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『エル・トポ』 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

エル・トポ
『エル・トポ』 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

 伝説的なカルト映画の再公開。といっても実質、初公開に等しい。メキシコ映画の秘宝”的存在のフィルムだから、そうそう拝観できなのだ。
本作が日本で公開されたのは、1972年に開催されたメキシコ映画祭と、1986年の東京国際ファンタスティク映画祭における特別上映だけで終わるところだったが、何を血迷ったか、止せばよいのに87年に一般公開された。世はバブルのイケイケドンドンの時代。その一般公開が1971年の制作から16年後ということになる。
……しかし、だ……スクリーンに横溢する猥雑さと暴力、神秘主義的な難解性、宗教的な無常観まで漂う前衛性は当時まだ敷居が高かったようで、観客に広く受け入れところとはならず、不評で3日で打ち切られた。要するに名のみ高名だが日本のスクリーンにはなかなか馴染まず、コアなファンがDVDを探してひそかに楽しんでいるというのが現状だった。それが単館といえ再公開されることになった。
 40年前の旧作には違いないが、メキシコ時代のルイス・ブニュエルの猥雑性、荒唐無稽の嫡子のようなシュールさ、これに1971年の制作当時、世界を席巻していたイタリア版西部劇(マカロニウエスタン)の容赦ない暴力性がメキシコのモレ・ソースのように溶かされ、血の臭いを醸し出す。ひさしぶりにみればまったく古臭はなくカビの気配もなく、流れる血の鉄分は凝固せずトロトロと生臭い。   
 物語は前半と後半では趣を一変する。
 序章はマカロニウエスタン風のノリ。しかし、そこにエン二オ・モリコーネの乾いた叙情の旋律はない。メキシコのガンマンたちはみな神の視線から逃れられない。ヒーローも悪漢も神の僕(しもべ)だ。対して、マカロニウエスタンは本国から米墨国境地帯へ国籍をワープしてイタリアのカトリシズムから解放され、やりたい悪逆、荒唐無稽を獲得したおもしろさだった。マカロニウエスタンの主舞台は砂漠の乾いた光景である。それはメキシコ北部のものであった。『エル・トポ』の舞台でもある。
エル・トポというガンマンが素っ裸の息子を連れ、村びとが皆殺しになった僻村にたどり着く。ガンマンのいでたちは黒装束(この辺りもマカロニウエスタンのフランコ・ネロのノリ)であらわれ、村びとを殺した無法者たちをなぎ倒す。その無法者たちの頭領の女を手に入れたエル・トポ、その女の甘言を受け入れ、息子を非情に捨て、旅に出る。その女が砂漠に4人の最強のガンマンがいるから、アタシへの愛の証しに皆倒せ、と強要する。
その4人のガンマンたちの決闘の挿話はガルシア=マルケス的ともいえるし、ボルヘスのものと言ってよいかも知れない。映画はこの辺りから神秘的な呪術性を帯びてくる。冒頭の酸鼻な皆殺しの村の光景でただならぬ予感を覚えた観客は決闘譚の下りにくれば酩酊してくるはずだ。
 4つの決闘……いろいろありましてと秘儀的な流血を終えるとエル・トポはガンマンとしての自己に嫌悪感を抱くのだ。宗教的用語でいうところの〈回心〉だ。
人間の強さとは何か? 力を力で制することの虚しさを覚える。この辺り、そしてラストの焼身自殺のシーンなどはまだ冷戦下の政治状況の反映を感じるし、ベトナム戦争の影響を想起しても間違いないと思う。制作時からはるかな歳月を経て見えてくるものは確かにあると思う。
 映画の後半はエル・トポが銃を捨ててからの物語となる。
 洞窟に閉じ込められた異形の者たち、カルト映画では「フリークス」との名を与えられる特権者たち。さまざまな身体障害者たちを光の世界へ誘おうとするエル・トポの宗教的な献身の物語となる。エル・トポの姿はかつての虚勢の黒装束ではなく、赤貧の修道僧をおもわせる粗衣となっている。メキシコの広大な大地はかつて幾多の修道僧が徘徊したところだ。おびただしい逸話はそのまま口碑となって伝えられた。
 洞窟から地上へ至るトンネルを掘り、「フリークス」たちを解放しようと、五体満足のエル・トポは誓う。頼れるのは自分ひとり、そして実践する。しかし、トンネルを掘るには道具がいる、激しい肉体労働を保つ健康も必要だ。喰わなければならない。資金がいる。そこで町へ出て道化となって大道芸で投げ銭をあつめる。そんな日々のなかで成長したわが子と邂逅する。かつて捨てられた息子は、父親への復讐を誓ってガンマンとしての苦闘の修行を積んできたようだ。エル・トポはいう、トンネルが完成するまで復讐の時を延ばしてくれ、と懇願する。やがて、「復讐を早くしたいなら、手伝ったどうか」と息子に提案する。このあたりは菊池寛の「恩讐の彼方に」を髣髴とさせる、いわゆる青の洞門のくだりとそっくりだ。メキシコで映画を撮る前、フランスで戯曲を書いていたホドロフスキーが「恩讐の彼方に」と出合っていたとしても不思議はないだろう。
 この後半部にさまざまな隠喩、暗喩がそこかしこに象嵌されていて、それを読み解く楽しさは本作を永年にわたって現役の映画としていきつづけてきた力だろう。   
 
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日本は世界中から「仮想水」を搾取する

日本は世界中から「仮想水」を搾取する

 日本は豊かな水に恵まれた国だが、水が不足しがちな国から大量に水を”搾取”している資源略奪国でもある。そうした搾取水を「仮想水」という。
 食糧自給率が40%に過ぎない日本は日々、各地の埠頭に食糧を満載した貨物船を横付けさせている。穀物を野菜を、そして果物、食肉、あるいは加工食品を……それらは間違いなく途上国の貴重な水が消費されて育成されたものが圧倒的に多いのだ。国連食糧農業機関(FAO)などは「仮想水」の大量消費国として批判しているが、日本はまったく知らん顔だ。
 食糧の輸出入とは「水」の大量移動であり、「水」の取引きを意味する。そのうち自給率の低さゆえ国際的な非難とともに「仮想水」の問題は顕在化してゆくだろう。
 「愛のない生活はしばしばあるけど、水のない生活は存在しない」と詩人オーデンは言ったらしい。
 石油に替わるエネルギー源はあっても命をはぐくむ水に替わるものはこの地球に存在しない。その水がいま地球の温暖化、自然の荒廃による生活環境の悪化、さらに水を商品としかみなさい多国籍企業によって占有されようとしているのだ。水道事業を儲けを生むうまみのある産業としかみなさい企業は当然、利益をもくろんで価格を上昇させる。それによって貧困家庭は飲料水も節約を強いられる。
 地球は水の星だ。しかし、97%が海水で飲める水はわずか3%。その水にたよって人類の歴史が営まれてきた。水は人類の共有財産であるべきだ。しかし、富の格差はそのまま水の消費の増減につながっている。日本でトイレで一回流す量の水で一日を過ごす途上国の人たちが何百万にもいることを認知すべきだ。
 こんな数字がある。食糧自給率を10%高めるには140億トンの水が必要! にわかに想像できない量だが、富士山の保有水量が約2億トンといわれるから、単純に富士山があと70も必要ということだ。つまり、日本は途上国の水を天文学的な量で間接的に消費しているということだ。
 途上国の貧しい農民は自分たちが煮炊きに使いたい水、水浴や洗濯に使いたい水を惜しみ節約している。何故か? 現金収入が欲しいから(これも生きるためだ)、かぎられた水を畠の作物のために使っている。乾季でも作物を枯らすわけにはいかないから地下水をくみ上げる。自分たちで消費する程度の栽培であれば水はけっして枯渇しない。しかし、現在のグロバリゼーションのシステムでは途上国の農民は輸出用の作物をいやでも手がけなければ暮らしていけない。地下水は枯渇するまでくみ上げられ、生活を脅かす。
 ハイチの首都ポルトープランスが1月、大地震で壊滅的に破壊された。もともと脆弱なインフラはズタズタに寸断された。現在、ハイチは乾季である。水が不足な季節のなかでの災害であった。上下水道はいったいどうなっているのか? 自衛隊の活動を伝えても被災者の日常光景はなかなか見えてこない。ハイチ出身のヒップホップのメジャー、ワイタクリフの代表曲「もし僕が大統領なら」の一節に、「シャワーを浴びるために、雨を待つしかない人々」とある。いま、その雨もなかなか降らない。いや、いま雨季のような雨が降ったら被災地は大変なことになる。
 デフレで日本の消費者がよりやすい食材を、と望むとき、輸出先の途上国の農民たちはさらに水の不足を憂える。そんな矛盾を日本の消費者のほとんどが無自覚でいる。そのうち大きなしっぺ返しがくるとも限らない。どんなカタチでか……神のみぞ知る、か……。

映画『ふたたび』 塩屋俊監督

映画『ふたたび』 塩屋俊監督


ふたたび
 高齢者たちを主人公にした映画は1970年以降、漸増している。高齢化の進む先進国だけの現象ではなく、メキシコやアルゼンチンなどでも目立つ。ラテンアメリカでもっとも医療制度が整っているといわれるキューバを舞台にすれば高齢者は否応なくめだって老音楽家たちの悲哀を描いた『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』の感動的なフィルムを生み出したりする。『ブエナビスタ』につづけと同工異曲の音楽ドキュメントもキューバで撮られた。そして、高齢者を真ん中においた作品を演出する監督の視点はみな優しい。
 本作の塩屋監督もあたたかな人柄をしのばせる。本作にはまず悪人というのが登場しない。いや、偏見という病いに侵された日本というのは「悪人」として物語の底に伏流水となって流れている。
 1950年代の古いジャズがメインとなっている音楽映画でもある。ジャズがアートになるまえの親密なてざわりのぬくもりに満ちた音にあふれている。
 われわれはハンセン氏病を描いた映画として『砂の器』という大作を知っている。松本清張の小説を野村芳太郎監督が四季の移り変わりをスクリーンに描ききった労作であった。しかし、そこにはハンセン氏病の罹患者を“業”としてしまい、偏見を打開するという地平まで進み出ていなかった。社会性、が良いというのではないが、あれでは偏見を助長するのではないか、と思える弱さを宿したまま映画的感動を優先していたように思う。しかし、本作はハンセン氏病の罹患者を隔離し、その生涯をいわれない偏見の渦のなかに晒した日本近代の罪は大きいという視点がきちんとある。それを大言壮言するのではなく、日常の対話のなかで語られている点を評価したい。
 ちなみに中南米ではハンセン氏病の罹患者たちは生活者として町に出ている。偏見はあるだろうが、それを日本のように家族が隠すという陰湿さはないと思う。
 元ジャズ・トランペッターの貴島健三郎(財津一郎)が息子と孫が暮らす家に戻ってくるというところから語り起される。健三郎は神戸の名門ジャズクラブにデビューしようと練習の日々を送るなかでハンセン氏病を発症、当時の「らい予防法」によって強制隔離された。それから半世紀の歳月が流れ、社会復帰することを決意した貴島は息子の家にいったん落ち着くと、旅に出る。その旅の介添えは大学のジャズクラブでトランペットを吹く孫の大翔(鈴木亮平)。旅はかつてのジャズ仲間を訪ね歩く50年の歳月を埋めるものだった。その旅のなかで大翔の祖母、父親の母であった百合子(МINJI)と健三郎との恋愛と別れのエピソードも語られる。健三郎がハンセン病であったため、母と子は別々に隔離された生活を強いられ、母は感染したら大変だと一度もわが子を抱くことなく病死する。このあたりは当時の偏見が作り出した社会的悲劇というものだが、残念ながら通り一遍の感傷的な作劇となってしまっている。映画の全体的な印象はそういう意味ではかなりウェットである。であるなら駄作としてここで取り上げるまでもないのだが、財津の陰影を彫琢する演技力が映画を引き締めているのだ。
 50年の歳月は当然、人を変える。痴呆症の症状がでているかつての仲間もいる。そうした仲間と語り合いながら、やり残したことを実現しようではないか、というのが本筋である。欠けているのは当時のバンドでピアノを弾いていた健三郎の恋人でほんのつかの間、妻であった野田百合子だけだった。МINJIは百合子と、健三郎が隔離されていた療養上の看護士ハヨンの二役を演じている。百合子は日本人として、ハヨンは出稼ぎに来ているらしい韓国人女性役として。双方をそれぞれ好演していている。
 ラストは老ミュージシャンのひさかたぶりのジャズセッションとなる。ここで感動が一気に盛り上がるという段取りだ。さて、ここで涙腺がいかに緩まるかは演出の力だろうが凡庸である。評者はこぼれ出そうな涙が引っ込んだ。

旅立ったアノ人、コノ人  其の一  淀川長治さん

旅立ったアノ人、コノ人  其の一  淀川長治さん

 仕事柄、さまざまな職業の方とお付き合いをし、また貴重な一期一会の機会をもった。そして、ふと後ろを振り返ると、なんと多くの人が鬼籍に入られたかと思う。自分もいつバナナの皮にすべりもんどりうって後頭部をしたたかに打ちすえ昇天するかも知れないし、ある朝、目が覚めたら17歳の少年に舞い戻ってしまい、本人は〈青春〉を謳歌しているつもりでも、まわりはとうとうボケたかと暗然としているやも知れぬ。記憶の確かなうちに私だけが知る故人の一面を語っておきたいと思う。

  淀川長治さん
 最初に映画評論家の淀川長治さんを選んだのは、それなりの理由がある。
 私が生意気盛りの中学生時代、確か3年の春だったと思うが、なんと淀川さんに長文の手紙を書いたのである。無知とはすばらしい。常識をはるか彼方にキックオフして、なんと〈仕事の相談〉をしたのである。ファンレター、というようなものではなかった。僕は映画が大好きで近い将来、映画に関係した仕事に就きたいのである。したがって映画界で活躍されている貴方はそうした相談をするにはもっともふさわしい先輩とお見受けするので、こうして一筆したためたものである……と書いたどうかは定かではないが、ともかくそんな内容の文面をせいいっぱい、キリンの首のように延ばして書き、雑誌『映画の友』であったか、「淀川長治編集長殿」宛に送りつけてしまったのである。果敢さと無知の見事な同居……しかし、向う見ずな中学生もさすがに返事がすんなり来るとは思っていない。
 ……ところがさほど日をおかず葉書が届いたのだ、淀川さんから……。
 あの「怖いですねえ、恐ろしいですね。ハラハラドキドキしましたか」と品のよい笑顔が行間からこぼれるようなやさしい文章で、「あなたはまだまだお若くお勉強をする時間が与えられた幸せな時を過ごしているのですから、あわてて将来の進路をいま決めることはありません。これからの時間と、あなたの努力がやがて仕事を自然と選ばせるでしょう。そのとき、まだ映画の仕事をしたいと思えば相談にいらっしゃい」といった内容だった。
 当たり前の内容が中学生でも読みやすい書体で書かれてあった。淀川さんには返事を書く義務はいささかもない。でも書いてくれた。インターネットの時代でなくてよかった。葉書はいまも大事にとってある。
 後年、映画批評や、監督や俳優さんへのインタビューの仕事に少しウエイトをおくようになってから淀川さんと触れ合う機会を幾度ももった。エレベーターに二人きりになったこともある。私は下を向いた。なんだかとても恥ずかしかった。むろん、淀川さんは、かつて無遠慮極まりない手紙を送り付けた中学生のことなど忘却の彼方だろう。しかし、一度、確かめたいと思っていた。「へんな中学生の手紙のことを覚えていませんか?」。それを言い出す機会はいくらでもあったのだが、とうとう訊けずに終わってしまった。
 淀川さんの元気な姿を近くでみたのは、ある若い監督の映画の完成を祝う席だった。淀川さんは、その監督を「先生」とよんで作品を褒めあげていた。淀川さんは、創作する側のひとたちをいつも尊重していた。撮影監督、美術、音声……淀川さんは映画を掛け替えのない総合芸術を位置づけていた。けっして偉ぶるところのない人だった。心の底からやさしい人だった。そのやさしさは辛口の映画批評を本業とはさせなかった。映画愛好家、紹介者として徹することに潔しとした。淀川さんの文章におけるお仕事はさほど多くない。しかし、『自伝』はみごとな「文学」でもあり、近代史の傍証になる貴重なお仕事だった。
……こうして、淀川さんの思い出をいま吐いてみて、なんとなく肩の荷がおりたような感じがする。いま、あちらの世界でにこやかにしている淀川さんに向かってはじめて手が振れると思った。
「淀川さん、ありがとう。それでは次週(とはいきませんが、そちらでお会いできるまで)、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」……。     (2010年11月記)
 
 

映画『パンチャママの贈りもの』と、監督の松下俊文さん

ボリビア先住民への限りなく美しいオマージュ
  映画『パンチャママの贈りもの』と、監督の松下俊文さん
パチャママ

 天然自然の空はかくまで蒼い。青いでは凡庸なので、あえて「蒼い」と書く。そして、アンデス山脈の雪解け水がもたらした塩も限りなく白い。純白、きらめき透き通るような白。スクリーンに光が投射されると一瞬、眩いばかりの蒼と白のコントラストに射すくめられる。
 圧倒的な美しさだった。地球の始原の美しさとはかくあろうかという輝き。映画『パチャママの贈りもの』は標高3600メートルのアンデス高地にひろがるウユニ塩湖、そして塩湖の恵みで生きるケチュア族の物語だ。
 「私自身、その美しさ広大さ、どこまでも果てしなくつづく純白の大地、太陽がすぐ真上にあって何もかもが驚異であるような光景、それはまったく圧倒的なものでした」
 松下監督がウユニ塩湖をはじめて訪れ、その出会いの感動は、そのままフィルムに焼き付けられた。
 塩湖という名のあるように、おの湖には無限の天然自然、ミネラルたっぷりの塩が堆積する。この塩をレンガ状に削り取り、小山を作って乾燥させて消費地を運ばれる。はるばる日本にも輸出されているそうだ。一度、賞味したいものだが。
 面積12000キロメートル、琵琶湖の12倍という広大な塩湖とその周囲の自然、そして遥かな神代の昔からそこに生きるケチュア族の暮らしをありのままに写して見飽きないドキュメント映画を制作できるだろう。
 「いやぁ私も最初は新藤兼人監督の初期の名作『裸の島』のようなドラマらしいドラマもなく、演出の痕跡がかき消されたような映画を撮りたいと思っていました。映像作家ならあの光景をみていれば誰だって、そう思いますよ。それぐらい圧倒的な強さをもっている驚異的な自然ですから」
 『裸の島』とは瀬戸内の孤島に生きる夫婦と子どもたち、痩せた土地と闘うようにして暮らす貧しい一家の物語をセリフなしで描いた新藤監督の代表的な作品で、戦後日本映画の秀作の一編だ。切り詰められるまで切り詰めたまったく贅肉のない映像詩であった。 
 「『裸の島』を私はドキュメントのようでいて劇映画、私はドキフィクションと呼んでいますが、そんな映画を撮りたいと思っていました。けれどシナリオ作成のため取材をするなかで、塩のブロックをリャマの背に結わえ付けて僻村の村までとどけるキャラバンがあることを知りました。それも是非、撮りたいと思った。そうすると塩湖周辺で暮らすケチュア族の生活だけを撮るという最初のもくろみは消え、映画は劇映画らしく撮らざるえなくなったわけです」
 映画はほぼ全編ケチュア語である。わずかにスペイン語とアイマラ語が語られるに過ぎない。その意味でも稀有な作品だ。
 「劇映画であるから俳優さんが必要なわけですね。それで私は首都のラ・パスで映画やテレビなどをみてケチュア語を話せる俳優さんを探しました。母語のように話せる俳優さんにしかやれない役ですからね。しかし、そういう俳優さんはボリビアには存在しないことを知りました。ですから、この映画にはプロの俳優さんはひとりも出ていません」
 カメラの入ったウユニ塩湖周辺の先住民共同体に住むケチュア族は誰も映画を見たこともなかったという。テレビすら見たことがなかったそうだ。そもそも電化されていないのだ。松下監督は、そんな質朴な村民を“俳優”として採用して劇映画を撮ったのだ。それも見事なケチュア族の叙事詩ともいうべき美しい映画を……それは奇跡的といっても良いでいごとに違いない。
 物語はすこぶるシンプルだ。ゆえに古典的な叙事詩の世界として普遍性をもつことになった。
 主人公のコンドリ少年(クリスチャン・ワイグア)の父サウシ(フランシスコ・グティエレス)は塩湖で塩のブロックを削り取る労働者である。素朴な村の日常は来る日も来る日もおなじことの繰り返しのように思える。けれど、なんと牧歌的で平和な光景だろう。貧しいけれど充実した営みがあり、自然と共生する日常は慰安そのもののようにみえる。
 「私は日常ふだんの生活のなかにこそ人間の真実があると思っています。あるいは人間の幸福と言い換えてもいいでしょう。それを象徴的に描き出したいと念じたのです」
 塩を運ぶキャラバンはおよそ3ヶ月の長旅となる。コンドリ少年の父親はその準備をはじめる、映画の序章部だ。そこで父親は、野宿のつづくキャラバンに少年を連れて行くことに決めた。それは先住民共同体にとって少年が大人になるための通過儀礼、元服の儀式のようなものだろう。旅の日々そのものが少年の成長の物語となっているのだ。そして、旅の終点となる村で美しいケチュア族の少女ウララ(ファニー・モスケス)と出会う。初恋である。穢れない神話の世界の愛の叙情だ。
 映画は塩湖周辺での労働の実態を日常的な添景として映し出し、旅の途上で訪れたポトシ鉱山での苛酷な現実も描く。そうした営みのなかでケチュア族たちは自分たちの文化を守りながら植民地時代から今日まで生きのびてきた民族の矜持も描きだす。
 「ケチュア族の現実をまったく知らなかった私はラ・パスの国立自然博物館に通って、そこにライブラリーとなっている記録フィルムを見つづけて勉強しました。それから制作に入ったわけですが丸3年かかりました。しかし、映画の編集につかったフィルムはほとんど3年目になって撮ったものばかりです。約2年間はケチュア族の人たちとの勉強会、それは心の交流のドラマだったと思います」
 そうして完成した映画はそれこそ手づくりの味のするの質朴でかつ堅実なドラマとなった。圧倒的な美しさを誇る光景も「観光」的にはならず生活の背景としてとらえられている。だからこそ美しい。それは松下監督が3年の歳月を掛けて「風景」を先住民とおなじような共有レベルで見えることができるようになったからだ。
 映画は国立のシネマテークで昨年、2週間公開され賞賛された。ボリビアの映画人も撮れなかったすばらしいケチュア語映画の出現に同国政府も驚嘆し感動した。かけがえのない文化財として政府の手によってDVD化された。そして、すべての公立学校に配ることが決まったという。世界各地の映画祭に招待され、すでに多くの賞を獲得している。
 「ボリビア国内の上映による収益は、すべてポトシ鉱山で親を亡くした子の学資資金に充てることにしています」
 松下監督は現在、米国のニューヨークを拠点にして活動する。日本を離れて30年が経つという。時どき仕事で帰国するたびに、「腹だが立つ」という。何故?
 「東京、ここは人間の匂いが消えていますよ。若者に覇気が感じられない。いっけん豊かそうには見えるけど幸福そうには思えない。何かを喪失している。私はこの映画から、人間の幸福とはなんなのか、と考えて欲しいと思う。日常の繰り返しそのもののに静かだが堅実な幸福があることを知って欲しい。自分の足元を見つめて欲しい。貧しい、それは否定できない。しかし、ケチュア族には人間の匂い、生きているという充足感が濃厚にあります」
 松下監督は小柄で温和な人だが眼力は強靭で巨(おお)きい。仕事の充実、創りあげた作品への自信がそこにあると思った。   2009年10月記

映画『クララ・シューマン~愛の協奏曲』

映画『クララ・シューマン~愛の協奏曲』
 ヘルマ・サンダース=ブラームス監督

クララ
 ブラームス監督が描く女性はいつも毅然としている。その立ち姿は美しい。
 寡作ということもあるがブラームス監督の長編は日本でもすべて公開されている。処女作『ドイツ・青ざめた母』(1980)はすでに熟達の領域に達する完成度をもっていると思った。そこには現代史に切り込む鋭い批評性もあった。正直、感服した。ソ連軍のベルリン侵攻によってナチ・ドイツは崩壊する。戦火で荒廃した町のなかで多発したソ連軍兵によるドイツ女性への暴行を告発しながら、敗残の地にプライドを捨てず、したたかに生きぬく女性像を描いて重い感銘を与えた。
 大戦前のドイツは映画大国であった。ナチ時代にもレニ・リーフェンシュタールはナチ党大会やベルリン五輪を独自の様式美で造型し一篇の叙事詩とし世界を瞠目させた。しかし、映画人の最良がナチズムと親密であったため、敗戦はそのまま映画界そのものも〈無抵抗降伏〉状態となって、映画人の「最良」の部分は失意のなかで生気すら奪われた。それを再生する試みは苦難の道だった。
 評者は『青ざめた母』をドイツ映画の最良の復興、その狼煙と受け取った。2作目の『エミリーの未来』(1984)もまた母親と女優という狭間でいきる〈女〉を描き、ブラームス監督自身が投影されている作品と受け取った。自己実現を目指す〈女〉は、子を慈しんでも道は誤ってならない、と訴えていたように思う。静かな家庭劇の枠組みのなかで、強い主張をもった作品だった。本作もまた監督が敷設してきた軌道からいささかも逸れていない。
 評者の世代におけるクララ・シューマンの映画といえば全盛期のナスターシャ・キンスキーが演じた『哀愁のトロイメライ』(1985)である。ペーター・シャモニという男性監督が撮ったもので、ピアノの神童として欧州各地を演奏する少女クララから、愛に目覚める思春期、そしてロベルト・シューマン(パスカル・グレゴリー)との結婚までを描いた青春物語だった。結婚によってクララの名声は一時棚上げされる。クララは夫シューマンの成功に賭ける女性として描かれていた。いま、ブラームス監督の新作を見終えた時、キンスキー=クララは男性監督の偏愛的な理想像としての〈女〉ではなかったかと思えてくる。
 ブラームス監督のクララはまず力強いピアニストとして登場し、家事・育児も怠りない母親像と描かれ、さらに精神的病いに侵された夫ロベルトを看護する献身性も強調されていた。病いに侵されたロベルトの姿は見苦しい。父親として家庭人として家計を支える男のプライドが病魔と戦わせているが、敗残の色濃い壮年として描かれる。そんな夫を慰撫しながら交響曲を完成させるクララの姿は美しい。そんなクララの姿に感銘を受け、密かに恋心を寄せるのが新進の作曲家ブラームス。この辺りは実話と創作が調和して巧みな作劇となっている。
 クララを演じるのは美少女の面影を残す成熟した女性といった感じのマルティナ・ゲデック。ブラームス監督の意を挺して、男社会の音楽界のなかで毅然とわが道を拓いてきた強靭な精神力をもちながらも、若きブラームス(マリック・ジディ)の求愛にとまどう〈女〉の揺れを見事に演じている。晩年のロベルトは第3交響曲「ライン」を最後にみるべき作品を遺すことなく死にいたる。その「ライン」創作エピソードはそのまま二人の個性を浮彫りさせるドラマとして描かれる。そのシナリオは見事だ。
 クララもひとつのピアノ協奏曲と多くのピアノ小曲や声楽曲を創作した。しかし、クララの映画であっても監督はプライベートの場面でしかそれを流さない。聴衆はクララのピアノは聴いても、それはロベルト・シューマンの作品なのだ。音楽史におけるクララの位置はまずピアニストでありシューマンの妻である。クララを主役にしながらも音楽そのものはロベルト・シューマンを畏敬する。ピアニストとしてのクララの力量と〈女〉の美質を賞賛しつつも、ロベルト・シューマンは類い稀な芸術家であったという監督の審美眼にブレはない。秀作である。 

シューマンも生誕200周年

シューマンも生誕200周年
  ~妻クララの献身も

 「トロイメライ」の簡素で愛らしい旋律を知らない人はいない。ロベルト・シューマン(1810~1856)の珠玉の名品。愛妻クララも当代の名ピアニストだった。
 シューマン芸術の清華ともいうべき『交響的練習曲作品13』『幻想曲ハ長調作品17』、そして「トロイメライ」を含む『子供の情景』といったピアノ曲集、あるいは『クライスレリアーナ』等々、優れた解釈者クララの存在があって古典となりえた、と思う。しかし、クララは演奏者である前に妻であり母親であった。四男四女を出産、その日常は多忙を極めた。否、彼女自身はピアニストとしての自負は強かったし、芸術家であろうとした。しかし、家庭が彼女の天賦を家に引き戻した。後年、シューマンは精神を病み、闘病生活を送る。そのあいだの家計一切を捻出するため演奏活動をつづけた。
 クララは音楽史上、女性として最初の本格的なプロのピアニストであった。彼女がピアノを弾かなければ家計は支えれなかった。
 今年、生誕二百周年を迎えシューマンの先駆性が再認識されている。シューマンの楽器は「頭脳」と言ったのは指揮者のサバリッシュ。ショパンのピアノに比較しての比喩。シューマンは楽譜に音が出るはずのない箇所にペダルを踏めと指示した。そういう記譜をした最初の作曲家。ジョン・ケージあたりのはるかな先達である。沈黙を万全な表現とするため、その直前の演奏まで傾注することを求めた。それに最初にこたえたのはクララだろう。夫唱婦随というが、シューマンの音楽の大半はクララの献身から発露した。生誕記念年の慶賀にクララへの称賛もあるべきだ。そして、シューマンの弟子となり、シューマン亡きあと、クララに〈愛〉以上の愛情で精神的に支えたブラームスの存在もまた忘れてはなるまい。シューマン自身は夭折の天才として悲劇的生涯を送ったが、妻や友には恵まれた幸せな音楽家であったと思う。 (2010年秋)

ショパン 生誕200周年

 今年は“ピアノの詩人”フレデリック・ショパンの生誕200周年ということで年初から全国各地のコンサート・ホールはショパンのポロネーズ、マズルカ……虚飾のない美しいピュアな音色に満されている。
 半年を経って振り返れると、すでに二つの興味深い演奏会に接したことを知る。
 一つは昨年6月、アメリカのヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人として初優勝した視覚障害者の辻井伸行がスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団と共演した「ピアノ協奏曲第一番」。ショパンの意思の剛さが通底しつつ、憂愁が北国の霧のように湧きあがっているくる詩情に酔った。辻井は2005年10月に行なわれた第15回ショパン国際ピアノコンクールですでに「ポーランド批評家賞」を受賞しているショパン弾きでもある。ショパン20歳のときに完成されていた協奏曲で、22歳の辻井の感性と共鳴し溶け合った清新な演奏だった。
 辻井のショパンを聴いた翌週には、ポーランド国立ワルシャワ・ショパン音楽院(現ショパン音大)に留学して以来、滞在20年におよぶ河合優子のピアノとワルシャワ・ファルハーモニー弦楽四重奏団との共演による「ピアノ協奏曲」第一、第二番を聴いた。オーケストラの総奏ではなく弦楽四重奏曲として変奏された、それ自体、聴きなれない形式だが、ショパンの時代には融通無碍に形式を替えながら演奏されていた。日本での試みは珍しい。そして、つくづく納得したのはどんな形式で演奏されてもショパンのピアニシズムはいささかも損なわれないということだ。むろんショパンを知り尽くした河合の名演によるところも大きい。
 
(この変奏曲で想い出しのだが、余談として是非、書いておきたい。この12月、また連日のようにベートーヴェンの第九が全国各地で夜毎、鳴り響くはずだ。この第九の変奏で秀逸なリストの2台のピアノのための「第九」がある。筆者はこれが好きで、かつてレコードでよく聴いていた。リストの天才と技巧はあの大作のスケールをそのままにピアノ2台で鳴り響かせることに成功している。このリストの編曲版はレコードがなかった時代のヨーロッパでは第九普及に大きな貢献をしたのだ。その役割を終えたとき、ひっそりと後景に退いたのだが、埃りをかぶせたくない名曲である。)

 筆者にとって今年前半のショパン演奏はそのふたつに代表されるが、これからも首都圏だけでショパンをプログラムとする演奏会は筆者の手元に届いた案内状だけで20近くある。そのなかには1985年、第11回ショパン・コンクールの優勝者スタニスラフ・ブーニンの演奏会や、第15回同コンクールの優勝者ラファウ・ブレハッチの三回の演奏会などがあり、ブーニンは日本でも熱狂的な固定ファンも多いのでソールドアウトになると思われる。
 また、メモリアル・イヤーの特徴だが、ショパンの愛人であったフランスの閨秀詩人ジョルジュ・サンドの手紙や詩、小説の朗読を、ショパンのピアノ曲とコラボレーションさせる企画もある。すでにフランスではCD化されている試みだ。
 ショパン・ファンにとって応接に暇がない年となった。今年ほど充実したショパンを聴ける機会はそうそうないと思われるので是非、これはと思うコンサートに足を運んで戴きたいと思う。むろん、ショパン作品の新作CDの発表や、関係書の出版も相次いでいる。
 ショパンは旅の人であった。39年の短い生涯に馬車と船の移動だけで約二万五千キロに及ぶ旅を繰り返している。母国をロシア帝国に奪われた亡命音楽家ショパンにとって、生きるために演奏旅行をつづけピアン講師として働き、意に染まない社交界に出入りしながら、あれだけの名曲を書きつづけた。最晩年の2年間は健康を害して一曲も書けなかった。絶筆は「マズルカ」。異郷のパリで書いたピアノ曲も故国の民族舞踊マズールへの郷愁が源泉だった。
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 *資料・情報提供=コンサート・イマジン (2010年、猛暑の某日)

サッカーW杯と内戦

サッカーW杯と内戦
 
 サッカーW杯の本大会がはじまる頃、いつも思い出す光景がある。
 1990年イタリア大会。中米からコスタリカがはじめて本選にコマを進めた。初出場に関わらず予選リーグを2勝1敗、ブラジルに次ぐ勝点4を上げ決勝トーナメントに駆け上がった。中米諸国は熱狂してコスタリカに声援を送った。
 90年代前半の中米はグアテマラ、エルサルバドルは内戦。ニカラグアは長い内戦の末、和平化が実現したとはいえ経済的な貧窮に喘ぎ、ホンジュラスは周辺国の内戦の影響を受け混沌としていた。ひとりコスタリカはニカラグアからの難民、不法越境者が流入するという社会不安があったにせよ、もっとも穏やかな政情にあった。そのコスタリカが激戦区、北中米カリブ地域で勝ち抜き本戦にコマを進めた。地区の強豪メキシコが、Uー20W杯への参加選手の年齢詐称問題で、2年間の公式戦出場停止というペナルティを受けていた。そんな時の利もあったが、90年のコスタリカは確かに強かった。本戦での活躍がそれを証明していた。監督は、セルビア出身の名称ボラ・ミルティノビッチだった。中米諸国はおおいに盛り上がっていた。
 その時期、わたしはバックパッカーとしてグアテマラを基点にエルサルバドル、ホンジュラス、そしてメキシコへ至る悪路を乗り合いバスを継いで貧乏旅行をつづけていた。
 エルサルバドル東部、ホンジュラスへ至る国境の町サン・ミゲルで一夜を過ごす。
 内戦国では夜間の移動は戒厳令で禁止されていた。国境を前にして滞留を強いられた。その安宿のロビーで他の逗留者たちとコスタリカ戦の実況をテレビで観戦した。コスタリカが敗れた試合だった。
 たぶん、試合終了は中米時間で21時前後だったと思う。部屋に戻り水量の乏しい水シャワーを浴びていると突然、停電になった。漆黒の闇のなかで水も止り、全裸で内庭に面した回廊部に出ると全市が闇のなかに埋もれていた。
 そして、郊外から乾いた銃声が聞こえてきた。
 町外れにある政府軍基地が反政府武装組織ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の攻撃を受けているのだった。湿気を帯びた闇はその音でたちまち緊張した。
 乾いた銃声が休みなくつづき、しばらくして飛来した政府軍の武装ヘリが中空に停止し、紅い閃光を連射しはじめた。その薬莢がせわしくホテルの屋根を叩き、内庭で転がった。ヘリは漆黒の闇に沈んで攻撃をしていた。閃光の起点がヘリの位置だった。やがて基地周辺から銃声は途絶えた。
 翌朝、市内の学校の庭に若いゲリラたちの無惨な死体が並んだ。すでに中空には数羽の黒い禽獣が円を描いて舞っていた。
 ……旅はつづいた。
 行く先々の町でW杯のテレビ観戦で湧く食堂、ホテルを泊まり歩くうち、あの夜、戦闘に参加したゲリラ兵士、あるいは基地を守る政府軍兵士のことを思った。
 戦闘はW杯のコスタリカ戦が終結するのを待ってはじまったのだ。先制攻撃はむろんゲリラ側だ。決死の攻撃であったろう。迎え撃った政府軍も攻撃は予期したはずだ。それがエルサルバドルの夜であった。攻撃と迎撃にほとんど時差はなかった、と思う。
 ……とすれば、と思った。
 エルサルバドルもかつてW杯本選に出たことのあるサッカー国だ。ゲリラも政府軍兵士も場所こそ違え、どうようにコスタリカ戦をラジオかテレビで観戦していたのだと思う。戦死した者はその観戦の熱い興奮が最後の華やぎだったはずだ。敵も味方もどうようにコスタリカを応援していたのだ。内戦の残酷さはそんなところに象徴される。 (2010年6月記)
      

 昭和の歌舞伎座が消えて

 昭和の歌舞伎座が消えて
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 十三年間のラテンアメリカの暮らしに終止符を打って東京に戻ったとき、私は日本の文化の粋をふたたび体内に注入しようと思った。十三年の熱帯暮らしで、日本のなにかが漂泊されてしまったように思ったのだ。
 最初の文化回帰は上野公園の東京国立博物館の年会員になることからはじめた。
 年会費2500円を払うと企画展が3回無料になり、常設展示室はいつでも入館無料となるお得な会員パスポートを買ってせっせと通った。きょうは陶芸室を攻めよう、来週は土器室、来月は彫刻を丹念にみてやろう……という具合いに。ついでの1時間、2時間をやりくりして通った。映画も数少なくなった名画座2館の会員になって不在のあいだに見逃した映画をそれなりに消化した。DVDでみられるのだが、やはり大きなスクリーンでみたい。その映画のなかに新たな楽しみを見出した。松竹が「シネマ歌舞伎」というものを制作しはじめたのだ。
 歌舞伎座で評判の良かった舞台をそのまま映像化して、臨場感極上の映画にした。歌舞伎座の特等席2万円近い席で観劇するような位置をスクリーンは与えてくれた。映画は2000円。山田洋次監督が「監督」したことをウリにした一篇があった。しかし、これはどうみても「監督」作品ではない。正確にいえば〈監修〉である。「シネマ歌舞伎」では監督の出る幕はほんのわずかだ。歌舞伎は役者のものであり、伝統の力だ。伝統を改ざんすることはできない。監督の仕事はせいぜいカメラの位置を決め、クローズアップする場を選ぶ程度だ。映画という新しい表現媒体は、歌舞伎の歴史に服従する。これは人形浄瑠璃でも能楽、狂言でも事情はおなじだ。賢明な山田監督もそれを由とした。その制作態度がとてもよかった。
 シネマ歌舞伎はまず築地の東劇でロードショー公開された後、全国主要都市を回わる。公開劇場はわずかだが、ふだん歌舞伎に接することのできない地方での上映は貴重な機会だ。NHKが舞台中継することがあるが幾ら液晶パネルが大きくなっても、スクリーンでドルビーサウンドで聴く映画とは全然、別物だ。
 東劇で観劇した後、有楽町駅を目指して歩くと歌舞伎座の前に出る。来年、取り壊される歌舞伎座は「さよなら公演」の真っ盛りで連日、地方からも貸切バスを連ねて最期の歌舞伎座詣でする善男善女は引きも切らない。外国人の姿も珍しくない。
 現在の歌舞伎座は昭和26年(と元号で表記する)の建物だ。すでに半世紀以上が過ぎた。東京大空襲で焼けた跡に建ったものだ。戦後昭和を代表する建物である。空襲で焼けた歌舞伎座の建物は関東大震災で焼けた跡に建った大正時代のものだった。そして、こんど建てられる歌舞伎座は平成を象徴する高層建築となる。歌舞伎座はその高層ビルの下層の大半を占めるものになるらしい。
 歌舞伎見物の醍醐味は天井桟敷でみる「幕見席」にあると思うけど、あたらしい歌舞伎座はその“伝統”の席を残してくれるかと心配だ。「幕見席」こそ次代のファンを育成する場であるからだ。

 ……1年経った。
 歌舞伎座の消えた大きな空間にいま丈高い建築資材が林立している。銀座の空が広くなった。やがて、その空っぽの空間そのものを懐かしく思い出したりするのだろう。人間とはそういうものだと思う。そして、昭和の歌舞伎座も知らない世代が名籍を継いで伝統を担い、平成の歌舞伎座しか知らないファンが未来の歌舞伎をささえてゆくのだろう。平成の歌舞伎座が開館する頃、わたしも数人の孫持ちになっているにちがいない。 
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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