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セキ・サノ(佐野碩)とメキシコ

佐野碩(1905~1966)をどれだけの日本人が知るだろう。 
 本紙の読者なら国際労働歌「インターナショナル」を訳出した人だと語れば、親近感を増すはずだ。 その佐野の業績を日本、ソ連(当時)、メキシコと彼の足跡を追いながら検証しようという充実した試みがメキシコの研究者を集め3月1日から3日(2013)、東京・早稲田大学の演劇博物館と国際交流基金などが共催して行なわれた。


seki sano
 
 メキシコで制作された記録映画の上映まで含んだ多岐に渡った3日間の佐野検証作業をここで紹介することは紙幅の都合でできない。ここでは、1920年代から60年代、世界の演劇史において“前衛”に立っていたセキ・サノがいまだ日本文化史のなかで、占めるべき位置をもっていなことに留意してメモしておきたいと思う。
 表題にセキ・サノとカタカナ表記したのは日本よりメキシコ及び中南米諸国での成果が高いからだ。メキシコ市には彼の名を冠した劇場もあるし、その劇場で、若手演劇人が、『セキ・サノとは……』という創作劇を確かサノ没後100周年に上演したこともあった。
 
 「インターナショナル」は若きサノが、築地小劇場で上演する劇中歌として訳出したものだ。プロレタリア演劇の拠点であった同劇場は日中戦争の激化のなかで窒息、サノ自身、治安維持法で逮捕された。釈放後、表現の自由を求めて、米国へ旅立つ、事実上の亡命行だ。1931年のこと。そして、66年にメキシコ市で61歳で客死するまで一度も帰国しなかった。

 世界史のなかにおけるサノの位置は、ロシア革命成立直後、文化・思想面から支えたロシアアヴァンギャルがスターリン独裁のなかで弾圧、関係者が容赦なく粛清されるという時代まで当時、世界の最前衛に立っていた演出家スタニスラフスキーに師事、やがてモスクワ芸術座でメイエルホリドの助手として働いた、という経験だろう。

 サノの体内に宿された最新の演劇理論はメキシコ亡命後、開花する。当初、言葉の不自由さからバレエの演出なども手掛けたサノだが、語学の天才であった彼はドイツ語、ロシア語、英語に加え、スペイン語も習得すると演出家としてメキシコ演劇をたちまち世界的レベルに押し上げる。大戦後、メキシコ映画はスペインから亡命したルイス・ブニュエルなどの活動もあって黄金期を迎える。演劇と映画はたがいに照射しあう関係でもあった。
 サノはメキシコ市内に自前の劇場も構え、メキシコばかりでな中南米諸国の演劇青年たちの教師ともなって多くの人材も育てた。数年前、南米コロンビアの演劇人がサノを影響から出た創作劇を東京で上演したこともあった。キューバ革命直後、カストロに請われてハバナ入りしているぐらいだ。

 サノの生涯、貧しかった。貧しいばかりでない。サノ自身は多くを語っていないが、モスクワ時代、ロシア女性と結婚、娘さんもあったはずだが、自身が亡命後、行方知れずになっている。粛清、またはシベリアに追放されたとも言われる。
 没後、半世紀を過ぎたがサノの生涯には多くの白紙の部分がある。メキシコでの活動にしても、まだ実証的な記録はまとめられていない。なによりサノの心の奥にメスを入れるような鋭利な批評もでていない。
 戦後、日本の演劇人が熱心に帰国を促したようだが、それに応えようとはしなかった。帰国していれば、日本の演劇もまた彼の影響を必ずや受けたはずだ。
 メキシコ自治大学を卒業後、教師を小学校の教師をつとめながら演劇活動をつづけていた30代の女性が、「サノ影響は思っている以上に重いのよ。一度、清算した方が、彼の存在がなかったことにした方が良い、と思うぐらいの息苦しさなのよ」と語ったことがある。むろん、それは彼女なりのセキ・サノ評価なのだが。
 
 今回のシンポジウムに参加したメキシコの女性学者が、セキ・サノ演出の舞台を批評した新聞のコピーなどを提示して、同時代の影響というものを実証的に報告していた。それはそれで大事な研究かも知れないが、サノ評価よりも欲しいのは生身の彼、日常の場でもらしたうびやき、不満、怒り苛立ち、泣きごと、そして愛の言葉か・・・。 
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“サルサの詩人”ルベン・ブラデス、大統領選に立候補か


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 来年5月、中米パナマで大統領選挙が行なわれる。
 パナマ運河の拡張工事の推進、麻薬問題、貧富是正など山積する難問に対して緊急で効果的な問題に取り組みことを強いられる次期大統領を決める重要な選挙だ。事実上、前哨戦というべき選挙活動はすでにはじまっている。各種、世論調査の結果が新聞紙上を賑わしている。

 このパナマ大統領選挙に“サルサの詩人”ルベン・ブラデスが、「前向きに再選に臨みたい」と検討していることを8月、メキシコ市での記者会見で述べていて、パナマ政界にも静かな波紋が広がっているようだ。有権者のなかにもブラデスに期待する者も多いだろう。
 1ヶ月ほど前に行なわれた世論調査ではパナマの有力政党の民主革命党(PRD)、民主変革党(CD)の候補いずれも20%台の支持しか集めていない。しかも、候補者のひとりは現副大統領という知名度の高さを誇るなかでの結果だ。絶対的候補が不在ということだ。来年の選挙は波乱含みだ。
 ここにサルサのメインストリートを歩いてきたルベン、抜群の知名度を誇るルベン・ブラデスが自ら創設した政党パパ・エゴロ(パナマの先住民の言葉で「母なる大地」)から出馬すれば、まったく予断のゆるさない状況になる。ブラデスが当選しなくても、有力候補に大きな影響を与えるのは必至だし、その結果によって政界地図も変わる。既成候補もブラデスの動向はおおいに気になるところだろう。

 1994年の大統領選挙で創設したばかりのパパ・エゴロから出馬し、約20%の得票を得て3位になった実績がある。そして、その選挙を通じて都市部では大きな支持を集める候補として注目され、パパ・エゴロから国会議員も選出された。
 2004年の選挙ではマルティン・トリホス候補(パナマの国民的な英雄・故オーマル・トリホス将軍の息子)を積極的に支援、勝利に貢献し、04年から09年まで、トリホス大統領の政権下で名誉職的な地位であれ観光大臣に就任した実績もある。

 「私にはこなさなければならない仕事が山積しているが、チャンスがあれば、それを逃さず出馬したい。何故なら、この5年間の(現政権下での)パナマはけっして喜べる状況ではなかったからだ」とブラデスは語っている。

 1994年には46歳だった壮年ブラデスは、歌手活動をこなしながら選挙でも精力的に動き回る若さがあった。一日、街頭キャンペーンに奔走した後、コンサートもこなすタフな若さも売りだった。その1日を彼とともに取材したことがあった。熱帯酷暑のなかで飛び回り、夜にはコンサートもこなしていた。
 しかし、来年66歳となるブラデスには、過酷な仕事を両立できるほどの活力があるかどうかははなはだ疑わしい。活動拠点も米国ロス・アンジェルスだ。選挙戦のさなかにも米国とパナマを往復しなければならない。
 ……とはいえパナマの多くのブラデス・ファンは、彼に権力を監視し、社会正義を正すような政治力だけは維持して欲しいと願っている人は多いはずだ。  
 

莫言氏のノーベル文学賞受賞によせて

莫言氏のノーベル文学賞受賞によせて


 いまほど中国映画が世界の市場に出ていない当時、北京と上海で映画監督3人にインタビューしたことがある。
 1980年代後半のことで、当時、“第5世代”と呼ばれる若い映画人が地方の映画撮影所で意欲的な作品を撮っていた。撮ってはいたが国内では広く注目されることのない仕事であった。そんな若き才能の一人が、今年のノーベル文学賞を受賞した莫言(モー・イエン)氏の初期の代表作「赤いコーリャン」を原作とし、鮮やかな色彩感覚あふれる土俗的な映像を提出した張芸謀(チャン・イーモウ)監督だった。その張監督をはじめとする“第5世代”の監督への取材を北京の『人民日報』本社へ出し、その人選を待つ間もなく北京に飛んだことがあった。
 中国で3人の監督とのインタビューが実現した。
 張監督とのインタビューは実現しなかったが、“第5世代”のひとりでまだ30代だった田壮々監督とは新作の試写が行われた『人民日報』本社で、若い女性監督と北京の映像学院の一室で、そして、撮影所のなかに市電も走る広大なセットをもつ東洋一の上海映画撮影所で当時、中国映画界を代表する巨匠であった謝晋監督と撮影所で会えたことは収穫だった。
 当時、“第5世代”の映画は中国国内では広く公開されることはなく、短期間、「表現の自由」のアリバイづくりといったふうに少数の映画館で公開されて終わりというケースが多かった。外国で公開されても国内で上映の機会もないままお蔵入りしてしまう映画も多かった。映画『赤いコーリャン』もそういう映画だった。映画人は知っていても一般の認知度は無きに等しかった。当然、原作者の莫言氏に至っては誰が知る、という状況だった。そんな莫言氏がノーベル文学賞を獲得し、中国国内メディアでは、はじめて国民的に歓迎される中国国籍の受賞者としてフロント・ページで大きく報道された。隔世の感がある。
 北京五輪の開・閉会会式を華麗壮大に演出したのが張監督だった。
 かつて当局に、「中国の暗い側面、遅れた農村の暗部を描く監督」として睨まれていた若き才能も、オリンピックで国家公認の芸術家になった。張監督はミュージカルの演出もすれば、創作バレーも手掛ける。そして、『赤いコーリャン』を撮る前は撮影監督として評価を得ていた才能だった。
 張監督の映画は制作されるたびに各地の国際映画祭で受賞を繰り返し、政府も無視できなくなった。そうして、国内でも広く公開されるようになって大衆的な支持もえるようになった。その影響は映画に原作を提供していた文学界にも及んだ。中国の「表現の自由」の突破口は映画が切り拓いた。その後を、文学や美術が追った。そして、莫氏の存在も広く知られるようになり、やがて国家公認の作家へと押し上げたように思う。莫氏の「赤いコーリャン」で現在、日本でも文庫化されているが、この邦訳も映画のヒットのおかげだ。
 その莫氏が、「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」としてノーベル文学賞の授与されることが決まった後、内外記者団に応じた記者会見の席で、かつてほど言論・出版統制は著しく改善されたことを認めつつ、現在も反国家罪で収監されているノーベル平和賞を受賞し、現在「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の刑に服している作家・劉暁波氏の「できるだけ早く自由を得ることを望んでいる」と語った。自身が中国作家協会副主席という要職にある身の発言として大きな意味を持つし、これまで作家として劉氏を擁護してこなかったことの悔恨も、受賞という援護を得て発言に至ったようにも思える。
 しかし、劉氏擁護の発言を流すインターネットから、中国当局はその部分を削除したようだ。
 中国はまだまだ「表現の自由」に遠い世界だ。そうした報道規制が行われているなかで大きな反日運動が、尖閣諸島問題を契機に起きた、ということを明記しておきたい。     上野清士

チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者グラナード死去

チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者グラナード氏、ハバナで死去
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 2月8日に本ブログにアップした記録映画『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』の主役であったアルベルト・グラナード氏が5日(現地時間)、キューバ・ハバナで死去した。88歳だった。氏は、キューバ革命の英雄エルネスト・チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者だった。
ゲバラと同じアルゼンチンのコルドバ出身であったグラナード氏は“無名”時代のゲバラの思想と行動を生活をともにした経験から語れる貴重な証言者であった。ゲバラがメキシコでカストロ兄弟と知り合い、キューバ革命戦争の指導者として闘っていた当時、同氏は南米ベネズエラでハンセン氏病の専門医として働いていた。ゲバラ自身もハンセン氏病を学んだ医学生であった。
1961年、キューバに革命政権樹立されると、ゲバラの招きでハバナに居住、ハバナ大学などで教壇に立ち、今日の医療先進国の基礎づくりに貢献した。
退任後は、ゲバラの継承事業に関わっていた。その仕事のひとつがブラジルのウォルター・サレス監督が撮った若き日のゲバラを描く『モーターサイクル・ダイアリーズ』へ制作顧問として参画したことは特筆されるだろう。映画は、ゲバラ自身の旅日記を原作としたもので、23歳の医大生ゲバラと29歳のグラナード氏が企てた南米縦断旅行を再現した映画だった。この時、劇映画とともにグラナード氏を主役とした記録映画『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』が撮られ、氏自身も同名の回想録を出版している。この時、グラナード氏は82歳であった。
ゲバラが南米諸国に革命が必要との確信を抱かせた旅として知られるものだが、その旅はグラナード氏が所有するモーターサイクル「ポデロッソ号」を駆って8カ月、約1万キロに及ぶものだった。この旅でゲバラはさまざまな社会矛盾と遭遇し、それを変革する夢がやがてキューバ革命へとつながってゆく。自身医大生であったゲバラにとってグラナード氏は6歳年長の先輩であった。氏がゲバラに与えた影響も大きかった。 
遺灰は母国のアルゼンチン、キューバ、そして医療業務に携わったベネズエラに撒かれるという。ゲバラと同じように国境を超えた活動を展開してきたグラナードの希望であった。 

 人類の営みを「産業の風景」として撮る写真家

 人類の営みを「産業の風景」として撮る写真家
エドワード・バーティンスキーさん

 人は快適に過ごすために、都合の悪いモノには目をふさぐ。快適な生活を保証するの〈消費〉だ。人が快適さを求めれば、もとめるほど〈消費〉は増大する。〈消費〉はゴミの発生をともなう。そのゴミはいったいどこへゆくのか、焼却場で処理されない産業廃棄物の行くつく先は……。
 「いま、中国は世界中からゴミとして出されたIT機器を再生資源として活かすために集めている。希少金属などを取り出すためだが、その分別場は有害物質にあふれている」とバーティンスキーさん(53)。その分別場を俯瞰した写真には幾十万、百万という数の壊れた機器が堆(うずたか)い山となっている。日進月歩のIT機器の耐用年数は短い。反故にされて消えるわけではない。モノとなって残るのだ。そして、誰かが処理をしているし、環境を毀損(きそん)しているだ。
 「遅れて産業のグローバリゼーションに参加した中国は現在、もっとも変貌が激しい。しかも13億という巨大な人口を支えられた産業も巨大化した。矛盾もまた大きい、ということです」
 産業を支える電気エネルギーを作るために世界最大の三峡ダムが建設中だ。強制移転した住民は百万を超え、大きな町が湖底に沈む。「船の通航に邪魔にならないようにビル群が破壊される。それは原子爆弾で破壊されたような光景だった」。
 炭鉱跡、採石場跡、精錬所跡……人間によって無惨に変えられた沈黙する自然を求めて取材地は世界中に広がる。彼は写真を通じて「このままで良いのか」と問いかける。
 人間は地球を唯一無二の存在とする。しかし、地球にとって人間は“有害物質”に他ならない、ということが彼の写真を通じて否応なく感得させられる。 
いま、ここに

バルガス・リョサ、ノーベル文学賞受賞

ペルー
 バルガス・リョサ、ノーベル文学賞受賞

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 毎年、後半四半期はなにかとノーベル賞の話題が多くなる。
 今年は中国で不当としかいいようのない“罪状”で拘禁されている人権活動家が「基本的人権を非暴力で貫いている」として平和賞を受賞し、中国政府は大国の威勢で何かと政治加入して話題を提出した。中国から大きな経済援助や、商取引きでうま味を受け取って国は、授賞式への参加を見送る国が出た。日本では、尖閣諸島問題もあったから、対中国イメージは悪化の一途をたどっている。個人的な中国観でいえばアノ国の政府は嫌いだ。中国が嫌いなのではなく、政府に嫌悪する。その政府に寄生することによって権力の細胞、末端部で定見もなくうごめく小官僚たちのうろんな連中も度しがたい。アノ国は共産党という新手の〈王朝〉が独裁している国だと思っている。
 一度、『人民日報』の協力を受けて約2週間、北京と上海、そして開発の槌音高きという1990年代の海南島へ取材したことがある。その際の地方の共産党幹部たちの横柄ぶり、教養も欠落し品格のない連中。その民衆をみくだす態度に辟易したものだ。いちばん、ひどかったのは上海郊外にあるカトリック系の神学校を取材した際、聖堂で祈る近在の信者たちを檻のなかの珍獣をみるような視線だった。祈りの妨げになることなどまったく考慮せず、「先生(筆者のことである)、写真を撮るならここから撮ればいいですよ」と祈る信者の鼻先に腕組みして睥睨するあつかましさ。
 そして、バックパックの個人旅行で香港から広州入りして歩いた旅……それは、前者が満漢全席の旅というようなものであったが、後者はファーストフードの旅であった。その両方を実行してみて、この国の政治制度に徹底的な不信感を抱いた。この国の正式名称は、『中国人民共和国』であるけど、その「人民」の地位は実際、小さい。
 大きく横道にそれるのは小生……といった具合に年末はノーベル賞の話題に事欠かない。
 ここでちょっと書いておきたいのは文学賞のことだ。豊潤な現代ラテンアメリカ文学の森を巨木でささえるペルーのバルガス・リョサが受賞したからだ。
 日本では名ののみ高名だが、広大なアマゾン密林にわけ入るような取り止めのなさを感じさせるバルガス・リョサの文学の長編に親しむ者は少ないというのが日本の実情だろう。これを機会にその森にわけ入ってもらいたいとの個人的な思いもあるので書くのだ。
 ペルーにとって最初のノーベル賞受賞者となった。その受賞決定と、ほぼ同時期、同国初の天然ガス田が発見された。アラン・ガルシア・ペルー大統領はリョサの受賞とともに、「神は祖国へ二重の喜びを与えた」との声明を発表したものだ。
 リョサは40代前半で国際ペン・クラブの会長(1976~1979)を務めたほどの早熟の才能だった。その当時、すでに『緑の家』『都会と犬ども』(ともに邦訳)の長編で世界的な成功をおさめていた。そして、ペン会長としての職務も堅実にこなしノーベル賞にもっとも近い作家といわれていた。それが30年近い紆余曲折、長足の迂回路を取らせることになった。
 理由は色々、とりざたされているが、1990年、ペルー大統領選挙に出馬してからの政治活動が受賞を遠避けたといわれる。政治的に生臭い人間は平和賞の候補にはなっても文学賞にはそぐわないと敬遠される傾向がある。
 その選挙とはアルベルト・フジモリが大統領に初当選した時のものだ。これにリョサは伝統的な保守政党の候補者として出馬、一次選挙でフジモリ票を上回ったものの、決選投票を前に敗北を認めた。決戦投票に進めなかった他政党との連捷工作が不調に終ったからだ。その後、フジモリの政敵として国外へ追われ、スペインに活動の拠点をおいた。
 今回の受賞に対して国内の政治的な対立者のなかには、「フジモリが失脚し抑圧の心配が消えたにも関わらず祖国に復帰せず、一度、旅で来ただけのリョサにペルー人の資格はあるのか」といった批判の声も聞かれた。
 1960年代以降、世界的な影響力を行使するようになったラテンアメリカ文学だが、その牽引者はなんといってもコロンビア出身の作家ガルシア=マルケスだろう。彼の詩的イマジネーションに富んだ幻想的現実主義と呼称される文学とリョサの文学とはまったく異質だ。より伝統的なリアリズムの形式のなかに緻密な文体と構成力、そして鋭敏な観察眼で社会矛盾を暴き、現実を鋭くえぐる手法を取った。
 けれど、リョサ文学のなかにあってもっとも親しまれている作品は『パンタレオン大尉と女たち』だろう。アマゾン辺境地帯の国境警備隊の若い兵士の愛と性を描きながら、国家権力の恣意性を告発する。ここでは通念の娼婦観はなく“聖化”の気配すらうかがえた。この小説はリョサ自らメガフォンをとって映画化された。近年もリメイクされラテン圏では商業的な成功をおさめた。これを機会に日本でも公開して欲しい映画だ。近作ではクンビア・イキトス派とよばれるペルー独自の濃厚で熱いクンビアも聴けるのだ。サルサやレゲトンばかりがラテン・ポップスの主成分ではないのだ。
 リョサは文学とどうじにアクティブで優れた社会評論の書き手でもある。思想的にはわずかしかブレていない。フジモリに政治的力学的に敗残者となって、現実政治に関われなかったことが幸いしたかも知れない。フジモリと対立したのは、日系人学者のなかにポリュラリズム=大衆迎合主義的な臭みを嗅ぎ取ったからだろう。リョサは独裁に陥りやすい、そうした政治姿勢をラテンアメリカから排除していかなければいけないと考えていた。
 リョサはメキシコを半世紀以上に渡って支配していた制度的革命党をアメリカ大陸におけるもっとも巧妙な“独裁政権”と批判し、メキシコ論壇での注目度の高かった。キューバの革命政権に対しても歯に衣をつけぬ批判を展開していた。
 現在、74歳のリョサには政治家としてペルーに戻り活動する気はないだろうが、作家としての活動は精力的に継続させている。日本でもリョサ作品の復刊や、新刊も予定されている。

愛の神話は政治の「独裁」にも抵抗する

愛の神話は政治の「独裁」にも抵抗する
 エミリオ・アラゴン監督との対話
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 毎月、仕事で内外の映画監督にインタビューを繰り返している。
巨匠といわれる翁からデビュー作の公開をきっかけにというのも多い。一作で名前を見なくなってしまった若い才能もあった。9月(2010年)、スペインのエミリオ・アラゴン監督と新宿駅近くのホテルで対話した。たった40分の対話だったが親密な味わいのある良い時間だった。
 毎年9月、新宿の一映画館で開催される「ラテンビート映画祭」を数年前から少しお手伝いしている。今年7回目を迎えた。そのオープニング作品となったのがアラゴン監督の『パッハロス・デ・パペル(紙の鳥)』。映画は、オープニングにふさわしい佳作だった。日本での一般公開は来秋の予定となる。映画評はその頃、試写室に入りなおして書くだろうが、監督との対話の記憶は薄れてしまうので、ここで少しメモ程度に記しておきたい。
 監督との対話に後から、映画に軽演劇一座の歌手役で出演していたカルメン・マチさんも来日し、フランコ時代の少女時代の日々などを聞かせてもらった。修道会付属の小学校に通っていたようで、そんな日々のなかにザクッと入ってきたフランコ将軍の訃報を、そう「朗報」といった軽やかさで語っていたのが印象的だった。「だって、まわりの大人たちがなんだかはやいでもいた感じでしたもの」と。
 映画は市民戦争の渦中から共和派の敗北、フランコ独裁のはじまりというスペイン現代史にとってもっとも波瀾に富んだ時代が背景だ。内戦故に隣人に対する視線は揺らぎ厳しく、あるいはさもしくもなっていた世情はなかなか癒えない。故に人心も荒み〈愛〉は希薄にエゴイステックになった時代だが、そんな時季にも人のなかには無償の〈愛〉を命を賭して守ろうとするものもいる。そして、そうした〈愛〉は時代のは荒海にさらわれて家族の物語として語られてゆくに過ぎない。文学や映画はそうした歴史に埋もれた〈愛〉を鄭重に紡ぎ取って普遍性を与えるものだ。『紙の鳥』はそんな映画である。
 アラゴン監督は、そんな物語を長編一作目にした。1951年4月、キューバのハバナに生まれた。父親がフランコ独裁下の母国からキューバに逃れ、その地で結婚した。監督は、「(映画は)父の体験が通奏低音になっている」と示唆した。この長編に賭ける監督の思いはかなり重いものであったように思う。
 彼は、カリブ・スペイン語圏特有のコメ・エセ(come ese)、いわゆるSの音を発音しないイントネーションとはまったく無縁の言葉の持ち主だった。といって中米でスペイン語を学んだ後学者の私にとっては、少々性急な感じのするスペイン人のスペイン語とも感じがちがった。そのささやかなイントネーションの違いにこの監督の出生にまつわる家族の物語が反映しているのかも知れない、と思ったりした。
 映画のBGМはトリキティシャの音色。イベリア北部山岳地帯のバスク特有のボタン式ダイアトニック・アコーディオン。映画の悲劇的な主人公で哀しみ家族史を持つ喜劇役者であるホルへの手持ち楽器として出てくる。バスクから出てきた男という象徴としてのトリキティシャ。吟遊詩人にとってのギターであり、リュートなのだろう。「演奏しているのはケパ・フンケラです」と監督。まだ30代と思うが、視野の広い創造的なトリキティシャを聴かせるバスク出身の当代を代表する名手。そして、この映画は他のどんな楽器より蛇腹楽器の震振音が〈愛〉の揺らぎを語るにふさわしいものになっていた。タンゴのバンドネオンの揺らぎもほんらい、そうものであったと私は思っている。音楽と映像が琴線で触れあっている数少ない例としても『紙の鳥』は記憶に残っていくと思った。
エミリオ・アラゴン、カルメン・マチ_023
(エミリオ・アラゴン監督とカルメン・マチ 写真・上野清士)

宇多滋樹さんと、その喫茶店

宇多滋樹さんと、その喫茶店
宇多滋樹
(写真・上野清士)

 先月、久しぶりに奈良に行った。取材旅行だったが、その際、付き合ってくれた人が、「おもしろい喫茶店に連れて行っていく」というので誘いを受けた。
 長屋風の民家をほとんど手入れせず、ソノママという感じで喫茶店にしたところで屋号を「ちちろ」といった。玄関があって履物を脱ぎ、畳もそのままの和式の部屋、そこが店なのだ。店主は白髪の宇多滋樹さん、である。
 その名を聞いて映画『殯(もがり)の森』を思い出す読者がいたら、かなりの映画通だ。カンヌ映画祭で上映された直後、会場はなりやまぬスタンディグオーベーションに包まれた。グランプリを獲得した。その感動をもたらしたのは一にも二にも認知症の初老の男性を見事に演じきった宇多滋樹さんだった。映画に出演した頃、宇多さんは出版もときどき手がける古書店主であった。俳優体験は後にも先に『殯の森』一編のみ。その一作で世界の映画史に記載されることになった。
 「河瀬監督にはずいぶん、しごかれました。お陰で、映画の出演料で店の改築資金が出て、こんな妙な店をやってます」というが改築されたのははたしてどこだろう、という感じである。たしかにヘンな店で和室のまわりに古ぼけた木製の書棚があって、埃を被った本が並んでいる。でも商品である。古書店を兼ねるのである。座卓が無造作に並んでいて、気ままにくつろいでください、といった雰囲気。おもわず寝転がりたくなった。二階もあるというので上がってみるとコタツがあった。
 「ときどきカップルが来て二階にトントンと上がって、コタツでしんみり話しはじめると、うっかりじゃまできないようなイケナイ気配を感じて、降りてくるまで上がれない感じなんだ」と商売気が希薄。
 「映画の影響は大きいですね。店に入るなり、『あぁ、しげき(役名)さん、しげきさんだ』とひとしき僕を指さし騒ぎまくって、そのまま帰ってしまうおばちゃんたち……なんやケッタイな、アホか……と思えば、店に上がって僕の顔を見ながら泣きはじめる人も……認知症の父親を亡くした人らしいですけど。僕によりそってくる気色の悪いおばちゃんとか……。有名税というんでしょう。おもろい儲からない体験をさせられました」
 この宇多さん、かつて日本社会党の党員だったこともある。奈良県本部の専従書記であったのだ。多才多芸、というのか、器用貧乏というのか、小説も書けばルポルタージュも手がけ、自費出版の企画・編集もこなす。しかし、どうも一極集中して持続的に事を成す、というタイプではなさそうだ。
 「夏の奈良は暑いですから、秋にでもまた」と見送られたが、はたして奈良盆地が紅葉で色づく頃、この人、なにをしているんかいな……。
宇多さんの店
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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