている。遠くの離れた故郷を思う心は高音でなければ届かない、と主張してようだった。それは同時に、革命キューバから逃れ米国、メキシコ、中米・カリブ諸国に離散したいった同胞たちに向かって、異邦での暮しを少しでも風通しのよいものにすることを使命と考えたセリアの呼びかけにもなった。といって、筆者は革命キューバを否定するつもりはまったくない。しかし、いかなる政治体制も完璧ではありえないし、共産主義という統治・経済システムを嫌う人たちの自由は尊重されるべきだと思う。もし、セリアが革命直後のキューバに戻れば、その歌の力は革命プロバカンダの道具と使われ、反米を唱える広告塔になったかもしれない。
 一芸人に徹したセリアは公に革命キューバを語ることはなかった。ただ行動、亡命という終極の選択でそれを示しただけだ。
 日本でよく言われることだが、サルサとは、革命後、リアルタイムでキューバ音楽の前衛が米国に流入していかなくなった時代に在米のプエルトリコ人たちは創造し発展させていったもの、という見解はある側面を語っているに過ぎない。
 メキシコはリアルタイムでキューバ音楽は流入していたし、メキシコから陸続きに北上することも可能だった。米国には昔もいまも多くのチカーノ(メキシコ系米国人)がヒスパニック社会の主要民族集団として存在している。
 革命後もキューバ音楽家たちは西欧諸国への巡業をつづけていたし、各地に録音も残していた。その音を米国で入手することは可能だった。問題は、革命後のキューバ音楽に大きな変化が生じたことだ。時の勢いは避けられない。革命の息吹きを吸い込んだ若いキューバ人たちが、あらたな時代の音楽の担い手となってゆくのは必然だった。ヌエバ・トローバを名乗る一群の若い才能が出てきた。そして、キューバの新しい顔になり、汎ラテン圏で愛唱される名歌も生まれていった。革命後もキューバ音楽は相変わらずスペイン語圏で愛好され、尊重もされてきた。キューバの音楽的嗜好は革命後、変質したのだ。その変質・変容を米国のラテン音楽愛好家たちは許容できず、キューバ音楽の多様性を取り込んだサルサに伝統と新しさを見い出していった、ということだ。
 そして、そのサルサの黎明期から完成期、さらに現在の熟成期問わず、その中心にセリア・クルスという大輪が、いつも瑞々しい芳香を放ちながら君臨していたのだ。
 セリアの死の少し前から米国で彼女の伝記映画の制作が準備中だった。彼女の死によってシナリオの見直しが行なわれているはずだ。セリア役には、彼女の友人であった名優ウーピー・ゴールドバーグが演じることになっている。その脚本のために、セリアは長時間インタビューに応じていた。もし可能なら、そのインタビューの全容が活字化されるとラテン音楽史における貴重な資料となるずだが、もしかしたら、そこに亡命の真の動機も語られているかも知れない。 (つづく) 

[ライナー・ノーツ] リッキー・マルティンのラテンの血

リッキー・マルティンのラテンの血
  アルバム『ライフ』(CBSソニー*SICP918)のライナーノーツ
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 1996年12月、クリスマスの直前、中米グァテマラの酸鼻きわまりない内戦が終結した。リッキー・マルティンがその小国で内戦終期、二夜連続の野外コンサートをおこなった。
 市民を戦闘に巻き込むような市街地でも銃撃戦はなかったが、人権犯罪はまだ続出していた時期だ。コンサートがテロの対象になることはなかったが、そこに駆けつけるファンはそうはいかない。深夜、ときに日付の替わるコンサートが当たり前のラテンのイベント。帰路、どんな危険が待っているか分からない。安全を優先して会場の近くのホテルに部屋 を確保してコンサートに臨んだファンも多かったはずだ。
 メヌード(リッキーが10代に所属していたプエルトリコのアイドルグループ)在籍時代を除けば、リッキーのアルバムが日本で発売されたのは97年、『ア・メディオ・ビビール』が最初となる。ラテン諸国でのリリースから2年遅れての発売だった。そのアルバムから「マリア」や「ボルベール」のヒットが生まれた。筆者は、そのヒット曲、およびグァテマラのコンサートによってリッキーの存在を刻み込むことになった。帰路がけっして保障の限りではない、というコンサートに多くのファンをあつめた彼の巨(おお)きな力の目を見張ったのだ。
 グァテマラでコンサートが実現した前年、リッキーはブロードウェイ・ミュージカ ル「レ・ミゼラブル」に出演し成功を収めた。このステージの成功の後、しばらくハリウッドから「ウエストサイド物語」のリメイク版での主演を熱望する声が出た。その時、リッキーは明快にそれを拒んだ。
 「プエルトリコ、その文化にマイナスの既成概念を与えるような映画に出演するわけにはいかない」と。
 
 日本ではいまだに、「ウエストサイド物語」の人種差別的な側面に目を背け、ミュージカル映画の古典とまつりあげている。いや、米国でもさして事情は変わらない。リメイク版の発想そのものが根強い差別意識を象徴するわけだ。映画では、プエルトリコ人は粗野で向上心もない、社会の落ちこぼれとして描きだされた。リッキーの血はそれを拒否したのだ。多数のオス カーを受賞した映画「ウエストサイド物語」だったが、プエルトリコ系の女優リタ・モレノも助演女優賞を獲得している。そのリタはその後、プエルトリコ人の地位向上などを主張する人権活動に入っている。

 リッキーは安易に“社会的”発言をしない。しかし、ひとたび自分の名声が役に立つと思えば、それを厭(いと)わない。
 プエルトリコに帰属する小さなビエケス島がある。その島で米軍射爆場の撤退問題が噴出した際、リッキーは故郷の大衆行動に連帯した。射爆場撤退、ないしは規模縮小を求め、多忙な日々、時間のなかでインターネットでスペイン語と英語で国際的な支持を訴えていた。2001年のことだ。

 話は前後するが、98年W杯フランス 大会のメインテーマ曲を要請されたとき、リッキーは既成曲の提供を断り、新曲「ラ・コパ・デ・ラ・ビダ」を創った。これは実によく考えられた曲だった。
 ブラジル・バイヤ地方のリズム、サルサやキューバ・ジャズメンたちのピアノの運指、その巧みな強弱のリズム、かすかに聴こえてくるアコーディオン(ごとき音色)には主催国フランスに敬意を表してか、ミゼット音楽の感触も挿入していた。
 「ラ・コパ~」後、リッキーは意欲的に国境を超え、どん欲に音楽のハンターとなってゆく。
 本作『ライフ』はその流れのなかの激流であるかも知れない。音楽的な批評は別稿に譲るが、メヌード時代から脱退までという季節、ラテンアメリカ諸国は悪質な軍事独裁政権が跋扈(ばっ こ)し、内戦、クーデター、ありとあらゆる人権犯罪が繰り返されていた。国境を超えるツアーの日々、いくら目をつぶろうと時代の大気は若い感性を震わせた制したことだろう。そんな時代から蓄えられた音楽的滋養が本作のカロリー源となっていることは間違いない。 (2005年8月記)

[ライナー・ノーツ]  ナタリア・ラフォルカデ*21世紀の気流に乗って、天翔ける*その1

ナタリア・ラフォルカデ*21世紀の気流に乗って、天翔ける
  *ソニーミュージックEICP 254『ナタリア・ラフォルカデ』のライナーノーツ。2003年6月、メキシコ市において。
  **今年は2度、ナタリアについて本ブログで掲載しているので、ついでなのでデビューアルバムが日本で発売された際、メキシコから送ったライナーノーツがあるので、ここに掲載。筆者自身、12年ぶりに読み直すものだ。このライナー、いま引っ張り出して読んだら、やたらと長い。理由は、ソニーから、「日本ではメキシコのポップス事情がほとんど知られていないので、その辺り、出来たらアイドル事情などを取り込んで書いていただき」ということで序章、前置きが長くなったからだ。今でもメキシコ及びラテン・ポップス史として有効性があると思うので掲載しておきたいと思う。
 パートUNO(1)から、CINCO(5)まである。ながいので3回に分けて掲載。
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◇UNO(1)
メキシコにオリナラという精緻にして大胆、民族的で独創性あふれる意匠にみちた漆器があります。
太平洋沿岸に世界的なリゾート地アカプルコをもつゲレロ州、その山間の小さな町オリナラだけで創作されている手彫り手彩の漆器です。大小さまざまなお盆は外国人観光客が買い求める定番の民芸で、これに次ぐ売れ筋が小は宝石入れによく似合う小箱から、大は衣裳箱まで。基礎材にリナロエと呼ばれる香木をもちいます。
 ナタリア・ラフォルカデのデビュー・アルバムを一聴して、まず想い出したのはオリナラの小粋な小箱でした。17歳の女の子のタカラ物といえば、オトナには不可解なガラクタにしか見えなかったりするもの。たとえば原型を留めないほど破損した小物、安物アクセサリーや雑誌から切り取られたアイドルの写真あたり。少女17年の軌跡が、持ち主だけが知る大切な思い出となって小さな箱に満ちている。ナタリアの音楽の手箱はまさにオリナラの漆器だと思いました。
 全14曲そのものが、貴重な、かけがえのないタカラ物、ナタリアの音の小箱は17歳の少女の危うさと大胆、オトナと子どもの境いの不安定さと、身勝手、あるいは野心、小悪魔性も詰まっています。オリナラとは先住民言語で、「地霊」の意味。そう、ナタリアのデビュー作はメキシコ及びラテン・ポップス界ではちょっとした衝撃であったのです。
 ナタリア登場の華やかさは、南米コロンビアのシャキーラがローカル・スターからラテン世界に飛躍すべくメキシコのTVネットを使っていた時期を思い出します。
 シャキーラは母国でしっかり実績を積み、準備体操おこたりなくメジャー・デビューしたのですが、ナタリアの場合、大胆不敵、いきなりメキシコのへそ、中心ソカロ(憲法広場)の中央に立って巨大な国旗掲揚台に駆け上がり、ヒョイ! と跳躍してスターになってしまったという感じがするのです。いわば苦労知らず・・・。
 ナタリアに言わせれば、それなりの苦労も努力もしてきたのよ、曲づくりに苦心惨憺なんて他人に分かりませんよ、となるのかも知れません。ごもっとも、ごもっとも、です・・・モーツァルトを引き合いに出すのは、ちょっとためらいますが、ウィーンの放蕩児の音楽に努力や苦労の痕跡がほとんど見られず、天然自然に湧き出るインスピレーションに導かれるまま天上の旋律を描いたように、ナタリアもまた17歳の小生意気盛りの感性が受信した天上の声にこたえ、スラスラと曲を書いたというような印象を受けるのです。歌詞、曲とも彼女の手になります。名門メキシコ自治大学演劇科卒業の才媛で、ときに詩を書き、芭蕉をスペイン語訳もする女性にナタリアの歌詞を示したところ、「う~ん巧み」と感心するのでした。
 衝撃、と書きました。何故、「衝撃」かといえば、アイドルの質的変化を実現したように思うからです。時代の大気とともに生きるアイドルとは、その季節の若者たちの気分を象徴する存在でしょう。ナタリアは、21世紀初頭を飾るメキシコ及びラテンアメリカ世界の新種のアイドルとして登場したように思うのです。

◇DOS(2)
 メキシコはラテン世界を代表するアイドル量産国。量産の背景にはおおきな経済力が必要だ。ラテン世界でブラジルと拮抗する経済力を持っているメキシコは、ご存知のようにカナダ、USAともに北米自由貿易協定(NAFTA)を構成する大国です。
 アイドルが輝きつづけるためには、その輝きを旺盛に消費してくれる若者たち主導の文化が育っていることが必要でしょう。主導が大げさならば、メキシコでは小遣いにゆとりのある子どもたちが1970年代後半から増えてきて、比例して嗜好がうるさくなり独自の消費文化が発芽した、とでも記しましょう。
 メキシコが生んだアイドルとして、まず象徴的な例にリッキー・マルティンを取り上げます。プエルトリコのジャニーズ系アイドル・グループ、メヌードの最年少メンバーだったリッキーは、メキシコの芸能プロの手によって脱退が画策され、歌番組、歌謡映画などに出演を重ねてラテン圏全域に顔を売り、しっかり地盤を築いた後、グローバル市場に目指したタレントでした。ラテン歌謡の王道をゆくルイス・ミゲルも10代を見目麗しい美少年スターとして活躍をつづけた後、オトナの鑑賞にたえるボレロの世界に君臨することになったのです。
 アイドル少年の例は、アイドル少女とのバランス上、ちょっと書いただけ。ナタリアの登場以前のメキシコのアイドル少女たちの系譜をかんたんに紹介しておきたいと思います。
 ナタリアはいうかも知れませんね、「あたしは絶対、ミーハーではなかったわ」「そんなのに夢中になることなんて、なかったわよ」と、口を尖らせて否定するかも知れません。しかし、誰であろうと密室にこもっていない限り、時代の大気を吸って成長するものです。


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