スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ピンク・トライアングルの男たち ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』 H・ヘーガー

 fc60e4559887ab67d39e40d909ab3087.jpg
 V.E.フランクルの『夜と霧』の読書体験はまさに「衝撃」だった。人間の極限悪を告発する記録ではあったが、その「衝撃」はナチズムの残酷、非人間的なシステムに対してではなく、人間という存在それ自体の不気味さを明晰な文章で綴った心理学者フランクルの視座、ゆらぎのない冷徹さにあったように思う。
 餓え疲労困憊し、恥の概念も剥ぎ取られ、突然の自死が何時、訪れるかも知れないという極限状況のなかでも自己と他者に向けた静かな視座を確保・維持しつづけたフランクルという人の存在そのものが「衝撃」であったのだと思う。『夜と霧』を読んだのは10代の後半だったと思うが、その読後感はいまだに生きている。
 以来、ナチ強制収容所の実態を綴った本と幾度も出会ってきた。その多くが地獄を奇跡的に生き延びた体験者の報告・記録であった。そうした記録を読めば読むほど、生還した人たちは、それだけで「奇跡の偉人」のように思えてくる。そうした記録のなかから映像化されたものも多い。あるいは戦争史劇などに深い陰影を与えつづけた。
 人間はどこまで残酷になれるのか、どこまで苦痛と恥辱に耐えられる存在であるのかを推量する目安まで教えられるような、あるいは目を背けるな、と強制されるような、曰く言いがたい不快感、と同時に人間存在に対する信頼感もまた受け取っているのだった。それでなければ繰り返し、極限悪を読み返す気は起こらない。
 
 本書『ピンク・トライアングルの男たち』も深甚な課題を抱えて筆者の前に現われた。
 近年では2004年秋に翻訳刊行された、母親が強制収容所のメ有能モな看守であったというヘルガ・シュナイダーが書き下ろした『黙って行かせて』が肉親の情と亀裂、時代と政治的熱狂が母娘の血の絆に切り込む刃の鋭さについて考えさせる沈痛な読書体験だった。
 だって
 ピンク・トライアングルとは、ナチ強制収容所で同性愛者の刑務服の胸につけられた印である。
 たぶん、日本人の多くはユダヤ人につけられた黄色いトライアングル印を写真や映画を通しておなじみだろうが、同性愛者にピンク色が強制されたことを知る者は少ないと思う。さらに、同性愛者のユダヤ人は黄色とピンクの二つの印を強制された。その二つの印をつけた囚人の映像に記憶がないのは、たぶんガス室に送られる優先順位の筆頭者であったからだろう。ナチズムによる最大の絶滅種、ということになる。
 ちなみ赤は政治囚、紫は聖書研究者(エホバの証人)、緑は刑事囚、青は亡命者(ドイツ人及び占領地で捕まったドイツ人亡命者)、茶色はロマ族(ジプシー)であった。刑事囚を除けばナチズムのドグマ的政治システムにおいてのみ「囚人」となった人たちで、もとより拘束されるいわれのない人たちだ。
 本書は、ピンク・トライアングルを強制され生き延びた男性の6年の極限状況が簡潔に綴られている。生き延びるため、看守たちに「性具」として自らを差し出したことも隠していない。ホモセクシュアルであるための悪罵・痛罵も克明に記録されている。生きて強制収容所を出る、という最終目標を達成するために耐える、耐えつづける。それは生命を賭した闘争であり、あらゆる手段に訴えても恥辱を甘受するということかもしれない。その覚悟を尊い、と思うか、潔しとしないとみるかという批評は読者は避けるべきだろう。矜持という言葉を安易に持ち出すことは、厳に慎まなければいけないと思う。恥辱を受け入れなかった者は、その矜持も潔さもガス室で葬られ、自ら報告者となることはできない。
 極限の餓えを生き延びるため人肉に喰らいついた者はゆるされる。しかし、人肉を喰らうことを拒否して餓死する者も出る。アンデス山中に不時着した飛行機の乗客のなかで、そんな運命の選択が行われた。つい数十年前の現代の記録である。人肉を拒んで餓死した人たちの名誉は、人肉に喰らいついた者たちによって記録されたのだった。そんなことを本書は思い出させる。
 
 生き延びた著者は家に戻った。その著者の父はナチ政権下では、同性愛者の肉親としてシステマチックに職を奪われていた。そして、生活難と恥辱のなかで死を選んだことを知る。悲劇は解放後も著者を縛った。
 著者が本書を公けにしたのは1972年、解放から27年目のことだった。記録者としての覚悟、歴史の証言者として自らを律する潔さ、書き続ける持続のなかでの懊悩・・・人間の魂の記録として、人間の悪行と、それに耐えた勇気の記録として推奨したい。
スポンサーサイト

書評 『放浪の聖画家 ピロスマニ』 はらだたけひで著

書評 『放浪の聖画家 ピロスマニ』 
           はらだたけひで著
moscow_photo01s.jpg

 日本におけるピロスマニ受容は映画から始まる。
 まだグルジアがソ連邦の構成国であった頃、かの国で叙事詩的な評伝映画制作され岩波ホールで公開されてからだ。それ以前に、いわゆる素朴画家として、その分野では良く知られていたフランスのアンリ・ルソーなど
の傍系資料的に紹介されていた程度だったが、映画の公開でにわかに光を放ちはじめた。
 
 本書の著者はその映画の公開に岩波ホール職員として関わった。そして、絵本作家でもある著者が掌のなかであたため熟成させるように画家の生涯を描き出しのが本書である。
  
 名声を求めるのでもなく、コーカサス山系の山の民グルジア人として、同胞(はらかた)、生活を支える豊かな風土をただ描きたいように描いた民衆画家の足跡を自分が歩む道しるべのごとく豊富な作例をあげながら起伏の多いグルジアを旅して綴る。
 かの映画に触れて評者もピロスマニに惹かれた。彼の豊かな黒に惹かれた。墨に五彩あり、というが、その絵の世界にも同じような豊饒をみた。
 絵の黒に憂愁と、それに相反するような愛惜をみたのだ。その二律離反さが宿るもの確認したくて二度目のソ連旅行の際、グルジアの首都トビリシを訪れた。冬の孤独な一人旅だった。当時、外国人が宿泊できるホテル内の表記もぶどうの蔦から生まれた(?)といわれるグルジア語文字とロシアのキール文字しか併記されていない時代だった。
 ピロスマニの黒・・・それは映画を見たときから強い印象を受けたものだった。黒に憂愁と愛惜をみた。その黒が評者には謎だった。本書の著者がその黒に言及する。
 それはギャラリーでの鑑賞ではうかがい知れない部分だ。それが評伝を読む快楽でもあり、発見だ。一書にまとめるということは、そうした読者の疑問に答えることだ。著者は書く・・・。
 絵の具の黒ではなくグルジアでムシャンバと呼ばれる馬の背に敷く動物の皮、その地色と。何故、彼はこれをキャンバスにしたのだろう、と著者は筆を進める。そんな手法でピロスマニ芸術の特異性と風土に密着した世界を紐解いていく。  
 著者とともに小さな山国の穏やかな日々のなかで旅程を重ねたことを思いだしながら感慨にふけった。    (清士)
▽集英社新書・1200円

真実を語る責務 『テレシコワ自伝』

真実を語る責務
 書評『テレシコワ自伝  宇宙は拓かれた大洋』
0310tereshkova3.jpg
 
 ワレンチナ・テレシコワと聞いて、初の女性宇宙飛行士だったと即座に答えられる若者は少ないだろう。 1963年6月16日、ボストーク6号に搭乗、世界初の女性宇宙飛行士となった。地球周回48回、70時間30分飛行した。宇宙飛行を先進した米ソ両国合わせて12番目の宇宙飛行士であった、そして初の非軍人宇宙飛行士でもある。
19年後に二代目の女性宇宙飛行士が誕生するまで、彼女は、個人識別用のコールサイン「チャイカ(かもめ)」とともに女性の地位向上のシンボル的存在となった。
彼女はロシア人というより「ソ連人」とあったというべきだろう。宇宙飛行後、しばらくして自伝『宇宙は拓かれた大洋』を書く。日本でも65年9月に邦訳(合同出版)が出た。最近、この自伝を必要がって読了した。敢えて、現在のテレシコワさんの近況、ソ連邦解体後の生活を無視、調べることなく読んだ。
 大戦中、父親は対独戦争で戦死している。この父親に関する記述が、母親へのそれと比べるとあまりにも少なく不自然な気がしたが、まぁそういうこともあるだろうと思い、読み過ごす。稼ぎ頭の父親の死は、家計の負担を母に押し付けることになり、その辺りは、大戦後のソ連時代でも、クレムリンにほとんど手を差し伸べていなかった実態がうかがえ、ある意味、『自伝』の信ぴょう性を確信させもした。
 貧しい少女時代を過ごし、タイヤ製造工場や紡績女工として勤労生活などを綴っていた。その克明な記述は貴重な時代の証言となっているが、共産党礼賛には辟易した。女工としての勤務の日々のなかで、彼女はパラシュート・クラブに参加しているが、その経緯が唐突な感じを抱かせた。まぁ、いろいろ不自然さを感じさせても、『自伝』を流れる空気は、スターリン没後、フルショフ時代初期の“雪解け”の季節の若々しさを感じさせるもので、好感をもたせるものだった。
 読了後、さて現在のテレシコワさんは、と思い、色々、調べてみた。
 ソ連邦が崩壊、言論統制が解けた後にさまざまな真実が明らかにされるなかで『自伝』の信ぴょう性そのものが揺らいでいたことを知る。彼女は、「(宇宙飛行は)万事好調」であったと書いているが、飛行中にそうとうなパニックに陥ったことを知る。あるいは、『自伝』のなかで「最愛」の彼(宇宙飛行士)との婚約・結婚、むつまじい写真まで掲載されているのだが、これが政府方針の政略結婚であったことを知る。これは人権問題そのものだが、当時のソ連邦ではクレムリンに逆らうことは初の女性宇宙飛行士といえどもできない相談だ。その彼とのあいだに子をもうけながらも離婚している。
初の女性飛行士という偉業は、「わたしはかもめ」というフレーズとともに永遠不滅だが、ソ連人としての個人生活はけっして幸せではなかったようだ。
 私が手にした『自伝』は6刷、とある。初版から1カ月足らずで5刷も増刷が繰り返されている。つまりベストセラーとなった本だ。しかし、読者の多くは、真実の書を読んだわけではなかった。『自伝』は多くの言語に訳され、世界中で読まれたはずだが。ソ連邦時代にねつ造されたウソはいまも多くの人の心に真実として滞留しているはずだ。歳月をやり過ごしてきたウソは次代にも引き継がれもする。テレシコワさんは再度、『自伝』を書くべきなのかも知れない。

書評『エルミタージュの聖母』 デブラ・ディーン著

書評『エルミタージュの聖母』 デブラ・ディーン著

 サンクトペテルブルグがまだレニングラードと呼ばれていた時代、厳寒の12月、クリスマス直前の数日を過ごしたことがあった。ひとり旅だった。陽の光が遙かなたの空で滞留していて、その町には届かなかった。灰色の氷に閉ざされているような街頭をとぼとぼと徘徊して過ごした。
 都市遊覧のひとつに1941年、ドイツ軍によるレニグラード包囲戦で倒れた兵士、市民を埋葬する墓地へ詣でた。その一角に包囲戦のなか砲撃の恐怖にくわえ、飢えと寒さに耐えた市民の暮らしをつたえる博物館があった。そこでたくさんの展示物を見たのだが、いま思い出せるのは何故か、大きな消しゴム大の黒パンの欠片であった。それが成人の一日の食糧のすべてという時期がつづいたとあった。
 約900日つづいた包囲戦のなかでレニングラード市民の67万人が死んだといわれる。一説には100万人以上という統計もある。この数字は、大戦下、東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎など本土で犠牲となった民間人の犠牲者の数より大きい。
 レニグラード最大の観光、ランドマークは何時の時代でもエルミタージュ美術館であろう。ここも砲撃に晒された。本書は、包囲戦の最中、美術館を守り通したスタッフの一員だった女性マリーナが主人公だ。戦後、アメリカ北西部の町に移り住んだ女性は、いまは80余歳の高齢者でアルツハイマーを発症している。その女性の意識の混濁のなかで過去と現在が交錯して描かれる小説だ。
 現在、ネヴァ河に面して建つ美術館の華麗な容姿からはまったく想像もできないが、包囲戦のなかでおびただしい収蔵品は戦火の及ばない土地に疎開し、館内はがらんどうになった。それでも施設を維持するためスタッフははらきつづけた。一時は数千人を擁したスタッフも徴兵されたり、疎開した美術品ともに町を去り、あるいは死者となり病者となってわずかのスタッフが献身的に働いているだけだった。
 壁、天井画、階段の装飾、寄せ木細工の床・・・それからもすべて美術品であったが可動できない。美術館のガラスは爆風で砕け、氷雪が舞い込み荒廃しつづけた。そんな描写も切々と綴られてゆく。
 マリーナはある日、赤軍の少年兵たちを先導して館内を案内する。彼女のあたまのなかには壁に飾られた名画がきちんと配置されていて淀みなく何もない壁の前で名画を再現させるのだ。それは感動的なシーンだ。こんな美術館の表現にであったことはない。このシーンは最終章に置かれている。包囲戦の凄惨な光景のあとに語られる幾多の名作はマリーナの声を通して少年兵たちに感動を与える。見えない名画を少年兵に語ることは、彼女の祈りでもあった。
 「どうかあなた達は生きぬいて、平和が訪れた後に、美術館を再訪してください。きょう私が説明した名画に触れてください。ぜったいに生きぬいてね」と・・・。
 読了後、エルミタージュを再訪したくなった。
 美術館を訪れた12月、ネヴァ河は氷結していた。包囲戦の最中、冬季はその氷上を軍用が走り、軍事物資を補給し、市民も逃避する道となった。その氷結の光景を再見したと思った。余談だが、当時、ソ連最末期となるが、その旅に日々を綴って本にした。もう絶版になってしまったが、『ソビエト新事情』(講談社文庫)にまとめた。オリジナルは『国境の神々』といい、それはソビエトの中心から遠く離れたグルジア、アルメニア、モルダビアといった連邦諸国の旅に重きをおいていたからだ。
 *『エルミタージュの聖母』(成川裕子・訳)PHP研究所刊。

書評 チカップ美恵子『チカップ美恵子の世界 ~アイヌ文様と詩作品集』

書評 チカップ美恵子『チカップ美恵子の世界 ~アイヌ文様と詩作品集』
260_chikappumieko-ainumonyoutosisakuhinshu.jpg

かつて、中国・海南島に先住民ミャオ族の文化・習俗を取材したことがある。その時、同行した北京のジャーナリストが、「先住民はみなアーティストだが、われわれ漢族は選ばれた者の特権でしかない」と自嘲気味に言った。それから数年後、筆者は中米の小国に住むようになってからマヤ系先住民と親しくなったとき、あらためてミャオ族のことを思い出し、漢族のジャーナリストの言葉を我が身に引きつけた。
 マヤ族の女性は例外なく織物の名手であった。日本でいえば無形文化財級の腕の持ち主が僻村に無数に暮らしていた。彼女たちは皆、ウィピルという貫頭衣を着て過ごす。それも自ら織り上げたものだ。
 アイヌ族のチカップ美恵子さんは全身アーティストであった。なかにでも抜きん出いていたのが、内なる民族の魂に誘(いざな)われるように糸で描いた刺繍であった。
 日本人ならアイヌ族の独特な着衣、衣装を知っているはずだ。呪術的な形態の文様、反復されるシンメトリカルな文様。その謂(い)われを本書を読むまで知らなかった。「ゆるやかに曲がる」を意味するモレウと、「棘」を意味するアイウシの二つの基本パターンで構成された文様であった。モレウは水のさまざまな変容であり、アイウシは北海道各地に生育するタラ、ハマナスの棘から来ているらしい。
 本書にはチカップさんが亡くなったとき、手許に遺された刺繍99点と、生前、書き残した詩もすべて収録されている。「鳥」を意味するチカップは筆名。戸籍では伊賀。和名は明治時代、和人(大和族)が強いたものだ。だから彼女がアイヌを象徴する作品を発表するとき和名を忌避した。
 チカップさんはムックリ(口琴)を奏し、アイヌ語で伝承歌も歌う。舞姫でもあった。「生きることがすべて文化なんです」と語った。
 61年の生涯をまさに全身表現者として生き抜いた。その重要な表現活動の優先事項にアイヌ民族の人権を回復する闘いがあった。それは不退転の決意として10代から倦むことなく持続された。闘いの生涯であった。
 日本政府がアイヌ族を、日本列島の「先住民族」と認めるのは2008年のことだが、この時、チカップさんは病いに冒されていた。
 刺繍作家だが寡作だと思うし、詩の数も少ない。アイヌ族の尊厳を求め闘いつづけた独りのアーティストとして私的な観照の世界に安住できなかったからだ。しかし、遺作は、後継者に汲めども尽きない教本となったように思う。
 カムイ(アイヌ族の神)と対話する言葉としてのモレウとアイウシはアイヌ族が生きる限り無限の創造の泉となることを示唆しているのだ。
▼北海道新聞社刊・2500円(税別)

書評『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』

書評
 『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』
       はらだ・たけひで箸

41OIkjw3GZL__BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_

 一編の詩が、数小節の音楽が、あるいは一枚の絵がその人の人生を決めてしまうことがある。映画もまた同じようなことが起こる。著者は冒頭で、ピロスマニとの運命的な出会いを絵と映画からどうじに体験した、と語る。
 コーカサスの小国グルジアの画家ピロスマニの生涯を描いた叙事詩的な映画『ピロスマニ』との出会い。それから33年後、日本ではじめてのピロスマニ伝を上梓した。評者もまた映画によって、その画家を知り、数年後、グルジアまで出かけ、画家が歩いたトリビシの町を散策している。その後、評者の視線はコーカサスから中米に移り、画家の絵もトリビシの思い出に埋没した。しかし、著者はそれからコツコツと資料集めを怠ることなく、素敵な本を書いてしまった。
 1862年にグルジアの農村に生まれたピロスマニは独学で絵を学び生涯千点とも二千点ともいわれる絵を描いた。しかし、今日まで現存している作品はわずか217点に過ぎない。推定制作数と現存数との極端な差はピロスマニの絵画が、画家の生前、どのような扱いを受けたか、死後もながいこと正当な評価を受けなかったことを示すものだ。
 アカデミックな場で学ぶことのなかった画家に遠近法の習熟はない。距離感は心象光景のなかで自在に変貌した。19世紀後半、芸術運動の前衛となったパリ、そしてモスクワからあまりにも遠く離れたコーカサスには彼の独創、芸術的価値を見い出す見識は存在しなかった。けれど、彼は描きつづけることができた。絵の価値なんてどうでもいい。そこにグルジアが描かれている。おれたちの日常、喜怒哀楽があり、癒しの祭がある。祖先を敬う歴史も描き込まれている。店に飾ろうではないか、看板にしようという民衆が彼を愛し生活を支えた。
 著者は画家との出会いから今日にいたる現代の激変を思わずにはいられない。
 ソ連邦は崩壊し、「80年代に訪れたグルジアはロシアより豊かだった。肉はあったし美味しいワインも飲めた」が独立して20年足らずで、「貧しくなった。ロシアとの戦争で荒廃したせいもあるが経済は疲弊してしまった」。北部の領土をロシアに奪われ、多くの難民が首都に流れ込んだ。けれどピロスマニだけは輝きを失わずグルジア人の心に生きている。 独立後、ピロスマ二の肖像は同国の紙幣や硬貨に刻印された。
 だが独立後、グルジアでは一冊のピロスマニ関係書も出ていないという。薄い小冊子がひとつ出ただけだという。ロシアと戦争したことで定期便もなくなりモスクワへの距離も遠くなった。ロシアから経済制裁を受けている。モスクワの美術館にあるピロスマニの絵にグルジア人はアクセスできない。
 しかし、グルジア人は今更、ピロスマニの生涯を掘り下げ、詳細な評伝を書こうとは思っていないようだ。みな自分たちの画家像を持っている。民衆の数だけピロスマニ像がある。それでいいじゃないか、と。
 簡便で淀みない文章は著者と画家とのつき合いの長さを感じさせる。「kれど、これも所詮。僕だけのピロスマニでしかないでしょう」と謙遜するが、入手できる限りの資料は網羅した、との自負もある。
 フツーに仕事も商売もできず家庭を営むすべもなく、けっきょく生涯、独身で過ごさなければならなかった画家は生活者として落第であっただろう。好きな絵を描くために貧しい画家は苦難に耐えた。けれど絵の具には、収入に見合わない高価な良質のものを使っていたことが判明している。そして、その絵の具は画家に親しい知人・友人が無償で与えていたことも分かった。押さえるところは遺漏なく書き留めている。
▼冨山房インターナショナル刊。2200円。
*余談だが、筆者(上野清士)の拙著『ソビエト新事情~ペレストロイカとリーボック』(旧題「国境の神々」)の第2部でピロスマニを訪ねたグルジア紀行を書いている。

書評 『ユートピアの崩壊 ~ナウル共和国』

書評 『ユートピアの崩壊 ~ナウル共和国』
   リュック・フォリエ箸/林昌宏・訳
ナウル共和国

 南太平洋の小さな島国ナウル。国連加盟国としてモナコ公国についで小さく、共和国では世界最小とか……。
 車で30分もあれば一周できる国土面積、人口は約1万人。そんな国が世界で一番の富裕国だった時代がある。しかも、その豊かさは尋常ではなかった。常軌を逸していた。1970年代から90年代前半のわずか20年のこと。おとぎ話のような“栄華”があったが、あまりにもはかないものだった。その顛末記が本書のタテ筋。
 主役は、この島国の唯一の資源リン鉱石。太古の昔からサンゴの死骸の上に海鳥が飛来して糞をし、その長大な時間がつくりだした糞の堆積がリン鉱となった。こうした島はペルー、リマ沖にもあって同国経済を大いに潤した
歴史がある。
 ナウルのリンも純度の高い良質鉱、これに目を付けた先進国は当然、資源の独占を巡って覇を競う。
 1968年の独立後、英連邦の構成国と留まった。その関係から、隣国オーストラリアは農業の肥料にと投資を開始する。ナウルのリンがいちばん収益を上げたのは70年代初頭の第一次オイルショックの時代で、年間9000万~1億2000万ドルの可処分収入があった。人口が1万足らずの国にさばき切れない外貨があふれた。政府は島民に、いや国民に大盤ふるまいをはじめた。
 無税、教育・医療費はただ。国外留学費も国費負担。国民は金の使い道に困って、必要もないのに高級外車を輸入し乗り回し、少し調子が悪くなれば買い換える。その車で中国人が経営するレストランに乗りつけ食事をする。国民の大半は自分で調理することも放棄し、伝統食も忘れられた。ナウルは飽食によって国民の多くが糖尿病に蝕まれた。家の掃除まで国が面倒をみるという過度な「福祉」は国民を怠惰の極みに落とし込んだ。そんなことが連綿と報告される。みな事実だから怖い。
 リン鉱という有益な資源が国際市場で高値で取引され、極小国もグロバリゼーションの翻弄されたのだ。ありあまる外貨を適正に、そして資源が枯渇したあとの時代に備えての準備する政治がなかった。独立とどうじにリン鉱
バブルがはじまり、政治が成熟する前に金だけあふれた。政治は腐敗した。それを糊塗するため国民を金で愚弄したのだ。
 現在、ナウルは外国の援助なしではやっていけない国になった。かつて高級外車を満たしたガソリンも、いまは欠乏状態で、停電は常態化。リン鉱の開発で土地はめちゃくちゃにされ農産物の栽培もままにならず、国民は岸辺
で魚を獲って飢えを凌ぐようになった。銀行には金がなく、国民は貨幣の介在しない物々交換で暮らしをやりくりさせるようになった。糖尿病の治療に不可欠な節制が、国の貧困とともに否応なくやってきた。
▼新泉社刊。1800円。
 

『サツマイモと日本人 ~忘れられた食の足跡』

『サツマイモと日本人 ~忘れられた食の足跡』 伊藤章治著

 スペイン語でトマトを「トマテ」、トウモロコシを「エロテ」、チョコレートを「チョコラテ」、そして、サツマイモを「カモテ」という。他にもあるが以上で十分だろう。まず、その語尾に注目して戴きたい。皆、「テ」TEで終わる。これはメキシコ中央高原に住んでいた先住民言語のナワトル語起源を意味する。アステカ帝国の公用語であった。
 エルナン・コルテスがアステカ帝国を滅亡させ、その地にスペイン副王領を建ててからスペイン人も食し、栽培法を学びヨーロッパにもたらされた貴重な作物であることを示す。
 やがて、カモテ、いやサツマイモは痩せ地でも容易に繁殖し栄養価も高い救荒作物として認識されると、たちまちユーラシア大陸各地に伝搬してゆく。
 日本にもたらされたのは1597年、中国から現在の沖縄県宮古島にはいったのが最初といわれる。コロンブスの新大陸到達から約100年後、日本にも現れた。
 本書は、日本に流入してからいかに日本人の飢えを救ったかをつまびらかにした好著である。その救荒作物を象徴するエピソードとして第二次大戦中の南方戦線、補給路が伸びきった孤島に残留させられた日本軍将兵は飢餓におちいる。その飢えをしのぐために植え付けられたサツマイモの話が出てくる。そのサツマイモは沖縄で品種改良された、熱帯の地の栽培に適した「沖縄100号」であったと解かれる。そして、沖縄とサツマイモの話にもどって、日本列島を北上していきながら日本の歴史と文化におけるサツマイモのありようを鮮明化させるという内容だ。簡素で分かりやすく説得力に富んでいる。
 ナワトルの地メキシコ中央高原での現在のカモテの位置はじゃがいもほど高くない。
 アステカ時代は菜食が多かったはずだが、スペイン文化の定着によって肉食嗜好となったメキシコ料理ではじゃがいもほうが合うのだ。これは日本の戦後食事情を説明する著者の記述のなかでも象徴的に提示されている問題で、高度成長を迎えた昭和40年代に日本人の食生活が激変する。
 日本でサツマイモとじゃがいもが栽培されるようになってからずっとサツマイモが作付け面積でも収穫量でも多かった。それが昭和43年に逆転する。日本史のなかではじめてのことだった。以来、年々、じゃがいもの収穫量はサツマイモとの差をおおきくしていく。それは肉の消費量と軌を一にする現象である。メキシコで起きたことが、日本でも同じように起きた。 ▼PHP研究所刊・760円

書評『ナマコを歩く』 赤嶺淳・著

書評『ナマコを歩く』 赤嶺淳・著
0915-1.jpg

 中国は昔もいまも世界一のナマコ消費国だ。特に開放経済の下、右肩上がりで経済力をつけるのと軌を一にして高級食材のナマコの輸入量が増えた。世界中の浅い海に棲むナマコは中国人の豊かな舌を目指して乱獲されるようになった。その弊害を論じながら、ナマコ漁をルポしたのが本書。
 ガラパゴス諸島(エクアドル)ではナマコ漁を巡って「ナマコ戦争」と呼ばれる紛争が起きた。1991年、同島でのナマコ漁がはじまった。当時、どれくらい漁獲高があったのか正確な数字はないが、たとえば乱獲が規制された94年の調査では、たった2カ月間で1千万尾が漁獲されたというから、規制のなかったときの漁獲高はそうとうなものであったはずだ。ナマコは同島で輸出向けに乾燥された。その間、漁民たちは自分たちの食を満たすため保護動物のゾウカメを捕獲して食べた。恐ろしい話だが、こういう話は世界中にいくらでもある。
大航海時代、西欧の船乗りたちは実に贅沢に未開地の動物を食して回った。大航海時代とは世界中の珍獣・珍鳥のなかで肉が美味だったために絶滅するか、絶滅種になった生態系激変した時代でもあった.
ガラパゴス諸島もそういう時代に〈発見〉され飲料水と食料の補給基地となった。その諸島で捕獲された動物たちの数を誰が知る・・・。
 そして今日のグローバリゼーションは生き物になくてはならない水、そして空気まで汚染して時代ということになるだろう。そしてこの時代、中国経済の肥大化は、中国人の舌をさらにどん欲させ、ついにダーウィンの島まで侵す、という話だ。
 ガラパゴスを国際的な観光地として外貨稼ぎのために整備したのは政府であり大手観光業者であった。ゆえに島は荒れた。ツーリズムに迎合して“自然保護”を旗頭にエクアドル政府は零細漁民を追い出すナマコ漁規制を制定した。それに対し漁民はゾウガメの殺戮も辞さないと抵抗したのが「ナマコ戦争」。結果、捕獲量を制限することによって漁民の生存権は守られた。
 ナマコを通して中国経済の肥大化が及ぼす世界の食糧事情の変遷を知る。と同時に環境保護派の訴える「保護」がときに地元住民の文化と相容れないドグマ的な「正論」である、と告発される。世界の現在を知る労作だ。    ▼新泉社刊。2600円。

書評 広河隆一『沈黙の未来  ~旧ソ連「核の大地」を行く』

書評 広河隆一『沈黙の未来  ~旧ソ連「核の大地」を行く』
 41qTLt8NUxL__AA115_.jpg

 地震は人間の力ではどうしようもない天災ではあるけれど、原発事故は人災である。東電や国は“想定外”の地震・津波を予測しきれなかったと弁明した。しかし、過去、おなじような規模の津波が東北沿岸地帯を襲ったことは過去のデータで実証されている。伊達政宗の時代に仙台近辺の沿岸が津波で襲われ、その教訓をいかして江戸へ通じる街道が整備され、今回の津波では、その街道の手前までしか津波はこなかった。先人の教えが活きた。つまり、福島浜通でも今回のような大津波はじゅうぶん予測できた。虚心に歴史を学べば、それに基づいて防災計画ができたはずだ。原発の立地候補地として選定事業をはじめたとき、歴史資料も検証されなかったとすれば、それ自体が“人災”である。
 本書はチェルノブイリ原発事故の災厄と、冷戦時代、核兵器開発の拠点として政府の厳重な管理下に置かれ、外国人が近づくこともできなかったウラル地方チェリャビンスクで起きた核爆発の現場を取材したものだ。ふたつの事故現場の取材を通じて告発されるのは、ともにさまざまな“人災”である。
著者は社会派のフォトジャーナリストとしてパレスチナ問題の追究で地道な成果をあげてきた人。その広河が繰り返し取材してきた中間報告として提出した記録だ。
病床の子どもたちは自分の耐えがたい痛苦の原因を語るすべはない。だから広河は親や医師、看護婦、さらに人権団体の職員などにインタビューを通して子どもたちの声を代弁する。あくまで被災児童が主人公である。
 取材するなかでさまざまな政治の弊害、加害責任まで問われてゆく。
 原発が人間にコントロールされることが前提で開発・設計されたものなら、いったん事故が起きた場合の措置も人間が処理することになる。しかし、原発でいったん事故がおきれば、その時の天候次第で被害地域は変動してしまう。ひとはその天候を基本的に制御できない。地震が制御できないのとおなじだ。
 本書には恐ろしい話がたくさん語られている。放射能を含んだ大気が風向きでモスクワ方面に流れることを防ぐためクレムリンは人口雨を降らせ、そのためベラルーシの汚染が拡大した、というようなまことしやかな話。事実は壮絶である。広河は幾度も同じ地域を繰り返し取材しているが、広大な汚染地域からみればほんの一部に過ぎない。それでも核事故の被害というものの底なしの怖さを抑えた文章で綴っていく。私観をできるだけ避けるために現地の人たちの証言に多くを語らせている。そこで浮かび上がってくるのは、被曝した被害者の生命すらも科学データとして扱い、治療を怠ることによって被曝による人体への損傷状況をデータしているのではないかと疑われる事象なども書き込まれている。軍事優先下で核事故を隠蔽するために放置されたちるチェリャビンスク被爆者たちの悲劇……。
 ウラル地方の巨大核事故の事実は、ソ連邦崩壊前から米国をはじめ西側諸国もその実態を知っていた。しかし、自国の核兵器開発を推進するための世論操作として、それを公にすることはなかった。しかし、西側へ亡命したソ連の科学者が『ウラルの核惨事』と本を書き、それは日本でも翻訳された。だが、それを検証するため冷戦下では取材はいっさいできなかった。広河はソ連邦解体後に、ロシア当局と粘り強く交渉して取材に入った。その報告が本書の第一部であり、チェルノブイリ関係の取材は第2部に収録されている。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。