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グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の六 帰国、そして再度の渡航へ

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の六 帰国、そして再度の渡航へ

 一ヶ月半を費やし六月、屋須を乗せた船は横浜港に入港した。
 岩手の故郷・藤沢に帰郷すると老いた母をともない上京、ただちに築地に写真館を開く準備をはじめる。屋須も不惑を越え、前半生の決算をつけようと考えていた。
 しかし、ここにまた運命のいたずらと遭遇することになる屋須であった。人一人の歴史にかくも「海外渡航」、しかも帰路はともかく向かう片道切符は無料、それも明治という時代に一市井の人であった男が関わった。それだけ、屋須にはそうした大事を迎え入れる才覚と幸運があったということだ。屋須の天性ともいえる言語能力の高さ、消化力が大事の受け皿になったわけだが、しかし、幸運とばかりはいえないだろう。晩年の望郷の念の強さは後味の悪さもつきまとう。

 屋須の帰国を待っていたかのように、この頃、南米ペルーのアンデス地方での銀山開発計画というのが具体化していたのだ。日本における最初の海外事業の試みとして明治産業史に載っているもので、当時、世間の耳目をあつめていた。この事業を推進するため日秘鉱業株式会社が設立された。代表は後年、二・二六事件で斃れることになる高橋是清であった。
 ペルーの銀山を日本人が経営し、採掘も日本人鉱夫がおこなうという当時の日本として遠大な計画である。高橋は鉱山技師、鉱夫ら17人をあつめた。そのなかに屋須弘平の名があった。

 「セニョール高橋から呼ばれ、ペ ルーでセニョール・ヘーレンと共同で鉱山を開発する計画を打ち明けられた。」

 高橋は、「外国での事業のことだから、その国の言葉に精通した者がいないと何かと不都合である。是非、同行してもらえないか」とつづけた。

 「私は承諾したが同時に老いた母の同意なしには不可能であるとも告げた。そこでセニョール高橋はある人物を母のもとに送り、説得させた」

 14年ぶりに帰国した屋須であったが、親子水入らずの正月を一度も迎えることなく、その秋にはふたたび船上の人となった。

 翌1890年2月、一行は難行苦行の末、標高5000メートルの高地にあるカウワク銀山にたどりついた。
 「非常に寒い、ことに塵寰(じんかん)を絶した高峰の奥深き所であるから、寂寥言語に絶するものがある。かねて覚悟はして来たものの、私は果たしてこんな所で仕事が出来るかと思った」(『高橋是清自伝』より)
img_0_m.jpg五味篤『銀嶺のアンデス -高橋是清のペルー銀山投資の足跡-』から

 銀山に到着から1ヶ月後、調査のための試掘などによって、すでに掘りつくされた廃鉱であることが判明、責任者の高橋は善後策を迫られ急遽、帰国することになった。そのあいだ屋須は、鉱山技師や鉱夫らとともに山に残った。
 3ヵ月後、東京へ戻った高橋から鉱山開発事業を停止するという連絡が山に届き、下山することになった。それからペルーの海の玄関、カヤオ港から帰国のためパナマに向かう船に乗った。その帰路の途上、屋須は懐かしいグァテマラに寄り道しようと思った。屋須にとってペルー行きという思いがけない長足の旅が与えれたのは、銀山開発こそ不調に終わったが、僥倖(ぎょうこう)といえるものだった。そして、この機会を利用して、三度のグァテマラ入りはありえないと思いグァテマラに立ち寄ろうと思ったのだ。
 パナマ港に着くと、数ヶ月、苦楽をともにした日本人一行から離れ、日本での再会を約束して、屋須は下船し独りグァテマラ行きの通船に乗り換えた。
 グァテマラに到着して友人知人と旧交をあたためている最中、隣国エル・サルバドルとの戦争がはじまった。外国船が入稿する港は軍事優先となり、いざ帰国しようという段になって出国ビザが発給されなかった。そうして無為な日々を過ごしているあいだに手持ち金も少なくなった。

 「それでグァテマラにしばらく留まることに決め、金をつくるためふたたび写真館を開業することにした。」

 「あらたに写真機材をニューヨークに発注した」という内容の手紙を日本の友人に書き送っている。それを読むと、旅費と帰国してからの事業資金を蓄えたらグァテマラを引き上げると考えていたこともわかる。
 写真館には以前の顧客も戻っただろし、腕の確かさはすでに大統領や大司教の肖像写真などの仕事で認知されている。以前の盛名は事業を後押しした。常識的にいって数年で帰路の船賃と、日本での写真館を開く資金も蓄えたはずだ。しかし、屋須はふたたび日本に土を踏むことはなかった。その大きな理由はグァテマラの女性の恋人ができたためだ。
 不可抗力でグァテマラと出会い、ふたたび戦争という個人の力ではどうしようもない波頭に翻弄されて滞在を余儀なくされた屋須であったが、今度ばかりは恋愛という自らの心の揺らぎによってグァテマラの地に根付くことを選び採ったのだ。彼女の名はマリア・アングロ・ノリエガという。
 マリアとの出会いは、屋須が再度、写真館を開業した時期、下宿していた家の娘であった。
 1891年、屋須はマリアと結婚する。本連載の第一回目のカット写真は、その結婚当日、屋須の写真館で撮られたものだ。 (つづく) *後日、補筆・訂正の予定。
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グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

 1880年、首都グァテマラ・シティに小さな写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開く。ハポネスとはスペイン語で「日本人」の複数形。
 屋須はここで写真技師としての腕を磨き 、時代を先取りする商才も発揮することになる。
 顧客の注文写真にこたえる傍ら、当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスの肖像写真を撮り、その原版を利用して小型の廉価版を大量に焼き増しすると、兵隊たちに手ごろな値段で捌(さば)いた。グァテマラは歴代、独裁的傾向の強い政治家が政権を担った。軍高官が繰り返し大統領の椅子に座っていた。バリオス大統領も軍人であった。兵士たちは上官への忠誠心を示す行為として写真を購入し、軍服の胸に収めたのだ。
 屋須がそうした廉価版写真を大量に売ることができたという事実は、大統領とそれなりの親交が確立していたことを証明することだろうし、閣僚たちも顧客にしていたことをうかがわせるものだ。つまり政権の後ろ盾があっておおいに繁盛していただろうということだ。
紙幣のバリオス大統領 グァテマラ紙幣に描かれたバリオス大統領

 バリオス大統領はグァテマラ史にあって大胆な改革をつぎつぎに実践した行動の政治家として特筆される。
 たとえば、カトリックが国教であった同国で、教会がもつ土地の没収、学校の非宗教化を断行した。そのことはカトリック諸国の近代史においても先駆的な試みで、先行例としてはメキシコで政治への介入が著しかったイエズス会に対して、国外追放、教会財産の没収などの事例があるが、基本的に珍しい勇断だといっていい。そして、 経済的にはいまにつながるコーヒー栽培の拡大、太平洋とカリブ海をつなぐ鉄道の建設、その工事にともって拓かれる道路網の整備などを行なった。
 同国大統領列伝のなかでは特筆される政治家で現行の紙幣に描かれている。つまり国民的な人気があった。ゆえに屋須も大量焼付け、販売という賭けに出られたのだろう。もしかしたら、紙幣のモデルとなった肖像が屋須の写真であった可能性が高い。米国の初代ワシントン大統領の肖像が、もっとも流布した廉価な肖像写真から採用されたように、グァテマラでも同じようなことが起きたと思う。多少、真像とは違っていても、すでに国民に定着していたイメージを踏襲しようと考えるのが政治家だから。
 また、グァテマラ大司教の肖像写真も大量に頒布・販売して成功している。屋須は聖界と俗界の長(おさ)の肖像で同時に儲けていたのだ。これも屋須の当時の信仰心のありようを示しているだろう。大司教が異教徒にそんな写真の販売を許可するわけはないし、屋須の信仰心が通りいっぺんのものであったとしたら、そもそも大司教が写真館に足を運び、典礼の盛装のまま長時間の撮影に耐えたであろうか。
 大司教は当時のグァテマラに在っては最高の知性の持ち主であっただろう。当然、撮影の合い間に屋須とプライベートの会話も弾んだに違いない。それに、日本人がこの地で写真館を開くことになった経緯にも興味をもっただろう。それはバリオス大統領にしても同じだろう。屋須は当たりさわりなく通り一遍のことは話だろう。特に、大司教の前では営業トークとして、故郷・藤沢に苔むした一群の墓石が隠れキリシタンのものと言い伝えれている伝聞を話たかも知れない。その墓石群のことは筆者が藤沢町庁を取材で訪ねたとき、応対にでた職員から写真とともに示された。屋須も当然、その墓石のことは知っていたはずだ。

 首都グァテマラ・シティはアンティグアが大地震で崩壊した後に建てられた中米諸国の首都のなかでは比較的新しい町であった。スペイン・コロニア様式で区画整備され、中央に広い広場を設け、その一辺に政府庁舎、その両翼に裁判所、中央大聖堂を配した。屋須のお得意様が指呼の間で存在していた。
 当時のバリオス大統領の指導によって外資を積極的に導入し、大規模なインフラへ整備を行なった。その積極的な経済効果はいっていの期間、人口規模の小さなグァテマラに効果的なバブルを生んだと思う。その好景気のなかで屋須の写真館は繁盛したのだ。
 そうした経済活動の繁栄によって国庫も潤い、大統領の求心力も増した。それを好機としてバリオス大統領は、長年の夢、宿願としてきた中米諸国の再統一を主導するための軍事力の拡充、近代化を進めた。
 中米諸国はスペインから独立したとき、植民地時代のグァテマラ総督府の施政下にあったエル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカが中央アメリカ共和国として連邦制をとっていた。その際、主導的な役割を担ったのがグァテマラであった。現在もグァテマラ人のなかに、植民地時代から歴史的にグァテマラは中米の中心である、という自負がある。バリオス大統領にもそれは強く意識されていて、再統一のための布石として隣国エル・サルバドルへ自ら指導して侵攻し、その戦闘で戦死する。
 屋須もまた後年、対エル・サルバドル戦のために後半生を決定づけられることになるが、それは少し先のことだ。
 こうして、バリオス政権下で屋須の仕事は順調に進捗し、やがて蓄えた資金を元手に「15×8メートル二階建てのスタジオ」を建てた。屋須はこのスタジオを自慢げに記している。

 「それは便利な作りで、ペンキ塗りの美しい階段を昇ると修正室、色調室があり、また一階には洗い場、中庭に焼き付け室、また大型印画紙用のおおきな部屋等があった」

 しかし、屋須は数年後、その写真館をすべて売却する、1889年のことだ。離日して14年後、屋須は決然と繁盛する店を閉じた。帰国するためだ。
 一説には、〈当時の屋須は敬虔なクリスチャンであり、故郷の老母にもイエス・キリストの教えを説き改宗させようという願いがあって、それが帰国をうながした主たる動機だ〉とするものがある。
 当時の屋須は写真館から徒歩で行ける一角、現在の旧市街のはずれの緩やかな丘に建つカルメン教会に通っていた。教会は現在もあり、多くの信徒を集めているが、屋須が通っていた当時と比べると、信徒の階層はだいぶ様変わりしたと思う。現在のカルメン教会周辺はたとえば外国人観光客などはあまり足を向けたくない、治安の不安な地域にあるからだ。富裕層はとっくにその周辺から出ている。
 ともかく屋須は写真館の権利一切を処分、渡航費用及び日本で写真館を開くための資金を鞄に詰め太平洋沿岸の港プエルト・サンホセから船に乗り、グァテマラを去った。ただし主要な写真機材は日本でもなかなか揃えることは至難であったろうし、使い慣れた道具として可能な限り梱包して帰国したと思われる。
 日本でいえば明治22年のこと、一私人に過ぎない屋須が、私費を使って、ふたたびグァテマラの地を踏むことになるとは思いもしなかっただろう。
 帰国への準備であわただしい日々を送るなかで、グァテマラの友人・知人らと永遠(とわ)の別れを宴を開いていた屋須がいたことを後年の手記のなかで知る。 (つづく) 後日、補筆・訂正の予定。

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

 メキシコ・シティのディアス邸に寄寓しながら専門学校入学志願者に修業必須とされた高等予備学校に通いはじめメキシコ人としての一般教養、さらに絵画を学び出した。そこに医師としての屋須の姿はまったくない。おそらくフランス語やスペイン語を通して、屋須の医師としての実力ということになるだろうが、自分の知見は西洋医学に比べると取るに足りないものと自ら“廃業宣言”をしたのだろう。以後、医師としての屋須の姿は戻ってこない。藤沢で3年、開業医を務めた後、人の脈をとって報酬を得ていない。そればかりか、手記中に自分がかつて医師であったことを暗示する言葉すら記していない。
 メキシコ入りしたばかりの屋須に仕事はなかったから、ディアス邸で は家内労働ぐらいはしただろうが、勉学に勤しんでいたことを思えば、破格の厚遇での徒食となっていただろう。ディアスは屋須を客分として遇していたと思う。
 メキシコ到着早々、屋須はディアスにともなわれてテハダ大統領に謁見している。当日の屋須の正装は、紋付き、袴・・・。1876年、帰国したディアスは金星観測及び日本及び、その往路の見聞記として早くも『メキシコ天体観測隊日本旅行記』を刊行している。しかし、ディアスにそうした余裕もすぐ失う。
francisco_diaz_covarrubias.jpg 屋須はこんなことを記している。
 「当時のメキシコは、政治的に不安定な時期で、ドン・ポルフィリオ将軍の指導によって革命が興った。そして、革命は成功し、将軍が大統領府に入る前日、テハダ大統領は国外に脱出した。新政府はセニョール・ディアスをグァテマラ公使に任命した。」

 前大統領派であったディアス・コバルヴィアは体よく左遷されたのだ。当時の血なまぐさいメキシコにあってディアスが政治犯として収監されもせず財産も没収されず、南の小国へ追放されただけで済んだのは屋須にとっても幸運だった。庇護者の財力は健在のままだったから、まだディアスに頼れる。しかし、生活手段がまったくなかった屋須は、やむなく新公使に附いてグァテマラ入りすることになった。学業も途中で放棄することになった。屋須は書く・・・。

 「(グァテマラの)メキシコ公使館ではなすべきことがなく、私は日本へ帰ることを望みはじめた。だが、ディアス氏から支給される金では帰国のための旅費はできず、不可能だった」

 さすがの屋須もこのときばかりは憔悴にかられたようだ。
 そんな時期、屋須は収入の道をもとめて公使館前で開業する写真館にむかった。

 「私は経営者のエミリオ・エルブルヘルに自分の辛い立場を説明し、写真術を教えてくれるよう嘆願した」

 屋須にとって、それは藁をもつかむような思いだったろう。
 屋須は必死に働いた。働かねばならなかった。
 「私はわずかのうちに焼付けの仕事を覚えた」と書いている。帰国するための旅費づくりに精勤した結果が屋須の技術習得に拍車をかけたはずだ。二年足らずで自己資金を蓄えたと屋須は自賛している。 (つづく) ☆後日、補筆・訂正の予定あり。

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯  其の参 メキシコへの渡航

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス
  ~屋須弘平の生涯

 其の参 メキシコへの渡航

 横浜へはわき目もふらずに直行した。
 1873年、どの国に渡るという目途もなく海外渡航免許を申請、許可されている。その事実以外、横浜での屋須の生活ぶりなど具体的に知ることはできない。ただ、渡航への資金も持たず、渡航を後押しする後ろ盾もなく徒手空拳の屋須に海外遊学の機会などそうそう訪れるものではなかった。明治維新政府発足間もない、その時期、仙台藩にあって、戊辰戦争に軍医として従軍した身に、たとえ海外の言葉に通じていようと、そうそう官職に就くことはままならなかったはずだろうから、屋須は身ひとつで努力するしかなかった。
〈好機は何時やってくるかも知れない。それを逃すことのないように渡航免許を習得しておこう〉という気持ちであったろう。
外国人の多い横浜、そこで何時、渡航への足がかりとなる人物と知己になるかも知れない。自分にはそれぐらの言語能力があるとも考えただろう。
 そして、屋須にとって僥倖(ぎょうこう)としか思えない渡航の機会が翌74年に早くも訪れた。
 金星の太陽面通過という天文観測の場に日本が適地とされ、先進諸国から多数の観測隊が来日したのだ。屋須にとって文字通り天から降ってきたチャンスであった。
kansoku01.jpg
 観測隊のなかにメキシコからきた一行があった。フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスを隊長とする5名のメキシコ派遣隊である。屋須はその隊の通訳として雇われたのだ。
 当時、スペイン語会話をできる日本人はごくごく少数であっただろう。おそらく横浜に出た屋須は貪欲に海外の言葉の習得に励んでいたに違いない。スペイン語をどこで学んだか、その記録はないが、すでにフランス語を熱心に学んでいた屋須だから、仏語に共通するところの多いスペイン語も習得しようと思ったとしても当時の彼の海外雄飛の熱からすれば自然の流れであったかも知れない。加えて、メキシコ上層階級にはフランス語に巧みな者は多かった。コバルヴィアスもそういう人物だったと考えてよいだろう。後でわかることだが、コバルヴィアスは当時の大統領に近い官僚でもあったのだ。
 メキシコ隊は横浜入りしてから通訳を探した。その時、斡旋を頼んだがフランス語伝習所であったというから、そこから屋須が採用されることになったと考えたのほうが自然だろう。
 メキシコ隊は横浜の二ヵ所で観測をおこなった。隊員たちは屋須のスペイン語に、「技術関係の知識がない」と苦情をこぼしていたという記録があるから、日常会話には不自由することはなかったという反証になる。
 屋須の後半生は、このメキシコ隊で通訳を務めたことで決まったと断言してよいだろう。
 屋須の記した手記は、このメキシコ隊との出逢いからはじまっている。

 「観測が終わると、私はセニョール・ディアスに、メキシコで勉強したいので連れて行ってくれるよう懇請した。彼は私の願いを喜んでかなえてくれた。」

 メキシコ隊の帰路は、近道の太平洋横断コースをとらず、中国沿岸から南下してインド経由、開通から4年も経っていないスエズ運河を北上、地中海に入り、イタリアから陸路でヨーロッパ諸国を歴訪して大西洋上に出て本国入りするというものだった。と旅程だけ記せば、そういうことになるが、当時の一般日本人がこれほどの旅に恵まれたという意味は大きい。
 明治政府の公式派遣団として岩倉具視を正使とした、いわゆる「岩倉使節団」は1871年の出来事だが、屋須の渡航はその数年後のことなのだから、まさに僥倖としかいえない。
 1876年メキシコ入国となっている。当時のメキシコにあって大西洋経由での窓口はベラクルスであったから、屋須のメキシコはスペイン植民地時代の大要塞のある港湾都市の思い出からはじまっている。屋須は29歳になっていた。 (つづく)☆後日、補筆・訂正の予定あり。

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯 其の弐

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス
  ~屋須弘平の生涯

 其の弐 蘭学医の息子

 マシュー・ペリー東インド派遣艦隊司令長官率いる四隻の艦隊が浦賀水道に入ってきた。いわゆる「黒船」の来航である。屋須弘平が生まれたのは、その7年前、1846(弘化6)年であった。
 生地は当時、仙台藩の領地であった藤沢という山間の寒村、現在の岩手県東磐井群藤沢町である。いまも鄙(ひな)びた静けさをとどめる街道筋の小さな町だ。生家は蘭学医で、その長男として生まれる。
 屋須の幼少期を語る資料は皆無に近いが、伝聞はある。たとえば、父親からオランダ語の教授を受けているとき、たまたま通りかかった親類の者が、「父子そろって奇妙な言葉を唱えている。気が触れたにちがいない」と慌てた、といった類いの話だ。けれど、小さな里の住民はみな顔見知りだろうし、親類ならば蘭学を長崎で修めている医師としっているわけだから、耳慣れない言葉がオランダ語であろう、とは想像がつくものであろう。
 屋須が18歳を迎える1964(文久4)年を分岐点として、彼の足跡は急に慌ただしくなる。それは山間に這う濃い霧のなかから、光の横溢する世界に飛び出した、という印象である。時代は徳川幕府の終焉期、長大な交響曲が最終楽章を迎えフォルティシモですべての楽器がコーダにむかっているような高揚感が屋須少年のからだを包みはじめるのだ。
 父親からオランダ語の基礎的な文法や、蘭学の基礎知識などは取得しただろう。屋須は江戸に出る。長子として家業を継ぐべく江戸に出されたのである。彼の向学心はその頃、横浜に開かれた仏蘭西語伝習所に向かわせた。ここでフランス人講師エームリエから医学を学び、合わせてフランス語も習得していった。そのフランス語を通してスペイン語も独習したようだ。しかし、その時期の屋須青年の心音は推測の域を出ない。足跡のみ確認されているだけだ。
幕末の横浜 *当時の横浜

 1868年、この年、「慶応」から「明治」と改元され、徳川の世は終息した。その頃、屋須は勉学を中断して故郷への道を急いでいた。その道すがら二本松藩領内(現福島県)で藤沢の郷士たちと邂逅し彼らと出会ったことで屋須も伊達藩に仕えた屋須家の来歴を思ったのだろう、時は戊辰戦争前夜だ。屋須は郷士たちの懇請を受け入れ、奥羽越列藩同盟の軍医として参戦することになる。
 従軍行のなかで友人たちと旧交を暖めて機会が幾度となく訪れ、問わず語りに消息を告げあうあいだに、屋須が数ヵ国語に通じていることが知れわたり、やがて同盟軍の上層部の耳に届くことになった。
 当時、東北諸藩は西国諸藩の連合軍の優勢のまえにジリジリと後退をつづけていた。この難局を打開するため列藩同盟はフランス、スペイン語を話す屋須を押し立て、メキシコに応援を求めるという計画が練られたという。何故、メキシコか、ということになるが、おそらく当時の東アジア諸国にメキシコドル(「洋銀」と呼ばれていた)が大量に流通しており、貿易通貨として用いられていた。そうした事情から、まだ海外事情に疎い幕臣たちがメキシコに援助を請うと模索するようになったのだろう。しかし、それも机上の空論に終り、1869年5月、箱館(現函館)五稜郭での戦いを最後に戊辰戦争は終結する。屋須は故郷にもどり江戸遊学中に亡くなった父親の後を継いで開業医となった。 
 3年ほど穏やかな日々が流れる。しかし、そんな静穏に耐えられるような屋須青年ではなかった。胸にいったん灯(とも)された先進文明へのあこがれは消えるどころか熱く疼きつづけていたのだ。
 『藤沢町史』に、「(屋須が)藤沢における水薬使用の嚆矢」といった記述があって、横浜留学のときに習得した新医学の応用を積極的におこなっていたことが分かる。また、藤沢における断髪洋装の先駆であったというから、僻村の地ではそうとう奇異に映っていただろう。屋須は周囲への融合という姿勢はいっさい採らなかったようだ。そんな屋須が藤沢から出て行くのは時間の問題であっただろう。
 1871(明治4)年、故郷を出た。知的刺激のない在所での生活によく3年も耐えたと思う。屋須はわき目もふらず横浜を目指した。  (つづく) ☆後日、補筆・訂正の予定あり。


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Author:上野清士
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