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日本=スイス 国交記念、150周年・400周年  2014

日本=スイス 国交記念、150周年・400周年*2014

 今年1月日付の掲載だから昨年12月に下記のようなコラムを求めに応じて書いた。スイスとの国交樹立150周年ということで。

 150年前といえば1864年、まだ江戸幕末、新撰組が京都で勤皇の志士を暗殺したりしている物騒な世情だが、米国、英国、オランダ、ロシア、そしてフランスとは修好通商条約を6年前に調印している。スイスは当時、連邦国家として新興の意気に燃えていたらしく代表団を日本に送り出して修好通商条約を結んだ。意外と知られていない事実だ。
 スイスの前に日本と国交をもった国はいずれも軍艦に乗って日本の重い門扉を叩いたが、スイスだけは平和裏に上陸したわけである。内陸国スイスには外洋船舶など存在しないのだから・・。そして、スイスは第二次大戦中も日本との国交を絶やさなかった。
 そんなこともあってスイスに対する日本人の印象はすこぶる良いわけで、拙稿が掲載された紙面には平和スイス、観光スイス、精密機械のスイスと賞賛満載の内容だった。しかし、メキシコや中米、ラテンアメリカ諸国からみるスイスはけっして手放しで賞賛できるような国とは思えなかった。そこで、筆者は、「スイスの光、そして濃い影」と出して小さな原稿を書き、編集者の賛意を得た。下記したのは、そのコラムに大幅に手を加えたものだ。まず、読んでもらいたい。
 
 ビクトリノックス…スイス代表する企業。アーミーナイフの世界的なメーカーだ。多機能折畳み式ナイフ「ソルジャー」はたぶん世界中のバックパッカーが憧れるアイテムだろう。もっとも中国あたりのコピー製品が世界中に溢れてもいる。
 スイスの政治と経済を考えるとき筆者はいつも「ソルジャー」を思い出す。携行食糧を調理し、簡単な機械修理もできるナイフだが手の平のなかにすっぽり収まる「ソルジャー」にはナイフだけでなく幾つも金属道具が折り畳まれている。が、その気になれば人を殺傷することも可能だ。
 精密・正確な技術がなければ製作できないものだ。この技術は、スイス産業を象徴的な存在である時計を思い出させる。
 しかし、ナイフも時計もスイスの象徴的な技術であっても、スイスの「銀行」が稼ぎ出すアコギな儲けには遠く及ばない。スイス最大の産業は「銀行」である。正確にいえば個人情報を完璧に秘密保持する企業、国に守られた金融産業だ。
 居住可能地がきわめて少ない小さな山国だが、国民一人当たりのGDPは世界トップクラス。その経済力を支える資源は“他人の金”。しかも、あまりに綺麗とはいえない怪しげな金。よく金に履歴はもたないといわれるが、スイスに集まる金ほど、その比喩にふさしいものはない。
 スイスの「銀行」も、政治家も、そして市民もみな汚れた金であることを知りつつ、見てみないふりをして運用している。スイス国内でそんな金がいつまでも汚れたままでいたのでは、スイスの自然も汚される、と思ったか、汚れを落とす技術を開発する。マネーロンダリングだ。その洗浄技術は日進月歩。スイスの銀行はいつでも高性能の洗濯機を回転させるマネーロンダリングの先進国。世界最大の麻薬密売組織の拠点だった南米コロンビアのカリとメデジン麻薬密売組織の利潤の多くはスイスで洗浄されていた。伝説的な故パブロ・エスコバルはスイス 「銀行」の上得意であった。

 また途上国の独裁者が国民から搾取した金をせっせとスイスに逃避させている。フィリピンのかつての独裁者マルコス大統領の官邸にはスイスの銀行職員が常住し、国民の血税をせっせとスイスに流していた。そんな話はアジアにラテンアメリカに、そしてアフリカ諸国に嫌になるほどたくさんある。
 預金者は個人名を登録せず、銀行はあらゆる便宜を秘密裡に処理する。銀行の秘密保持はスイスの最高法である。
 最近は、生産拠点で高い税金を納めることを避ける多国籍企業や資産家たちがスイスの銀行に資産を逃避させる。タックス・ヘイブンの本拠地である。日本のハリー・ポッターの訳者がスイスの銀行をつかって税金逃れをしようとして発覚したのは記憶に新しい。

 観光ポスターに象徴されるアルプス、自然と町並みの美しさ。しかし、その景観を保っているのは貧しい国の民衆の生き血を吸った、吸いつづけた金だ。あるいはアマゾンの熱帯雨林を毀損し、カリブ沿岸 でマングローブ刈り取り、いくつもの自然の宝庫たる熱帯の峡谷をダムに沈めた開発独裁のおこぼれで、スイスの美しい景観は守られているといっても過言ではない。
 スイスには世界貿易機関、赤十字、国連の様ざまな機関が多数が設けられているが、そうした国際組織を招致しているのも曰く言い難い罪滅ぼしと思えてくる。大戦前には国際連盟本部がジュネーブにあった。これが全く機能しなくなったとき、ドイツ国内のユダヤ人の資産を預かり、戦中に多くのユダヤ人が行方不明となって、その資産はそのままスイスに滞留した。膨大な「資産」が国際機関招致の基金になったのではないかと後ろ指を指されても返す言葉もなかろう。凍結(?)されていたユダヤ人資産が人権機関などに「返還」されたのは戦後も半世紀以上も経ってからだ、それも米国の圧力であった。むろん、そのユダヤ資産を運用して巨万の利益を得ていたことは歴史的事実である。
 欧州のほぼ中央に位置し、EUの加盟条件をほぼ満すが、未加盟だ。欧州共通の税制、国際的な銀行監視、麻薬取引や投機のコントロールを強いるEUをスイスの銀行は嫌悪する。スイスでは国会議員の兼職が認められている。銀行の役職に就く議員が多い。自分の首を絞めるようなEU加盟などとんでもない話になる。

 ・・・・・・というものだ。
 さて、今年はスペイン・メキシコとの国交、というより“出会い”ということなるだろうか、それは400年前に遡るのだ。歳月の長さでいえばスイスの比ではない。日本がはじめて西欧文明と接触したのがスペインであったのだ。メキシコ、つまり当時のヌエバ・エスパーニャ副王領となるが、その副王領の太平洋沿岸都市アカプルコを出航した船にのってスペイン文化が日本に入ってきたのだ。
 関係各位はいろいろ記念イベントを計画し、最近、メキシコ音楽の夕べといったコンサートを東京オペラ・シティ劇場で聴いた。しかし、何故か目立たない。探さないと記念イベントの告知にも埋もれたままといった感じだ。早5月、もう少しスペインからの働きかけがあっても良いかなと思い、加筆した。 (2014/3記)  
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3・11への断章 ~自らの記憶として

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 あの日、あの時、筆者は都内大田区の11階のマンションの一室にいた。尋常でない揺れは2度目の方が感覚として大きかったように思う。タンスや食器棚のバタン! といっせいに開き、手の施しようもなくガラスコップなどが叩き出され砕けた。慌てて、物干し場を兼ねたテラスに続くガラス戸を全開にした。そこからどうするのだという当てもないまま外への逃げ場を確保しようとした。万が一の場合、雨どいをつかっても地上に降りてやろうという覚悟だ。マンションのどこかで火でもつけば、そんなこともあるだろうという思いがあったかどうか・・・。つづいて玄関のドアを半開きにして、そこに立った。そうして揺れをやり過ごした。揺れが収まってもしばらくそこを動けなかった。エレベーターは止まった。外付けの非常階段へのドアが開くことを確認した。その階段を使って屋外に出ようと思わなかった。階段を降りているときに、また大きな揺れがきた時、どうなるのか、という心配があったからだ。玄関のドアが閉じないようにものをおいてテ レビをつけた。自衛隊のヘリコプターが上空から撮った津波が襲うリアルタイムの映像をみたのは何時だったか・・・。
 それからの時間、それからの日々・・・日本人、強いて言えば東日本人、つまりあの大きな揺れを体験した人、被災、非被災を問わず、恐怖を共有したのだ。後日、筆者の79歳(当時)母は「空襲のときより怖かった」と言った。アノ東京大空襲を荒川区で受けた母がそういうのだ。B29爆撃機から放り出された焼夷弾のため火の海を逃げ惑った体験より怖かった、という母の心性はにわかに理解できないが、遠い日の体験より、肉体に実感として残る「恐怖」に重きをおいたのだろう。
 3・11以降の日々、TVからCMが一切消えていた日々とも言って良いかと思うが、その日々は、日本人をある意味、一体化しただろうし、筆者自身は「日本」を愛すべき国だと再確認したのだった。その時期、日本では一般犯罪は激減していたと思う。戦時下、犯罪減ったように。

 13年、海外で暮らした筆者にとって、その歳月は日々、「日本」、あるいは「日本人」を自覚する日々であったと思う。外から、日本語社会から遠ざけられ環境下、日本の当たり前の味に枯渇する日々のなかで、あらためて日本という国は良い国であり、良い民族だと思った。
 語弊があるかも知れないが、3・11を、海外生活を終え帰国してから体験できたことに感謝したいと思っている。
 津波の被害を受け、急死に一生をえた人々の姿は素晴らしいものだった。節度と忍耐、人を思いやる美徳、自らの生命を顧みず行動した人びとのヒロイズムの気取りもなく、とっさの行動として危険のなかに飛び込んでいった人びと。なんて、被災者は美しかっただろうか。
 
 2011年8月、米国南部メキシコ湾沿いの都市がハリケーンの襲われ居住区が大きな被害にあった。行方不明をふくめ2500人以上の犠牲者が出た。米国政府、州政府、当該自治体も未曾有の水害のなかで採れるべき方法で対応したと思う。衣食住をいっぺんに失った被災者は救助を待っていた。それは日本の被災者と同じ状況である。
 しかし、米国の被災者はやっと届いた援助物資をわれ先に暴力を行使して奪い合った。それは醜い光景だった。そういう光景は、内乱のつづくアフリカや中東諸国などで目にするものだった。米国のような豊かな国で現出すべき光景ではなかった。被災地がアフロ系住民の多く住む貧困地帯であったということもあるが、彼らは餓鬼の様相を示した。ハリケーンの季節だから、被災者を凍えさせることもない。ものの腐敗はより早く進むだろうが、それでも3月の東北の地よりはるかに生き延びるのは容易なはずだ。しかし、被災者に節度も忍耐もなかった。米国社会の矛盾、この国には民族的一体感がやはり欠如しているとしか思えない光景だった。それは他宗教、他民族に対する偏見を煽り、人種的差別発現を繰り返す大統領候補が多くの支持を得ている風土を支えているところにつながってゆくように思う。

 東北の被災地では一件の暴動も発生しなかった。暴動どころか、援助物資を待つ人々は互いをいたわり合って列をいささかも乱さなかった。寒風のなか、ときに雪混じりの風が吹くなかで耐えた。東北人の我慢強さかも知れない。それは美しい光景であった。日本人として誇りとすべき雅な光景ですらあった。
 諸外国のメディアは、そうした東北の被災者たちの態度を賞賛した。それは物思う種としての人類の叡智そのものを象徴する行為であったからだ。こうした被災者こそノーベル平和賞にふさわしい。スペインの高名な人道賞が震災直後、東電の福島原発事件で勇敢な作業にあたった消防士たちを顕彰し称えたが、日本ではいまだそういうことが行なわれていない。日本政府政府は目先の「観光立国」の施策から、ユネスコの「世界遺産」の登録には熱心だが、5年経った今、いまも仮説住宅に取り残されている被災者たちのためにも、ノーベル平和賞候補として推薦すべきだ。少なくともそういう発想があっても良いではないか。

 その夜から直接的な被害を受けなかった東日本に住む人々は間歇的に襲ってくるかのような地震にうながされるように買いだめに走った。食糧など日用雑貨を確保しておこうというのはそれぞれが身を守るための行動ともいえるが、しかし、その時、市民の多くはそれなりの節度をもって買いだめしたと思う。
 筆者の居住地である埼玉県蕨市、自宅周辺にはあるいていける場所に6軒ほどのコンビニ、そして大型のスーパーマーケットが散在する。品数も豊富で、常時、棚は充実していた。通常の買い溜め、数日の生活が確保できる程度の買いだめなら商品棚から品物が消えるはずはなのだ。ところが消えた。
 蕨という町は全国でいちばん小さな市である。しかし、たとえばクルド系トルコ人がもっとも多く住む町であるように多くの外国人が住む町である。ここ一年ほどのあいだに知り合った外国人のなかにはルーマニア人親子、シリアからの留学生がいた。娘が通っていた小学校のクラスメートには中国、韓国、イラン、フィリピン国籍の子がいた。ロシアやウクライナから来ていると思われるスラブ系住民も多い。
 このなかで、3・11直後から買い溜めしたのは中国人たちだ。いまでこそ、日本経済に貢献するとかで中国人観光客たちの“爆買い”が話題になっているが、3・11直後も“他人をまったく思いやらない“爆買い”に走ったのだ。それは記憶されなければいけない。
 中国人観光客たちの日本における消費行動の基底には自国の製品に対する根強い不信感がある。それは自国政府を、その政府が発効させている法律を信用していな いということだ。マクドナルドの食材を加工していた中国の工場が腐った鶏肉を出荷したり、溝河から油を救って煮炊きに利用していたりといった風土、企業の倫理観の欠如があることをしっているから、旅行に来て「観光」の合い間に精力的に日本の家電を買い、薬品を“神薬”と崇め、化粧品を買いあさっているのだ。それは中国人のふだんの生活を律する行動規範となっている。
 そんな中国人が日本に住みだし、職を得て、都内より格安な価格で住める蕨市内に住むようになってから3・11に遭遇したとき、彼らは中国人として当然な行動に出た。それが買い溜めだ。3・11直後の彼らの行動を別に観察していたわけではない。こちらもそんな余裕のある日々を過ごしていたわけではない。しかし、震災直後から無数に起こる揺れ、そのなかにはかなり大きなものがあったことは読者諸氏も体験しておられるだろうが、そんな地震が起きた直後にたまさかコンビニなどで見かけた光景のなかで、「今更、なんでそんなに買いだめする」と思われる消費行動をしていたのが中国人ばかりだった。彼らが3・11直後、どのような消費行動に走ったかは容易に想像できるし、親しくなったコンビニのレジ打ちの店員からも聞いている。
 中国人の“爆買い”はいまでこそ、日本経済を押し上げる効果があるとして、どこか大目に見られているところがあるが、しかし、醜い光景であることは間違いない。彼らは日本でばかり“爆買い”しているわけではない。
 先年、パリのシャンゼリゼ大通りに本店を構えるルイヴィトン。春の某日某時間、店内は中国人観光客、否買い物客で賑わっていた。内装の優雅さに似合わない猥雑さがそこにあった。店では金離れの良い中国人客を見込んで中国系の店員に応対させていた。その店員がどこから来て、どこの国籍を持つ人かしらないが、その物腰し、声も控えめ、客の求めがない限り、自分から客に接近することもなく、できるだけ店内の猥雑さを中和させるために静寂の孤塁を守るという態度のエレガントさに感心した。
 そういうエレガントな中国人を少なくとも、わが蕨市ではみたこともない。

 被災地で小さな紡績工場であったか津波の被害を受けた。そこには中国から来た女工さんたちが大勢、働いていた。彼女たちを逃がすために、その経営者は犠牲となった。女工さんたちはみな無事だった。
 中国からも救援活動のために政府派遣のレスキュー隊が駆けつけた。その人員規模は、遠く太平洋を越えてやってきたメキシコのそれより少なかった。派遣したとアリバイ作りのために来たようなものだ。そのことも記憶に留めておきたい。

 ふだん付き合っている革新系無所属の若い市会議員がある会合で、「明日、津波で出たゴミを焼却するために北埼玉の焼却場に持ち込まれる予定で、それに反対する市民組織を応援するために出かける」と朗らかに語リ出した。
 筆者は、「何故、市民組織は反対しているのか」と聞いた。
 彼は、「放射能に汚染されているかも知れないからだ」と言った。
「きみもそう思っているのか?」
「いや、確信はないけれど、要請されたからだ」
「それはどこのゴミなのか?」
「宮城県から運ばれてくるものらしい」
「福島から運ばれてくるものじゃないだ」
「宮城です」
「では、何故、反対する」
「汚染の恐れがあるからだ」
「宮城県から排出されるものは心配ないのでは」
「恐れがあれば反対しないわけにはいかない」
「そんなことを言っていたら被災地の厖大なゴミはいつまでも片付かないじゃないか」
「地元での処理が原則だ、とその市民組織は反対している」
「きみは、そのことに賛同しているのだな」
「・・・・」
「地元での処理が原則というのはわかる。しかし、まだ行方不明者の捜索が行なわれている状況のなかで、ゴミの片付けも急務だろう。復興事業は厖大なゴミをなんとかしなければ始まらないだろう」
「しかし、もし放射能汚染されていたら、汚染の拡散になる」
「じゃ、聞くがその汚染されているかも知れないという厖大なゴミを被災地に放置しておけというのか、その被災地にも生き残った子どもや老人が暮らしているだろうし、そのゴミを整理している市民、ボランティアは汚染被害を受けても良いということか?」
「・・・・・」
「そんなの市民組織でもなんでもないよ、そんな運動を得意気にやって反原発運動を参加しているというのは、自尊心だけ満足させている似非ヒロイズムの集団だ。きみはそれに加担しようというのか?」
 筆者はそのとき、そうとう腹を立てていた。そして、当の市会議員クンは沈黙してしまった。
 
 当時の民主党政権のだらしなさはいまさらいうまでもないが、いわゆる左翼といわれる人たちの運動の偏頗性はまったくうんざりするものだ。彼らの“連帯”というのは、悪しき自己完結型で世界、東アジア、そして日本をトータルにみていない。彼らも被災者たちへの連帯を声にするし、それなりのボランティア活動にも献身しているのだろう。しかし、それが自分たちの居住区に及ぶとき、近視眼的な対応しかしない。
 筆者は地元での反対が起こることも予期しながら、ゴミの焼却という援助をしたいと決断した自治体長の立場に賛同する。たとえ疲弊している自治体の収入確保のためのゴミの受け入れを決断した自治体長の立場に賛同する。わが蕨の共産党系市長は、あおの時期、なにか行動したのだろうか? 駅前商店街がどんどんシャッター街となってゆく現状にまったくの無策であるように、なにもしなかった、市民の目に映るような行動はいっさいなかった。
 くだんの市会議員クンに筆者は言った。
「もし汚染されていたとしても、そのゴミを早期に処理するために宮城県レベルの汚染を分かち合うのが本当の連帯ではないのか? 絆、ということではないのか?」
「・・・」

 被災から2ヶ月ほど経ってから三陸海岸沿いに車を走らせた。一関駅前でレンタカーを借りて走らせた。最初は仙台駅に降りて駅周辺のレンタカー屋に軒並みあたったが一台の余裕もなかった。ある店で一関駅前の支店に一台空きがあると聞き、すぐ予約を取って向かった。
 気仙沼、陸前高田、大船渡というコースだった。限りある日程のなかで地元との人たちと触れ合うなかで多くの「3・11」を聞いた。
 筆者の20代前半、某商事会社の営業マンだった。担当地域が長いこと東北六県であった。三陸地方にも繰り返し訪れて、当時の筆者の稼ぎの何分の一かは東北地方からあがる利益から出ていた。その金で子どもたちも養育できたのだった。
 陸前高田の荒廃には言葉を失った。唖然とか悄然とか・・・そんな形容が喉のなかで砕け散るような光景を前にただ沈黙するしかなかった。ただ、海から吹き寄せる風を背に受けながら、遠くの里山までまっ平らになってしまった市街地、その廃墟。思いでもなにもまったく拒絶する荒景であった。きょうまたTVで陸前高田が映し出された。復興などまったく感じられない。むろん、地元では血のにじむような努力があるはずだが、それがなかなか見えないほど大きな被害にあったということだ。
 この夏、三陸をふたたび訪れてみようと思っている。

ホタルの爆発

ホタルの爆発

 12月9日、作家の野坂昭如さんが鬼籍に入られた。あらためて野坂さんのプロフィールをみると私の母と同い年生まれであることを知り、戦中、そして敗戦直後の労苦を思わずにはいられなかった。母は二度の東京大空襲を荒川区で体験し、焼け出され埼玉県南の川口に逃げ延びたのだった。
 そんな少女時代を過ごした母が語る“昭和”は野坂さんが書いてくれた幾つもの小説によって肉付けされた。1967年、直木賞を受賞された『火垂るの墓』『アメリカひじき』は敗戦間際、そして敗戦直後の日本を地を這う声として描きだされた名作だ。昭和という時代を語るとき、けっして忘れてはいけない小説だと思う。しかし、文学的達成というなら、私見だが『骨餓身峠死人葛』あたりではないかと思う。その作品が発表された1969年、現代詩の専門雑誌として当時、多くの読書を抱えていた『現代詩手帖』に、その冒頭部分が当年の代表作、そこでは散文詩という扱いになったと思うが掲載されていたことを鮮やかにいまでも鮮やかに思い出す。そして、70年安保をはさんだ10年ほどが野坂さんがもっとも充実し た仕事をしていた時期となるだろうか。
 野坂さんの訃報は、〈『火垂るの墓』で知られる作家〉といった枕言葉で告げられた。同じ直木賞作品であった『アメリカひじき』でも『骨餓身峠~』でもなかった。むろん、それは社会的知名度の高さということで『火垂る~』となったわけで、文学的評価とは別だ。そして、そこにはジブリ効果というものがあっただろう。多くの人が映画『火垂るの墓』(1988)の感動から野坂文学に近づいただろう。
 
 で、私はというと、その『火垂る』から1990年雨季のはじまり、中央アメリカ三カ国の乗り合いバスの旅で遭遇したホタルの乱舞、狂気的ですさまじい、としか形容のしようのない群舞、爆発的な光の点滅のなかを突き進んだときのことを思い出してしまうのだ。
 
 中央アメリカ、南北のアメリカ大陸をつなぐ地峡に7カ国がモザイクのようにつらなっているが、その乗り合いバスの旅はグァテマラ、エル・サルバドルを経て、陸路、ホンジュラスの国境を超えて同国の首都テグシガルパ経て、カリブ海沿岸にいたる行程であった。そのテグシガルパを囲む、高地をゆっくり走っているときに遭遇した。
 当時、グァテマラもエル・サルバドルも内戦のさなかにあった。白昼、都市部での戦闘というのはほぼなくなっていたが、幹線道路には迷彩服の政府軍兵士が自動小銃の引き金に指を当てたままパトロールしていたし、ときどき市場に乗り付けた武装トラックから飛び降りた兵士たちが通路の売り物を蹴飛ばしながら駆け込んでゆくという光景がみられた時代だった。
 グァテマラでは幾度もバスから下ろされ、両手をバスの横腹について検問を受けたことも幾度かあった。熟練の兵士に検問を受けるのはいいが、おどおどした少年兵士におなじことをされるのは背筋が凍てつく。肝の据わっていた少年の指にかけられた引き金ほど危険なものはない。まるで映画のなかのシーンだなぁと思いつつも、若い兵士の目は険悪で、視線をあわさないように、その動きを注視しなければならなかった。怖いのはたまたま乗り合わせたバスのなかにゲリラ兵士か、そのシンパが潜伏していることだろう。
 内戦国エル・サルバドルから、貧しいがとりあえず戦火のないホンジュラスに入国するとなんとなく気が抜けた。
 国境にたむろす首都テグシガルパ行きの乗り合いバスをみつけとりあえずホッとする。しかし、うとうとなどできない。外国人旅行者はこそ泥のかっこうの標的なのだから、とりあえず終点まで目をあけている必要がある。これは、けっこう辛いことだが仕方がない。バックパッカーの旅というのは幾多の試練をシレンとは思わず鷹揚に受け入れる覚悟がないとできない。
 しかし、偶然、乗り込んでしまったバスはまったくとんでもないシロモノだった。なりばかりおおきな愚鈍な鉄のロバ。走り出して30分もしないうちに減速、サンチョパンサが曳くロバのごとき歩み。理由など分からない。途中、いくどか路肩に止め、運転手はボンネットを開けて点検しているが全然、スピードは上がらない。
 夕刻前にテグシガルパに着きホテルを探すつもりだったが、それは早々、断念。満席の乗客誰ひとり、「もっと早く走れ」とか、「金を返せ、他のバスを見つけるから」といった文句、罵声はまったくあがらない。みなろくでもないバスに乗り込んでしまった身の不運を受け入れているように思える。
 もともと米国でさんざんはしりまわったスクールバスを再利用したものだ。部品は寄せ集め。そんなバスが中米諸国のそこかしこを走り回っている。そんな中古バスが悪路だらけ、積載オーバーで走り回っていれば、バスがもうやってられねぇと悪態ついても座り込むのは当然なのだ。「俺はロスでさんざん走り回って、やっと年金暮しを迎えたとおもいきゃ、何のことはねぇ、鉄くず値段で中米にうっぱられ、ノミ、虱をわかせた汗臭い連中を満載して青息吐息で走らされている。老い先短い俺を鞭打つ。この世に神などいるものか」とゼイゼイいっているバスがのた打ち回っている。バスの悪態ごもっとも、と乗客も納得してからおとなしく揺られている。運転手は、まぁまぁ終点についたら新鮮なオイルをたっぷり飲ませてやるし、プラグもみな取り替えてやるからな、とかなだめ すかしながらハンドルを握っているのである。
 はやばや夕暮れが迫ってきた。この夕暮れをシャワーを浴びたホテルの部屋で迎えるはずだった。
 夕暮れが山のかなたに沈み込んで、街路などほとんどない道をテロテロと走るバス。やがて深い闇のなかを這うように走る。クーラーなどないバスだから、車窓は全開である。その窓から侵入したのだろう。蛇行しながら点滅する小さな光が目のまえを過ぎてゆく。ホッ・・・という感じで光を追うと、やがて車内のあちらこちらに小さな点滅が舞っている。
 あれホタル? と疲れた視覚が感知する。
 ホタルがバスに侵入、と思っていたら、たちまち光は増え、やがて点滅はバスのいたるところではじける。車窓から出した腕に光があたる。顔にもあたる。服につく。髪の毛のなかに入り込んだ感じもする。なんだ、これは・・・ゆらりほらり、幽玄明滅なんてしろものではない。バシビシッ、傍若無人である。道の周囲に無数の点滅、目を防御するようにして、道路の進行方向を眺望すると、遠くの丘か山か、その稜線がわかるど光が点滅しているのである。
 ホタルはゆらりほらり、あっちにひとつ、こっちにひとつというもったいぶったゆらめきがリリカルなのであって、バシビシッときたら、こっともエイ! ヤァ! と手刀で迎え打つしかないのである。バシビシッ、エイ! ヤァ! と乗客は無言でパフォーマンス。そんな時間が10分か15分ほどあったのだ。そのホタルの点滅ゾーンを過ぎたら、もうなにもない。劇的なホタル鑑賞の夕べであったはずだが、あまりにも思いがけない出来事で鑑賞を観照する暇もなく、再び甦るロバの歩みに苛立つのである。すぐ、今晩、これから宿が確保できるかどうかという現実的な心配のまえに、ホタルのスペクタルを反芻する余裕も、ましてや一句ひねろうと気にもならない。いや、あれは散文、ドキュメントの世界だ。けっして俳諧のわびさびで括れるようなことではなかった。

 ・・・という思い出のまま、野坂さんの訃報までホタルの乱舞の記憶として20年以上、抱えてきたのだった。友人知人にその体験を幾度となく話もした。で、野坂=火垂るの墓=ホタルの連想でバス旅行のことを思い出していたら、あのホタルのこと一度も文章にしてこなかったことに気がついた。そこで、あれは、なんという種類のホタルであったのかと、いろいろ調べはじめた。と、なんと、それはホタルではなかったのだ。メキシコから中米地峡、南米北部にだけ生息するヒカリコメツキムシであったのだ。腹部の左右に発光する小さな点がある。
 日本にも約600種のコメツキムシがいるというからかなりメジャーなムシである。世界には約10000種! それぞれの環境にたくましく適応して子孫繁栄させているつよいムシということだ。日本のコメツキムシは光を放たない。だから、知らなかった。光を発しながら飛ぶ昆虫はホタルしかいないと思い込んでいたから、20年以上、ホタルの記憶として留めていた。
 野坂さんの訃報ではじめて私の記憶は是正された。
 この20年間、ホタル乱舞の幕間談として聞くはめになった友人・知人にはここで深くお詫びする次第である。ひとつ慰めがあるとすれば、エイ! ヤァ!と手刀でこたえた私の仕儀は正しかったことだ。ヒカリコメツキムシは栽培植物の根や地下茎を食う害虫である。で思う。あの異常とも思える繁殖であの付近の農作物はそうとう被害がでたのではないかと。まずしい農民の多いところだから、それは大変、深刻なことになっていたのではないかと今更、思ったところでなんの気休めにもならないのだが、やはり思わずにはいられない。

 中米暮しの13年間、エイ! ヤァ! と昆虫群と戦い、グチャ! ベチャ! と踏み潰したキモイ戦いを幾度も体験してきたのである。思い出すと背筋にむしずが走るような記憶もある。暇をみてこれからも記録しておこう。

当世江戸界隈寄席模様

当世江戸界隈寄席模様

 江戸庶民が育てた落語、その時どきのご時勢、庶民哀歓の世相を反映し、浮沈を繰り返しながら連綿とつづく大衆芸能。外題は世につれ千変万化、融通無碍に伸縮自在とゴムみたいな使い勝手がよいところが真骨頂。厚顔無恥でもあり、それに赤面しないところが他の伝統芸能と違う。限りなく増殖していく話芸でもある。先の大戦での負け戦にもめげず、焼け跡の娯楽施設として建ったのも寄席が一番だった。映画のようにたいそうな映写機もいらず、芝居のように役者をあつめて稽古する手間もない。
 「師匠、凸凹亭△白黒師匠がまた泥酔して不忍池にはまって風邪引き込んで寝込んじまったとかで、ここはひとつ、師匠に・・・」
 「そうかい、そまた席亭さんも難儀なことですな。まぁ、肥溜めにはまんなかったのが幸いってとこだ。馬鹿に効く薬はねぇってことよ、よござす、あいつの馬鹿をネタにしてやろうじゃねえか」
 とプログラムは当日、変わることはいまでも頻繁にある。入場料を返せ、割引きしろとねじ込む無粋な観客もいない。

 今、東京の寄席を拠点とする噺家は約四百五十人で落語史上、最多! しかし定席四というのは過去最低! お寒さ。

 新宿末広亭は場所柄、客層がもっとも若い寄席。左右に桟敷、畳敷の客席があるのはここだけだ。筆者はその桟敷、背を柱に持たせ掛け、足を伸ばして聞き入るのが好きだ。
 その末広亭を立ち上げたのが一代の道楽者・北村銀太郎。晩年、大衆芸能史に欠かせない聞書きを遺した。それによれば明治末期の寄席最盛期には二百席以上あったと語る。末広亭は敗戦後、焼け野原の新宿で一等最初に再建された娯楽施設だった。

 では現在の噺家は定席が激減するなか何故、生き延びているかといえばTVのバラエティー番組、地方への出前寄席、自主公演、歌謡ショーや結婚式の司会などで糊口をしのぐ。
 噺家の大半は落語協会と落語芸術協会の二大派閥に属す。一度、東北地方の市民寄席の巡業に同行取材したことのある三笑亭笑三師匠は現在、芸術協会お偉いさん。その笑三師匠が毎号、プログラムに挿絵や短文を寄せているのが浅草の演芸ホール。ここに筆者は良く行く。理由は、同じビルの上階に漫才を中心とする東洋館があってハシゴができ、かつて殷賑をきわめた浅草六区のど真ん中にあって借景が良い。

 寄席通いの愉楽を語るのは粋じゃないが、まだ敷居が高いと敬遠する読者に向けに書くとすれば、小さな小屋のなかに日本話芸の小宇宙がぐるぐると旋回していることだ。
 明治の粋を遺す三味線片手で都都逸などを盛り込んだ小話芸の巧み、かつて上野にあった講談の定席・本牧亭が閉場してから講談師の出演も多くなり、奇術や紙きり、曲芸師たちの当意即妙な話芸も見逃せない。それらの芸は、落語と分けて「色物」という。艶芸の意味ではない。また花柳界の色香をただよわせる芸人が観られるのは浅草がいちばんだろう。

 先に都内の定席四席と書いたが、これに某不動産会社が運営する貸席四席と、最高裁判所裏にたいよう立派な国立演芸場があるが、ここは日本でいちばん無粋な寄席だろう。寄席がはね、出てきたら街頭に照らし出される裁判所しか視界に収まらないというのは興ざめもはなはだしい。某不動産会社の貸席のなかでは両国駅にほど近い仮設寄席には幾度か通った。大相撲を観戦した足でいけば完璧ジャパネスクとなる。

 寄席は艶(えん)やな賑わいが似合う。
 思えば定席四席はみな日本の猥雑を象徴する歓楽街を後背地とする。
 野暮を承知で書けば木戸銭三千円前後で約四時間、二十前後の話芸を楽しめる廉価な娯楽場が寄席である。浅草はどうも年金暮しのお年寄りがおおく、噺家も“昭和”を語りすぎるところがある。
 年末、寄席で年忘れの笑いを受け、年始は笑いで福を迎えたい。その意味でも目と鼻の先に浅草寺がある浅草演芸ホールは一石二鳥だ。…別に演芸ホールから金を貰っているわけではないが、贔屓の延長での悪ノリでした・・・。

シルクロードのキムチの話

シルクロードのキムチの話

 地元、蕨市で月一回、自由参加の読書会をやっている。私が支援する市会議員の肝いりではじめたものだが、そのメンバーのひとりに福島は会津若松出身の在日二世、朝鮮籍の金さんがいる。金さんの息子さんたちは、せでに日本国籍を取得、苗字も替えている。
 金さんはある日、自家製のキムチを読書会に持参、小袋にわけたキムチを参加者にわけた。とがったところのない、まろやかな辛味のじつに品のいいキムチだった。
 私自身、韓国につごう4度訪問している。特段、韓国がすきというわけではないが、中米グァテラマに住んでいるとき一時帰国の際、割安な大韓航空やアシアナ航空を利用する機会が多く、日本に入る前にちょっと韓国に立ち寄ってみようという感じでの訪問だった。値段は同じでソウルはもとより国内旅行してプサンから日本国内に戻ることも可能だった。だから、韓国各地でキムチを食べている。でも、それほどの感銘は受けていない。当時、中米諸国にも韓国系企業はたくさん進出していて、韓国料理の食材店が各地にあってキムチを安く買うことができた。金さんのキムチは一世のおかあさんの味だろう。・・・で最近、金さん家(ち)のキムチととんとご無沙汰なので、それとなくオネダリするために今回は遠く中央アジア、イスラム国にキムチの話を。

 先年、シルクロードの国ウズベキスタンを10日ほど旅した。かつてサマルカンドに勃興したチムール朝が栄えたイスラム国家だ。インドのタジマハール廟は、このチムール朝の末裔が建立したもので、その最盛期は現在のトルコ、イスタンブールまで勢力を広げた。モンゴル以来、世界史的にみて二番目に大きな帝国だろう。
 しかし、この国はソ連邦の支配下に入ってから民族性を奪われた。現在、市の中心部にチムールの巨大な像が建つが、かつてそこにはレーニン像があったのだ。社会主義モンゴルでジンギスカンが貶められたように、ここウズベキスタンでもチムールの偉業は“帝国主義の歴史的体現者”として、共産主義帝国主義(チェ・ゲバラ)のソ連によって貶められた。
 
 ソ連崩壊後、ウズベキスタンは他の中央アジア5カ国とどうよう独立し、スンニ派のイスラム教を国是とする新興国となった。北のカザフスタンとどうよう資源大国で外資の浸透は目覚しい。特に韓国系企業の存在が目につく。むろん、理由がある。
 その理由を探るために首都タシケントから同国西部の町ヌクスに飛ぶ。双発プロペラ機で1時間ほどの距離だ。
 ヌクスといっても日本からまったくみえない町だが、ユーラシア大陸の大湖アラル海の湖岸にアクセスする町といえば少しはわかってくれるだろうか。もし、20世紀美術に興味がある読者ならロシア革命前後、活火山のマグマのように噴き上げたロシア・アヴァンギャルドのことを知るだろう。レーニンが死去し、権力闘争の末、独裁者となったスターリンの時代に弾圧され、迫害され夥しい作品が破棄された。この時代、ひとりのロシア人が自ら蒐集していたロシア・アヴァンギャルドの絵画や彫刻などを、ここにヌクスに送り秘匿した。そして、その存在はソ連崩壊後に明らかになった。その作品をヌクスの国立美術館で観ること、そして、ソ連の計画経済とやらの誤謬で革命前の約半分の湖面に縮小してしまったアラル海の無惨をみることだった。アラル海については、これまでも長い報告を書いていてブログには馴染まないと思い掲載していないが、そのうち時間をみてここに載せるつもりだ。いま、沖縄・辺野古の海が破壊されようとしている。近視眼的な政治が力を振るうとき、自然は抵抗できない。その20世紀の象徴がアラル海の荒廃だ。辺野古でも、その愚をおかしてはいけない。

 いまヌクスの美術館を「国立」と書いた。誤解を生むので慌てて注釈を加えると、正確には「カラカルパクスタン国立美術館」だ。エッ、そんな国があったのかい、と思われるのは当然、ソ連崩壊後、一時“独立”を標榜したが、すぐウズベキスタンの自治共和国となったから、日本からなかなか見えにくい。ヌクスの郊外に華麗、広壮なモスクが建設中だった。その偉容はとても印象深いものだったが、どうじに、そのモスクは半時間ほどの距離にいまも墓守の老夫婦がすむゾロアスター教信徒たちの墓苑があることには感銘深かった。私にとって、その老夫婦は私が親しく話すことができた唯一の信徒であったからだ。
 ヌクスに戻る。町の中心に自治共和国の政庁があり、その周辺に各公的機関が固まっている。しかし、その政庁前の道をラクダがのらりくらりと散歩している長閑さ。しかし、その長閑さにめくらましされてはいけない。くすんだ色の役所の建物は、この地にクレムリンの力が及んだとき、モスク、イスラム教の各施設が解体され、その建材を使って無宗教施設としての役所が建てられたのだ。郊外で建造中の華麗なモスクはヌクスのイスラム教徒たちの歴史への意匠返しのようなものだ。
 政庁から徒歩数分の距離に大きなバザール(市場)があった。夕方の喧騒はじつに活気に満ちていた。人口希薄なヌクスのどこから、いったいこの人たちは集まってくるのだろう、と思うほどの賑わいだった。
 そのバザールの一角にキムチを山と積んで売る露天商がいた。顔立ちは北朝鮮で密かに撮られた市場でモノ売るおばさんにそっくりな感じ。後日、ウズベキスタンの首都タシケントの市場でもおなじようなキムチを売る朝鮮族の女性たちを何組かみることになる。
 キムチは中央アジアのイスラム国に定着した庶民の味になって、すでに久しい歳月を重ねている。

 スターリン時代の1937年、極東の沿岸部に暮らす朝鮮人17万1800人がウズベキスタンとカザフスタンに放逐されるように追いやられた。日本の関東軍の諜報活動に朝鮮族が使われていることを知ったスターリンは、来るべき対日戦争に備え、災いの根は事前に取り除こうと内陸部へ強制移住させたのだ。
 「日本の敗戦で抑留された兵士たちは屋根のついたラーゲリに収監されたが、わたしたちはなにもない荒野に打ち捨てられた。生きた者はかつてに生き延びよ、と放置された。わたしたちは寒さの凌(しの)ぐため地面に穴を掘り、そのなかで生活しはじめたんだ」
 往時の悲劇を生き延びた朝鮮人の古老たちは、そう証言する。
 彼らは生き延びるために懸命に働いた。荒蕪地を耕し畑に替え、白菜を栽培し、やがてキムチを作った。そのキムチがトルコ系のウズベキスタンの民衆に受け入れられた。
 スターリンの犯罪はキムチの伝播をうながし中央アジアの食卓を豊かにしたが、朝鮮族にたいする人権犯罪はまったく償(つぐな)われていない。
 
 独立国家になったウズベキスタンに韓国系企業が進出してきた。そこで現地採用される朝鮮族の人がいた。自然の成り行きだろう。やがてタシケントに赴任した韓国のサラリーマンたちがウズベキスタンの朝鮮族と親しく交わるようなって、「ここの朝鮮族の娘さんたちは、韓国のイマドキの娘と比べたら純粋無垢、純朴そのものである」と語り、噂となって韓国に伝わった。
 ほんとうかどうか知らないが、「ならばウチの息子の嫁に、そのナントカスタンの娘を。なんでもキムチもみな手づくりするというではないか」と言い出す人が出てきた。若い男性も、「嫁探しに観光を兼ねて乗り込もう」となったらしい。そんな話をテーマに韓国ではウズベキスタンにロケを刊行、コメディ映画が制作された。

 ウズベキスタンの朝鮮族は、自分たちを「高麗人」と自称しているらしい。
 スターリンに生活を根こそぎ奪われたとき、彼に手を差し延べてくる国、組織、国際機関は絶無だった。それはそうだろう厳しい報道管制のなかで、それが行なわれたからだ・
 第二次大戦後、朝鮮半島にふたつの朝鮮族の国家が独立しても、中央アジアの朝鮮族は一顧にされなかった。そんな寄る辺なきシルクロードの彼らは朝鮮族ではなく、やがて誰いうともなく「高麗人」と自称するようになった。半島の同朋と一線を引いた。キムチの味はおれたちのほうが上だと思っているだろう。
 「韓国のキムチの多くが中国から輸入されたものだという。そんな安ければどこのものでもいい。保存のため色付けのためと化学薬品てんこ盛りのキムチなんかより、おれたちの自家製キムチの方がずっと美味いはずだ」と。
 韓国男性のウズベキスタンでの嫁探した不首尾に終り、美味しいキムチに舌鼓を打って帰国することになった。

チョコレートの苦い話

チョコレートの苦い話
(4年ほど前に書いたものだが、本ブログに掲載していなかったので採録)
カカオ アフリカ児童労働

 今年もまたバレンタイ・デーということで幾つかの義理チョコがそれぞれ趣向を凝らした容器に袋、そしてリボン付きでやってきた。いくつかはホワイト・デーということでなにがしかの返礼をしなければいけない。返礼はチョコレートでなくても良いようだが、それを考えるのもまた煩わしい。

 日本におけるチョコレートの販売総額は4000億円といわれる。このうち約4分の1がバレンタイン・デー需要ということだ。菓子業界にとって欠かすことのできないイベントになっていることが分かる。

 チョコレートの世界的普及に多大な貢献をしたのは無論、スペインである。トマトやじゃがいも、サツマイモ、あるいはトウモロコシと同じように原産はメキシコ以南のラテンアメリカの地。
 エルナン・コルテス率いるスペイン征服軍がメキシコ中央高原に君臨するアステカ帝国を滅ぼしたのがことがきっかけでヨーロッパに知られるようになった。チョコレートの名はアステカ帝国の公用語ナワトル語チョコラテがスペイン語に流用されたことによる。

 アステカ帝国の貴族たちが愛飲していた液状のものが起源。現在でもメキシコでは街頭で売られている。これがスペインを通じてヨーロッパに入り、やがて固形化され、砂糖を大量に混入することによって今日、世界中で好まれる嗜好品となた。
 現在のカカオ生産の主力はメキシコではなく西アフリカの沿岸諸国。日本に入ってくるカカオの80%はガーナ産。日本のチョコレートに「ガーナ」と冠した銘柄があるのはご存知の通り。第2位は南米のベネズエラとなっているが、その量は10%に過ぎない。日本のチョコレートはガーナによって支えられているわけです。
 もっとも最大のカカオ生産国はおなじ西アフリカのコートジヴォアールで世界の40%を生産しているといわれる。カカオの生産に特化したモノカルチャー経済の国だ。サッカー強国のカメルーンもまたカカオに特化した国。いずれも旧宗主国はフランス。つまり西アフリカ諸国のイビツな経済構造は植民地時代にフランスが押し付けたものだ。フランス帝国主義の罪はいまだに根強く尾をひいている。
 チョコレートには大量の砂糖が必要だ。
 その砂糖の一大生産地がカリブ海のキューバでありハイチ、南米のブラジルなど。つまり、チョコレートとはコロンブスの“発見”によってはじまる大航海時代の象徴的な産物というわけだ。
 アメリカ大陸やアフリカの大半がイギリスやフランスなど西欧の植民地となったためモノカルチャーが横行し、それぞれの栽培農作物が廉価になったためにチョコレートは世界に流布できたのだ。
 廉価ということは、それに携わる労働者たちの賃金が安いということだ。だから成人男性より、なんの技術ももたない少年たちが駆り出されている。
 チョコレートの原料となるカカオ栽培は西アフリカの貧しい少年たちの労働によって担われている実態は知られていない。約30万の子ども達が一日12時間以上の長時間労働に苦しんでいるといわれる。
 チョコ特有の芳しい苦味も、アフリカの少年たちの低賃金労の苦悩の味だとしたらバレンタインなどと浮かれてはいられない。チョコの販売が伸びたところで少年たちの賃金があがるわけではないのだから。
  
 先年、東京・六本木の美術館で現代美術のイベントとして「チョコレート」というのがあった。その企画展のこともどこかに書いたのだが現在、所在不明。能天気な日本の現代アート作家たちがチョコレートの可変性を駆使して、都市空間に相応しい造形作品を出品しているなかで、外国からの招待作品として西アフリカのカカオ畑ではたらく少年労働をドキュメントした写真のシリーズがあった。その1枚に、
 「一生に一度、ぼくはチョコレートをたべてみたい」とのキャプションがあった。
 少年は自分たちが収穫するカカオが「チョコレート」という美味なお菓子となるらしいことしか知らない。手にしたことはおろか目にしたことすらないのだ。日本で百均シッョプで無造作に並んでいるチョコレートも西アフリカの少年労働者たちには高嶺の花なのだ。 

スイスの光、そして濃い影  ~国交150周年

スイスの光、そして濃い影

 欧州の山岳国スイスと日本が国交を開いて今年150周年目を迎えるということで、某紙が小特集を組むというので、筆者のところに「銀行」について触れた小文を寄せろ、というので下記のような原稿を書いた。最近、タックス・ヘイブン、マネーロンダリングなど国際金融事情を“人権”の観点から取材したり、集会、研究会の取材、書評などを書いてるので、そんな依頼がきた。字数の短いコラムなのでむろん象徴的にしか書けないが、言いたいことは書いた。

☆ビクトリノックス…スイス代表する企業。アーミーナイフの世界的なメーカーだ。
 多機能折畳み式ナイフ「ソルジャー」はたぶん世界中のバックパッカーが憧れるアイテムだろう。
 スイスの政治と経済を考えるとき筆者はいつも「ソルジャー」を思い出す。携行食糧を調理し、
 簡単な機械修理もできるナイフだが、その気になれば人を殺傷することも可能だ。手の平のなか
 にすっぽり収まる「ソルジャー」にはナイフだけでなく幾つも金属道具が折り畳まれている。
 精密な技術がなければ製作できないものだ。この技術は、スイス産業を象徴的な存在である時計を
 思い出させる。
 しかし、ナイフも時計もスイスの象徴的な技術であっても、スイスの「銀行」が稼ぎ出すアコギな
 儲けには遠く及ばない。スイス最大の産業は「銀行」である。正確にいえば個人情報を完璧に秘密
 保持する銀行だ。
 居住可能地がきわめて少ない小さな山国だが、国民一人当たりのGDPは世界トップクラス。その経
 済力を支える資源は“他人の金”。しかも大半が汚れた金。スイスの「銀行」も、政治家も、そして
 市民もみな汚れた金であることを知りつつ、見てみないふりをして運用している。スイス国内でそん
 な金がいつまでも汚れたままでいたのでは、スイスの自然も汚される、と思ったか、汚れを落とす
 技術を開発する。マネーロンダリングだ。その洗浄技術は日進月歩だ。スイスの銀行はいつでも高性
 能の洗濯機を回転させるマネーロンダリングの先進国。世界最大の麻薬密売組織の拠点だった南米コ
 ロンビアのカリとメデジン麻薬密売組織の利潤の多くはスイスで洗浄されていた。伝説的な故パブロ・
 エスコバルはスイス「銀行」の上得意であった。
 途上国の独裁者が国民から搾取した金をせっせとスイスに逃避させている。フィリピンのかつての独裁
 者マルコス大統領の官邸にはスイスの銀行職員が常住し、国民の血税をせっせとスイスに流していた。
 そんな話はアジアにラテンアメリカに、そしてアフリカ諸国に嫌になるほどたくさんある。
 預金者は個人名を登録せず、銀行はあらゆる便宜を秘密裡に処理する。銀行の秘密保持はスイスの最高
 法である。

 最近は、生産拠点で高い税金を納めることを避ける多国籍企業や資産家たちがスイスの銀行に逃避させ
 る。タックス・ヘイブンの本拠地である。日本のハリー・ポッターの訳者がスイスの銀行をつかって
 税金逃れをしようとして発覚したのは記憶に新しい。

 観光ポスターに象徴されるアルプス、自然と町並みの美しさ。しかし、その景観を保っているのは貧し
 い国の民衆の生き血を吸った、吸いつづけた金だ。あるいはアマゾンの熱帯雨林を毀損し、カリブ沿岸
 でマングローブ刈り取り、いくつもの自然の宝庫たる熱帯の峡谷をダムに沈めた開発独裁のおこぼれで、
 スイスの美しい景観は守られているといっても過言ではない。スイスには世界貿易機関、赤十字、国連
 の様ざまな機関が多数が設けられているが、そうした国際組織を招致しているのも曰く言い難い罪滅ぼ
 しと思えてくる。大戦前には国際連盟本部がジュネーブにあった。これが全く機能しなくなったとき、
 スイスはドイツから逃避してくるユダヤ人の資産を預かり、戦後はその多くのユダヤ人が行方不明とな
 ってスイスに滞留した。膨大な「資産」から国際機関招致の基金になったのではないかと後ろ指を指さ
 れても返す言葉もなかろう。凍結(?)されていたユダヤ人資産が人権機関などに「返還」されたのは
 戦後も半世紀以上も経ってからだ、それも米国の圧力であった。

 欧州のほぼ中央に位置し、EUの加盟条件をほぼ満すが、未加盟だ。欧州共通の税制、国際的な銀行監視、
 麻薬取引や投機のコントロールが強いるEUをスイスの銀行は嫌悪する。スイスでは国会議員の兼職が認
 められている。銀行の役職に就く議員が多い。自分の首を絞めるようなEU加盟などとんでもない話になる。

把瑠都の優勝を祝って

把瑠都の優勝を祝って

バルト
 大相撲一月場所で優勝した把瑠都関。この四股名、漢字の組み合わせはなかなか重量感があっていかにも強そうだ。
 日本人は昔からカタカナ、ひらがなを使ってきたにも関わらず外国の国名、地名を漢字で表記してきた。カタカナで表記することが当たり前になったのは、そんな昔のことではない。現在も字数を節約するとき、米・英・仏・独・伊・蘭・露……と表示してもたいていの日本人は分かる。わがラテンアメリカの国名は、新井白石の『西洋紀聞』のなかで漢字で表記されたのがはじまりのようだ。そのなかで今日まで伝えられ、広く通用しているのはメキシコの「墨」に過ぎない。もっともこれも米国との関連で、「米墨国境地帯」などと表記される機会が多いからだと思う。
 把瑠都関の四股名の由来は当然、母国エストニアがバルト海に面しているからだ。ブルガリア出身の琴欧洲関に次ぐヨーロッパ勢二人目の優勝である。琴欧州という四股名にブルガリアらしさは希薄だが、全欧州を代表する風情ありで立派なものだ。ならば横綱になって欲しいところだが、大関に昇進後、生彩を欠き物足りない。横綱昇進も把瑠都関が先行しそうだ。
 現在、十両以上の外国生まれの関取は17人もいる(一月場所番付)。ブラジル出身の幕内、魁聖関を除く16関はみなユーラシア大陸諸国の出身だ。しかも、ソ連邦解体後に、計画経済から市場経済に劇的に変化した国ばかりだ。モンゴル勢を旗頭に、ロシア、グルジア、ブルガリア、エストニア、チェコといった具合いだ。横綱及び三役の関取は現在10関、その内、半数がソ連邦崩壊とともに政治的な激変に襲われた国の出身者ばかりだ。
 もともと身体能力の高かった彼らは母国では掴みようのない大金を求めて異郷の“国技”に飛び込んだ。ハングリー精神である。彼らがいかに本気であったか……スピード昇進と日本語を早期習得していることで了解できるだろう。
 一頃、目立ったロシア勢が現在、十両の阿夢露関、ただひとりとなってしまった。豊富なガス、石油の輸出を背景に経済力が回復してきたロシアのいまと関係がありそうな気がする。とすれば、ユーロ圏で疲弊するハンガリーやスロバキアといった中欧諸国からあたらしい才能が出てきてもおかしくない情勢だが……。

 ソ連邦崩壊によって引き起こされた才能の海外流出はアイスホッケー、バスケット・ボール、サッカーなどでも起きたが、芸術面での流出も大きかった。バレエ、クラッシック音楽界でそれは顕著だった。それもプーチン前大統領(現首相)がロシアナショナリズムを隠さず強権的主導で“強いロシア”を目指すようになってから事情が変わった。プーチンの肝いりで結成されたオーケストラがあった。才能の流出を防ごうという狙いがあって結成されたオケと噂されたものだ。その日本での公演をサントリー・ホールで聴いたが、そのショスタコーヴィチの演奏は素晴らしかった。圧倒されたといってもいい。
 大きな音楽システムとしてのオーケストラの機能が熟成というような時間とは無縁であったはずだったが、それを克服する個々の能力の高さ、その集積の力、それを統率・制御する指揮者の才能。ショスタコーヴィチを扱いなれたロシア人指揮者と演奏家という存在の確かさを感じさせるものだった。こんな演奏は歳月を積み重ねた日本のオケにも真似できないと思った。これがロシアの伝統の力だ、実力だと感じ入ったものだ。
 ソ連邦の成立はロシア革命によってロマノフ王朝が倒れたことで実現した。そして多くのロシア及びスラブ系人たちが革命政府の追及を逃れ、あるいは嫌って日本に流れてきた。当時、日本はロシア国境とは陸続きであった。樺太と朝鮮である。日本に流れ着いたロシア人とウクライナ人から日本のスポーツ史に永久に名を残すことになる二つ巨星があらわれる。ひとりは日本プロ野球草創期にジャイアンツのエースとして活躍したスタルヒン投手、そして大相撲の大鵬関である。大鵬関の父はウクライナ人のコサックであった。
 スタルヒンは通算303勝を上げ、数々の大記録を残したが、いまだに記録ホルダーとなっているのが通算完封勝利83勝。現役でもっとも多くの完封勝利をあげているのが山本昌投手(中日)の30勝だから、スタルヒンの記録は今後数10年は安泰である。大鵬の幕内優勝32回も最高記録であり、これも当分、破られる気配はない。
 日本のスポーツ界でロシア及び旧ソ連邦圏出身の才能がかくも表舞台で活躍している事実は文化史的に考察してみる必要があると思う。 

北杜夫さんの死とモルフォ蝶

北杜夫さんの死とモルフォ蝶
モルフォ

昨10月、作家の北杜夫さんが鬼籍入りした。
 私にとって北さんの作品といえばなりより『どくとるマンボウ昆虫記』である。
 昆虫採集を語りながら少年の日々を綴った、甘酸っぱいリリシズムに満ちた自伝。当時の東京の後景、戦前・戦中の様子も語られ、ている。
その終章で、中米熱帯雨林に住むモルフォ蝶への憧れを語り、「いつか訪れてみたい」が、叶(かな)えそうもない夢だ、と書いていた。モルフォ蝶とは昆虫好きなら羨望をもって語らずにはいられない舞う宝石である。蝶の女神、と喩(たと)えよう。
 『昆虫記』は1961年の刊行。その当時、日本は貧しかった。外遊するにも持ち出せる外貨に限度があった。中米の密林で蝶を追うなど極めつきの贅沢、それこそ王侯貴族の趣味道楽の領域であった。
 しかし、時代は劇的に変わってしまった。日本人の勤勉と努力。日本は豊かになった。北さんだって、ひそかに中米入り、コスタリカを訪ね、あこがれのモルフォ蝶と対面しているのかも知れない。
 私の少年時代だってコスタリカといえばとてつもなく遠い、はるか彼方に位置する夢のまた夢のなかの秘境であった。否、いまでも距離の絶対的な隔たりは不変だが、飛行機はより便利に早く、廉価となったという意味では、もはや秘境とはいえない。
 世の蝶好きさんたちをあえて羨ましく思わせるために書いてしまう。
 コスタリカで舞うモルフォを観ている、幾度も。ついでに申し添えれば、ペルー・アマゾン産のモルフォの標本と、もう一翅、出所不明のものを持っている。ガラスケースに密封された蝶は、いささかも退色せずメタリック・ブルーに輝きつづけている。メラウスモルフォという種。
 北さんも後年、モルフォ蝶の標本ぐらい手にいれたのではないか? 北さんの遺品のなかにひっそりと埋もれているかも知れない。
 で、ふと思わずにはいられない。北さんが亡くなった昨年、東北の被災地で、おびただしい昆虫標本が津波に流されただろう、ということ。そんなこと、数など誰も記しやしない。小学校が流され、中学校が崩壊し、多くの図書館が流されたとき、おびただしい本ともに学習用標本も失われたろう。そのなかにはモルフォの標本もあったと思う。
 杜夫少年が採集したおびただしい標本は1945年3月、米軍機による空襲であっという間に灰燼と化した。『昆虫記』の終章で、そう記していた。大戦末期、全国で無数の標本がB29の焼夷弾で灰になったはずだ。昆虫少年の努力をアッという間に無にしただろう。そういう記録も残らない。
 そして、考える。……「無」で終わればいい、と。
 「無」はある意味、解放だが、福島の原発事故は過酷な呪縛だ。生きる昆虫を冒しつづける。昆虫は汚染地域から外に出る。誰も止められない。鳥たちはとんでもない場所にセシウムまみれの糞を蒔く。チェルノブイリの汚染を鳥はユーラシア大陸の四方八方に撒き散らしている。・・・いた、と過去形で書けない。いま現在もチェルノブイリは放射能を放散している。事故から数年して原発を覆った“石棺”は内部から冒され、再建築されることに決まった。鳥のことを書いたが、スラブの蝶だってむろん汚染されているのだ。
   

ハイチの大震災を忘れないための映画『ミラクルバナナ』

ハイチの大震災を忘れないための映画『ミラクルバナナ』

ミラクルバナナ
 東日本大震災後、そのほぼ一年前にカリブの小国ハイチの首都を襲った大震災のことは、たいはんの日本人の視野から消えてしまったはずだ。仕方ないことともにいえるが関心だけは失って欲しくないと思う。
 いまも数万の市民が劣悪な環境で暮らしている。西半球の最貧国といわれたハイチが自力で再生、復興できるほどの力はない。現にブラジルを中心に現在も多くの国が再生に向けた努力をしているが、見通しは暗い。
 日本からあまりにも遠く離れた小国だから情報も極端に少ない。で思いだした映画がひとつあった。2年前に書いたエッセイが出てきたので、ここに掲載しておきたい。すでにDVDになっておりレンタルしているので是非、観て欲しいと思う。ハイチの大震災を忘れないためにも。
   
  *    *    *

 中米グァテマラ、メキシコと一三年、暮らしてきた。その間、ラテンアメリカ諸国を繁く旅をした。けれど行きたい、彼の国の人と触れ合い人情、機微に接したいと思いながら未だ果たせぬ国がある。ハイチ。
 「輸出品は解剖教材の死体だけ」とまで比喩された極貧国。カリブ海にあってキューバ島に次ぐ大きなエスパニョーラ島の西部に位置する。一度、東部のドミニカからバスを乗り継いで国境を越えようと思ったが果たせなかった。陸路が可能ならバスか徒歩で国境を越えたい。人為的な国境ひとつで激変する異相は空からでは実感できない。
 そのハイチを舞台に日本で映画が作られた。『ミラクルバナナ』という。困難な政情にある国をモノトーンの色調で撮るのは容易だが、向日的なハイトーンで描くのは至難のこと。それを錦織良成という若い監督が実現させた。
 まがまがしいヴードゥー教が闇を支配し、悪辣な独裁者が民衆の生殺与奪を握る国というキーワードで欧米の映画制作者はハイチを描いてきた。西アフリカの精霊との交感を起源とするヴードゥー教を邪悪視するのは欧米人が途上国を見下す視点だ。錦織監督は何処に生きようが人間の生活には喜びも笑いも、そして涙も怒りもある、という単純明快な真理でハイチを見つめた。
 そんなハイチにも捨てるモノがある。収穫した後のバナナの太い茎。その茎から紙ができることを知った日本の女の子が悪戦苦闘の末、ハイチの子どもたちと紙漉きに成功するという爽やかな青春映画でもある。
 カリブではすでにジャマイカで商業化に成功したバナナ紙だが、ハイチではまだ商業化に至っていない。
 私が暮らしていた中米のカリブ沿岸地帯にはバナナ農園が広がる。そこの農民はみな貧しい。子どもたちも学校で使うノートに不自由する。そんな子どもたちが自分たちで紙を漉けたら、なんてハッピーなことではないか! 映画で実際、こどもたちが紙を漉く。材料づくりと手順を覚え、紙の厚さを気にしなければ、出来る! 外務省が海外公館に配布する現地語字幕付き映画の一本に推薦したい。熱帯の途上国で歓迎されるはずだ。もし、その国の人たちが映画をみて挑戦したいという意欲を示したとき、できるだけの援助をする。技術援助は地元のやる気がなければ成功しない。映画は、そのやる気を引き出す活力があると思う。
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上野清士

Author:上野清士
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