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花持つ女 №12*草間彌生 (日本/1929~)

 草間彌生 (全身芸術家*日本/1929~)
  

 求道者は巷間の毀誉褒貶に動じない精神力を持つ。剛直でもあり柔軟でもある。常に懐刀を抱えて、みごと腹掻っ捌いて自ら果てようという気概もある。女性の草間さんにそういう批評が妥当かどうかはにわかに判断できない、というのが正直な気持ちだけど、しかし、そんなふうに思ってしまう。
 しかし、批判があまりに陳腐、低劣であればさしもの求道者もたたかう前に呆れるだろう。
 草間は日本でまともに受け入れられずスャンダラスな汚名を浴びせられた。そんな日本に見向きもせず、ニューヨークを活動拠点として大西洋を横断しながら国際的名声を勝ち得た。もっとも現在の日本美術界が草間を正こくに評価しているかといえば、そうもいえない。国外の名声に逆らえずおずおずと受け入れている、といった気配がある。もっともそんな「評価」は草間にはどうでもよいことで、現在も彼女しか展望できない地平線に向かって邁進中だ。
 草間が繰り返し執拗に描き造形しつづける同一反復、あるいは無限の増殖性はまったく個人的資質から発している。そこに高邁な理論があるわけでなく、草間にとっては慰安にいたる精神的浄化の手わざであった。
 草間はいう「嫌いなもの、厭なもの、怖いものを、作って作って作っていってそれを乗り越えていゆくのが、私の芸術表現なのだ」と。
 草間はそれを、「サイコソマティック・アート」と名付けた。
 幼少期の複雑な家庭環境から超脱するための慰安として描きはじめたことをかくさない草間は、いわば全身芸術家なのだ。
 いま、日本を代表する現代アートの最良に草間と、そしてヨーコ・オノ(1933~)がいる。ともにほぼ同世代の女性であることはもっと注視されたい。活動領域は違うが、ピアニストの内田光子(1948~)も加えるべきだろう。彼女のピアノも深い精神性を宿すもので、モーツァルトと異界で交流する。
    
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藤圭子さんの死

藤圭子さんの死

 藤圭子さんの突然の逝去を知って、ギター片手に“怨歌”を歌っていた頃を思い出した。
 「圭子の夢は夜ひらく」は鮮烈だった。
 もともと元祖三姉妹の園まりさんのヒット曲だった。
 園さんの粘つくようなコケテシュな歌も良かったし、それはそれでヒットしたのだ。ところが藤さんのそれは、園さんの歌とは対極といっていいほど、突き話した醒めた、なにか隙間風がさむざむと吹き抜けるような歌だった。まったく同じ素材を使いながら、これほど違ってしまうものかと、感嘆したものだった。
 園さんの歌は、レコード会社の演出、企画物だったろう。しかし、藤さんのそれは個性だった。
 藤さんはデビューから個性が際立っていた。
 個性そのものが芸だった。
 そして、その芸が飽きられてしまえば、それで終わりだ。
 個性は容易に変えられないのだから、時間勝負の大衆歌謡の世界では落後していくしかない。どうにもしょうがない。
 前川清と結婚、離婚・・・そしてニューヨークに移住、というところまでは耳にした。
 そして、後年、宇多田ヒカルの“母親”として再登場した。だが、それだけだ。
 ヒカルさんも個性豊かな歌手だ。デビュー時からグレードが違っていた。ヒカルさんの歌は最初、メキシコで聴いた。正直、日本を主舞台にせず米国を中心に活動していればクリスティーナ・アギレラぐらいの人気を獲得でいると思った。でも、彼女は日本を重要拠点とする。アギラが母国エクアドルとは距離を置いたのとは行き方は違った。
 日本人はやはり戻ってしまう。米国のなかに巨大なスペイン語マーケットを活用できるヒスパニック系歌手との感傷性の違いだろうか?
 藤さんは人気歌手だった。娘の才能の開花を自分の青春になぞらえることはできても、“母親”には徹することはできなかったのだろう。娘の才能をさらに豊かに、その才能に群がる海千山千の壁になろうというような、美空ひばりさんのおかあさんにはなれなかった。
 娘が稼ぎ出す金をひたすら消費する。それは自分が人気歌手だった当時、稼ぎ出しながらも超多忙で遊興に使うことのできなかった時代を、遅れて補うような日々であったのではないか。
 しかし、そんな生活はしょせん虚栄・・・相変わらず地に足のつかない生活だ。
 藤圭子は飛んだ。一閃の飛翔・・・イカロスより高く飛ぶことはできなかった。
 自死もまた、彼女にとっては個性だったに違いない。
 不可解な死とはいうまい。
 彼女は遺言で、葬儀をいらないと書いたそうだ。死をあくまで孤的なものとして選択した彼女は、赤の他人の涙を峻拒(しゅんきょ)したのだ。葬儀の周囲でしらじらと批評されることを拒んだのだ。

 

閑話休題*長女からの「瞽女」便り

先日、宇都宮市郊外に嫁した長女から、『花持つ女たち』の「小林ハル」を読んで、とメールが入った。
瞽女(ごぜ) や伝統芸能に興味ある読者には、ちょっと有益と思うので抜粋しておく。私自身、知らないことだったので、
 〈このあたりは瞽女さんが来ていたそうで、行き倒れになってしまった瞽女さんのお墓もあったり、空襲で亡くなったしまってそうですが、宇都宮には瞽女宿もあったそうです。
  差別のなかでも、自活のできるくらいの技術と職業が得られていたのは、いまでは逆に素晴らしいことだと瞽女さんを知ったときに思いました。
 パパさんの文章を読んでみて、そんなことを思い出して、しみじみしていました。
 三味線はいいよね・・・〉
 とのことです。
 声の良い瞽女さんは養蚕の盛んな地方には足げく通っている。養蚕農家ではたいてい瞽女さんを尊重した。お蚕さんに瞽女さんの唄を聴かせるためだ。養蚕農家では、喉の良い瞽女さんの唄を聴かせると、良い糸をつくるといわれたそうだ。そんな話がたくさんのこる。
 おそらく埼玉でも秩父地方や北埼玉、群馬や茨城といった北関東地方へも門付けして歩いていたものだろう。関東における瞽女さんの旅はいまだきちんと踏査されていないように思える。
 故・斉藤真一さんのような筆立つ画家の仕事があらためて貴重なことであったと思わずにはいられない。

花持つ女たち №11*崔承喜「半島の舞姫」1911~1967?

崔承喜 (1911~1967?)
  「半島の舞姫」

 アメノウズメが天の岩戸の前で踊った神代の昔から21世紀の今日まで、多くの舞踊の名手を輩出した日本列島。舞踊は空間と時間の芸術だから“至高”の名舞も遺らない。
 最高の舞い手は誰だろう、とは神のみ許された悩みだが、文献や映像記録などによってある程度、推測はできる。
 昭和の時代に崔承喜が舞っていた、地球大で。
 日本で学び日本から飛躍し、旬から成熟という芸術家としての飛躍期を「日本人」と強いられて踊った。
 昭和10年代の彼女の人気は当時の軍部といえども無視できなかった。企業家たちは彼女の人気にあやかって自社製品の売り込みに利用した。新聞、雑誌、ポスターに崔の微笑が氾濫した。今日でいうならAKB以上のアイドルということになろうか?
 「半島の舞姫」として日本、朝鮮、中国、さらに欧州、南北アメリカ大陸諸国へ。しかし、外国公演でも日本の特務機関から自由ではなかった。プログラムの変更も強いられた。しかし、朝鮮人の名が「創氏改名」で奪われてゆくなか彼女は「崔承喜」と名乗りつづけ、民族衣装が忌避されるなか、チマチュゴリの美を賞賛して舞い、同胞を励ましていた。
 1949年8月15日、崔ははじめて朝鮮人として踊れる歓喜の日を迎える。
 しかし、祖国は南北分断、朝鮮戦争、そして崔は、社会主義とは名ばかりの軍事独裁国家・北朝鮮の人となった。北朝鮮の北の国境の向こうの寒い国にはスターリンは健在だった。崔はあらたな試練を迎える。
 没年は不明。終焉の地も確定していない。かつてパリ国立オペラ座を満員にした“日本人”崔が、“朝鮮人”崔になってから、また政治の波濤に翻弄され、そして舞台を奪われ、命を奪われた。    

花持つ女 №10 マリンチェ (メキシコ 先住民奴隷・通訳)

マリンチェ (メキシコ 先住民奴隷 ?~1527)

コロンブスの「新世界」発見後、最初にアメリカ史に登場する先住民女性の名である。
 しかし、メキシコでは、その名はながいことメキシコでは「裏切り者」の代名詞となっていた。壁画家ディエゴ・リベラの描くマリンチェ像は、子を喰らう鬼子母神のような形相だ。
 何故……理由は、アステカ帝国の征服者エルナン・コルテスの愛人となり、彼の制服行に連れ添い、有能な通訳者となり帝国の崩壊を早め民族の裏切り者と位置づけられてきたからだ。

 しかし、近年、メキシコの先住民女性活動家たちから再評価の動きが出ている。
 まず、彼女を「裏切り者」の地位に強いたのは先住民共同体の酋長らが、上陸したスペイン軍兵士の出で立ちに恐れ、マリンチェを女奴隷として差し出したからだ。いまふうにいえば、「従軍慰安婦」といっても良いだろう。奴隷となったマリンチェは生き延びるため征服者たちの言葉を必死に覚えた。と同時に、自分を奴隷の身分に落とし、戦わずして生け贄を差し出して共同体の安全に汲汲とした先住民社会の指導者たちを憎んだろう。そういうマリンチェの境遇を忖度せず、「裏切り者」というのは一方的だ。
 コルテス軍の囲い者となったマリンチェは17歳だったといわれているが、むろん正確なことはわからない。
 ただし、彼女の出自が小さな先住共同体の酋長の家から出ていることは確かなようで、10代の早いうちからアステカ帝国の首府テノチティトラン(現在のメキシコ市)に留学し、そこで帝国の公用語であったナワトル語を習得、生地のマヤ系の母語ともに、すでにバイリンガルであった。そして、コルテス軍のなかにあって、たちまちスペイン語を習得した。コルテスが重宝したのは当然だろう。
 聡明なマリンチェはアステカ帝国支配下の小部族社会の状況を把握する分析力もあったらしい。マリンチェは愛人として、コルテスに先住民社会の弱点、勢力争いなどを利用して戦うべきだ、とも進言した。それが少人数のコルテス軍が大帝国を崩壊させた最大の要因だともいわれるぐらいだ。
 コルテスはマリンチェを“妻”として尊重し、愛したことは事実だ。二人のあいだに生をうけたマルティンは記録に残る最初のメスティーソ、西欧人とアメリカ先住民の混血児として記憶され、コルテスは息子をスペイン王室のなかで、それなりの地位が与えられるように尽力している。

 アステカ帝国の崩壊劇の渦中を生きたマリンチェの生涯は、その荒波に打たれつづけたせいか若くして死ぬ。たぶん20代半ばだろう。しかし、その短い歳月を彼女は強いられた境遇のなかを懸命に女として生き抜こうとしたのだ。いや、毅然と生き抜いた、といえるだろう。

「ユーゴスラビアの素朴画」といわれたクロアチア素朴画

  
1970年代から日本では、いわゆる「素朴画」派の企画展が多くなった。おそらくルネサンスからはじまりフランス印象派を通過し、ピカソから戦後のアヴァンギャル美術という流れを教科書的に見せられることに、食傷していた鑑賞者が多くなっていたのだろう。

 戦後、ニューヨークで爆発的に紊乱したアヴァンギャルの描き手も一部をのぞけばアカデミックに学んだ優等生たちであった。そういうプロでない描き手の画家が注目された。それはポスターやイラストなど職人のアートが「芸術」として認識されはじめた時代でもあった。

 この70年代に、故坂崎乙郎氏が盛んに正統派の美術史の行間からこぼれ落ちた異端、偏執、異形、風狂……要するに個性的な美術家を狩猟し、連作のように芳香に満ちた美術家論集を上梓していた。それをけっこう夢中で読んだものである。乙郎氏の厳父は、日本でクールベの価値を知らしめた坦氏であったが、父子二代の美術批評による反骨性もまた魅力的であった。もっとも乙郎氏には文体を修飾する遊びがあって、それが若い私を惹きつけた。
 
 その70年代、ユーゴスラビアの「素朴画」として多くの名も知らぬ画家たちの作品が日本に紹介されることになった。
 イヴァン・ラブジン、イヴァン・ラツコヴィッチといった画家が注目された。それは自然美を独自のニュアンス、繊細な筆致で色彩感あふれる幻想美のなかに描き出したリリカルな世界だった。
 農業を生業としながら、農閑期に絵筆を取る“日曜画家”だとも喧伝された。それにしては、技術がある、という疑問も、この国の「社会主義はそのような学びの場が公共空間に存在しているのかもしれない」と自ら打ち消した。しかし、そのうち詳しい情報が入るようになって、「素朴画」でプロとして立つ画家の存在も知った。

 そして、彼らが海外でユーゴスラビア人画家として認識されている時代、彼の国にはキナ臭さはいささかも存在していなかった。サラエボで冬季オリンピックも開催された時代でもある。そのオリンピック競技場が墓場と化すような、民族浄化といわれる内戦が始まろうとは誰が予期しただろうか。      

イヴァン・ゲネラリッチ
*    *    *

クロアチアの首都ザグレブに国立ナイーヴアート美術館がある。そこにイヴァン・ラブジンをはじめとするクロアチアの代表的な素朴画家の作品がほぼ網羅されている。

 クロアチアを訪れる前、筆者にとって「ユーゴスラビア素朴画」は固有名詞であった。「クロアチア素朴画」という概念はなかった。
 しかし、クロアチアを訪れる前、資料集めをしているとき、かつて東京で繰り返しみてきた「ユーゴスラビア素朴画」の大半ほとんどがクロアチア、しかも東部地方フレビネ村の農民画家に発していることを知った。

 つまりユーゴスラビア解体前、日本でも愛された「素朴画」は、「クロアチア素朴画」であったのだ。
 おそらく、ユーゴスラビア解体以前、連邦の首都であったベオグラード、現在のセルビア共和国の美術館に収蔵されたはずの「クロアチア素朴画」は内戦下、あるいは内戦後、どのような扱いを受けたのだろうか。
 クロアチアはセルビアと戦った。ドナウ川を挟んでセルビア領と接するクロアチアの町ヴコヴァルでの戦闘は第2次大戦以来、市街戦として最悪の戦いと知られ、町は完全に破壊された。

 クロアチアの素朴画家は内戦を描いていない。まだ描いていない、といえるかも知れない。しかし、フレビア派の始祖的な画家イヴァン・ゲネラリッチは農民暴動をテーマに描いている。身近な素材として、それを描いた。素朴画は生活感に満ちたものだが、その生活が脅かされた内戦の記憶は画家たちの記録に色濃いはずだ。

 内戦以降、「クロアチア素朴画」と銘打った企画はまだ日本ではない。もし、開催されるとしたら、内戦以降に描かれた「素朴画」をみたいと思う。  

花もつ女たち №9 ナンシー関 消しゴム版画家*1962~2002)

ナンシー関(1962~2002) 消しゴム版画家
ナンシー関

 彼女が週刊誌を主たる発表媒体にみごとな「消しゴム版画」を披露していたのは一九九三年からほぼ一〇年間。同時期、私は外国で暮らしていたから、彼女の人気に実感はない。
 時折り旅行者がもってくる週刊誌などで散見すれど、仕事量まで斟酌しんしゃく)するほどヒマでなかったが、ユニークな才能だと思った。
 寄席芸に「切り絵」がある。紙と挟み一丁が小道具、そして小粋な話芸。客席から「御題」を頂戴し、あざやかに切りぬく見事な省略美、象徴美。ナンシー関の「消しゴム版画」もそうした職人芸の一つだった。私が帰国したとき、彼女はすでに鬼籍に入っていた。

 典型的な職人であった。民放のトーク番組に傾斜して時代の移ろいを定点観測し、約五千点の消しゴム版画を彫り、エッセイを書きつづけた。
 そこで取り上げられる主題は、たいてい芸能人、ないしは芸能人化した元スポーツ選手とかであって、スターとか一流という定義は彼女にはなかった。その時どきの話題の人物を取りあげつづけていた。私自身、日本不在の十数年があるから、彼女に作品に登場する“話題の人”の多く、その話題ともに知らないし、かつ知りたいとも思わない。
 
 芸能の世界とはおびただしい才能を貪欲に消費し、使い捨てて成立してゆく。彼女はそうした芸能人にも時代の証(あか)しを見出して彫り、論じて倦(う)まなかった。

 現代の”瓦版”を意図したのだろう。だから、一点モノの絵ではなく、複製を前提した版画に固執したと思う。
 独り暮らしのマンションには四~五台のビデオデッキを備え、テレビを視聴しつづけたそうだ。こういうの職業的オタクとでも呼びたい。しかし、不健康な生活だ。オタクだから、そんな生活をあらためようなどとはおもわなかっただろう。それを孤絶という言葉で表現したいような気がするが、本人の心持ちはどのようなものであったか。

 深夜、タクシーのなかで倒れ、果てた、という。おそらく、死の直前までいくつかの締め切りを抱え、意識は明晰であっただろう。全盛期の死であった。あっぱれな職人の死であったように思う。

花もつ女たち №8*小林ハル (瞽女 1900~2005)

小林ハル 瞽女(ごぜ) 1900~2005

 小林ハルの芸が全国に知られるようになったのは70歳を過ぎてからだ。
 瞽女を廃業し、仕事道具であった三味線をもたずに養護老人ホームに入所して以後のことだ。その当時、すでに旅回りする瞽女さんは数えるほどしかいなかった。
 瞽女という日本特有の民衆芸能は、新潟の長岡と高田の瞽女屋制度のなかで育まれ、信越から南東北地方を経巡ってなりわいとした門つけの芸だ。いまはもう存在しない。ハルは、その長岡瞽女最後の人といわれた。
 ハルの芸がはじめて録音されたのも70を過ぎ三味線をいったん手放して以後のことだ。そうした録音などによって人間国宝となる。
 当時、高田系瞽女唄の伝承者として杉本キクイ、刈羽系瞽女の伊平ソイが無形文化財保持者となっていた。そのなかでハルの生涯が語られることが多い。
 それは90歳を過ぎてもなおハルさんの記憶が明晰で、瞽女という独特の芸能の生き字引として聞き手を飽きさせず語れる知の宝庫であったからだ。
 さらに明治に生まれ大正、昭和、平成と三代を全盲(とあえて記す。障害者への福祉制度など皆無だった時代に生き、メクラとして時に蔑まれながら生きた)としてのハンディを背負いながら女ひとり、芸ひとつで自力で生きてきた。その壮絶な生き様に感銘する者が多かった。そして、ハルの芸はそうした自らの生きざまの証(あか)しとして圧倒的な存在感をもっていたのであった。

映画『ハンター』 オーストラリア

映画『ハンター』
 ダニエル・ネットハイム監督
ハンター

 オーストラリア東部に位置するタスマニア島といえばテレビのバラエティー番組などで、しばしば珍獣・珍種の植物の宝庫として紹介される。地場産業は観光、そして豊かな森林に支えられた林業だが、そのため開発で荒れた場所も少ないないようだ。当然、社会の趨勢として環境保護派が台頭し、「開発を阻止!」を糾合する。それに対し、林業労働者は生活権をタテに対抗する。テレビは、そうしたタスマニアのせめぎ合う現実をすっぽり捨てて“娯楽”を提供する。
 本作の主役はタスマニアの豊かな自然、その象徴として、すでに絶滅したといわれるタスマニア・タイガーがその重役を担う。
 絶滅したのだから生体が映画に登場することはできない。最後の一頭というタイガーが資料映像のなかで動くだけだ。しかし、それでは映画にはならないのでスピルバーグ監督のヒット作「ジュラシック・パーク」的にCGで造形化して雄弁な演技をさせている。それがまず違和感なく映像化されている。技術スタッフのテクニックとアート性を評価したい。
 絶滅種だから画面に頻繁に登場するわけにはいかない。かつ限られた登場シーンは印象深く雄弁でなければならない。最後のタイガーとしての孤独、寂寥といった雰囲気までただよわせたい、と演出側の要請に見事に応えている。まず、それを賞賛したい。
 このタイガーを追う孤高のハンター、マーティン役を、ウィレム・デフォーが演じる。これが完璧にはまっている。
 デフォーという俳優の存在が世界的に認識されたのは1986年、ベトナム戦争の実相をはじめて描いたといわれた『プラトーン』に出演してからだ。ベトナムに偵察兵として従軍したオリーバー・ストーン監督の実体験をもとにシナリオが書かれた映画だが、そこにデフォーは一軍曹役として出演しオスカーにノミネートされた。主演でも助演でもなかったデフォーの圧倒的な存在感に主演陣が喰れた。以後、さまざまな映画に出演するが『プラトーン』を超えるには至らなかった。
 若い映画ファンには『スパイダーマン』の印象的な悪役と認識されているだけだろう。そんなデフォーにとって本作のハンターは適役、間違いなく彼の代表作になるだろう。
 19世紀まで自然と、その恵みで暮らす人との関係はもちつもたれずのバランスの取れた良好な関係にあった。しかし、その自然が育んだ動植物、埋蔵鉱床が金になることを知った企業・資本が国境を超えて「開発」をはじめた。それから人と自然のバランスは狂いはじめた。公害の多発だ。
 日本の法隆寺と薬師寺は、奈良の山に自生していた檜で建てられた。山の北側で育った木材は、寺院建築でも北側に用いられていた。しかし、昭和の再建、修復では使える檜は奈良はもとより日本になく、台湾の山に入って切り出してきた。
 日本の山は明治以来、儲かる樹木ばかり植えて荒れ、その後、廉価な輸入材に圧され林業は衰退した。そういうことが世界規模で起きている。経済のグローバル化とはそういうことだ。
 デフォーが演じるハンターは、そうした経済のグローバリズムの矛盾を象徴する存在だろう。
 彼にタイガーを捕獲させ、血液など生体サンプルを採取しろ、と密かに仕事を依頼するのは多国籍の医薬品メーカーだ。ハンターは過酷な大自然のなかでも生きながらえる術を身につけた狩猟のプロだ。プロである限り、企業の要請には応えなければならない。そうして生きてきた。
 希少種の禽獣も射殺してきたかも知れない。そういう影を背負う男だ。
 ひとを寄せ付けない排他的な風貌、孤独な印象が生得のものになっているような雰囲気、身体からにじみ出すように演じ切ることができる俳優でなければ、この役は務まらない。デフォーはこれに適役だった。
 環境保護グループ、林業労働者、医薬品メーカーなどの思惑などを描きながら巧みに話は構成され、やがてハンターはタイガーと遭遇する大円団を迎える。そのシーンには触れない。触れれば、評者は持論を書くことになり、読者へのおしつけとなるだろう。
 そこで示すハンターの決断を是とするか否とすか……それは貴方が決めることだ。

花持つ女 No7 マリ・キュリー 、そして娘イレーヌ

花持つ女 マリ・キュリー 、そして娘イレーヌ
 (ポーランド・フランス 物理学・化学者  1867~1934)

 原子(アトム)という名は、ギリシャ語の「分割されない」からきている。
 マリ・キュリーの生涯そのものが真実の追究と良心に汚れなきこと、そして妻として母として良く生き抜くこと、すべてが人間の営みとして「分割されない」ことであったことが分かる。それがいつの時代でも、いわゆる「キュリー夫人」として“偉人伝”の主座を占めることになったのだ。
 彼女の物理学・化学への貢献は、放射能の研究、ラジウムの発見などに対するものだ。われわれが医療行為として世話になっているレントゲン撮影は、キュリー夫人、その夫ピエール、娘イレーヌ夫婦たちの弛(たゆ)まぬ努力によって人類の恩恵物となったものだ。
 しかし、放射能が人類におよぼす弊害が見極められていない時代における研究生活によって白血病に冒され、課題を幾多も残しながら死去した。それを継いだのが娘イレーヌ、母の後をついで学究生活に入り、人工放射性元素の発見によってノーベル賞を受賞するが、彼女もまた母とどうよう白血病で死ぬ。そして、母の時代より放射能の功罪を知ることなったイレーヌは核の武力への転用をもっとも早く告発する科学者としての道を歩む。そのため冷戦時代にあってはフランスの学会から冷遇されることになった。
 今日、フランスは欧州における最大の原発稼働国だが、それもイレーヌの時代に発している。もし現在、生きてフクシマの惨劇を知ったとき、フランスの現状をキュリー親子はどのように思ったか?  
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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