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バレエの本 GーH 松山バレエ団関係2書『白毛女』『バレエの魅力』

バレエの本 GーH 松山バレエ団関係2書
 清水正夫『バレエ 白毛女 ~はるかな旅をゆく』*松山樹子『バレエの魅力』

 これまで6冊のバレエ本を取り上げてきたが、今回ははじめて日本人バレリーナを取り上げることになる。きっかけは、1955年、戦後はじめて日本で公開された中国映画『白毛女』を観たからだ。白毛女。はくもうじょ、と読む。
 映画そのものは、1949年10月、毛沢東が天安門で中華人民共和国の成立を宣言した翌年に完成したもので、当時、国交のなかった日本での公開が5年遅れたということになる。といっても一般公開されたものではなく、日本の日中友好協会のボランティアが「革命中国」を紹介すべくフィルムを担いで全国行脚しながらの公開であった。
 映画はまだ現在の「簡体字」は使われておらず時代を感じさせるものだ。
 『白毛女』は革命以前に新歌劇として、民間説話の翻案モノとして上演されていた。それを革命後、悪徳地主へ抵抗する民衆、八路軍の物語とした映画で、これにそって京劇版も後年、制作された。そして、これをクラシック・バレエのテクニックでバレエ化したのが日本の松山バレエ団だった。それは後年、文革時代に紅衛兵たちが演じた「革命劇」に反映していったと思う。そういえばキューバの至宝アリシア・アロンソも革命後、おなじような革命劇を創作、上演していることを想い出す。
 清水正夫の『白毛女』は、映画「白毛女」からバレエ化、その日中両国での上演記録、その経緯を具体的に紹介するともに、松山バレエ団の創立から35年の推移、歴史を綴ったものだ。
 昭和58年の初版ということで当時の中国の経済力は、日本に脅威ともなっていなかった時代であり、著者の語る中国はまったく牧歌的、批判的にいえば先見性のない痴呆的なものだ。その手放しの友好親善ぶりを今日の目からみればまったく鼻白むものだが、時代のひとつの証言として聞いておこう。
 清水の妻であり、松山バレエ団のプリマ松山樹子が翻案脚色してバレエ化した。日本生まれのバレエ作品として繰り返し上演されたものとして、やはり日本バレエ史に特筆されるものだ。清水はバレエ団を運営する立場から、その経緯を書いている。戦後の日中友好史における交流事業の主役的存在が日本生まれで、中国が舞台のバレエであったということになる。

 『バレエの魅力』は実演者の立場から初歩的なバレエ解説、入門書となることを念頭に松山樹子が書き下ろしたものだ。松山と同世代のバレリーナの自叙伝、半生記、評伝の類いはいくつもあるので、それと比べると小冊子的な分量でしかなく、取り立てて紹介するまでもない一書だが、松山演じるところの「白毛女」の上演写真が幾つも収録されているという意味で資料的な価値がある。同作品の初演は日比谷公会堂であったという。それも時代を感じさせる。現在、よほどのことがない限り、同公会堂でバレエが上演されることはないだろう。そういえば、清水の本のカバー写真は松山の「白毛女」のステージ・スチールである。
 松山は戦前、まだバレエの荒蕪地であった日本でバレリーナを目指した女性だが、その松山が晩年まで座右の書として、いつも公演先にも帯同していたのが世阿弥の「花伝書」であったと語っていた。当時、日本バレエ界は“和魂洋才”であったのだ。
 ▽清水正夫『白毛女』昭和58年11月初版。講談社刊。松山樹子『バレエの魅力』昭和54年5月初版。講談社文庫。
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バレエの本 F『ターニング・ポイント』

 『ターニング・ポイント』アーサー・ローレンツ著/小池美佐子・訳。

 筆者がバレエを描いた映画のなかで、もっとも好きで評価するのが『愛と喝采の日々』(ハーバード・ロス監督・1977)。本書はその原作。映画が良ければ原作も良い、とはならないが本書もよくできた小説だ。これはバレエが好きな人には読んで欲しいし、大衆小説の枠組みながら、20世紀のバレエ、帝政ロシアで育まれ、共産ロシアのなかで伝統の強靭さを確立し、以後、世界のクラシック・バレエ界に影響を与えてゆく真実も、女性の自立、生き方を描くという大筋のなかにきちんと捕捉されている小説として広く読まれて欲しい作品だ。

 日本では映画の公開がきっかけで出版されたが、原作も当初から映画化を想定して書かれたようだ。しかし、いわゆるノベライズのお手軽さを超えている。そして、本書を書こうとした作者のなかに1974年に米国に亡命したキーロフ・バレエの人気プリンシパル、ミハイル・バリシニコフの存在を抜きしては語れないと思う。原作でもバリシニコフを思わせる描写があるし、映画化する時期にはロシア語訛りの英語も話せるようになっている本人自身が助演という重要な位置を与えられている。キーロフ仕込のバレエの芸術性と、男優としてドラマを演じるクオリティーの高さでオスカーの助演男優賞に受賞とはならなかったがノミネートされた。
 本筋は中年女性の葛藤劇。かつて結婚でプリンシパルへも道をあきらめたディーディー(シャーリー・マクレーン)、その親友で独身を通していまもステージに立つ大スター、エマ(アン・ヴァンクラフト)。その二人が再会して、それぞれ自分のターニング・ポイントにおける選択は間違っていなかったか、お互いのいまを認めることによって反芻する。自分の来し方の時間に対する慈しみと少しの後悔。原作ではもろんエマが『アンナ・カレーニナ』を踊り19回のカーテンコールをうけるシーンなどがあるが、映画のエマはいっさい劣らない。女優アン・バンクロフトが踊れるわけがないからだ。
 ふたりが“女の道”をわかった1点、それは恋愛を昇華するか諦めるか? あるいは目の前のスターの階段を昇か降りるか、を決めなければならない青春のその時であった。物語はディーディーの視点から描かれるが、映画ではほど対等な配分だ。バレリーナとして自己実現できなかった悔恨を、エマの踊りで見、3人の子どもの母親としてのせわしない充実の日々のなかで、いつのまにか若き日の悔恨を覆ってきた。
 映画ではエマの踊りのシーンを描けない分、バリシニコフのバレエで観客をじゅうぶんに満足させるという仕組みになっているわけだ。小説も映画もディーディーとエマが主役だが、助演陣のリアリティによって映画は成功し、そして本書が邦訳された。
 バリシニコフは本作で踊れる男優として注目され、やがて『ホワイト・ナイツ』で主役となった。そして、目立たない役だが、ロシア革命後、米国に亡命したバレリーナで、やがてバレエ教師として生計を立てたダカロワという老女が登場する。彼女が小説のなかでだが、「クチェシンスカヤですよ。マリンスキー・バレエ団のプリマですよ。ロシア皇帝の愛人になったほどのバレリーナです」と語る。作者は現在の米国のバレエも革命前ロシアの血を受けて育っているものだと語っているわけだ。(サンリオ刊。1978年初版)

バレエの本 E 『バリシニコフ 故国を離れて』

ゲナディ・スマコフ著『バリシニコフ 故国を離れて』(阿部容子・訳) 新書館版
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 ロシア・ソ連文化史、それはスラブ大地20世紀の政治史でもあるのだが、そこで大きな役割を担ったのがバレエであることは、これまでも繰り返し書いてきた。
 たとえばロシア語文学で3人のノーベル文学賞作家がこの間、誕生した。しかし、ストックフォルムの授賞式に臨めたのは1人だけだ。クレムリンが公認したのは受賞作家のうち大河小説『静かなるドン』の作家ショーロフ一人だけだった。しかし、今日、その読者はロシアにもほとんど存在しないだろう。いわんや日本ではある。かつては世界名作全集などに入っていたものだが、すでに絶版になって久しい。20世紀のロシア文学の国際的貢献度はパステルナークの受賞作『ドクトル・ジバコ』、ソルジェニーツィンの幾多の大長編を除けば、一時的に話題作を提供した作家を例外とすれば、帝政ロシア時代のあの豊穣な文学世界はいまなお再興していない。社会主義革命とやらが窒息させたことは衆知の通りだ。プロレタリアート独裁なんてことは露ほども実現することはなかった共産党独裁のなかで持続的に国際的な水準を維持していたのはバレエのみだ。そして、その舞踏芸術の世界から革命後も多くの才能が輩出した。それは革命前の状況と変わらない。しかし、その才能たちは等しく苦悩した。

 本書の主人公、キーロフ劇場のスターであったミハイル・バリシニコフは大戦後、ヌレエフに継いでロシアに誕生した男性舞踊家の筆頭だ。ヌレエフはパリで、バリシニコフは公演先のカナダで亡命した。
 バリシニコフがラトビア共和国の首都リガからレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に出てきてキーロフの練習生時代から知る著者によって書かれた評伝である。本書の著者もまた米国へ亡命した人だ。芸術一般への関心の高い著者であるが、20世紀ロシア芸術の主要な要素としてバレエを置く立場からかかれたもので、バレエを鑑賞する識眼はまるで振付師かステージ監督のように精緻だ。

 本書には実に多くのことが語れている。まだ、30年ほどの時間しか肉体に刻んでいないバリシニコフの半生、その短い歳月のあいだになんと語ることの多い舞踏家であったかと今更ながらに思う。「亡命」というその人その一生を左右する岐路を超えた舞踏家を語るペンは綿密だ。なりより古典を完璧にマスターした上に個性的な創造精神の肥料を撒きつづけた若きバリシニコフを語ろうとするため、著者は振付師の視線を獲得している。そこで批評的に語られる一連の技術論、あるいはプティパ、フォーキン、バランシン、あるいはモーリス・ベジャールらバレエ史上に欠かすことのできない振付師の思想との比較のうえにバリシニコフを語る。このあたりの記述はかなり克明で、バレエにさしたる興味のない読者を遠ざけるだろう。本書の邦訳が、本来、大手出版社から出すべきだが、バレエ物を中心に出版活動する新書館から出たのは、そうした内容からだ。

 「亡命」の決意と決行、その成り行きを中心に据えて書けば、より広く読者を獲得できただろうが、著者はそうしたジャーナリスティックな方法論は取らなかった。ゆえに「亡命」を語っても、国を出なければバリシニコフの才能は古典の繰り返しと官僚主義のなかで殺がれてしまうだろう、という“芸術的”観点から擁護し、芸術の正当な権利として語るのだ。
 本書で、バリシニコフの亡命が1年近く、ソ連内では、「長期の外国バレエ団との競演のため」と偽装されつづけたことを知った。ヌレエフの亡命の時は、すぐ反国家行為、犯罪者の烙印をおされ家族が不利益をこうむっている。

 マイヤ・プリセツカヤの自伝のなかでも記述されているのだが、革命ロシア下で実に多くの“人民主義的”な創作バレエが制作されていることを知る。本書のなかにも参考例として何作も登場する。そして、駄作、愚作であり、数ステージで再公演などありえないことを承知しても、それに付きき合わせられる人民芸術家としての舞踊家バリシニコフの焦燥も語られるわけだ。マイヤあたりになると、当局がそうした人民主義的な表題作を持ち出してくる前に、能動的に自ら作品を発掘し、意味づけし、官僚の壁を乗り越えて芸術的欲求を満たしてきた才能であった。だから「亡命」せずに乗り越えた。もっとも最愛の夫君が絶えず人質のように、妻マイヤの外国公演につきあうことができずモスクワから出られなかったが・・・。

 バリシニコフの大きな美点は演劇的な才能、創造性である。彼が「亡命」してから間もなく映画『ターニング・ポイント』(1977)でオスカーの助演男優賞にノミネートされるほど俳優として成功を収めるが、その演技者としての才能はすでにソ連時代に踊らない役でテレビドラマに出演していることを本書で知った。バリシニコフの映画出演はその後も『ホワイト・ナイツ』へと繋がっていく。映画批評的にみれば、『ターニング・ポイント』のほうが優れている。しかし、バリシニコフは気にいらなかった。何故なら、舞踊家としてスクリーンに登場し、その妙技を披露するわけだが、それが編集の段階でカットされてしまうことに不満だったからだ。そして、映画は監督のものだとあらためて納得し、1980年4月、自らプロディース、構成から踊り歌い演技するTV『バリシニコフ・オン・ブロードウェイ』を制作する。ライザ・ミネリとの競演であった。彼の履歴に「歌唱」という芸歴が加わるのである。本書は、そんな絶えざるフロンテア精神に燃えるバリシニコフを讃歌してペンを置いている。
 *余談だが、米国での亡命生活のなかでバリシニコフはテープにヴィソツキーの歌を歌い録音していたことを知った。ちょっと触れて置くという感じで記るされたエピソードだが、そんな夜もあったバリシニコフになんとなく孤独な背をみてしまうのは私だけだろうか? 政府に認められずソ連国内での録音もレコードを出すことも許されず、しかし、コピーされたカセットテープが民衆の手から手へと渡った反体制歌手のアノ野太い声にバリシニコフは望郷のような愁を覚えていたのかもしれない。

バレエの本 C,D 日本におけるロシア人の貢献

C 白浜研一郎・著『七里ヶ浜パヴロワ館 ~日本に亡命したバレリーナ』
以前、「ロシア革命」なるものに国際的な貢献度というものがあるなら、その“美点”のひとつがロシア・バレエの精華を地球大に拡散したことだろう、と書いたことがある。むろん、「革命」の否定的な側面に対する逆説としてそういう言い方をしたのだが、結果としてロシア・バレエの優れた人材がただバレリーナだけでなく振付師、指導者、練習時のピアノ伴奏家にいたるまで多数、亡命したことによって、それぞれの漂着地にバレエの種を蒔き、根付かせ、花開かせることに貢献したことは事実である。日本もまたそうだった。
 大正から昭和の10年代期、エリアナ・パヴロバというロシア 人亡命バレリーナが活躍していた。彼女の墓碑銘には、「日本バレエの親」とある。本書は、このエリアナの活動を中心に、母ナタリア、妹ナデジタ、母娘三人の生涯を追った貴重な資料だ。類書がないため貴重な資料であることは間違いないが、一編の著作としてみれば二級品だ。しかし、これに頼るしかエリアナと母妹の軌跡を追えないということで手にするしかない。しかし、ナタリアたちの生涯を追って、本書を超えるものを書きたいと思う人は、バレエを知る人ほど手に染めないだろう。せいぜい日本バレエ史の一章としか扱うのがせいぜいだろう。
 ナタリアたちが日本で活動できたのも、日本にバレエが存在しなかった荒蕪地であったからで、指導者としての熱意に敬意を払ったとしても、芸としてのそれはどうみても三 級品であった。著者は、そのあたりの評価を賢明にも避けている。故に、本書を超えるパブロワ母娘の物語は連続テレビドラマには相応しいだろうが、批評家から一顧だにされないだろう。
 この著作を二級品と書いたのは無論、理由がある。そのひとつが著者がエリアナのバレエに対する批評をまともに行なっていないことだ。そして、パブロワ母娘が日本に渡来するまでの記述が、すこぶるあいまいであること。「革命」の混乱のなかで資料が散逸したことは理解できるが、著者自身がきわめて限られた俗流資料に頼って書き、しかも、「・・・と想像にかたくない」、「・・・どのよう な理由からだろう」、「・・・正確な事情はわからない」、「・・・だったと思われる」の頻出であって、著者自ら、私の著述を信じるなと言外に主張しているようなものだ。
 わたし自身、本書をだいぶ前に手にして読みはじめ、その著述のいい加減さにパブロワ母娘が日本の地を踏む前に本を閉じてしまった。今回、もうひとり、日本を第二の故郷としたロシア人バレエ指導者オリガ・サファイアとの関連で、あらためて手を出した次第だ。
 エリアナはコーカサスの小国グルジアの首都トリビシで1904年に生まれ、5年後、妹のナデジタはウクライナの首都キエフに生まれたということになっているが、これも証明されたわけではない。そして、ロシア貴族の末裔であるためソ 連下では生きられず亡命したということになっているが、これもどうよう確証があるわけではない。本書は1986年に書き下ろされている。ソ連最後の書記長となったゴルバチョフがペレストロイカを提唱した年となる。当時、ソ連内の旅はかなり自由になっていた。私自身、85年12月にひとり旅でグルジアを旅行している。その前年にはウクライナ国内も旅している。著者にグルジアに行けウクライナに行って取材せよ、とはいわないが著述ためまともな地図を机上に広げる手間すら怠っている。引用される地図はかなりいい加減。本書中、グルジアという国名はひとつも出てこない。もし、著者が豪語するように40年間、バレエを観てきた人なら、当時、ボリショイ・バレエのプリン パルとして活動を開始していたニーナ・アナニアシヴィリのことをしらぬはずはないだろう。トリビシ生まれ、モスクワに出てボリショイのプリンシパルになった才能だ。そしてソ連崩壊、退団、トリビシの国立バレエ団芸術監督就任し、ロシア=グルジア戦争を迎えた人だが、本書の著者のソ連=ロシア理解はリアルタイムでの視点が決定的に欠如している。
 しかし、日本で活動しはじめてからのパヴロワ母娘、とくにエリアナの活動への取材は途端に精緻になる。日本語資料が散逸することなく残っていたからだ。引用されている写真も他ではなかなか見られない貴重なものだ。そして、エリアナがいかに身分の不安定な亡命者として日本に根付くため、金銭的な理由も無論あったろう、旺盛な仕事ぶりは大変なもので あった。それはよく分かる。
 昭和6年には帰化し母娘は日本名に改名、日本人になる。エリアナは「霧島エリ子」。しかし、墓碑には「エリアナ・パブロワ」。帰化記念公演も開催。日本に積極的に同化、馴染もうと努力した思いが伝わってくる。著者も生前のエリアナを知る人たちへの取材を通して、当時のエリアナの心情をひも解こうとしているが文章上では切実に伝わってはこない。しかし、日本芸能人として中国戦線の日本人将兵を慰問するため出かけた訪問先でエリアナは病死した。享年37歳。そういう履歴のなかにロシア人亡命者のひとつの典型があるのだろう。
 エリアナの活動によって鎌倉・七里ヶ浜に建設されたバレエ学校兼住居は、彼女死 後、母と妹、そして彼女たちの支持者たちによって継承されてゆく。そこでレッスンに励んだ人たちのなかから戦後バレエ界の逸材が育ってゆく。

 ロシア革命によって各地に散ったロシアバレエ関係者はパリや米国に根付いた。当時のバレエ先進国にはやはり一流の人材が集まった。しかし、それほど実力のない人は日本とか南米諸国に生活の糧を求めた。パヴロワ母娘もまたそのような人であった。そういう技量の差をリアリズムで認めたうえでロシア人亡命者一家の物語を語った方が説得力があったはずだ。マイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」をすでに知る読者に、エリアナのそれを比較してよいものかどうかぐら、バレエを少し知るものなら誰でもわかるはずだ。 *昭和61 年11月初版・絶版。文園社刊。

D 佐藤俊子『沈黙のはばたき ~文学とバレエのあいだ』
 著者が顕彰しようとするバレリーナはロシア革命以後、日本人男性と結婚し、1935年に日本の国籍をとったオリガ・サファイア。しかし、評伝といった精緻なものでなく、せいぜいエッセイ的年譜といったところか。日本に来日後、すぐ日劇でバレエ教授として活動するかたわら自ら舞台に立ったロシア人バレリーナの記録である。これも類書がないので貴重な資料に違いないが、あまりにも紙幅は少なく意に満たない。パブロワ母娘との関連でいえば、この二書は互いに背を向けた気配があって、同時代の東京で活動した事実がありながら、白浜本ではまったくオリガは登場せず、佐藤本では批評としては取り上げられることなく記録として一度、記載されているだけだ。

 ここで取り上げた主旨とは違うが本書に価値があるとすれば後半の『ディアギレフのバレエ・リュッス』だろう。ディアギレフの死後間もなくフランスの音楽誌『ルヴュー・ミュージィカル』(1930年12月号)で特集されたバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)の創設者にして創造的プロデューサーであったディアギレフへの追悼論文集の訳出だろう。本書の主旨はおそらく佐藤俊子という人の自身の活動への自己評価というものだろう。本書が自費出版であることからも、それがうかがえる。まぁ、そのあたりは読み飛ばすとしても、長短6本の論文の訳出は見事なものだ。それまでの自身を記述した文章のゆるみは一切なく、ディアギレフ資料として価値ある仕事となっている。本書がほぼ自費出版の体裁であるために広く流布することはなかったため、本書中のディアギレフ資料が広くしられていないのは残念だと思う。 *1974年7月初版・絶版。新日本教育(札幌市)刊行。

バレエの本 A マイヤ・プリセツカヤ*B マーゴ・フォンテーン

バレエの本

A マイヤ・プリセツカヤ自伝『闘う白鳥』
 
 ただバレリーナの自伝というだけでなく20世紀後半、冷戦という政治史のなかで芸術はどのように生き抜いたか、という現場で第一線で活動してきたひとの貴重な証言集である。さまざまな読み方が可能だが、本書はソルジェニーツィンの厖大な労作と比べてもいささかも見劣りしない。ノーベル賞作家の「収容所列島」が労作というなら、マイヤの自伝はクレムリンの膝元から定点観測された熱情あふれる力作だ。そして、ともに生命を賭して活動してきたひとの言葉には熱がある。
 
 ロシア革命、そしてソ連邦の樹立によって世界は比喩的にいうのだが大きく二分された。そして、冷戦という“戦時下”で無数の人々の命は無残に失われ、若者の夢は砕かれ、才能は冷凍されたまま砕かれた。
 マイヤの父も密告という名の根拠のない告発を受けて流刑・処刑された政治犯であった。マイヤ自身、政治犯の娘として僻遠の地に家族ごと流刑されている。マイヤがはじめて踊ったのも、そんな僻遠の地であった。

 日本語版にしてA5判2段組約450ページに凝縮された自身の生きざまはロシア人的感性の迸りのように密度濃いもので、そこのは多くの歴史上の人物も証言者として登場する。むろん、バレエのことボリショイのこと、バレリーナの本としての内容は玄人筋の要請に応えつつ、しかし、私(マイヤ)が見て、体験してきたことは20世紀の真実として後世に伝えていく義務があるという切実な思いが先行している。
白鳥

 スターリン時代のこと、そのスターリンとの対話、スターリンをとりまく野卑な文化官僚との闘い。ボリショイ劇場のプリンシパルとして、その「瀕死の白鳥」が世界中に喧伝され、海外から幾多の招聘を受けながら、クレムリンはマイヤにビザを出すことはなかった。厳密にいえば東欧諸国への公演はあった。しかし、パリでロンドンで、ニューヨークで踊ることはできなかった。クレムリンはボリショイのスターが亡命することを恐れたからだ。
 海外からの要請、ボリショイでの黙殺、治安当局の監視、スターでありながら給与はいつまで据え置かれる政治犯の娘。優れたバレリーナが舞台を奪われ、あるいは何時の間か姿を消すことを見てきたマイヤ。そうしたことも生活感覚のなかから解かれている。
 やがて、亡命の恐れがないとされて海外公演が許される。それは彼女が作曲家と結婚したことによって、夫が「人質」となることを
受け入れたからでもある。
 海外での賞賛の日々、栄光のキャリアが積み上げられる。しかし、海外公演のギャラはことごとく当局に搾り取られる。ボリショイのプリンシパルとのプライドを守るための衣裳、歓迎の祝宴でゲストに招かれるマイヤだが、そのイブニング・ドレスはなけなしの金をはたいてつくった自前。そういう“些事”も細かく報告され、ソ連時代のモスクワの市民生活の貴重な証言ともなっている。
 そんな時代の挿話のひとつにピエール・カルダンが登場する。彼は無償でマイヤのドレスをつくり、新作バレエの衣裳もマイヤの要請を受けて無償でデザインしていたことなども本書で知る。しかも、ボリショイはポスターやプログラムに衣裳・デザインの担当者としてカルダンの名を出すのを禁止する。パリのカルダンはマイヤのステージが第一義として自分は影の存在でよいと退く。カルダンは不当な当局の措置を批判もしない。沈黙を守る。自分が 批判することによってマイヤが政治的に脅かされることを知っているからだ。
 そうした挿話にみちている。
 『ロメオとジュリエット』『シンデレラ』『石の花』などのバレエ音楽をかいたプロコフィエフとの親交から、この大作曲家から成り上がりの文化官僚に幾たびも侮辱される場面に遭遇している。芸術の価値を知らない役人たちはプロコフィエフすらシベリア送りにすることは容易であった。現に舞台芸術の分野からメイエルホリドというロシア演劇の至宝が粛清されていた。

 ソ連から亡命したヌレイフ、バリシニコフのことにも触れいる。マイヤしか語れない彼らとのパリやニューヨークでの邂逅。その場面は悲痛なドラマだ。ヌレイフの亡命によって家族のひとりは確か流刑されている。しかし、その不当をヌレイフはパリでさえ公言することができなかった。安全な地で活動する自分の発言がソ連に残っている(=囚われている親族)の生命を脅かすからだ。マイヤとの対面、しかし、なにも話すことはできない。話せば、マイヤが帰国して当局に問い詰めらる。正義感の強いマイヤはウソをつけないだろう。なら、沈黙を守らなければいけない。バリシニコフも亡命後、数年、まったくソ連に関することに口を閉ざした。

 ロシア革命。解放された民衆より、貧窮のなかで口を閉ざした民衆のほうがはるかに多かった。自由は封殺され、芸術は主義への僕(しもべ)となった。優れた芸術家の多くは亡命した。たとえソ連に残された妻、両親、子、孫、兄弟姉妹たちがシベリアに流刑されてしまうことあっても亡命を選んだひとたち。革命前にロシアの外にあった芸術家の多くは帰国しなかった。その象徴的な例がディアギレフ創設の「バレエ・リュス」のメンバーたちだろう。彼が世界中に散った。そして、各地でロシア・バレエの伝統を根付かせた。ロシア革命最大の成果のひとつは紛れもなくロシア・バレエの種が亡命者たちによって世界中に蒔かれたことだろう。日本もまたそうだった。日本人が書いた満州時代の思い出、回想録といった本が戦後、無数に出版されたが、そのなかで時折り、ロシアから亡命した音楽家たち、バレエ教師のことが書かれていたりする。日本における「バレエの母」といわれるエリアナ・パヴロワも鎌倉にバレエ教室を創設した人だが、出自はサンクトペテルブルグの貴族の出である。後年、日本名「霧島エリ子」をなのったパブロワは南京で戦病死し、靖国神社に祀られている。
 
 マイヤの自伝は、1993年、ソ連崩壊後の混乱のモスクワ、外出禁止令が出ているボリショイ劇場のなかの記述で終わる。そこにマイヤは淡々と書き付ける。「五十年間の習慣どおりの手順で準備にとりかかる。化粧を済ませ、ヘアスタイルを整え、タイツとレオタード、靴、レッグウォーマーを着ける。次はウォーミングアップ。」
 ▽山下健二・訳。1996年・文藝春秋刊。

B マーゴ・フォンテーン自伝『愛と追憶の舞』
 マイヤとほぼ同時代に活躍したマーゴ・フォンテーン(1919~1991)の自伝だが、ふたつを併読すると非常な違和感を覚えてします。マイヤ(1925~2015)の自伝を並べると、マイヤの自伝は闘争の記であるとすれば、マーゴのは傍題そのものの「愛と追想」記である。鉄のカーテンの向こう側とこちら側の差というものが鮮やかに対比される。しかし、同時代であり、バレエの神のイタズラで時空を超えて繋がっている。
マーゴ
*写真はヌレエフと。

 マーゴがはじめてバレエと出会うのは戦中の上海、亡命ロシア人の舞踏家から手ほどきを受けたのが最初だ。そしてマーゴの引退が囁かれた1960年代、ロシアからヌレエフが亡命してくると、彼はマーゴをパートナーとして『ジゼル』を踊り、『眠れる森の美女』『ロメオとジュリエット』など10年ものあいだ競演することになる。マーゴからみるヌレエフは芸術家として妥協の許さない男だった。マイヤは海外公演でヌレエフと秘密裡に合うと、彼からソ連内の家族に連絡できないので、彼女が通信や、私設宅急便係りを勤めている。むろん、当局から禁止されていることだ。
 そのそばにマーゴもいるが、そういうことには気づいていないようだ。マーゴにとってみればヌレエフは、「いちじるしい幼児性的特徴は素直に『ごめんなさい』と謝れないこと、『おかげさまで、ありがとうございました』などと、当然の社交辞令が身についていないことだった」となる。しかし、政治亡命者であり、KGBから「足の骨を折り踊れなくさせてやる」と脅迫もあったといわれるヌレエフである、亡命の日々のなかで踊るために費やす以外にも極度の緊張を強いられていた時期におけるマーゴの観察は、彼女があまりにも「冷戦」の内実に無知だとしか思えない。上海時代にであったロシア人舞踏家、そして長じてロシア・バレエを修得するために訪れるパリで出会う幾多の亡命舞踏家たちの存在。バレエに関わるエピソードを語りながら、マーゴはいっこうに彼、彼女らの運命、亡命者としての悲哀といったことに思い至らす気配が希薄なのだ。
 自伝を文学観賞的視点、そして舞踏史という観点からみればマイヤの自伝のほうがはるかに優れている。しかし、舞踏芸術家の二人の力量はともに優れた開花の華やぎに彩られている。判定するものではない。それは観賞するがわの嗜好の問題である。舞踏家マーゴ、マイヤともに芳香たゆまぬ名花であった。
 マーゴの言葉、「そして、私は? 私自身、人生に何か目的をもたなくては、生きてゆけない。その目的のためになら、贅沢の一つや二つは、喜んで犠牲にすることはできる。幸い、とても順応性に富んでいるし、人の世が理屈どおりに仕組まれていないことも、これまでの人生で学んできた。」
 ▽湯河京子・訳。1983年・文化出版局刊。
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上野清士

Author:上野清士
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