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イマジン「七夕コンサート」2011*今年はラテンテイスト

 イマジン七夕コンサート2011

 毎年、律儀に7月7日に固執してコンサートイマジンが企画・提供している「七夕コンサート」。今年も賑々(にぎにぎ)しく開催。今年はなぜか濃いラテンテイストだった。
 これまで同コンサートは同社の主要部門であるところのクラシック奏者が、少し肩の力を抜いて楽しもうというサロン的内容で、演目もセミ・クラシックへ傾斜、というプログラムだった。ところが今年は何故かラテンベースのトラディショナル。
 第1部でギターを日本でアカデミックに修得後、なぜか飛んでペルーへ。アンデスの村々を訪ね歩き民俗音楽を採集し、同国メジャー・レーベルから10枚のアルバムを発表した笹久保伸という男がいた。その笹久保のギター・ソロと、ケーナ、サンポーニャ奏者を交えての合奏からはじまり、2部でロマ(ジプシー)出身のクラシック・ヴァイオリン演奏家ゲザ・ホッス=レゴツキが、もうひとつの顔、ロマ音楽家として民俗音楽を演奏する際、手勢としている音楽集団Geza & ザ・5・デヴィルズを率いて、中東欧の大地に育まれたツィンバロンの音色を背に奔放な演奏を聴かせてくれた後、わが小松亮太率いるオルケスタ・ティピカがたっぷりとタンゴを堪能させるという嬉しい内容だった。
 笹久保のギターにはじめて遭遇。彼が弾く『コンドルは飛んでゆく』の音色は、「ペルーの調弦で弾く」とのこだわりをみせ、なるほどという感興をステージから送り出した。サイモン&ガーファンクル以来、日本人の耳に馴染んできた同曲のメロディは西欧的にソフィストケートされたもので、ラテンの音楽家たちもいつしかケーナやサンポーンニャを使ってもS&Gの親しみやすさに傾斜して演奏することが多い。日本の繁華街や駅頭でペルーあたりからの出稼ぎ街頭芸人たちが演奏する『コンドル…』もまぁたいていS&G調である。
 しかし、笹久保はペルー人以上のこだわりで密度の濃くコンドルを山間へ飛翔させていた。山肌と山肌を行き交う山彦の連鎖のように笹久保のギターは濃密な芳香を放っていた。
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ゲザたちの演奏もまた濃密。純粋なロマ音楽は2曲ほどで、ジョン・ウィリアムスの映画音楽『シンドラーのリスト』のテーマ音楽や、ブラームスの定番『ハンガリア舞曲第5番』、そしてモーツァルトの『トルコ行進曲』という内容。なかでもゲザたちの実力と遊戯性、そしてテクニックが象徴されたのは『トルコ行進曲』。出だしでいかにもとロココ・モーツァルトという音色を聴かせた後、破調・変調・飛躍し下降しとさんざん民衆酒場のフロアでもて遊んだあげく、また何事もなくロコロ調に戻って終息させる心憎さにこのグループの手練の軽快さ、悪巧みをみたと思った。
 小松亮太社中の演奏は批評耳を捨て、ひたすら堪能させてもらった。 ▼東京・サントリーホール、7月7日。
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書評 『ユートピアの崩壊 ~ナウル共和国』

書評 『ユートピアの崩壊 ~ナウル共和国』
   リュック・フォリエ箸/林昌宏・訳
ナウル共和国

 南太平洋の小さな島国ナウル。国連加盟国としてモナコ公国についで小さく、共和国では世界最小とか……。
 車で30分もあれば一周できる国土面積、人口は約1万人。そんな国が世界で一番の富裕国だった時代がある。しかも、その豊かさは尋常ではなかった。常軌を逸していた。1970年代から90年代前半のわずか20年のこと。おとぎ話のような“栄華”があったが、あまりにもはかないものだった。その顛末記が本書のタテ筋。
 主役は、この島国の唯一の資源リン鉱石。太古の昔からサンゴの死骸の上に海鳥が飛来して糞をし、その長大な時間がつくりだした糞の堆積がリン鉱となった。こうした島はペルー、リマ沖にもあって同国経済を大いに潤した
歴史がある。
 ナウルのリンも純度の高い良質鉱、これに目を付けた先進国は当然、資源の独占を巡って覇を競う。
 1968年の独立後、英連邦の構成国と留まった。その関係から、隣国オーストラリアは農業の肥料にと投資を開始する。ナウルのリンがいちばん収益を上げたのは70年代初頭の第一次オイルショックの時代で、年間9000万~1億2000万ドルの可処分収入があった。人口が1万足らずの国にさばき切れない外貨があふれた。政府は島民に、いや国民に大盤ふるまいをはじめた。
 無税、教育・医療費はただ。国外留学費も国費負担。国民は金の使い道に困って、必要もないのに高級外車を輸入し乗り回し、少し調子が悪くなれば買い換える。その車で中国人が経営するレストランに乗りつけ食事をする。国民の大半は自分で調理することも放棄し、伝統食も忘れられた。ナウルは飽食によって国民の多くが糖尿病に蝕まれた。家の掃除まで国が面倒をみるという過度な「福祉」は国民を怠惰の極みに落とし込んだ。そんなことが連綿と報告される。みな事実だから怖い。
 リン鉱という有益な資源が国際市場で高値で取引され、極小国もグロバリゼーションの翻弄されたのだ。ありあまる外貨を適正に、そして資源が枯渇したあとの時代に備えての準備する政治がなかった。独立とどうじにリン鉱
バブルがはじまり、政治が成熟する前に金だけあふれた。政治は腐敗した。それを糊塗するため国民を金で愚弄したのだ。
 現在、ナウルは外国の援助なしではやっていけない国になった。かつて高級外車を満たしたガソリンも、いまは欠乏状態で、停電は常態化。リン鉱の開発で土地はめちゃくちゃにされ農産物の栽培もままにならず、国民は岸辺
で魚を獲って飢えを凌ぐようになった。銀行には金がなく、国民は貨幣の介在しない物々交換で暮らしをやりくりさせるようになった。糖尿病の治療に不可欠な節制が、国の貧困とともに否応なくやってきた。
▼新泉社刊。1800円。
 

映画『再会の食卓』  ワン・チュエンアン監督

映画『再会の食卓』  ワン・チュエンアン監督
再会の食卓

 もう20年以上前の話になる。東洋一の規模といわれる上海映画撮影所を取材した。
 その所長にインタビューをしていたとき、どのような流れだったか忘れたが、中国映画は食卓を囲んでいるシーンが多い、目立つ、と筆者は指摘した。
 所長は言った、「中国人のせつじつな目標なのです。ああして家族揃って、たくさんの料理をわいわいいいながら箸を延ばし、飲み語らうことが」。いま、上海のような沿岸部に住む市民の食卓はゆたかという意味では「目標」は達せられたように思う。
 本作は文字通り、古い市街地の一角、まだ再開発の手の延びていない地域だ。そんなくすんだ界隈に佇む質素な家の食卓のシーンからはじまり、現代的な高層団地の一室での食卓で終わる。
 上海の疾風怒濤とでもいうべきスピーディな都市開発を象徴するように、映画の冒頭ではいまはたけなわと建築中の団地が、ラストのシーンでは広い窓をもつモダンな部屋の連なりとして完成している。中国の現在を食卓から眺めているような映画でもある。
 登場人物たちの半生は、さまざまな食卓を囲むかたちで語りつくされる。そこに描かれる時間、そのものは数日のものだが、登場人物たちの誰もかれもが生きがたかった20世紀中国史を抱えていることが了解できる。
 いま満腹できるほど平和になった。過ぎし歳月を振り返れば、人生色々あった。艱難辛苦をよく乗り越えてきた。しかし、過ぎてしまえば、苦労もまたきょうの日を活かすための捨て石だったと思えば納得がいく。涙も汗も、あるいは血も……それこそ胃の腑に落ちるように消化されるものらしい。おそらく、そんなふうに人生を回顧できるような年齢層に対し、もっとも説得力をもつ映画だと思う。その回顧の象徴として、40年を架橋す〈愛〉のドラマが縦軸となって流れている。
 ここ百年の中国は内憂外患の歴史だった。いや清朝末期からはじまり、現代まで流れる混乱そのものは中国大陸×台湾という領土問題の緊張に残っているし、内なる植民地としてのチベットやウイグル自治区の問題も抱えている。ここ上海の一隅に住む家族の来歴にもそうした現代史の澱が壁の染みのようになって日常を見張っている。気づかないふりをしていても、なにかのきっかけですぐ頭をもたげてきてしまうのだ。
 国共戦争……大戦後、中国の覇権を競って、毛沢東指導の共産党軍と、蒋介石主導の国民党軍は戦いつづけた。そして、蒋介石は破れ台湾に軍隊とともに逃避、ついでに故宮からおびただしい国宝級の文物を持ち出した。
 敗残の国民党関係者がみな台湾に逃げ延びたわけではない。国民党将兵の家族の多くが取り残され困難な生活を強いられた。それがどのようなものであったかも語られる。中国共産党政権は、毛沢東の言葉ではないが、「溺れた犬を打て」と煽動することを巨大なシステムとして行なってきた。
 歴史の教科書は、毛沢東軍の勝利を語り、つづいて朝鮮戦争、冷戦時代に移行していく。その共産党独裁下で、もと国民党軍の兵士やその家族が強いられた苦難は日本ではまったくうかがい知れないものだったが、映画で「語り」として明示されていた。その意味でも、この映画は筆者には記憶に残る。
 国民党兵士だった夫リゥ・イェンション(リン・フォン)は上海港から台湾に逃げ延びた。そのとき、幼子を抱えた妻ユィアー(リサ・ルー)も一緒につれていくはずだった。しかし、敗残の兵士と、その家族でごったがえす港で遭遇できなかった。
 爾来(じらい)、ふたりは生き別れとなってしまった。
 40数年……そのあいだに、妻は共産党軍兵士であったルー・シャンミン(シュー・ツァイゲン)に助けられるようにして同居をはじめ、やがて事実婚の夫婦となる。そして、経済開放の時代に入り、台湾の資本を呼び込むようになって、おたがいの消息が判明する。台湾に逃れたリゥもまた、その地で結婚をしていた。その妻が亡くなったとき、離別していた上海の〈妻〉との「再会」を求めて上海にやってくる。
 リゥはもっと早く上海を再訪したかったはずだが、現在の妻への気兼ねがある。人間、なかなか思ったとおりには行動できない、しがらみの動物なのだ。
 食卓の箸は、そのしがらみをほぐすように、人生の綾を紐解いてゆく。
 渥美清さんの「寅さん」映画の象徴的なシーンは、葛飾柴又のトラ屋さんの食卓だ。あそこには慰安そのものがあり、対話があり情報交換の場であった。
 寅さんの旅の起点であり、終着地でもあった。
 家族が囲む食卓はかけがえのないコミュニケーションの場である。
 それは人類社会の普遍的な姿であったはずだ。それが歪になっている。愛の破たん、経済的困窮、政治的波乱……思えば、人類の歴史とは「家族」という共同体をよりよきものと発見し、それを育てた歩みそのものだった。そして、それを脅かすものへの抵抗史でもあった。
 「再会」の食卓を“主催”するのは、幼子を抱いて路頭にまようユィアーを助けた元共産党軍兵士だったルーである。彼の位置は微妙だが、これが大人(たいじん)だ。
 国民党兵士の女を救い結婚したために、彼の輝ける履歴は傷つき職探しに苦労した。出世もままならずという貧困も強いられた。そして、子どもたちが成長し、これからというとき妻を取り戻したいという男が現われたのだ。このルーを演じたシュー・ツァイゲンの演技が自然体でとてもいい。こんなお人よしがいるものか、という疑念も払われる。結末は書かないが、しみじみと夫婦のあり方というものを考えさせてくることだけは確かだ。
 東アジアの食の文化の中心は中国にある。
 その国で食卓の団らんが脅かされつづけてきたのが20世紀の歴史そのものであった。そのことがよく反芻できる映画だ。中国の現在は食卓で象徴できる、そういうことなんだろう。撮影所々長の言葉が思い出されたのも当然であった。   

ラテンアメリカの女たちは耐え、歌い叫び、そして詩魂を滾らせる

 ラテンアメリカの女たちは耐え、歌い叫び、そして詩魂を滾らせる



 木々のたたずまい
 そのおもざしは
 刹那のものだ

 1951年生まれのメキシコの現代詩人コラル・ブラーチョの「木々のたたずまい」(松下直弘訳・注1)。分け書きすると韻律が宿るが、繊細な感覚で切りとられた寸景は俳句の縁取りである。芭蕉の影響を留める。実際、ラテンアメリカには俳句に親しむ詩人が多い。ブラーチョはメキシコ現代詩のなかにあって斬新的で官能的な詩をかく女性詩人だが、意識的に紡ぐ短詩の世界には東洋的な観照、あるいは無常観が象徴されているように思える。もう一編、ブラーチョの短詩「インディオの声」(同訳・注2)を引用する。

 消えゆく
 声の痛ましさ 永久の
 深い声
 やがて消える やがて消える声
 われわれにとっては

 ブラーチョは自らの体内を流れる血に先住民の流露を知覚する。メキシコでは先住民とスペインなど西欧人との混血層をメスティーソというが、彼女は自分の血が子に引き継がれ、孫に受け継がれてゆくごとに先住民の血は薄まっていくのか、と問いかけている。
 ラテンアメリカ文学は「先住民」は欠かせない構成要素である。広大な大地を愛そうと思えば、先住民の女たちの血と涙を詠わずにはいられない。
 ラテンアメリカで最初のノーベル文学賞を受賞したチリの女性詩人ガブリエラ・ミストラルの詩「熱帯の太陽」(注3)。
ガブリエラ・ミストラル

 インカの太陽、マヤの太陽
 円熟したアメリカの太陽
 マヤ族、キチェ族が認め、あがめた太陽
 古のアイマラ族は琥珀のように
 その太陽の中で燃やされた
 決起する時、赤い雉になり
 和合する時には、白い雉となる
 人間と豹の血統を
 太陽は塗り、刻印する     
      
 ガブリエラの豊穣な世界をこの詩ひとつで象徴すべきではないが短い紙幅なので、あえてこれを選んだ。ガブリエラがここで歌い上げるのは広大なラテンアメリカを共通の文化圏としてとらえ一体感を希求する魂。そして、「人間と豹の血統」を太陽の恵みを受け絶やすことなく生命を育むのは大地の母たちである。
 広大な太陽と緑の地をひとつの文化圏とみなし植民地支配のくびきを解くことを自覚的に主張したのはキューバの詩人であり革命家であったホセ・マルティだが、ガブリエラはその志を引き継いでいる。しかし、その視座は女性〈性〉である。ガブリエラのノーベル賞受賞は同じチリの詩人パブロ・ネルーダに先行した。第二次大戦のあいだ中断を余儀なくされたノーベル賞の授与者の決定、授与式だった。戦火が止んだ1945年には、はやくも平和の到来を祝って授与式が行なわれた。ガブリエラへのノーベル文学賞は「新大陸」で最初の授与であった。しかも南の途上国の女性詩人が選ばれた。大戦後のあたらしい世界像が象徴されたのだ。
 
 ラテンアメリカの地に多くの女性詩人の名が刻まれている。涙や血の潤いで肥沃な地深く、それらの名は根を這っている。しかし、ここでは逐一、語るわけにはいかないのでひとりだけガブリエルから遡ること三百年、スペインの植民地であったヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の修道院で時代の桎梏から抜け出そうと足掻き、苦しみ、自死ともとれる奉仕と献身のなかで夭折したファナ修道尼ことイネス・デ・ラ・クルスについて触れておかねばならない。
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 私が幸福だということに致しましょう
 悲しい思いつきですが、つかのまのことですから
 あなたは私を説得することがおできになるかもしれません
 私はそうではないことを分かっているのでございますが
 不幸の原因はただ私の理性にあるのだと
 世間では言われていることを
 あなたが自分を幸福だとお考えになれば
 さほど不幸ではないでしょう
 時にはその理性が
 私にとって休息になればよいのですが……       ……(林美智代・訳)注4

 女性が高等教育を受けることが適わなかった時代、彼女は当時の学問センターであったカトリック教会で献身することを引き換えに新しい思潮を学ぼうとした。
 スペイン経由で送られてくる書籍や化学の実験用具で学び、同時代のメキシコにあって類いまれな叡智の人となる。詩人として彼女は名は残っているが、まず思索の徒であり、その自己表現の発露として劇作し演出し、音楽をつくり、天文学まで視野を広げた女子教育者であった。ラテンアメリカ文学史ではファナ修道尼の名と詩は「旧世界」から投げられる思潮に対する、「新世界」からの雄弁な応答として銘記される。
 しかし、あまりにも時代に先駆けて思索をめぐらせた彼女の知性、そのものが「異端」であった。まず、保守的なヌエバ・エスパーニャの教会から疎んじられ、まず書くことを禁じられた。つづいて書籍一切を没収された。精神の砦が破壊された。拒絶すれば異端審問の憂き目にあっただろう。そうして生きる意味を失ったファナ修道尼は不治の病者をあつめた病棟での奉仕に進み出ていった。前掲の詩はみずからの運命を時代の限界のなかで冷厳に見つめた静かな覚悟が静謐に語られている。
 ファナ修道尼が女性であるがため夭折の寝棺となった修道院には、グァダルーペの聖母像が祭壇に祀られていた。メキシコの守護聖母である。聖母の皮膚は「新世界」の先住民の肌を示す褐色である。
 アステカ帝国がエルナン・コルテス征服軍によって滅亡してから10年後の1531年12月、メキシコ市北部のテペヤックの丘に先住民男性の前に「聖母」が降臨し、奇跡を行なう。その丘には現在、グァダルーペ寺院が建っている。その奇跡譚を詳細に語れば一書になるものだが、ひとつだけ書いておけば、その丘はアステカ時代、神殿があったところでトナンツィン「神の子の母」と呼ばれる女神がすまうところだった。メキシコ先住民はトナンツィンの化身としてグァダルーペの聖母を捉え、カトリック教会はあくまで聖母マリアの降臨と解く。
 「新世界」にはじめて奇跡をもたらしたのはイエス・キリストではなく聖母マリアであった。女性〈性〉がまず選び取られる。それから500年、「聖母」讃歌は無数に生まれ、いまも歌い継がれている。それは詩、聖歌、俗謡、ロックの旋律にも〈顕現〉している。
 ラテンアメリカの詩を語るとき、いわゆる紙の上で表される〈詩〉は、歌われる〈詩〉の質量は替わらない。グァダルーペの聖母讃歌などはその典型である。
 ガブリエラの後、チリに民謡を採譜して旅し、歌ったビオレット・パラが出る。隣国のアルゼンチンにメルセデス・ソーサがあらわれ”大地の母”として詠った。そういう詩人がラテンアメリカの言霊をいつも清新に保つのだ。ノーベル賞の受賞を祝ってラテンアメリカ諸国はガブリエラを祝賀し歓迎の宴をひらくが、そうした場ではガブリエル詩は旋律とリズムを献呈されて「歌」となった。

 幸せと数々の夢想で眠れぬ夜ごと
 火の淫らさは私の寝床におりてこなかった。
 子守歌の産衣を着て生まれてくるはずだった子のために
 私の両腕をさしのべ 乳房をふくらませていたのに   
      ……「息子の詩」部分(注5)
 
 ガブリエラは教職者として生涯の大半を送った。そして、独身を通して死んだ。いくつかの熱愛は成就することはなかった。

 *注1、2 『現代メキシコ詩集』(土曜美術社出版販売)2004年
 注3、5 芳田悠三『ガブリエラ・ミストラル~風は大地を渡る』(JICC出版局)1989年
 注4 季刊『iichiko』2006年春号より。

*一昨年、大阪の詩誌の求めに応じて書き、掲載された原稿をブログに再掲載するに当たって若干、手を加えた。

          

富める国のユタカな矛盾、貧しい国で生命が脅かされる矛盾「リアル! 未公開映画祭」

「リアル! 未公開映画祭」
~富める国のユタカな矛盾、貧しい国で生命が脅かされる矛盾

≪昨年の暮れに書いたものだが、内容は“現代”を鮮やかにルポルタージュされた作品ばかりだった。すべて、DVDでも発売されているので、その紹介にもなるのでブログに採録することにしました。≫


 ドキュメント・フィルムが商業館のスクリーンになじまないのは仕方がない。志をもつ館主といえどもカスミを喰ってはいけない、従業員の生活がかかっている。集客がのぞめないフィルムはいつしか上映される機会もなくオクラ入りしてゆく。今回、「未公開映画祭」で紹介される作品9本はみな現代社会の雄弁な照り返しだ。「リアル!」と冠詞があるように、これが「旬」だと主催者は自負する。世界の現実、直視せよ、と提出した。
上映9作のうち7本が2008、09年に制作された新作といっていい。とても全作を詳細に語るスペースはないので筆者の関心にそって紹介したと思う。
まず本誌(月刊『ラティーナ』)の関心領域に沿って取り上げれば筆頭は、南米エクアドルのアマゾン地帯における油田の開発、生産によってもたらされた大規模な環境汚染を告発した『クルード~アマゾンの原油流出パニック』(ジョー・バリンジャー監督/2009年)となるだろう。
「アマゾン・チェルノブイリ」と呼ばれるほど大規模な環境破壊を米国の石油メジャー・シェブロンが引き起こした。シェブロンはむろん、自社の操業は環境を汚染しないように万全の態勢で取り組んだと主張し、アマゾンに住む先住民たちの告発を一蹴する。その先住民の先頭に立って闘うエクアドル人弁護士パブロ・ファルハルドを通し、訴訟の推移を追いながら環境汚染の実態を語ってゆく。9作のなかでもっとも地に這い、数年に渡って取材が試みられ、取材地域も広範におよび誠実さにあふれている。もっともシェブロン社は敗訴しても〈ねつ造〉というだろうが。110128Crude_filmstill.jpg

貧しく法律にも無知な先住民たちは汚染地域に住みつづけ、その子どもたちは病んで死んでいった。彼らには汚染と死の因果関係を調査する能力はない。泣き寝入りしつづけた。そこに地元出身で、かつてシェブロンの油田で働いたことのあるファルハルドは、このままほっておくことは良心が傷つくと一念発起、不退転の決意で刻苦勉励し働きながら大学に進み、法律を学び、弁護士の資格を取った。そして、シェブロンを告発するため先住民に対して啓蒙活動を開始し、集団訴訟を起こす。ファルハルドの物語として語っても説得力のあるフィルムは出来上がっただろう。しかし、これ以上の環境汚染、先住民の健康被害を拡大させないという第一義の目的がファルハルドの物語をサブ扱いにするが、その存在の重さは作品に奥行きを与えている。
多国籍企業の大半は商業的に利すると考えなければ、辺境になど進出し操業することはありえない。そして、より多くの利潤を生み出すため、その地の環境・文化など無視する。法で規制されたギリギリのことしか履行しない。不正を隠ぺいできるなら、法の網の目を潜り抜ける。この映画では経済活動のグロバリゼーションの矛盾を見出し、その典型的な多国籍企業の“犯罪”として、「アマゾン・チェルノブイリ」の現状を告発する。
『フロウ~水が大企業に独占される!』(イレーナ・サリーナ監督/2008年)もまた有限の水資源を独占しようともくろむ多国籍企業の横暴を告発する。
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ここでいう水とは「淡水」、飲料にできる人間の生存に欠かせない唯一無二の存在である。地球は水におおわれた「水球」だ。しかし、飲料に適した水はわずか3%に過ぎない。のこり97%は海水である。その3%を独占しようという水メジャーの横暴を告発した映画だ。
本作に先行する映画に『ブルー・ゴールド』があった。その直系の弟子ともいえる作品だ。水問題をめぐっては今後も世界各地から深刻な状況が報告されることになると思う。それだけ水をめぐる状況は地球温暖化ばかりでなく、有限であり人間の生活に必需という“商品価値”を有するためいま企業は地球大に利潤活動を展開している。その行為を追ったドキュメントだ。
 国境をまたいで企業活動を展開する資本は北の先進国に集中する。その先兵が米国資本ということなる。そのため米国経済は疲弊しているといわれながらも、基本的な物質生活そのものはまだまだ豊かだ。けれど、その豊かさをもってしても、心は安らいでいない。多くの市民が心の慰安を求め、救済されることを待っている。それも真実なのだ。そうした米国社会の寂寞たる状況はマイケル・ムーアのブラックユーモア的な巧妙な語り口で描かれつづけている。
もうけのためなら消費者の健康など無視する荒廃した実態をみつめた作品もある。
医療が「仁術」から「錬金術」になった現状を「出産」を通して告発する『ビーイング・ボーン~驚異のアメリカ出産ビジネス』(アビー・エスプタイン監督/2008年)などは背筋が寒くなる作品だ。
『ステロイド合衆国 ~スポーツ大国の副作用』(クリス・ベル監督/2008年)。筋肉増強剤として知られるステロイドが氾濫、使用が野放図に広がっている危機的状況を検証し、さらに即物的な「強者」のイメージづくりが目的化して、いつしか米国人が目指すべき理想像として奉(たてまつ)るようになり、それが対外政策にも影響を与えているのではないか、と考える。ステロイドだけでなく、さまざまな薬物が野放しになっている現状も語る。アフガニスタンやイラクで展開する米軍兵士のあいだに覚せい剤や、恐怖を緩和するために服用する薬物の話題には事欠かない。steroido.jpg

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キリスト教右派として大きな影響力をもつ米国の福音派教団はブッシュ前大統領の有力な支援組織だったが、その宗教的なドグマをひとつの福音派宣教会が主催した子どもためのサマーキャンプを通して描いた『ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト教原理主義』(ハイディ・ユーイング他共同監督/2006年)は必見だ。こうした教団の内側に入り込んで撮影されたフィルムは貴重だ。原理主義を悪いとも良いとも語っていない。事実をそのまま提出する。考えるのはあなた方だ、という態度だ。それが本作を陳腐な説教臭いものから救い出す。
 他に、脱北者たちの証言を通して北朝鮮の現状が語る『金正日花/ジョンギリア』(N.C.ハイケン監督/2009年)、ウガンダ内戦で6歳のとき少年兵として徴兵され、人殺しの道具として使われ幼くして地獄をみた体験をもつボクサー、カシム・オウマ(IBFジュニア・ミドル級チャンピオン)を追った『カシム・ザ・ドリーム~チャンピオンになった少年兵』(キーフ・デヴィッドソン監督/2009年)も見逃せない。
他に、世界一の巨大軍隊組織がいまもって拘束できない“悪漢”オサマ・ビン・ラディンを、個人的な思いつきから探しだそうと実際に行動を移しカメラをまわしたドン・キホーテ的な愚直かつ真摯な『ビン・ラディンを探せ! ~スパーロックがテロ最前線に突撃!』(モーガン・スパーロック監督/2008年)がある。かつてマクドナルドで食事しつづけると大変なことになるぞ、と自分自身を被験者として告発したドキュメントで一躍有名になった監督の作品だ。イスラム諸国を遍歴しながら、母国の“聖戦”の実態をあぶりだそうとした労作といえるだろう。    
 ▼各DVDは、アップリンクから発売されている。

映画『ヒマラヤ 運命の山』 ヨゼフ・フォルスマイヤー監督

映画『ヒマラヤ 運命の山』 ヨゼフ・フォルスマイヤー監督
ヒマラヤ

 昔、「山岳映画」と称するカテゴリーがあった。
 その草分けはドイツ及びオーストリア映画界で、彼の国の十八番といえるものだった。ドイツ語圏映画の象徴でもあった、古い話だが。
オリンピック映画の最高峰、というよりスポーツ映画の典型を造形したのがナチ・ドイツ称賛の五輪といわれたベルリン大会の記録映画『オリンピア』(1938)。無論、監督はレ二・リーフェンシュタール。彼女が映画監督となる以前、女優であった。それ以前は現代舞踊家として履歴を重ねていた。女優として主演した作品の代表作はすべて山岳映画だった。『聖山』、『死の銀嶺』、『モンブランの嵐』といった作品に出演し、やがて自らメガフォンを取るようになった。
 周知のようにレニがナチ党大会記録映画『意志の勝利』、そして『オリンピア』を撮ったことによって戦後、映画界を追われ、文化活動そのものまで封殺される“政治犯”扱いされる。彼女ばかりでなく当時のドイツ映画界はナチと深く関わっていたために映画そのものが疲弊してしまう。さしもの山岳映画の伝統も途切れた。それでもオーストリアは冬季オリンピックの英雄トニー・ザイラーを主演とする一連のスキー=山岳映画を撮って世界的なヒット作を制作していたが、ザイラーの衰えとともに停滞した。
『ヒマラヤ』の試写に接し、ドイツ映画界に伝統が再興した、と早合点するほど甘くないが、伝統の力は温存されている、と思った。しかも最新の技術によって高峰への登攀という臨場感が圧倒的な迫力を作りだしていた。むろん現地ロケである。テレビのスケールでは捉えきれない巨(おお)きなスクリーンによってはじめて実現する迫真性というものがあった。
 実話の映画化でもある。
 1970年6月、標高8125メートルをもつヒマラヤ山脈ナンガ・バルバット、世界最大の標高差4800メートルを誇るルバート壁の初登攀を果たしたラインホルト、ギュンター・メスナー兄弟の逸話だ。登頂は兄弟にとって少年時代からの夢であった。しかし、夢は達成されたが軽装備であったため下山行で遭難、弟ギュンター(アンドレアス・トビアス)は死亡する。この遭難によって下山への日数に手間取り、おなじ登山隊から遅れて登攀に成功した同僚たちに初登頂の名誉を奪われてしまう。そのため九死に一生を得た兄ラインホルトは手記を発表し、弟の名誉を称えつづける。自身も後年、独りでナンガ・バルバットの登攀に成功している。
 映画はその登攀の顛末を雄大な自然美のなかで展開するのだが、俯瞰もすれば仰角でも撮る。遠く眺望しているだけでは絵葉書の一葉としておだやかに感嘆していれられるが、そこを人智を極めて征服しようとすれば、自然は牙をむき出して人間の驕りを攻め立てる。その自然に果敢に挑む小さな人間、その無償の闘争そのものが山岳映画の見どころといえるだろう。原題は「ナンガ・バルバット」。主人公はあくまで山、高峰に象徴される自然ということだろう。
しかし、こうした映画を臨場感をもって撮るという行為は俳優もスタッフも登山の心得があり、過酷な天候、極寒に耐える覚悟をしなければ制作はできないだろう。また機材も過酷な自然に抗して耐えうるかという問題もある。そういう映画以前のこともいろいろ思ってしまう。
人間を峻拒(しゅんきょ)する自然のなかで人間のドラマをつくろうとする。その行為そのものもまた過酷な登攀への挑戦のようにも思えてくる。そのドラマを追うが本筋の映画だが、大きなスクリーンに身を委ねて自然を眺望しているだけで、ある種のカタルシスを覚える作品でもある。あえていえばプラネタリウムの星空に没我しているような心地良さだろうか……。
この映画の音楽スコアをアルゼンチン出身のグスターボ・サンタオラヤが書いている。自然への畏敬、神々しいまでの美、その讃歌というのだろうか、たとえば先ごろ公開されたばかりのスペイン=メキシコ合作映画『ビューティフル』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)ではバルセロナという国際都市に対する批評を試みていると思ったが、ここでは雄大な自然を畏敬するような敬虔な旋律も惜しまないスコアを提供している。サンタオラヤの映画音楽は近年、ますます冴えていると思う。     

 

大岩オスカール幸男の「廃墟」と、東日本大震災のイメージ

ブラジル出身の大岩オスカール幸男の廃墟のイメージ


黒い雪 送り用
 戦後移民としてブラジルに渡った両親の子として1965年にサンパウロに生を受け、1991年に東京に活動拠点を移し精力的な活動を展開し、12年後、米国ニューヨークに移動した画家に大岩オスカール幸男がいる。
 日本に12年滞在し繰り返し野心的な個展を開いたこともあって、日本にも熱狂的なファンがいる画家だ。最近、偶然なのだが1998年3月、東京・墨田区の現代美術制作所で開催された『VIA CRUCIS』展のカタログを開いて驚きとともに戸惑い、なにか肌がそば立つような衝撃を受けた。
〈3・11〉後、日本人は例外なく東日本大震災で惨酷な光景を眼底に焼き付けることになった。津波で次々と街が破壊され呑みこまれてゆく無惨至極な光景、波が退いた後の荒廃、そして廃墟と化し、死の沈黙におおわれた市街を眺望しつづけてきた。そればかりか福島第一原発が津波で被災し電源が失われたことから生じた災厄はいまも現在進行形で予断のならぬ事態と付き合わされている。
 原発の被災はとめどなく荒廃を広げているのだが、放射能の被害ということでは南関東の人間も等しく「被災者」のようなものだが、すでに慣れ、惰性が生じてきている観がある。原発に隣接していないし、放射能が目にみえないからどこか安穏としている。事態は深刻なのだが。必然、原発隣接地の荒廃はすさまじい。町や村から住民はいっせい避難し、町は無人となった。津波の被害を受けていない市街地に沈黙が固着した光景は不気味だ。そんな放射能が降りそそぐ町にもカメラが入り、住民の生活が中断凝結したシュールともいえる映像も繰り返し眺めてきた。それは、かつてチェルノブイリ原発事故後のウクライナやベラルーシの被災地を撮った写真や映像と重なるものであった。
 かつて、スラブの大地の悲惨は僻遠の彼方ともいえる場所で起きた惨事でしかなった……とそのようにしか、やはり見ていなかったことが、福島原発事故に遭遇して今更ながらに思う。福島原発事故の解釈にチェルノブイリの無惨さは大して役に立たなかった。そういう状況のなかで、大岩オスカール幸男の個展カタログを開いて衝撃を受けたのだ。

 大岩自身が東日本大震災や福島原発事故をどのようにみているか知らないし、かつて日本で描いた作品群があたかも〈3・11〉以後のニッポンの象徴的な光景を暗示・隠喩するような効果がある、とみてしまう私のような存在を意識しているかどうかも知らない。しかし、作品のいくつかを例示して大岩に指し示せば、彼自身がそれなりに首肯できるところがあるように思われる。
 たとえば『黒い雪』(1997)という作品がある。大岩自身「寒い国は白い雪、暑い国は黒い雪というイメージでサンパウロ郊外の家並を描きだした。その黒い雪は銃弾のイメージもあって、犯罪の多いサンパウロを象徴している」というふうに解説していた。
 日本人にとって、市街に降る「黒い雪」は、かつてヒロシマに被爆直後、降った「黒い雨」を連想させるものだ。寒い東北に降る雪は外見は白い雪でも、放射能に汚染された雪のイメージは灰色ないしは黒ではないか。『黒い雪』に限らず、個展に出品された多くの作品がいずれも廃墟、ないしは荒廃した現代光景を描いていて、一種の〈負〉の連環で成り立っているのだった。
 『赤いソファ』、『空気になる家』(いずれも1997)は無人となった家を描く。『赤いソファ』の光景はまるで原発事故で生活が突然中断された瞬間、その膠着そのものを描き出している、と説明されれば、そうだろうと思える絵だ。着の身着のままで避難した家人に放棄された家、散乱の光景がクライシスの象徴として定着されている。そういう絵はチェルノブイリで被災した子どもたちが「思い出」として描き、義援金を募るために制作された画集などに収録されている。
 大岩の絵は日本の家屋を描いているものがあるから、よりリアルに福島浜通りの無人の市街地のイメージに重なってしまうのだ。
 『ライト・ピット』(96)という絵。人気のない気配に、一部が壊れたまま放棄されている板塀をただ描いた作品。これもチェルノブイリの被災地でよくみられる光景であった。被災地から人の生活が遠退いて行き、福島のあちこちの市町村ではよくみられる光景となるように思われる。
 大岩が大震災、原発事故を予見して描いたわけではない、から「怖い」。明日を当たり前に迎えることを前提にきょうの営みがある……それが暮らしというものだ。そんな平凡さが呼吸しあい寄り添っているのが市街地であり村落だ。そんな暮らしの吐息が失われるとき、その廃墟は癒しがたいデスぺレートなものとなる。CGを巧みに使った近未来映画に描かれる廃墟は、かつての惨劇の敷衍である。そういうものとしてしか人は創造できない。そして、それは作り物だから安心してみられる。
 しかし、いま〈3・11〉を体験したあとでは、ドイツ・ロマン派たちが繰り返し描いた田園のなかの廃墟美すら胸に突き刺さってくるような痛みを味わってしまうものになった。
 さらに大岩の履歴に引きずられて書くのだが、2000年代前半に花の群生を繰り返し描き出す。その群生も『温室効果』(2001)であったり、放射能の影響かなにやら異形化した花の群生を思わせるものだったりするのだ(と見える)。色彩感ゆたかな絵なのだが、けっして居心地良く、素直に受け取れない。放射能を知らない印象派画家の花卉ではないのだ。
 広島・長崎が反核運動の世界的拡大のなかでヒロシマ・ナガサキとカタカナ表記されていったように、福島もまたフクシマとグロバール化してゆくなかで変質する土壌から芽ばえる花とも思えてくるのだった。
 やがて大岩の作品も虚心に眺めるときがくるだろう。
 そういう“慣れ”の季節もまた人間は確実に迎える。怠惰や忘却を嫌悪してはならない。悲惨を癒す精神作用としてそれもおだやかに受け入れべきだ。しかし、原発事故を視野に入れるとき〈3・11〉は根深く地に延び、しばらく日本人の胸奥を浸食しながら増殖しつづける。そして今日をいきる表現者は〈美〉の証言者として、その根を引き抜く作業をつづけていくはずだ。すでに仙台の若い作家たちが〈3・11〉と対峙しうる表現を模索しはじめているという報告もある。    
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