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ディカプリオのオスカー受賞を記念しての回顧批評 2 『ワールド・オブ・ライズ』

ワールド・オブ・ライス リドリー・スコット監督
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 リドリー・スコット監督に正義・不正義の対立概念は希薄だ。だから「戦争」を批評する視点はすこぶる冷ややかであるし非情でもある。「戦争」の勝者がけっして正義の施行者ではありえないように、敗者もまた正義を叫びながら憤死するのだ。この監督の表現欲求に渦巻くエネルギーは現実世界へのペシミズムだろう。現実への理解を深めようと言う姿勢は、未来を予見しようという前傾姿勢だろう。たとえば初期の傑作『エイリアン』の基層にあるのは、宇宙開発という進歩によって、予見不能な未知との戦いがあらたに展開されるだろう、というデスペレートな思いから発したからこそ、ドラマとして深みをもったのだ。地球の都市そのものの未来像は、厭世的で退廃感もただよう『ブレードランナー』に描いている。それは、たとえばスピル ヴァーグ監督の『E.T.』や『未知との遭遇』のような芳しい出合いなど信じないものだ。

 現実世界との接触を強くもとめた映画に『ブラックホーク・ダウン』(2001)がある。北東アフリカの内戦地ソマリアに米軍は武力介入し、撤退を余儀なくされた事件に取材した作品だ。本作は、そのソマリア内戦にも関わる中東ヨルダンを舞台にした政治的アクション映画。イスラム原理主義者たちの武装組織を撲滅を目指す米国CIAと、ヨルダン国家情報局がそれぞれのやりかたで遂行する修羅場を描いたものだ。
 右に、CIAのハイテク技術と豊富な資金力を背に作戦指導をとるホフマン(ラッセル・クロウ)を置き、左に、ヨルダン情報局の常時ファンション雑誌から抜け出したようなスーツ姿で制服を着用しない将校ハニ・サラーム(マーク・ストロング)の主導する伝統社会に根ざしたローテクな作戦を置く。この配置が錯綜していて面白い。そのふたり の間で現地活動に生命をかけているCIA職員フェリスを演じたのがデオナルド・ディカプリオ。

 一人の米国人を守るためなら、中東の善良なイスラム教徒の一人や二人、“不慮”の死を遂げても仕方がないと考える役人がホフマン。現場から遠ざかってデスクワークの多くなって腹もすかったり膨張してしまったという官僚だ。その嫌味なふてぶしさをラッセル・クロウは好演。そんなホフマンに対立しつつ情報だけはありがたく戴き、ヨルダンの地縁・血縁、習慣・習俗を活用する捜査で実績をあげてきたハニの冷徹が際立つ。フェリスは双方の情報と技術を得つつ、いつも前線で身体をはっているのだ。
 ある意味、フェリスの位置はピエロ的な存在だが、現地にながく留まっていれば、誰だって 正常な感覚を維持するために活動地の文化にそれなりの共感をもち、人間的な親密感をもたないと狂ってしまうだろう。どんな活動にも「遠くの親戚より近くの他人」。転べば手を差し伸べるのは近くの他人である。

 本作では欧州の都市で破壊活動をつづけるイスラム過激派の組織を“悪”とは言い切っていない。その組織の指導者も血も涙もない異常者と描いてはいない。いまもビンラディンの戦いを畏敬する民族が存在し、その影響の下、現在も破壊活動を“聖戦”と信じて若者たちが生命を賭して戦っている。あえて書くが、そんな狂信的なイスラム青年に銃を向けられば、抵抗としてフェリスは引き金を引かざる得ない。そういう泥沼化した紛争の状況を複眼的に捕捉しようとした映画だ。
 
 スコット監督にとって はイスラム原理主義者たちをスクリーンに描くことは、同時代を生きる表現者として避けては通れないものだろう。フェリスの存在は映画に活力を与える貴重な存在であるが、映画の本質を体現しているのはホフマンの方だ。だから、監督はクランクイン前にラッセル・クロウに体重を20キロ増やすよう厳命した。そして、映画の興行面で集客をのぞめるディカプリオに汗を流してもらおうという意図があったと思う。


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ディカプリオのオスカー受賞を記念しての回顧批評 1 『ブラッド・ダイヤモンド』 

 レオナルド・ディカプリオがメキシコの名匠アレハンドロ・G・イニャリトゥのメガフォン『レヴェナント』でやっとオスカーの主演男優賞を獲得した。ということで彼の主演映画を少し見直してみた。
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2006年の主演映画『ブラッド・ダイヤモンド』(エドワード・ズウィック監督)。アフリカの貧しい白人入植農民の息子アーチャーで現在は傭兵崩れのダイヤモンドの密売人を演じて主演男優賞の候補になっている。主題は、先進国の宝飾メーカーがアフリカの小国の紛争を利用して不当に利ざやを稼ぎ、紛争は教育もまともに受けられない少年たちを兵士に仕立て上げ内戦を泥沼に導いている北の資本家たちへの糾弾ということになるだろう。必然、アクション・シーンが多くなるが、背景説明が〈現在〉の時点からの台詞だけの回顧となってしまって、その辺りの掘り下げは浅い。
 アフリカの土地にしがみつかなければ生きてはいけなかった貧しい白人植民者の息子という出自、その植民地が独立した際、その混乱のなかで父母が惨殺され南アフリカに逃げ、そこでアパルトヘイト下の軍隊でゲリラ戦のノーハウを仕込まれ、冷戦下のアンゴラで大義のない戦いに倦んだ。二重にも三重にも厭世観にとらわれている青年だ。ダイヤモンドの蜜売に手を染めるのは、それは命がけの商売という緊張感と、利益の多さだけだ。生きているから喰う、そんな生き方だ。しかし、その絶望の深さが演技にあらわれていなし、映画そのものも主張過多で散漫になっている。一兵士として強制徴用された少年と父(ジャイモン・フンスー)の挿話も本作のサイドテーマで、その話しを膨らましても一遍の物語となる。現にフンスーの演技も評価され受賞は逃したら助演男優賞にノミネートされた。しかし、父子との話だけになってしまうと社会派作品となってしまって娯楽性は希薄になり、アフリカの資源問題を広く知らしめる映画とはならない。ここにディカプリオという名の大きさがあり、彼が主演したことで娯楽性も獲得し、世界市場に出ることができた。
 大スターの公的存在理由は、そういう側面があるということだ。

 舞台となった西アフリカのシエラレオネの他に、台詞のなかで南アフリカ、アンゴラ、ローデシア、ジンバブエ、リベリアという国が語られている。W杯サッカー、ラクビー大会を開催した南アフリカを除けば、大半の日本人には見えない国だ。いま国名を掲げたが、この並べ方はおかしいとすぐ気づいた人は国際感覚に鋭敏といえるかも知 れない。ローデシアが英国より独立して黒人の主権国家となりジンバブエとなった。だから、ディカプリオ演じる青年は、その植民地ローデシアに入植した英国人の父母のもとに生まれた。だから、彼はローデシアと語る。彼とほのかな恋情を交わすことになる博愛主義者らしい女性ジャーナリスト(ジェニファー・コネリー)たちはジンバブエと語っている。
 しかし、製作のそうした意図は観る者に普遍的には伝わらないだろう。表題にしても、紛争の資金調達のため非合法的手段で取引きされている「紛争ダイヤモンド」の意味だが、これを日本人がわが事の問題として認知することもないだろう。
 現在、南スーダンで武力紛争がつづく地域は携帯電話などにつかわれるバッテリー用の希少金属の鉱床があることで悲惨な状況になっている。映画のなかで「(シエラレオネに)石油が出なくてよかった」と語る老人が登場する。現在の中東の紛争のおおきな要因もまた石油であってみれば、本来、埋蔵地をもつ国にとって掛け替えのない資源であるべきものが、ほとんど惨劇の温床となってしまっている。その矛盾をダイヤモンドに象徴化したのが本作である。

 本作にアントワープが登場するベルギーの都市だが、ここにダイヤモンドの 品質基準の設定、取引業者たちの倫理規定などを決める国際機関があるからだ。
 ベルギーの発展もまた現在のコンゴ民主共和国を中心としたアフリカの地から富を収奪したことにある。特にレオポルド2世治世下におけるコンゴに対する圧政はすさまじく、総人口の5分の1が消えたといわれる。「イスラム国」戦闘員によるテロによってベルギーの首都ブリュセルが多大な被害を受けた。同市がテロ実行犯の潜伏場所となり、被害を受けたとき、レオポルド2世時代まで遡って南から審判が下されているように思ったのは、筆者ばかりではないだろう。
 
 シエラレオネの貧しい農民たちが強制労働 で川底の小石を掬いダイヤモンドの原石を探し出す光景は、アマゾン流域で金を探すブラジルの貧しい労働者たちの姿にも重なる。
 世界は不正に満ちている、と指弾したところで何も変わらないが、先進国といわれる国に住むわれわれは朝のコーヒー一杯から不正に加担している。それを自覚するかどうかは個人の知力と想像力、あるいは倫理観だろう。でも、そのコーヒーを飲むことは止められない。
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上野清士

Author:上野清士
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