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花もつ女たち*N05*ジョージア・オキーフ アメリカ絵画のグランドマザー

ジョージア・オキーフ 1887~1986


 「アメリカ抽象絵画のグランドマザー」と形容されることがある。“グランマ”には子、孫がたくさんいて気丈なイメージがある。確かに影響力の大きな画家ではあったが、ニューヨークなどにあって人工光のなかで描いてた作家と比べると、オキーフはあくまで外光派の抽象画家だ。厳密にいえば自然の揺るぎない形態からインスピレーションを得た半抽象画家である。
 20世紀の米国にあって隆盛みた抽象絵画だが、彼女は唯一無二の存在であって、孤高という真の靭(つよ)さがある。自身、「中西部の、米国のなかでもあたりまえで健康的な地方」育ったことが絵に大きな影響を与えたと書いている。つまり、彼女には都会の喧騒から早々と抜けてヨーロッパにない雄大な自然に囲まれ、大気の流れのなかで呼吸し、生々流転を注視し愛(め)で、米国の野生を象徴する画家となった。子や孫は関係なく一代の強靭な個性である。
 オキーフの名を高めたのは画面いっぱいに描いた花の絵だが、そこには女性の生殖器を象徴する美の主張もこめられているだろう。可憐な花ではなく、野に咲く野生の女オキーフの自画像であるかも知れない。そこには西部開拓史における女の力強さも感じる。
 心身ともに健康的である。“グランマ”に大地に育まれた健康的な農婦というイメージが筆者にある。その意味での「グランドマザー」という献辞なら理解できる。
 オキーフは約100年生き、70年間描きつづけた。広大な米国の風土を思うとき、オキーフの絵に仮託して想い出されるような〈典型〉が描かれているとも思うのだ。
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花もつ女たち*No4*コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ

コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ
 (エル・サルバドル/フランス 1901~1979)


 スペイン語で苗字を「アペリド」という。コンスエロは妻として作家サン=テグジュペリのミューズとなった。
 しかし、気位ばかり強い夫の生家から彼女は終生うとまれた。彼女が、サン=テグジュペリと署名することにスノッブな反感を抱えていたようだ。そんな家族から疎んじられながらも夭逝した夫の国フランスで多くの歳月を過ごし、その地で土に還った。
 コンスエロの母国は中米のエル・サルバドルである。生涯、熱帯の風土を愛でた彫刻家であり画家であった。そして、個性的な詩的修辞に富む文章を書いた。〈星の王子さま〉を魅惑する美貌に恵まれた。その愛の生活を綴った自伝『バラの回想』のなかでコンスエロは次のように書いている。
 「私はスンシン家(エル・サルバドル)からマヤ族の血をたっぷりと、そして彼らが喜ぶであろう火山の伝説を受け継いでいた」と(香川由利子訳)。
 マヤ族とは中米地峡に壮大な幾多の神殿都市を築き、精緻な数学の体系を築いた文明の構築民族。コンスエロは、その末裔であると宣言する。これはメソアメリカ出身の知識人がよくつかう誌的修辞である。
 『星の王子さま』に小さな火山が登場するが、あれは米大陸でもっとも小さな国エル・サルバドルの活火山を象徴しているのだろう。サン=テグジュベリが操縦していた飛行機が墜落し瀕死の重傷を負ったフアナサルバドルの隣国グァテマラという説を出している評者もいる。
 コンスエロは夫亡き後、彼の肖像や「星の王子さま」像など多くの彫刻を遺す。中米にあっては女性彫刻家の先駆者の位置にある。油彩も描いた。その晩年の一連の絵は夫の『夜間飛行』へ仮託しているのだろうか、青みを帯びた夜空のような色調のなかに心象光景を刻み込んでいた。しかし、コンスエロの作品をみていると、夭折した夫にあまりにも呪縛されていたのでは、と思ってしまう。愛ゆえにサン=テグジュベリが強いたイメージの檻からなかなか飛び出ることができなかった、ように思う。 

花もつ女たち no2 *マイラ・アディル・ローガン(心臓外科医 米国)

花持つ女たち NO2

 マイラ・アディル・ローガン(心臓外科医 米国)1908~1977

 女性初の心臓外科医。そして世界で9番目に心臓手術を執刀した医療の先駆者である。
 その人は人種差別の激しい南部アラバマ州出身の黒人女性であった。
 自分の肌の色が差別の対象になることが、早熟で賢明なマイラの勉学への傾きを強くさせたことは想像に難くない。
 心臓への執刀がもっとも至難だから、それに敬意を払って「心臓外科医」と書いたが、評伝を読めば、女性の肺結核を早期発見するための研究や、抗生物質に関する研究にも大きな業績を遺していることを知る。
 インターン時代、マイラはニューヨークのハーレムにある病院で緊急医療に携わっていた。貧しい黒人たちが瀕死の状態で夜ごと運び込まれるという施設のなかで一晩中、手術台に立ちつづけた、無給で。そうした日々のなかで執刀に求められる適確な決断力、そして外科医としての技術が鍛錬された。それはやがて心臓外科医としての基盤を築くものとなっただろう。
 女性で黒人であったためマイラの名声は社会的献身が求められた。マイラはそうした活動にできるうる限り受けた。たとえばニューヨーク州無差別雇用対策員会、家族計画協会、全米黒人援護協会医療協議会等々……それはけっして名誉職というものではなかった。いずれも社会的影響力をもつ重い仕事だった。彼女の発言はそれぞれの分野で説得力をもった。
 今日の米国にあっても、黒人で女性で心臓外科医という存在は珍しい。
 マイラが掲げた先駆な松明(たいまつ)は今日も医療に携わる黒人たちの足元を照らし、先導している。  

花もつ女たち*兼高かおる

兼高かおる(旅行家 1928~ )*花もつ女たち NO1 「憧れの海外旅行」を時代を先導
                  
  
▽本稿は、某紙に、連載している『花もつ女たち』の一稿。女性と旅、ということで2編の原稿を掲載した、ついでに本稿も合わせて読んで欲しく転載した。以後、適宜に、掲載分の「花もつ女たち」を転載していきたいと思う。


 兼高かおるさんのイメージは旅の途上の前向きの姿勢、軽やかな好奇心に満ちた笑顔だった。
 日本人がたいはんが等しく貧しく、外貨の持ち出しが厳しく制限されていた時代、兼高さんと必要最小限のスタッフは地球を闊歩していた。
 飛行機の主役はまだプロペラ機、時間も経費もかかる時代だ。
 1959年、『兼高かおる世界の旅』という番組が週一ではじまった。テレビが家庭のなかで娯楽の主座となった時と軌を一にしてはじまった番組は、日本人の海外への好奇心を煽(あお)った。兼高さんの旅から、多くの若者が海外旅行への憧れが働く動機づけともしたものだ。戦中世代なら、番組を通して欧米諸国の実態を知り、文化の重層、豊かさに触れ、井の中の蛙(かわず)だった、と無謀な戦争に駆り出されたことを悔やんだ人もいただろう。
 兼高さんの足跡は約150カ国・地域に及ぶ、地球を約180周する路程。日本の海外公館は当時、限られたおのだった。旅行者には不便な時代だ。情報不足、カード決済もできない状況のなかで自らディレクター、プロデューサーとして取材し、ナレーターとして水先き案内人となった。
 女性であるがために強いられた苦労もあった、と後日、語っている。しかし、テレビの兼高さんんはいつも笑顔で、瞳は好奇心に満ちていた。
 戦後ニッポンの海外旅行は兼高かおる、という女性が先導し、カネさえ出せば日本語で事足りる“快適な旅”が実現したバブル時代になって番組は終焉した。番組は1980年に最終回を迎えた。

インド映画『恋する輪廻』の女性監督ファラー・カーンさん

インド映画『恋する輪廻』の女性監督ファラー・カーンさん


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 インド映画の生産拠点ムンバイ(旧ボンベイ)を称して“ボリウッド”という。ハリウッドに匹敵する製作本数を誇るからだ。年間約1000本の映画が量産される。大半が大衆向け娯楽映画。しかし、女性監督して成功したのは現在、只今、ファラー・カーンさん、ただ一人だ。

 インド映画『踊るマハラジャ』が日本で大ヒットして以来、ボリウッド産ミュージカル映画が公開されはじめた。それまでインド映画といえばサダジット・レイ監督の『大地のうた』三部作など、インドの貧困、社会矛盾を批判的に見つめる作品しか知られていなかった。けれど、生活が厳しければ娯楽に笑いを求める。日本だって同じだった。敗戦直後から映画制作は復活し、テレビがお茶の間の主役になるまで娯楽映画が量産された。筆者が生まれ育った川口市に最盛期には7館ほど映画館があったはずだ。
 近年、IT産業を中心に急速に経済力をつけブラジルとならぶ"明日の大国”といわれるインドだが、民衆の大半はまだまだ貧しい。そんな民衆が乏しい財布のなかから入場券を買い求めて入る映画館は、日常の生き難さを忘れる空間でなければいけない。映画は愉しくおかしく歌あり踊りあり、かつ色彩豊かであり、美男美女が主役。さらに勧善懲悪であらねばならない。娯楽の要素に一つでも欠けてはいけない。

「わたしが将来、社会的なテーマを取り上げることがあっても娯楽映画の枠組みで製作するわ」
 とカーン監督は明快に言い放った。本作もまた、美男美女の恋物語が歌あり踊りありで語りつくす徹底的なサービス精神にあふれる。

 「インド映画100年の歴史はいつの時代も大衆を楽しませることに徹してきたのよ。それがインド映画の伝統。わたしは、その歴史にたまたま女性として加わったに過ぎないわね。女であることで不利益なことは一切なかったわ、そりゃあ、わたしも3人の子の母親ですからね、その制約はあるわ。でも、それを苦とは思わないわね。思ったら、やっていなしね。仕事は夕方まで終わらしたいとか、長期間の撮影にならないようには努力しているのが主婦で母親のわたしよ」

 インドのミュージカル映画を観ていていつも感じる疑問をこの際、とぶつけてみた。
 歌のシーンがふんだんにあり、その属性としてダンスがあり、衣装が何着も替えられてゆく、そう1曲のなかで。それが違和感なくリズミカルに流れてゆく。

 「本編とは別に歌のシーンは別に詳細なシナリオを書くのよ、私は。編集者はそれにそって仕事をするだけ、他の監督作品より、わたしの映画の編集のほうがラクなはずよ、わたしの指示通りにやっていればできるのよ。わたしはもともと振付から映画づくりに入っていったからダンスのシーンはこだわりがあるの。衣装デザインもダンスの邪魔にならないようにアイデアをデザイナーに伝えて作っています」と事もなげに答えた。

 インドのミュージカル映画はみな3時間前後の長編。本作もまた169分だが、テンポの良さ、リズミカルな展開に監督の高度な職人技が窺がえる。「ところで楽しんで戴けたかしら?」と質問された。

 「えぇ主演女優のディーピカー・バードゥコーンの美しさに見惚れているうちに映画は終わりました」
 と答えると、カーン監督、莞爾(かんじ)と微笑んだ。 

 インタビューのあいだ、スナック菓子を食べ続けていたカーン監督でもあった。残念ながらダンサー時代の曲線美は喪失したようだ。

「イザベラ・バードの旅の世界」展

今日、海外旅行は娯楽の常道となった(といっても、先進国、ないしは中進国の市民の特権的娯楽であり、途上国においては一握りの富裕層の奢侈である)。観光は一大産業となった。観光が国家収入の最大収入源という国も少なくない。そして、その産業を支えるのはいまや女性だが、観光という言葉のなかった時代の女性の旅を、英国と日本の例に取り上げてみた。


「イザベラ・バードの旅の世界」展から
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 イザベラ・バード(1831~1904)は世界を旅することによって自立を求めた英国人女性。まだ、文化人類学という存在がなかった当時、その先駆的な業績となった旅行記は今日も色あせず読み継がれている。
 22歳から70歳まで旅に前傾姿勢を貫いた。
 視覚・聴覚・触覚、五感で感じたことを記載する能力は彼女の偏見に囚われない博愛主義といえるかも知れない。旅を記録するため最初は自らの文才のみに頼った。だが、それでは飽き足らず、より正確にとスケッチを添えはじめる。やがて写真技術を習得したイザベラだった。
 病弱な身体だったというが、その身体的理由のため予防医学を学び、修得し、やがて過酷な旅でも重篤な病に冒されることはなかった。当時、軍服としてあった男の旅装だが、女にはそれがないため彼女自ら工夫も重ねている。
 「女にできることは女がする権利」とは彼女の心情だった。
 まだ女権の拡張ということを声高に言わなければ何事も前に進まない時代に南米と南極を除く大陸を歩いた。日本にも開港から20年目の1878年に来日し、東日本を歩いて縦断し北海道入り、アイヌの集落に入り、ともに生活するなかで記録を取った。その記録『日本奥地紀行』は現在も明治期の日本を客観的に記録した証言集として第1級の資料価値を持つ。
 飛行機はおろか鉄道の発展も限られていた時代の旅の過酷さは、すこし途上国を旅すればいまでも追体験できることだが、彼女はそれを100年以上も前、女性であるがためにこうむる不愉快さをエネルギーに変えて歩きつづけた。そうした旅の途上でも夜毎、記録を留めるために明かりを灯しつづけた。意志堅固な人でもあった。
 本展は、そうしたイザベラの足跡を踏査してきた金坂清則・京都大学名誉教(地理学)が撮った記録写真約100点を、イザベラの文章、スケッチ、写真と重ね合わせてみせる企画である。

 イザベラの足跡を追ってみて改めて思うことは英国が世界帝国として拡張しつづけていた時代の人だということだ。英国の影響が希薄な中南米、東欧からロシアは未踏査のまま遺されていることでも、彼女の立ち位置が分かる。
 観光を事業として成功させたのはトーマス・クック社だが、その繁栄も大英帝国の版図の拡張ともに歩んだものだ。
 サハラ以南のアフリカも未踏だ。大英帝国の繁栄と英語の流布という政治的要因を抜きにしては語れない。しかし、イザベラに同伴したり、後継者を自認する女性が英国に現れなかった。「史上屈指の旅行家」という栄誉はやはり彼女の類まれな個性、才能を活かした努力の賜物と言うしかない。
 *同写真展は、6月30日まで、東京大学駒場博物館で開催された。

女俳諧師たちの旅・・・隠れた日本女性の旅

女俳諧師たちの旅・・・隠れた日本女性の旅


 イザベラ・バードが英国ヨークシャー州で1831年に生まれる約100年前、日本では鎖国の世の江戸時代の巷に多くの女性俳諧師が活躍し、そして諸国を経巡って発句し、紀行句文集を公刊していた。その大半が当時の支配階級である士族や皇族ではなく市井の女たちであった。
 明治以降、加賀の千代女という句作以外、ほとんど歴史に埋もれてしまったが、俳諧史のなかでは繰り返し言及されていたが「日本文学史」のなかでは傍流に追いやられた。近年、江戸時代の市井の女たちが自らの生活実感を芸術表現として俳句を活用した意味、あるいは俳句という文学を掌中にすることによって自立した女俳諧師の存在を見直そうという研究者が出てきた。
 ここでは、旅をつづけた女俳諧師について紹介しておきたい。
 芭蕉の旅が、各地方に散在して住む門下を訪ね、句会を開くなどして歩きながら旅費を稼ぐものであった。同時に地方に一門の拡張をはかり勢力を成すことであった。俳句を生業として自立させた俳諧師はよほどの蓄えでもない限り、生きるためにも旅をしなければならなかった。芭蕉もそういう人であったし、旅をしなければ作品は生み出せなかった、ということだ。われわれが知る芭蕉の句が紀行句集『奥の細道』に収録されていることは誰でも知るとおりだ。
 諸九尼(有井)という女俳諧師がいた。彼女の旅は五十も半ば過ぎてから芭蕉の足跡を追うようにはじまった。九州・筑紫の人で、大きな庄屋の娘として生を享け、長じて近在の小庄屋に嫁いだ。空白だからけの前半生はそれだけを伝える。しかし、旅する俳諧師と出会うことで人生は一変する二度と故郷にもどることはできないという不退転の決意で駆け落ちする。京都や大阪で暮らすことになるのだが、夫と死別すると生きるために俳諧師となる。それ以外の道は閉ざされていた。そして生きるために旅をつづけた。代表作の紀行句集『秋かぜの記』は芭蕉の旅を追体験もした約半年の旅であった。57~58歳という年齢での旅であった。女宗匠として句会では点者をつとめながら旅費を稼ぎながらのものだった。そういう旅をくりかえした。
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諸九尼以上に旅に明け暮れたのが菊舎尼(田上)。その生涯のほとんどを旅の空で過ごした。公刊された作品『つくしの旅』『九州行』『一聲行脚』『吉野行餞吟』『九國再遊』の表題をみているだけでも旅の人であったかがわかるだろう。現存するのはわずかだが旅の途上、絵も描いた。このふたりの他にも句集を公刊したことで名の残った職能的女俳諧師の名に、星布尼、此葉女、燕志女、琴上などが俳諧史に記されている。もし、鎖国という時代でなければ、菊舎尼などは知の拡張を求めて海外に飛躍していったかも知れない才能だ。
 俳号に「尼」をつけている。尼僧として諸国を巡っているのだ。髪をおろした姿で歩くことによって、旅費を欠いたとき托鉢で飢えをしのぐこともできただろうし、尼僧の姿になることによって無頼漢からの乱暴・狼藉、追剥等からの被害も避けえるということだったのだろう。世捨て人の姿になることによって、その時代の困難な女の旅はかろうじて保たれたということかもしれない。
 イザベラに先行すること百年、日本には俳句を通して自立し、旅をすることによって自己拡張を求めた女が多数存在した。それは文芸史だけでなく女性史のなかでも世界的に特筆するものではないだろうか。

高野悦子さんのお別れの会

高野悦子さんのお別れの会
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 2月9日、永眠された岩波ホール総支配人・高野悦子さんのお別れの会が6月3日、東京日比谷の帝国ホテルで行なわれた。会場は故人を追慕する参列者であふれた。
 高野さんに当たり障りのない追悼記事など似合わない。還暦、岩波ホールのスタッフに計らいで“シネマ君”と結婚した高野さん、やはり「映画」の思い出を語って故人を偲びたいと思う。
 高野さんがパリの高等映画学院監督科で学んでいた当時の同級生に後年、ポルトガルを代表する監督になるパウロ・ローシャがいた。
 そのローシャ監督が日本で『恋の浮島』を撮影した。1899年に来日しポルトガル総領事を務めた後、公職を退き、母国に帰ることなく徳島で著述生活を送り、当地で没した作家モラエスの後半生を描いた作品だった。撮影は1983年、と記憶する。その徳島ロケに付き合った。
 高野さんも製作者としてロケに同伴されていた。夕方、浜の松林の撮影を終えバスで宿舎へ向う帰路、筆者は高野さんのフランス語通訳で監督にインタビューをはじめた。どれくらい経ったか高野さんは突然、沈黙した。監督は話しつづける、通訳がはじまらないからだ。しばらくして寝息が聞えた。監督と筆者は、唖然! 監督はにこやかに日本語に切り替え、言葉を捜しながら行きつ戻りつしながら話しつづけた。「いつかモラエスを撮ろうと思い日本語を勉強したのです」。演出も日本人スタッフ、キャストには日本語で指示を出していた。
「ポルトガル文学の最良はすべて国外、海の向こうで書かれたのです。ポルトガル人の歴史を謳った叙事詩『ウズ・ルジアダス』は航海をつづけながらルイス・デ・カモンイスが書きあげたものです。私はモラエスの生涯を通して、そうしたポルトガル人のなかにある海の向こうに求めるなにかを描きたいと思ったのです。ずいぶん前、パリで学生だった頃に高野さんにそんな話をしたことがありました。『恋の浮島』の企画が実現したのも高野さんのおかげです」
ローシャ監督の作品がはじめて日本で公開された際、スクリーンを岩波ホールに用意したのも高野さんだった。確か、ポルトガルの旧植民地アンゴラの独立戦争から復員してきた貧しい青年の話だったと思う。そのスクリーンにはいつもユーラシア大陸の西の果ての浜を洗う憂鬱な大西洋が眺望されていた。
 「あっごめんなさい。でも、たくさんお話できたでしょう」
 宿舎に着いた時、高野さんは悪びれず言った。それから約30年……も経ったか……まさか高野さんの追悼記事を書くことになろうとは……。合掌。  
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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