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ハイチの大震災を忘れないための映画『ミラクルバナナ』

ハイチの大震災を忘れないための映画『ミラクルバナナ』

ミラクルバナナ
 東日本大震災後、そのほぼ一年前にカリブの小国ハイチの首都を襲った大震災のことは、たいはんの日本人の視野から消えてしまったはずだ。仕方ないことともにいえるが関心だけは失って欲しくないと思う。
 いまも数万の市民が劣悪な環境で暮らしている。西半球の最貧国といわれたハイチが自力で再生、復興できるほどの力はない。現にブラジルを中心に現在も多くの国が再生に向けた努力をしているが、見通しは暗い。
 日本からあまりにも遠く離れた小国だから情報も極端に少ない。で思いだした映画がひとつあった。2年前に書いたエッセイが出てきたので、ここに掲載しておきたい。すでにDVDになっておりレンタルしているので是非、観て欲しいと思う。ハイチの大震災を忘れないためにも。
   
  *    *    *

 中米グァテマラ、メキシコと一三年、暮らしてきた。その間、ラテンアメリカ諸国を繁く旅をした。けれど行きたい、彼の国の人と触れ合い人情、機微に接したいと思いながら未だ果たせぬ国がある。ハイチ。
 「輸出品は解剖教材の死体だけ」とまで比喩された極貧国。カリブ海にあってキューバ島に次ぐ大きなエスパニョーラ島の西部に位置する。一度、東部のドミニカからバスを乗り継いで国境を越えようと思ったが果たせなかった。陸路が可能ならバスか徒歩で国境を越えたい。人為的な国境ひとつで激変する異相は空からでは実感できない。
 そのハイチを舞台に日本で映画が作られた。『ミラクルバナナ』という。困難な政情にある国をモノトーンの色調で撮るのは容易だが、向日的なハイトーンで描くのは至難のこと。それを錦織良成という若い監督が実現させた。
 まがまがしいヴードゥー教が闇を支配し、悪辣な独裁者が民衆の生殺与奪を握る国というキーワードで欧米の映画制作者はハイチを描いてきた。西アフリカの精霊との交感を起源とするヴードゥー教を邪悪視するのは欧米人が途上国を見下す視点だ。錦織監督は何処に生きようが人間の生活には喜びも笑いも、そして涙も怒りもある、という単純明快な真理でハイチを見つめた。
 そんなハイチにも捨てるモノがある。収穫した後のバナナの太い茎。その茎から紙ができることを知った日本の女の子が悪戦苦闘の末、ハイチの子どもたちと紙漉きに成功するという爽やかな青春映画でもある。
 カリブではすでにジャマイカで商業化に成功したバナナ紙だが、ハイチではまだ商業化に至っていない。
 私が暮らしていた中米のカリブ沿岸地帯にはバナナ農園が広がる。そこの農民はみな貧しい。子どもたちも学校で使うノートに不自由する。そんな子どもたちが自分たちで紙を漉けたら、なんてハッピーなことではないか! 映画で実際、こどもたちが紙を漉く。材料づくりと手順を覚え、紙の厚さを気にしなければ、出来る! 外務省が海外公館に配布する現地語字幕付き映画の一本に推薦したい。熱帯の途上国で歓迎されるはずだ。もし、その国の人たちが映画をみて挑戦したいという意欲を示したとき、できるだけの援助をする。技術援助は地元のやる気がなければ成功しない。映画は、そのやる気を引き出す活力があると思う。
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映画『カリーナの林檎 ~チェルノブイリの森』今関あきよし監督との談話

映画『カリーナの林檎 ~チェルノブイリの森』をベラルーシで撮った
  今関あきよし監督との談話
 カリーナの林檎


 今年、チェルノブイリ原発事故から二五周年を迎えた。
同原発事故後、多くのドキュメンタリー映画が撮られたが、ドラマはなかった。11月、原発事故の放射能に冒された少女を主人公にした劇映画『カリーナの林檎~チェルノブイリの森』が公開される。
ベラルーシの首都ミンスクと、その郊外、そしてチェルノブイリで撮られた。全編ロシア語、日本人が登場しない日本映画だ。撮影から8年を経て、やっと一般公開されることになった。多忙のなか、今関あきよし監督に貴重な時間を取っていただいた。
               
 映画は2003年に撮影され、いったん完成されています。公開が遅れた理由を。
 「チェルノブイリ体験の風化でしょう。公開の目途が経たないまま歳月が過ぎましたが今年、事故から25年を迎えるということで採算を無視しても公開しようと思い昨秋、チェルノブイリの現状を見なければと取材し、それから再編集に入りました。その作業中、というより編集が終わった当日、仕事中に3・11に遭遇しました。何かの因縁を感じますね」
 映画は甲状腺ガンに冒され8歳で死ぬベラルーシの少女の日常を描く。実話を脚色したドラマだ。いまもウクライナやベラルーシ、ロシアの病院に幼い子どもたちが運び込まれている。
 「映画にはセシウムとかシーベルトといった専門用語、放射能汚染を数値化する数字などはいっさい登場しません。カリーナの視点から原発の恐ろしさを描きたいと思ったからです。親子で観てもらいという思いもあった。カリーナのふだんの生活を写すなかで日本の子どもも同じ視点を獲得できるはずで、その少女が日々、体内に取り込んでしまった放射能が原因で日々、確実に冒されていく。死への過程であることを描こうと思ったのです。そういう怖さを描きたいと思ったのですね」
 カリーナは原発を『毒を撒き散らす悪魔のお城』と語る。
 福島第一原発も「悪魔のお城」になった。映画の撮影はベラルーシ。チェルノブイリはウクライナにあるが北へ吹いた風に乗って隣国ベラルーシの大地がもっとも激しく汚染された。
 「ミンスクに行って俳優探しをしているときに、地元で原発事故をテーマにさまざまな視点、角度から演劇活動をつづけているセミプロの演劇集団が存在していることを知り、その俳優さんたち、スタッフの協力を得ることができたんです。幸運だった。撮影しながら俳優さんたちに土地の習慣・風俗などを教えられ、その都度、演出を替えました。おかげでシナリオ以上のできばえになったはずです」 
 昨年、公開を前提にチェルノブイリに捕捉取材をしていますが、現状はどのようなものですか?
 「ガイガーカウンターを購入して入りました。針が振り切れるほどの汚染現場にも。でもいちばん驚いたのは廃炉にむけた作業員を中心にいまも三千人が働いていること、その作業員たちが住む町が新たに建てられ駅までできていることでした」
 監督は3・11以降、幾度か福島入りした。今後も持続的な取材をするという。
 「チェルノブイリの取材のために購入したガイガーカウンターが日本で役に立つとは思っていなかった。どういうかたちになるかわかりませんが」いずれ映画にしたいと語る。
 いま『カリーナの林檎』の公開要請が全国から寄せられている。「沖縄の離島からも…」が監督は率直に喜べない。「福島の原発事故が深刻であればあるほど、私の映画は注目されてしまうわけですからね。そんな、つもりで制作した映画ではなかったのですが……」。映画は三・一一以後、独り歩きをはじめた。
 
 ▼ドイツの反核映画3本
 ドイツには現在、17基の原発が稼働しているが福島第1原発事故後、国民の反原発運動に呼応し政府は二〇〇二年まで全廃することを決定した。そんなドイツの反原発運動に連動して制作された近作映画が日本にやってきた。いずれも秀作なので紹介しておきたい。
 イエローケーキ
『イエロー・ケーキ』(ヨアヒム・チルナー監督)がもっとも注目される。原発の稼働に欠かせないウランの発掘現場の歴史・現状を求めてアフリカのナンビア、オーストラリア、カナダなどを取材した記録。環境汚染、労働者を蝕む実態などを克明に描いたものだ。先進国の原発もウラン鉱で働く労働者の犠牲、ふたたび戻ることのない自然破壊を犠牲にして成り立っていることを告発する。『第4の革命』(カールA・フェヒナー監督)は再生可能なエネルギーを求め、原発に替わるプロジェクトを紹介し、『アンダー・コントロール』(フォルカー・ザッテル監督)は原発内部にカメラを持ち込み、その実態を冷徹に見つめた作品。いかなる労働現場もその「社会」独特の権力機構があるものだ。そうした背景まで踏み込んだ映画だ。
 3作の予告編など詳しい情報は、http://kokucheese.com/event/index/17316/ 。

チェ・ゲバラを描いた長編叙事詩

チェ・ゲバラを描いた長編叙事詩
  二部作「28歳の革命」「39歳 別れの手紙」 スティーヴン・ソダーバーグ監督
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 子どもの頃の人気番組では主題歌に「正義」という言葉が輝いていた。
「正義だ力だ」というフレーズがあった。ぼくも含め、当時の子どもたちは「正義は力なのだ」という明快なメッセージを率直に受け入れていた。たいがいのヒーローは時代に捨てられていく。新スターに放逐されてゆく。気がついてみれば、「正義」という言葉まで力を失っていた。
 焦土のなかから戦後の映像文化をになった人たちは皆、戦争の惨禍を目のあたりにした世代だった。「正義」はそういう世代の祈りであったと思う。その世代が一線から退いたとき、「正義」もなんとなしにくすみはじめたのだ。「正義」はたえざる努力で磨きつづけないとくすむものだ。
 いま、世界を見渡せば弱肉強食そのものの不正義が紊乱(びんらん)している。それは子どもたちも肌で感じていて、教科書のキレイ事がそのまま社会に反映していないことの矛盾を熟知している。ノー天気に「正義だ力」だと歌えないのだ。
 没後40年を経てもなお清新さを損なわずエルネスト・チェ・ゲバラは現代史の汚濁のなかから飛翔する。
 映像、歌、写真集、評伝、あるいは記念碑や記念切手、Tシャツやバンダナまでチェは表象化されつづけている。いまラテンアメリカでもっとも色あせているのがコロンブス像だが、チェの像だけは新たに立ち上がる。コロンブスは施政者が税金を費やして建てたものばかりだが、チェの像は浄財、民衆の希望の寸志として差し出された小銭の集積の証しとして、それはある。民衆はチェに色あせた「正義」の蘇生を託している。
 チェの思想と行動を「正義」で括ることはオプチミズムだが、彼の短い生涯を振り返るとき、どこかに「正義」という二文字がいつも立ち上がってくる気配を感じる。「正義」は数値化できない。カタチあるものとして指し示せないが、民衆の想像力は豊かだ。かれらは伝説という雄弁な手法で「正義」を象徴化する。時空を超え。それを信じたいという大衆信仰の希求はそこに救世主像を縁取る。

 スティーヴィン・ソダバーク監督は、ベニチオ・デル・トロにチェを彫琢して、1部「28歳の革命」132分、2部「39歳 別れの手紙」133分、総尺265分、4時間40分強という映像による記念碑を建てた。
 これまでスクリーンに投影されたチェの劇映画は3本ある。しかし、ソダーバーク=デル・トロの新作は質量がまったく違う。木偶の坊のようにただ巨きいというだけでない。チェの生きざまを刻む刃先の彫りが深いのだ。
 全編スペイン語で通される。2部で顕著なのだが、ボリビア山中のゲリラ部隊の齟齬をカリブ・キューバとボリビアのイントネーションの違いのなかにも見出せると演出して、きっち使い分けている。これはスペイン語族にもじゅうぶん説得力がある。これまでチェ映画でじゅうぶん語れることがなかった国連総会での演説、米国入りのエピソードなどが念入りに撮られている。
 チェの演説ということでは、ソ連も帝国主義的収奪を行なっていると指弾したアルジェリアでのそれが重要であるはずだが、本作では国連議場でのエピソードに当時の国際関係の影を見つめる。革命戦争における関が原だったサンタ・クララ戦は念入りに描かれる。大変巧妙に女性兵士アレイダとの同志的信頼が恋愛に移調してゆくさまを硝煙くすぶるなかで語る。
 国連総会のセット、サンタ・クララ戦などは、これまでのチェ映画とは制作費が格段に違う、と納得させるところだ。
 1部は物語のサイズであるシネマスコープで上映されるが、2部はよりドキュメント性を高めるためビスタサイズに縮小する。
 チェの『ボリビア日記』を原作とする2部は、緒戦の小さな勝利を除けば、ひたすら後退につぐ後退、絶望的に困難な戦いの日々を描いて陰々滅々たる色調である。この2部は、日本で公開されることのなかったアルゼンチン映画『エル・チェ』(1997)とほとんどシュチエーションが同じだ。アルゼンチン映画はさらに陰鬱な気配は濃厚だった。
 ソダーバークは英雄としてのチェを描いていない。生身のチェにどれだけ迫れるかとストイックな演出は2部で冴える。人間は追い詰められるほど本性が顕わになるとしたら、ボリビア戦は人間探求のすぐれた素材である。そう、そのチェを演じたデル・トロを賞賛しないわけにはいかない。20数キロ減量して臨んだデル・トロのチェは、〈正義〉に鷲づかみされ、肩から肉が殺ぎ落ちた焦燥まで演じきっていた。そう2部に役者としての傾注がある。
 チェ没後、最初の記念すべきチェ役はオマー・シャリフが務めた。『アラビアのロレンス』でベドウィンの若き頭領を演じて一躍、頭角をあらわしたシャリフは先行するチェ像を描き出した。1969年、チェが死んで実質1年ほどして制作された『ゲバラ!』(リチャード・フライシャー監督・原題「チェ」)だった。この映画でカストロ役をジャック・バランスが演じた。たぶん、この二人がキューバ革命の主人公たちを演じたことによって英雄像のパターン化がはじまったと思える。映画『ゲバラ!』はあまりにも性急に創り過ぎ歴史的検証も荒蕪のままに挿話を繋ぎ合わせた流れの悪い作品だった。しかし、シャリフとバランスはそのなかでも俳優として最上を目指そうと奮闘努力していたことは確かだった。社会派フライシャーもゲバラの視線の先に、貧農の絶望を捉えていた。キューバ政府にとっては赦しがたい作品であったはずだが、それでも、ボリビア辺境の農民とゲバラたちのあいだにフライシャー監督は臭覚的に感情の齟齬を見い出し、そこに敗残の軌跡を追ったという意味では見逃せない。
 「ボリビア日記」そのものである2部の克明さに比べると、1部は粗い。
 メキシコ市でのチェとカストロの出会いからはじまり、グランマ号からの上陸の際、待ち伏せで攻撃で半数以上の同志を失った戦闘は削られ、山中に根拠地をつくるところまで飛ばされ、幾つかの戦闘が繰り返されサンタ・クララ戦が山場となり、革命政権の代表として国連総会に乗り込むといったふうにエピソード時系列な説明的な映画となった。ソダーバーク自身、
 「最初は、ボリビア時代に焦点を絞った。皆があまり知らない時期だし、ボリビアにおける運動の結果の詳細もあまり知られていないからね。でも、それを描こうとすると、キューバで何が起きたのかを見せないと、ボリビアで起きたことの意味が分からなくなり、文脈を失うような気がした」 という語っている。
 つまり、1部は2部の序章、説明的になることを自明として制作したと監督自身、認めているのだ。まったくの別の作品として見てくれと主張しているようだ。しかし、観客はそうはみない。4時間40分の一篇の作品として記憶する。
 午後の時間を捧げてデル・トロ=チェと付きあった後、しかし、これでも描き切れていないな、と正直思った。あれが足りない、これも足りない……アフリカのチェ、プラハのチェ、国立銀行総裁としてのチェ、あるいは革命直後の軍事裁判における冷酷無比なチェ……。たった39年だ、彼の生涯は。密度濃く生き抜いたかといって、それが人間の美質を証明するとはかぎらない。
 ゲリラ兵士は例外なく歩兵である。歩き、匍匐し、倦まず地を噛む兵士である。そうして、歩きつづけることによって勝機を探る。ゲバラもまたぜんそくに苦悩しながらひたすら歩きつづけた。
 映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督)でも最初はボロのバイクでの旅だが、それもオシャカになって歩行となって民衆の肌と触れ合うのだ。グァテマラで革命政権のボランティアとなって歩き、米CIAの介入で革命政権が崩壊すると北のメキシコに逃れ、カストロ兄弟とであう。キューバではシエラ・マエストラ山中をひたすら歩き、戦線を拡大してゆく。革命成功後は、新政権を代表して国際会議で演説し、ときに砂糖を売り込み、その代価としてトラクターを機械を購入しようとする。歩行は世界大にひろがり、そしてボリビア山中のわずかな点も確保できずに敗退した。
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 最後になったが、1部ではシルビオ・ロドリゲスが、2部ではメルセデス・ソーサが主題歌を歌っている。ともに旧作だが、プレスシートはこの二人にまったく言及していない。
ラテンアメリカ民衆から尊敬すら勝ち得ている二つのあまりにも巨きな恒星に触れていないのだった。このあたりはこの国のイビツな音楽状況を象徴してあまりある。本誌の読者なら筆者の憤りは理解していただけると思う。
 シルビオはCD時代になってから日本では一度もまともな紹介が行なわれていない。ブエナビスタの老人たちはキューバ音楽史のなかで特筆される存在であることは間違いないが、シルビオのその位置はラテンアメリカの民衆歌の歴史において国境を超える大きな影響力をもった。そう“大地の母”たるソーサとどうように。この二つの巨星は、歌の力でゲバラを伝説化した。チェの理想を歌で象徴したのだった。ソダーバーグはそのふたりの現代史における証言者的位置を知悉するから1部と2部の結語として、それぞれの歌を配したのだ。そこまで読み込める映画批評家はこの国にはいないようだ。                 

東日本大震災に取材した映画2作『大津波のあとに』『槌音』

東日本大震災に取材した映画2作
  『大津波のあとに』『槌音』・・・有無をいわせぬ被災地の重い現実を描く

   *活字媒体での紹介だと11月19日からの上映には間に合わないので、ブログを先行させた。
    

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 東日本大震災をめぐって今後、長年に渡って、さまざまな表現分野で多くの「作品」が生み出されていくだろう。阪神淡路大震災はいうに及ばず、三陸津波、伊勢湾台風、関東大震災・・・同時代を生きる表現者は描くを強いられる。
 すでに仙台の若いアーティストたちが「3・11」めぐるインスタレーションを試みているし、写真家たちは援助資金のカンパニアとして自作を提供した写真展も開いている。いくつもの詩が書かれてもいる。ここに新たな2つの記録映画が加わった。
 ひとつは、被災から12日目に仙台入りし気仙沼まで約10日にわたり車と自転車で走り回って取材された森元修一監督の『大津波のあとに』(74分)と、故郷の岩手県大槌町が津波に呑みこまれた後、2週間後、入り、かつて大槌の日常、祭りを撮ったプライベート映像と被災後の町を対比的に描いた大久保愉伊監督の『槌音』(23分)。ともに二人にとって処女作となる作品のようだ。大久保監督は24歳だ。そして両作とも被災地の現実そのものが訴求力となっている作品だ。
 いま、津波によって破壊された福島第一原発が日々、広範囲にわたって放射能汚染をつづけているという現状を横目にしながら、こうした映画に付き合うのは日本人なら誰でもしんどい。けれど、この時代に生きることを避けられない日本人として、こうした記録映像を観ろ、とは強いないが記憶はすべきだろう。幸い被災することなく平穏な日常を過ごす一人として、被災地へなにがしかの思いを伝える糧となるはずの映像である。
 『大津波~』は仙台市若林区の被災地を自転車で走りながら撮りつづけた映像からはじまる。有無をいわせない臨場感だ。瓦礫の山、崩壊した家、山積するあらゆる種類の残骸、ひしゃげた車・・・人気のない被災地を途切れることなく撮りつづけ津波の破壊力のおおきさを刻みつづける。こうした長まわしの映像は映画の特権だ。簡便に要領よく各地を取り上げようとするテレビの報道番組では試みられない手法だ。むろんナレーションもなにもない。それでも雄弁な説得力がある。
 それは『槌音』でもいえる。かつての賑わいがたった数分で根こそぎ奪われた事実。映画の大きなスクリーンには破壊の細部まで映し出される。臨場感を味わうという傍観者的態度ではなく、あらためて破壊の大きさ、被害の甚大を理解し、そして、その巨大な破壊力が、堅牢かつ安全と喧伝されてきた原発を赤子の手をひねるように損壊させたのだ。そういうふうに想像させる。原発被災地に入ることができない、われわれはこうした映画を通じて、想像力を磨かねばいけないのだろう。
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▼11月19日から25日、12月1日、東京・渋谷のアップリンク・ファクトリーで公開。問い合わせ、☎03-6825-5502。

 ボブ・マーリィの没後記念イベントがハバナで

 ボブ・マーリィの没後記念イベントがハバナで

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 今年はレゲェをグローバルシーンに押し上げた最大の功労者ボブ・マーリー(1945~81)の没後30周年。36歳で脳腫瘍を悪化させ夭折した。脳腫瘍、天才らしい死だ。葬儀はジャマイカ国葬で行われた。
 自慢ではないが筆者はボブ・マーリィとウェラーズのステージに中野サンプラザホールで二度接している。その精力的で疲れ知らずといった圧倒的にパワフルなパフォーマンスに感嘆したことを昨日のことのように思い出す。
 日本で記念イベントがあるのかどうか知らないが、同じカリブ海の隣国キューバでは没後30周年記念コンサートが10月22日に開催される。しかも、イベント会場もハバナのベイジャス・アルテ劇場だ。
 ボブが健在だったジャマイカで、彼と拮抗した人気と実力を誇っていたのがジミー・クリフ。全盛期のジミーが主演した初のジャマイカリングともいうべきジャマイカ英語で貫徹させた映画『ハーダー・ゼイ・カム』(1972年)は印象的なシーンで終わる。ジミーが演じるのは首都キングストンのスラム街を根城とするストリート・ギャング、チンピラやくざ、か。瀕死の重傷を負ったチンピラは、ジャマイカには絶望しかないと海に泳ぎだし、たどり着けるはずもないキューバを目指すのだ。「自由を求めて」・・・。
 けれど、当時のキューバはジャマイカ生まれのカリプソの愛好者はいてもレゲェに親しむものはほとんどいなかったはずだ。冷戦時代の渦中にあったキューバではビートルズすら自由に聴ける雰囲気ではなかった(チェ・ゲバラがプラハ郊外の温泉で療養生活を送っていた頃、ビートルズを聴いていたという記録はある)。
 レゲェがジャマイカから旧宗主国のイギリスに出て、そこから世界制覇されたレゲェには冷ややかだった。そんなキューバも様変わりした。キューバでも若者を中心に隆盛を誇るレゲトンとの基層にレゲェがあることを知れば、アカデミシャンもボブに敬意を表さないわけにはいかないだろう。
 ハバナの記念イベントに先駆けて記念アルバムも制作された。
 キューバのロベルト・ガルシアがボブのヒット曲を編曲しソン、ルンバ、ヨルバ、チャチャチャなどのリズムを取り入れたいかにものキューバ・ブレンドで構成したものだ。むろん、キューバのアーティストが歌い演奏する。そのお披露目の機会ともなるのが10月22日の記念コンサートだ。このコンサートにはジャマイカ移民の多いカナダからもレゲェ・アーティストが数組参加するらしい。レゲェは米国を飛び越えてカナダに移植されている。米国ーキューバ間に定期便はないが、カナダーキューバ間に定期便が存在する。そのあたりの事情もあるようだし、カナダ人にとってキューバは避寒のリゾート地でもある。
 アルバムにはボブの大ヒット曲「ノーウーマン・ノークライ」「コンクリート・ジャングル」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などが収録されているという。
 キューバはカリブ圏の音楽を体系的に研究する土壌があり、その成果は出版されている。そうした著作ではレゲェをジャマイカ労働者階級、農民たちの民間宗教との関わりにも言及し、ラスタファリズムとの融合も説かれている。しかし、キューバの若者はボブたちの初期のレゲェを通り越して、レゲェを母体とするレゲトンへワープしてしまった。今回の記念イベントをきっかけにキューバでもボブやジミー・クリフなど“古典”レゲェの魅力に親しんで欲しいものだ。


地震・津波の後に起きたこと~東日本大震災の被災地を歩きながら

地震・津波の後に起きたこと
  ~東日本大震災の被災地を歩きながら
   
 巨(おお)きな自然災害に遭遇したり、目(ま)のあたりにしたとき、人は自問せざるえない。
 人間にとって自然とは何なのか、と。
 3月11日以降、日本人はその受け止めかたの軽重の差こそあれ、自問自答を余儀なくされた。
 津波の後に破滅的な福島第一原発事故による放射能拡散は、人間にとって地球は掛け替えのない生命船だが、地球は人間など乗船しなくても、それ自体、生きつづける存在であることを思い知らせた。
 地球は人間を有用とみなさない。しかし、人間は地球なしでは生き延びることはできない。
 掛け替えのない地球号を破壊しつづけ、際限なく奢ってきたことのツケが原発事故に集約されたようにも思える。
▼三陸の被災地で
 8月上旬、岩手県一関市から車で三陸海岸に向かい、被災地の気仙沼、陸前高田、そして大船渡を回ってきた。
 地震直後には、千葉県浦安市で起きた液状化の被災状況を森閑と沈黙する東京ディズニーランドを横目に歩いていた。
 東北の被災地へは北海道奥尻島出身の詩人・麻生直子さんが同行者だった。
 麻生さんは、1993年7月12日、北海道南西沖地震で故郷が被災した後、被災した島の子どもたちと交流を深め、奥尻のために詩を書きつづけた。その一篇は奥尻島に詩碑として建つ。
 高齢の麻生さんが東北の被災地に行きたい、行かねばならない、行って歩かねばいけないという渇望は3・11直後から芽ばえていた。しかし、交通機関が途絶し、今更、満足なボランティア活動などできないとわが身を思い控えていた麻生さんだが、筆者が車を運転しともに取材するということで東北入りを決断したのだ。 
 麻生さんは奥尻島の被災地、復興の歳月、復興にともなう人の欲の醜さもみてきた。
 人ひとりの悲劇の重さは計り知れない。それを思うと今回の大震災を数行の詩で形容することなど到底できないと思う。
 復興、と語ることはたやすい。しかし、奥尻でみてきた人の営みの困難さを思えば、復興に要する歳月の重さに慄然とする。 復興がいくら困難であろうとも、子どもは成長しつづける。
 親兄弟を亡くした子ども、故郷を離れざるえない子どもたちのことを思う。
 心のうちを適格な言葉で訴える手段をもたない子どもに替わって、言葉を持つ詩人の役割を探る。それがいまを生きる詩人の義務であるかも知れないと麻生さんは考える。
 麻生さんは奥尻が津波を受けた後、被災した子どもたちに向かって次のような詩を書いた。

 ふるさとは
 ひとすじの白い流れ
 生まれたての蝶のように
 わたしのいのちのはじまるところ
 まだ誰も生きたことのない
 わたしを生きる
 未来の風がふくところ

 この詩は、そのまま今回の地震で故郷を奪われた子どもたちに贈る詩となるだろう。
 筆者にとっても三陸海岸は懐旧の地だ。二十代の私の生活にとって、その一部を支えてくれた実益の町でもあった。それが麻生さんに同行した最大の理由だ。
 二十代の過半を筆者はサラリーマンとして過ごした。営業マンだった。その管轄エリアが東北六県で、三陸海岸には数か月に一度、ほぼ四年通った。
 その町の面影が津波によって破壊された。特にひどいと思ったのは陸前高田の惨状だった。景勝地の高田松原はたった一本の松を残して掻き消えていた。町そのものがまっさらに消滅していた。その荒廃には麻生さんも言葉を失った。海そのものが市街地、いやかつて市街地が存在した場所を貫いていた。それは海の浸食・占拠といった暴力的な光景ですらあった。松原の砂浜すら失われていた。浜のたいはんが沈下した。
 気仙沼の復興・再建ぶりは早いと聞いていた。しかし、それは地場の産業を守るための漁港と市場の整備、離島への船着き場がある周辺だけで、過半の被災地はほとんど手つかずの状態だった。大型漁船が街路に鎮座したまま錆まみれとなり、あらゆるモノが混濁した瓦礫が山をなしている。野積みされた廃車の山積には愕然とする。無惨に変型した車体の多くは、それを運転する人、そして助手席や後部座席に座った親・兄弟姉妹、幼な児の生命を途切れさせた寝棺となっただろう。
 鳴き砂で有名な大島にも船で渡ってみた。
 大島の船着き場も沈降していた。港に面した土産店や休息所は崩壊していた。観光の島でもあるから、土産物店が再建されない限り、とうぶん遊覧客も誘致できないだろう。船着き場の周辺はまだ瓦礫が放置されたままだ。取りあえずライフラインを守るため船着き場周辺を最優先に整備しただけという感じだ。
 気仙沼・陸前高田、大船渡とつなぐ道路から小さな入り江の集落が見える。むろん被災の地だ。そうしたところはニュースの画面には登場しない。津波はそうした小さな集落を縫って走り、生活を貪欲に呑みこみながら、県道をまたいで山裾をせり上がった。多くの山の木をなぎ倒していた。そのありさまを写した映像は残されていない。
 歴史上、今回の震災ほど映像を遺したものはない。
 押し寄せる津波、破壊される市街地、さらに人を呑みこんでゆくの様子が記録されたことはない。
 阪神淡路大震災でも多くの映像が遺されたが、その比ではないだろう。携帯電話でも手軽に動画が撮れる時代になってからはじめての大震災であった。それでも規模の巨きさ、広範囲に及んだことを思えば、比較量として遺された映像は少ないということになるだろう。そういうことも現地を訪れてみれば良く分かる。
 映像記録のない被災地、人の命がおびただしく奪われ、証言者が失われた地域の瞬間を記す作業は詩や小説、文学や絵画の領域であり、創造者の真摯な想像力なのだ。麻生さんはそれを知るから筆者の同行を要請した。
 麻生さんが言うには詩の世界でも震災を謳った作品がすでに多く書かれているという。
 「けれど、たいていテレビや新聞を材料にして書いているだけ。私にも依頼があったけど、現地を見ないと書けない」と断ったという。
 文学の世界にも手を抜く人がいる。そして、国会のなかにも党利党略の観点からしか大震災をみない輩がいるように思えてならない。福島第一原発事故後、優良な天下り先が失われたと慙愧した役人たちも多かったはずだ。
 海と市街地の境目が失われた陸前高田の廃墟に立った時、「ここに国会議員を全員連れてきたい」と思った。ここに来て、冠水した廃墟を歩けば、政権与党、いや三宅坂で見苦しい政争などやっている暇はないことだけは自覚されるように思った。

▼歴史のなかの大震災
リスボン大震災の様子を描いた当時の版画
 1775年11月1日、ポルトガルの首都リスボンが大地震に襲われた。
 フランスでジャン・ジャック・ルソーが思索し、ドイツでゲーテが創作し、モーツァルトが天上の音楽を奏でていた時代だ。大西洋の向こうではアメリカ独立戦争がはじまった年である。
 当時のリスボン市の人口は約二七万人であった。地震と津波によって五万六千から約六万人が死んだといわれる。壊滅的な被害を受けたのだ。
 現在のように科学的に地震規模を量る尺度はなかったから数字は犠牲者の数で象徴されるだけだ。今日の研究で推定値をマグニチュード9・0と算出している。
 北はスカンジナビア半島から南はアフリカのモロッコまで揺れたことは資料に遺る。
 津波を受けて機能不全となった福島第一原発事故後、世界中で原発の存在を危惧する世論が高まった。
 ヨーロッパではドイツを中心に大規模な反原発行動がわき起こった。原発大国フランスでは原発敷地内で事故が発生した。幸い放射能が漏れ出すといった重大事故にはいたらなかったが、完璧に「安全」ということはあり得ないことが実証された。西ヨーロッパでもリスボン大地震のような巨きな自然災害が起こりうることを知れば、この地もまた危うい。
 現在、ポルトガルには原発は存在しないが隣国スペインには8基の原発が稼働している。フランスは59基である。ベルギーにもオランダにもある。もし西ヨーロッパのどこかでリスボン大地震級の災厄に見舞われれば、西ヨーロッパは放射能汚染で壊滅する可能性が高いのだ。誰がヨーロッパで大地震が起きないと言えようか。
 リスボンが壊滅的被害を受けたことを知ったルソーは書いている。
 「わたしたちの言うがままに、世界の秩序は変えられなければならないというのか。わたしたちの法に自然が従わなければならないのか。わたしたちが都市を建設した場所では、地震を起こすことを禁じるというのか」と。
 いまルソーが生きていて福島の原発事故を知ればなんと語ったか。母国に林立する原発をどのように考えたであろうか? 
 ルソーは地震が不可避であることを認識しながらも、「この地上で火の使用法を心得、太陽の力を感嘆できる動物が人間以外にあったら示してもらいたい」と語り、人間の科学にたいする叡智を賞賛している。しかし、そこに原子力の存在はない。もし原発の危険性を知りえたルソーがいたとすれば、北半球を覆う原発の林立をなんと語っただろうか?

 今回の大震災受け、さまざまな法案が作成され施行されることになった。大規模災害はその都度、関連法律を更新させる。
 今日の「災害対策基本法」と呼ばれる「防災体制」の基盤が成立したのは1959年9月26日、名古屋市を中心とする愛知県、近隣の三重、岐阜両県を襲った伊勢湾台風の被災以降のことだ。
 伊勢湾台風は阪神淡路大震災以前、戦後日本が体験した最大級の自然災害である。
 死者469人、行方不明401人、負傷者38921人というのが人的被害の内訳である。これを受けて「災害対策基本法」への足がかりが作られた。
 また、伊勢湾台風の災害救助を目的として自衛隊は陸上だけで約100部隊、延べ63万、陸海空合計で延べ74万人を全国から「災害派遣」することによって、それまで憲法との整合性を得られず、日陰的な存在であることを強いられてきた“軍隊”が国民に認知される契機となった。駐留米軍もヘリコプターを飛ばし多くの被災者を救出する活動を展開した。
 今回の大震災では自衛隊に加え、米国の「友だち作戦」による大規模支援体制が布かれ、大きな成果を上げたことは事実として認めなければならない。
 米軍の支援は不可避であったし、その救助活動そのもの献身性はなんら疑うべきものではない。しかし、こうして日米同盟がより強く根を這ったという事実は認識しておかねばならない。これに対し、ロシア空軍は領空侵犯ギリギリのところまで監視飛行を繰り返し、米軍と自衛隊の協力体制の実際を“偵察”したのもまた必然であっただろう。
 伊勢湾台風の翌1960年に発生したのが南米チリの大地震によって引き起こされた三陸津波であった。三陸沿岸部に大きな被害が出た。この津波は伊勢湾にも到達し、いまだ復旧が進まない被災地を浸水させた。
 最近の台風被害で思い出されるのは2005年8月末、米国南部メキシコ湾岸都市ニューオリンズを襲ったハリケーン・カトリーヌだろう。死者1695人、行方不明135人を出す大災害となった。その犠牲者の多くはアフロ系米国人であったことから民族問題、行政差別、貧困等との関係が問われた。
ニューオリンズの被災した町。6年経った現在も復興が進まず
 米国南部各州は毎夏、ハリケーンに被災することから防災体制の整備が急がれ、その予算も計上されていた。しかし、ブッシュ大統領の政府は洪水対策への災害予備費の4分の3をアルカイダなどに対するテロリズム対策費へ回してしまったのだ。そこにカトリーヌの災害を大きくさせたところがある。間違いなく人災の側面が大きい。そこをブッシュ政権は指弾された。アフロ系を中心に少数民族出身の米国人は政権批判を強めたのは当然であった。
 福島第一原発事故後、津波の被害を軽減するための防潮堤をより強固に嵩上げすることが資金面でもじゅうぶん可能であった、ということが東京電力の資料によって明らかにされている。大規模津波に対する防災を怠ったと指弾されても止む得ない。
 震災後、幾度も「想定外」という言葉が人智を超えた不可避なもののごとく喧伝されることになった。
 「想定外」では免罪にならない。「安全神話」というなら、「神話」の世界はノアの方舟のような破滅的な水害が「想定」される世界である。
 利潤をどん欲に追求し、株主への配当を怠らなかった東電のキャピタリズムは事故の温床であったことを誰が否定できようか? いったんコトあれば破滅的な災厄になることはスリーマイル島原発、チェルノブイリ原発事故によって国際社会は確認していたではないか。津波を「想定外」と言い抜けしようとするのは犯罪的な知的怠惰である。
 リスボン大地震のことを書いたが、われわれは昨年、カリブの小国ハイチで首都ポルトープランスが直下型大震災に見舞われ死者約32万人という破滅的な被害を受けたことをみたばかりだ。その少し前、2004年にはインド洋津波によってインドネシア・アチェ州だけで23万の死者・行方不明者を出していたことも知っている。
 地球の有機的活動は人の営みなど歯牙にもかけない。地球独自の生理にしたがって活動している。その力はもとより人智の及ぶところではない。いかなる自然の猛威にも耐えうるとした科学の奢りが原子力発電所なのだ。
 福島第一原発事故の終息には政府予測で30年を要するということだ。
 これはまったく先が読めない、見えないということだ。チェルノブイリ原発事故から今年で25年経ったが、いまだ事故原発を覆った石棺を突き抜けて放射能を撒き散らしている。その石棺すら老朽化して、新たな石棺をつくる必要に迫られている。その費用をウクライナ一国では捻出できずEUが援助するということだ。
 福島は原発事故に象徴されてしまった。フクシマとカタカナで国際的な社会用語となってしまった。ヒロシマ、ナガサキにつづく核被害地として。

 
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