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花もつ女たち №19 アルテミジア・ジェンティレスキ

アルテミジア・ジェンティレスキ(イタリア/1593~1653)
  「絵画の女神としての自画像」


 アルテミジア、37歳の時に描かれた絵に「絵画の女神としての自画像」がある。なんとも大胆不敵な表題がつけられたものだ。自讃なら彼女のプライドの高さがうかがわれる。
 その絵に自らとどめた女性画家の像とは……手は絵具で汚れ、筆もつ腕の袖は粗雑にたくし上げられ、髪の乱れも気にせず一心不乱にキャンバスに向かう自画像。
 この「女神」は花園で舞う美神ではなく、アトリエという労働の場で格闘する働く女の像。17世紀前半に職業画家として自立したアルテミテジアだが、この時代の画家はアーティストではアルチザン、特殊技術をもつ職人であった。職人の世界は男の社会だ、偏狭な場だといっても良い。当然、女性であったための苦労話は多々、残る。
 真相は分からないが絵の師にレイプされ醜聞の渦中に投げ込まれたといった実話も残されている。
 女性は、男性の裸体を描いてはならない、と禁じられていた時代にプロとして自立するのは容易ではなかった。そもそも女性が画家を名乗ることも憚られる時代であった。制作の前に乗り越えるべき障壁が彼女の前に幾重にもあったのだ。
 遺された作品から当時の先進的な技法を貪欲に吸収し消化していたことがうかがえる。
 優れたイタリア・バロック盛期の人材であった。それでも、彼女の名と仕事はバロックの時流が去るとともに忘却され、美術史はアルテミジアの作品すら彼女の父で画家であったオラツィオ・ジェンティレスキの作品として長いあいだ無視されたのだ。

 アルミテジア生涯の真実は歴史に隠蔽された。
 近年、イタリアで映画『アルミテジア』が撮られた。レイプに関する逸話も、熱情の愛の物語として脚色され、「自画像」も10代の制作と語っていた。映画は「史上初めての女性の職業画家」としていたが、これには異論はあるだろう。しかし、女性美術家史の序章で語られる才能であることはまちがいない。


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花持つ女 №18 オノ・ヨーコ

オノ・ヨーコ
「平和のためのベッド・イン」(1969)


 この時代を生きる世界で一番、有名な日本女性だろう。
 かつてはジョン・レノンの妻という比重が大きかったが、現在はまったく違う。完璧にオノ自身の芸術で尊敬を勝ち取った。もっともレノンに出会う前から彼女は個性豊かな芸術家として自立していた。その軌跡を追えば、大衆音楽家としてのレノンと、オノが目指した芸術がつくる市場性の違いが、ふたりの出会いを遅らせたともいえるし、出会いを演出したともいえるかも知れない。
 オノを知る上でもっとも重要なのは表現活動はインスタレーション。筆者も一度、参加したことがあり、その時のオノ「作品」としての陶片を書斎に飾っている。
 
 現在もビデオとなって上映される機会も多い1965年の「カット・イン」は重要だ。ステージに座ったオノの衣服を観客が思い思いに鋏で切り取ってゆくという行為。観客との心の共感なくしては完遂できないインスタレーション。殺傷につながりかねない鋏を一期一会の参加者が取り、衣服を自由意思で切る。人への信頼を反証的に象徴する行為でもあるだろう。
 オノの芸術は難解だといわれる。
 理由のひとつに表現活動の幅の広さがあって補足が容易でないことだ。絵画にオブジェ、映像表現、シンガー・ソング・ライター……。しかし、その支柱はみな〈愛〉なのである。
 1969年、レノンと「平和のためのベッド・イン」をマスコミの前で披露した。その様子はジョン・レノンとともに世界中に流布したので良く知られているだろう。オノの表現行為における“至福”の季節であり、「至福」と名づけてもよいものだ。
 当時、フリー・セックスといった風潮との関係で揶揄的に取り上げられたが、それは〈愛〉のインスタレーションであった。レノン=オノ風にいえば「ラブ・&・ピース」だ。
 ひところ〈全身芸術家〉という言葉がはやったことがあるが、オノは自らの女性〈性〉を通じて表現しつづける人間愛の全身芸術家なのだ。     

花もつ女 №17*山下りん 聖像画家

 山下りん(1857~1939)
  

  明治初年代、キリシタン禁制は解かれ、欧米諸国から〈神〉の声を伝えようと熱意に燃えた若き聖職者がおおぜい海を越えてやってきた。
 ロシア正教会の修道司祭ニコライ・カサートキン師もそんなひとりだった。幕末の日本に単身渡来し、まず函館を足場に布教活動をつづけた。若い明治の青春は、ニコライ師の熱意を真摯(しんし)に受け止めた。
 現在、全国各地に散在する正教会はそんな時代の遺産である。二コライ堂の名で知られるお茶の水の復活大聖堂は日本信徒たちの信仰を束ねる主座として建てられた。
 山下りんが、二コライ師を知るのは21歳、明治政府が設けた工部美術学校の学生であった。りんはさほどためらうことなく洗礼を受けている。そして、翌年には同師の命を受け、ロシアに留学、ペテルブルグ女子修道院でイコン(聖像画)の技法を学んでいる。
 留学は当初5年の予定だったというが、2年で帰国している。その留学の時代、りんは、イコンではなくラファエルのような絵を描きたい、と日記に書きつけていたという。エルミタージュでみたラファエロの影響を受けたといわれる。
 彼女が学んだ工部美術学校は、イタリアからやって来た、いわゆるお雇い外国人の教官(画家)がいた。りんの西洋美術との触れあいはイタリア絵画からはじまった。そんな若きりんにとって、正教会が強いる厳格な制約はさぞ辟易したものだったと思う。それが早期に留学を切り上げた要因かも知れない。
 しかし、翌年、帰国すると、61歳まで二コライ聖堂の敷地内の画室でひたすら描きつづけた。そんな、りんの心境の変化をつまびらかに語る資料はない。
 りんのイコンは現在、全国の正教会の聖壇画として遺っている。
 イコンは約束事が多く、逸脱は赦されない。
 画家ではなく画僧として“作品”は無刻を要請された。
 りんは誠実に各地の教会のもとめに応えたが、規範を無視してイコンの硬質な線を柔和化した絵を描いている。無刻だが、りんの痕跡は明らかだ。
 晩年、故郷・笠間(茨城県)で独居生活を送る。帰郷後、筆を執ることはなかった。そのわび住いで愛でていたのは、若き留学の日々にエルミタージュ美術館で模写した「聖母子とヨハネ像」であった。イコンではなかった。生涯、独身を通したりんは、自分を赤裸々に語る人はなかったようだ。その心情を知る人は誰もいない。  
 
 余談だが、皆川博子さんの長編小説『冬の旅人』に、山下りんの精神来歴の謎に着目して大胆にメタモルフォーゼさせた女主人公が登場する。

 *この11月3日、ニコライ堂に参拝した。その日、内庭でバザーが行なわれていたこと、そして、その足で秋、恒例の神保町の古本市をひやかそうと思ったからだ。
 バザーにルーマニアから来たという老夫妻が、ルーマニアで作られた簡素な、たぶん土産用のイコンを売っていた。それを一点購入した。夫妻の日本語は流暢なものだった。
 この春、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナへ行ったが、そういえばセルビア正教会には出会わなかったことをいまあらためて確認した。
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上野清士

Author:上野清士
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