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ジャマイカ 中国系レゲェ歌手テサン・チンの栄誉

中国系レゲェ歌手テサン・チンの栄誉
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 12月初旬、米国の全国ネットNBC主催の全米歌唱コンテスト「THE VOICE」でジャマイカの女性シンガー、テサン・チンが優勝した。

 これまでラテン圏では「LA VOZ」として時々、報道されることがあったが、ほとんど無視されてきたといっていい。しかし、今回はカリブのジャマイカの歌手が優勝したとあって俄然注目を浴びた。キューバのプレンサ・ラティーナなどでも写真入り紹介されていた。カリブ海諸国にはキューバ・ハバナに小中華街あるし、トリニダード=トバコ、パナマ、ベリーゼなども大きな中国系のコミニティーがある。そこでもテサン・チンは注目されているだろう。

 女性レゲェ・シンガーの大先輩ジャネット・ケイのバラード、じっくり聴かせる路線を踏襲していると思われるチン。1985年、ジャマイカの首都キングストン生まれ、父親リチャード・チンは米国先住民チェロキー族の血ももつ中国系米国人らしいが、その詳しい来歴はラテン諸国各地に住む多くの中国系市民のようにくわしく語られることはないだろう。チンは、これまでジミー・クリフ、サード・ワールドといったレゲェのトップスターたちのバックコーラスで研鑽を積んだ後、2007年の独立しパワフルな活動を展開してきた。

 NBCのコンテストへの参加は米国の歌手の出場がほとんどで、彼女は自分に高位入賞はありえないと危惧し参加に二の足を踏んでいたようだ。しかし、米国在住のレゲェのスター、シャギーの強い勧めでエントリー、見事、優勝した。その意味はレゲェ界にとって大きいと思う。

 米国ポップス界はなぜかレゲェに対して昔から冷淡だった。
 ボブ・マーリーにしてもジミー・クリフにしても米国より英国での認知のほうが早かったし、レゲェ映画もハリウッドではなく英国の映画人が先鞭をつけた。
 レゲェのリズムを最初に自分たちの音楽に導入し世界的に認知させたのはビートルズの「オブラディ・オブラダ」であったし、その後、スティングらのポリス、UB40など白人レゲェ・シーンの展開も英国であった。その意味でもチンの活躍はレゲェ界では快挙と受け取られる。
 そればかりかジャマイカ政界は、かつてボブ・マーリーが政治に深くコミットしたことでも分かるように、レゲェの大衆的影響力を無視できないところがある。チンの朗報に対して政治家たちも祝辞を発し、「ジャマイカの誇り」と語り。チンを迎えたキングストン空港はまるで凱旋の華やかさになった。

 80年代~90年代、メキシコ・ポップス界のトップ・スターの一人だった女性歌手アナ・ガブリエルは中国系メキシコ人。中米圏ではチンは、アナにつづく中国系スターとなったようだ。 
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スイスの光、そして濃い影  ~国交150周年

スイスの光、そして濃い影

 欧州の山岳国スイスと日本が国交を開いて今年150周年目を迎えるということで、某紙が小特集を組むというので、筆者のところに「銀行」について触れた小文を寄せろ、というので下記のような原稿を書いた。最近、タックス・ヘイブン、マネーロンダリングなど国際金融事情を“人権”の観点から取材したり、集会、研究会の取材、書評などを書いてるので、そんな依頼がきた。字数の短いコラムなのでむろん象徴的にしか書けないが、言いたいことは書いた。

☆ビクトリノックス…スイス代表する企業。アーミーナイフの世界的なメーカーだ。
 多機能折畳み式ナイフ「ソルジャー」はたぶん世界中のバックパッカーが憧れるアイテムだろう。
 スイスの政治と経済を考えるとき筆者はいつも「ソルジャー」を思い出す。携行食糧を調理し、
 簡単な機械修理もできるナイフだが、その気になれば人を殺傷することも可能だ。手の平のなか
 にすっぽり収まる「ソルジャー」にはナイフだけでなく幾つも金属道具が折り畳まれている。
 精密な技術がなければ製作できないものだ。この技術は、スイス産業を象徴的な存在である時計を
 思い出させる。
 しかし、ナイフも時計もスイスの象徴的な技術であっても、スイスの「銀行」が稼ぎ出すアコギな
 儲けには遠く及ばない。スイス最大の産業は「銀行」である。正確にいえば個人情報を完璧に秘密
 保持する銀行だ。
 居住可能地がきわめて少ない小さな山国だが、国民一人当たりのGDPは世界トップクラス。その経
 済力を支える資源は“他人の金”。しかも大半が汚れた金。スイスの「銀行」も、政治家も、そして
 市民もみな汚れた金であることを知りつつ、見てみないふりをして運用している。スイス国内でそん
 な金がいつまでも汚れたままでいたのでは、スイスの自然も汚される、と思ったか、汚れを落とす
 技術を開発する。マネーロンダリングだ。その洗浄技術は日進月歩だ。スイスの銀行はいつでも高性
 能の洗濯機を回転させるマネーロンダリングの先進国。世界最大の麻薬密売組織の拠点だった南米コ
 ロンビアのカリとメデジン麻薬密売組織の利潤の多くはスイスで洗浄されていた。伝説的な故パブロ・
 エスコバルはスイス「銀行」の上得意であった。
 途上国の独裁者が国民から搾取した金をせっせとスイスに逃避させている。フィリピンのかつての独裁
 者マルコス大統領の官邸にはスイスの銀行職員が常住し、国民の血税をせっせとスイスに流していた。
 そんな話はアジアにラテンアメリカに、そしてアフリカ諸国に嫌になるほどたくさんある。
 預金者は個人名を登録せず、銀行はあらゆる便宜を秘密裡に処理する。銀行の秘密保持はスイスの最高
 法である。

 最近は、生産拠点で高い税金を納めることを避ける多国籍企業や資産家たちがスイスの銀行に逃避させ
 る。タックス・ヘイブンの本拠地である。日本のハリー・ポッターの訳者がスイスの銀行をつかって
 税金逃れをしようとして発覚したのは記憶に新しい。

 観光ポスターに象徴されるアルプス、自然と町並みの美しさ。しかし、その景観を保っているのは貧し
 い国の民衆の生き血を吸った、吸いつづけた金だ。あるいはアマゾンの熱帯雨林を毀損し、カリブ沿岸
 でマングローブ刈り取り、いくつもの自然の宝庫たる熱帯の峡谷をダムに沈めた開発独裁のおこぼれで、
 スイスの美しい景観は守られているといっても過言ではない。スイスには世界貿易機関、赤十字、国連
 の様ざまな機関が多数が設けられているが、そうした国際組織を招致しているのも曰く言い難い罪滅ぼ
 しと思えてくる。大戦前には国際連盟本部がジュネーブにあった。これが全く機能しなくなったとき、
 スイスはドイツから逃避してくるユダヤ人の資産を預かり、戦後はその多くのユダヤ人が行方不明とな
 ってスイスに滞留した。膨大な「資産」から国際機関招致の基金になったのではないかと後ろ指を指さ
 れても返す言葉もなかろう。凍結(?)されていたユダヤ人資産が人権機関などに「返還」されたのは
 戦後も半世紀以上も経ってからだ、それも米国の圧力であった。

 欧州のほぼ中央に位置し、EUの加盟条件をほぼ満すが、未加盟だ。欧州共通の税制、国際的な銀行監視、
 麻薬取引や投機のコントロールが強いるEUをスイスの銀行は嫌悪する。スイスでは国会議員の兼職が認
 められている。銀行の役職に就く議員が多い。自分の首を絞めるようなEU加盟などとんでもない話になる。

マンボ ペルス・プラード楽団健在

ペルス・プラード楽団健在
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 最近、とはいっても10年ほど経過してしまったがルウ・ベガ(ウガンダ系ドイツ人)がペレス・プラード(191
6~1989)、1949年のワールドヒット曲「マンボ№5」をサンプリング、レゲトン味付けでリメイク、大ヒットさせた。いまでも良く記憶しているのはレゲトン版のマンボが当時、ハバナの町でも響いていたことだ。
 
 キューバ革命時期にメキシコ公演中だったペレス・プラードは革命政権下にキューバに戻ることなく、メキシコの国籍を収得、メキシコ人として日本及び世界各地で公演中を展開した。
 現在、ペレス・プラード楽団のリーダーはイノセンテ・ディアスを戴いて健在で、6月25日、メキシコ市南部の国立の文化センターで演奏会が開かれ4千人の観衆を集め、多くの観衆がマンボを踊りながら演奏を楽しんだ。メキシコでは相変わらずペレス・プラードは健在ということだ。この企画は、ペレス・プラードがメキシコにマンボを紹介し、自分自身のメキシコでの演奏活動の開始から62年目にあたる日という記念イベントだった。

 メキシコ市中の中心にある大衆音楽劇場のブランキータ劇場のフロアの壁には現在もペレス・プラード楽団の日本公演のポスターが麗々しく飾られているぐらいだ。日本には1956年以来、17回来日公演を行なっている。25日のコンサートの模様を伝えた新聞は、全盛期のペレス・プラードを紹介するなかで、外国での録音活動を紹介し、なかでも日本でのユニークな作品がメキシコでも注目されたことを特筆している。当時、日本の歌曲、民謡を巧みにマンボにアレンジ、ジャケット・イメージも工夫を凝らしたアルバムは日本でもベストセラーになった。
 
 「エル・マンボ」「マンボ№5」「~№8」「セレソローサ」「パトリシア」「闘牛士のマンボ」「ある恋の物語」「タブー」……ペレス・プラードの代表曲が彼のアレンジのままに披露された25日のコンサートには、いまも健在でメキシコにおけるチャチャの仕掛け人となったキューバ出身のアルフレッド・エレーラ・メネセスも駈けつけ、ペレス・プラードを称えた。
 ペレス・プラードはメキシコの国籍を収得後、メキシコの音楽家の地位向上を目指して芸能組合で指導的に立場にあった。地道な活動であったが、その恩恵を受けた音楽家も少なくなかったはずだ。母国のキューバ革命政権には距離をおいたペレス・プラードではあったが大衆音楽家として、労働者の権利はそれなりに主張していた。日本ではあまり知られていない事実だろうがペレス・プラードを知る上で欠かせない事柄だろう。

 1989年、メキシコ人として死去する。その葬儀はメキシコにあって「史上最も陽気な葬儀」と形容されるほど耳目を集めたが、母国キューバでは、そのわずか数行で小さく報じられただけだった。 (2012記)

セキ・サノ(佐野碩)とメキシコ

佐野碩(1905~1966)をどれだけの日本人が知るだろう。 
 本紙の読者なら国際労働歌「インターナショナル」を訳出した人だと語れば、親近感を増すはずだ。 その佐野の業績を日本、ソ連(当時)、メキシコと彼の足跡を追いながら検証しようという充実した試みがメキシコの研究者を集め3月1日から3日(2013)、東京・早稲田大学の演劇博物館と国際交流基金などが共催して行なわれた。


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 メキシコで制作された記録映画の上映まで含んだ多岐に渡った3日間の佐野検証作業をここで紹介することは紙幅の都合でできない。ここでは、1920年代から60年代、世界の演劇史において“前衛”に立っていたセキ・サノがいまだ日本文化史のなかで、占めるべき位置をもっていなことに留意してメモしておきたいと思う。
 表題にセキ・サノとカタカナ表記したのは日本よりメキシコ及び中南米諸国での成果が高いからだ。メキシコ市には彼の名を冠した劇場もあるし、その劇場で、若手演劇人が、『セキ・サノとは……』という創作劇を確かサノ没後100周年に上演したこともあった。
 
 「インターナショナル」は若きサノが、築地小劇場で上演する劇中歌として訳出したものだ。プロレタリア演劇の拠点であった同劇場は日中戦争の激化のなかで窒息、サノ自身、治安維持法で逮捕された。釈放後、表現の自由を求めて、米国へ旅立つ、事実上の亡命行だ。1931年のこと。そして、66年にメキシコ市で61歳で客死するまで一度も帰国しなかった。

 世界史のなかにおけるサノの位置は、ロシア革命成立直後、文化・思想面から支えたロシアアヴァンギャルがスターリン独裁のなかで弾圧、関係者が容赦なく粛清されるという時代まで当時、世界の最前衛に立っていた演出家スタニスラフスキーに師事、やがてモスクワ芸術座でメイエルホリドの助手として働いた、という経験だろう。

 サノの体内に宿された最新の演劇理論はメキシコ亡命後、開花する。当初、言葉の不自由さからバレエの演出なども手掛けたサノだが、語学の天才であった彼はドイツ語、ロシア語、英語に加え、スペイン語も習得すると演出家としてメキシコ演劇をたちまち世界的レベルに押し上げる。大戦後、メキシコ映画はスペインから亡命したルイス・ブニュエルなどの活動もあって黄金期を迎える。演劇と映画はたがいに照射しあう関係でもあった。
 サノはメキシコ市内に自前の劇場も構え、メキシコばかりでな中南米諸国の演劇青年たちの教師ともなって多くの人材も育てた。数年前、南米コロンビアの演劇人がサノを影響から出た創作劇を東京で上演したこともあった。キューバ革命直後、カストロに請われてハバナ入りしているぐらいだ。

 サノの生涯、貧しかった。貧しいばかりでない。サノ自身は多くを語っていないが、モスクワ時代、ロシア女性と結婚、娘さんもあったはずだが、自身が亡命後、行方知れずになっている。粛清、またはシベリアに追放されたとも言われる。
 没後、半世紀を過ぎたがサノの生涯には多くの白紙の部分がある。メキシコでの活動にしても、まだ実証的な記録はまとめられていない。なによりサノの心の奥にメスを入れるような鋭利な批評もでていない。
 戦後、日本の演劇人が熱心に帰国を促したようだが、それに応えようとはしなかった。帰国していれば、日本の演劇もまた彼の影響を必ずや受けたはずだ。
 メキシコ自治大学を卒業後、教師を小学校の教師をつとめながら演劇活動をつづけていた30代の女性が、「サノ影響は思っている以上に重いのよ。一度、清算した方が、彼の存在がなかったことにした方が良い、と思うぐらいの息苦しさなのよ」と語ったことがある。むろん、それは彼女なりのセキ・サノ評価なのだが。
 
 今回のシンポジウムに参加したメキシコの女性学者が、セキ・サノ演出の舞台を批評した新聞のコピーなどを提示して、同時代の影響というものを実証的に報告していた。それはそれで大事な研究かも知れないが、サノ評価よりも欲しいのは生身の彼、日常の場でもらしたうびやき、不満、怒り苛立ち、泣きごと、そして愛の言葉か・・・。 

映画『ブランカニエベス』 パブロ・ペルヘル監督

映画『ブランカニエベス』 パブロ・ペルヘル監督
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 ブランカニエベス……西語で「白雪姫」。グリム兄弟が採集、再話したメルヘン中、もっとも有名な一編。映画は、このメルヘンのあらすじを借用しつつ自由自在にディフォルメして、観巧者も飽きさせない作品としている。監督、脚本、原案をこなしたペルヘル監督の恣意的で少々、毒気のある「白雪姫」でもある。
 あるいは米国のディズニー映画『白雪姫』を揶揄しているのかも知れないし、2011年、5つのオスカーを受賞した米国産サイレント映画『アーティスト』に対する欧州からの回答ともいえるかも知れない。

 本作のブランカニエベスは、美少女カルメン(マカレナ・ガルシア)で闘牛士として名を馳せる役柄。カルメンとの命名はむろんメリメの小説、あるいはビゼーの歌劇における激しい気性のジプシー娘を観る者に想起させようという企みもある。ということでは観る前から、なんとなくネタバレ感もあり、起承転結が分かってしまうところがある。ストーリーはまったく整然としてわかりやすく、スペイン映画に定着しているダークファンタジーのラビリンスを覗く知の遊び、意想外の展開とも無縁だが、モノクロームで映画草創期の四・六サイズ、そう昔のブラウン管時代のテレビの額縁のなかでサイレント映画として動くことで俄然、魅力を増しているのだ。
 しかし、台詞は確かにサイレントで文字で簡略に提示されるだが、音楽は絶えず奏でられている。その主調音は酒場の隅、壁にへばりつくように置かれるような廉価なアップライトの音色。これで屋外、仮設小屋での上映といった小粋な雰囲気を醸しだす。このあたりの工夫が本国スペインでたいそう受けたようだ。色彩過剰な現代生活においてモノクロームはおしゃれの必携アイテムであって、平凡な話もアルカイックな雰囲気のなかで語られると異化効果となって観客の目には新鮮に映る。
 米国産『アーティスト』は本作より単純至極な恋愛映画であって、サイレントからトーキーに変移していく過渡期をうまく乗り切れなかった俳優の苦悩、という常套手段も使っていて鮮度は欠ける。そこへいくと本作、そんな時代背景の考慮といったものは軽やかにワープさせ独自の世界観を出しているのがあっぱれ。

 「白雪姫」が主人公だから、カルメンは美しくなければいけない。しかし、このカルメンは断髪、華麗な闘牛士姿はまるで男装の麗人。彼女は有名な闘牛士を父を持つ、その遺伝子が彼女を闘牛場の華とさせるわけだだが、それだと白雪姫にならない。そこにグリム童話の借用がある。
 カルメンが生まれて間もなく母を失い、父はやがて再婚する。その継母がグリム童話のように少女をいじめ、今日流にいうと児童虐待を受ける。ある日、その継母の策略で命を奪われそうになるが、「小人闘牛士団」に拾われ助けられ、一座に加わる。その巡業の旅で闘牛士として頭角を表すという筋書き。グリムは7人の小人を登場させたが、本作では5人。イベリア半島でも「白雪姫」譚は人口に膾炙しているから、巡業団の名もセールス効用に「白雪姫と七人の小人」と命名。しかし、この小人社中はディズニーの小人のようには愛らしくない。身体差別をしたたかに味わってきた苦悩が澱のように沈殿している。カルメンの存在はたとえは悪いが“掃溜めに鶴”。毒りんごも食べ昏睡。しかし、そのカルメンの目を覚まさせるのは王子様ならぬ……とこれ以上はちょっと書けない。その先は木戸銭払って……。
 カルメンに毒りんごを食させる継母を、メキシコのガエル・ガルシア・ベルナルの出世作『天国の口、終わりの楽園』で人妻訳を好演したマリベル・ベルドゥが演じている。

旧作映画・備忘録 D

旧作映画・備忘録 D


▽『トンネル』ローランド・スゾ・リヒター監督
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 ひとつの時代が終わると、その“近”過去の時代を、今だから話せる形式の映画がしばらく制作される。

 「ベルリンの壁」が崩壊してからの後、東ベルリン及び東ドイツの過去の“真実”を描く、あるいはじっさいにあった事件などに取材して劇映画がドイツで何本も制作された。日本に輸入されなかった作品もふくめれば相当な数があるのだろう。本作も、2001年にドイツで制作された実話をもとにした作品。

 「ベルリンの壁」の下に145メートルのトンネルを作り、東ベルリン市民を西側へ脱出させた1961年の“事件”から取材されている。ここで描かれるのは東の圧制であり、市民の自由が奪われた社会主義の“悪”だ。冷戦を象徴した“壁”は多くの市民が犠牲となった。トンネルの存在を知らず、壁を超えようとして射殺される青年。東の悪を描きながらも、監督の 目は、任務として“不法越境”するものを問答無用で射殺せよ、と命令を受けている東の若い兵士の苦悩もまた、きちんと描いている。

 よくできたドラマで、トンネルを掘って脱出を図るという話は、たとえば、スティーブ・マックイーンの出世作『大脱走』という傑作を生み出しているが、トンネルはいまも現実である。米墨国境地帯にはおそらく現在も何本も貫通しているはずで、米国側で一つがつぶされれば、どこかに2本計画されるだろう。イスラエル当局の監視をくぐってパレスチナからエジプトに貫通させたトンネルもあった。

 政治が妨げる国境も、それを越えようと求める人が存在する限り、それは何時の時代でも作られるのだ。
 日本も無縁ではない。ペルーの首都リマの日本大使公邸が反政府武装組織ツパック・アマルに占拠されたとき、ペルー治安部隊はトンネルを掘って特殊部隊を潜入させたのだった。*ドイツ*167分。


▽『ダンス・オブ・テロリスト』 ジョン・マルコヴィッチ監督
映画 ダンス・オブ・テロリスト

 名優マルコヴィッチの初作品映画。
 本作はメキシコで最初に観た。その後、日本でVHSで再見することになった。
 ペルーの首都リマを舞台に、反政府武装組織センデロ・ルミノソ(輝ける道)のカリスマ的指導者アビエル・グスマンと、そのシンパたちを追い詰める治安警察の刑事の物語。この刑事役を、ハビエル・バルデムが好演。ただし、監督の視線はペルーの貧困、階級差別あるいは先住民への抑圧状況といったことへは、ほとんど配慮していない。毛沢東主義を信奉したといわれる「輝ける道」の狂信的ともおもえるテロリズムの陰惨さを、映像は独自の不気味なイメージで提出している。これをメキシコでみたとき、グスマン逮捕からさほど年月が経っていないということもあって、強い印象を受けた。しかし、映画は「輝ける道」を政治集団ではなく、なにか武装した狂信的な密教集団というイメージに練り上げられているようにも思い、違和感を覚えたことを書いてこう。

 ドラマとしての面白さ、原作を忠実に追ったといえば、それまでだが、指導者グスマンより、グスマンを自宅 に住まわせているバレー教師の美女と、グスマンを追う刑事との触れ合いに重きをおいて進行するドラマとなっている。実際に逮捕された「輝ける道」の指導部の女性たちは知的階級の美女であった。

 「輝ける道」は現在、ほぼ壊滅したといわれるが、ときどき残党と思えるゲリラが散発的に活動を行なっているようだ、というニュースは入ってくる。グスマンはじめ指導部は現在、軍刑務所で重禁固の身だが、その処遇はどうなっているのだろう。まったく聞かない。
 マルコヴィッチの初監督作品がペルー映画といってよい作品であったことは、この才人の底の深さを感じた。沈うつな映画であるが、記憶に残る。2000年・127分。


▽『クルーシブル』 ニコラス・ハイトナー監督
映画 クルーシブル

 米国独立前、植民地時代の歴史的実話に取材した映画。
 本作の内容を知らず、主演が米国で最高の男優と(私は)評価するダニエル・デイ・ルイス、という理由で観た。
 観て驚いた・・・米国で最大の魔女狩りとなった「セイラム魔女裁判」を真正面から取り上げた映画であったからだ。という意味では、「あなたが欲しくて体が疼く・・」というキャッチコピーはないだろう、あんまりではないか、と思う。

 その魔女裁判は、米国独立前の混沌とした人口希薄な辺境の入植地でおこった事件だが、後年、北米地区で最大の犠牲者を出したものとして記憶される。
 良く映画化したものだ。娯楽要素も巧みに織り込んでドラマとした手わざはさすがハリウッドと思うし、やはりデイ・ルイスの説得力ある演技が、この宗教的なファナチックな題材にリアリティを与えている。
 実際のところ、この裁判の真相は、「魔女裁判」という性格上、無実の罪で処刑された人の体験は天国まで持って行ってしまったのでどこまで資料通りかは分からない。という意味では事件は脚色しやすく、そこにメイドの少女アビゲル(ウィノナ・ライダー)が恋心を寄せる妻子あるジョン(デイ・ルイス)、その不倫関係の打開が、不要の告発へと繋がるという展開、そして、魔女狩りを誘発することになるという話のあらすじは描きやすいことだ。

 日本人にはなじみのない「魔女裁判」、かつてカトリック社会に吹き荒れた、おぞましい陰惨な歴史的事項が、こうした映画によってわかり易く説かれるのは、それなりに価値があることだろう。

▽『アンダー・ファイアー』 ロジャー・スポティスウッド監督
映画 アンダーファイアー
 ニカラグア内戦を描いた映画にケン・ローチ監督の『カルラの歌』という佳作があった。
 ニカラグアではじめて制作された『アルシノとコンドル』という映画もあった。ニカラグア映画だけど、監督はチリのミゲル・リッテンだった。生硬な作品で、いかにも岩波ホールで上映されるにふさわしいという感じだった。主張先行、ドラマ性希薄といった感じ。他にも、ホンジュラスからニカラグアに攻め込む米軍にスペイン語ができるということで配属されたヒスパニック兵士を描いた『ラティーノ』という作品があったが、ほとんど話題にならなかった。

 本作は、ニック・ノルティ、ジーン・ハックマン、そして、フランスの名優ジャン=ルイ・トランティニアン、本作当時、まだ上昇中であったエド・ハリスが独裁政権下の雇われ軍人という“悪役”を好演している、といった出演陣ということで公開当時、中米ニカラグアが舞台というにも関わらず、それなりに話題を集めていたと思う。

 1983年の映画だから、私自身が後年、幾度かニカラグアへ取材で赴くことなどまったく想定していない時期に観たわけだ。
 ニカラグアの自然、町の佇まいとは、このようなものであるかと映画で感得していたわけだが、実際に現地に訪れてみれば、ずいぶんと様相が違うのだった。映画はメキシコで撮影されたらしい。中米を舞台にした映画の多くがメキシコで撮影 されている。中米紛争時代もいまも、それは変わらない。オリバー・ストーン監督の『サルバドール』もそうだった。その点、ケン・ローチ監督は撮影条件の劣悪さも納得してニカラグア現地で撮影しているのは、このリアリスト監督のこだわりといえそうだ。

 メキシコで撮影されることが多いのはラテンアメリカの映画大国であり俳優も技術陣も充実していることと、その自然の多様さが中米らしく撮影できるからだ。かつてハリウッド映画の「ターザン」もメキシコ市郊外で撮影されていた時代があった。

 さて本作、サンディスタ革命が成立する直前にニカラグア入りしたカメラマン(ニック・ノルテ)が、民衆の英雄となっているゲリラの指導者を求めて奥地へ旅をするという縦筋の前後左右に、内戦下の諸相を描いたものだ。ラジオ・キャスター(ジョアンナ・キャシディ)との恋愛挿話も挟みこみながら飽きさせないシナリオはいかにもハリウッド映画。
 当時のソモサ独裁政権を米国は支援していたわけだが、本作はゲリラ側に立った視点から撮られている。

 ニカラグアという国は中米にあって、パナマと並ぶ野球国で、少年たちはサッカーより野球に夢中になっている国だ。そんな大リーガーを夢見る投手志望の若者が内戦下にあっては、手榴弾を遠投するゲリラ兵士となっていること、そして、それが禍して戦死するといった挿話なども適宜配され、ニカラグアという国へのリサーチはそれなりに消化されている。
 音楽は誰が書いたか知らないが、ケーナ、サンポージャを巧み使っているのが印象に残った。128分。

 *後年、名優としての評価を勝ち得た時代になってからエド・ハリスはニカラグアを武力制圧し、大統領に就任し独裁映画 ウォーカー
を布いた実在の米国人弁護士ウォーカーを演じた評伝映画『ウォーカー』に主演する。米国の国民文学といえそうな『風と共に去りぬ』の最終巻にも登場するウィリアム・ウォーカーである。日本ではまったく無名の人種差別主義者の弁護士だが、中米史では米国の“悪”を象徴するグリンゴとして良く知られる。

花持つ女№20 ジュリア・マーガレット・カメロン(英国・写真家)

ジュリア・マーガレット・カメロン
(英国*写真家 1815~1879)


 ジュリア・マーガレットの名より先に、その写真アートの存在を知った。

 英国美術史における19世紀ヴィクトリア朝は、いわゆる浪漫的で豊かな色彩感をあふれさせたラファエル前派たちの絵が時代思潮を彩っていた。その写真の分野における表現、ないしは当時の雰囲気、匂い立つような色香を伝える写真としてジュリアの写真が、英国史や同国美術史などにおいて引用されていたからだ。
 夏目漱石が英国留学した時期、ロンドンでそうした美的な雰囲気に接することが容易であったはずで、彼の審美眼形成に大きな影響を与えた。

 彼女の作品を、「写真イラスト」とも言う。一点一点が油彩画のようなクオリティの高さを持っていた。まだ色彩をもたない写真に暖かなセピア色の濃淡のなかに憂愁をたたえた美女たちの肖像を撮りつづけた。

 写真史は男性によって開扉され、そこで映し出された女性像は男性の審美眼によって定着されていった。彼女はそれを同性の視線で〈美〉を発見し定着させた最初の女性写真家であった。そして、忘れてならないのは、自作に大いなる矜持を持っていた彼女は、著作権事務所に作品を登録し、詳細なデータを遺した。
 19世紀中葉、写真のまだ黎明期に属した彼女の作品が詳細なデータとともに、今日まで多く遺贈されたのは、自作に対するおおいなる愛着、自信、なりより写真を表現手法とする芸術家としての誇りであった。

健在、ホセ・フェリシアーノ

コスタ・リカ

  健在、ホセ・フェリシアーノ

ホセ・フェ
  毎年11月にもなるとスペイン語圏、それは米国のヒスパニック・コミニティーも含まれるがホセ・フェリシアーノの『フェリス・ナビダ (メリー・クリスマス)』がどこからともなく流れてきて、いつしか12月を迎え、親たちは子どものためのクリスマス・プレゼントの準備などをはじめる。年中行事のようなものだ。そう、山下達郎の『クリスマス・イブ』に似ているだろうが、国境を越えて聴かれているということではフェリシアーノの歌は甚大な影響力をもつ。
そんな『フェリス・ナビダ』が流れる中米コスタ・リカでフェリシアーノが恵まれない子どもたちのチャリティー番組『テレトン 2013』に出演し、健在ぶりをみせた。
 
 *山下達郎の『クリスマス・イブ』を聴くと、反射的に住んでいたメキシコやグァテマラで流れていた『フェリス・ナビダ』を思い出してしまって、帰国後、しばらく非常の鬱陶しいものだった。

  日本におけるフェリシアーノといえば、1968年、ドアーズの『ハートに灯をつけて』をラテン・テイストに仕上げ、ソウルフルに歌い上げて進入してきたことを思い出す。ドアーズの曲がこんなにも変わるものか、という新鮮な驚きもあったし、スパニシュ・ギターの自演もまた素晴らしかった。聞けば視力障害者と知り、レイ・チャールズ、スピィディー・ワンダー(当時、リト ル・スピィディー・ワンダー)に次ぐ才能が出てきたと思った。5歳の時に一家をあげて米国ニューヨークに移住したプエルトリコ人との認識はなかった。日本に入ってくる彼のアルバムはしばらく英語バージョンのものばかりであったし、スペイン語アルバムもほぼ同数あることを知るのは後年のことだった。ビートルズのカバー『ノルウェーの森』『シーズ・ア・ウーマン』、あるいは『ケ・セラ』、『サニー』など立てつづけに日本のヒットチャートを賑わした。

  ファリシアーノが先天性緑内障で生まれたときから目が不自由であったということもあって、成功してからの慈善活動は熱心だった。クリスマスの定番曲『フェリス・ナビダ』の成功もホセのそうした彼の生来の献身性から生まれた作品だと思う。いまやラテン歌謡の“古典”である。
  コスタリカの『テレトン2013』では、首都サン・フォセのメリコ・サラサール大衆劇場で行なわれた。
  そのコンサートにさきがけてフェリシアーノは12月3日夜、サンフォセ入りした翌日には無料コンサートを行い、金曜、土曜と立て続けにコンサートを開いた。

1945年生まれだから今年68歳。まだまだ現役、健在である。なおコンサートによる収益は、サンフォセの国立こども病院、および太平洋沿岸のグアナカステ州の医療施設に贈呈されるそうだ。 
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