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映画『プラスティック・シティ』 ユー・リクウァイ監督

映画『プラスティック・シティ』 ユー・リクウァイ監督

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 ラテンアメリカの映画界は北のメキシコと南のブラジル……両極をつなぐ縦軸を回転させながら繁栄と衰退を繰り返してきた。メキシコは否応なく国境を接するカリフォルニアのハリウッドとの協同、あるいは文化的〈侵略〉との闘争のなかで独自の映像世界の構築を迫られ、ブラジルはあまりにも広大な国土、多様な人種構成、原始と超モダン、そしてありあまる富と貧困が映像を放埓にもし緊張と戦慄をもたらしつづけた。そして、この地の磁力に惹きつけられ、異邦の映画人が長足、訪問するのを厭わない。本作はその典型的な映像であることは間違いない。
 監督のユー・リクウァイは、すでに国際的な映像詩人として盛名をもつジャ・ジャックー監督の代表作『世界』『長江哀歌』の撮影監督として国際知名度をもつ才能だ。もともと技術畑の才能であったが、中国の地層は厚くゆたかだ、初監督作品ではやくも演出家としての才能をの見せつけた。かつて、文革後のあたらしい映像世代として「第五世代」といわれた一群の才能が突出したことがある。いまや古典的映画となってしまった観のある『黄色い大地』のチェン・カイコー監督は「第五世代」の前衛であった。そして、この伝説的な映画で撮影を担当したのがチャン・イーモウだった。チャンはその後、『赤いコーリャン』『初恋のきた道』を撮って、中国映画の代表的な監督となり北京オリンピックの開会式の大河的奔流ともいうような叙事詩を演出したことは周知の通り。ユー監督もまた本作も非凡な演出でパワフルな映像を造型した。あきらかに撮影技術者としてのプライドを意識させるカットが幾つもあって、それが特異なアクセントをつけている。
 物語自体はしごくシンプルだ。「闇の世界に生きる、日系ブラジル人のキリンと義理の父ユダ。血の繋がりよりも堅く結ばれた、二人の男の“激しくも美しい”クライム・ムービー」というチラシの惹句で事足りるが、それでは味気ないので少しつけ加えれば……キリン(オダギリ・ジョー)は北アマゾンの辺境に入植した日系移民の子で、両親が金の採掘をめぐるいざこざで殺されたようだ。その子を拾いわが子のように育てたのが、やはり中国からやってきた一旗組みの男ユダ(アンソニー・ウォン)。キリンが成長した頃、ユダは違法コピー商品の輸入、あるいは製造・販売で富をつくった闇世界のボス。キリンはその片腕として働いている。この映画でサンパウロには日系人社会だけでなく、中国人たちが共存共栄する社会もあることを教えてくれる。闇のシンジケートは中国・台湾ラインの抗争の地ともなっている、とは本作のあらすじ中のことである。
 警察官僚たちのラテン的な腐敗も描かれる。スラムの饐えた臭いも立ち上ってくる。その濃密な描写も秀逸だ。そして、全編にみなぎる熱気は沸騰する。そうした気配をどんどんそぎ落とせば、痩せた物語になりかねない。違法コピーの挿話などはナイフで切り刻めても、熱気や体臭までは切り取れない。そこに本作のパワーがある。そう『シティ・オブ・ゴッド』のブラジル移民版という風情があると思えばいい。熱気や体臭の横溢をかたる言葉にウソはないのだが、東洋的な無常観がそこはことなく否、濃厚というべきか、それが清涼な通奏低音のように流れているのだ。そのあたりはやはり東洋人の芸術なのだ。シンプルな物語ほど人生の真実を問うものだが、ギャングたちの抗争劇でもある本作には、ある種の気品が醸し出されているとしたら、それは生々流転、人は時の旅人に過ぎないといった諦観の陰りがあるからかも知れない。
 
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長倉洋海 ・写真展「微笑みの降る星 ~ぼくが出会った子どもたち」

長倉洋海 ・写真展「微笑みの降る星 ~ぼくが出会った子どもたち」
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 会場に大きな世界地図のパネルがあって、長倉さんが取材した国に印がついていた。
 赤道をはさんで帯状にその印は並んでいた。
 アフリカから中東、南アジアを通り、太平洋を横断して中米地峡にいたる。米国やロシア、西欧諸国がまったくの空白である。それが長倉さんであり、関心領域のありどころを示している。いわゆるサミット諸国はたとえ興味があったとしても、その地を訪れる時間を割く暇があれば、民衆の涙のあるところ、そこはまた最高の笑顔があるはずだ、という思いに駆られるのだ。あるいは地球が「微笑みの降る星」になるためには、地球がもっとも膨らんだ部分に住む子どもたちが平和に過ごせるような、そして飢えのない社会にする必要がある。それが本展のメッセージだ。
 長倉さんのフォト・ジャーナリストの姿勢がきまったのは中米エル・サルバドルの内戦の取材の日々、すさんだレンズを癒すように向けた子どもたちの笑顔のなかにあった。それは自他とともに認めるところだ。中米の内戦国であったグァテマラも取材しているが、そこでは正直言ってみるべき作品は少ない。そしてアフガニスタンがありパレスチナがある。近年のコソボでの難民一家を追ったフォトストーリーをみていると初期のひたむきさが消えているように思う。和みがあるのだけど、長倉さんの近作は穏やかであって、切迫感のようなものはない。エルサルの子どもたちを撮っていた頃とは、まったく違った地平を歩みはじめているようにおもう。
 三越百貨店(日本橋)という江戸の繁栄期に創業され、日本の豊かさを象徴してきた老舗の本店で、北の先進国の豊かさを下支えるするために犠牲を強いられている途上国の、そのまたもっとも弱い立場におかれている〈子ども〉たちの姿、「笑顔」が主題の写真群で長倉さんの仕事を回顧するという試みは少々、皮肉をこめていえばシュールだ。同店では同時開催として英国フェアなるものが開催されていて、それこそスペインの無敵艦隊を破って以後、海洋の覇者となって世界各地をに植民地帝国を築き、繁栄した消費文化そのものが長倉写真と併置されているのだ。
 〈子ども〉と山カギをつけて書いたのにはわけがある。
 年齢でいえば確かに、子どもである。しかし、先進諸国の子どもが、その時代を、まず食の心配をせずに過ごすこと、飢えず学校に通え、日々の着替えをもち、銃弾が飛んでくる心配もないところで過ごす同時代、長倉さんの〈子ども〉は腹を空かしながら働き、服は汚れ着替えもなく、いつ流れ弾に当たって死ぬかもしれないという日々におかれていた。それは、たとえばユニセフが基準をもうける児童の人権保護という数値が示すものとは縁遠く、幸薄い子どもらとなる。〈子ども〉であって子どもでない存在。けれど、そんな子どもも笑顔を忘れているわけではない。その笑顔をこぼすきっかけを失いつづけているだけだ。笑顔は尊い。偽らない笑顔だけが子どもの証しとなる。長倉さんはそんな笑顔に魅了されて世界を歩きつづけているのだろう。
 その〈子ども〉の笑顔に具体的な政治的メッセージがあるわけではない。……ないのだが指のあいだから細かい砂のように零れ落ちてしまいそうな、「幸福」への希求を受け止めてほしいという発信を受け取らないといけないのだ。そして、それを頭でなくハートで受け取ってくれ、と長倉さんは主張している。そういう心の豊かさ、遠い国のこどもたちへ心を傾ける感受性を枯渇させないで欲しいと訴える。即効性など期待できない。しかし、指し示していかなければ見えない過酷は無数にあるのだ。長倉さんの写真をみるとき、筆者はいつも自分の感受性がリトマス試験紙に浸されるような思いにかられる。そして、グァテマラに過ごしていたころ、先住民の女の子たちが外国人観光客をめがけて素足で掛けより、手持ちの小さな伝統手芸を売り込むすがたを想い出すのだ。貧しい国のまずしい少女たちはいちばん過酷な生涯を過ごす。十代で結婚し、母親となり、たちまち若さを失ってゆく。長倉さんが撮った女の子たちもまた例外ではなかった。そんな少女たちの成長過程をもっとも丹念に撮りつづけたのはエル・サルの地であった。長倉さんの仕事はエル・サルの地で発芽し、成長していき、そして社会的な評価を受けた。しかし、その地の民衆はまだまだ貧しい。故郷を離れて米国で働き、送金する越境者の数はずば抜けて多いのだ。その意味では長倉さんも北の先進国の底辺に入り込んだ取材をする必要があると思うのだ。 (2009・秋)

「コロンビアの写真家5人の視線」展

「コロンビアの写真家5人の視線」展
   多様な風土と民族性を土壌にして

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  (写真=ルイス・モラーレス)
 日本にいるとラテンアメリカの写真界の事情に触れる機会は少ない。それでも近年、東京・恵比寿に都立の写真美術館が開設されたり、写真専門のギャラリーで目に触れる機会は些少、多くなったかな、という印象はある。といっても記憶をたどればメキシコ、ブラジル、キューバ、アルゼンチンぐらいなものであった。
 メキシコ市に暮していた頃、セントロの旧市街地にあった国立写真美術館によく通っていた。建物は植民地時代の古雅なものだったが、内部は機能性に富んだレイアウトで採光も素晴らしかった。ここでメキシコだけでなく、カリブの英語圏も含めた中南米諸国の写真家たちの紹介が、あるときは回顧形式で、あるいは横断的なタイトルの下で国境を越えて集められた複数の写真家の作品が恒常的に展示されていた。
 メキシコやブラジル、アルゼンチン……といった国をのぞけば写真家が生計を得るための出版媒体は少なく、また規模も小さい。中米の小国グァテマラに居住していた6年ほどのあいだに写真を中心とするイベントに親しく接したのは3~4回ほどの数でしかなかった。むろん、それがすべてはないだろう。しかし、グァテマラにアートとしての「写真」が自立する草創期に屋須弘平という日本人が介在していたこともあって、同国の写真界にそれなりの目配りをしてきたはずだったが、その程度の数でしかなかった。
 11月、日本コロンビア修好100周年記念事業のトリともいうべき位置に座ることになったイベント『コロンビアの写真家5人の視線』がが東京工芸大学の中野キャンパス内の写大ギャラリーで開かれた。コロンビアの芸術表現活動は騒擾の国であるにも関わらず、南米でも活発かつ充実したものがある。それは文学・演劇・映画・音楽・絵画に彫刻、さらに舞踊やテレノベラ(連続テレビドラマ)制作という分野にも渡っている。それは一連の修好記念イベントでさまざまな場で日本紹介が行なわれてきた。ことでも実証されている。
 
 選択された「5人の視線」は、同国の写真美術館のヒルマ・スアレス館長によって推薦によるものらしい。本イベントではじめて同国に自立した写真美術館の存在を知ることになったが、そうした公的機関による持続的な活動があったからこそ2006~2007年という近作だけでギャラリーの小宇宙を充実したものにしてみせたと思った。
 セルヒオ・バルテルスマンの「2008年光の鉛筆」10点がコロンビアの自然に誘う。しかし、それは観光のランドマーク的な記号性をまったく排した、いわばコロンビア人なら誰も記憶の底に秘めているような自然美の光景である。場所の名はない、何処か懐かしく思い出されるような光景であって、それは俳人が四季のうつろいを自然に託して詠ったような観照の世界であった。視覚のインスピレーションはほとんど俳諧の世界だと思われた。感性の豊かな写真である。
 自然をみせた後はこの国の民族について語りかける。アドリアナ・デューケという女性写真家による「聖家族」10点はポートレートであるが、どこかファンタジィックな世界を造型している。特に家族の集合写真はできるだけ影を排した人口機密的な気配のなかに瞬間を留めていた。それも日常生活の瞬間を切りとるというのではなく、あくまで写真の歴史のなかに、序章期から遠い未来まで繋ぐであろう商業的な家族記念像の枠内でファンタジーを作っている新しい表現だ。略歴をみると5人のなかでもっとも海外での個展が多いようだ。この国の多様な民族構成をそれぞれのファミリアに託して撮り、それが海外への観光的な、あるいは政府広報的な意味をもちながらも〈芸術〉と昇華されているところに、こうした海外展に欠かせない存在になったという感じがする。そして、その意図に完璧にこたえている。
 つづくカルロス・デューケの「儚(はかな)き幾何模様」はネオ・シュールレアリスムといったカテゴリーに収まるものだろう。抽象的な光・煙のある瞬間の〈虚〉をシンメトリカルに定着させた作品だが、今こうした作品をみると、もっとも“古典的”なモダニズムといった言葉で括れるところがあるので、評価は低くなる。新しくともなんともないし、批評性も希薄で写真家の哲学も全然、みえてこない。コロンビアの写真家である必要はないということだ。こうした写真を撮る者もいるということなのだろう。
 ルイス・モラーレスの「UNTITLED」は鋭敏な感性が捉えた作品だ。組写真としての効果、並立することで相乗効果を高めることを熟知した写真家の視線がそこにある。古雅とはいえないが、それなりの歳月を蓄えた建物の回廊を明晰に切りとった作品で、おなじような構図でありながら、みな微妙に違う光景がそこに映し出されている。床のタイル模様、壁の色、突き当りの階段の上り口の装飾……同じ建造物のたぶん各層を撮ったものだろう。新装当時はみな同じ調度、そして色相であったものが人に使いこまれているうちに、そこはことなく微妙に変化してゆく。その歳月の変化を10点の同一の視覚によって雄弁に語っていくものだ。気配が歳月を醸し出すことを象徴する写真だった。
 そして最後は風土と多様な民族構成、そしてカトリックが育んだ色彩感あふれるフェイスタの紹介ともなっている「コロンビアの祭り」。天頂の旺盛な太陽の下で賑々しく展開する祭りを共感をこめて祝賀する率直明快な10点であった。
 Ⅰ人10点……50点の作品は多いとはいえないがコロンビア写真の現在とはさもありなんと思わせる説得力のあるものだった。 (2008年11月記)  上野清士
 

映画『名前のない少年、脚のない少女』 エズミール・フィーリョ監督

映画『名前のない少年、脚のない少女』 エズミール・フィーリョ監督
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 いっさいの予備知識なしにこの映画をみて誰がブラジルを描いた作品だと思うだろうだろうか……。101分のフレームのなかで太陽はいちども輝かない。いわゆる灼熱のなんとかというリオやサンパウロの街路を沸騰させるような苛烈な面影はいささかもない。おだやかな小春日和めいた光も希薄な映画なのだ。空はどんよりと曇り、シーンの多くは夜景のなかで描かれ、屋内の調度は北方ヨーロッパにありそうなものだ。
 おまけに映画の主調音楽となっているのはボブ・デュランであり、しかもアコースティク・ギターの吟遊詩人だったころの歌だ。「ミスター・タンブンリマン」。そしてドイツの地方音楽のポルカやワルツ。ここにはわれわれがブラジル映画ときいて連想するキーワードはまるで存在しない。いや、ポルトガル語のセリフということでは〈ブラジル〉は存在するのだが、そのポルトガル語と鄙びた光景はイベリア半島のポルトガル地方に近い印象だ。でも、映画は確かにブラジルの南部の小さな町テウトニアという場所である。なんでもドイツ系移民が入植してつくった町ということだ。そう聞かされてはじめて合点がいった。
 移民は生まれ故郷の自然・風土にちかい土地により親しむ……といわれる。遅れて「新大陸」ブラジルにやってきたドイツ系移民は港湾都市から離れ、内陸にはいって故郷に近い(と想った)土地をみつけ交通の不便も顧みずにそこに住みつき小さな共同体を形成していったのだ。だから、この映画に登場する人たちはみなドイツ系移民であり、ブラジル映画でかならず自己主張してくるようなタイプのラテン的気質の民衆というものはまるで登場しない。みなドイツ系ブラジル人なのだ。
 前置きがながくなったが、この映画の特異性を無視できないからだ。しかし、日本語字幕のついたウチナンチューの映画が日本映画であるように、本作もまたブラジル映画なのだ。全編ほぼ先住民のアイマラ語台詞という映画がボリビアで制作されることもある。ナワトル語で語られるメキシコ映画もあった。21世紀になってからラテンアメリカの表現活動は言語的には拡散傾向があると思う。
 本作の主人公はテウトニアという小さな町に生まれ育ち、外の社会との交流はインターネット。そのとき使うハンドルネームが「ミスター・タンブリマン」。この少年を、実際にテウトニアという町に住むエンリケ・ケリーというフツーの男の子が演じている。というよりこの映画に登場する人たちは、みな素人、テウトニアの住民なのだ。その生活者としての自然さが繊細な詩編のような映像に独特の奥行き実質感をもたらしている。
テーマは古典的な普遍性をもつもの「青春の憂鬱」だ。まだ飛翔できるほどの力もなく親の庇護を受けなければ生きてゆけない。でも、早く羽ばたき外へ出て行こうという希求の念も強い。それがインターネットで象徴される。そのインターネットで外とアクセスしているうちに偶然、リリカルで神秘的な雰囲気をもった少女(トゥアネ・エジェルス)を映し出した動画と写真を発見する。その少女を、少年は「脚のない少女」ジングル・ジャングルと命名してひそかな恋心を抱く。そのジングル・ジャングルとはデュランの「ミスター・タンブリマン」のなかの印象的なフレーズであることは読者もよく知ることだろう。まだ、社会性をもたない、社会的責任からも自由でいられるゆえ「名前のない少年」が、実態の希薄なネット上の神秘的な少女に初恋のような感情を描く日々を、ソネットのように映像でつないだ映画である。
おそらく、この映画に感情移入できるのは年齢に関係なく思春期のはなやぎと憂鬱を体験した人たち、あるいはそのほろ苦い〈傷〉を大事にかかえている人たちなのだろう。優れた映画だが、その美質は普遍的な訴求力をもっていないと思う。そして、社会は、そうした〈美質〉を無視できる者たちが作り動かしてゆく。でも、そうした者たちのダイナミズムを等閑視しつつ、孤塁を沈黙で守る人たちもまた存在する。そういうことを気づかされる映画である。    

ジェイク・シマブクロの熱い夜風

ジェイク・シマブクロの熱い夜風
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 メキシコ古謡を愛する筆者にとってハワイ音楽は他人事ではない。
ハワイイ……池澤夏樹氏の紀行文などの影響で昨今、先住民言語に近い音に添って表記されることが多くなった。これは良いことである。そのハワイイの音楽といえばウクレレやスティール・ギター、ライ・クーダーに大きな影響を与えたスラッキー・ギターなどが主調音を奏でる俗称ハワイアンである。その弦楽器の母体としてのギターや、あるいは組み合わせとしてハローチョ、つまりメキシコ民謡で定番の弦楽器などがハワイイ諸島に流入したのは、独立期のハワイ王国時代、カメハメハ三世、その後を受け継いだカラカウア王の治世期ではないかと思う。
ハワイイ殖産事業として牧畜業を活性化させるためメキシコの牧童たちを受け入れた。そのメキシコ人牧童たちがハワイイにギターを定着させ、それから打楽器中心であった汎ポリネシア音楽から、ひとりハワイイ音楽は飛躍して豊潤な世界を開くことになる。弦楽器の効用はハワイイの人びとの感性まで変えたのだ。そして、弦による香しいニュアンスから生まれたリリシズムはやがてハワイイから南太平洋の島々へ波及していった……という説だ。
 カラカウア王の死後、王位を受け継いだリリウオカラニ女王は英明な政治家でかつ芸術的センスもあった。ハワイアンを象徴する「アロハ・オエ」は歌詞も曲も女王の作といわれる。確証はなくとも、伝承として女王の名があるぐらい音楽的な才能に恵まれた人であったことは事実だろう。というわけでハワイイとメキシコは音楽で繋がっている。
 前置きが長くなった。久しぶりの日比谷野音でハワイイ音楽の最先端、つまり「アロハ・オエ」から100年以上が経過した現在をウクレレ一本で風を切っているジェイク・シマブクロのパフォーマンスを堪能してきた。
 9月最初の土曜日は遥か南方洋上に逆巻く台風の影響で、日比谷の空を過ぎる雲の流れは速かった。その雲に乗っかって彼のファースト・アルバム『クロスカレント』の印象も去って行った。コンサートは行儀よく並んだ(と思った)アルバムの音楽より、ずっとテンション高く、実験的な意欲に溢れていた。これでもかとテクニック全開のフィージョン系の音楽が主体であったが、そういう曲より、流れる雲に乗るような情感をたたえた「ビート・オブ・ハート」、ジョージ・ハリソンの「マイ・スイート・ロード」を再構築するような雄弁さに満ちた曲の方に筆者は感じ入った。まぁ、全体の大まかな印象はシマブクロという若いテクニシャンが思う存分、マイ・ワールドをぶちまけているというものだ。そこには、いわゆる団塊の世代の筆者が親しんできた「ハワイ音楽」の痕跡は跡形もないのだけど、ウクレレ特有のストロークの跳ね返りの良さは随所に導入されてていて、それにふと懐かしさを覚えたりした。もっとも、そんな聴き方は野音の聴衆の大半は無視しているのだろうが。
 コンサート中、シマブクロは同じウクレレで通した。スタンダード型より少し大きめの「コンサート」型でる。無論、ピックアップで音の調整は自在にできるはずだが、1本で押し通すのは見上げた根性。相当、力技でしごいてもいた。
 しかし、シマブクロは何処へ向かっているか。伝統回帰の気配はどこにもなく、ひたすら新しい音を求めてる。といって求道的な精神性も希薄なようで現在を楽しんでいる。こんなこともできる、あんなこともできるとはしゃいでいる気配もある。彼の五体が抱える音楽そのものが、彼にとって旬ということだろう。けれど旬の季節は短い……して、その先には。念のために書き加えれば、映画「フラガール」の音楽を担当したぐらいだから、古き良き時代の「ハワイ音楽」は血肉化しているシマブクロであることは確認しておきたい。そうした伝統を踏まえた上での飛翔である。 (9月3日・東京・日比谷野外大音楽堂で。2005)   

コロ・ビクトリア公演  グァテマラ・マヤの大地の響き

コロ・ビクトリア公演  グァテマラ・マヤの大地の響き

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 *写真は、グァテマラの世界遺産都市アンティグア市内の一角。近くに、ラス・カサス司教が寄寓した修道院もあ。写真の石畳の車道は16世紀初頭の創建当時ままで現在もそのまま使われている。写真の左側は広い中庭をもつコロニア様式のホテルで、日に三回ほど専属のマリンバ合奏団が演奏を披露する。かつて6年ほど、筆者はこの道を日々、散歩していた。マリンバの音色を聴きながら。
 

 コロ coroとはスペイン語で「合唱」。中米グァテマラの「ビクトリア合唱団」公演印象記である。
 マヤ民族の国グァテマラはいつもマリンバの音色がこぼれている。喜びも哀しみも、抑圧や抵抗も質朴なマリンバで表象されている。大気にマリンバの音色がとけ込んでいる風土である。冷戦時代のラテンアメリカ諸国のなかにあって、36年という、もっとも長く陰惨な内戦を強いられた中米地峡の小国だがマリンバの音色だけは絶えることはなかった。そんなマリンバの国から珠玉の合唱団が来日した。男女各8人に、合唱団の創設者であり指揮者のフリオ・サントスを加えた9人編成であった。
 サントスは国立交響楽団の首席打楽器奏者でもある。ということは、この国では卓抜なマリンバ奏者であることを意味する。国立である以上、この国の音の主成分であるマリンバ曲を無視してはプログラムの彩りを欠く。この国のオーケストラの打楽器奏者は卓抜なマリンバ奏者であることを意味するのだ。
 というわけで合唱団公演のプログラムは、サントスの志向性かも知れないがマリンバの名曲として知られメキシコやエル・サルバドルでも演奏されるパコ・ペレスの「シェラフの月」、この曲はグァテマラの第二の国歌といわれるほど人口に膾炙したマリンバ曲で、シェラフとはこの国の第二の都市ケツァルテンナンゴのこと、スペイン征服軍が入ってくる前の古名である。作品そのものは20世紀の創作で、古き時代を哀悼するものだ。キチェ族の村を市場の賑わいを描写したような「チチカステナンゴ」も劇的な構成でおもしろかった。筆者自身、マリンバの演奏でしか聴いたことのない作品を混声合唱で聴いて新鮮な感銘を受けた。
 ドミニカのメレンゲや、ピアソラの「アディオス・ノニーノ」と彼らのレパートリーは汎ラテン圏に及ぶが、もっとも丁重に歌い込まれ、共感を呼ぶのはグァテマラの風土や歴史に根ざした作品であるのは当然だろう。
 楽器はいっさい使わず、パルマ、サパテアード、擬音・擬声、ときに形態模写も取り入れてパフォーマンスも卓抜で、筆者などはアパルトヘイトがまだ残存していた南アフリカのズールーランドで結成された「レ・ザルチスト・オンガジェ(社会参加する芸術家たち)」と呼ばれた演劇集団の活動などを思い出した。かつて、日本にも社会参与の姿勢を明確にしていた合唱団が地域、職場にたくさん活動していた時期があった。それが現在、ほとんど消えてしまった。気がつけば、人間関係がギスギスとした殺伐たる日常光景が広がっていた。しかし、コロ・ビクトリアの来日公演を支えたのは、地域に点在するアマチュア合唱団相互のネットワークでもあった。
 プログラムの前半3曲は先住民言語による歌が並んだ「タナフナリン」「ゆりかごのレクイエム」「包囲攻撃の歌」。いずれもホアキン・オレェジャーナの創作曲であるという。スペイン語歌詞ではなかった。プログラムの解説によれば、内戦の悲惨、暗部を真正面から取り上げた内容だ。終演後、指揮者のサントスとロビーで話す機会があった。その時、サントスは、「あの3曲の歌詞はキチェかカクチケル語か、あるいはマム語か」とグァテマラの主要先住民言語を挙げて聞くと、「いやあれは象徴的に言語処理した歌で、先住民言語の差異、むろんスペイン語しか使わない者にも理解できるような混合的な歌詞なのだ」という。意欲的な実験性に満ちた作品であったことを知った。
 1996年12月に内戦は終結したが長かった内戦の後遺症の傷口はいまだ完治していない。快癒まで相当な時間が必要だろう。その治療の過程には、こうしたコロ・ビクトリアの音楽が必要なのだとつくづく思う。彼らが、内戦の苦悩から立ち上がろうとしている民衆の声を背に受けて「ゆりかごのレクイエム」や「包囲攻撃の歌」を歌うとき、それは平和への絶対的な希求になってゆくものなのだ。
 (8月7日、東京・田端文士村記念館ホール。2005)

 *写真は、グァテマラの世界遺産都市アンティグア市内の一角。近くに、ラス・カサス司教が寄寓した修道院もあ。写真の石畳の車道は16世紀初頭の創建当時ままで現在もそのまま使われている。写真の左側は広い中庭をもつコロニア様式のホテルで、日に三回ほど専属のマリンバ合奏団が演奏を披露する。かつて6年ほど、筆者はこの道を日々、散歩していた。マリンバの音色を聴きながら。

SINSKE・マリンバ・プロジェクトⅠ~マリンバ世界一周

 SINSKE・マリンバ・プロジェクトⅠ~マリンバ世界一周
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 浅草、隅田川岸のアットホームなスペースで行なわれた若きマリンバ奏者SINSKEのコンサートは清涼感に満ち、気持ちのよいものだった。
 これまで彼のステージにはランドマークのようにエレクトリック・マレット・パーカッションと名づけられた創作楽器がおかれていた。マリンバ(木琴)というよりヴブラフォン(鉄琴)のイメージに近いコード付き楽器である。それが今回、消えていた。普通のコンサート用マリンバと、ステージの隅に置かれた南部アフリカの簡便な民俗楽器シロフォン、あるいはコギリと呼ばれるものだ。中米のマヤ系先住民の楽師たちは、それもマリンバと語って大型マリンバとの品格を区別しない。タイのラナートに連なる楽器でもある。
 SINSKEの演奏技術、創造性、そして意欲も旺盛であって、その力はあなどれない。本人もそのことは重々承知しているようで血気盛んな演奏もすれば、沈着冷静な精神性を追い求めることもある。彼の周囲もそんな個性に刺激され、ヤマハの技術スタッフは数千万を投じて彼の身の丈に合わせた楽器を製作したのだった。そして、新しい音楽世界を切り拓いたことは確かだけど、アコーステックなマリンバの普遍性にはいまだ遠い。いわば音楽が楽器を馴致していないのだ。
 マリンバという楽器は地球の自転に呼応して永遠にたゆたう気流と対話できる言霊を宿す、と思っている。さまざまな木片が太陽の熱によってゆっくり乾き、そこに小石がぶつかったり、禽獣に突かれてさまざまな音色を生み出す。その木片が組み合わされて至福の時を刻みはじめた。自然の摂理が生み出した楽器だと思う。
 アフリカ南西部に住むロビ族はシロフォンを奏でて民俗宗教を様式化していった。14鍵しかもたないコギリを叩いて大地の生々流転をあますところなく表現する名人も出てきたし、マヤの地ではイベリア半島から侵入してきたコンキスタドールとの戦いを叙事詩として詠ってきた。
 ライブの幕開けから休息までSINSKEは手探りつつ、確かな手応えを覚えるという行程だった。最初から快調だったとは思えない。第二部から終曲までは違った。観客の吐息を掴み取り、それをエネルギーとして吸収していった。ときに撥が交錯して擦過する。それは雑音でも装飾音でもなく緊迫の音であった。彼がほぼ没我の境地でマリンバと対話しているときの発熱が撥に意思を与えてしまうのだ。無から構築され、可変体として自在な造型美を宿してゆく様がありありと示された。セミクラッシックから民謡、アフリカの音、評者にはうれしいラテンの名曲など、「マリンバ世界一周」のサブタイトルに相応しいプログラムだった。その一つひとつをどうこう語る必要を覚えない。「世界一周」というコンサート全体の循環を織り成した、そのつらなりのマリンバの音色が実に良かった。  (10月21日、東京・浅草アサヒ・アートスクエアにて。2005?)

綺麗な死体のウソ ~嘘だらけの「コナンくん」と、マスコミ報道

綺麗な死体のウソ ~嘘だらけの「コナンくん」と、マスコミ報道

 
 最近、『ブラックキス』という不快だが妙な味わいのある映画の試写に立ち会ってしまった。手塚眞監督作品、その名を知らない読者でも手塚治虫の息子さんといえば了解できるでしょう。
殺害後、死体を解体しオブジェのごとく芸術的に装飾する連続殺人事件そのものを描くような映画で、凝った死体美を強制的に“観賞”させられる。いわゆる猟奇物。ソノ筋、というか不健康な好事家のあいだで評判になるかも知れない。で、この映画をみながら思い出したアニメがあった。
 ちょうど夕餉時、TV放映されている『コナンくん』。子どもたちに支持されている人気アニメだ。冬休みと夏休みには子どもを動員すべくのスクリーン作品ともなってシリーズ化している。筆者はこのアニメを俗悪作品の典型だと思っている。
 「殺人」がゲームとなっている。本質的に人の命をもてあそんでいるアニメである。ゲームだから「死体」はまったく醜くない。死斑も浮いていないし、死臭の気配は当然、ない。無機質な造型物ごとく横たわっているだけだ。ウソである。まっかなウソである。ことはアニメだからと見過ごせない。リアリティーのない「死」の巧みな強請なのである。その反対に本来、真実の「死」を報道すべきTVや新聞が「死体」を出さない、見せない。たまに、一部の週刊誌がスキャンダラスに醜く変形した死体を掲載して話題になる“不健康”な日本である。リアリティーのない「死体」を子どもも大人も夕飯を食べながら、観ている。それがなんとも平穏な光景のなかに没している風情はまことに奇妙で、背筋が薄ら寒くなるような怪奇な“平和”である。しかし、そんな風に「コナンくん」を批判する文章をこれまで一度も目にしたことがない。
ブラック キス

 『ブラックキス』を観て数日後、イラクで反米武装勢力の人質となり解放された高遠菜穂子さんの講演を聞く機会があった。彼女は、イラク市民が米軍の目を盗んで生命を賭けながらビデオ撮影した米軍兵士による殺害現場、そのおびただしくも無惨な死体映像を投影しながら話をしたのだった。
 無惨きわまりない酸鼻な光景の繰り返しである。それが米軍砲爆の実態なのであり、市街戦の現場なのであった。日本のマスコミも当然、高遠さんが所有するビデオの存在を知り、観た者も多いだろう。
けれど、テレビでは放映されないし、新聞も掲載しない。あまりにも凄惨な光景である、と判断しているのだろう。あるいは、そんな映像を流したら、自衛隊派遣に賛成する日本人にもマイナス影響を与えかねない。日米同盟にヒビが入りかねないと自民・公明、与党議員諸氏は考えているかも知れない。
 筆者が6年暮らした中米のグァテマラの新聞では日常的に「死体」が掲載されていた。グァテマラだけでない中南米諸国では惨酷な「死体」は通常、紙面に掲載される。理由は明瞭、真実であるからだ。
朝から不愉快な気持ちになるが、その「死体」写真をみることによって、「あぁ、行方不明の兄は、父はまだ殺されず何処かに生きているかも知れない」と安堵する読者も多かったのである。それが内戦国の実態だった。いっとき、某ファミリーにとって“平穏”さをもたらす写真でもあった。
 「死体」写真の意味は二つあった。身元の分らない「死体」の家族・親族を探すためであり、明らかに拷問された痕跡のある「死体」なら、それを掲載するだけで政府軍や警察を合法的に批判できるからだ。
 反日常的な「死」は安らかなものではない。まず、醜いのだ。その醜さに対峙してゆく心構えのない平和運動はウソだと思っている。
 子どもたちは、「コナンくん」がしげしげと小ざかしく検分する「死体」を当たり前のように観ながらご飯を頬張っている。サラリーマンは「死体」が数でしか表現されない新聞を読みながら朝食を摂る。白い布がかぶせられた固体の盛り上がった姿を「死体」と納得し、日常の安穏をなんとなく受け入れる。そんなふうにしか戦争をみない人たちがイラク戦争をリアリステックに感得できるわけがない。
手塚眞の父・治虫氏は『ブラック・ジャック』で無免許の外科医ヒーローを描き出した。“医は仁術”をスマートでドライに活動させた。眞監督は、そのブラック・ジャックを念頭に『ブラックキス』などと命名したのかも知れない。思えば、死体を切り刻み、オブジェとしてシュールレアリステックに装飾する手わざは有能な外科医のものだ。活かすための外科と、殺した後に楽しむための技術としての外科……対極のものだ。そう「コナンくん」が毎回、検分する「死体」もオブジェでしかないのだ。探偵ごっこを楽しむためのオブジェだからレゴブロックのように冷ややかでキレイだ。「死」を記号化することによって、夕餉の食卓に迎えられたアニメである。
 殺害された者は、ただ沈黙しているわけではない。その無惨な死体そのものが叫ぶ。こんな無惨な姿にした加害者を罰してくれ、と。叫びのない「死体」しか報道しないマスメディアは責任の半分も果たしていない。死者の尊厳を認めていない。
 茶の間の「コナンくん」の「死体」も無惨で訴える叫びはない。アニメ制作者に良心があるなら、無惨を描きこめと言いたい。……そんなことをしたら放映できない、と。そう、それが日本的言論統制というのだ。      2005年12月記               

歌の力……「ラス・カサス・デ・カルトン」

歌の力……「ラス・カサス・デ・カルトン」
    映画『イノセント・ボイス』
  エルサルバドル内戦に生きた少年の実話

 イノセント・ボイス


 ダンボールの屋根を打つ雨の音は
  なんという悲しい響き
 ダンボールの家に住む人たちの
  なんという悲哀に満ちた
 ずっしりと圧し掛かる苦しみに
  足を引きずる人たち
……「ラス・カサス・デ・カルトン」
 
 70年代後半から90年代前半にかけて中米の内戦時代、そこで暮らすことを強いられた民衆にとって冒頭の歌「ラス・カサス・デ・カルトン」(引用は一部のみ)は忘れがたいものだ。あるときは、権力に対する抵抗歌、不正に対する正義の声でもあり、また声にできない日常生活の憂さを代弁してくれる歌であった。歌それ自身の強い力が磁力となって民衆の糧となっていた。政府が禁じようと、軍が銃で規制しようと、密かにしかし着実に民衆の生活のなかに溶け込んでいった。
 80年代前半、11歳から12歳の多感な少年時代をエルサルバドル内戦下で過ごしたオスカー・トレスは言った。
 「少年だった私にとって『ラス・カサス・デ・カルトン』は生きる力そのものだった。多くのエルサルバドル人がこの歌で救われていた」
 エルサルバドル内戦がもっとも激しかった80年代前半、軍事独裁政権下で「ラス・カサス・デ・カルトン」は禁じられた。しかし、反政府武装組織ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)は解放区に設けたラジオ局「ラジオ・ベンセレモス」から、その歌を流しつづけた。その放送を市民が聴くことを政府は当然、禁じた。しかし、市民は密かに聴いていた。しかし、ゲリラ放送が告げる戦況をそのまま信じたわけではない。といって正常なマスコミ活動を抑圧した政府が公認するラジオ局の戦況も信じていない。民衆は、政府発表とゲリラ側の情報を比較しながら自分自身で内戦の状況を把握しようと努めていた。生き延びる知恵だった。
 同じ頃、エルサルバドルの隣国グァテマラも内戦下にあり「ラス・カサス・デ・カルトン」は同じように禁じられていた。しかし、歌は口伝えで流布した。
筆者がグァテマラで生活をはじめた90年代前半、「あの歌をつくった歌手は軍によって暗殺された」、あるいはチリのヌエバ・カンシオン系の歌手ビクトル・ハラがピノチェト将軍のクーデターでギターをもつ手を打ち砕かれた後、拷問で殺されたという話に重ねて、「拷問死した」とまことしやかに噂されていたものだ。
 「私もその歌をつくった音楽家は殺されたと信じていた。ところが2001年、ロス・アンジェルスで公演をするというニュースがあって驚いた。生きているんだ、と。そして、コンサートに行き、その歌を聴いた時、少年時代の自分が蘇生してきたのです。それから、この映画の脚本を書きはじめたのです」 
 この映画とは、70年代前半、首都サンサルバドルに近い町クスカタンシンゴで暮らす11歳のチャバ少年とその家族、子ども仲間が内戦のなかでどう生き、死んでいったか、あるいは殺されていったか、を描いた実話である。チャバ少年に、トレスさんは自身の少年時代を投影した。
 「あの時代、ともかく嫌だった。勉強は戦闘で中断される、遊ぶ時間も戒厳令で減るばかり、友だちは次々と徴兵されるし、殺されてしまったり行方不明になったりしていた。学校そのものも無期限閉鎖にもなったしね。家族から自分を引き離しのも内戦だった」
 トレス少年が12歳になったとき政府軍の徴兵を免れるため、偽名の書類をつくって米国に亡命する。米国には数年前に亡命した父親がいた。そんな過酷な少年時代を強いられたトレスさんだが、筆者の目の前にいるのは話好きのラテンアメリカなら何処にでもいそうな好青年であった。まだ、33歳である。とても生死の境を潜り抜けてきた体験の持ち主とは思えない。現在は米国籍を収得しロス・アンジェルスに暮らす、いわゆるヒスパニック系市民である。米国には幼少期を過酷な状況下で暮らしたヒスパニック系市民が多くいることをあらためて実感させられた。
 筆者自身、90年6月、エルサルバドルを乗合いバスを乗り継いで旅をつづけ、隣国ホンジュラスに出る前の晩、サン・ミゲルという町で市街戦に遭遇したことがある。首都から飛来した武装ヘリコプターが打ち出す機関砲の薬きょうが泊まった安ホテルの屋根を打ちつづけていた。戦闘が少なくなったといわれた90年でも同国はそんな状況だった。昼間、乗合いバスで移動していると軍のトラックが兵士を満載して頻繁に移動していた。その兵士たちの多くはあどけなさを残す少年たちだった。トレス少年もそこに加わるはずだった。
 「私が祖国に戻ったのは22年後」、映画のプロモーションのため商用として訪れたのだった。「その時、祖国を離れているあいだに感じていたものとまったく違う苦しみを味わった。生まれ育った町を訪ね、かつて親しかった人たちと再会した。昔の記憶が必然的によみがえってきた。そして、一種の疎外感も味わっていた。もう自分が祖国に対して関われることは何もないのだ、という空虚感、それはとても苦しいことだった。けれど、映画によって救われました。公開後、エルサルバドルから米国の私の家にたくさんの手紙が届いた。みな、よく私たちの体験を語ってくれた。映画を観て、私も内戦下の暮らしを語っておく必要を感じた、と。映画によって、祖国エルサルバドルの民衆は内戦の体験の語り部になる必要を自覚しはじめたと思う」
 エルサルバドルでは2004年クリスマス・シーズンに公開された。そして、同時期に公開されたハリウッド映画を俄然、引き離し同国の興行記録を塗り替えた。
 「政府は映画を批判した。というより、国内での撮影すら許可しなかった」
 現在の同国政府は親米派の大統領が舵取りをし、中米諸国と米国間で自由貿易協定の実現に向けた旗振り役を任じ、現在、イラクに兵士を派遣する唯一のラテンアメリカ国となっている。
 
 トレスさんのシナリオをメキシコのルイス・マンドーキ監督が、メキシコの少年少女たちを巧みに演技指導して内戦下にいきる子どもたちの現実を描き出した。監督は筆者に言った。
 「たとえばこれだけイラク戦争について報道されながらイラクで現実に銃を握っている少年兵の存在はまったく無視されています。私は戦時下における子どもたちの生活、その現実を伝えたいと思って、この映画を制作した。エルサルバドルが内戦下にあった時期、私は米国の介入に怒りはしたが、そこで生きている子どもたちのことまでは意識できなかった。その反省も込めた」
 マンドーキ監督の子どもたちに寄り添った演出力は素晴らしい。ベルリン国際映画祭は、児童映画部門のグランプリを本作に与えた。しかし、平均的な日本人の”平和”感覚では本作を児童映画とはとても認知できないだろう。それほど過酷な現実を扱っている。しかし、世界の現実は過酷なものだ。親兄弟を奪われ、口に入れる食べ物も喉の渇きを潤す水も乏しい子どもたち、笑顔を失った子どもたちが無数に存在する。銃を握って戦う少年や少女も30万人以上、存在するといわれるのが世界の現実だ。
 ラテンアメリカでいえば現在、唯一の内戦国になっているコロンビアの反政府武装組織に多くの少年兵が存在することは公然たる事実。イラクをはじめとするイスラム地域、サハラ以南のブラック・アフリカの紛争地、あるいは旧ソ連圏で独立や自治権拡大を求める戦いの地でも多くの少年たちがたった一つの生命を賭けて戦っている。
 内戦の地は政府軍と反政府軍が兵士を奪い合う。少年に選択の権利はないに等しい。
 映画『イノセント・ボイス』でも学校に乗り込んできた政府軍が、12歳を迎えた少年たちを無理やりトラックに押し込み兵舎に連行するシーンが登場する。隣国グァテマラでは地方の先住民共同体が頻繁に政府軍の強制徴兵を受けていた。そして、政府軍の徴兵を拒むなら、反政府軍に加わるか亡命するしかない現実を強いられていた。
 しかし、ここで断わっておかねばならないのは、強制徴兵も富裕層の少年に対してはまず行なわれなかった、という事実だ。これは紛争の途上国の現実として明記しておく必要がある。「ラス・カサス・デ・カルトン」はそうした貧困層の耐えがたい現実を切々と歌って共感を呼んだのだ。
 2001年10月、ロス・グアラグアオはロス・アンジェルスでコンサートを行なった。「ラス・カサス・デ・カルトン」はベネズエラのフォーク系グループが作詞・作曲した歌だった。トレスさんは、そのコンサートに接した。ベネズエラ先住民の言葉で「鷹」を意味する男性4人組ロス・グアラグアオの面々が、自分たちの旧作が中米諸国で“生きるための力”となっていたことを知るのは内戦後のことだ。「ラス・カサス・デ・カルトン」そのものは1973年に発表されていた。 そこで歌われいるスラムの現実はカラカス郊外の光景なのだが、それはすべてのラテンアメリカの現実を反映していた。だから、エルサルバドルでは首都サンサルバドルのスラム街を歌っていると思われ、グァテマラでも同じように錯覚された。メキシコではグルぺーラのロス・ブーキーズのマルコ・アントニオ・ソリスが歌って、メキシコ市周辺のスラムを模したビデオクリップまで制作した。
 すでに30年以上、活動をつづけ15のアルバムを制作しているロス・グアラグアオだが本国ベネズエラより中米諸国、そして米国のヒスパニック社会で敬愛されている。数多くの名曲を世界各国に送りつづけたラテンアメリカの音楽界だが、かくも直裁に”生きる力“となった歌ということでは、「ラス・カサス・デ・カルトン」は筆頭ではないかと思う。
 映画『イノセント・ボイス』によって日本でもはじめて「ラス・カサス・デ・カルトン」が広く聴かれることになった。
 

ガリフナ族、ホンジュラスへの流亡213年 ~プンタのリズムが血を繋ぐ

ガリフナ族、ホンジュラスへの流亡213年 ~プンタのリズムが血を繋ぐ

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 2008年8月、ホンジュラスからギジェルモ・アンダーソンとそのグループが、中米4ヵ国の音楽をあつめた「ビバ! セントロアメリカ」のメンバーとして初来日した。同国カリブ沿岸の町ラ・セイバ出身のギジェルモはもともとギターの弾き語りで音楽活動をはじめたアーティストだが、出身の沿岸地方に濃厚に活きるプンタのリズムを取り入れた新しい音楽を模索し独自の世界を創造した。ギジェルモのグループにはガリフナ族出身のメンバーもいてパーカションを担当していた。そのガリフナの民俗音楽がプンタだ。
 プンタの最初のラ米圏最大のヒットとなったのは同国出身でメキシコに出て活躍していたバンダ・ブランカの「ソパ・デ・カラコル」であり、その後、しばらく同工異曲のダンス音楽をヒットさせ90年代初期、中米諸国の定番のダンス音楽になっていた。ブランカのメンバーにもガリフナ族出身者がいた。それから10年ほど経て聴いたギジェルモの音楽は、バンダ・ブランカのコマーシャリズムとは無縁の音楽性の高さを示し、プンタに対する畏敬の念が根底にあるように思えた。
 ガリフナ族とは現在、中米カリブ沿岸地域ベリーズ、グァテマラ、ホンジュラス、そしてニカラグアの4カ国に国境を越えて暮らす。西アフリカから強制連行された奴隷出身の先祖をもつアフロ系中米人の総称である。彼らを乗せた奴隷船がカリブ海域でハリケーンで遭難、付近の島に流れ着いた奴隷たちが島の先住民と共存して生き延びた。そのあいだに人口が増えた。そんな祖先をもつのが中米のガリフナ族だ。彼らはいちども奴隷労働に屈服しなかったアフリカ系市民として栄光の歴史をもつ。その葬祭儀礼の音楽がプンタである。
 ホンジュラスのカリブ沿岸の町サンタ・フェとリモンで祖先の当地入り213周年を祝うセレモニーがおこなわれた。ふたつの町は大陸部においてもっとも早くガリフナ族が入植した地であった。1797年4月12日と史書は語る。それから200有余年、彼らは祖先の血を受け継ぎながらこの地に生きた。その伝統を繋いだのがプンタであり、葬送とともに再生への導きの音楽である。
 現在、ホンジュラスには4都市、20の村落に約11000家族が住むといわれる。しかし、文化が異なり絶対少数派の彼らは事実上、中央政府から“尊重”されない市民として社会的恩恵から遠ざけられ、貧困ラインかつかつの生活を強いられてきた。1998年、この地方を襲ったハリケーン「ミッチ」によってガリフナ族の共同体は大きな被害を受けた。雨季が訪れるたびに被災しているといって良い。社会基盤が脆弱だから被害を深刻にさせる。
 到着213周年のセレモニーでもガリフナ族自身が主権者として大きな声を上げていかなければならないことなどが合意されたようだ。ギジェルモの音楽もそうだが、ガリフナ族が同国でアイディンティティを強く主張するにはプンタの音楽が前衛に立てるように思う。    
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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