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橋本勝さん*ニッコリ笑ったテロリズム

インタビュー 橋本勝さん

 風刺を「ニッコリ笑ったテロリズム」と評した詩人がいた。橋本勝さんの作品をみるたびに、それを思い出す。
 テロリストはたいてい若い、血気盛んな青年であり、懐剣は鋭い、というのが芸術の世界である。
 橋本さんは10代の後半にはすでに作品を発表していた。その頃の風刺性は成熟こそすれ、70歳を迎えたいまもいささかも衰えていないように思える。

 橋本さんの作品に筆者がはじめ触れたのはいまは存在しないATG映画のプログラムに掲載されていたB5判ほど誌面の3分の1大で掲載されていたイラストであった。そこで観た橋本流ともいうべき鋭敏な線、するどい風刺性、限られた紙幅に要約された象徴性……最近著でも、それがいささかも変わらない。

 「すこぶる単純な動機からです、描きはじめたのは・・・気にいった映画、好きな映画、自分の感動を自分なりの方法で伝えたい、と思いました。それがぼくの出発でしたね」
 
 橋本さんが絵で批評した映画はたいてい社会派、分かりやすく古典的名作でいえばチャップリンの『独裁者』。むろん橋本さんもチャップリンへの敬愛も強く、繰り返しチャップリン映画を取り上げている。
 こうした映画に対する批評は橋本さんの重要な仕事となっていき、いまも続いている。映画の試写室で良くお会いするし、その後でお茶しながら、見てきたばかりの作品を語り合う時間をもつことになる。それは充実した時間だ。

 60年代後半から70年代、日本は政治的 な季節だった。当時、デビューしたばかりの橋本さんが社会風刺に手を染めるのは必然だった。それ以降、橋本さんは連綿と描きつづけている。40年以上の活動歴だ。そして、いまも表現力はいささかも衰えない。

 「ぼくは年金もないですから死ぬまで働くしかないですよ」と自嘲気味にいうが、おそらく、そうした生活の切迫感、飢餓感も作品にいまも鋭さを与えているのだと思う。だから、橋本さんの描く社会風刺はテロリズムの刃を持っている。

 「いま新聞などにある時事漫画は風刺性はまったく希薄ですね。あれは時事漫画ではなく、“時局”漫画です。だから、その時局が経過してしまえば存在価値がなくなるんです」。卓見だと思う。

 橋本さんの視点は時局を一度、客観視して未来を見つめる。だから、その作品はいまも今日的な力を持つ。
 この新著の前 に橋本さんには『20世紀の366日』という著書がある。1年366日を歴史的な事件で日めくりのようにした作品だが、そこには確かデビュー当時の作品が収められているぐらいだ。つまり約40年という歳月を経ながら、力を失っていない。

 「社会風刺画家の義務のようなものを感じて2001年の元旦から毎日一点、作品を描き出したのです。そして、1年が終わったら、1冊の本にまとめはじめたのです。2003年まで本にしましたが、出版不況のなかで頓挫しました」 

 しかし、橋本さんは描きつづけた。
 その21世紀の作品群から厳選した366日(枚)が本書である。橋本さんの仕事は現在進行形でいまもつづいている。
 ▽第三書館刊。1400円。
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北朝鮮の強制収容所に生まれ育ち、脱出した青年

映画『北朝鮮強制収容所に生まれて』
 で北朝鮮の過酷極まる非人権的状況を証言したシン・ドンヒョクさん。
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 シン青年は聡明だ。人権などまったく無視された強制収容所で生まれ、6歳から奴隷労働を強いられた。居室には家具一切ないという生活だった。寝具はおろか、食器すらないという暮らし。生活そのものが拷問のようなものだ。母と兄が理不尽な理由で目の前で処刑された。悪夢ような現実のなかで生きる意志を絶やすことなく脱走に成功、中国に越境して自由の身になった。その意思の強さは今、人権活動家として世界を飛び回る活力に転化しているようだ。
 「過去の悪夢に脅かされています。こうして話をした日の夜は眠れないことも…」
 しかし、仕事だ、質問しないわけにはいかない。
 「映画の撮影から5年が経ちました。この間、求められるままに各国の人権団体の招きを受け話をしてきました。国際会議にも幾度も参加した。いま、偵察衛星を通して自分がいた収容所の様子が分かります。それをみていると自分が暮らしていた当時より規模が拡大しているのです。罪もない人があらたに収容されたているということです。金正恩は外国へ留学した体験があります。世界は多様で自由に満ちていることも、人権ということも知っている人間だと思い、わたしは状況は改善するだろう、と期待した。しかし、現状は逆だ、ますますひどくなっています。自分としては無力感を覚えるし、国連をはじめ国際機関は何をやっているのだと怒りも覚えます」
 「故郷が恋しい」、つまり収容所にもどりたい、と映画で語っていましたね。いまもその気持ちは変わりませんか?
 「現実に帰れるわけではないです。しかし自然は美しく川の水はおいしかったし、星空は美しかった。いま、映画に出て、まるでスターのように扱われていますが、とても不本意です。農民として野良仕事したいと思っています。いま私が住んでいる韓国の人たちは平和な社会に住みモノに恵まれていますが、価値観の多様化に悩んでいるように思います。自殺者が多いのに驚きます。収容所の暮らしは本能的に生き残るためにだけ生きていた、のだと思います。人間は痛みには耐えられるけど、餓えには耐えられません。餓えないための努力が生き延びた理由です」
 収容所での暮らしは、「心が純粋だった」とも語っていますね。
 「お金という存在をまず知らなかったです。ですから、裕福とか貧しいということも知りませんでした。ですから、物質的な欲望はなにもなかった。だから、いまでもお金の上手な使い方がなかなか身につかず苦労しています。31歳になりました。わずかな印税と、時どきソウルの食堂などでアルバイトしながら収入を得ています。脱出してから恋もしましたが、振られて傷つきました。いまはそういう存在はいません」と語ったが、通訳氏によれば25歳の独身女性と一緒に今回、来日しているという。  

ブラジル日系人社会にもたらした敗戦の悲劇を描いた映画

ブラジル日系人社会にもたらした敗戦の悲劇を描いた映画『汚れた心』を撮った

  ヴィセンテ・アモリン監督
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 日本の昭和の戦争は地球の裏側のブラジルに住む日系人社会にも深刻な影響を与えた。1945年8月15日敗戦を受け入れた人たち、この人たちを“負け組”、そして頑なに勝利を信じ信じ込もうとした、いわゆる“勝ち組”とのあいだに惹起された血の抗争があった。同胞同士のテロ行為で多くの死者が出た。この悲劇をブラジル人のヴィセンテ・アモリン監督が撮った。  

まぎれもないブラジル映画だが台詞の大半は日本語、俳優も日本人。しかし、監督は日本語をまったく解さないブラジル人。しかも主題は、日系人社会のあいだでもオープンに語られることなかった悲劇であった。その日系人にとって痛恨の歳月を深い洞察をたたえた人間のドラマとして描いた。
 「私自身、自分の国でこんな悲劇があったことを、一編の小説を読むまで知らなかった。小説は日系人が書いたものではなかったので客観性を持っていた。私はこの悲劇によって、大きな戦争に翻弄される個人のドラマを描けると思い、小説の映画化の権利を買い準備をはじめた。事件の当事者、日系人への取材は最初は困難でした。興味本意ではなく、遠い母国の戦争に翻弄された人たちを敬意をもって描くことを理解してもらってから取材ができるようになりました」
 アモリン監督は本作の前に、ナチドイツに翻弄される一大学教授の悲劇を描いた『善き人』という映画を撮っている。戦争という大きな状況に翻弄される個人の弱さ、善意も政争の具となる悲劇を描いた佳作だった。
 「人間はみな私的生活を超えたところで、社会的存在として“選択”を強いられることがある。社会が与える強制力に個人はどこまで抗し切れるか、という永遠のテーマがある。私はそれに興味がある。映画の観客の大半は、権力者ではなく市井の人たち。そんな公衆に向って権力と個人の関係を映画を通して考えてもらいたいとも思っています」
 多くの死者も出した敗戦後のブラジル日系人社会は、それでも心の傷を胸底に隠しながら社会的成員として働き、学び、子を育て同国において尊重されるようになった。
 「多民族国家のブラジルでは2年一本ぐらい、公用語のポルトガル語がほとんど語られない映画が撮られる。その多様性はブラジル映画の特徴であり魅力だ。この映画はまだブラジルで公開されていません、日本で先行上映され、その評価がブラジルに反映されるでしょう。日本で成功させたいと思っています」
 日本の映画人が今まで何故、こうした日系人社会の抗争を描かなかったのだろう。日本語を解さないアモリン監督によって完成度の高い映画が提出された以上、日本映画界は重い宿題を与えられたようにも思う。



 映画「石巻市立湊小学校避難所」を撮った藤川佳二監督

 映画「石巻市立湊小学校避難所」を撮った
 藤川佳三監督のインタビュー

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 「地震・津波、家が流され、突然、日常を奪われた人たちは、どんな思いを抱いて毎日を過ごすのだろうか、と思った」と藤川監督は語った。「映画のためではなく個人的にそう思った。そんな私的理由から被災直後の昨年四月から避難所に入り、六カ月も通うことになりました」。その避難所の名がそのまま映画のタイトルになった。被災者の隣人となることによって心の声を聴くことができた。
「東北では隣近所、友人・知人とおしゃべりすることを“お茶っこ”するといいます。その仲間に入れてもらってから知り合いの輪が広がっていき、自然と取材対象が出てきたという感じです。強いて選んだということではないですね」
 ふだんの生活習慣が避難所でも維持されていたということですね。「そうです。生きるエネルギー、たくましさに満ちていたと思います。それを伝えたいという思いが出てきて映画になったということだと思います」。
監督自身の滞在が長くなることによって、監督のもつカメラは友人の視線となったようだ。みんな自然体で写されている。それが尊いと思う。映画は被災者への同情、援助を請うといった押し付けがましさはいささかもない。ありのままの姿を伝える。喜びも哀しみも……それが観る者を感動させる。しかし、それもどうなのか……? ひとりのおばちゃんが仮設住宅に入り独り生活をはじめることになった。カメラはその部屋まで入り込む。避難所では快活だった彼女だったが、独りになったとき涙をみせる。その涙にこめられた思いまではカメラは写すことはできない。そういう限界もまた見せてくれる。つまり藤川監督の持つカメラにはけっしてジャーナリズムの傲慢さはないのだった。
 ボランティアの姿も日常的な光景として記録される。添景として撮られる場合もあれば、発言を記録することもある。
 福島の富岡町から原発事故のために移住を余儀なくされた女性がボランティアをしていた。「あの方はご自身、富岡で被災し、原発事故で追い出されるようにして石巻の実家に戻っていた。実家は津波から無事だった」。そう人もいる。
 その女性は3・11前、原発を誘致したために“恩恵”を受けた町民の姿勢を批判する。東電から毎年、招待旅行を提供され嬉々として参加する町民がたくさんいた。そういう人たちが今回の事故で被害者意識しか持たないのはおかしいと話す。映画はその女性の発言を批評せず、ありのまま伝える。
「映画の最後に押し寄せる津波で湊地区が呑みこまれ破壊されてゆく記録映像が収録されています。この8月16日、湊小学校の体育館で上映会を開きますが、その記録映像はすべてカットします。取材を通して、そうした映像に傷つく被災者がいまだ少なくないことを知ったからです」
 多くの被災者にとって「3・11」は昨日の出来事としてつづく悲劇なのだ。
 


映画『キリマンジャロの雪』のロベール・ゲディギャン監督

社会の基本は人の繋がり、と教えてくれる
映画『キリマンジャロの雪』のロベール・ゲディギャン監督

 東日本大震災の後、「絆」という言葉がさかんに飛び交った。いまも各所に「絆」の文字が掲げられているが、褪色しはじめている。人の「絆」は1年で希薄になるものではないが、マスコミが主導した「絆」は拙速のシステムだったか、と再考させてくれる映画が『キリマンジャロの雪』だった。来日したゲディギャン監督にインタビューする機会をもった。


 映画の主人公ミシェルは定年を間もなく迎える港湾労働者。EUのなかでも経済的な疲弊度が小さいといわれるフランスだが、企業は生き残りを掛けてリストラをつづけている。ミシェルの職場でも数名を解雇することが労使交渉で決まった。組合はクジで解雇者を決めることになった、そのクジ引き役を引き受けた。そして、自分で外れクジを引いてしまい自ら解雇する。
 「私は労働現場を描くことで世代間の確執を取り上げたかった。リストラされる人間をクジで決める行為は平等ではない。労働者の生活条件がほぼ同じなら公平かも知れないが、定年間近で年金も保障されるミシェルと、働きはじめて間もない非熟練で低賃金の若年労働者とは釣り合いは取れない。現在、フランスでは若者の賃金はみな低く親世代に喰わしてもらっている層が多い。若者はプライドを奪われている」
 ミシェルとともに解雇された青年の一人は再就職もままならず幼い弟二人を抱え、たちまち貧窮。そして、不良仲間の口車に乗って強盗に及ぶが間もなく逮捕されてしまう。兄を突然、失った弟たちは保護施設に送り込まれることになるだろう。そんな子どもたちの姿をみてミシェルは自責の念をおぼえる。
 「労働組合は少なくともフランスでは会社との交渉だけに存在するものではなかった。戦争反対、福祉の向上などを掲げて闘争したヒューマニズムの拠点だった。私は初老のミシェルにその精神を甦らせたかった。人の絆の大切さをね。」
 ミシェルとその妻は、刑務所に入った青年の弟たちを引き取り育てることを決意する。無論、そこには葛藤の日々、周囲の無理解などがあるわけだが……。
 「いま、フランスは大統領選挙の渦中だが、社会党のオランド候補が勝利するでしょう。日本とどうようフランスでも市場経済で人の絆が希薄になった。資本主義の行き詰まりは目に見えている。富を公平に分配するシステムが地球規模で求められている。オランド政権下で国も少しは変わるでしょう。」
 監督は大統領選挙に控え、映画でオランド候補を支持した。昨年、本作はフランスで半年以上も上映され300万を越える観客を集めた。その観客の大半がオランド候補に票を投じただろう。キリマンジャロの雪

『千年の旅の民』を書いた木村聡さん

『千年の旅の民』を書いた木村聡さん
   ~ロマ(ジプシー)をカメラとペンで追い続け
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 『千年』とは、ロマ族(ジプシー)の流浪の歳月を指す。
 彼らの祖先はインド北西部で遊牧生活を送っていた。そのなかの一群がなんらかの理由で西へ向かって旅に出た。それから一千年を月日が流れた。
 しかし、その流浪の旅路を足跡をつまびらかに知るものは誰もいない。彼らは文字をもたず自分たちの歴史を遺すこともなかった。そんなロマに木村さんは興味を持った。
 「90年代にボスニア内戦の取材をしているなかでロマの窮状を知り、内戦を取材するとき彼らの視点も必要ではないかと思った。そしてロマの集落に入り、彼らの言葉を学んでゆくうちに取材対象が広がった」     
 本書の主要部は旧ユーゴスラビア連邦の崩壊によって生まれたバルカン諸国、そしてかつて東欧と呼ばれた国に住むロマに捧げられている。これまでボスニア内戦の悲惨な状況は多くのルポや写真よって詳細に語られてきたし、内戦を描いた映画は何本も公開されている。内戦で心身に傷を負った人たちの〈現在〉を追う映画も制作されている。しかし、その地に住んでいるはずのロマは無視されてきた。旧ユーゴには約80万のロマが暮らしていた。
 「ロマは内戦の当事者ではない。しかし、彼らはどこでも迫害された。知られていない事実だが、徴兵されたロマの男たちも多い。自分たちに関わりない民族紛争で戦い、死んでいった者もいるということだ」
 現在、ロマは全世界に1500万から2000万が暮すといわれるが実数は不明だ。非定住の民族だから行政の手が届きにくい。ロマたちも行政機関を信用せず、その束縛を受けたいとは思っていない。
 「ロマの流浪の一千年とは、人間は国を持たずとも生きていける、ということの証明です。民族のプライドも損なわれていない。そういう強さをもっている。国益とか国境紛争といったことに無縁に生きることは平和なことで、それを身をもって体現する。ヨーロッパ人はそうしたロマを密かに怖れ、その反動として差別したのではないか。そして、したたかなロマは、その差別を逆手にとって稼ぎ生きてゆく」
 本書のなかに、こんなシーンがある。
 〈いつもは質素で小ぎれいな格好をしているのに、今日は見た目にみすぼらしい衣服に彼女は着替えた。(中略)「このほうが町で歩きやすいし、買い物をしやすい」から〉
 私自身、スペインやコーカサス諸国、中央アジアで、あるいはメキシコで物乞いのロマの婦人、子どもたちにあった。みな服装はみすぼらしかったが、あれも「衣装」かも知れない。みな立ち振るまいが自然で、さもしさというものには無縁だった。
「あなたは自分の国からここ来た。そんな旅ができるほどお金をもっている。私に小銭出すのは当然だ」といわんばかりの堂々とした態度は説明しようがない。
木村さんは写真家である。まず写真ありきだ。
 「この本は、収録されている写真の長い解説だと思ってください。だから、写真一枚一枚に説明はありません」と。そう最初に言っておかねばいけなかった。写真が素晴らしい。印刷のクオリティもすこぶる高い。 *新泉社刊。2500円。
 

レベッカ・ドレファンスさん  映画『消えたフェルメールを探して』の監督

インタビュー  レベッカ・ドレファンスさん
  映画『消えたフェルメールを探して/絵画探偵ハロルド・スミス』の監督

 17世紀オランダ美術を代表する画家フェルメールの人気は世界的な傾向だが、日本の熱気も凄い。今日、確認されるフェルメール絵画はわずか35点、うち1点が1990年から行方不明だ。『合奏』。この行方知れずになった一枚の絵に執着して映画にしたドレファンス監督とティータイム……。  
合奏・小

 「米国に生まれ育った者にとって古典的なものに触れる機会というのは、日本の方には分からないでしょうがほんとうに少ないんです。少女時代、わたしはボストンのガードナー美術館に行き、その建物の古雅な雰囲気に魅了され、そして『合奏』をはじめて見て感動しました」
 同美術館は12世紀イタリア・ヴェネツィアの某宮殿を模した個人の私邸を開放して設けられたギャラリーである。
 「その『合奏』が盗まれてしまった。いまも行方知れず。いったい誰が何の目的で盗んだのか? 謎だらけ。その謎を追いかけようと約2年間、フィルムをまわしました。映画を撮っているあいだに発見できれば、という思いもありましたが、それは果たせませんでした。取材するなかで盗まれた美術品の探索に大きな実績をもつハロルド・スミスと出合いました。半世紀以上、各国の保険会社で働いてきた人で、『合奏』の発見を仕事の集大成にしようとしていました」
 スミスは2005年、懸命の探索にも関わらず、発見の志を遂げられずガンで死去する。
 「フェルメールの芸術によって時空を超えてさまざまな人びとが結びつく。そのことをスミスの仕事を通して描いたつもりです」
 『合奏』はまだ行方知れずだが、こうした映画のなかに棲(す)まう場所を得た。監督は「発見」を映画のクライマックスにできたらとの思いもあったようだが、そううまくはいかない。という意味ではちょっと盛り上がりに欠けた映画であることは確かで、編集にもう一工夫欲しいところ。それでも一つのドキュメンタリーとして仕上がり、商業的にもなんとか興収をえられるのもフェルメール人気、関心の高さだろう。
 映像作家としてのレベッカさんの実力は未知数。ティータイムはすぐ映画から離れてしまって、東京都美術館で開催中の「フェルメール展」の話題となってしまった。
 「日本に来てフェルメールを堪能できて素晴らしい体験だったわ。それだけでも日本に来た価値があるわね。あれだけ集めた企画力にほんとうに関心するわ」
 そう、フェルメール愛好家の多い日本だから、レベッカさんの小さな映画も日本で陽の目をみたんですよ、と告げたかったが、それは言わなかった。映画を買い付けた配給会社の宣伝担当者には、ちゃんと指摘しておきました。
  

金芙宣さん「映画で世界を知り、たくさんのことを学んだ」

インタビュー 金芙宣さん
「映画で世界を知り、たくさんのことを学んだ」
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 毎年、どれだけ多くの若者が東京に吸い寄せられるのだろう。
 東京でしか学べないことも多い、実現できない仕事も数多い。
 金芙宣(キム・プソン)さんも、「映画に関わる仕事がしたくて尼崎(兵庫県)
から単身上京した」人。「そのときウイウイしい24歳の私も31歳になりました」。
在日3世である。いま、映画の宣伝の一線で活躍している。
 いつもお会いするのは、少々うす暗いマスコミ用の小さな試写室の出入り口だが、
そこでの印象はいつも凛(りん)とした感じだが、あらため話をすると笑顔もこぼ
れ、ずっと柔和な感じとなる。おもわず李恢成さんの小説に描かれているチマチョ
ゴリの似合う美しい在日少女を想い出したりした。
「両親が朝鮮籍でしたから学校も朝鮮学校でした。学校では朝鮮語が必修で、在学
中はこんなに勉強する必要あるのかな、役に立つことあるの、という感じでした」
 人のウンは分からない。映画の仕事をはじめてから韓流ブームがやってきた。
「おかげで韓国へ行ったり。その韓国で、『あなたの話している言葉は軍人みたいだ』
と言われました。その時、はじめて北と南では言葉もが違うことも知りしました」。
 ところで映画の仕事に携わろうとした、きっかけは?
 「実家の1階が貸し店舗、2階が家という作りで、小学生の時、レンタルビデオ屋
さんが入ったんです。家主ということで家族全員、いくら借りてもタダというカード
を戴き中学、高校とビデオ漬け。映画で〈世界〉を知り、たくさんのことを学んだ。
それで映画に関わる仕事をしたい、と思うようになりました。大学も関西でしたが、
いざ就職というときになって京阪神では映画関係の仕事に就くことなんてまず無理。
二年ほど関西で映画の宣伝に関わっている広告代理店で働きましたが、やっぱり映画
の仕事は東京ということで、24歳で東京に出てきて今の会社に入ったのです」
 この仕事、長時間拘束、その割には報酬は少ない。好きでないとできない。
「その代わりといって良いのか、一本の映画を通じて、いろいろな分野の専門家と知
り合うことになるし、否応なく、いままで関心のなかった分野のことを勉強すること
になりますね。それが財産になると思わないとできない仕事ですよね」
6年、多忙のなかに身を置いてきて、それなりに充実していたが、両親の眼が厳しく
なった。気がついたら30を超え、ていた。「親が結婚をうるさくいうようになりま
したね」と苦笑。
「母はとても尊敬できる人ですが結婚となると『絶対、同胞』と妥協しないんです。
国籍より、私の仕事を理解できる人を求めているのに」と。そこで思わず、だったら
この仕事やってる限り独身を謳歌しつづける可能性は高いですね、と率直に言えば金
さん少々、自嘲気味に、「ホント長時間拘束で薄給。良くやってます……」と。しか
し、好きな仕事で食べていける、ということでは恵まれている。「はい、前向きに生
きていきます」。

映画『サラエボの花』を撮った ヤスミラ・ジュバニッチ監督に聞く

戦争の廃墟から生まれた人間愛の映画『サラエボの花』を撮った
  ヤスミラ・ジュバニッチ監督に聞く

 戦争はもっとも弱き者に深刻な打撃を与える。ときには次世代へ〈傷〉が引き継がれる。映画『サ
ラエボの花』は、多民族多宗教が混在するゆえ凄惨な内戦に発展したボスニア紛争の被害者の視点か
ら平和の尊さ、母性の強さ、子への信頼……そんな人間普遍のテーマを抱えた秀作である。集団レイ
プで子を身ごもった被害女性の心のゆらぎを繊細な演出で造形したヤスミラ・ジョバニッチ監督と対
話する機会を得た。
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 旧ユーゴスラビア連邦の統合の求心的なシンボルであったチトー大統領が死去した1980年以降
、急速に解体に向かい、やがて凄惨な「民族浄化」を引き起こす武力紛争に発展した。その最大の紛
争地がボスニア=ヘルツェゴヴィナ。映画は紛争から十数年が経ち、復興しつつある首都サラエボが
舞台だ。しかし、戦争被害者には「平和」はまだ遙か彼方の遠さだ。
 「国連など国際機関の調査ですが、サラエボには集団レイプの被害者が約二万人暮しています。地
方から出てきた女性たちも多く、故郷に帰れないまま、貧困を強いられています。彼女たちの心の傷
はあまりにも深く、仕事を探すのも大変な状況です」
 レイプによって多くの女性が妊娠し、敵の兵士が父親であることは間違いのない子を産むことにな
った。子を産む前に自殺する女性や、出産後、子とともに自殺した女性たちもでた。
 「多くの被害女性にインタビューをし、調査報告もできるだけ目を通して、主人公エスマを造形し
ましたが、彼女の日常生活での立ち振る舞いは、実際に被害にあった女性のものです。その女性の家
に招かれたときにみた、彼女の立ち振る舞いがヒントになっています。私は彼女に仕事をみつけたの
ですが、職場が『暗い』という理由で働くことを拒否しました。はっきり言いませんが、集団レイプ
の現場と似たなにかを感じたのでしょう。他の被害女性たちも皆、トラウマから解放されていないの
です」
 映画は、内戦から十数年後のサラエボに住む中年女性エスマの日々を追う。内戦当時の凄惨な映像
はでてこないが、サラエボのそこかしこに砲弾の傷跡が口をあけている。
 レイプで身ごもり、母となった女性は、成長する子の存在を通じて日々〈過去〉と付き合わざる得
ない。エスマの娘サラは勝気な子だ。父を内戦で戦死したムスリムのシャヒード(殉教者)と信じ、
貧しさに耐えて過ごしてきた。しかし、出生の秘密を知ってしまう。多感な12歳の少女にとって、
それは予期せぬアイディンティティの崩壊だった。映画は、そんなサラと母エスマとの母子再生の物
語でもある。
 「映画の原題はエスマが戦争前、夫ともに暮していた地区の名『グルバヴィッツァ』。サラエボ市
民でなければ誰も知らない地名です。ボスニアと特定して、戦争を語りたくなかった。私は人間が苦
痛を覚えるということに、政治的な立場はないと思う。人間の苦悩と、その癒しを映画にしたかった
。女性に対するレイプも、戦争に限定されるものではなく、社会的なシステムのなかでも日常的に起
こっている。現在のエスマがナイトクラブで働くという設定も、そこが女性の性を商品化する場であ
ったからです」
 原題の「グルバヴィッツァ」は日本人も捨て置けない地名。何故なら、そこは日本サッカー代表チ
ームのイビチャ・オシム監督の生まれ故郷であるからだ。セリビア軍がサラエボに侵攻したときの最
前線であったために荒廃をきわめた。主人公エスマもそこで囚われた。
 「政府には経済的な力はありません。ですから戦争の被害女性たちの救済は国際機関に頼らざるえ
ないのが現状です。それと、彼女たちもみずから治療を受けようとはしなかった。何故ならボスニア
には精神的ケアをうけるのは恥ずかしいこと、世間体が悪いというふうに思われてきました。ですか
ら救済機関も、通ってくる女性に『日当』を支給し、生活援助が目的ということで治療を行なってい
ます」
 映画はボスニア政府も動かした。戦争被害者の女性を救済しようと、まず「マスメディアがキャン
ペーンを始めた。それで政府も重い腰を上げた」という自作に対する自信を隠さない一方、「持続的
な事業になるかどうかはまた別の話」と冷めた目で現実をみる。
 『サラエボの花』一作で国際的な評価を得たヤスミラ監督のもとに欧米から多数のオーファーが舞
い込んだという。
 「でも、ハッピーな映画なら資金を提供するという話ばかり。自分の内的必然で撮れるなら喜んで
協力してもらいますが、思うようにはならないわ」。
 満足なカメラもない状況のなかでもヤスミラ監督は信念を通そうとしている。

▼対話でヤスミラ監督は「内戦」という言葉を拒否した。「独立したボスニアに対してセルビアが攻
撃した戦争」という立場だ。しかし、独立したボスニアには多数のセリビア人が暮していた。そのセ
ルビア人が独立に反対して銃を取り武力紛争に発展したという意味で「内戦」であったし、国際的な
認識だ。しかし、彼女の言葉を活字化するに当たっては、彼女の立場を尊重した。

インタビュー キャリー・ジョージ・フクナガ監督中米から米国入りする移民たちの悲哀をリアルに描く~映画『闇の列車、光の旅』

 昨年、中米諸国のオピニオン紙のホームページを読んでいるとき、幾度も本作が話題になっていることを知った。配給会社提供の予告編も観ていた。ホンジュラスから米国へ不法越境する少女とメキシコ南部を縄張りとするギャング団の少年の逃避行を描いた、いわゆる社会派映画。それから数ヵ月後、機会に恵まれ監督にインタビューすることになった。秀作である。
フクナガmini
(写真:上野清士)

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プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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