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美浜原発の「事故」が描かれた映画『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』

美浜原発の「事故」が描かれた映画『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』
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 先ごろ、亡くなられた原田芳雄さんがいかにもといった風情でチンピラ役から原発ジプシーへと流れてゆく役をこなしている。原田さんの遺作となった『大鹿村騒動記』の試写を観た後、どこかに批評を書くつもりだったが、躊躇していううちに原田さんは鬼籍に入ってしまった。新作の批評を書き澱んでいると、すぐ鮮度を落ちて、別の視覚が必要となってくる。おそらく原田さんが原発ジプシー役をしていたことはあまり知られていないと思うので、本作『生きているうちが花なのよ~』で供養したいと思った。
 しかし、ながいタイトルである。筆者の記憶では、ペーター・ヴァイスの獄中劇、いわゆる「マラー/サド」という略称で知られる映画のタイトルがもっとも長いと思っているが、サブタイトルを含まない表題としては本作が、少なくとも日本映画でもっとも長いものではないかと思う。ギネス級だ。
 全国の温泉、場末のストップ小屋を転々として流浪して歩くムードダンサー・バーバラ役を倍賞美津子。バーバラの愛人役が原田、当時、売り出し中の平田満がドロップアウトする高校教師、これに不良高校生、管理売春させられているフィリピン少女、地元ボスと結託する刑事、防具マスクのなかに出自を隠したひ孫請けあたりの原発労働者(いわゆる原発ジプシー)……当時の日本の底辺を支える名もなき民衆たち、ということになるだろうか。
 1985年の公開映画だから、世相はバブルといわれた時代であったはずだ。しかし、こうした映画も制作されていて、バブルの薄皮一枚めくりあげれば地を這いつくばっても生きる生きようという赤裸々な民衆がいるんだ、という主張がある。原発ジプシーの仕事、ピンハネされていることを知りつつ、生命を削る仕事を求めて全国の原発を渡り歩く名もなき労働者たちの姿。そんな民衆に仮託して、バブルに浮かれる世相をシニカルに批評したとも思える。
 監督の森崎東には反原発とか反核・非核化といったことを先行させる意図はもうとうなかっただろう。けれど、いま本作を見直すと、85年の段階でよく原発の事故隠し、そこで犠牲となっている孫請けひ孫請け労働者の非人権的な立場、被曝死した労働者はドラム缶にコンクリート詰めされて、どこかに持ち去られる、というようなシーンまで描かれている映画なのだ。舞台は若狭湾の原発銀座地帯の一角、美浜原発だ。
 生きる生きようと這いつくばる民衆を描いたと書いたが、考えてみれば、生きる生きようと這いつくばる民衆ほど追いつめられているわけで、もがけばもがくほど死に急ぐ愚行を重ねることにもなる。タイトルの「生きているうちが花なのよ~」、これはごまめの歯ぎしりともいえるフレーズであってみれば、どこか切なく捨て鉢でもあるのだ。その極北の象徴として原発ジプシーが描かれたのではないかと思った。登場人物たちはどこか好き勝手に生きているような印象を与える。けれど、それも小さな檻のなかでの蠢きに過ぎないことをしれば、モノ哀しさにうらぶれた生態である。
時はバブル時代の物語だったが、いま現在、貧困はこの国の常態になってしまった。政治の惨憺たる〈貧困〉を含めて……。
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バレエと映画 2 バリシニコフ主演のバレエ映画の秀作『ホワイトナイツ』*ヴィソツキーの歌

バリシニコフ主演のバレエ映画の秀作『ホワイトナイツ』
そして、ヴィソツキーの歌 映画*舞踊2
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 舞踊の主題にした映画を観る批評の視点はひとつしかない。クラシックであろうがモダンであろうが、フラメンコでも日本舞踊も同じ、インド舞踊もしかり……。描かれる舞踊が借り衣装のままか、舞いそのものが裸体にまとわれているかどうか、である。
 その意味では先に批評した映画『ブラックスワン』は駄作である。その理由は「映画*舞踊1」を読んでもらえば了解できるだろう。その批評のなかで少し触れたミハイル・バリシニコフ主演の映画『ホワイトナイツ』を約30年ぶりに見直した。1985年の制作で翌年、日本で公開されているのでスクリーンで観ている。その時に感心したことが、それほど退色せずに印象された。
 ソ連解体までまだ5年以上の歳月がある時点で制作された、初見の印象は「そうとう意識的な反ソ映画」というものだったし、そうして今まで記憶されていた。当時、ソ連では“禁じられた歌”であったヴィソツキーの歌でバリシニコフは心象をダンス化までしていたのだから。これでバリシニコフはソ連が共産党独裁という政治形態を崩さない限り永遠に生れ故郷には戻れないだろうと思った。その意味ではバリシニコフ覚悟の映画である。
 ちなみにバリシニコフはバルト三国のひとつでソ連解体後、いち早く独立宣言をした国のひとつラトビア共和国の出身だ。ラトビア、そしてリトアニア、エストニアのバルト三国はいちはやくFIFAに加盟するなどいち早くクレムリンの支配から逃れた。公用語としてロシア語を押し付けられながらも、けっして民俗伝統を捨てずに世代を超えて遺贈していったラトビア及びバルト三国、その地から出た亡命者バリシニコフのアイディティティを想う。
 バリシニコフは本作の前、77年に『愛と喝采の日々』でダンサー役としてベッドシーンもある俳優としてスクリーン・デビューしている。この映画もバレエ映画の秀作だ。『ブラックスワン』もそうだが、何故か女性を主人公にしたバレエ映画はクラシック・バレエに偏重する傾向があり、男性を主人公にすえると創作舞踊に傾斜する傾向がある。古典が女性美追求としての要素が強いため、映画で男性ダンサーの内面を表象化するには駒が少なく必然的に創作される傾向が強いようだ。
『ホワイトナイツ』は冷戦時代の産物だ。政治亡命を主題としているドラマにおけるバレエだから古典から範を求めることはできずに創作モノに語らせることになった。また、助演のグレゴリー・ハインズがタップダンスの名手であり、ダンサーから俳優に転身した才能であってみれば、ハインズの魅力も引き出すためにもバリシニコフの豊かな創造性はあたらしい表現を求めずにはいられなかった。
ハインズが“ニグロ”としてのおいたちをタップダンスで語るシーンは秀逸だ。ハインズの才能がよく引き出されている。そして、彼がいまはシベリアの寒村でしがない“旅芸人”として踊っているのは、米国軍から脱走してソ連邦に脱走したためである。世界的なダンサー役として登場するバリシニコフが亡命後、ある時、欧州から東京へ向かう旅客機がシベリア上空でエンジン・トラブルを起こす。飛行機はシベリアのソ連空軍の秘密基地に緊急着陸する。そして、バリシニコフ役のダンサーは“政治犯”として囚われの身になってしまう。そのバリシニコフとハインズがふたたび西側へ脱出するというドラマである。
 立て筋が「政治」の重さと緊張でしまっており、その枝葉の部分でバリシニコフとハインズのダンスが適宜、それも取ってつけたようなところもなく流露するのは演出・演技の見事な呼応だろう。
 しかし、本作を観終わった後、筆者がいちばん望んだのはヴィソツキーの歌だった。バリシニコフはソ連邦解体の歴史的瞬間をみたが、ヴォィソツキーはそれを知らずに夭折した。けれど、彼の野太い自作の歌はいまも真実の自由を希求するロシア市民の胸のなかに生きているはずだ。いま、ロシアではプーチン“独裁”を打倒するため街頭に出てきた市民が何十万もいる。そんな市民たちの胸に怒りの火を点火したのはヴィソツキーの魂だと思う。バリシニコフが還れないロシアのかぼそい自由の窓から届けられたヴィソツキーの歌で踊ろうと思った心根に通底するものだ。

アフロ系ペルー人が草案した打楽器カホン、そして日本の伝統芸能

アフロ系ペルー人が草案した打楽器カホン、そして日本の伝統芸能
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 昨夜(12月8日)、東京・中野サンプラザホールで行なわれたコンサート「ペルー新音楽伝説」を楽しんできた。
ペルー・コスタ地方に住むアフロ系ペルー人の音楽集団が奏でるカホンの合奏と、名手コティートのソロ演奏は圧巻だった。
 スペインではフラメンコの演奏にも取り入れて普及している素朴な民俗楽器だが、起源はアフリカ西海岸からペルーの熱暑の地コスタ(海岸)地方で強制労働させるために連行されてきた奴隷たちのあいだから生まれた楽器だ。
 リマの総督府は、奴隷たちに動物の皮を張った太鼓をつくり演奏することを禁じたため、その窮余の策として木箱を叩くことで太鼓替わりにした。総督は奴隷たちが太鼓を通じて、必要は発明の母とはよくいったものだが、奴隷たちは絶望的状況のなかでも歌い踊り、明日も生き延びようと活力を得たのだ。いわば奴隷たちの生命力が生んだ楽器だ。
 ペルーのカホン演奏家のなかでもっとも敬愛され、名手といわれるのがコティート。その見事な指さばき、その音色を楽しみながら、東日本大震災で甚大な被害を受けた東北の伝統芸能を思いだしていた。
 福島県相馬市の相馬野馬追が一時、開催が危ぶまれた。一千年以上の歴史を持つ祭が中断か、と危惧された。津波で祭に欠かせない馬が相当数、海に流され溺死した。こんな時期に祭か、と自粛を求める声も出た。筆者は「こんな時期だからやるべきだ。伝統を絶やしては震災に負けたことになる。自粛など無用」といった趣旨の原稿を某紙に書いた。例年より規模を縮小したが無事、開催されたことを知って本当にうれしかった。自然災害は伝統芸能の敵だが、ほんとうに怖いのは、継承者の心の萎えだ。それを支えるために応援が必要なのだ。
 今夏、東京神宮外苑の日本青年館で「全国こども民俗芸能大会」が開催された。13回目を数えた芸能大会だ。
 今年の演目は8本。トリを飾ったのは岩手県北上市の「鬼柳鬼剣舞」。岩手県内各所に遺されている鬼剣舞の一つだが、三陸地方の保存会のなかには貴重な衣装・装具を津波で浚(さら)われたところもあった。内陸の北上では無事だった。ステージでは被災地・岩手の心意気を代弁するように子どもたちは誇りをもって舞った。
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 青森県十和田の「晴山獅子舞」、群馬県伊勢崎市「千本木龍頭神舞」、石川県加賀市「敷地天神蝶の舞」、兵庫県養父市「葛畑農村歌舞伎」、高知県室戸市「佐喜浜にわか」。長崎県対馬市「厳原の盆踊」。
 各地に残る農村歌舞伎だが、兵庫県養父のそれは長らく途絶えていたものが平成15年に37年ぶりに復活して以来、今日にまで継続しているものだ。
 歌舞伎は小規模であっても総合芸術として大変、手間暇が掛る。これを地域で支えていくのは少数者のやる気だけではいかんともしがたい。地域社会の強い下支えがなくては継続などできない。その意味で義大夫節から三味線・鳴り物まで児童が見事にこなしていることに養父市民の熱意に敬服した。むろん、そうした畏敬の念は他の伝統芸能にもいえる。
 伊勢崎の「龍頭神舞」では地域社会に生きる習俗と深く結びつき、日常生活の欠かせない構成要素になっているようで、演者の児童もまた地域の誇りをきちんと感得しているようにみえた。対馬の「盆踊り」は、男子が女装の着物を纏(まと)い優美にしなやかに舞いつつ、女性ではきつい所作をみせる芸。このような芸は各地にかなり遺されている。
 日本の伝統芸能はほとんど神事、つまり神社の奉納芸であり、おらが社を中心にして行なわれている。したがって自然災害で神社が損傷したり、流失すると祭はやむなく途絶することになる。
 東日本大震災の災害はあまりにも大きかったが、日本人のふるさとの祭りを愛する遺伝子までは破壊できなかったことを、「子ども民俗芸能大会」を通して再確認したことを、カホンを聴きながら筆者は思い出していたのだった。     

映画「やがて来たる者へ」 ジョルジュ・ディリッティ監督

映画「やがて来たる者へ」 ジョルジュ・ディリッティ監督
やがて来たる者へ

 
 スペインの画家ゴヤに「戦争の惨禍」という連作の銅版画がある。着衣と全裸の「マハ」像や、王家一族を辛辣な眼で見つめた「カルロス四世の家族」といった作品で知られる19世紀前期の画家だが、私自身はゴヤの仕事で後世に遺贈されるべき仕事は戦争の実相を敵・味方という立場に偏重することなく描き切ろうとした「戦争の惨禍」だと思っている。4部作の巨著ともいうべき『ゴヤ』を描いた堀田善衛さんも「戦争の惨禍」の考察に多くの紙数を費やしているのも頷ける。戦争の悲惨を客観的に描くだけでなく、画家自身が〈戦争〉を一個人としてどのように観察し、考えたかを留めた最初の人間の仕事として重要なのだ。
 映画『やがて来たる者へ』をみながら私はしきりにゴヤの執念を感じさせる連作版画を思い出していた。
 映画の舞台は1943年、大戦末期の北部イタリアの僻村。時季(とき)、イタリア南部は連合軍によって占拠され、ファシスト独裁者ムッソリーニは北部地方をドイツ軍庇護下で命脈を保っているに過ぎない。そして反ファシスト派パルチザンがドイツ軍に対して果敢な抵抗闘争をつづけていた。
 ゴヤの連作版画もスペインを占拠したフランス・ナポレオン軍に対する農民のパルチザン、ゲリラ闘争の過程に取材した作品であった。
 1944年9月から10月、ドイツ軍はパルチザンに協力する山村として、ボローニャ近郊の住民に対して組織的な大量虐殺を行う。無抵抗の農民771人と、パルチザン約50人が殺されたといわれる。犠牲の多くが子ども、女性、そして老人であった。大戦下のイタリアで起きた最大の悲劇であり、イタリアでは誰もが知る歴史的事実だ。映画は、この虐殺事件の顛末を描く。と書いてしまえば、これまで無数に制作されてきた反戦モノという枠組みに安住するようなので、あわてて修正したい。
 この事件を扱うことはイタリア人になにがしかの傷を疼かせるものだろう。
 ムッソリーニを逮捕、処刑したのがイタリア人自身であった、という“名誉”があるにせよ、一時代、ヒトラー政権と同盟したイタリアにはスペイン市民戦争はむろん、大戦下でも自ら手を汚してしまったという負い目がある。
 戦争は、個人の倫理感など消し飛ばされる。欧州を制圧したナポレオンの言葉に、「戦争をして戦争に営ましめる」というのがある。戦争には戦争という事実のなかでしか語れない真実があり、それは予測できない事柄なのだ。
 イタリアのパルチザンのなかにだって、かつてムッソリーニ軍の将兵として従軍したものがあっただろうし、ドイツ軍とともにユダヤ人狩りに手を染めた者だっていたはずだ。パルチザンが武器に精通し、戦闘の仕方を熟知していたという事実が彼らの来歴をうかがせる。
 監督はドキュメンタリー作家として堅実な仕事をしてきた人。日本人には分からないが、出演俳優には北部地方のイントネーションで語らせているということだ。そして、出演者の大半が地元でキャスティングされた非職業的俳優で、無名性を貫くことによってよりリアルな映像を獲得された。
 悲劇の語り部は、口のきけない少女マルティーナ(グレタ・ズッケリー・モンタナーリ)。言葉を発しないのだから“語り部”というのは語弊があるが少女の瞳・視線、そして行動が事件の推移を雄弁に語る。永遠の沈黙を強いられた犠牲者の生活の途絶の瞬間を見守る視座を少女が担った。監督が事件を客観的にみようとする視座でもある。言葉を発しないから観客は、それぞれの言葉で印象を語るしかない。そのあたりが観客の胃の腑に留まる効果となっているはずだ。
 映画に登場するドイツ将兵の姿形が美しい。ハリウッドの大戦モノにおけるドイツ将兵は悪辣で冷血であったりする。同じイタリアのヴィスコンティが描くドイツ将兵なら退廃美の気配がある。しかし、本作におけるドイツ将兵の若者は健康的な若さにあふれ、みな美男なのだ。そんな若者が平然と子や老人を殺戮する。それが「戦争が営ましめる」行為だと主張されているようだ。
 物語は大戦下の北部イタリアだが、それは象徴的な意味でのステージに過ぎない。現在只今、同じような悲劇が世界のどこかで繰り返されている、と告発されている。  

トリオ・ロス・パンチョス③ 黄金期のメンバー、エンリケ・カセレスの死

トリオ・ロス・パンチョス③ 黄金期のメンバー、エンリケ・カセレスの死

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人間、誰しも老いには勝てない。自然の摂理である。
 先々月、トリオ・ロス・パンチョスがもっとも世界に飛躍した黄金期のトップボイス、ジョニー・アルビーノ(5月7日死去)の訃報を記したばかりだが、そのアルビーノから1966年にトップボイスの座を引き継いだエンリケ・カセレスの訃報を書かねばならなくなった。
 8月29日、メキシコ市デルバジェ区の自宅にて、急性呼吸器不全のために亡くなった。享年75歳。
カセレスはロス・パンチョスのスタイルを決定的に作り、最盛期の歌唱を象徴することになったアルビーノ時代を引き継ぐという、もっとも困難な時代(1966~1971)にトップ・ボイスを担当したことで記憶される。
1936年、メキシコではもっともボレロ音楽の盛んな地方と知られるユカタン州に生まれたカセレスは、14歳のとき早くも地元でトリオ・モンテレィーに参加しプロとして歌いはじめ、数年後、自分自身のグループとしてロス・テコィネスを結成、その後、トリオ・ロス・ソンブラスで歌っていた時代にロス・パンチョスの目に止まった。各トリオで活動中、天性のテノールの美声で人気を獲得したようだ。その当時のカセレスの歌は、同じユカタン出身のボレロの大御所アルマンド・マンサネロの影響を強く受けていた、とメキシコの各紙は伝えている。 アルビーノの後任を探していた当時のロス・パンチョスのメンバー、アルフレッド・ヒルとホセ・デ・ヘスス・ナバロの目に止まり、カセレス以外に考えられないと請われ、パンチョスのトップボイスに座ったという。
 メキシコでの評価ではロス・パンチョスの音楽を生き返らせた再興者という位置のようだが、命脈を保つために尽力した才能というのが本当のところではないだろうか。
トリオ音楽の大衆的な人気が失われてゆく時代に踏ん張ることを求められた才能だった。トップボイスとしてCBSに幾多の名唱を遺した。彼が録音した歌はロス・パンチョス在籍時代も含めて200曲を越える。しかし、セールス的にはアルビーノ時代には遠く及ばなかった。
 彼の歌に魅力がなかったわけではない。時代が大衆の嗜好を変えはじめていた。そんな端境期での活動を強いられたに過ぎない。したがって日本でのカセレス版のロス・パンチョスの紹介も少ないということになってしまった。現在も復刻されて発売されているのは圧倒的にアルビーノ時代のものがほとんどだ。
カセレスはロス・パンチョス在籍中に、「デハメ・ケ・テ・アメ」「ソブレ・トダス・ラス・コサス」「アミーゴ・カンティネーロ」といった歌の作曲も手がけ、彼なりの時代を築こうとしていた。
 カセレスの死によってロス・パンチョスの創設期から黄金時代のメンバーが大半が天国に召されたことになる。  2011・9

トリオ・ロス・パンチョス② アルビーノ死去。黄金時代のトップボイストリオ

トリオ・ロス・パンチョス② アルビーノ死去。黄金時代のトップボイストリオ

アルビーノ
 5月7日、ジョニー・アルビーノの訃報に接した。
その直後、アルゼンチンのRGSレーベルで近年シリーズ化されている往年のラテン音楽の名曲シーリズの最新盤ということで「トリオ・ロス・パンチョス」の名曲12曲をおさめたベスト盤が本編集部から送られてきた。サブタイトルに「con johnny albino」とあった。はからずも日本では「追悼盤」ということになった。
 RGSがロス・パンチョスの名曲盤を企画した時、多くの録音からアルビーノの時代を選んだのは、それは紛れもなくまだ彼の歌に商品価値があるとう評価だろう。そして、ロス・パンチョスの象徴としてアルビーノへ歴史的評価を下したものと思える。
 現在、ロス・パンチョスの歌として世界中のファンが記憶するのはアルビーノの美声を通してなのだ。日本でも本場のメキシコでもそうだ。それはトリオ音楽の音の要であったレキント・ギターの音色が名手アルフレッド・ヒルの演奏で思い出されるのとおなじ事情だろう。 
アルビーノはパンチョス第5代目のトップ・ボイスだった。1959年から66年の約7年だ。その時代、大戦の後遺症から欧州も日本も復興し、冷戦の桎梏がはじまった時期ではあったが世の中が緊張のなかでも平穏さが平常となっていた時代だった。航空網が整備され、音楽産業も拡張していった時代だった。アルビーノの美声はそんな時代の芳しいBGMでもあった。
 米国のポップス界にタムラ&モータウンの黒人ポップスが一世を風靡する直前、パット・ブーンの歌がおおいに人気があった頃だ。思えば、黒人のナット・キング・コールの人気は凄かったが、彼のヒット曲には多くのラテン曲があった。それはロス・パンチョスのボレロの影響もあったに違いない。
 ロス・パンチョスは幾度も日本で公演をおこなっているが、もっとも回数の多かったのはアルビーノをトップボイスとした時代であった。彼の在籍時がもっとも海外公演の多いロス・パンチョスの時代だった。
 アルゼンチンでも事情はおなじで同国で録音されたアルビーノのタンゴ名曲集があった。当時、名唱と評価された。これも確か、数年前に同国でCDに復刻され、評判を読んだ。アルビーノ時代のロス・パンチョスはそういう表現の拡張を目指していた。だから人気も世界大になれたのだと思う。
 日本の歌謡グループのなかに積極的にレキントが導入された時期があった。トリオ音楽で雄弁に弾き込まれているレキントの魅力に魅せられた演奏家が多くいた。
 アルビーノは死の床で、東日本大震災を知り、日本のファンを心配していた伝え聞く。日本公演や日本発売のレコードで日本の歌もレパートリーにくわえたアルビーノの最期の思いであったか。享年92歳、大往生であった。合掌。 

トリオ・ロス・パンチョス① 名籍争い

トリオ・ロス・パンチョス① 名籍争い

全盛期のロス・パンチョス
 メキシコのCD屋さん、なるべく庶民レベルが利用する店に行くと、その品揃えが多い、となるのが往年の名曲を集めた多種多様の廉価盤。なかでも目立つのがトリオ・ロス・パンチョスの復刻盤だが、新作とおぼしきも盤もある。
そう、かつて日本でも一世を風靡したロス・パンチョスは名籍を継いだ子、自称・後継者たちによってパンチョス節そのものは健在なのだ。
 年に一度、マリアッチの聖地といわれるメキシコ市中ガリバルディ広場近くの大衆音楽の殿堂バランキータ劇場で、「トリオ音楽の夕べ」というイベントがあって、そこでもトリを勤めるのが何代目かのロス・パンチョスだ。トリオ音楽の夕べであるからロス・パンチョスだけではない。これまた何代目かの跡目をついだロス・トレス・アセス、ロス・ダンディーズといった面々が登場して往年のヒット曲を披露するのだ。そして、数日に渡る、その夕べはなかなかの入りとなるのだ。年輩者だけなく、けっこう若い人もいる。
 ……とこんなことを書き出したのも9月、またぞろと言うかロス・パンチョスの“正当性”を言い募る、要するに跡目争いがまた表明化していることを知ったからだ。それは繰り返されている欲ボケのようなものだ。
 現在、もっとも有名な(という言い方もおかしいが)ロス・パンチョスはガブリエル・ガビー・バルガスをリーダーとするトリオで、バランキータ劇場のステージに上がるのは、このトリオだ。これに対抗するのがロス・パンチョスのオリジナル・メンバーのクチョ・ナバロの流れ汲むトリオ。「アスタ・マニャーナ」「ウナ・コパ・マス」「ライジィート・デ・ルナ」といった名曲を作った才能だ。一方、バルガスはオリジナル・メンバーのアルフレッド・ヒルの継承性を主張する。ヒルもまた「カミネモス」「シン・ウン・アモール」「ソロ」といった名曲を送り出した才能だ。
 トリオ音楽は現在、郷愁を誘うものとして、それなりの存在理由があるだろうが、この時代にふさわしい新しい工夫があるわけでもなく、創作もほとんどない。しかし、その名はまだ売れるのだ。一時期、ボリビア出身のメンバーが加わっていた時期があるが、そのメンバーの子だったが、やはりロス・パンチョスを名乗って廉価盤のアルバムを制作したことがあったと思う。そんなふうに、まだ国境を越えて商売になってしまうところが名籍争いのまたゾロと頭をもたげてくる起因だ。しかし、要は芸である。実力の世界ではないか。“血”の正当性を主張するより実力で勝負し、名籍を引き継ぐのが筋というものだろう。そういう緊張感もなくなったところにトリオ音楽の衰退があったのだ。(2010・10)
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上野清士

Author:上野清士
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