スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『マヤ ~天の心、地の心』

映画『マヤ ~天の心、地の心』  フラウケ・ザンディッヒ、エリック・ブラック共同監督
maya-640x360.jpg

 メソアメリカの深奥部から貴重な映像が届いた。
 先住民マヤ族の創生神話『ポポル・ヴフ』の一節をマヤ語で語るところから説き起こされる映像は一篇の叙事詩である。
 浜に海がめが群れとなって産卵に来る。熱帯霧雨林に朝が訪れ、朝霧が流れてゆく。密林の樹根を這う葉切り蟻の行進。金属光沢をもつ熱帯の鳥の旋回。けれど、その地に生きたマヤ族の歴史は、コロンブスの世紀以来、苛酷なものとなった。その歳月は五百年に及ぶ。そして来月、12月21日、古代の営みともにはじまったマヤ暦は5125年という長大な歳月を一期として終期を迎える。これに便乗して金儲け主義の出版社、あるいはあこぎなハリウッドは定見なきパニック映画を制作して終末幻想を振りまく。
 マヤ人たちは第一周期の終焉とともに新しい周期にはいることを知っている。ただ、最終期の五百年間があまりにも苛酷であったから、新しい周期ではその癒しの歳月とした、と切に思う。
 マヤ人にとって苛酷な終期の五百年間こそコロンブスの大航海時代とともにはじまった経済のグロバリゼーションの弱肉強食の歳月であり、その犠牲の象徴してメソアメリカの先住民たちが存在すると主張されている。むろん、グロバリゼーションは地球を際限なく傷つけていることを各地に取材して告発もする。しかし、短い時間でその〈傷〉を象徴するため映画はマヤ人を描き通す。かれらに加えられた試練を通して、人は地球という掛け替えのない美しい星に仮寓して生きている存在でしかないことを悟らせてくれる。
 いま、われわれは便利で快適な生活を送っていると自覚するなら、それは地球を侵しながら成り立っていることを知らなければいけない。電力を作る石油、あるいは石炭、原発を支えるウランなどすべて地球の美しい襞を切り刻み、掘り侵し、ふたたび緑の繁殖をゆるさないように傷つけた営為のなかから取り出されたものだ。水力もまた自然の清流を堰きとめ豊かな森林を水底に沈めたダムによって取り出された〈負〉のエネルギーだ。
 いま世界中の先住民の大地でそういうことが破壊的な規模で行なわれている。メキシコやグァテマラではマヤの大地を、ブラジルではアマゾン先住民の地を侵し、チリではマプチェ族の聖地を葬ろうとしている。
 『ポポル・ヴフ』の一節はマヤ語、たぶん、キチェ語で語られる。グァテマラ先住民キチェ族の集落チチカステナンゴに建つカトリック教会の一隅から発見されたといわれる聖典。ローマ字表記をしったキチェの神官たちが、キチェ語の音をアルファベット化して保存したといわれる。その聖典の発見者はスペインからやってきた司祭であり、キチェ語学んだ彼は、それをスペイン語に訳して世界への伝播者となったわけだが、その発見の原本というものは存在しない。彼の証言だけが唯一のよりどころなのだ。つまりマヤ族は自分たちの創生神話とするものを自分たちで発見したわけではなく、訳業もスペイン人司祭であり伝播者もスペイン人であった。
 先住民を大量虐殺して進んだ初期植民地時代における苛酷は、自分たちの神話すら収奪者の恣意的行為に蹂躙されていたといえる。
 映画に登場するマヤの地はメキシコの南部チアパス州の古都サンクリストバル・デ・ラス・カサスとその周辺の寒冷な高地、そしてラカンドンの密林地帯、グァテマラの山岳地帯と海岸部だ。いちいちその習俗・習慣の違いを詳細に語らないが、マヤ圏とはさまざまな気候風土を持ち、多様な人びとが住む変化に富んだ広大な大地であることが映像で証明される。そして、どこの地でも彼らの生活は貧しい。そして、経済のグロバリゼーションのシステムが持続するなら、彼らは構造的に貧困を強いられるつづける存在であると語られている。
 グァテマラではカナダ資本の鉱山会社による金鉱の実態が批判的に語られ、メキシコでは米国モンサント社で大量生産された遺伝子組み換えのトウモロコシ種子によって自然栽培のトウモロコシが駆逐されていく現状が語られる。多収穫を望める遺伝子組み換え作物は必然、廉価となり、自然栽培をつづける貧農の暮らしを圧迫する。生地で生活できなくなった貧農は、畑を放棄して都市に流出、やがて米国へ不法越境し最下層労働者となって喘ぐ。そうした現実にささやかな武力をもって放棄したのがチアパスの先住民、サパティスタだと語られる。
 映画は貧しいマヤ先住民に同情せよ支援しろと糾合しているわけではない。ただ在る現実をおしえてくれるだけである。
 映画はマヤ暦5125年の周期が来年、完結することに着目し、その終焉の日を、収奪型の経済システムの終わりとしたいという願望をこめて作られている。かつてマヤ族の叡智が天体を観測し、統計を取り完成させた精密な暦のシステムは、西欧のグレゴリオ暦に先行する偉大な業績である。それは古代マヤ族の文化の黎明とともに始まった。そして、いま先進国の破壊的な経済システムによってマヤ族は苦吟している。
 来年12月21日は、マヤ族が隷属的状態から解放される転換点とするべきだ、との主張も内包されている。むろん、ことは簡単ではない。カレンダーはまた新しい周期に向かって回りはじめる。その新しい周期は、地球の地力を回復させるものにしなければ人間は自滅すると、映画に登場するマヤの人びとはそれぞれの生活の言葉で語っているのだ。  
 
スポンサーサイト

極私的な雰囲気に充足した豊穣  第97回 二科展を観て

極私的な雰囲気に充足した豊穣

 第97回 二科展を観て
120914_1539~01

かつて古い都美術館のスペースに合わせて出品点数は制限されていたはずだが、六本木の国立新美術館というおおきな空間を得て二科展の出品点数は絵画を基軸にして肥大したようである。その辺りの事情は同展の“経営”問題というものだろう。その辺りは詮索してもはじまらない。
まず作品の数に圧倒される絵画約1100点、彫刻175点、写真に至っては約1400点、加えてデザイン、イラストレーションが幾つもの壁を占拠するが、もう数える気にもならない。
全ギャラリーをおなじような鑑賞熱度で歩くのは人間ワザではない。耐力勝負というもので、美的鑑賞とはまったく別次元の話となる。会場を訪れる入場者もたいていは誰々さんの作品は何処に在りや、と作品「早見表」と睨めっこし、ついで壁面番号を確認し、だいたいソコへ直行するのだ。そのあいだに気になる絵でもあれば、ちょっとそこで停滞するといったぐあいだ。賢い「二科展の歩き方」というものだろう。けれど別に贔屓の作家を二科にもたない筆者は“美”の雑木林、いや密林のなかに踏み込んでゆくようなものだ。
 最上階に押し込められた絵画群のレベルが素人目にも低いことを除けば、技量もだいたい申し分ないし、それなりに個性的でありよく考えられた作品を見い出すことは容易だ。二科なりの自負をきちんと納得させるものである。しかし、そこに〈現代〉がありながら肉感の手触り感がほとんど伝わってこない。個的な世界に充足し満ち足りている気配だ。それは、孤高といった志の高さとまったくちがう。社会的感度の鈍磨といえなくもない。たとえば、これほど数がありながら絵画で「3・11」に触発された2点ほどしかない。それを悪いとはいうまい。個人の創作動機はそれぞれは責任を負うべきものだ。しかし、より現実的光景を借景し、切り取るワザに優れた「写真」部門にすら「3・11」は4点ほどしか見い出せなかった。昨秋の段階では大震災体験はまだなまなましく作家個々の批評性は消化されなかっただろうから、3・11主題が少なくても納得できる。しかし、1年が経過し、さらに原発事故の後遺症が依然つづき、毎金曜、首相官邸が万余の原発反対のデモにさらされている現実のなかで、ここの作家たちの現代ニッポンの姿はあまりにも軽い。臨場感がまるでない。
 内閣総理大臣賞を受賞した粕谷正一「ハコブネ」は、筆者には二科の現状を内部からシニカルに批評しているように思えてならかった。作者にとってはおそらくニッポンの現在を批評してみせたものであろうが、第一義的には二科の現状批判にあるように思われならなかった。舵が流出した人影のないハコブネに乗せられたあふれるモノはほとんど人間生活を維持するのにさして必要とされない奢侈品であり装飾品、玩具、人形といったモノばかりなのだ。そんな作品に今年の最高賞といえるものが授与されていることに、二科の“健全”な諧謔が象徴されているように思えたのだが……如何?

莫言氏のノーベル文学賞受賞によせて

莫言氏のノーベル文学賞受賞によせて


 いまほど中国映画が世界の市場に出ていない当時、北京と上海で映画監督3人にインタビューしたことがある。
 1980年代後半のことで、当時、“第5世代”と呼ばれる若い映画人が地方の映画撮影所で意欲的な作品を撮っていた。撮ってはいたが国内では広く注目されることのない仕事であった。そんな若き才能の一人が、今年のノーベル文学賞を受賞した莫言(モー・イエン)氏の初期の代表作「赤いコーリャン」を原作とし、鮮やかな色彩感覚あふれる土俗的な映像を提出した張芸謀(チャン・イーモウ)監督だった。その張監督をはじめとする“第5世代”の監督への取材を北京の『人民日報』本社へ出し、その人選を待つ間もなく北京に飛んだことがあった。
 中国で3人の監督とのインタビューが実現した。
 張監督とのインタビューは実現しなかったが、“第5世代”のひとりでまだ30代だった田壮々監督とは新作の試写が行われた『人民日報』本社で、若い女性監督と北京の映像学院の一室で、そして、撮影所のなかに市電も走る広大なセットをもつ東洋一の上海映画撮影所で当時、中国映画界を代表する巨匠であった謝晋監督と撮影所で会えたことは収穫だった。
 当時、“第5世代”の映画は中国国内では広く公開されることはなく、短期間、「表現の自由」のアリバイづくりといったふうに少数の映画館で公開されて終わりというケースが多かった。外国で公開されても国内で上映の機会もないままお蔵入りしてしまう映画も多かった。映画『赤いコーリャン』もそういう映画だった。映画人は知っていても一般の認知度は無きに等しかった。当然、原作者の莫言氏に至っては誰が知る、という状況だった。そんな莫言氏がノーベル文学賞を獲得し、中国国内メディアでは、はじめて国民的に歓迎される中国国籍の受賞者としてフロント・ページで大きく報道された。隔世の感がある。
 北京五輪の開・閉会会式を華麗壮大に演出したのが張監督だった。
 かつて当局に、「中国の暗い側面、遅れた農村の暗部を描く監督」として睨まれていた若き才能も、オリンピックで国家公認の芸術家になった。張監督はミュージカルの演出もすれば、創作バレーも手掛ける。そして、『赤いコーリャン』を撮る前は撮影監督として評価を得ていた才能だった。
 張監督の映画は制作されるたびに各地の国際映画祭で受賞を繰り返し、政府も無視できなくなった。そうして、国内でも広く公開されるようになって大衆的な支持もえるようになった。その影響は映画に原作を提供していた文学界にも及んだ。中国の「表現の自由」の突破口は映画が切り拓いた。その後を、文学や美術が追った。そして、莫氏の存在も広く知られるようになり、やがて国家公認の作家へと押し上げたように思う。莫氏の「赤いコーリャン」で現在、日本でも文庫化されているが、この邦訳も映画のヒットのおかげだ。
 その莫氏が、「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」としてノーベル文学賞の授与されることが決まった後、内外記者団に応じた記者会見の席で、かつてほど言論・出版統制は著しく改善されたことを認めつつ、現在も反国家罪で収監されているノーベル平和賞を受賞し、現在「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の刑に服している作家・劉暁波氏の「できるだけ早く自由を得ることを望んでいる」と語った。自身が中国作家協会副主席という要職にある身の発言として大きな意味を持つし、これまで作家として劉氏を擁護してこなかったことの悔恨も、受賞という援護を得て発言に至ったようにも思える。
 しかし、劉氏擁護の発言を流すインターネットから、中国当局はその部分を削除したようだ。
 中国はまだまだ「表現の自由」に遠い世界だ。そうした報道規制が行われているなかで大きな反日運動が、尖閣諸島問題を契機に起きた、ということを明記しておきたい。     上野清士

ブラジル日系人社会にもたらした敗戦の悲劇を描いた映画

ブラジル日系人社会にもたらした敗戦の悲劇を描いた映画『汚れた心』を撮った

  ヴィセンテ・アモリン監督
342701view001.jpg


 日本の昭和の戦争は地球の裏側のブラジルに住む日系人社会にも深刻な影響を与えた。1945年8月15日敗戦を受け入れた人たち、この人たちを“負け組”、そして頑なに勝利を信じ信じ込もうとした、いわゆる“勝ち組”とのあいだに惹起された血の抗争があった。同胞同士のテロ行為で多くの死者が出た。この悲劇をブラジル人のヴィセンテ・アモリン監督が撮った。  

まぎれもないブラジル映画だが台詞の大半は日本語、俳優も日本人。しかし、監督は日本語をまったく解さないブラジル人。しかも主題は、日系人社会のあいだでもオープンに語られることなかった悲劇であった。その日系人にとって痛恨の歳月を深い洞察をたたえた人間のドラマとして描いた。
 「私自身、自分の国でこんな悲劇があったことを、一編の小説を読むまで知らなかった。小説は日系人が書いたものではなかったので客観性を持っていた。私はこの悲劇によって、大きな戦争に翻弄される個人のドラマを描けると思い、小説の映画化の権利を買い準備をはじめた。事件の当事者、日系人への取材は最初は困難でした。興味本意ではなく、遠い母国の戦争に翻弄された人たちを敬意をもって描くことを理解してもらってから取材ができるようになりました」
 アモリン監督は本作の前に、ナチドイツに翻弄される一大学教授の悲劇を描いた『善き人』という映画を撮っている。戦争という大きな状況に翻弄される個人の弱さ、善意も政争の具となる悲劇を描いた佳作だった。
 「人間はみな私的生活を超えたところで、社会的存在として“選択”を強いられることがある。社会が与える強制力に個人はどこまで抗し切れるか、という永遠のテーマがある。私はそれに興味がある。映画の観客の大半は、権力者ではなく市井の人たち。そんな公衆に向って権力と個人の関係を映画を通して考えてもらいたいとも思っています」
 多くの死者も出した敗戦後のブラジル日系人社会は、それでも心の傷を胸底に隠しながら社会的成員として働き、学び、子を育て同国において尊重されるようになった。
 「多民族国家のブラジルでは2年一本ぐらい、公用語のポルトガル語がほとんど語られない映画が撮られる。その多様性はブラジル映画の特徴であり魅力だ。この映画はまだブラジルで公開されていません、日本で先行上映され、その評価がブラジルに反映されるでしょう。日本で成功させたいと思っています」
 日本の映画人が今まで何故、こうした日系人社会の抗争を描かなかったのだろう。日本語を解さないアモリン監督によって完成度の高い映画が提出された以上、日本映画界は重い宿題を与えられたようにも思う。



私憤から公憤へ パレスチナの現代史を描く 映画『壊された5つのカメラ』

私憤から公憤へ パレスチナの現代史を描く

FIVE17.jpg
 映画『壊された5つのカメラ』を制作したパレスチナとイスラエルの監督インタビュー

 イスラエルに土地を収奪されるパレスチナの村民イマード・ブルナート、土地を収奪する側に属するイスラエル人ガイ・ダビディ。そんな二人が現在進行形で起きているパレスチナの現況を伝える貴重な映像を育んだ。日本公開前に来日した両監督にお会いした。 

 イマード「四男の誕生を前にビデオを買った。子どもの成長と家族の生活を記録しようと思ってね。購入してすぐ私の住むビリン村を分断する分離壁の建設がイスラエル軍によってはじまった。理由は、パレスチナ人のテロを防ぐためというのが理由ですが、分離壁の向こうの土地をイスラエル人が不法に入植して、われわれの農地に家を建てはじめた。壁の建設阻止、そして撤去運動は私たちが生きるためのものだった。しかし、イスラエル軍の暴力によって村民の願い阻まれた。その一部始終を記録しようと思った。映画にしようなどとはむろん思っていなかった。ただ、イスラエルの不当行為を世界に訴える証拠にできると思った」
 ガイ「イマードとは映画を制作したいと相談を持ちかけられる前から友人だった。私は子どもの時からパレスチナの地で起きていることを見聞していた。自分の政府ですが、攻撃的なパレスチナ政策には批判的だった。だから、私は兵役を拒否した。徴兵はむろんされましたが、私は合法的なサボタージュをした。精神病患者を装ったりしてね。銃をもたないために腐心しました。お陰で政府関係の仕事はできなくなりました」
 イマード「分離壁の撤去を求める村民の戦いは継続した。非暴力の抵抗に徹したわけだが、そのために村民はさまざまなアイデアを出して抵抗をつづけた。それでも若者ばかりか少年まで逮捕され、銃弾で命を失った者もいます。映画でもその一部始終も写されています」
 ガイ「私がビリン村に住みことによって、イスラエル人がパレスチナ人と共存できることを証明できるわけですし、また村で無抵抗の子どもを連行しようとするイスラエル軍の横暴の証人ともなれる。実際に軍が村民を襲撃しようとしたとき、『ここにイスラエル人がみているぞ』と名乗り出ることによって暴力に歯止めがかかった。哀しいかな、それがいまパレスチナの地でおきている現実だ」
 イマード「五台のカメラが壊された。一度は、カメラに銃弾が当たったために私は九死に一生を得た。妻は危険だからもう撮影に出ないで、という。でも、私が撮らなければ村の状況は悪化するばかりだ。撮影はビリン村民としての義務だと思っている」
 イマードとガイの共同作業は両民族が平和的に共存できることを象徴するが、ふたりのような存在はむろん少数派だ。イスラエルのパレスチナ武力占拠がつづく限り、ふたりの困難な仕事は続く。誕生日に映し出されたゼロ歳児の息子が語る、「父さんは何故、兵隊を殺さないの?」。荒んだ子とはいうまい。兵士の暴力のなかで暮らす子どもの、それが現実なのだ。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2012/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。