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キューバと米国の国交正常化で変わる「文化」

キューバと米国の国交正常化で変わる「文化」

キューバと米国の国交正常化というカリブ海をめぐる大きな変化を前に、革命後、母国に戻らず異郷で果てたキューバ人たちのことを思った。

 革命前から一線で活躍してきた老音楽家たちの晩年をドキュメントした映画『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』が世界的な大ヒットして数年後、ハバナに国営レコード会社エグレムを訪問したことがある。東京の音楽雑誌社の依頼でキューバ音楽のCDを販売したいので、輸入可能なCDのリストの提供などを受け、営業担当者と私的なルートを確保することだった。当時、ソ連邦崩壊の煽りを受けてキューバ経済は混乱、電力事情は悪化し、外貨を稼ぐための観光業を優先にした政策のなかで関連産業はインフラは改善したものの国内産業は疲弊したままだった。キューバの電話事情は極端に悪く、市内からの電話ですらうまく 通じないこともあって、個人的な関係を築くという前近代的な商慣行はまだ有効だった。

 キューバは革命前も現在も音楽大国だ。特に革命前の米国はキューバ音楽家がもっとも活動していた国で、米国で稼いだドルを国内に送金していた。現在のラテン音楽、特にポップスの定番サルサとレゲトンだろう。サルサは、米国とキューバの国交が断たれた後、新しくリズムを創造してくるキューバ音楽の豊饒がなくなった後に、ニューヨークで活動するプエルトリコの音楽家がキューバの亡命音楽家たちとのソン、ダンソンなどを取り込みながら新たに創造した音楽だった。プエルトリコ音楽市場はカリブ海域の政治的変化によって大きく飛躍したのだった。それはリッキー・マルティンで頂点になるまでつづき、現在もドミニカ音楽のメレンゲも吸収しながらつづいている。

 エグレムで提供を受けたリストのなかに革命直前、メキシコで公演中だったセリア・クルスは革命後の祖国を嫌って帰国せず、サルサの草創期から歌い、サルサの完成に寄与し、後年、米国籍を習得し、現在ニューヨークの墓地に眠る。日本で有名な”マンボの王様”ペレス・プラ ードもメキシコ公演中に革命に遭遇、やはり帰国せずメキシコ国籍を習得した。そして、プラードはメキシコ人としてメキシコ市中の墓地に眠っている。メキシコ市中心部、マリアッチの聖地ガリバルディ広場の斜め前に、メキシコ大衆音楽の“殿堂”といった位置にあるブランキータ劇場というのがある。そこのフロアにはプラード楽団の日本公演のポスターが掲示されているぐらいだ。
プラード

 戦後のプロ野球で初の黒人選手として阪急ブレーブス(現オリクッス)や近鉄で10年、俊足巧打の内野手として活躍したロベルト・バルボンも来日後、革命に遭遇、日本の永住権を獲得した。野球国にキューバから多くの選手が米国に流れたことは周知の事実・・・そのひとりひとりには掛け替えのないドラマがあった。

 革命後もキューバから多くの才能が米国に流出した。音楽家、野球選手だけでなく作家や美術家、そして俳優や企業家も多い。いま米国に在住する才能たちは悲喜こもごもあたらな状況を迎え、帰国、一時帰国などさまざまな選択肢に揺れていることだろう。そして、キューバと米国のいわずもながの復活によって、キューバ国内の芸術活動は新たな時代を迎えるはずだ。 

カリブ海の米国自治領プエルトリコの独立運動家オスカル・ロペス

米国のカリブの自治領プエルトリコの独立運動家オスカル・ロペス
  ~マンデラを超える“良心の囚人”
オスカル・ロペス


 5月下旬から6月にかけて断続的に米国ワシントン、ニューヨーク、ロスアンジェルスなどの主要都市、そしてプエルトリコの主都サンファンで一政治犯の釈放を求めるデモ行進が行なわれた。

 プエルトリコはカリブ海北東部に浮かぶ人口370万の島国。カリブ海ではキューバ、イスパニョーラ(ハイチ、ドミニカ共和国)、ジャマイカに次ぐ面積をもつ島国。1898年以来、米国に編入されている領土だ。

 現在、プエルトリコには民族政党が自治政府の議会で活動している。
 米国への州昇格をもとめる新進歩党、現状維持のまま自治権拡大を目指す人民民主党。この両党が二大政党制を確立し、これに現在の状況を植民地として捉え独立を志向する独立党が加わる。
 プエルトリコ人は米国への納税義務がない代わりに、大統領選挙の投票権をもたない。しかし、米軍基地や射爆場のため自治体が二分されたところもあり、米国の軍事戦略の一翼を担っているのは確か。パナマ運河地帯にあった中南米域における最大の米軍基地のから多くの機能がプエルトリコに移され島民の負担は増大した。アメリカにおける沖縄といわれる。
 しかし、2012年に行なわれたプエルトリコの地位変更を巡る住民投票では州昇格派が多数派となっている。それも事実だ。
 しかし、米国議会では、その承認のための審議を行なっていない。プエルトリコ民衆は自分たちの土地の使用権に対して大統領選挙の場で発言することを封じられているのだ。

 スペインの植民地であったことから住民の過半数はヒスパニックで母語はスペイン語。宗教はカトリック。ハワイの先住民がそうであったように歴史的文化的な背景は米国本土とは著しく異なる。
 州昇格派の大半は豊かな米国経済と連動することによる実益を考慮するが、できなら「独立」が望ましいと考えている人も多い。自治権の拡大を求める人たちも本音は「独立」だ。だから、少数政党に過ぎない独立党を存続させ急進的な活動を支えた。同党がプエルトリコの心性を体現しているからだ。
 
 独立活動がもっとも激しかったのは1950年代で、島内では多くの衝突が起こり、米国本土でのテロ活動も展開した。現在の独立党はその流れを汲む。冒頭の政治犯とは1981年、米国の支配権を武力で覆そうと計画したとされる独立運動家オスカル・ロペス・リベラ。当時、プエルトリコの植民地状態を、国際世論に訴え、関心を呼び覚まそうとした急進的な活動だった。米国司法当局によればプエルトリコの民族解放戦線FALNが100件以上のテロを行なったとしている。そのFALNで主導的立場にあったとして逮捕されたのがロペスであった。すでに32年、獄中にある政治犯だ。

 1999年、当時のクリントン大統領はロペス同時期に逮捕されたFALNのメンバー16人の減刑を行なった際、ロペスも減刑対象者になったが、ロペスは減刑の対象にメンバー2名が欠けているとして自らの減刑を拒否した。気骨のある活動家である。

 5月から6月にかけてのデモはワシントンでは数百人規模のものだったが、6月15日のサンファンのデモは数千人規模に拡大、米国の植民地主義政策への抗議デモとなり全米でも注目された。

 ロペスは現在、世界的に注目される“良心の囚人”となっていて、その釈放を求める声はノーベル平和賞を受賞した南アフリカの大司教デズモンド・ツツ、中米グァテマラの先住民人権活動家リゴベルタ・メンチュウをはじめ内外の多くの著名人からあがっている。プエルトリコ内でも、政治的主張を異にする政治家たちもこの問題では連帯していることは注目に価いしよう。
 その背景には6月29日にプエルトリコのガルシア知事がテレビ演説で、「公的債務は返済できない」と財政危機の現状を訴え、約720億ドル(約8・8兆円)の債務について返済期日の先延ばしを訴えるほどまでに悪化した経済状況への苛立ちもあるだろう。債務は米国の対プエルトリコ政策の反映と受け取られているからだ。
 主力産 業の観光業が低迷し、米国本土へ流出する人口が加速し、税収が悪化していることなどが要因だ。米国がキューバと国交正常化を目指して協議している現状はさらに観光業への圧力となる。もともと観光資源の豊かなキューバには革命以前、もっとも多くの米国人観光客を集めていた。
 財政悪化にともなう緊縮財政でさらに景気が冷え込んでいるなかで、ロペスの不退転の民族主義的な独立志向が再注目されていることになったのだ。
 しかし、独立で財政がにわかに好転するわけではないのがプエルトリコのジレンマかも知れない。
 
 毎週土曜日、プエルトリコのスペイン語新聞にロペスが孫娘に送る手紙を掲載している。「海が呼吸する場所」と題された手紙はいま、世界のさまざまな言語に訳されて感動を読んでいる。
 海とともに独自の文化を育んできたプエルトリコ人が、潮の香がまったく遮断された獄中で人生の最良の歳月を過ごすことを強いられた人権活動家の強さとどうじに望郷の思いの深さをしる。それは南アメリカで27年間獄中生活を強いられたネルソン・マンデラの歳月を超える。   

キューバ=コスタリカ国交問題

 コスタリカとキューバの文化交流

 昨年12月、キューバと米国間の半世紀以上に及ぶ国交断絶状態に終始符が打たれた。正確にいえば、国交回復にともなう事前作業が継続中、となる。この流れは些少の軋轢(あつれき)があったとしても途絶するものではない。
 この両国間の急接近によって、これまで親米派としてキューバと国交断絶状態にあったラテンアメリカ諸国も、ホワイトハウスの傘のなかでハバナに公館を開設してゆくだろう。
 以下の拙文は3年前に書いたものだが、親米国家、中米コスタリカにこんな挿話があったことをあらためて紹介しておきたいと思う。

   *   *   *

 意外に思われるかも知れないが中米コスタリカとキューバには正式な外交関係はない。冷戦時代の負の遺産がいまだ生きていて途絶している。
 両国の関係が途切れたのは、キューバに革命政権が樹立した後、米国は革命キューバを米州機構(OAS)から除名した。その際、メキシコを除く南北アメリカ諸国も米国の圧力でキューバとの外交関係を断った。ソ連邦が崩壊し、冷戦の影響下で深刻な内戦を繰り返した中米諸国に平和が訪れても、コスタリカにはキューバに対して批判的な保守政権がつづいて関係改善が遅れた。日本でもよくしられコスタリカの政治家にオスカル・アリアスがいる。中米諸国の和平化に貢献したことでノーベル平和賞を授与(1987年)された政治家だが、アリアス政権時代にもキューバは敵国とみなしていた。ちなみにアリアス氏はラテンアメリカの元首としてはじめてのノーベル賞受賞者である。当時、コスタリカの南の隣国パナマはキューバとの国交を早くから樹立、定期便が飛んでいた。パナマ運河を米国から返還させた卓抜な外交手腕を発揮した故オマール・トリホス将軍によって国交回復が実現していた。
 しかし、冷戦後、外交努力は双方とも力を入れていて、その努力の成果とでもいうでき文化交流事業が9月14日、コスタリカ独立記念日にハバナで実現した。
 コスタリカ、キューバ双方の文化省の協力で実現したもので、コスタリカ民俗舞踏団がハバナを訪れて公演を行なった。文化交流から外交関係の復活をしようという試みである。その舞踏団公演を前にキューバ側でも、コスタリカとは古くから友好関係があったことを歴史的な事実に基づいて解こうと、同国ではホセ・マルティとならぶ歴史的英雄である“青銅のタイタン”ことアントニオ・マセオ将軍が中米の独立を目指して戦った史実を取り上げ、「1891年から95年までコスタリカのグアナカステ州に滞在し、小部隊を組織してスペイン植民当局に戦いを挑んでいた」と強調。両国は、「独立」「解放」という共通目標をもって連帯していたことを史実を明かした。
アントニオ・マセオ

 友好文化事業にはマセオ将軍が滞在したこともあるニコヤ州の小学校の児童たちもハバナに招かれた他、コスタリカの音楽家、民芸創作家などアーティスト40人も参加、コンサートなども行なわれた。(2012年9月記)

マプチェ族のヒップホップ 南米チリ

マプチェ族のヒップホップ 南米チリ

 南米チリの音楽といえばいまだに日本ではビオレッタ・パラ、ビクトル・ハラといったヌエバ・カンシオン系の歌しか認知されていないように思う。二人とも偉大な才能であり現在でも尊重されていることに間違いないが、チリでも音楽は生々流転している。ビクトル・ハラを惨殺した軍によるピノチェット独裁時代にもポップス界は賑わっていた。メキシコのオルタナティブ・ロックの雄カフェ・タクーバの音づくりに貢献したのはチリのロック・グループであった。
マプチェ族の旗
マプチェ族を統合する“民族旗”

 そんなチリから同国最大の先住民マプチェ族出身のヒップホップのグループの活躍の報が届いた。コレクチーボ・ウェ・ネウェン、マプチェのマプドゥング語で、「新しい力の集団」という名だ。活動拠点は南部アラウカニア州。チリにおいて大半のマプチェが住む“先住の地”だ。約60万がチリ、約30万がアルゼンチン南部に住んでいる。
 コレクチーボ・ウェ・ネウェンのリーダー、ダンコ・マリアンは、「音楽を通じて民族のアイデンティティ を確立したい」と語り、ヒップホップのリズムで、チリ政府によるマプチェ族に対する弾圧的な政策に抗議していく、ということだ。
 マプチェに対する抑圧的な政策はチリの独立前も後も続いている。今年1月3日にもマティアス・カトリレオという学生がアラウカニアの住宅街で警察官に射殺された。彼は、同国の資本家たちが環境を無視して、マプチェの地を乱開発を行なっていることに対し、実力で止めようと活動していた。

 マプチェ族といえば、ラテンアメリカ史に少しでも関心を持つ者なら、コロンブスの時代から19世紀の後期まで、他民族の侵略に抵抗しつづけた勇猛果敢な誇り高き民族として知られる。チリがスペインの植民地となる以前も、アンデス高地から領土を拡張するインカ帝国軍の侵入に対して戦っていた。

 現在、チリは中道右派のバチェレ大統領下にあるが、世界有数の資産家として知られ、市場経済主義者だ。
 二〇一〇年に大統領に就任すると、マプチェに先住特権のある森林地帯を広範囲に埋没させる水力発電所建設を提言したが、先住民だけでなく環境保護派の猛反対を受けた。急進的なマプチェ活動家は乱開発を阻止しようと、企業経営の林地や倉庫などに放火するなどして抵抗した。これに対し、政府は軍政時代の“負の遺産”ともいえる「反テロリスト法」を拡大解釈し、活動家を容赦なく逮捕し、刑務所に収監した。いま、マプチェ族が発信する活動詳報をみると、軍や警察との抗争、集団行動を写した多くの写真をみることになる。社会批評を果敢に発することができる“言葉”の音楽としてヒップホップが現代マプチェ族の若者のあいだから生まれるのは時代の要請というものだろう。おそらく、マティアス・カトリレオの事件などは歌詞の素材となっているだろう。
マプチェ族
マプチェの伝統音楽の演奏は、民族を結束させる重要な要素

 殺されたそのカトリレオさんは獄中の同胞と連帯していた。彼の遺体は警察に引き渡せば証拠隠滅される恐れがあるとして、活動家が隠している。現在、事件解明のためにアムネスティ・インターナショナルを含む非政府組織が連帯することが確認されており、そのメンバーにはピノチェット元大統領を人権犯罪の容疑で訴追した元裁判官も参加している。  (2012・1)

世界で最も貧しい大統領の“威厳”  南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領

世界で最も貧しい大統領の“威厳”
 南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領
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 いま書店の児童書のコーナーで評判になっている絵本がある。『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という。
 南米ウルグアイの前大統領ホセ・ムヒカ氏が2012年、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれたリオ会議(地球環境の未来を決める会議)における演説に感激した日本の絵本作家が作成したものだ。ムヒカ氏は社会民主主義者として国の舵取りをした。

 リオ会議での演説はそこに出席していた参加者を等しく感動させ、即各国語の字幕がつけられてインターネットで世界中に拡散した。ムヒカ氏の演説のキーポイントは、
 「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」で象徴されるだろう。現在のグローバリゼーションの弊害を要約している。
 「残酷な競争で成り立つ市場経済の仕組みを放置したまま、『世界を良くしていこう』、共存共栄が可能だという議論は可能なのか? ほんとうにできるのでしょうか?」とリオ会議そのものへの疑問も投げかけている。ここは地球環境の危機を議論し改善を模索するために世界の叡智があつまっているのかも知れないが、「われわれの前に立つ巨大な危機は環境の危機ではありません、現在の政治そのものが危機的な状況なのです」とも言い切っている。

 ムヒカ氏の演説は10分足らずの短いものだ。そして平易で小学生の高学年なら容易に理解できるものだ。つまりあらゆる言語に即、翻訳できる言葉であった。だから、たちまち世界中から感動の輪が広がった。日本では素敵な絵本が生まれたが、地球のどこかで同じような絵本が生まれているのかも知れない。
 「私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと」、それが人間本来の姿だと説く。それを阻害する消費経済を呑み込まれた現代社会の仕組を変えなければ、「環境」も破壊されつづけ、人間の幸福を育ている大地そのものが喪失すると語っているのだ。

 ムヒカ氏の言葉が平易で説得力をもったのは大統領任期中にそういう生き方を実践したことだろう。確信と自信に満ちた人の言葉はたいてい簡素なものだ。懐疑的なまま発せられる言葉ほど難渋に、ぬえのような言葉になるのが政治家の言葉だが、ムヒカ氏には無縁だ。
 ムヒカ氏は、晩年のトルストイが田舎に蟄居し求道者的に赤貧を求めたのではなく、てらいなく質素の身軽さ、生活の充実を楽しむ大統領であったからだ。そう、そうした生活を楽しんでいた、いや現在も満喫しているのだ。
 大統領職の給与のほとんどを寄付し月1000ドル前後で首都モンテビデオ郊外の小さな牧場に住み、中古のビートルを自ら運転して大統領官邸に通っていた。護衛もつけずに“通勤”できる大統領なんてそうそういない。それだけ国民に愛されていた証拠だ。
 大統領任期中は労働時間の短縮、食糧の輸出国として安定した経済運営を実践、域内の経済的な危機にも柔軟に対応した。またカトリックが国教である同国で人口妊娠中絶、同性結婚を合法化したことも特筆される。
 ムヒカ氏の政治活動の揺籃期は反政府武装組織の闘士であった。武器をもったアクティブな活動家であった。といっても当時のウルグアイは圧制的な軍事独裁下にあり、人権は政府軍によって圧殺されているなかでは武器を取って戦うしかなかった。当時のウルグアイの政治状況はサルサの歌手であり俳優のルベン・ブラデスが主演した映画が当時、日本でも公開されている。ムヒカ氏は軍事独裁下で獄中生活も体験している。そして不退転の闘士として民主化時代を迎え国会議員となった人だ。彼の資本主義批判は左翼ゲリラであった当事から揺れていない。しかし、現実政治家であった彼はベネズエラのチャベス大統領のようには極端な反米主義は採らず、市場経済の果実は活用しつつ、農業国としての生きつづける道を模索し食糧輸出国としての優位性を持続させた。
 
 ウルグアイでは大統領職の再選は認めていないので、この3月、惜しまれながら退職した。その退任の日、多くの市民が大統領官邸を去るムヒカ氏を称え、市民にもみくちゃにされながら街頭行進を行なった。その様子もまた世界中に発信された。

 ムヒカ氏をめぐる最新の情報は旧ユーゴスラビア時代から社会風刺性のある作品で世界から支持をあつめていたボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボ出身の映画監督エミール・クストリッツァが、ムヒカ氏の生涯を映画化するという話題だ。父セルビア正教徒、母ボスニアのムスレムを両親にもった監督が左翼反政府武装組織の活動家として政治に関わり、大統領職に至ったムヒカ氏の心と思想を問う。クストリッツァ監督にはすでにアルゼンチン・サッカーの“国民的英雄”マラドーナを数年かけてルポしたドキュメンタリー映画『マラドーナ』(2008)がある。ラテンアメリカは親しい大地なのだ。そして、ウルグアイはサッカーW杯の発祥の地でもあり、その第一回大会に、ユーゴはヨーロッパ勢として参加した4カ国のひとつであった。

マヤのサッカーを解明する新説 チチェン・イツァ神殿都市

マヤのサッカーを解明する新説
マヤ サッカー

フットボール(サッカー)にまつわる話題はラテンアメリカではつきない。特に、メキシコ南部から中央アメリカの北部諸国まで広がったマヤ文明圏では、フットボールは古代まで遡って語られる。

 フットボールの正史では英国を発祥の地としているが、メキシコではマヤのその起源だと主張する。FIFA(国際サッカー連盟)編集・発行の図版を豊富に取り込んだ公認の歴史図説書のなかでは日本の蹴鞠も図版入りで紹介されている。英国を起源とするのは、その地で規格とルールが決められ、それが国際的に拡大し人気スポーツになったからだ。蹴鞠が庶民階級には馴染まなければ拡大しないし、マヤの球技は神聖は神技でとどまる限り、日常化はしなかった。
 しかし、古代球技のなかでマヤ文明圏において重要な球技が競技場の規格、ルール、使用する球に一定の規範があったということでは、もっとも現代フットボールに近いだろう。

 メソアメリカ地域には多くのマヤ神殿都市遺跡が分布し、そこにゴム製のボールを蹴りあったことが確かめられている球技場が必ずある。天然ゴムは原産地は低地マヤ(メキシコ湾沿岸地域の熱帯)とアマゾン流域などだ。ゴムがふんだんに使用できたということでも、球技の発展に貢献したことは確かだ。
 球技場はマヤ文明にとって貴重な祭事場であった。その球技場はその都市の規模におうじて観客席も設けられていた。貴顕は必ず臨席する。考古学者の発掘・再建事業では、主神殿なみに球技場の復元なども慎重に行い、それにともなう新発見もまれではない。
 最近もメキシコ南部、いわゆる低地マヤ地域における、もっとも高名な神殿都市チチェ ン・イツァから注目すべきニュースが飛び込んできた。
 この神殿都市の球技場は規模の広壮さで有名なところだが、ここで再建・修復事業に携わっていたメキシコの学術グループが、壁面建造物の一角から太陽の運行に関するマヤ天文学に関する5つの刻印を発見した。その刻印を解読・解明を進めていた考古学者らが、
 「春分ないしは冬至を示しており、サッカーはマヤにとって掛け替えのない作物であったトウモロコシの収穫に関する神への奉納行事として行われていたことを示している」とする学説を、アメリカ大陸で最大規模を誇るメキシコ市の国立考古学博物館で開催されている「考古学に関する書籍市」で10月4日、考古学者ホセ・ウチム・エレェーラ氏が語った。
 チチェン・イツァの広大な神殿遺跡は暦のそのもといってよい執着性、それの可視化に成功した建築史においても重要な存在だ。主神殿の中央聖壇の両翼に、春分と秋分の日だけ作られる影が、表われる。太陽の運行にそって、その影がうごく。その巨大な影がマヤの最高神ケツァルコアトル(羽毛を持つ蛇)となるのだ。それを建造物に実現した天文学、建築技術のマヤ文明の凄さ、エネルギーに畏怖するしかない。

 マヤ文明で現在、解明されている事実は、 壮大な歴史の10%にも満たないと言明する考古学者がいるほどいまだナゾだらけの文明だ。
 マヤの球技も諸説あるが、これまでは近隣都市国家間で戦われた、一名「花戦争」と呼ばれる、イケニエの犠牲者を獲得しつつ勢力範囲を拡大するための戦争における戦勝祝い、とする説が有力だった。それは今後も語られつづけるだろう。その説とは敗軍の青年たちを捕らえた後、球技に興じさせ、勝ったチームの青年たちが太陽のイケニエにするにふさわしい気力の持ち主として供物になったとする説だ。その犠牲となる青年も、それを高貴な行為だと受け入れた。
 ここにまた、トウモロコシの収穫祈願とすればまた違ったマヤ像が構築される。
 現在、内戦の終わった中米グァテマラでも多くの遺跡で発掘調査が行われており、日本でいえば高松塚古墳の 発見並みのニュースが飛び交っている。隣国のエル・サルバドルも内戦後、ホヤ・デ・セレン遺跡が世界遺産に登録されなど独自の進展をみせている。
 そして、新発見のたびにマヤ文明のナゾが解明されるのではなく、新事実を前にそれまでの説、特に歴史的な時系列が狂い、ますますナゾは深まるというのがマヤ文明の“現在”なのだ。極言すれば、昨日出たマヤに関する研究書も、今日には古くなる……。内戦中にグァテマラ政府が軍部と協力して作成したB4全紙版で4組の巨大な地図を購入した。この地図に数えるのもあきれるほどのマヤ遺跡が記されていた。規模の大小を問わず、掲載されているのだ。その数、数千とかいいようがない。むろん、考古学者が何らかの調査を試みたのそのほんの一部だが、歴代の盗掘者はそのほとんどをあばいているだろう。  (2013年記)

キューバ*米国国交再開へ

 米国フロリダ半島の南端からキューバに向けて小さな島が数珠つなぎに連なり、フロリダ州都マイアミから一本の幹線道路が最南端のキーウェスト島まで延びている。時速150キロ前後で走って約2時間半ほどの距離だ。
 その島は作家ヘミングウェイの終焉の地で、終の棲家となった家は博物館となって多くの観光客を集めている。猫屋敷である。かつてノーベル賞作家の膝の上でのどを鳴らしていた猫の十数代目の血族たちだ。そのキーウェスト島からマイアミまでの距離より、南へ直線距離でキューバの首都ハバナの方が近い。そんな一衣帯水の両国が1959年のキューバ革命以来、米国の経済制裁で国交が断絶していた。この不正常な関係が12月17日、オバマ米国大統領が国交正常化に向けた交渉を開始し、相互に大使館を設置すると発表した。

キューバ政府の国際向けのホームページ 「プレンサ・リブレ」(英語・西語他5ヶ国語)はカリブ海域の小さな島国、中南米諸国のすべての国の情報が日々、詳細に報道されるメディアとして世界中に読者がいる。筆者も愛読者である。
 そのページを開くたびにここ数年、いつも目にしていたのが米国の刑務所にスパイ容疑で収監されていたキューバ人3人の釈放をもとめるキャンペーンだった。それが消えた。
 米国政府が3人の釈放を決めたからだ。そして、キューバ政府も政治犯として拘束していた米情報要員53人を釈放した。長年、閉ざされていた重い扉がいっきに開け放たれた。
 
 昨2014年10月の国連総会で、米国のキューバに対する経済制裁の解除をもとめる決議案が国連加盟193カ国のうち、188カ国が賛成し、反対は米国とイスラ エルのみという圧倒的多数の賛成で可決された。それはいまに始まったことではなく、ここ10年以上もおなじような決議が採択されてきた。それを見てきた者にとっては急転直下の推移といった観のある。キューバとの国交があったカナダ政府の親密な仲介によって実現した国交正常化のプロセスだが、そこには両国の思い、国内事情があった。
 ソ連の崩壊後、強力な後ろ盾を失ったキューバは泥寧の経済危機に見舞われた。その危機をどうにか切り抜けたのは外資を呼び込んだ観光事業の拡大による外貨収入の安定、そして域内最大の産油国ベネズエラからの採算を度外視した故チャベス大統領からの廉価な石油の提供によって、かろうじて社会主義国家としての体面が維持できた。そのベネズエラが 現在、豊満な社会福祉政策のツケを払わされるように経済危機に陥り、治安が悪化しているのが現状だ。もうキューバを経済的に助ける余力は消滅した。
 米国との国交正常化は米国の資本を呼び込むためにも緊急課題だった。すでに国交正常化は時間の問題とみていた米国南部の企業家たちはツアーを組んでキューバ国内を視察していた。キューバはカリブ海域における最大の消費市場を持ち、距離を近さを考慮すれば輸送コストもほとんどかからない。
 
 オバマ大統領にとって在任中に歴史的に名を遺すような功績を事実上、上げていない。東アジアで言えば北朝鮮問題はなんら成果をあげていないばかりか、最近は米国の映画資本が北朝鮮からの組織サイパー攻撃にさらされ、中国の海上進出になんら有 効な対策をあげていない。中東政策の失敗はイスラム国の台頭で明らかだ。そんな現状を知れば歴代大統領が実現できなかったキューバとの国交正常化は今後どのように推移するにせよオバマ大統領が実現した功績として米州地域では特筆される。そしてキューバとの国交正常化はいまやアフロ系市民より人口が増加したヒスパニック系市民の支持を受けやすく、民主党への支持層拡大につながる。国交正常化をヒスパニック組織として反対しているのはフロリダ州の多数派である反カストロ派のキューバ系市民だけだろう。その反カストロ派にしてもキューバ国内に家族や親族、知人友人を持っており交流が容易になるのは歓迎すべきことだし、米国で蓄えた資金でキューバで新たな事業を展開するのが容易になる はずだ。

 むしろ、今回の国交正常化をもっとも憂慮しているのはキューバ周辺の小さな島しょう国ではないかと思う。
 それまでキューバへ入ることが難しかった米国人観光客が熱帯リゾート地としてジャマイカやプエルトリコ、バハマ、あるいは中米地峡のコスタリカといった国、地域へ流れていた。それを元々、観光資源の豊かなキューバに回帰していくことを恐れていると思う。

 またキューバが米国との国交正常化を積極的に推進することで、これまで反米機構として独自の経済圏を構築しようとしてきたボリバル同盟に亀裂が入り兼ねない。キューバとカストロ元首相とベネズエラの故チャベス大統領が車の両輪となって推進してきた同盟はボリビア、エクアドル、ニカラグアといった急進的な反米政権と連帯を強めることで存在感を示 してきたが、今後、どうなるだろうか。キューバ・米国の国交正常化は両国だけに充足するものでなく周辺諸国を包み込んだ構造の変化へと波及していくものだ。

 いまにわかにあわただしくなった両国の狭い海域にむかってキューバ人が羅針盤を載せずに船出しはじめた。フロリダにむかう不法越境者たちの手製の小船。いまならキューバ人は他国からの越境者とは違って、共産主義の独裁国家から逃れてきた政治亡命者として優遇される。もし、国交が正常化すれば、その特権も奪われ、ただの不法越境者となる。捕まれば強制送還されるだけだ。だから今のうちにと駆け込み亡命者が急増しはじめた。そして、命を落とす人たちも出ているだろう。それが現実である。
 
 
 

ラテンアメリカでの〈9・11〉

 ラテンアメリカでの〈9・11〉
ビクトル・ハラ
 (写真はビクトル・ハラ)
 毎年、〈9・11〉が近づくとさまざまな思いが湧いてくる。個人的には二ユーヨークのツインタワーの崩壊余波で、長女がメキシコ市の拙宅に遊びに来るという予定は米国の飛行場閉鎖で中止になったという小事を思い出す。
 また、ラテンアメリカの政治や経済、文化活動を定点観測してきて筆者にとっては、やはり〈9・11〉は1973年9月11日、チリのサルバドール・アジェンデ大統領の人民連合政権がピノチェト将軍による軍事クーデターで流血のなかで崩壊した、その日として刻まれる。
 それから40周年を迎え、今年もさまざまな行事が行なわれた。
 チリは軍事クーデターによって3つの大きな才能が同時に失われた。それも世界的な才能である。
 ひとりは、大統領本人が執務室で戦いに倒れ、民衆歌手ビクトル・ハラは、拘束されたサッカー場でギター持つ手を打ち砕かれた後、射殺され、ノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダは自宅で不可解な死を遂げた。詩人はクーデターから数日後に急死する。
 また軍事クーデターによって多くの才能が国外に流出した。民衆歌手、そして民俗音楽研究家であったヴィオレタ・パラの子で歌手アンヘル・パラなどがメキシコに亡命した。メキシコは多くの亡命者を受け入れた国として現在、チリから賞賛されているが、それを反映するように9月30日、メキシコ市のアウデトリオ国立劇場で〈9・11〉で無惨に仕事を断ち切られた3人の業績を顕彰するイベントが行なわれた。
 これにはチリからフォークグループの大御所キラパジュン、インティ・イジリィマニが参加し、メキシコからはクーデター後、チリの民主化を訴えたロス・フォルクロリスタスらもステージに上がる。
 キラパジュン、インティ・イジリィマニともに、アジェンデ政権樹立前夜、民衆の政治運動が高揚するなかでチリの大学生たちが民衆の声、人民連合の勝利を訴えて結成したグループだ。電気もない僻村でもアジェンデ支持を訴えるため、彼らはアコーステック音楽を追求した。クーデター後は当然、軍事政権下では活動できず、生命の危機に晒されることになるのでパリに亡命、そこを本拠に世界各地で軍事独裁に反対する国際世論を高めるために公演をつづけた。日本にもやってきた。それは単に政治的プロバカンダの主義主張が優先するものではなく、高い音楽性で聴衆を獲得した。当時、キラパジュンのステージを水道橋の労音会館ホール(当時)で接している。
 キラパジュン、インティ・イジリィマニともチリが民主化された後も今日まで音楽活動をつづけていた。しかし、長い歳月は音楽内容を変えた。キラパジュンは社会参与の姿勢を第一義としたが、インティはアート志向を高め観客を選ぶようになった。歳月は亡命者の姿勢を変える。
 メキシコ公演では、軍事政権下での人権犯罪を糾明も訴える。非合法で殺された犠牲者の数さえ、いまだ特定されていない現状があるからだ。そして、チリの悲劇を忘れるなとラテンアメリカの歴史に刻もうとも訴えるようだ。
 ラテンアメリカでは、〈9・11〉はニューヨークの悲劇ではなく、アジェンデ政権が武力で倒された日として記憶する者が多い。

ローマ法王、キューバ訪問へ

ローマ法王、キューバ訪問へ

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*コブラ村の教会

 3月26日、ローマ法王ベネディクト16世がキューバを訪問する。同国へのローマ法王の訪問は1998年、ヨハン・パブロⅡ世以来、2度目となる。
 前法王は“空飛ぶ法王”といわれたぐらい世界各地への歴訪を重ねた行動的な人だった。
 小生がメキシコ在住中、二度、前法王がメキシコ入りしている。メキシコ市からの岐路、法王を乗せた専用機がメキシコ盆地上空をゆっくりと旋回して大西洋方向に機種を向けた。その旋回する法王専用機に向かって市民は手鏡で太陽の光を捉え、機上の法王に向かって別離の反射光を捧げたのだ。その光は無数……まことに空飛ぶ法王にふさわしい儀礼だと思った。宗教行事の慣例とはこうして増殖してゆくものなのだろうと思ったものだ。
 けれど現法王は即位した時にすでに高齢ということもあり外遊はきわめて少なく、84歳となった現在、欧州からほとんど出ていない。そんな法王が2007年、ブラジル訪問以来の長旅の地にキューバを選んだ。これは目立つ。憶測を呼ぶ。
 法王が大西洋を飛ぶことも珍しいが、メキシコやブラジルといったカトリック信者の多い“大国”ではなくキューバが唯一の訪問地となっていることでキリスト世界の注目を集めている。ちなみにキューバ政府が認めているハバナ市のカトリック信者は約3万6千人である。おそらく社会主義政権が提出する数字だから実態はもっと多いと思う。
 前法王のキューバ訪問も5日間、という異例の長期滞在となり事実上、フィデル・カストロ政権(当時)の正当性がカトリック世界で承認された。そして、域内におけるキューバの地位が高まり、米国フロリダ州を中心にした反カストロ派の亡命社会に深刻な影響を与えた。キューバ国内においては宗教活動の規制が大幅に緩和し、宗教施設などの補修、整備も拡充した。
 今回の訪問で法王の発言が注目されているのは、半世紀に及ぶ米国の攻撃的な対キューバ経済制裁への批判、解除を求めるとみられていることだ。すでに、法王の異例ともいうべきキューバ訪問に対し、その政治的思惑が推量されている。それを沈静化する目的もあってか在ヴァチカン・キューバ大使は、「われわれは法王にそのような(米国の経済制裁批判を)要請したことはない」と否定し、もしキューバでそうした米国批判の発言が出ても、それは法王の個人的な見解であると語っている。ヴァチカン当局も沈黙している。
 法王はまず、前法王もかつて詣でた聖母カリターコブラ教会に赴く。キューバの守護神が祀(まつ)られている東南部の中心都市サンティアゴ・デ・クーバの近郊コブラにある教会だ。おだやかな緑の山を背に建つ清廉で瀟洒な教会だ。そして、翌日、首都ハバナ入りする予定だ。
宗教行為を優先し、そのついでにハバナでラウル・カストロ首相や,引退したフィデル・カストロ前首相の表敬訪問を受けるという段取りだ。しかし、米国が神経を尖らしていることはいうまでもないし、米国の反カストロ組織はフィデル・カストロ前首相についで弟ラウル首相の政府まで認めたことになり焦燥感が募るだろう。
 今までのところ法王自身はキューバ歴訪について何ら発言していないが、長旅をしない法王が長駆、キューバに飛ぶということ自体、カトリック社会では重大な意味をもつことになる。
 ヨハネ・パブロⅡ世が訪問した際は、公式記録の写真を、世界でもっとも流布したチェ・ゲバラの肖像写真を撮ったことで知られる写真家に担当させ、後日、豪華な写真集をラテンアメリカ諸国でも発売し、カトリック国キューバの印象を積極的に発した。と同時に、域内におけるカストロ前首相の発言力が増した。なにより世界最大のカトリック信者の地となったラテンアメリカ諸国のカトリック教会が、法王の導きによってキューバの政体を承認せざるないという状況がつくられた意味が大きかった。
 余談だが、ベネディクト16世個人として義援金約1200万円を東日本大震災の被災者に贈り、震災の犠牲者のために特別ミサを行い、福島原発事故を念頭に、科学技術の過信をいさめた言葉を“神”の代理の声として発していることを記しておきたい。 

アメリカ大陸の先住民の抵抗はいまもつづく 南米チリ

アメリカ大陸の先住民の抵抗はいまもつづく
 チリ・マプチェ族出身の学生活動家、警察に射殺される

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*民族衣装を身に着けたマプチェの女性たち

 1月3日、チリ最大の先住民集団マプチェ族出身の学生マティアス・カトリレオさん(22)が、南部アラウカニア地方の住宅街で警察官によって射殺された。近年、同国の資本家たちが環境を無視した乱開発を行なっている地域だ。カトリレオさんは、そうした開発を実力で止めようと活動する学生のひとりだった。同国はこの事件を契機に先住民の土地を守る闘争への関心が高まっている。 
 マプチェ族……武勇に富んだ栄光の先住民民族である。ラテンアメリカ史に少しでも関心を持つ者なら、コロンブスの時代から19世紀の後期まで、他民族の侵略に抵抗しつづけた勇猛果敢な誇り高き民族として知られる。長い抵抗の歴史をもつということは、その民族に独自の強固な文化が存在し、民族の血となり肉となっているということだ。
 チリがスペインの植民地となる以前も、アンデス高地から領土を拡張するインカ帝国軍の侵入に対して戦っていた。現在、チリに約60万、隣国アルゼンチンに約30万が暮らす。
 1970年、チリ社会党の党首アジェンデ大統領を中心とする人民連合政府の誕生前夜、マプチェ族は人権回復の好機とみて献身的に活動した者が多くでた。そのためピノチェット将軍による軍事クーデターで人民連合政府が倒れた後、弾圧の標的にされ、彼の土地も奪われた。
 カトリレオさんの死を語る前に、一昨年八月、世界中で注目されたチリの炭鉱で起きた落盤事故、そして六十九日間に渡って作業員33人が地下700メートルの闇に閉じ込められ後、救出されたドラマを思い出してもらいたい。一人も欠けることなく創意工夫された救出劇はハリウッドで映画化が検討されたぐらい感動を与えた。しかし、この救出劇は同時にマプチェ族の決死の活動を内外の目からそらすことになっていた。
 炭鉱夫の救出を指導したピニェラ同国大統領は世界有数の資産家として知られる中道右派の政治家、市場経済主義者だ。TPPの原加盟国として、昨年11月のハワイ・ホノルルの会議でも積極的推進派として参加している。
 二〇一〇年三月に大統領に就任すると、マプチェ族に先住特権のある森林地帯を広範囲に埋没させる水力発電所建設を提言し、先住民だけでなく環境保護派の猛反対を受けた。発電所計画だけではなく、マプチェの大地は絶えず開発の名のもとに自然が破壊されてきた。もちろん、誇り高いマプチェ族は手をこまねいて座視はしなかった。急進的な活動家グループが実力行動で開発を阻止しようと、企業経営の林地や倉庫などに放火するなどして抵抗した。これに対して、政府は軍政時代の“負の遺産”ともいえる「反テロリスト法」を拡大解釈して活動家を逮捕し、刑務所に収監した。その先住民受刑者たちは獄中でも活動を中断させることはなかった。当局の弾圧を告発するとともに先住民の人権擁護などを訴えてハンガーストライキを行なった。そのストライキの時期が、生き埋めとなった炭鉱夫の救出劇の時期と重なった。内外メディアは先住民活動家のハンガーストライキを注目することはなかったのだ。
 カトリレオさん暗殺の真相は不明だが、彼が獄中の同胞と連帯して活動していたことは確かだ。遺体は警察に引き渡せば証拠隠滅される恐れがあるとして、活動家が隠している。現在、事件解明のためにアムネスティ・インターナショナルを含む非政府組織が連動することが確認されており、そのメンバーにはピノチェット元大統領を人権犯罪の容疑で訴追した元裁判官も参加している。
 カトリレオさんの死はチリだけでなく、南北アメリカ大陸諸国各地で“母なる大地”の返還を求めて闘っている先住民集団に影響を与えるだろう。コロンブスの時代からアメリカ大陸の先住民たちは強いられた闘争をいまも生命を賭けて闘いつづけている。200px-Flag_of_the_Mapuches_svg.png
*マプチェの自治権の主張を象徴する“民族旗”
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Author:上野清士
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