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瞽女を描く その3 金森敦子『瞽女んぼが死んだ』 瞽女、そして江戸和算(算額)の話

瞽女を描く その3 金森敦子『瞽女んぼが死んだ』

 作者の金森さんは、すでに特異な遍歴のなかで自己表現を全うした幾多の女性評伝を書き下ろしている作家として知られている人。寡作だが、いずれも他の作家が手をつけていなかった分野を敢然として踏査して、その作品は実に読み応えのある粒ぞろいの果実となっている。
 そんな金森さんに、本書のような小説集があることを最近まで知らなかった。収録されている作品の初出がいずれも同人誌という媒体であったこと、初版のみで絶版になってしまったからだろう。正直、本書の表題作のできからすれば、それもまた仕方がないかなと思う。
 若い瞽女さん二人の無理心中、と思われる“真相”を追う縦軸のなかで、越後瞽女さんたちの悲哀を描く、というものだが、語り口がすこしくどいところがあって、もう少し制御し、捨てるところは捨てる潔さがあっても良いと思った。しかし、金森さんにとって初期作品と思える本編で、すでに後年の取材調査を怠らないという姿勢が垣間見え、創作から評伝へステージを移して成功した才能の発芽がここにあると思った。

 本小説集のなかで、もっとも関心をもって読んだのが、埼玉の某神社にあった「算額」をみたことから発想された短編「算士とその妻」だった。
 江戸から明治初期、日本で独自の発展をみた和算がいかに地方、僻地まで浸透していたかを象徴する話である。豊とはいえない農民一家のなかで営まれていた高等数学の歴史が物語れている。「算額」とは、そうした市井のアマチュア数学者が編み出した高等数学の問題を例示し、その額をみたアマチュア数学者が必死にそれを解くという世界があった。
 江戸から明治、和算には関流・最上流・宮城流・宅間流など多くが存在した。それは、いわゆる芸道に似た世界であったのかも知れない。
 小説は、主人公の農家の青年が和算に見入られ、その妻もまた、和算の心得があり、数学を通して農村一家の春秋が描かれるという、これまで誰も手をつけなかったと思われる農村光景が展開するのだ。
 かつての日本にはそうした光景が実際にあった。明治維新後、急速に欧米文化を巧みに消化できた日本という国の知的土壌の豊かさというのは、こうした地方・僻村に営まれていた和算の事実をもってしても容易に理解できるものである。
 
 ちなみに現在、全国に「算額」がどれくらい残っているのかと調べてみると、全国に約820もあるそうだ。ほとんどが神社・仏閣に奉納されたかたちで残されているわけだが、その分布をみると、どうも幕末の政治に主役を演じた諸藩には少ないようだ。和算より国学に重点が置かれていたように思う。たとえば、北関東では群馬、栃木、北埼玉に多く。茨城には少ない。水戸藩が独自の国学を発展させていたことはいうまでもない。
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瞽女を描く その2 木下晋の鉛筆画

瞽女を描く その2 木下晋の鉛筆画
木下晋 002

 黒、は精神の深奥を覗き込むに相応しい色。鋭利の刃物のような色でもあり、また人知れず闖入する狡猾さもそなえた色なのかも知れない。 モノトーン、現代絵画に謀反を興すかのように鉛筆の先で精緻な描写を展開し、人の肺腑を抉るような画家・木下晋の世界は峻烈だ。自己に厳しい世界だ。
 木下は皺に履歴を刻印した老人たちを追い描く。のっぺりとした手業の輪郭線だけで処理できるような若者は描かない。まるで皺にドラマをみるように皮膚に溝をつくって描きだす。
 その一連の木下の世界に、越後瞽女小林ハルを描いた連作がある。全貌は知らないが、「97歳のいきざま」(1997)という表題をもつ肖像には魅かれる。すでに雪深い山道を素足で経巡った「角付け」業から引退して長い歳月を経て、その時期は老人ホームのようなところで暮らしていたはずである。しかし、画家は〈元ごぜ〉とは書かない。ごぜの魂をそのままに老いゆくハルを描く。当時、ハルさんは瞽女歌を録音している。それはマイクを前にした「角付け」であった。ひとりでも聴衆がいれば、それは真剣勝負の世界 となる。木下のハルさんは、白髪を短く切りそろえ、昔日の面影はないが、いまも厳しく身を律して過ごしています、という自己に厳しい姿勢をうかがわせる肖像だ。ハルさん、とは書かれておらず、下向きの姿勢で表情がうかがえない老女図に「胎内回帰」という同年の制作画像がある。画家は、まもなく黄泉の世界に旅立ち、こんどは晴眼者としてどこかに再生するだろうと願っているような絵だ。<
 「小林ハル展」と謳った個展を新潟で開いているが、東京あたりでもやって欲しいと勝手に思っている。
 ごぜさんの絵というと斎藤真一さんが連作したような、「角付け」行脚の制服としての旅装図であるが、木下は自分がみていない旅装を想像や資料で描こうとは思わない。

瞽女を描く その1  村山富士子『越後瞽女唄冬の旅』

瞽女を描く 
 村山富士子『越後瞽女唄冬の旅』

 久しく瞽女(ごぜ)をあつかった小説が書かれていない。
 瞽女、という大衆芸能の担い手が存在しなければ、瞽女そのものの芸能は歴史というステージの上でいかすしかない。
 おそらく越後や信州など、かつて瞽女を幾世代に渡って育み芸を伝承してきた地では、「門付け」というなりわいが殺がれたところで、唄・三味線の純音楽としての継承があるのだろうが、それは部分の継承でしかないが、悲劇性は消えた。
 日本は豊かになり眼病に対する医療も向上し貧しさ故の失明も少なくなり、また失明した人たちに対する職域も人権思想の普及にともなって広がったせいもあるだろう。
 厳冬の季節に僻地の寒村を経巡って門付けし、暮しを立ててきた瞽女の芸が消えてゆくのは元来、良いことなのだ。それをしりつつ瞽女として生き、人知れず死んでいった郷地の芸能人に、ある人を郷愁を覚え、ある人は貧しかった日本を象徴させようともし、また、男と契れば瞽女から落とされ、仲間をうしなって離れ瞽女にされるという掟てに悲劇を見出す。瞽女の世界は物語の宝庫でもあった。
 その雪国の瞽女の世界に鈍く光る鉱石を見出したのが画家・斉藤真一であった。それは日本がバブルに浮かれている世相を、明治大正、戦前昭和の庶民の目線で冷徹に批評するように連作されたものだった。筆者はその斉藤の絵によって「瞽女」という世界があったことを知った。漢字に「瞽」という文字が存在することをはじめて知りもした。それは多くの日本人の共通体験であっただろう。斉藤の画集は売れ、さまざまな判型の本も編まれ、展覧会が開催され、その絵の市価はあがった。すでに老い、門付けから解放され、老人ホームで余生を送っていた元瞽女さんが唄は録音されて、多くの視聴者を獲得するようなブームがあった。そこから数編の小説が生まれる。
 村山富士子の中篇『越後瞽女唄冬の旅』の発表も1976年夏であった。その小説は、その年、太宰治賞を受賞している。その小説を表題とした3篇の作品を収録した同名の本が出版されたが、その後、村山さんの作品はみない。その本も絶版になっているので、本作の存在をしる人も少ないはずだ。このまま埋もれてしまうのは惜しく思い、ここで取り上げてみた。そして、村山さんの瞽女は、そうしたブームとは別のところで私的に構想されていたものだ。新潟出身の作者にとって、瞽女さんの後ろ姿は郷愁といったものではなかった。越後の厳しい現実であったのだ。
 小説は越後の瞽女さんたちの生活譜である。あえてドラマをつくるまいとした態度がうかがえる。
 瞽女の生活を描くのに作者はそうとうな仕込みをしている。限れた地方だけに存在した大衆芸能、それも消えつつある世界の機微を描こうとするのは大変な仕事である。地方にはまだ瞽女の唄の良し悪しを知る人たちが現存しているから、臨場感をもって手繰り寄せられる心配のない江戸時代の歌舞音曲の世界に生きた人たちを描くよりむずかしい。作者・村山にとって、おそらく瞽女となった女たちを描くことはライフワークであったに違いない。中篇というスケールだが、作者はこれに全霊を掛けたのだ。そして、それを描ききった。
 作中にこんな一節がある。
 ・・・「瞽女の道は村から村への裏道であり、村びとの吐息のこもる蔭道だった。胸から胸の血の道だった」
 小説は、その蔭道を哀歓をこめて紡いだ絣のような物語だ。その一節を描きとめるために作者は一冊の本を書き上げなければならなかった。そこに作家の姿勢というものもある。
*筑摩書房刊。1976年6月初版・絶版。
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上野清士

Author:上野清士
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