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カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №6 「没後30年のジャマイカ」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №6

 ボブ・マーリーの死から三〇年が経った。
 ジャマイカは彼が希求した国になっているだろうか? 答えはNO、暗然たるものだ。
ボブ終り

 ボブ・マーリーがガンを宣告された一九七七年、ジャマイカは経済危機を乗 り越えようと国際通貨基金(IMF)からの融資を受ける。しかし、IMFは融資にあたって必ず付帯条件をつける。それは当該国の喉元を押しつぶすような構造調整プログラムだ。
 通貨の切り下げ、公営事業の売却・民営化、公務員の人員削減、社会・福祉・教育予算の縮小等々。これによって失業者が増え、社会的弱者は困窮の度を加える。IMFは通貨の切り下げによって輸出力が増す、と説く。外貨収入が増える、と諭す。外資が参入しやすい条件が満たされると新たな産業が興され、失業者はそこに吸収さ れると説明したりする。しかし、いずれもIMFの主張は裏切られる。
 輸出より、輸入が促進される仕組みでもある。関税の撤廃によって輸入が加速するからだ。ジャマイカで生産される農産物より、米国産の輸入品の方が安くなる。米国は農業生産者に補助金を出している。市場経済を主張する一方で、国内のアグリビジネスを保護する。農産物に戦略的な価値を見いだすからだ。いまは日本ではTPP(環太平洋経済協定)が問題になっているが、関税が撤廃されれば経営基盤の脆弱な生産者は疲弊するだろう。
 実際に、ジャマイカ国内で生産される牛乳より、米国やカナダから入ってくる粉ミルクのほうが安いということが起きた。タマネギ、じゃがいも多くの生産農家が廃業に追い込まれるか、転作を強いられた。この三〇年、農業は衰退した。食べていけなくなった農民は都市の スラムに最後のよりどころを求めて入っていく。
 ここ一〇年と区切ってジャマイカをみれば、大型ハリケーンによる自然災害、石油の高騰や世界経済の減速などによって社会不安は加速している。

 ラテンアメリカに関心のある読者ならすでに常識と思うが、いま多くの国が米国流の市場経済、グローバリズムによって所得格差が拡大し、困窮世帯が激増した反動もあって、多くの国の政府が左傾化した。
 その急先鋒が反米主義を声高に唱えるウーゴ・チャベス大統領を戴くベネズエラだ。これに米国から経済制裁を受けるキューバが連動し、ボリビア、エクアドル、ニカラグアが加わり米州ボリバル同盟(ALBA)という経済協力機関ができた。反米同盟だ。もともと米国が競争原理に基づく市場経済優先の地域統合 構想「米州自由貿易地域」を米州諸国に押しつけようとしたことへの反発からうまれた。米州域内最大の石油産出国ベネズエラ、資源大国のボリビア、エクアドルも連帯したことによって米国も無視できない政治的同盟となった。

 現在、石油を輸入に頼らざるえない域内の小国へ、ALBAの資源国は友誼的な価格で提供して経済的苦境を助けている。キューバはベネズエラから石油を受け取る替わりに、人的資源の豊富な医師や初等教育の専門家を長期派遣した。現在、カリブの小国ドミニカ連邦、アンティグア・バーブーダ、セントビセント・グレナディーンの三国も加盟し、石油を友誼的価格で輸入している。このカリブの三国はジャマイカとおなじく英国から独立した後、英連邦に留まり、カリブ英語圏諸国を中心とする地域機構カリコム共同体に参加している。小国3カ国が、英国はもとより米国との関係に亀裂を生むことを覚悟しつつALBAに加わった。もし、ボブ・マーリーが生きていたら、ジャマイカも参加せよと訴えたに違いない。ハバナでのボブ・マーリー顕彰もジャマイカに対し、ALBAへの加盟を促すメッセージであったかも知れない。 (2013年記)
 
 *追記 世界経済の変異は急激だ。世界経済の減速と石油の生産過剰によって、石油価格は下落した。ベネズエラは石油生産国にも関わらず国内消費用のガソリンすら不足し、電気の供給すら怪しくなった。チャベス時代に計画的なインフラを整備してこなかったツケが回ってきた。すでにALBAは機能不全に陥っている。
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カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №5 「祖国、ジャマイカへの愛惜」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №5

 日本でレゲェが定着した要因は幾つもあるが、全盛期のジミー・クリフが主演し、ジャマイカン・パトワ(クレオール英語)が意識的に用いられたと思われる映画『ハーダー・ゼイ・カム』(一九七二年)の存在は大きいだろう。主題歌はジミーの代 表的なヒット曲ともなった。前回、取り上げたミリー・スマイルのヒット曲は、彼女の母語、濃厚なイントネーションを肉体的言語としていたジャマイカ・パトワを徹底的に矯正した後、録音スタジオ入りしたという記録がある。
 映画『ハーダー・ゼイ・カム』のラストシーンは暗示的だ。
 ジミーが演じるのは首都キングストンのスラム街を根城とするストリート・ギャング、チンピラやくざ。瀕死の重傷を負ったチンピラは、ジャマイカには絶望しかないと海に泳ぎだし、たどり着けるはずもないキューバを目指す。「自由を求めて」と……。ジャマイカではそんなオチも不自然さをともなわず受容されていたのだ。

 ソ連解体後のキューバは経済の苦境を打開するために観光業に力を注ぎ、外貨を稼ぐ重要産業とした。カリブ諸島をめぐるクルーズはハバナや、キューバ革命の揺籃の地サンチャゴ・デ・クーバの港にも入るようになった。その豪華客船はジャマイカのリゾート地モンテゴベイにも周航する。そして、そのモンテゴベイはこの 国の矛盾がきわまる地である。経済の歪み、貧富の差、グローバリズムの弊害が屹立するところだ。
 モンテゴベイの港から発車する外国人観光客を乗せた観光バスは、しばらく走るとT字路に出る。バスは決まって左に曲がる。そして港で働く労働者を乗せた公共バスはそのT字路を右に曲がる。左に進めば五星ホテルがすばらしい海岸を占有して外国人観光客を迎える。右にいけば狭い土地に軒低い家が密集するモンテゴベイの町となる。その町では少し前までLP盤のボブ・マーリーの国内プレス盤の初期アルバムが売られていた。否、いまも売れ筋かも知れない。ボブ・マーリーのレゲェはすべて、T字路の右側で暮らすモンテゴベイの民衆のために書かれている。左側はボブがバビロンと指弾した虚飾の世界だ。
 
 生前のボブ ・マーリーは有権者として、低所得者層を基盤とする政党・人民国家党(PNP)に肩入れした。ジャマイカにはこのPNPと、右翼の労働組合が組織し、英国系白人や中流商店主、黒人エリート層などを支持者とするジャマイカ労働党(JLP)の二大政党制だ。
 一九七二年の総選挙でボブ・マーリーは、PNP党首のマイケル・マンリー候補を積極的に支持し活動する。マンリー党首が選挙前に訴えていた社会改革の提言、貧困層に対する道徳的共感にシンパシーを感じていたからだ。そして、PNPは選挙に圧勝する。
 マンリー首相は選挙で圧倒的支持を背景に段階的に社民主義的な政策を実現してゆく。大農園の休耕地など接収して農民へ貸与する土地改革、多国籍企業が握っていた電気・電話・ バス会社といった公的事業の経営を有償国有化してゆく。しかし、七三年からはじまったオイル・ショックによって、石油を全面的に輸入にたよっていた同国経済はたちまち悪化する。この経済危機を乗り越えようとPNPは、外貨収入の約半分を支えるボーキサイトの輸出権を確保するため米国やカナダの企業が握っていた鉱山の株五一%を収得する挙に出た。さらに、米州機構(OAS)から追放され、米国の経済制裁を受けているキューバ政府との緊密化も図った。こうしたマンリー政権の“左傾化”に対し、米国は反撥した。当時、米国は戦略的物資としてのボーキサイトをジャマイカに依存していたからだ。
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 米国の反撥を受けても民族主義的な政策を守ろうとしたマンリー政権ではあったが経済的には効を奏さ なかった。
 国内総生産高は七四年から八〇年までに一六%も下落し、失業率は二四%から三一%に急増した。マンリー政権の社民主義的手法も貧困化を助長するだけのものと民衆に写った。ジャマイカでは両党支持者のあいだで武装対立が悪化する。ボブも標的になった。マーリー政権の広告塔のような存在になっていたため、対立するJLPの支持者から銃撃されて怪我を負うのだ。
 マンリー政権はすでに末期症状だった。そして、八〇年の総選挙でPNPは大敗した。
 ボブ・マーリーはこの年秋、米国ツアーの最中にガン性脳腫瘍で倒れ、以後、活動は全面に停止する。翌八一年五月、死去。享年三六歳。夭折である。

 ボブ・マーリーがガンの宣告を受けたのは一九七七年、ヨーロッパ・ツアー中、ロンドンでの ことだった。それから療養生活を送りながらも、翌七八年四月にはPNPとJLPの政争で混沌とするキングストンで両党首を招いた「平和コンサート」と開催する。彼が音楽を通しておこなった最後の雄弁な政治的行動であった。
「自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず音楽を武器に単身、戦っている」と、ボブ・マーリーは語った。
 「革命家」が孤高の道を歩むとき、それは非業の死への近道である。
 ボブのレゲェをグローバル言語による英語歌手という見方は止めた方がいい。むしろ、カナダ、米国を除く南北アメリカの第三世界、発展途上国から出た“民衆の声”、その代弁者として見なすべきだろう。

 ボブ・マーリーのレゲェに近いのは英国のポリスや、日本のレゲェ・ミュージャンではありえない。
 チリでピノチェットの軍事クーデターの最中、ギターを持つ手を銃底でうち砕かれ暗殺されたヌエバ・カンシンオン(新しい歌)運動の担い手であった歌手ビクトル・ハラ、アルゼンチンの軍政の不正に対し、“母なる声”として歌うことを止めなかったメルセデス・ソーサ、ニカラグアのソモサ独裁 政権から追放された“ギターを抱えたゲリラ”カルロス・メヒア・ゴドイとその一派、メキシコで長年に渡って権力と戦ってきたオスカル・チャベスとその一党、米国ヒスパニック社会の若者たちに民族的アイディンティテイの覚醒を促し、米国にあってスペイン語で歌いつづけ夭折し“テハーノ(メキシコ系テキサス人)の女王”セレーナ……南北アメリカにはボブ・マーリーの戦列に連なる音楽の闘士、社会的不正を指弾するヒーローたちに事欠かない。その系譜に重ねるとき彼ボブ・マーリーの位置は鮮明化する。  (つづく)

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №4 「キューバにおけるレゲェ」

カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №4

昨年(2012年)一〇月二二日、キューバの首都ハバナで、ボブ・マーリー没後三〇周年を記念するコンサートが行われた。
 ボブ・マーリーの業績がキューバで栄誉が与えられるのははじめてだ。この国で英語圏の歌手が顕彰された事例として筆者は米国の黒人歌手ナット・キング・コールしか知らない。例外というなら、十年ほど前にジョン・レノンの銅像がハバナ旧市街の一角に建てられているが、それぐらいなものだ。
 コンサートに先駆けて記念アルバムも制作された(ちなみにビートルズに関してキューバでもトリビュー・アルバムが制作されている)。ボブ・マーリーを顕彰するアルバムはロベルト・ガルシアという作曲家が「ノーウーマン・ノークライ」「コンクリート・ジャングル」「アイ・ショット・ ザ・シェリフ」などをソン、ルンバ、ヨルバ、チャチャチャなどキューバ・テイストで編曲して構成したものだ。キューバの音楽家は、ボブの歌を古典的なカリブの伝統音楽の形式に置き換えることによって、彼の汎カリブ性を明らかにしたのだ。

 冷戦時代末期、それはボブ・マーリーの最盛期であった。その時代、“ベルリンの壁”は世界中に現存していた。キューバでは、南の隣国でありながらレゲェはリアルタイムでは聴かれなかった。しかし、“壁”が消えた今日、レゲェを母胎とするレゲトンはニューヨークのヒスパニック社会とどうようにハバナの若者のあいだですっかり定着し、周辺国の旬なレゲトンもリアルタイムで聴かれ、自分たちも発信している。レゲトンはスペイン語圏におけるヒップホ ップといえるが、ラテンアメリカでは先住民社会の若者まで、アイディンティティの誇示、先住民権限の拡大を目指すメッセージ性を蓄えながら増殖している。それはボブのレゲェの直系であろう。

 このレゲトンの創始者のひとりといわれているのがパナマのアフロ系歌手エル・ヘネラルだが、彼の祖父母世代は、米国がパナマに運河を建設する際、ジャマイカを中心とする西インド諸島から大量に募られたアフロ系労働者であった。その移民労働者はそれぞれの故地の伝統音楽を内に抱えて運河建設の現場にやってきて寝起きをともにした。彼らは過酷な労働の合間、あるいは酒場の気晴らしで歌い踊っただろう。そうした歌がパナマにもともとあったアフロ系音楽としてのバジェナードやクンビアに融合して いった。そんな土壌を背景にエル・ヘネラルという才能が出てきた。

 キューバではジャマイカから旧宗主国のイギリスに出て、そこから世界制覇されたレゲェには冷ややかだった。もっともレゲェを導入しなくてもキューバには豊潤な音楽世界があったともいえるが、カリブの周辺国、たとえばハイチやドミニカ共和国、あるいはプエルトリコの音楽は積極的に取り込んできた歴史もあるし、革命前は、一衣帯水のフロリダ半島から米国ポップスをリアルタイムで消費してきた国である。
 革命後、映画『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』’ヴィム・ヴぇンダース監督)で知られるように、キャバレーや盛り場の消費音楽としての大衆歌謡は冷遇され、革命時代の音楽としてヌエバ・カンシオン(新しい歌)の運動が起きた。ボリビアで死んだチェ・ゲバラを称える歌が 、その運動のなかで書かれた。
 ゲバラがニューヨークの国連総会で戦闘服姿で壇上に立ち、舌鋒鋭く新植民地主義、帝国主義を第三世界の立場から指弾した演説は一八六四年、ボブ・マーリーがジャマイカでスターとなった時期だ。しかし、レゲェではなくスカのリズムだ。
 その六四年、録音当時15歳(年齢には異説あり)だったジャマイカ人ミリー・スモールが英国ロンドンで吹き込んだ「マイ・ボーイ・ロリポップ」がスカと認識されることなくヒットした。スカによる最初のグローバルな成功作だ。日本でもかなり売れた。全世界での売り上げた700万枚を超えたといわれる。
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 この「マイ・ボーイ・ロルポップ」のヒットはその後のレゲェの歴史に大きく関わってゆく。何故なら、創設間もないアイランド・レコードの経営に安定をもたらし、ジャマイカのアーティストを積極的に活動の場を与え、1973年以降、遺作までボブー・マーリーのアルバムが制作・販売することになる。
 ジャマイカの若いミュージシャンたちはミリー・スモールの成功で、自分たちの音楽が世界に通用することを知り、英語の汎用性をも見直されたのだ。スカのリズムは「バナナ・ボート」のメントのように通用することを認識したのだ。

 レゲェにもビートルズにも距離をおいてきたキューバではあったが、チェ・ゲバラは中欧チェコの滞在先のホテルでビートルズのレコードを聴いている。
 アフリ カの反植民地闘争に加担するも、同地の“革命兵士”に幻滅し疲労したゲバラはキューバに帰還する前、プラハに数ヶ月滞在中、ビートルズのレコードに耳を傾けている。ビートルズの作品のなかにあって唯一、レゲェの影響を受けているといわれる「オブラディ、オブラダ」が録音される二年前の話で、ボブ・マーリーが「スタジオ・ワン」で精力的に録音を遺した年だ。時代の英雄たちは時空を超えて錯綜する。
 キューバがレゲェに理解を示しながらも一定の距離をおかざる得なかったのは、ボブ・マーリーに顕著に体現されるラスタファリズムの属性としてのドレッドヘアーや、ときにドラッグも使うことへの忌避感であっただろう。しかし、アフロ系宗教としてのラスタファリズムそのものへの忌避感は 少なかったはずだ。なぜなら革命政府はハイチのヴードゥー教の系譜につらなるサンテリアの信仰を黙認していたし、西アフリカを起源とするヨルバ系文化をキューバの多様性を誇るものと見なしていた。ラスタファリズムの根っこにあるアフリカ回帰願望は、出自をアフリカの地に求めることから生じるものだが、これはヴードゥー教、サンテリア、ブラジルのカンドブレなどアメリカ地域に暮らすアフロ系市民たちの民族信仰の心性に通底するものだ。 (つづく)

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №3 「マーリーの血の覚醒」

カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №3


 一九六二年、ボブ一七歳で遭遇する祖国ジャマイカの独立は、すでに歌で生きていこうと人生の目標を定めていた多感な少年を刺激する。しかし、最初から、たとえば独立した祖国の国づくりに役に立ちたい、社会参与したいという意思があったわけではない。それは後年のことだ。彼の名声と歌の実力がジャマイカ人として、独立以来の政治的騒擾に疲弊する母国の現状を批評し、和解を説くようになるには、まだ歳月を必要とした。

 ボブ・マーリーのレゲェが内に抱えるメッセージの強さは、レゲェそれ自体の特質ではない。マーリーが資質が獲得したものだ。しかし、カリブ音楽の伝統に即してみれば、違和感のないものだ。
 ニューヨークのヒスパニック社会の下層音楽だったサルサが、やがてパナマ生まれ のルベン・ブラデスによってカリブの歴史が歌い込まれたとき、サルサもまたカリブの伝統音楽としての社会性を獲得するのである。

 ボブ・マーリーは、自分の体内を流れる二つの血、支配者の英国人の血(父)と、被支配者のアフロ系の血(母)を意識することによって、思想性を獲得したといえるだろう。その血の混淆はグローバリズムの軋轢を象徴する。そして、ボブは母方の血にアイデンティティを求めた。それはアフリカ性を模索することであり、エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝(当時)を“生き神”と崇めるラスタファリズムに帰依していくのは必然的な帰結であった。

 ジャマイカが英語圏であり、その公用語として英語を歌詞とするレゲェであったために、そこにカリブの伝統音楽としてのア フロ性より、英米ポップスの枠組のなかで語られることが多いが、それは一面的なみかたである。日本の旧来のレゲェ評はその文脈で語られきた。そして、その語り手に痛痒感はないようだ。

 米国の黒人奴隷は英語を強いられ、キューバの奴隷がスペイン語を強いられ、ハイチの砂糖黍畑で強制労働させられる桎梏の人間がフランス語を強いられたように、ジャマイカの奴隷たちにとっても、英語は強いられた言語である。いわば“用の具”としての言葉であった。しかし、その借り物の言葉をのせるリズムはアフロの魂なのだ。その意味でも英米ポップスの枠のなかに充足してレゲェを語るのはおかしい。

 支配階級と被支配階級の二つの血の親密な邂逅から生を受けたボブ・マーリーはジャマイカ独立の一九六二年、「ジャッジ・ノット」でデビューする。翌年にはウェリング・ウェイラーズ結成し、ウェイラーズの骨格をつくる。そのウェリング・ウェイラーズの初録音 が、「シマー・ダウン」。レゲェではなくスカのリズムで唱われた。それはキングストンのスラムを徘徊する怒れる青年たちのリズムであった。
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ボブはまだ尖っているだけの少年に過ぎなかったが、音の言霊は飛翔の時季をまっている。やがて、ラスタファリズムという触媒を得て、彼の音楽はソウル・レベルに押し上げられてゆく。それから後の彼の活動は、この本のなかで他の筆者が詳細に論述していくだろうから、筆者は別経路をたどることにしたい。

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №2 「メントからスカ、そしてレゲェ」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №2

 ジェノバ人コロンブスが「インディアンス計画」という建白書をカスティーヤ女王イサベラに提出し、認可を受けて行われた航海でカリブの島が見出されたとき、世界史ははじめて地球大で動き出す。
 レゲェという音楽の芽もコロンブスの時代に種が蒔かれたといって良い。その意味ではキューバのソンやマンボ、ドミニカのメレンゲ、ニューヨークのプエルトリコ人社会で育まれたサルサ、ブラジルのサンバ、コロンビアのクンビア、そして米国南部の黒人共同体から生まれたゴスペルもみなおなじだ。

 中央アメリカ ・カリブ圏の音楽世界をアカデミックに研究し成果をあげているのはメキシコとキューバ。両国とも公的な研究機関を持ち、メキシコにおいては国際的な会議を実際の演奏集団を 招きながら定期的に開いている。カリブ諸島の音楽研究ではキューバが先行している。学術的な本だけではなく一般的な普及書も多く入手しやすい。そうした本では、レゲェを他のカリブ音楽とおなじスペースを割き一章を立てている。
 日本ではレゲェをキューバ音楽はむろんのこと、非英語圏のカリブ諸島文化との連環、あるいは対比的に考察されることはほとんどないが、カリブ人自身は文化的同質性を見出して語っている。レゲェ以前のジャマイカの大衆音楽であったスカ、メントもまたどうようの扱いだ。

 ボブ・マーリー以前、音楽の世界、否あらゆる分野といっても良いと思うが、ジャマイカ人として最初の成功者となるのは米国ニューヨーク生まれのハリー・ベラフォンテだろう(母がジャマイカ人、父が仏領マルティニック出身)。父母の出自が象徴しているようにアフロ系カリビアンの象徴といえるような存在である。彼の最大の ヒット曲はいうまでもなく「バナナ・ボート」。ジャマイカのメント音楽に由来する。メントは黒人奴隷の歌としてはぐくまれた。「バナナ・ボート」はバナナ畑で働く下層労働者の心情を仮託した唄である。
 180px-Harry_Belafonte_Almanac_1954_b.jpg若き日のベラフォンテ

 メントに限らずカリブ圏の民謡、大衆音楽の大半が黒人奴隷と結びつく。労働の日々に発生し少しづつ変容しながら独自の形式をもつようになった。炎暑のなかの辛い労働を慰撫し、自らを励ますための歌だ。そして、夜の慰安にはアフリカへのノスタルジアをかき立てるリズムを奏で没我のなかで踊った。
 「バナナ・ボート」は応答歌の形式が採用されらワークソングだ。先唱者が主題を歌い出し、合唱がその主題を繰り返したり、合いの手を入れて先唱を鼓舞するという形式だ。カリブの典型的な伝承歌の形式 でもある。また、メントには、いわゆる「新聞読み歌」としての効用もあった。いわゆる情宣歌だ。識字率の低かった時代には、歌で情報を伝える役割があった。必然、政治的メッセージを折り込みやすい。この形式はメキシコの革命時代にも盛んに採用された。その形式をコリードという。日本でよくしられた『ラ・クカラチャ』はその代表的な歌だ。

 ボブ・マーリーはスカというジャマイカ生まれのリズムを採用して歌いはじめ、プロミュージシャンとして踏み出す。そのスカからレゲェへ転進したとき、彼のレゲェはカリブの伝統的な応答歌の形式を取り込み、メッセージ性の濃い情宣歌になっていく。
 同時代、ボブ・マーリーと人気を分け合ったジミー・クリフは個人活動の歌手だった。いわゆるバックコーラスを必要としないレゲェを唱った。そのぶんカリブ的伝統色は希薄だった。けれど、ボブ・マーリーはウェイラーズという手勢を持つことによ って、メントに近い応答歌、伝統形式としてのレゲェを創造したのである。
 一九六二年、ボブ一七歳で遭遇する祖国ジャマイカの独立は、すでに歌で生きていこうと人生の目標を定めていた多感な少年を刺激する。しかし、最初から社会参与しようという意思があったわけではない。それは後年のことだ。彼の名声と歌の実力がジャマイカ人として、独立以来の政治的騒擾に疲弊する母国の現状を批評し、和解を説くようになるには、まだ歳月を必要とした。

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №1「承前」

カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №1

 カリブ海には「島」を表す言葉が二つある。
  *本稿は、数年前、『文藝』(河出書房新社)の特集号に掲載したものである。長文なので、些少、手を加えながら数回にわけて掲載する。


〈承前〉
 アイランド、そしてキーcaye。ヘミングウェイが自ら命を絶った猫屋敷は、フロリダ半島マイアミの南端から延びるハイウェイのどん詰まり、カリブ海に浮かぶキー・ウェスト・・・そのキーの形状は日本列島を取り巻く島嶼には存在しないものだ。サンゴの死骸が堆積して造られた標高がせいぜい二~四メートルの平たい陸塊。ハリケーンが飛来すれば、波が扇状にひろがって島を横切っていく。カリブ海には約七千の島があるといわれるが、小さなキーを含めれば万を超えるだろう。キーまで網羅した地図はいまだかつて作成されたことはないだろう。

 コロンブスの発見航海によってカリブの島が西欧諸国に知られるまで、アイランドとキーはタイノ 族を中心とする先住民の生活圏だった。ジャマイカという国名もタイノ族の言葉、「ザイマカ(森と水の国)」から来ているといわれる 。キューバはカリブでいちばん大きな島で、(海、または地域の)中心を意味する「クバナカン」というタイノ族の言葉に由来するといわれ、ハイチは「山ばかりの土地」を意味する。
 英国もスペイン、ポルトガル、フランスもオランダも先住民の言語を尊重しなかったが、カリブの新興国は絶滅した先住民の言葉(文化)を国名という最上級の名誉を与えて後世に遺贈したのだ。

 ジャマイカとハイチ、そしてドミニカ共和国などは西アフリカから“搬入”された奴隷を祖先とする人たちが圧倒的多数派だ。キューバもアフロ系市民は混血層を含めて多数派、この国のあらゆる文化に芳醇な鋭気を与えている。ハイチはフランス植民地軍と困難な戦い経て、史上初のアフロ系市民の共和国となった。その時、父祖の地・西アフリカのヨルバ系の言葉ではなく、絶滅した先住民の言葉を選び、そして戴 いたのだ。

 カリブ諸島の先住民文化はほとんど知られていない。西インド諸島を征服したスペイン人が書き残した資料はラス・カサス司教の記録を除けば、思いこみと偏見、さらに悪意に満ちている。
 「新世界」がスペイン、ポルトガルの蛮勇によって血なまぐさい侵略・征服の戦いがつづいている最中、先住民に寄り添い、その解放と人権擁護のために生涯を捧げ、ゆえにスペイン植民者と敵対することになるラス・カサス司教の膨大な著述にしても科学的実証性ということでは危うい。ただ、ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴにある博物館にはタイノ族が残した土器などが多数収蔵・展示されていて、虚飾のない質朴な生活のよすがは想像できる。

 今日、カリブ域内において先住民が島の主人公となっているのはパナマ共和国のサン・ブラス諸島の クナ族だけだ。総人口が約五万といわれる先住民で自治権を持ち、現在も先住民言語を公用語とし、民族的習俗を守っている。一九二五年、当時、中央政府の冷遇を受けていたクナ族が武装蜂起して、それこそ民族の存亡を賭けた闘争を展開、実力で自治権を勝ち取った。現在、外交・防衛権をのぞく諸権利をクナ族が把握する。外交にして、筆者自身が見聞した事実だが、サン・ブラス自治区には南の隣国コロンビアの港町カルタヘナあたりからやってくる小さな商船と独自に公益しており、自治区から出て自治区にもどる限りビザの必要もないようだ。筆者自身、商船の船員からカルタヘナ観光にいかないかと誘われたことがあった。まだ、麻薬王パブロ・エスコバルが君臨している時代であったし、椰子の実を買い付けにきているという話をそのまま鵜呑みにはできなかった。コロンビア産のコカインがサン・ブラス諸島から中米地峡、メキシコ、さらにジャマイカあたりにも運ばれていくルートがあるはずだから。

 ジャマイカのタイノ族がおだやかに生活していた頃、現在のメキシコ南部、グァテマラやベリーズといったマヤ文明圏とも交流があった。アンティール諸島には人とモノが流れる航路が存在していた。メキシコ・ユカタン半島のマヤ文明の遺物が遠くプエルトリコの島で発見されている。しかし、カリブの海に精通していた先住民の船乗りも、アンティール諸島の東にひろがる大西洋に漕ぎ出しはしなかった。
 250px-Reconstruction_of_Taino_village,_Cuba キューバに復元されたタイノ族の集落

 カリブの富は豊かだった。インカの金、メキシコの銀はなかったが、豊かな自然は人を飢えさせることはなかった。自給自足していた。あらたな 富を求めて外洋に乗り出す必然性はなかった。したがって、カリブの島づたいの目視航海だけで事足りていた。この地域に飢餓を教えたのは大西洋を越えてやってきたカトリック教徒たちだった。

 一四九二年、コロンブスによって見出されたカリブ諸島の先住民は、アメリカ地域における最初のグローバリズムの犠牲者となった。
 スペイン人植民者から仕掛けられた理不尽な戦い、その後の強制労働、そして西欧人が持ち込んだインフルエンザなど先住民に免疫のない感染症によって壊滅的な打撃を受けた。「新世界」と「旧世界」の出会いは圧倒的な武力と経済力の差による対立からはじまった。コロンブスによって世界が海路で結ばれ、人とモノの行き来がグローバル化する。しかし、それは矛盾に富んだ出会いからはじまった。その歴史的な 発火点がカリブ諸島であった。

 カリブ諸島最初の独立国はハイチだが、旧宗主国、「自由・平等・博愛」の三色旗のフランスは産ぶ声をあげたばかりの小さな島国に巨額の賠償金を課した。新興独立国の数年分の国家予算に相当するものだった。その債務が今日、ハイチを西半球最大の貧困国に落とし込んだ。これが先進国が途上国を武力ではなく経済で支配する新植民地主義のはじまりだ。カリブ海はかつても今もグローバリズムに切り裂かれ血が吹き出す海なのだ。

 ジャマイカがスペインのコンキスタドール(征服者)ファン・デ・エスキベルによって征服されたのは一五〇九年、それからわずか五〇年足らずで征服時、十万を数えたといわれる先住民はほぼ絶滅した。ジャマイカの植民当局は先住民を持 続的な労働力として使役することに見切りをつけ、一五一七年には最初の黒人奴隷を西アフリカから移入している。そこにボブ・マーリーの母方の祖先がいたかも知れない。
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