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映画『ブルーバレンタイン』 デレク・シアンフランス監督

 映画『ブルーバレンタイン』 デレク・シアンフランス監督
ブルーバレンタイン

 愛のはじまり、男と女の出会いは偶然の重なり合いのなかで芽生え、成熟していく。その出会いに恋人たちは〈奇跡〉を感じ、唯一無二のこととして愛を純化していく。
 映画にしても歌にしても、そして文学、あるいは絵画……人間は、そんな愛の「奇跡」を象徴化しながら生命を繋いできた。文化の根元は〈愛〉なのだ。
 どんな凡人でも自分の愛は大切なものだし、できるだけ一個の珠玉のドラマとして記憶したい。たとえ他者から平凡、ありきたりのものだと思われようが、本人たちはリアルなドラマの主人公として青春の思い出に残したい。それが持続すればするほど、夫婦の絆は細くならず、ほぐれずに平穏に送れるということなのかも知れない。
 しかし、男と女の別れのとき、愛の破局はなんて凡庸なんだろう。出会いの〈奇跡〉からすればなんと俗ぽいのだろう。それはどこにでもある世俗にまみれた光景である。たがいを傷つけあう言葉は、たいていありていのものだ。
 愛の高揚期には凡人をして、みな詩人にさせるけれど、別れのときは“詩才”も摩耗している。そういうことを切々と確認させられる愛のリアリズム映画が『ブルーバレンタイン』だ。
 資産も学歴もなく、家族にも恵まなかった肉体労働者の男ディーン(ライアン・ゴズリング)と、医師を目指して勉学をつづけるキャリア志向の女シンディ(ミシェル・ウィリアムズ)との出会いはまったくの偶然、数秒ズレていたら一生まじわることのないものだ。そのわずかの接点が愛の物語の足がかりとなる。そういう出会いのかたちは本当は無数にあるのが当事者たちは、その偶然に神意を覚えたりするわけで、〈奇跡〉といって自分たちを聖性するものだ。そこに芸術の水脈が流れる。
 インテリ女性が肉体労働者の男性に吸い寄せられるという話もよく聞くものだ。しかし、出会いまでに形成された人間精神の砦はそうそう崩れるものではない。人間形成の歴史は変えられないのだ。個性は愛の高揚期には見えなかった、見ないで済んだことも、停滞期ともなれば否応なく見えてくるものだ。鼻につく、という言葉があるけれど、そんなふうに醜い感情が露呈してくる。
 恋人なら、そこでつまずき別れとなるだろう。しかし、夫婦となってから後は、そう簡単には別れとはならないのは自明のこと。背負った夫婦の歳月によってみな事情はことなってくる。
 本作のシアンフランス監督の原案からシナリオ作成の過程で、もう二人のライターが関わっている。3人の共同作業として練り上げられたものだ。そうして彫琢されたシナリオは絶品だ。自然で写実主義的であり、しかし、そうしたリアリズムに徹しようとして生じる堅さもない。気負いの気配がまったくない。このシナリオの気配をゴズリングとウィリアムズは淡々と、しかし、緻密で高度な演技力が配剤されていて見事。実に完成度の高い作品で、ゆえに観る者は辛い。
 愛の昂揚と破局はたいていの人が体験する。失恋というものだが、そこで苦悩し、悔恨しつつ人間として成熟していくものだ。だから、この映画は世代を超え、国境を越えて普遍性をもっている。観ながら我が身に引きつけ、けっこう堪える人も出てくるだろう。在りし日の悔恨を蘇生させる体験を強いるからだ。でも、人は、それでも人を愛さずにはいられない。愛があるから、人は生き延びようとし、希望を見いだせるものだ。
 今般の大地震のなか奇跡的に生き延びた人たちのなかにも、愛する者のために生きなければいけないとの執念で生の灯火を燃やしつづけて救助された人たちも多かっただろう。愛の力とは、けっして数量化できないが、ゆえに人は、そこに神意を読みとろうとするのだ。そんなことまで考えさせる秀作である。    
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2010*国際民俗芸能フェスティバル  民族の”歌の力”

2010*国際民俗芸能フェスティバル  ”歌の力”

国際民俗芸能フェス 2010
 〈歌〉には歳月を超えて民族の永続性を支える根源的な力があることをまざまざとみせてくれたパフォーマンスであった。
 文化庁が主催する毎冬恒例のイベントでは毎回、新鮮な感動を覚えている。終演後、2月の冷気のなかに送り出されても、いつも五感は満ち足りた熱さでほくほくしている。今年(2010年)も日本の三芸能にタイとエストニアの民衆芸能が披露され、それぞれ堪能したのだったが、なかでもエストニアの小さな島キフヌからやってきた「民俗芸能団」による伝統的な結婚式を再現した歌と踊りに、この国の民族自立の意志、誇り高さをうかがえて感動した。意志、と書いたが、何時果てるとも知れない闘いを生き抜くためには強さも必要だが、それだけでは持続できるわけがなく、そこに民族の明確な統一ヴィジョンがないと「意思」にはならない。
 バルト三国のひとつエストニアは他の二ヵ国どうよう大国のはざ間で独立を圧殺されてきた。ソ連邦に併呑されてから母語はロシア語によって公用語から追放された。そのあいだエストニア人は伝統的な民謡や習俗のなかに母語の生命力を絶やさぬように息づかせ独立の春を待った。バルト三国のソ連邦からの独立運動は「歌の革命」とも呼ばれた。その歌はそれぞれの母語によるものだった。
 キフヌ島からやってきた人たちは「民俗芸能団」とされているが、来日した15名のグループはみな半農半漁のけっして豊かとはいえない村の農婦たちであり、ふつうの主婦、娘さんたちだ。彼女たちはルノと呼ばれる応答形式の合唱の巧みな歌い手であった。紅色を基調とした民俗衣裳は村の女たちの盛装であるらしい。そんな盛装の女たちが結婚式の祝い歌を踊りながら披露してくれた。
 解説によれば村の結婚式をそのまま短縮してみせたものだという。「芸能団」とは来日にあたって急遽、名づけられた便宜的なもので芸能を生業としている人たちでない。帰村すればあわただしい日常、家事が待つ主婦であり娘たちであった。そういう生活者たちが、生きたいならロシア語を学べと強いられるなかで、エストニア語文化を気負いなく守ってきたのだ。家計をあずかる賢い主婦のごとく。
 こんかいの出場者のなかで唯一、芸能を生業としていたのはタイ東北部の農村地帯からやってきたプムパンヤータ伝承グループ。宗教祭事や結婚式で必ず出番のあるというモーラム(歌うたい)。日本では雅楽の楽器となった笙だが、中国南部やインドシナでは農楽の民間楽器であり、踊りながら演奏される野趣に富んだものだ。モーラムもタイでケーンと呼ばれる笙一本を伴奏に時代を反映する歌詞を即興的に歌いこみながら披露される。当夜のモーラムには経済のグロバリゼーションの弊害なども歌い込まれていたのには驚いた。
 宮城、奈良、そして愛媛の芸能もそれぞれ印象深いものだった。なかでも愛媛県今治市の「高部の獅子舞」はヴィジュアル性、スペクタクルな男芸として正に、柳田國男謂うところのハレの典型的な民衆芸能として特級品であった。   
▼2月9日、東京・新国立中劇場にて。

映画『愛その他の悪霊について』イルダ・イダルゴ監督

映画『愛その他の悪霊について』イルダ・イダルゴ監督 
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 原作は同名のガブリエル・ガルシア=マルケスの小説。語りの豊潤と挿話の神秘性、個性的な登場人物というガルシア=マルケス・ワールドが凝縮された小説だが、映画はすっかり筋立てに追われて美味の薄い作品としかいいようがない。
 小説の面白さを一方的な私見で書いてもしょうがいないので客観的に邦訳を出している新潮社の「案内」を引き出す。
 「18世紀半ば、スペイン王国領だったコロンビアの、城壁に囲まれた町で。狂犬に咬まれた侯爵の一人娘に、悪魔憑きの徴候が。有為の青年神父が悪魔祓いの命を受ける。激しく対峙した二人は、やがて激しく惹かれ合い……。大作『コレラの時代の愛』と近作『わが悲しき娼婦たちの思い出』の架け橋とも言うべき、うるわしき哀歌。」
 コロンビアの世界遺産都市カルタヘナの遺構をそのままロケして植民地時代の雰囲気はよく醸し出されているけれど、肉食系の話が草食系のものになってしまった、という印象。こんな巧みな題材はそうとうシュールに、あるいはルイス・ブニュエル風に混乱してもいっこうに構わないはずだが、女性監督イルダは、主人公12歳の美少女の心と肉体の揺れといった静謐な波動に寄り添って描こうとして、同時代の矛盾なるがゆえの、それ自体が蠱惑的な混沌から浮き上がってしまった。
 こうした映像化もガルシア=マルケス理解であろうが、これでは批評行為だ。彼の文学を映像化する際、批評はいらない……という前提を無視すれば平板になるしかない。
 湿潤な大気の気配、熱帯雨林から流れ出す臭気、混沌とした矛盾の密林をなめ回して創話していけば、そこに物語は悠揚とリズムを刻んで流れ出す。
 本作が一般上映されず、どこかの女性映画監督特集とかで公開されて以来、スクリーンに投射される機会がないままDVD化されたのは当然だと思う。ただし主演の美少女役のエリサ・トリアナの寡黙な気配はなかなか良いのであるが。
 

2011年「国際民俗芸能フェスティバル」

2011年「国際民俗芸能フェスティバル」
カンボジア

 月並みな言い方かも知れないが、伝統の強さ、否しなやかな強靭さと言い換えてもよいと思うが、そんな自明ことをあらためて認識させてくれたステージだった。
 特にカンボジアから来演した王立芸術大学舞踊団による「宮廷舞踊」の優美な様式美のなかに、この国の波乱にみちた現代史のなかで生き遺った伝統の強さを思った。
 1970年代のクメール・ルージュ独裁下で、この国の知識人や芸術家たちは粛清された。それは殲滅といえるほど徹底した血の弾圧であった。伝統芸能はいっさい禁じられ埋葬された。音楽家も舞踊家も虐殺されるか、強制収容所に放り込まれ精神の自由すら封殺された。娯楽のいっさいが空白になった時代がカンボジアにはあった。しかし、アンコール・ワットなど歴史的遺構だけは大して毀損されることなく生きつづけた。
 クメール・ルージュの圧政が終わり、伝統の再興が模索されたとき、芸能はほぼ一からやり直さなければならなかった。NHKがかつて伝統舞踊にかける首都プノンペンの老いた芸能人たちを追ったドキュメンタリーを制作したことがあった。活動期にあるべき青年、壮年層がほとんど虐殺されているとき、わずかに生き残ったのは当時、現役を退いていた老芸能人たちであったのだ。
 「宮廷舞踊」は総合芸術であった。舞踊の復元だけに留まらなかった。衣装も、かつて衣装づくりに関わった古老を探して、というふうに楽器、奏法、歌唱……すべてが手探りのなかで再興されたのだ。
 2月23日のステージはカンボジア人の伝統に対するプライドを示すものだった。そこには、クメール・ルージュ時代の陰惨な記憶を一片たりともみせない完璧な優美があった。歴史の澱はまったくとどめず、民族の洗練といったものだけが象徴化されていた。舞い手の微笑みはアンコール・ワットのレリーフの女神たちの慈愛である。そこにこの国の過酷な現代史の痕跡は一毛もなかった。
モンゴル

 モンゴルの民俗音楽を専業とする集団「モンゴリアン・メロディック・ライベーション」も当夜のもう一方の華であった。
 30年ほど前に国際交流基金などによって、アジアの民俗音楽がさかんに紹介されはじめた頃、モンゴル民族の声楽を際立たせる演唱ホーミー(喉歌)が紹介された。いまでは日本でも多くの人がそれを知り、テレビや映画のBGMに使われるまで浸透しているが、それまではまったく未知の音楽だった。
 「ライベーション」のホーミーの演目では、「チンギス・ハーン賛歌」が披露された。プログラムから拾って書けば、それだけの話だが、この国がペレストロイカの波を受けて民主化される以前、ソ連邦を中心とする「東」に帰属する社会主義国であった頃、民族の英雄チンギス・ハーンは「階級の敵」として公に称えることはできなかった。いまはモンゴルの歌を紹介するとき“草原の英雄”はあたりまえのように讃えられる。そのあたりまえさに筆者などはいたく感じ入ってしまうのだ。
 文化庁が主催する同フェステバルは今回で14回目を数える。日本各地に残る伝統芸能を中心に紹介し、その関連・影響などを検証、また類縁の芸能を確認しようという意図で東アジア諸国の伝統芸能も招来して独自のプログラムを組んできた。筆者はすでに9年間、見つづけている。そして、期待を裏切られたことは一度としてない。
 今回、日本からの出演は、神奈川県湯河原町の「吉浜の鹿島踊」、東京浅草寺の神事「びんざさら」、そして現在も西日本でプロ集団として門付けを行っている「伊勢太神楽」が紹介された。特に、「伊勢太神楽」は貴重な芸能である。、古典としての民俗芸能がプロとして集団の生業として生きている例は、沖縄を除けば、岩手・青森の内陸から三陸沿岸を活動基盤とする民俗芸能の集団が知られているが、本州では非常に少ない。その稀有な例として「伊勢太神楽」の舞いと演奏があった。なるほど鳴り物の音(ね)ひとつひとつの響きがちがうと思った。地域氏子たちが農閑期ににわか芸能を疲労する際の音色とは厚みがまったくちがっているのだ。そんなこともよく了解できたステージだった。
 (2月23日、東京三宅坂・国立劇場)

映画『ナージャの村』 本橋成一監督 ベラルーシの小さな村の平和な光景に潜む〈地獄〉

映画『ナージャの村』 本橋成一監督 
 ベラルーシの小さな村の平和な光景に潜む〈地獄〉
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 チェルノブイリ原発事故はウクライナ共和国で発生したが、風向きであったのだろう北隣のベラルーシ共和国に放射性物質がおびただしく降りそそいだ。
 この映画の舞台となったドゥヂチ村とは放射能で汚染され、政府から立ち入り禁止にされた廃村である。しかし、廃村にも数家族が住みつづけている。その家族の日常をたんたんと撮りつづけた映画である。
 村の自然は美しい。ロシアでは秋を“黄金の秋”といって愛でる。私自身、秋に旅をしてロシア、ウクライナ、モルダビアでその黄金の果実を賞味している。映画はリンゴの収穫の光景からはじまり、麦の刈り入れ、冬自宅の飼い葉刈り、地吹雪、そして春……廃村となった村には電気も水道も途絶している。役所もなければ学校も郵便局もない。そこには遙かな昔からつづくスラブの農民たちの質朴な暮らしがあるだけだ。それを20世紀の科学が破壊した。
 のどかな暮らしが静かに流れてゆく。しかし、スクリーンに映し出された美しい樹々、肥沃としか思えない大地……そこには確実に人を侵す放射性物質が巣喰い。ゆっくりと、が静かに人体をむしばんでゆく。放射性物質の半減期は途方なく遠い。それを知りながらも農民たちは動かない。そんな村がベラルーシにもウクライナにも多数、存在しているのだ。政府が強制的に村人を排除することも可能だろう。実際、そうされてきた村もたくさんあり、村ごと町ごろコンクリートでかぶせられてしまったところもある。けれど、ドゥヂチ村のようにあいまいに遺された村もある。僻村ゆえに放置されたのかも知れないし、放射線量が微妙に推移しているのかも知れない。それは誰にも解らない。政府が廃村と決めたとき、そこに人は存在しないことになっており、調査などはもうされない。そういう村もまたたくさんあるのだろう。
 どこを切り取っても平和でのどかな光景、そして穏やかな村人たちの生活。カメラはそんな村の生活を恬淡と切り取る。そんな光景のなかに、村の入り口に立てられた、「立ち入り禁止」の立て看板、そして放射線で汚染された村であることを示すマークだけが、時折りスクリーンの端を横切る。
 政府の地図にはもはや存在しない村。公共の便宜はいっさい途絶えているから、ここに一個の放射能を計測する線量計も存在しない。もし、あったらいたたまれないだろう。
 「私はこの土地でくらすのが恐ろしいのです。線量計をもらったけれど、なんで私にこんなものをくれるの? シーツを洗う、まっ白だというのに線量計が鳴る。食事のしたくをしても、パイを焼いても、鳴ります。ベットを整えても、鳴ります。なんで私にこんな
ものをくれるの?」(『チェルノブイリの祈り』から)

映画『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』  マリー=ジャンヌ・セレロ監督

映画『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』  
マリー=ジャンヌ・セレロ監督
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 昨年の当欄で近年のフランス映画は女性の評伝映画に秀作が多いと書いた。その文脈の流れに、また1本の秀作が加わった。つくづく、フランスという国はロココ時代から〈女〉を描いて倦むところを知らないと思わせる。モーツァルトの実姉ナンネルの青春というにしては早熟、〈芸人〉であるがために強いらる成長、そして諦観までを慈愛をこめて描く。
 世界でいちばん演奏される機会が多いのがモーツァルトなら、評伝のたぐいもまたずば抜けた体積を示す。時代と国境を超えた“アイドル”はそれこそ小さな癖までほりつくされた観がある。その評伝の多くがモーツァルトの旅の日々を描く。彼にとって旅は生活そのものであった。特に1763年6月、ザルツブルグを出発し、西欧諸国を駆け巡りドーヴァー海峡も越えた3年5ヶ月に及ぶ大旅行は、モーツァルトの神童ぶりを王侯貴族の脳裏に焼き付けた旅としてよく知られる。
 この旅に4歳年上のナンネルが同行した。彼女にとって少女から大人になる、もっとも多感な日々だった。映画は、この旅路でのナンネルを描く。
 旅の様子はプロモートした父レオポルトが残したメモ、手紙などによってうかがい知れるが、ナンネルの内面までは分析してはいない。父親はふつう子どもの性格診断はしても、心理学的な解析はしないのは当然だ。この映画で描かれるのはあくまでセレロ監督のかくあるべきと夢想する映画的真実であって、創造のナンネルである。
 もし、モーツァルト一家にアマデウス少年の天才が誕生しなければ、ナンネルの名も今日まで伝わることはなかっただろう。旅の主役はあくまでアマデウスであって、ナンネルはその引き立て役に徹した。しかし、アマデウスの異常な早熟、天才を支える伴奏者であった、という役割を全うしたことを忘れてはならない。彼女の才能を女であるがために軽んじた父ではあったが、アマデウスが音楽的才能を開花させるまで、父はナンネルの才能を稀有(けう)なものとして愛し、厳しく仕込んでもいた事実がある。
 映画は、なりよりナンネルはけっして弟の伴奏者として恬淡(てんたん)と甘んじてはいなかった、という前提で彼女を描きだす。
 当時、女性禁制であった音楽大学に男装して学んだ積極的な少女だった、と語る。ふとバーブラ・ストライサンドが男装のユダヤ人神学生を演じた映画『愛のイエントル』を思い出した。バーブラが原作に惚れ込み製作から監督・脚本・主演、そして歌唱を担当した作品だった。小柄な女性であるが故、男装もまた腺病質な内気なたたずまいをみせてしまうイエントルのなかに、それでも男子学生と伍していこうという静かな熱意をにじませた好演だった。そのバーブラに比べると、ナンネルの男装にはしまりがない。このあたりはもっと締めて欲しかったところだ。
 ナンネルはアカデミーで内なる問いかけから作曲もした、と描かれている。作曲を手がけたことは事実だが、学校で学んだからというのは創作だろう。そういうナンネルが恋愛も体験し、そして、音楽家として立つか、ここでキャリアを捨てるかという岐路を迎える葛藤まで描く。当時の音楽界は女性に対して厳しかったことは事実だが、プロが存在しなかったわけではない。
 旅の3年5ヶ月のあいだに青春を謳歌し、燃え尽きた……ように描かれる。そのあたりは検証の余地があるが、成熟の早かった時代、あんがい、そんなふうに人生のとば口で、女として生まれたがゆえに陥る諦観を抱いたとしても不思議はない。女性ならおのずと時代が規範とする良妻賢母像に染まっていったかも知れない。
 モーツァルトの時代にも職業的な音楽家として男と伍した才能は存在した。モーツァルトの教え子にヨーゼーファ・アウエルンハンマーがいる。優れた女流ピアニストで、モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」の初演者であった。また、モーツァルトが「ピアノ協奏曲18番」を献呈したマリア・テレジア・フォン・パラディスも同時代の優れたピアニストだった。いまでも弦楽曲の小品として愛聴されている『シチリアーノ』の作曲家でもあった。しかもパレディスは失明者であった。そういう肉体的なハンディを背負っても音楽家として自立していた女性は存在した。その意味では、ナンネルの“挫折”はより内面的な出来事だったと思う。
 少女から恋を知る女と成長していくナンネルを演じたマリー・フェレの存在感は輝いている。柔和な顔(かんばせ)のなかにも視線をゆるがさないフェレの眼は、1963年作と伝えられる肖像画「大礼服のナンネル」の意思の強そうな視線を思い起こさせる。その肖像は旅の途上で描かれた。弟アマデウスに劣らぬ技量をもった神童としてナンネルも賞賛されていたのだ。
 しかし、長旅から帰郷したナンネルは二度と華やかなステージにあがることはなかった。その心の内実をナンネル自ら封印してしまった。マリー・フェレは、その封印までの青春の日々を内に向かう強さとして表現していた。   

『チェルノブイリの祈り』 〈地獄〉と〈愛〉の物語

チェルノブイリの〈地獄〉と〈愛〉の物語
 書評『チェルノブイリの祈り』 スベトラーナ・アレクシエービッチ著
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 この本はチェルノブイリ原発事故に遭遇、あるいは何らかのかたちで関わってしまった市井の人たちが強いられた〈地獄〉と、そして生きることが不可避的に〈愛〉が欠かせないことを知らしめる人間の書、と思える。
 1986年4月、チェルノブイリ原発第4号炉で爆発が起こり、原子炉と建屋が崩壊した。科学がもたらした20世紀最大の惨事となった。この事故で大気中に5000万キュリーの放射性核種が放出された。その70%が原発のあるウクライナでも、ソ連邦最大の国土を誇るロシアでもなく、北隣の小国ベラルーシに降り注いだ。
 人口1000万のベラルーシは原発事故によって485の町や村が地図から消え、そのうち70の村や町は汚染の拡散を恐れ、永久に土のなかに埋められた。本書の作者はそのベラルーシの人である。ロシア語の原本は1997年に刊行された。邦訳はその翌年に出された。そして、日本でも版を重ね、私が手にしたのは2000年に出された3版である。その時点で本書はベラルーシでは禁書のままだ。理由はあきらかにされていないものの、本書を読めば了解できる。ベラルーシ国民が自分たちの国土がいかに汚染されているか、そして見えない爆弾がいつ自分たちの肉体を侵してくるのかという恐怖から自由ではいられなくなるからだ。だが本書は原発事故の科学的分析でもなければ、ソ連の核管理を告発するものでも、反原発という活動に寄与するという目的意識的に書かれたものではない。 事故に関わってしまった人たちの日常レベルからの報告、真実の物語である。この災厄に遭遇してしまった人が、その後を不可避的に“チェルノブイリ人”として歩まざるえない葛藤、あるいは絶望に耳を傾けたものだ。
 放射能傷害で死んでいった消防士の話、その病体の描写、棺さえ鉛で封印されコンクリートで覆われた墓。死産した子どもたち、瞳孔以外、孔のないかららで生まれた女の子の話、命令で防護服も与えられず放射能除去作業を強いられた何十万ものソ連兵士たちの話。健康を損ない職場を解雇された元兵士のこと。汚染地域に生き残る犬や猫を組織的に屠る話・・・。
 ナチズムのユダヤ人に対する犯罪の象徴としてアウシュビッツ強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルが書いた『夜と霧』がもっとも優れた哲学的考察と言われるのなら、本書はチェルノブイリ原発事故を巡る人間を描いた、もっとも真摯な本だと思う。『夜と霧』が人間という存在の闇について教えてくれるものなら、本書もまた、人間というものの在りようを多面的にみせてくれる。
 原発事故からそれほどの時間をおかず、いまは無き週刊誌『朝日ジャーナル』に「石棺」というルポルタージュが連載された。それがチェルノブイリ事故を日本に広く認識させた、はじめての作品だと思う。それから多くの関連書が出版され、映画にもなった。私が読み、見たものはその一部だろう。その限りある私の狭い知見を認めつつも本書を推奨したい。少なくとも、初動の遅れが事故を深刻にしたといわれる民主党内閣、指揮権をもった大臣クラスのなかに本書をきちんと受け止めている人がいたならば、ここまで深刻な事態に陥らなかったのではないかと思う。
 
 

ハバナのチェルノブイリの子どもたち

ハバナのチェルノブイリの子どもたち

*本稿は、月刊誌『ラティーナ』2001年4月号に掲載された後、2004年11月に刊行された『南のポリティカ ~誇りと抵抗』に収載したもの。今回の福島原発事故で再度、掲載する意味があるかと思い、旧稿を掲示することにしました。ロシア経済は執筆した当時から比較すれば、石油・ガスの輸出、軍事・宇宙産業の整備・拡充によって著しく回復した。プーチン前大統領の任期が終了する頃には、BRICs(現在はBRICS)、そして上海協力機構の主導国になるまで回復しているが、当時の筆者の実感はそのまま訂正しないで掲載することにした。また、執筆当時、メキシコ市で暮らしていたので主たるニュース素材はスペイン語圏報道機関とCNNであった。        
( )内の記述はこのブログへの掲示に際して補記した箇所。(2011年4月15日記)
チェルノブイリの被災児童


 昨年(2000年)12月、米国大統領選挙の集計をめぐる混乱をしり目にロシアのプーチン大統領がキューバ行きを計画、国防相などを随行して訪問した。
 ロシアの尊厳を復権しようと試みるプーチン大統領にとって、ソ連邦時代に運命共同体であったキューバは対米国政策のうえで重要な国だ。ソ連邦解体後、氷が張りつめていたような関係を溶かし再構築することは緊急課題であった。なにより、ロシアはハバナ近郊に米国内の軍事情報を傍受するルルデス基地をいまでも維持している。かつて米国主要都市を射程に入れたミサイル基地をキューバに建設したソ連邦時代の遺産だ。
 経済では途上国並みに転落したロシアだが、軍事面においては唯一、米国を脅かす大国であることは現在も変わらない。キューバはロシアの対米国戦略上、最前衛に位置する浮沈空母のような存在だ。プーチン大統領はルルデス基地を視察士、施設の改善を求めたといわれる。同大統領に随行したセルゲーエフ国防相はハバナで、カストロ首相の実弟ラウル国家評議会第一副議長と軍事技術協力を強化する協定に調印している。
 キューバという島国は地政学的に世界の焦点になるようにできているらしい。この島がスペイン人に見いだされて以来、“新大陸”における植民地経営の要の存在であり、大陸が次々と独立してゆくなかでも最後まで手放さなかったのも地政学的な価値があったからだ。
 キューバ本土にはいまも米国が割譲する地グアンタナモがある。キューバの第二の国歌ともいうべき「グアンタナメラ」の故郷だが、ここに米軍基地がある。
 (〈9・11〉後の米国の一連の戦争で捕縛されたイスラム過激派(誤認も多かった)が収容された基地でもあった。)
 グアンタナモ基地で働くため日々、キューバ側から通勤するキューバ人がいる。一国の領土のなかに東西両陣営双方の基地が長年存続し、冷戦以降も維持されている。1903年、「独立」間もないキューバから米国がもぎ取った熱帯の果実のような地だ。
 
 プーチン大統領一行がハバナを離れた直後、筆者はハバナ近郊の湾岸地帯にある、チェルノブイリの被災児童を受け入れている施設を4歳の娘の手を引いて訪れた。
 治療施設は、もともとハバナ市内の子どもたちが利用するために設けられた野外教育施設だった。現在、ここで原発事故で被災したウクライナの子ども約200人が治療を受けている。起伏に富んだ広い敷地に病棟、学校、スポーツ施設や居住区が点在する自然環境に恵まれたところだ。
 1986年4月、爆発事故を起こし、国境を越えて被害が拡大したウクライナ共和国のチェルノブイリ原発。当時、ウクライナはソ連邦の構成国であった。連邦解体後、ロシアにとってウクライナは“外国”となったが、事故に関して道義的責任は末代までつづくはずだ。クレムリンの電力政策の一環としてチェルノブイリ原発があり、爆発直後から汚染土の除去まで多くのロシア兵士が徴兵され被爆していることでも、事故はいまもロシアが引き受けるものとなっている。しかし、プーチン大統領はルルデス基地を訪れても目と鼻の先にあるチェルノブイリの被災児童が暮らす施設を見舞う気はなかったらしい。まったく無視した。時間がなかったといえば、そういうことになるか。
 この施設が開設された直後はロシア、ベラルーシ、アルメニアなど旧ソ連邦各地の被爆児童を受け入れいたということだが現在はウクライナの子どもたちに限定されているということだ。施設を案内したキューバ人に、「何故、ウクライナの子どもたちに限定されたのか」という問いに関しては、明確な回答は得られなかった。
 施設の規模、医師の数、そして経済的負担を考慮すれば毎年3期に分け毎回約200名、年間600名もの児童を受け入れることは大変な事業だ。経済的困窮がつづくキューバにあって、こうした人道的活動を持続させる善意がまぶしい。少し突き放した言い方をすれば、キューバ医学は皮膚医療に関しては先進国だ。いや予防医学、薬物医療でも実績をあげている国でもある。チェルノブイリの被災児童の治療でえられたデータは皮膚医療だけでなく、放射能障害の医療分野でも貴重なサンプルとしてデータが蓄積されているはずだ。 とはいえ、そうした実利的な側面を認めつつ、それを割り引いてもなお賞賛されるべき活動だと思う。重度障害の児童には付き添いとしてやってくる母親などの生活もまかなっている。
 治療は障害を5段階に分け、重度障害者は母親ないしは家族とウクライナの担当医師もついてくる。軽度の障害者は施設に設けられた学校に通学しながら3ヶ月、治療を受けて帰国する。
 カリブの太陽のもとで元気に駆け回っているのはむろん軽度の子どもたちだが、治療の副作用か頭髪の失われた少女、火傷痕の痛々しい子どもたちも目につく。取材中の私に替わって、彼らが私の娘と遊んでくれた。子どもたちには言葉の壁はない。
 キューバ人女医が、「わが国の医療技術は優れた実績を持つ」と枕言葉からはじめて施設の概要を説明してくれた。そして、「世界各地でキューバ人医師たちは医療活動に専心している」とも。
 確かにキューバ医師団は、周辺諸国で大きな自然災害があれば直ちに救援活動に駆けつけられる人的資源と組織力がある。(昨年、ハイチで大震災があったとき真っ先に駆けつけたのはキューバ医師団だった)。現在もハリケーンの甚大な被害を受けた中米ホンジュラスや、地震で被災したコロンビアで活動を展開している。両国とも国交はないが、人道的援助として活動に当たっている。……ということを納得しても、この女医さんの説明のなかでキューバ産薬品の自画自賛が目に余るな、と思ったので、「それは副作用などの臨床実験を経て安全が確認されたものですか?」と質問した。むろん、答えは「安全です」としか返ってこない、と解っていながらも発しないわけにはいかなかった。
 実際、素人の私には、この施設内でどれほどの治療実績があるのか確認できない。治療後、祖国へ帰った子どもたちの、その後も気にかかる。「ここで治療を受けた子どもたちのデータはすべてコンピューターで管理されている」ともいう。しかし、被爆障害の完全な治療法は存在しないのだから、やたらと「成果」を強調されても鼻白むのだ。
 起伏に富んだ敷地内を歩く。カリブの紺碧の海が眺望できる。美しい光景だ。癒しの効果ということでは最良の環境かもしれない。

砂の街・舞浜、そして沈黙する東京ディズニーランド

砂の街・舞浜、そして沈黙する東京ディズニーランド

3月30日、時間を都合して浦安・舞浜に行って来た。東京駅から京葉線を利用して舞浜駅で下車した。東京ディズニーランド(以下、TDL)へのアクセス駅であると同時に新興住宅地・舞浜に居住するサラリーマンたちの通勤駅でもある。
 TDLが1983年に開園してから〈3・11〉まで人口彩色・電飾で偽装された海辺の「楽園」から華やいだ大気が失せたことはないだろう。いや、昭和天皇崩御の日々のなかで自粛はされたと思うが、今回のように物理的な地震の影響で営業を阻まれたことはなかった。震源地から300キロ離れた「楽園」は沈黙を強いられた。
 舞浜駅構内から広い遊歩道で「楽園」の入り口に架橋されている。その架橋はいまとざされている。眺望できるアトラクション施設はいかにも写真のネガフィルムのように色彩感なく森閑と静止していた。人気のない遊園地ほど寂しい場所はない。
 その「楽園」と反対側は住居地域でもあるから、そこに住む市民たちの利用もあって、華やぎこそないが駅そのものは郊外駅ほどのにぎわいはあった。けれど、「楽園」への足がかりとして利便を放棄させられた駅構内、周辺の付帯設備はみな閉鎖されていた。駅構内そのものに損傷はみられないが、駅前の舗道は無惨だった。地割れ、隆起、吹き上げた砂の山。その光景は舞浜の住居地域へつらなる光景であった。
 舞浜3丁目の新興住宅地を歩く。ガレージや内庭に砂が流れ込んだ家が多いようだ。家の壁に染みた黒い痕が地震当日の惨状を物語っている。砂はみな家の前や、舗道脇に寄せられ、水分を失った砂は風に舞い上がっていた。飛散をふせぐため水を撒こうにも蛇口は沈黙したままだ。
 TDLが埋め立て地であるように、そこもまた人口的に波打ち際を後退させてできた造成地だ。地盤が強かろうはずはない。
 「楽園」が人間の向日性のほうらんたるアイデアの象徴として在(あ)るなら、埋め立て地の上に建つ住居は建築工学の粋を集めたものでなければいけない。けれど、公共施設ではない分、何モ起コラケレレバ、と大前提で見栄えの良さが優先された、と思われる新興住宅地だった。埋め立て地というセールス的な難点を、不動産業者はおそらく「楽園」への隣接、都心への至近性を謳って補填したように思う。地震さえなければ、その「高級新興住宅地」の住民は大いにプライドを保てたはずだ。しかし、〈3・11〉は資産価値を一挙に下げた。舞浜地区で被災された住民の方には申し訳ないが、そう思う。これから不動産業者や行政機関などを相手に補償問題でまたご苦労されると思うが、埋め立て地を積極的に選んだ地震国の市民としての自己責任というものもあると思う。大きな地震によって液状化が起きることは、すでに周知されていたはずだ。
 300キロも離れた資源地から、首都圏はさまざまな直接的な示唆を受けた。震源地が近ければ「楽園」そのものも「失楽園」となっていたかも知れない。それは原発事故でも同じだ。もし、房総半島の外房や茨城の鹿島灘あたりにあって津波の被害を受けていたら首都圏はどうなっていただろう。
 東京湾岸沿いに多くの埋め立て地がある。ひとはそこをウォータフロントといったりする。震源が近ければ、そこもまた津波の被害を受けることもあるあるだろう。誰がその可能性を否定できようか。虚栄のようなセールス文句でゼロが増える付加価値は見直されるべきだ。世界でも希有(けう)な地震国ではおのずと独自の尺度があるはずだ。そんなことを思った舞浜への半日の旅だった。

明るくまばゆいニッポン*計画停電

明るくまばゆいニッポン
   *2年ほど前に某市民組織の機関誌に掲載された者。「計画停電」ということで、ふと思い出した。

 13年間、ラテンアメリカに暮らしていた。
 日本での暮らしを再開したのは6年前のことで、もうすっかり在日ニホン人化したようだ。そして、日本の夜の明るさにも慣れてしまった。
 なにごとも慣れは怖い。慣れは惰性であり、だいじな批判精神のしずかな漸減現象を意味する。これはなかなか手ごわい。慣れはまったく手ごわいのである。
 夜は暗いものなのだ。そして、人口的にはけっして影は消せない。自然が人間に与えた真理でもあり、また試練とも慰安ともいえる配分の妙だ。人間は恥多き存在だから、夜の闇にそれを溶かしこめるように神は配慮したと思いたい。
 都会に住む者はときどき田舎で呼吸するときが必要だ。
 緑のシャワーを浴びるのも良いが、漆黒の闇に身を晒す必要もある。あるいは、発展途上国とはいわないまでも中進国ぐらいには数年に一度くらい行ってみる必要がある。円高ドル安の影響で、ちょっと遠出の国外旅行より飛行機で国境を越えたほうがずっと安かったりする昨今である。ドンドン出て行く必要があるし、貧しい先住民から手工芸品でも買って、金を落としてきて欲しいものだ。そこがたとえ西欧化した近代都市であっても、その町をとりかこむ自然はまだ大きく深い。手つかずの奥深い闇が広がっている。そこは白昼あかるく夜は暗いというあたりまえの息づかいがある。3000万の人口を数えるメキシコ首都圏はとてつもなく巨大な原始に取り囲まれていた。メキシコ市はとてつもなく巨大な盆地のなかにある。囲む山は5000メートル級である。いくら高速道路を延ばし、地下鉄を延長しようとも自然はまだまだ途方もなく広がっている。
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メキシコ市の夜には、光がとどかない闇がたくさんある。街路も暗い。そして、暗い夜道はやはり危険なのである。明りがないから危険なのではなく、人の気配が途絶えた夜道が時に犯罪の舞台となるから怖いのである。社会問題である。街灯の明度の問題ではないのだ。
 盛夏である。クールビズという。省エネと叫ばれる。けっこう毛だらけ猫灰だらけだからけ~なのだから、大いに督励すればいい。しかし、ニホンの都市の暑さは格別だ。湿度が高いから体感温度を引き上げる。わが熱帯のラテンアメリカに暮らしているあいだ、日本人がいうところの“熱帯夜”というのを一度も体験しなかった。快適な熱帯の夜をいつも送っていた。涼しいから夜遊びには薄手のセーターを着用していた。
 ともかく日本の夏は異様に暑いのだ、都会では。生理の限度を越えている。だから、クールビズもいいがクーラーはも欠かせない。その分、明るすぎる都会の夜そのものを省エネ化しろと声を高くして叫びたい。暗い安全な夜を演出して省エネ化し、照明を落として蓄えた電力で大気まで冷やしてくれと叫びたい。
 オバマ大統領になってからやっと本格的に省エネが政府方針となった米国の都市だって東京ほど明るくない。犯罪都市とかいわれるマイアミやロス・アンジェルスだって薄くらい場所はいくらでもある。その分、星は綺麗だ。夜は暗くて当たり前。それが自然ではないか。カリブ海上から天頂を眺めれば幾百万の星が雪崩をうって落ちてきそうだ。ついでに人口衛星の軌道まで肉眼で観察できてしまう。
 月光浴である。天体からの光だけで写真が撮れる。
 社会の治安は夜の白昼化では防げない。人の心に棲む“闇”の手わざだ。その“闇”の半分は政治が解決する領域である。残りは人間の本性としかいいようがない原罪がもたらすもので哲学と宗教が解消すべき領域だろう。それは白夜の街路でもためらわないものだ。
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上野清士

Author:上野清士
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