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映画『サラエボ、希望の街角』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督

映画『サラエボ、希望の街角』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督
サラエボ、希望の街角

 この映画をみて、まず印象に残ったのはサラエボの復興の早さ、再建の光景だった。ボスニア内戦で傷だらけになった町は見違えるほどだ。
ジュバニッチ監督は2006年に長編第1作『サラエボの花』を撮った。弾痕を刻んだ廃墟がそこかしこに映し出されていた。カメラが避けようとしてもフレームのどこかに傷が入り込んでしまうという感じだった。その次作として撮られたのが本作だ。4年の歳月が流れた。廃墟が一掃されたサラエボ市街は、まるで21世紀のバルカン半島を象徴するモニュメントを、といった気負いすら感じさせる新建築が目立つのだった。
そんな未来への飛躍を感じさせる復興の街に住む若い夫婦のものがたり。夫アマル(レオン・ルチェフ)はサラエボ空港の航空管制官。仕事はたえず緊張を強いられる。しかし、内戦時代に兵士であった彼は戦闘の恐怖、あるいは非人道的な行為に手を染めなければならないとき、神経を弛緩させるために酒量をあげたらしく、過度のアルコール依存症に罹っている。おそらく、そんなふうに神経を病んだ元兵士たちは現在もバルカン半島にはたくさんいるのだろう。そんな夫を励ましつつ、治療に専念するように促す妻ルナ(ズリカ・ツヴィテシッチ)はナショナルフラッグのスチュワーデスとして多忙な日々を送っている。彼女もまた内戦時代にサラエボ郊外の家を失っている。両親は殺害されたらしい……。そんな戦争後遺症をともに抱える夫婦もボスニアには珍しくないだろう。ふたりとも世俗的なイスラム教徒だ。ユーゴスラビア連邦時代に進んだ宗教の世俗化のなかで、信仰心はあるけれど、是々非々で……といった態度で過ごしてきたようで敬虔とはいいがたい二人だった。
しかし、内戦はそんな二人の精神生活を揺るがした。キリスト教徒のセルビア軍との戦闘のなかでイスラムの原理主義も彼らの周囲で親しいものとなっていた。内戦後、サラエボの各所にイスラム寺院も再興された。
内戦後、イスラム教徒のボスニア市民の少なくない部分が原理主義的な信仰に走った。内戦で疲弊、生活苦に陥った市民をそうした宗教組織が手を差し延べたことも事実だ。夫婦のあいだに齟齬が生じれば、その感情の隙間を信仰が埋めようとする。そういう風土になった。
アマルはある時、職務中に酒を飲んでいるところを同僚に発見される。管制官にとって決定的な過失だ。解雇されると同時に、病院で加療する身となる。治療を受けるも酒を断つことはできない。精神の病いは薬ではなおせない。アルコールに頼ろうとする心の傷まで治せない。そんな焦燥の日々のなかでアマルは、かつての友と邂逅する。友人は原理主義的なイスラム教徒になっていた。その友人の導きのままイスラムの教えを学びなおす。それはアルコール依存から抜け出す道でもあった。しかし、妻はそんなふうに変わってゆく夫の姿を容認することはできなかった。ふたりのあいだに新たな葛藤が芽生える。
映画の主題は、夫婦愛、その絆についての模索、問いかけだろう。そこに普遍性があるわけだが、内戦の後遺症を抱える夫婦の絆は外圧によっていつ何時、血を噴き出すかも知れない。戦争は、その渦中より、平時を迎えたときの「平和」のなかにより傷が露わになるともいわれる。傷ついた肉体との折り合い、病んだ精神との戦いを継続させる。若い夫婦は、再建されたサラエボの町に寄り添って、あらたな愛のカタチをもとめ葛藤していく。
映画は惨酷な内戦で傷つきながら生き抜いた市民たちの心奥からの現状レポートである。報道のカメラはサラエボの街角を歩く市民を映し出し、戦後の平和を報道し祝福するだろう。しかし、それでは〈心〉はみえない。ジュバニッチ監督は映画という話法を使って、サラエボの傷んだ〈心〉を日本に送ってきたのだ。  
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映画『サラエボの花』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督 

映画『サラエボの花』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督 
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 現在、日本で活動をつづけている歌手ヤドランカはサラエボ生れだ。たおやかな叙情性のなかに強い意志を感じさせるヤドランカの歌は国境を越えて親しまれている。
 ヤドランカが生まれた当時のサラエボは旧ユーゴスラビア連邦の一地方都市であった。その頃、ユーゴには民族差別も宗教対立もなかった。どこかに燻(くすぶ)りはあったのかも知れないが、邪視がともなって表出化することはなかった。
 ムスリムとキリスト教徒は通婚し、異教を認め合って交わる親近縁者たちがいた。そこには連邦を束ねるチトーというカリスマ的な大統領の重石があった、ということを後で思い知る。ナチ・ドイツ軍と戦ったパルチンザンの頭領チトーの名声は、民族の垣根を越えて新しい連邦人を創出することに成功したように思えた。東欧諸国のなかでも際立った経済発展を遂げたのも、英明なコスモポリタンイズムであっただろう。その象徴的成果が1984年のサラエボ冬季オリンピックの主催であった。このとき、オリンピックを実況中継して配信するユーゴの国営放送のテーマ音楽を担当したのがヤドランカだった。
 開催前にオリンピックへの関心を高めることと、資金稼ぎも兼ねて記念LPが制作された。日本では未発売だったが後年、メキシコの中古レコード店でそれをみつけて購入した。ジャケットには主催会場となった美しいスタジアムが映し出されていた。
 それから8年後、ユーゴ解体ともに始まった内戦によって、サラエボは戦場となり日々、死者が出て市内の墓地に余裕はなくなった。かつて万国旗が舞い、歓声に沸いたスタジアムは掘り返され巨大な墓地となり、死の空間となってしまった。
 サラエボはボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都となった。ユーゴスラビアは数代に渡ってつづくであろう民族間の憎悪を残して5つの国に分裂した。
 映画は、ボスニア紛争から10数年後のサラエボが舞台となっている。
 内戦の傷跡はまだそこかしこにあるものの復興もまた目覚しい。過渡期のサラエボ。しかし、内戦を生き抜いた人々の記憶はいまだ癒えることはない。
 政府から支給される生活補助金とナイトクラブのウェーターとして働きながら生活費を稼ぐ中年女性エスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)に、ひとり娘のサラがいる。12歳、多感な年頃だ。父親は、内戦で死んだ。しかし、サラは父のことを母から何も聞いていない。母は何も話さない。エスマはムスリム系ボスニア人である。内戦ではキリスト教徒のセルビア人の敵となった。サラエボはそのセルビア軍に包囲され連日、砲弾に晒された。その日常を描いた映画も幾つか制作され、秀作も少なくない。
 エスマは内戦のなかでセルビア人に捕らえられ犯され妊娠した。その子がサラであった。サラは「父はシャヒードだった」と学校で言い張っていた。キリスト教徒のセルビア人との戦いで斃れたムスリムの「殉教者」であった、と吹聴していた。シャヒードの子はボスニアでは現在、生活面でさまざな優遇措置を受けていることを映画で知った。
 サラは近づいた修学旅行の費用も、自分はシャヒードの遺児だから当然、免除になるはずだ、と思いこんでいた。父の死を証明する書類があればよかった。しかし、サラには証明書は発行されない。サラの父親はシャヒードではなく、ムスリムでもなかった。父はセルビア人の誰か、としかわからないのだ。というのは、セルビア軍に捕らえられたエスマは、拘留所で日常的に機械的に複数の男から犯されつづけたのだ。サラの父が誰と特定しようがないのだ。
 ボスニア内戦後、あちこちで起きた悲惨な親子問題の典型である。セルビア勢力は、それを見越して「快楽」より、民族憎悪の極北の行為として、ムスリムの女たちを“民族的義務感”から強姦しつづけた。子の感情まで引き裂こうという悪魔的行為だ。現に、内戦後、そうして生まれた子を殺したり、親子ともどもの無理心中、あるいは子を捨てた母親も多い。故郷にはいた溜まれず、国境を越えてヨーロッパ諸国のどこかで新しい生活をはじめた女たちもまた多い。
 「サラエボの花」は内戦が生んでしまった名状しがたい宿命的な親と子の絆を、涙と血で撚り合わせた糸で紡いで“和解”へと導く。エスマは出産直後を回想して語る。
 「妊娠を知って私は流産させなければいけないと思い、腹を叩きつづけた。石で叩きつけたり。けれどお腹は日々、大きくなった。出産した直後、そんなものをみたくもない、と言った。その途端、母乳があふれ出した。私は一度だけ、乳を含ませてあげるけど、それで終わりだ、と言って赤ん坊を抱き取った。小さな子だった、でも、なんて愛らしい子なんだ、と思ったとき、私はその子を抱きしめていた」
 ボスニアではそうした光景はあちこちで展開されたのだと思う。映画では、母子の抱擁図は描かれていない。だから、私たちは、そこで自由なイメージを描き込める。たとえば、清明な光のなかで、豊満な乳房にかぼそい唇を寄せる赤子の聖性図。そこに民族も宗教も、政治も経済も超越した絶対的な愛の肯定があるはずだ。  
  *2007年12月、岩波ホールにて上映。

いま「水」を考える 原発事故と映画『ブルーゴールド』

いま「水」を考える 映画『ブルー・ゴールド』のサム・ボッゾ監督
 *大震災で被災した福島原発は命の「水」を大量に汚染し、汚染しつづけている
ブルーゴールド
 
 「石油に替わるエネルギー源はありますが、命をはぐくむ水に替わるものは存在しない。その水がいま危機的状況に陥っている」と訴えるサム・ボッソ監督は刺激的かつ示唆に富む長編ドキュメントを撮った。「思想信条を超えた人類の生存そのものに関わる問題」と語る監督には使命感すら感じさせた。


 冒頭、マヤ文明の滅亡は深刻な水不足によるものだった、と暗示される。そして、南米ボリビアの水道事業の民営化に反対する民衆の抵抗が描かれ、メキシコ市の水不足と汚染が語られる。ラテンアメリカ地域の話題が多い。
 「それは、意図したわけではない。水道事業の民営化が世界で最初に推進され、企業が大きな利潤を上げた地域だったからだ。企業の利潤は一方に不利益をこうむる者がいる。それが貧しい人たちであり、水そのものだ」
 アフリカの小国でコカ・コーラ社が水資源を握り、水がコーラより高く売られている事実を語る。フランスの水道事業の民営化をめぐる政治家の買収賄もルポされ、米国の都市がつぎつぎと民間化されている現状も語る。ブッシュ政権時代に促進された。
 「地球は水の星。しかし、97%が海水で飲める水はわずか3%に過ぎない。その水に頼って人類の歴史が営まれてきた。水は人類の共有財産です。その水を儲けの手段として良いのか、と映画で問いたかった」
 タイトルの「ブルー・ゴールド」とは、水を錬金術の道具とした経済を告発している。
経済のグローバル化のなかで水も移動する。「水」と思われずに取引きされる。そうした、水の存在を「仮想水」という。
 「食糧の輸出入とは“水”の取引きを意味する」
 たとえば、日本に大量の果汁が輸入されている。果物から搾られる新鮮な恵みは、その果物を実らせる土地から水を吸い上げてもたらされるものだ。穀物も野菜も、生産地の水を消費して育てられたものだ。食糧自給率が40%に過ぎない日本は大量の“水”輸入国なのだ。
 「途上国の貧しい農民は生活に必要な水すら節約して輸出用の換金農作物を育ている。自分たちが煮炊きにつかう水を、先進国の消費者に買ってもらうために換金作物を育てているのだ。こんな矛盾にみちた経済システムを放置しておいて良いのだろうか」
 監督は、現在の経済システムの変革を訴える。企業は矛盾を知りつつも儲けのために水を消費しつづけるだろう。その企業は政治家に献金したりして自分たちに都合の良い制度を維持しようとする。映画も特効薬などないことを語っている。
 歴史、環境、人権、グローバル経済の矛盾……実に多くのテーマが取り込まれている。畳み掛けてくる言葉・映像に五感が揺さぶられる。それもこれも水が生存に必要不可欠な主成分という本能的な知覚が刺激されるからだ。水でつくられた人間の身体そのものが、この映画に同化してしまうようだ。
 「水問題を考えてくれと映画を撮ったのではない。情況は思っている以上に深刻だ。私は映画で“抗議”しているのだ」
 それぞれの生活の場で「水」を守る行動に立ち上がってくれ、と訴える。

*私は反原発派だ。その立場からキューバのフラグア原発計画を取材したし、チェルノブイリ原発事故で被爆した児童たちが療養する施設にも行った。こんかいの大震災で福島浜通りの原発が軒並み損傷し、甚大な被害を受け、そして大気中に半減期が30年以上の汚染物質が撒き散らかされ、いまもつづいている。命の水が汚染された。“水の星“地球だが、飲める水は3%に過ぎない。その水を汚染することが確実な原発として反対してきた。恒常的に原発から冷却水が海に垂れ流されいるのが日本だ。政府や発電各社はいままで「きちんと浄化して海に捨てている」と説明してきた。百歩譲って、その言葉を信じよう。では、こんかいの事故で自衛隊のヘリコプターと最新鋭だという放水車が天文学的な水を大量に散布した、海水で。消化に使われた海水は必然的に汚染された。もちろん、高濃度の汚染だ。そのしたたかに汚染された海水はどこに流れていったか? 報道はなにも語らない。原発敷地内の土壌に染みこみ、あるいは海に流出しただろう。その汚染度をかたるニュースをまったく目にしていない。視聴者を震撼させる数値が出ることが明々白々の事実だからに違いない。   

映画『エル・カンタンテ』 レオン・イチャソ監督

映画『エル・カンタンテ』 レオン・イチャソ監督
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 ニューヨーク・サルサの伝説的歌手エクトル・ラボーの評伝映画であり、そのエクトルを現代サルサ界でもっとも稼げる歌手として不動の人気を誇るマーク・アンソニーが演じた。エクトルに同化した演技をみせる一方、エクトルのヒット曲を歌いながらも真似ではないアンソニー節に消化して歌い切ってやろうという静かなプライドが横溢している。当然、アンソニーのサントラ盤は記録的ヒットとなった。
 エクトルの妻役をマークの実際の妻である人気女優ジェニファー・ロペスが演じた。という意味ではトリプルな話題性をもつ恵まれた映画なのだが、日本では興行的に強い「売り」要素とはならなかったようで、公開が3年も遅れた(2006年制作)。お蔵入りにならずともかく陽の目をみたことをラテン音楽ファンとして率直に喜びたい。なにせロペスがテハーノ・ポップスの女王を演じて、彼女自身、歌うことに目覚めたといわれる映画『セレーナ』は日本では劇場公開されずビデオ化での発売だけに終わったというお寒い現状を知れば、本作の公開が遅れしまったのも無理ないかも。
 主人公のエクトルはいうまでもなくサルサをラテン音楽の主流に押し上げた功労者のひとり。46年の短い生涯は映画化にふさわしいドラマチックなものだった。やがて、こうした評伝映画が制作されることは誰しも思っていただろう。しかし、サルサ・ファンに限らずラテン音楽のメインストリートを歩いたエクトルを演じるにはサルサの心を体現する俳優しか演じられない。という意味では映画俳優としても大いなる実績をもつアンソニーをおいて考えられない。適役とはこうしためぐり合わせをいうのだろう。
 ただし、エクトルの声質とアンソニーのそれは違う。個人的な嗜好では、アンソニーの低音部にのびのあるしなやかな声を好ましく思っているから、エクトルの声は少々、甘すぎるのである……評者には。しかし、過剰な喫煙、酒、ドラックを手放せなかったエクトルのが声がそうしたものにまったく侵されなかったのは奇跡といってよいだろう。健康でありさえずればいまもヒット曲を飛ばしている才能であった。エイズにも侵され、独り子をピストル事故で失ったエクトルの日常生活はさぞデスペレートで背徳的な陰鬱さに満ちたものであったはずだ、と想像できる。映画はそのあたりをかなり強調してみせているし、耽溺の日々のなかでもステージにあがれば観客を存分に酔わせるプロ魂の持ち主であったことも描かれる。
 そんなエクトルのざらざらした日々につきそう妻は気丈でなければ勤まらない。それをロペスが見事に演じ切っている。率直な感想をいえば、表題は「エル・カンタンテの妻」と改題したほうが良いほどロペスの演技が目立つ作品だし、出番自体も多い。なんとなくアンソニー=ロペス夫妻の日常的な立場が反映されているようで興味津々である。
 しかし、音楽映画とみれば、やはりアンソニーの映画であって、サントラのヒットでも証明されているように彼の代表作となるものだ。ロペスは妻役に徹し、歌手ジェニファー・ロペスの存在はいっさいかき消されている。
 ミュージカル映画の古典『ウエストサイド物語』はニューヨークのプエルトリコ人地区に住むニューヨリカンの若者たちの話だった。エル・バリオと呼ばれた彼らの居住区と接するイタリア人地区の若者との勢力争いを背景に、ロミオとジュリエット譚とした作品だった。その映画に登場したニューヨリカンたちも成人し、やがて結婚し家庭を持ち子を持つ親となる。生活の現実が彼らに怒りの矛を収めさせ、諦観が忍び寄る。そうしたウエストサイド物語世代を親に持っているがロペスやアンソニーの世代である。その間の1970~80年代のはざ間を埋め、橋渡ししたのがエクトル・ラボーである。ラボーの歌は、ウエストサイド世代の諦観におおいに癒したのだった。表題の「エル・カンタンテ」を直訳すれば、「歌手」、歌い手といった意味だが、ここでは「歌手のなかの歌手」との献辞も含まれる。   

映画『ジャック・メスリーヌ』 ジャン=フランソワ・リシェ監督

映画『ジャック・メスリーヌ』 ジャン=フランソワ・リシェ監督

 ジャック・メスリーぬ
1970年代の配給会社なら〈実録・怪盗ジャック〉といった煽情的なタイトルで当時のアンチヒーロー待望熱にこたえたはずだ。「仁義なき戦い」の深作監督が好みそうな一匹狼の実録モノ。
 第二次大戦後のフランスはナチ・ドイツへ協力した「非愛国者」と、命を賭けてレジスタンスした「愛国者」とが掘り込んだ深いはざ間の底の薄くらく重い憂鬱のなかから出発した。その後遺症が癒されないままフランスの若者は帝国主義的戦争に抑圧者として狩り出されていった。
 フランスは大戦後、植民地で台頭する独立への機運を武力で抑え込もうとした。ド・ゴール政府は植民地戦争を「国内紛争」としジュネーブ協定を無視し、アルジェリアやインドシナでナチに劣らない残虐行為を繰り返した。
 映画はアルジェリアの独立闘士をフランス軍が卑劣きわまりない拷問で自白を強いるシーンからはじまる。その場に後年、世界中を震撼させた一匹狼のギャング、フランスの戦後思潮を象徴したジャック・メスリーヌがいた。確か、彼の自伝は70年代に日本でも翻訳されたと思う。
 映画は、後年、銀行強盗を繰り返し、殺人をためらわない(が一般市民は殺傷しない)ジャックの生き様を描く。彼に殺されるのは警察官かギャングである。そして、逮捕された後も創造的な信念によって不可能と思われた監獄からの脱獄を繰り返し、庶民の〈喝采〉をあびる。そうした裏人生を彼に強いたのはアルジェリアで善悪の彼岸をこえて理性を失った権力装置としての軍隊経験があったはずだ、と映画は問いかける。
 ジャックがアルジェリアで残虐行為に加担したかどうか、それはわからない。そういうことがあったとしてもなんらおかしくない、ということだ。
 アルジェリアから復員したフランスの青年は戦後、たいてい良き夫となりよき父親となって過去を封印した。それは日本でも同じだ。中国で強姦を繰り返した兵士も復員すれば良き夫として戦後復興に貢献する勤勉なサラリーマンとなったのだ。
 ジャックは除隊すると、その足で家族のもとに帰る。しかし、その家族もフランス現代史の重い影を背負っていた。父はナチ占領下でドイツへの走狗となった警察官だった。それに対する反撥もジャックにはあったはずと映画は暗示する。
 評者は本作をジャン・ギャヴァン以来のフランス映画伝統のギャング映画の系譜において見た。その仕上がりは玄人好みだ。しかし、影のテーマは大戦後フランスの光と陰をジャックの生き様に象徴させて描かくことにアリとみた。だから、評者には2つのドラマが同時展開しているように思え、パート1、パート2、合わせて約4時間の長尺もまったく気にならなかった。監督のよどみない演出は見事だし、戦後フランスのファッションの推移、戦後風俗の変遷をグラフィックに見せ(金が掛かっている)、その方面に興味のある人も満喫させよう。
 ジャックは1979年11月、警察隊の待ち伏せにあって無抵抗のまま蜂の巣にされて殺される。享年43歳。そうして……ひとつの時代が終わった。
 1970年代の共同幻想は実現不可能な〈妄想〉を誰もが抱えていたことだと思う。
 今日より明日の豊かさ、絶対平和、進歩・発展……みんな崩れていった。自己顕示欲の強かったジャックはその象徴的な存在であった。そして70年代最後の歳に殺された。あまりも象徴的であったがゆえフランスではヒロイックな〈悪党列伝〉の巻頭を飾ることになった。
 〈妄想〉は夢の領域。その夢をみることができた70年代は評者自身の体験からしても楽しかった。「青春」は貧窮のなかにあっても、軍事独裁下であろうと、鉄のカーテンの内側であろうとも、若いということはそれだけで自ら光源となれる。そう、評者にとっても70年代は、貧しかったけど、心地よい胸騒ぎがあった。いま、そんな胸騒ぎの至福も消えてしまった。本作がフランスで空前のヒット作となった背景には現代の閉塞感から逃れたい、という庶民の思いの反映ではないか?   

激震の後に……「もののはかなさを感じる」

激震の後に……「もののはかなさを感じる」

 アノ時、私は地上11階のマンションの一室にいた。大田区の池上の地にある。
新築といってもいい建物で、某大手不動産会社の「売り文句」を引用すれば、最新式の技術を導入した「未来志向の居住空間」である。耐震構造も十分だろう、たぶん・・・。
11階ということもあろう、激しい横揺れがつづいた。食器棚からグラスが飛び砕けた。逃げ場の確保と、玄関とテラスのドアを開放し、閉まらないようにブロックした。11階のテラスに出口など確保したところで大した意味はないと思うが、そうした方がなんとなく安全そうに思えたのだ。
 エレベーターが止まり、外付けの狭い階段も揺れて危険だろうと、11階に留まり、一時はそれなりの覚悟を強いられるほどの揺れだった。柔構造というのだろう、地震の衝撃を吸収するためにある程度の揺れを想定した設計らしく、激しく波動した。建物全体がうなりを上げているようなが感じだった。後日、10階に住む初老の婦人と会ったとき、「50センチは横に揺れた感じで死ぬかと思いましたよ」と言った。そういう揺れであった。
 しかし、まぁ無事だったし、実害と呼べるのは砕け散ったグラスやカップだけだった。
 テレビはその時から5日経ったいまも通常番組を中断し、報道番組が切れ目なくつづく。強い余震もまだ思い出したように起きる。
 とてつもない破壊力をみせつける津波の映像をみながら、錯綜するニュースを頭で整理しながらインターネットで文字情報を読んでゆく。
 オバマ米国大統領が、「日本を支援するために最大の努力をする用意がある」といったコメントとともに、「人間社会そのもののはかなさといったものを感じる」と語ったことを知った。
 オバマ大統領が思わず漏らした私的観照に彼の人間性をみる思いがした。そして、彼の思想や政治力といったことはさておき、人間として信じることができると思った。世界政治の指導者のひとりとして彼の発言は、一語半句計算しつくされて公にされる。そう強いられた立場にいる。しかし、激震に見舞われた日本の惨状を前に、思わず「もののはかなさ」とつぶやいたのだろう。そのつぶやきも、またたく間に押し寄せてくるニュースのなかに埋没してしまった。
 世界政治にオバマ大統領とどうよう甚大な影響を与える立場にあるのがロシアと中国の指導者ということになるが、ふたりの政治家からは「お悔やみ」「支援」といったお仕着せのフレーズは聞かれても、その“人間”を感じられる言葉は聞かれなかった。
 日本の外で激震の惨状を眺めている政治家たちの立場はみな違う。日本の悲惨も「国益」として眺めるのが国際政治の非情なメカニズムだ。とくに我慢がならないのが非人格な投機グループだ。無名性をよいことにありあまる資金を投入している資産家は、むろん、この日本もおおぜいいる。顧客の秘密保持を売りして、マフィアに口座を提供しマネーロンダリングのステージを設えた銀行のようなものだ。政治家の良心はそうした投機機関や銀行の“罪”を暴くことはできない。そういう限界性のなかで、オバマ大統領も仕事をしている。
 世界政治のステージは非情で過酷だ。そうしたなかで真に人間性を感じさせる言葉を漏らすことができるのは、その人の半生が培った感性の問題だろう。ふだん、見えないことがこうした非常時にはくっきりと輪郭をあらわすものだ。
 ……石巻、気仙沼、陸前高田、大船渡、宮古、久慈、そして八戸・・・三陸沿岸の町はみな筆者20代半ばから30代前半、仕事のため繰り返し訪れていた町ばかりだ。鉄道で、あるときは車で。その面影が津波で根こそぎ消えてしまった。いや、おちつけば山河の光景だけは変わらず見いだせるだろう。しかし、人あっての山河なのだ。
 結婚してすぐ長女が生まれ、2年後、次女が生まれた。30を前にして私は二人の娘の父親であった。彼女たちを喰わせ育てるため小さな会社の営業マンとして働いていた。地方に販路を開拓する前衛であった。自ら、そうした地方まわりを志願していたといっていい。人の行きたがらないところへ行けば、それだけ金になると思ったし、私は一銭でも多く稼ぎたかったのだ。若いから無理もきいた。一晩ぐらい寝なくてもハンドル操作には自信があった。北海道のオホーツク沿岸、能登半島、紀伊半島、四国、山陰……そんな地方へ行くのが仕事を超えて好きだった。
 三陸はいくど訪れても懐かしさを憶えるような地であった。触れあう人が好きだった。控えめに話される言葉のなまりに癒された。朴訥、という言葉があるけれど、文字通り、そんな人ばかりだった。
 テレビは被災した人びとの困難な生活を連日、報告している。満足な食べ物も水も、電気も暖をとる手段もないまま幾夜も過ごしている。着の身着のままで九死に一生をえたのなかには、津波の海水で濡れたままの衣服を着替えることもできない人もいる。そんな人が多いようだ。家そのものがまるごと失われた被災者。家族親族、友人知人を失った人もむろん、多い。けれど、被災者の多くは、より弱い立場の人たちを気遣うことを忘れていない。数十年前、若い私が三陸のひとびとに感じた親しみというものの本態を今更ながらに知った。けっして声を荒げない人たちだった。その人たちの肩にも雪が無情に降りかかる。
 口数の少ない人たちだった。無駄口の少なさは、過酷な風土に住む人の忍耐力を感じさせた。そうした人たちに(仕事で)会うために単線の鉄道もよく利用した。片側が山の緑、反対側に目を移せばすぐ海という狭い平坦な地を縫って走るような鉄道だった。それはまるで炊煙を探すように走っていた。ぬくもりを感じさせる鉄道であった。たぶん、“寅さん”がもっとも好むような鉄道だったろう。あの“寅さん”の旅の光景はたいてい車窓が開く各駅停車の鈍行のものだった。車窓越しにおしゃべりのできない鉄道は“寅さん”映画にはほとんど出てこない。いま、そうした車窓から流れてきた朴訥な東北弁のなまりを懐かしく思い出す。
 その単線の鉄道も破壊された。急激な人口減によって、もう鉄道の再建もないかも知れない。鉄道の車窓からみる景色と、ハンドルを握りながら見る風景とはまったく別のものだ。津波は、鉄道からの眺望まで奪った。いや、筆者の感傷的な思い出などどうでもよい。しかし、その思い出の一つひとつに関わった人たちのなかには、生命まで奪われてしまった人もいるのではないかと思うと無念でたまらない。少し落ち着いたら被災地を訪れてみようと思う。   

ラテンアメリカのキリスト教音楽と民衆歌

ラテンアメリカのキリスト教音楽と民衆歌

 必要があって日本基督教団賛美歌委員を務める川端純四郎氏の『CD案内 キリスト教音楽の歴史』を読んだ。膨大な作例を全15章に分け適宜、作品に対する簡潔明瞭な注釈と演奏批評まで行なう手際の良さに率直に関心した。誠実な労作である。ラテンアメリカ音楽の批評に関わることが日常となっている僕にとっては職能的な“技術書”でもあった。
 本書の価値を十分、認めながら敢えて書くのだが、はっきり言ってラテンアメリカの宗教音楽がすっぽり欠落している。著者が見るべき作例がないと判断してのことならしぶしぶ納得するが、どうも第一次作業としてラテン諸国からCDやレコードなど音源を蒐集するのが至難、手がかりがないので放棄した、というように思えた。手段は無論、ないわけではないが西欧諸国の新譜を点検するだけで手一杯でもあるようだ。その作業の煩雑さもむろん理解できる。
 寒冷峻厳な高地から灼熱の太陽に燻される低地まで標高差の激しいアメリカ大陸である。生命があふれむせかえる熱帯雨林、多種多様なサボテンが林立する山地もあれば、茫漠とただただ空虚にひろがる草原もある。茶褐色だけの砂漠もある。“地球の肺”といわれるアマゾンの巨大密林もあれば、大西洋と太平洋をつなぐ狭隘なパナマ地峡もある。ブラジル一国に西欧諸国の大半が収まってしまうほど広大なラテンアメリカ諸国の音楽を通覧するだけで至難の業だ。
 最近では録音技術の向上、制作が安価に容易になったことで小国の地方都市でもCDが制作されるようになったし、ユーチューブを通して世界中に発信することもできるようになった。
 特に、1993年の国際先住民年を契機とする民族文化の発掘、再生、保存といった事業が本格化するなかでこれまで埋もれていた音楽がたくさん“発見”され、録音された。そうした先住民文化の録音を継続的事業としているメキシコのライブラリーは充実したものだ。
 コロンブス以来、500年間のラテンアメリカ諸国におけるキリスト教布教史は西欧音楽の流布と土着の歩みでもあった。そこから風土に根ざした宗教音楽がおびただしく誕生した。そうした音楽いっさいを川端氏は、その篤実な仕事のなかでもすっかり看過されていると思った。否、西インド諸島生まれのカリプソのリズムを咀嚼した『主の祈り』一作は紹介されていた。それだけだ。
 本書のなかでギリシャの反骨の作曲家ミキス・テオドラキスの『サドカイ人受難曲』が紹介されている。テオドラキス
僕ならこれにテオドラスキが軍事政権の抑圧によって祖国を追われ、パリに亡命中にレコード化された『カント・ヘネラル』を付け加えるだろう。チリのノーベル平和賞詩人パブロ・ネルーダの詩篇から着想された民衆の祈りを歌い上げたものだ。この『カント・ヘネラル』を巡って先年、ピアニストで作曲家の高橋悠治さんからお話をうかがったことを思い出す。
 チリの隣国アルゼンチンにはフォルクローレ版ミサ曲『ミサ・クリオージャ』がある。アリエル・ラミレスという作曲家の作品で“ラテンアメリカの母”ともいわれる民衆歌手メルセデス・ソーサや、テノールのホセ・カレーラスの録音でも良く知られている。
 ペルーのアフロ系女性歌手スサーナ・バカの歌の多くは祖先の苦難を慰撫する哀悼歌である。
 ラテンアメリカではないが、中南米という地域概念のなかに含めればジャマイカ音楽も無視できない。西インド諸島生まれのリズムのなかで、もっともグローバル化したジャマイカのレゲェから『バビロン川』という珠玉の名編が生まれているし、ボブ・マーリーの作品の多くはアフロ系アメリカ人のアフリカ回帰を願う「宗教歌」でもある。そこでは「出エジプト記」から明白な啓示を受けているはずだ。
 レゲェを発芽させたのはジャマイカのラスタファリズムという逃亡奴隷たちが創造したアフリカ回帰運動だが、これと近似の関係にあるのがハイチのブードゥー教ありキューバのサンテリア、ブラジル・バイヤ地方を発祥とするカンドンブレである。
 権力者のカトリック文化のなかで生き残るためにキリスト教を受容し、耐えがたい奴隷の境遇を恨み、呪い、とどうじに慰安のときを過ごすための手段として、つかの間の享楽を煽りもすれば抑制もした土俗的宗教である。アフロ系ラテンアメリカ人にとって、死は苦難にみちた生活からの解放のときであった。そして、死は再生の営みのはじまりであり、そこで演奏され詠われ、踊られる葬祭の音楽はしばしば性交を模写するものだった。
 アメリカ大陸の先住民、西アフリカからやってきた奴隷や、その子孫にとって、イエス・キリストや聖母マリアは異形の“神”であった。しかし、これを受容しなければ生きてはいけなかった。彼らは、渡来の聖人を改変する。
 ラテンアメリカでもっとも親しまれているのが“褐色の聖母”グァダルーぺ。現在のメキシコ・シティ北部テペヤックの丘に降臨したといわれるメキシコの守護聖母である。アステカ帝国時代の地母神の生まれ変わりである。
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メキシコばかりでなく南はグァテマラやエル・サルバドル、北は米国のチカーノ(メキシコ系米国人)を中心にヒスパニック系市民にも広く敬愛されている。キューバの教会でもみかける。
 10年ほど前にメキシコの音楽学者が確証できる作例だけでグァダルーペ聖母讃歌は約400曲あると発表したことがある。現在も増えつづけている。メキシコにいけば海賊版でいくらでも、その「讃歌集」が廉価で入手できる。おそらくラテンアメリカではもっとも流布するキリスト教音楽だろう。庶民の市場でダビングが繰り返され、庶民の家庭にはいってゆく。
 グァダルーぺ讃歌のひとつに「ラス・マニャニータス」という曲がある。この曲はスペインにもあるのだが、メキシコではその旋律にグァダルーペの奇跡がのっている。
 メキシコではカトリックもエバンへリコ(ラテンアメリカにおけるプロテスタントへの一般的な呼称)も誕生パーティーは必ず、この歌を和して歌ってからはじまる。最近、公開されることが多くなったメキシコ映画を丹念にみていけば、「ラス・マニャニータス」が流れることをみるだろう。
 たぶん、北のチカーノ家庭でもその伝統は守られているはずだ。エバンへリコといえば、これまた数知れない教宣歌を制作している。露天で、そうした教宣歌だけを収録したカセット・テープ屋がグァテマラやエルサルバドルなどで数多く見られた。いまはCDに変わっているのだろう。
 メキシコをはじめスペイン植民地時代、総督府が置かれた諸都市の教会に残る宗教音楽を復元演奏、録音したCD化の試みが公的機関の継続的な事業となっているところもある。

 ラテンアメリカ生まれの「解放の神学」運動からも当然、多くの歌が生まれた。
 なかでもベネズエラのロス・グアラグアオというヌエバ・カンシオン系のグループが歌った「カサス・デ・カルトン」は、1980年代の中米紛争時代に民衆歌として中米諸国で広く定着した。特に12年のあいだ内戦下にあったエルサルバドルでは希望の歌であり、平和を希求する祈りであり、貧者の声であった。
 “貧者の教会”を目指す「解放の神学」派の聖職者たちは、この歌に生命を賭して社会正義を守護した。しかし、歌詞にへスス・クリストも聖母マリアも登場しない。貧しい妊婦と日雇い労働者、そして強欲な金持ちだ。そんな歌を凄惨な市街戦のなかで身をこごめる民衆が心静めるために口づさんでいた。生きがたい日常生活の場から“聖化”された歌だった。
 最近、日本で公開されたメキシコ映画『イノセント・ボイス』はエル・サルバドル内戦下に生きた少年たちを描いた秀作だが、ここに解放の神学派の聖職者と「カサス・デ・カルトン」との関わりを象徴的に示すシーンがあった。
 最近、映画の原作を書いたオスカル・トレス青年にあった。10代の前半を内戦下のエル・サルバドルで過ごし、独り米国に亡命した体験者である。映画は彼の体験をもとにつづられたものだ。まだ30代前半の話し好きの好青年だが、すでにおびただしい死を知り、不条理な日常を生き抜いてきた体験を持っている。彼が言った。
 「『カサス・デ・カルトン』によって私は救われた。この歌で生き延びる勇気を与えられた同胞は多かったはずだ」。
 川端氏の著書のなかに次のような一節があった。
 「今世紀(20世紀)の教会音楽の傑作の多くは、戦争の悲惨や人権の抑圧への抗議として誕生しています。(中略)人間はここまで暴虐であり得るのかという悲嘆の声が、そのような宗教音楽の中にほとばしり出ています」
 ラテンアメリカの宗教音楽もまた内戦下で、あるいは人権抑圧を恒常的な手段とした軍事独裁下への応答として生まれたことをあらためて確認できる。
(日本基督教団の牧師さんたちが自ら編集・発行する『fad』誌に掲載)

チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者グラナード死去

チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者グラナード氏、ハバナで死去
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 2月8日に本ブログにアップした記録映画『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』の主役であったアルベルト・グラナード氏が5日(現地時間)、キューバ・ハバナで死去した。88歳だった。氏は、キューバ革命の英雄エルネスト・チェ・ゲバラの若き日の旅の同行者だった。
ゲバラと同じアルゼンチンのコルドバ出身であったグラナード氏は“無名”時代のゲバラの思想と行動を生活をともにした経験から語れる貴重な証言者であった。ゲバラがメキシコでカストロ兄弟と知り合い、キューバ革命戦争の指導者として闘っていた当時、同氏は南米ベネズエラでハンセン氏病の専門医として働いていた。ゲバラ自身もハンセン氏病を学んだ医学生であった。
1961年、キューバに革命政権樹立されると、ゲバラの招きでハバナに居住、ハバナ大学などで教壇に立ち、今日の医療先進国の基礎づくりに貢献した。
退任後は、ゲバラの継承事業に関わっていた。その仕事のひとつがブラジルのウォルター・サレス監督が撮った若き日のゲバラを描く『モーターサイクル・ダイアリーズ』へ制作顧問として参画したことは特筆されるだろう。映画は、ゲバラ自身の旅日記を原作としたもので、23歳の医大生ゲバラと29歳のグラナード氏が企てた南米縦断旅行を再現した映画だった。この時、劇映画とともにグラナード氏を主役とした記録映画『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』が撮られ、氏自身も同名の回想録を出版している。この時、グラナード氏は82歳であった。
ゲバラが南米諸国に革命が必要との確信を抱かせた旅として知られるものだが、その旅はグラナード氏が所有するモーターサイクル「ポデロッソ号」を駆って8カ月、約1万キロに及ぶものだった。この旅でゲバラはさまざまな社会矛盾と遭遇し、それを変革する夢がやがてキューバ革命へとつながってゆく。自身医大生であったゲバラにとってグラナード氏は6歳年長の先輩であった。氏がゲバラに与えた影響も大きかった。 
遺灰は母国のアルゼンチン、キューバ、そして医療業務に携わったベネズエラに撒かれるという。ゲバラと同じように国境を超えた活動を展開してきたグラナードの希望であった。 

映画『低開発の記憶~メモリアス』 国家と個人の癒しがたい関係 キューバ

映画『低開発の記憶~メモリアス』
 トマス・グティエレス・アレア監督
低開発の記憶

 1968年、というから今から39年前の映画となる。キューバ映画におけるもっとも重要な作品として、映画史に記載されてきた。しかし、日本で公開されなかった。
 映画の存在そのものは、1972年6月にエドムンド・デスノエスの原作『いやし難い記憶』が小田実の訳で刊行された時に、読者は映画の存在を「情報」として知った。キューバ(映画)やラテンアメリカ映画に関心のある者には爾来“幻の傑作”となっていた。やっと上映の機会が巡ってきた。そして、世評通りの傑作と認識した。国家と個人の関係をかくも真摯に掘下げようとした、稀有な存在として際立った個性を保ちつづけていることの驚きである。
 監督は革命前にキューバ記録映画の傑作と知られる『エル・メガノ』を撮り、革命直後に最初の記録映画と長編劇映画を手掛け、93年にはソ連崩壊後の経済危機下で遺作『苺とチョコレート』を撮ったトマス・グティエレス・アレア。中南米映画界の牽引者であった。だから、記録映画を含めアレア作品は日本で公開されてきたが、本作は何故か“忌避”されてきた。プリントが劣化して修復が必要だった、という物理的な理由もあったのだが。 
 本作の主人公セルヒオは革命前に親から富裕層相手の高級家具店を譲り受けた生活力の欠けた頼りない インテリ。革命後は、親が遺したマンションからの家賃収入で暮らす結構な身分だが、革命政府は、そうした特権を剥奪するための法整備を着々と進め、セルヒオの生活にも影響が出はじめている。そうした新政府のやりかたを嫌ってセルヒオの妻はマイアミに去った。たぶん、二人の仲は冷め切っていたようだから、革命は別れの口実を与えたに過ぎない。友人たちも革命を嫌って次々と去ってゆく。セルヒオは残っているが、革命を積極的に支持しているわけではない、さりとて嫌ってもいない。キューバに生まれ育ったから、中年を迎えた今も思想信条に関係なくソコで暮らして生きたい。けれど、〈革命〉はセルヒオの生活を真綿で締め付けはじめている、という状況であまり面白い展開とはいえない。けれど、まだなんとか食えているし、妻が去ったお陰でアバンチュールも楽しめる。本屋の書棚はマルクスやレーニンの翻訳本に侵食されているが、自宅にはまだ読むべき本に事欠かない。時代の過渡期だ。セルヒオ自身なんとかしなければいけない、とは理解しているが、打開策は見つからない。そもそも政治に関係なく平凡に過ごしたいのだが、さて……さて。
ドラマのなかに時代の過渡期を象徴する実写フィルムが適宜、挿入される。米国に支援されたバチスタ派の反革命軍がヒロン湾に侵攻し、革命軍に撃退された事件、ソ連のミサイル基地建設を巡るキューバ危機など。「低開発」の貧しい祖国が国際的な政治状況に翻弄され、生き延びてゆく困難さを思いやるセルヒオの政治に対する知識は革命派の農民や労働者より鋭い。しかし、自分がどう「革命」に関わっていくべきかは判らない。「革命」の側も判っていない。キューバにとってはじめて体験する国家と個人の関係を問うための貴重な討議資料ともなる映画でもあったのだ。
 いっけん19世紀ロシアでゴンチャロフが描き出したオブローモフ的青年のようだが、事態はロシアの憂鬱な青年より深刻だ。資産は侵食され、革命は眼前の現実なのだ。
 ソ連や東欧諸国、大半の革命政権は、オブローモフ的青年を許容せず、人間の顔を失った冷たいシステムを優先させた。しかし、キューバは違った。残りたいなら残れとセルヒオの存在を認めた。彼が少女強姦の濡れ衣を着せられても、これを“階級の敵”として財産没収せず、少女の側にも問題があったと、人民法廷は無罪とする。ソ連や中国なら、こうはいかなかったはずだ。こういう非政治的な誠実さほどキューバを“一党独裁”と切り捨てたい勢力にとって疎ましいものはないはずだ。ソ連崩壊後も何故、生き延びたかという疑問への応答に、映画『低開発の記憶』を持ち出してよいだろう。
しかし、意味深長なタイトルである。この表題のおかげで、キューバ経済が低開発なのか、いや革命精神が低開発なのだと言ってみたり、人間存在そのもの低開発、発足したばかりの未熟な革命政権そのもの低開発……と言い出したら切りがないほど議論百出したそうな……。    (2007年)

映画『イップ・マン』 ウィルソン・イップ監督 ブルース・リーの唯一の師を描く

映画『イップ・マン』 ウィルソン・イップ監督 ブルース・リーの唯一の師を描く

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 ブルース・リーの人気の凄さは20年ほど前、中米グァテマラで暮らしはじめ、取材で先住民共同体を訪ねたりしたときに思い知らされたものだ。日銭稼ぎの露天にブルース・リーがプリントされたTシャツが並び、「あんたはクンフーを知っているか?」と聞かれたりしたものだ。
グァテマラ人に限らず中米、いやラテンアメリカ全域にいえることだが、この地のごくごく平均的な庶民は東アジア人はみな同じ民族と思われている。みな同じ言葉を話し、複雑怪奇で得体のしれぬ漢字を扱うフシギ民族と。たぶん、ブルース・リーが出現前も後も大して事情はかわらない、東アジア人の認識はその程度のものだが、リーの活躍において少なくとも東アジア人に対して「尊重」しても良いか、というぐらいの“劇的”な変化をもたらしてくれた。それはソニーやトヨタ、あるいはニンテンドウなどが長年掛ってできなかったことを数編の映画によって実現してくれた。
 武勇者の伝説は無限のエネルギーを自ら作り、へラクルスにもなれば牛若丸にもなって永遠の若さを保つ。夭折したブルース・リーは、ラテンアメリカではチェ・ゲバラの変種としてヒーローになっているように思った。
 ブルース・リーが強いなら、その師はより高きところに鎮座してもらいたい。精神性においてもわがヒーローを超越していなければならない、と外野の勝手な思いは増幅する。はたして、師たるイップ・マン(詠春拳)は……事実、強かった、そして品格も優れていたと語るのが本作である。
イップ・マンは中国南部の広州仏山の出。町の中心に中華風庭園のある寺院を中心にして増殖した町だ。一度、訪れたことがある。その時はまさかブルース・リーの師匠の出身地とは知らなかったから、大した感慨も抱かずに通り過ぎた。なんだかもったいないような思いを、この映画をみておぼえた。
この武術イップ・マンという達人はいかなる場であっても沈着冷静、静かなたたずまいのなかに無限の活力を秘めた格闘家であった、と本作は力説する。しかし、そのたたずまいは耐えて自重し、それ以上、耐え忍べば人間の本性まで侵されると感得したときに解き放つ怒りの暴放というリー映画のパターンを踏襲しているようで、そのあたりはハテ真実か、と疑いもする。
リー映画は静から動へ、暴放から沈静~終息へ、との変奏に様式美をもっていた。その対極がジャッキー・チェンである。彼のサービス精神は動から動へと目まぐるしく軽快に軽妙に、ときにドジで笑わせる。香港映画はこの二人の個性によって大いに潤うことができた。
イップ・マンを演じたドニー・イェンもまたリーの感化を得て、その師に近づこうと役作りをしたように思う。格闘家というより書生といった風貌、あるいはシニカルな経綸家といった風情で、いささかも厳(いか)つくない。それもまたリーに似ている。
 映画でリーの武術がイップ・マンから出ていることをはじめて知ったが、なんでもリーが唯一、弟子入りしたいと門を叩いた師匠ということで、その修業時代の写真も登場する。
 イップ・マンの評伝映画にちがいないが、そこはクンフーを食材としているからアクション・シーンに大いなる魅せ場を用意している。ジャッキー・チェンの映画もそうだが、香港・中国のその手の映画の殺陣はまったく見事。なにが見事といえば、よくまぁこれだけ途切れずアイデアが出てくるものだという感嘆である。次から次へと新種のアクションを考案するものだという感服である。それはもう畏敬の念というものに近い。最近はタイの映画界も伝統武芸をスクリーンに展開させ、かなり頑張っている。その伝でいえば、日本映画はやっぱり剣劇、チャンバラで魅せないとダメなのだ! やはりクロサワはその意味では天才であったのだ。『七人の侍』を超す大殺陣をクライマックスとする映画はまだない。
でクンフー・アクションを魅せ場として構成すれば、ドラマの部分はいささか凡庸になってしまうのが、この手の映画の欠点だが、さりとて活劇シーンが冴えないと批評にもならない。という意味において及第点をあげたい。
 イップ・マンの修業時代は日本軍が中国大陸各地に侵攻し、蛮行を繰り返していた時代だ。その犯罪が祖父世代の蛮行であったとしても、やはり日本人として「罪障感」が疼く。それは中国映画をみるときに強いられる税金のようなものだ。韓国や台湾、フィリピンの映画にはその手の描写は少ない。そういうところはやはり社会情勢が反映するものなのだろう。思えば、クンフー映画はリー健在の頃から日本人はいっかんして悪役である。イップ・マンからブルース・リーの世代に引き継がれ、いまも野太く連鎖している中国人の日本観であることに気づく。歴史は変えられない。
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上野清士

Author:上野清士
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