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第13回 全国こども民俗芸能大会

第13回 全国こども民俗芸能大会


 東日本大震災で福島県相馬市の相馬野馬追が一時、開催が危ぶまれた。一千年以上の歴史を持つ祭が中断か、と危惧された。津波で祭に欠かせない馬が相当数、海に流され溺死した。こんな時期に祭ks、と自粛を求める声も出た。筆者は、「こんな時期だから施行されるべきだ。伝統を絶やしては震災に負けたことになる。自粛など無用」といった趣旨の原稿を某紙に書いた。例年より規模を縮小したが無事、開催されたことを知って本当にうれしかった。
 自然災害は伝統芸能の敵だが、ほんとうに怖いのは、継承者の心の萎えだ。それを支えるために応援が必要なのだ。今年もまた夏休みの最中、「全国こども民俗芸能大会」が開催された。13回目を数えた。
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 今年の演目8本のトリを飾ったのは岩手県北上市の「鬼柳鬼剣舞」。岩手県内各所に遺されている鬼剣舞の一つだが、三陸地方の保存会のなかには貴重な衣装・装具を津波で浚(さら)われたところもあった。内陸の北上では無事だった。ステージでは、被災地・岩手の心意気を代弁するように子どもたちは誇りをもって舞っていた。
 千本木
青森県十和田の「晴山獅子舞」、群馬県伊勢崎市「千本木龍頭神舞」、石川県加賀市「敷地天神蝶の舞」、兵庫県養父市「葛畑農村歌舞伎」、高知県室戸市「佐喜浜にわか」。長崎県対馬市「厳原の盆踊」、そして海外からのゲストとしてロシア・ハバロフスク地方に住むウリチ民族芸能団「ホスタ」の子どもたち。「ホスタ」は、北海道アイヌ族と同じ北方民族としての近縁関係を検証するためもあったようだ。伝統衣装の文様にアイヌとの類似性を見出せた。もっともアイヌ族の民族芸能と比べるとより躍動的であるように思えたが、そこにソ連時代に移植されたロシア舞踊の影響があるように思った。
 各地に残る農村歌舞伎だが、兵庫県養父のそれは長らく途絶えていたものが平成15年に37年ぶりに復活して以来、今日にまで継続しているものだ。歌舞伎は小規模であっても総合芸術として大変、手間暇が掛る。これを地域で支えていくのは少数者のやる気だけではいかんともしがたい。地域社会の強い下支えがなくては継続などできない。その意味で義大夫節から三味線・鳴り物まで児童が見事にこなしていることに養父市民の熱意に敬服を覚える。むろん、そうした畏敬の念は他の伝統芸能にもいえる。伊勢崎の「龍頭神舞」では地域社会に生きる習俗と深く結びつき、日常生活の欠かせない構成要素になっているようで、演者の児童もまた地域の誇りをきちんと感得しているようにみえた。対馬の「盆踊り」は、男子が女装の着物を纏(まと)い優美にしなやかに舞いつつ、女性ではきつい所作をみせる芸。このような芸は各地にかなり遺されている。
 日本の伝統芸能はほとんど神事、つまり神社の奉納芸であり、おらが社を中心にして行なわれている。したがって自然災害で神社が損傷したり、流失すると祭はやむなく途絶することになる。東日本大震災の災害は巨大だったが、日本人のふるさとの祭りを愛する遺伝子までは破壊できなかったことを、「子ども民俗芸能大会」を通して再確認できたことを喜びとしたい。      
 *8月20日、東京神宮外苑の日本青年館で。
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書評『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』

書評
 『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』
       はらだ・たけひで箸

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 一編の詩が、数小節の音楽が、あるいは一枚の絵がその人の人生を決めてしまうことがある。映画もまた同じようなことが起こる。著者は冒頭で、ピロスマニとの運命的な出会いを絵と映画からどうじに体験した、と語る。
 コーカサスの小国グルジアの画家ピロスマニの生涯を描いた叙事詩的な映画『ピロスマニ』との出会い。それから33年後、日本ではじめてのピロスマニ伝を上梓した。評者もまた映画によって、その画家を知り、数年後、グルジアまで出かけ、画家が歩いたトリビシの町を散策している。その後、評者の視線はコーカサスから中米に移り、画家の絵もトリビシの思い出に埋没した。しかし、著者はそれからコツコツと資料集めを怠ることなく、素敵な本を書いてしまった。
 1862年にグルジアの農村に生まれたピロスマニは独学で絵を学び生涯千点とも二千点ともいわれる絵を描いた。しかし、今日まで現存している作品はわずか217点に過ぎない。推定制作数と現存数との極端な差はピロスマニの絵画が、画家の生前、どのような扱いを受けたか、死後もながいこと正当な評価を受けなかったことを示すものだ。
 アカデミックな場で学ぶことのなかった画家に遠近法の習熟はない。距離感は心象光景のなかで自在に変貌した。19世紀後半、芸術運動の前衛となったパリ、そしてモスクワからあまりにも遠く離れたコーカサスには彼の独創、芸術的価値を見い出す見識は存在しなかった。けれど、彼は描きつづけることができた。絵の価値なんてどうでもいい。そこにグルジアが描かれている。おれたちの日常、喜怒哀楽があり、癒しの祭がある。祖先を敬う歴史も描き込まれている。店に飾ろうではないか、看板にしようという民衆が彼を愛し生活を支えた。
 著者は画家との出会いから今日にいたる現代の激変を思わずにはいられない。
 ソ連邦は崩壊し、「80年代に訪れたグルジアはロシアより豊かだった。肉はあったし美味しいワインも飲めた」が独立して20年足らずで、「貧しくなった。ロシアとの戦争で荒廃したせいもあるが経済は疲弊してしまった」。北部の領土をロシアに奪われ、多くの難民が首都に流れ込んだ。けれどピロスマニだけは輝きを失わずグルジア人の心に生きている。 独立後、ピロスマ二の肖像は同国の紙幣や硬貨に刻印された。
 だが独立後、グルジアでは一冊のピロスマニ関係書も出ていないという。薄い小冊子がひとつ出ただけだという。ロシアと戦争したことで定期便もなくなりモスクワへの距離も遠くなった。ロシアから経済制裁を受けている。モスクワの美術館にあるピロスマニの絵にグルジア人はアクセスできない。
 しかし、グルジア人は今更、ピロスマニの生涯を掘り下げ、詳細な評伝を書こうとは思っていないようだ。みな自分たちの画家像を持っている。民衆の数だけピロスマニ像がある。それでいいじゃないか、と。
 簡便で淀みない文章は著者と画家とのつき合いの長さを感じさせる。「kれど、これも所詮。僕だけのピロスマニでしかないでしょう」と謙遜するが、入手できる限りの資料は網羅した、との自負もある。
 フツーに仕事も商売もできず家庭を営むすべもなく、けっきょく生涯、独身で過ごさなければならなかった画家は生活者として落第であっただろう。好きな絵を描くために貧しい画家は苦難に耐えた。けれど絵の具には、収入に見合わない高価な良質のものを使っていたことが判明している。そして、その絵の具は画家に親しい知人・友人が無償で与えていたことも分かった。押さえるところは遺漏なく書き留めている。
▼冨山房インターナショナル刊。2200円。
*余談だが、筆者(上野清士)の拙著『ソビエト新事情~ペレストロイカとリーボック』(旧題「国境の神々」)の第2部でピロスマニを訪ねたグルジア紀行を書いている。
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上野清士

Author:上野清士
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