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日本の旧作映画 その1 失われし仕事を“畏敬”することの必要・・・映画『喜びも悲しみも幾年月』を観て

 喜びも
仕事、というより「職種」。それが必要とされる時代には掛け替えのない、なくてはならない仕事であったはずが、それを科学の発展などにより存在価値をうしなう。無惨に失われ消えてゆき、人の記憶からも抹消されていくものがある。と同時に、科学の発展があたらしい仕事を作り出す。人間社会はそれの繰り返しだった。
 近代小説を読んでいて、どうにも見当のつかない「職種」というものにぶつかることがある。注釈がついているような本ならいいが、それがないと皆目想像もつかないというものがある。作者がそれを書いていた時代は、それは当たり前のようにあったから日常光景として描きだされるだけで、解説めいた文章もない。たぶん、旧時代の小説の多くは、そうやって読者を失い。書棚から漸減してゆく。
 昔、志賀直哉の短編であったか、「羅宇屋」というのが出てきた、らうや、と読む。これが分からなかった。あるとき、それがキセル、タバコを吸うときのパイプ、江戸時代の愛煙家が考案、発展した道具だが、これの掃除や修理などを商いとした流しの職人のことを、らうや、といったのだ。それを知ったのは随分、後のことだった。もう志賀直哉の小説を積極的に読む人はほぼ消滅しているだろう。最後の羅宇屋は浅草に数年前までいたらしい。その職人さんが引退して、自然消滅した職種が「羅宇屋」であった。

 先日、京橋のフィルムセンターでデジタル処理されて封切り当時の鮮明さを取り戻した木下恵介監督の代表作『喜びも悲しみも幾年月』(1957)を観た。
 灯台守の一家族を通して昭和という時代を、日本の辺境からみつめた映画であった。30年以上も前に観たことがあった。あの有名な「灯台守の歌」の記憶を除けば、粗筋ぐらいしか記憶になかった映画を再見したのだった。

 映画制作時に日本各所に750所ほどの灯台があって、そこにはかならず「灯台守」たちが家族とともに住んでいた。絶海の孤島というようなところ、陸の孤島のような岬の突端に。大変な仕事だった。多くの灯台が日本の端っこにあったわけだから、灯台守の妻となった人、その子どもたちも含め犠牲的な精神がなければ勤まらなかっただろう。太平洋戦争末期はその灯台の光が消えたようだ。米軍機に位置を教えることになったからだ。そして、灯台守たちは敵機来襲の早期発見という軍事的任務も与えられたようだ。そのため迎撃手段をもたなかった灯台守たちは機銃掃射を浴びて殉職するひとも多かったことも映画で語られていた。灯台守の「守」は万葉の時代の「防人」のようなものだった。
 その「灯台守」は2006年12月、長崎県五島市の女島灯台を最後にすべて無人化されて、この「職種」は完全に消滅した。
 映画は灯台守が消えることなど考えられなかった時代のものだ。別に日本に限ったことではないが、かつて船の往来は過酷な状況を使命感と、あるいは報酬によって克服した「灯台守」、とその家族の犠牲の上に成り立っていたことを知る。そのうち、灯台守、という言葉すら歴史の彼方に消えるときがやってくるのだろう。

 映画という表現手段はほんとうに貴重なものだ。ドキュメントではなかなかカメラの前で主人公たちは内実を語れないが、優れた俳優と監督は、それを象徴的に演じることができる。要約してくれる。『『喜びも悲しみも幾年月』は木下監督のリベラリズムによって灯台守からみた「昭和」が描き出された。そう、戦前、戦中、そして戦後の復興という時代を、辺境ではたらく灯台守夫婦の年代記としてみせてくれた。そうした仕事があり、そうした仕事の過酷さを誠実にこなしていた人たちの汗と涙のうえに今日の日本の繁栄がある、と意識するのは日本人として大切なことだと思う。映画批評的には、多くの粗を探せるが、それはもういうまい。こうした映画をわれわれは遺産とできたことに感謝することのほうが誠実な行為と思うからだ。
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