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花持つ女 №21*ウィニー・マンデラ

花持つ女 №21
 ウィニー・マンデラ(人権活動家*南アフリカ*1936~)

  南アフリカの黒人大衆を法的に非人権的状況を強いるアパルトヘイトは、国際社会から大きな批判を浴びたが、国連をはじめ多くの国際機関も廃絶できなかった。
  黒人大衆自ら長年の苦闘のなかで廃絶を実現したものだ。その活動の指導者のひとりが昨12月、亡くなったネルソン・マンデラであった。ウィニーはその妻であった。
  マンデラの妻、という書き出しはウィニー本人嫌うかも知れない。けれど結婚生活の大半、約30年間、獄中にあったマンデラ氏を支えた。ただ妻として献身的に仕えたわけではない。彼女自身、厳しい運動の歳月を過ごしていた。たび重ねる弾圧、僻地追放、逮捕、自身、獄中に囚われる。そして母となり、父の顔も知らない子どもたちに愛情を注ぎ、ソーシャルワーカーとしての仕事もする。ウィニーは、南アにおいて黒人女性として最初のソーシャルワーカーとなった草分けでもあった。
 獅子奮迅というは易い。それも、すべて夫マンデラ氏が指導する解放闘争への共感であり、いうまでもなく妻としての献身・愛情の深さ故だ。そして、自分の黒い肌のプライドだ。
 
  自伝のなかに1957年から1985年までの簡素な活動メモがある。
  57年はウィニーがマンデラ氏と邂逅した年だ。85年は黒人民衆の反アパルトヘイトの一大行動ソウェト蜂起に連座し逮捕され被告の身にあったときだ。その約30年、マンデラ氏とは夫婦でありながら接見すら許されない歳月がつづく。ウィニー自身、獄中にあった時期も長い。そうした生活のなかで貧困にめげずプライドを保ち、闘争の熱を保ちつづけることは驚異的なことだ。それを貫徹した女性だ。
  マンデラ氏の国葬に諸外国から要人が多数参列した。その功績が追想されるなかでウィニーの存在はほとんど無視されていた。離婚してしまったせいもあるが、葬儀の記憶が新しいうちにウィニーを讃えておきたいと思う。
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映画『フルートベール駅で』

映画『フルートベール駅で』 
      ライアン・クーグラー監督

フルートベール駅で


 米国映画史におけるエポックメーキングな作品はサイレント時代なら『国民の創生』だろうし、トーキー時代になってからは『風と共に去りぬ』であることは誰でも認めることだろう。ともに南北戦争を基軸として描いた大作だ。そして、両作ともアフリカ系市民からは痛烈な批判を浴び続けている映画でもある。米国映画の“金字塔”は同時に抜きがたい黒人差別の視線で貫かれている。南北戦争は米国映画のなかにあって繰り返し語られる史話だが、黒人の公民権運動の高揚以降、南北戦争の描き方もすっかり変化した。しかし、黒人に対する人種差別は解消していない。アフリカ系のオバマ大統領時代になっても、それは変わらない。

 本作はそんな米国社会の日常に潜む人種差別の根の深さを大上段に訴えるのではなく、日常性の問題として扱っている故、説得性をもった。まったくドラマチックな要素もない日常光景を淡々と描き追うことによって浮かび上がらせた秀作だ。また、米国銃社会の日常に潜む“事故”、ないしは悲劇をあぶりだした作品ともいえるだろう。銃器の持つ殺傷力と、そこに人種差別のトゲが刺し込むと小さな事件も社会化することを教える。
 事件の舞台は西海岸のサンフランシスコ。この大都会の片隅で暮らす黒人青年オスカー・グラント(マイケル・B・ジョーダン)には妻子がいる。妻ソフィーナ(メロニー・ディアス)はメキシコ系米国人で、その両親とはスペイン語会話するような環境にある。サンフランシスコを含むカリフォニア州は米墨戦争以前はメキシコ領であったからメキシコ系市民が多い。黒人との通婚が多いのも自然の成り行きだろう。黒人家族とメキシコ系家族が混在してホームパーティーを開き、わきあいあいと楽しんでいる光景が出てくるが、これはありそうでなかなかスクリーンで登場しない風俗であった。黒人英語のスラッグとチンガータ流メキシコ下層スペイン語との交錯などもよく演出されている。
 しかし、米国社会にあって黒人層とヒスパニック層、とくに秀でた技術も学歴ももたない彼らは、米国経済にすこしでも陰りがみえると決まって人員整理、解雇・失業の憂き目にあう。手に稼げる技術のない労働者階級はいつの時代、いかなる国でも景気の調節弁と扱われてしまう。
 オスカー青年もまた失業、休職活動中だ。ときどき小遣い稼ぎでマリファナを売ったりしている悪さもある。つまり 、都市の繁栄の陰にどこにでもいるような青年だ。この平凡なるがゆえ非凡な演技を要求される難役をマイケル・B・ジョーダンは好演している。
 夫としてのプライドもあり娘を愛する気持ちも強い。しかし、仕事はなかなかままならない。と書いてくると、ひと頃の松竹大船調といった感じだが、日本映画ではフツーの市民社会には銃器は存在しないし入り込まない。警察だってむやみに銃を取り出して威嚇したり、ましてや発砲することなどめったにない。そのあたりが世相を描いても日米には大きな懸隔がある。
 2009年ニューイヤーディーにその事件は起きた。そう本作は実話を丁寧に再現したドラマなのだ。
 その日、新年を迎えて沸き返る鉄道駅「フルートベール」。混雑した車内のなかで日ごろ仲の悪いグループと遭遇したオスカー青年たちのグループ。車内で小競り合いとなり、乗客の一人が携帯電話で通報したことで車輌はしばらく開扉したまま停止、そこに警察が来て、挙動不審者としてオスカー青年たちのグループが銃を突きつけられて車外に出される。白人乗客もたくさん乗っているが、警察は鼻から黒人青年たちを騒ぎの主犯と目をつける。つまり思い込み。銃を突きつけられた青年たちは乱暴な警官の意のままに床に這いつくばる。抵抗などしないが抗弁はする。こんな不当な扱いには我慢できないとのジェスチャーぐらいはする。それを抵抗の仕草、行動と受け取った新米警官のひとりが突然、発砲。その銃弾がオスカー青年の若いしなやかな肉体を穿(うが)つ。至近距離からの射撃に耐える肉体はない。こうして丸腰の オスカー青年は悲運な死を遂げる。射殺した警官は起訴されるも無罪放免されている。

 日常のなかの悲劇を描くために27歳の新人監督はよく自制し些事をたんねんに重ねながら日常を紡ぐ。オスカー青年の等身大像を描くために寄り道も避けない。そうしたディテールの積み重ねによって観るものはオスカー青年に寄り添えるし、米国社会の隠微な闇も浮かびあがってくる。
 当初、全米で7館の公開でしかなかった注目度希薄な本作が、たちまち1063館に拡大したこと自体、社会的事件だろう。それは、この事件へのアメリカ社会の関心の強さの反映だ。事件の実相を知りたいと考える常識的な市民が映画館に足を運んだのだ。
 事件は白人警官の人種差別的な根から出ていることは疑いようがない。と同時に、それを許すまじと考える良心もまた米国社会には大きな層として存在していることも教える。それでも、銃器はほぼ野放しで存在しているし、民主党は規制を考えるが、護衛の武器として所持すべきだと主張する共和党議員によって否決されている。世論は強く銃規制を訴えているにも関わらず。
 
 フルートベール駅での事件は警官の過剰防衛が射殺となったわけだが、そこに人種差別のファクターもあったために全米で注目することとなったのだ。しかし、ハリウッドの禿タカ企業家も事件に人種差別という繊細な要素があるため映画化に踏み切れなかったようだ。しかし、この事件を若い黒人映画人グループがオスカー青年に共感して、日常普段の青年像を描き出すことに細心の注意を払う演出をしたのだった。人種問題の繊細な綾はやはり被差別者の視点から描いた方が説得力があるし、ある意味、無難だ、という公式は米国映画にもあるのだと思う。スパイク・リー監督の活躍以降、演技陣ではなく制作する側に多くの優れた黒人が輩出している。本作はそれを証明するものだろう 。

アンジェイ・ワイダ監督『ワレサ』

映画『ワレサ 連帯の男』 アンジェイ・ワイダ監督
waresa.jpg

 某労働組合系の月刊誌に、数ヶ月前に本作のことを話したら、「いまの若い人にはワレサを知る人はいないでしょうね。ワレサ、誰サって言われるのがオチ」ということだった。とすれば、本作を公開する岩波ホールも若い観客を動員しようと思えば、それなりの宣伝、広報活動を工夫しないといけないだろうと率直に思った。同ホール、及び宣伝会社の手法はポーランド「連帯」運動を知っている人、あるいは従来のワイダ・ファンに向けたものとなっている。サブタイトルも、「連帯の男」という。
 しかし、ここは私的なブログだから、奇特な読者に向けた内容で構わないだろう。

 時は1981年5月、場所は日比谷公会堂……独立自主管理労組「連帯」を創設後、まだ1年も経たない時期に総評の招きでレフ・ワレサ「連帯」議長は来日し、同公会堂で講演会が開かれた。そこに筆者はいた。その会場はその時、確かに発熱していた。たった一人の男がとてつもないオーラを放っていた。ノーベル平和賞を受賞する2年も前のこと。
 映画は同賞受賞後、米国議会で演説を行うあたりまでを描き、後年、ポーランド大統領に就任する時期は描かない。つまり「連帯」議長としてもっとも困難な時期を鄭重に描いている。映画によって、来日期は「連帯」にとって困難な端境期であったことを知った。ノーベル賞の受賞式も、国外へ出たら帰還は望めないという微妙な時期で、代理として妻ダヌタが出席。その帰路、彼女はワルシャワ空港で 全裸での身体検査を受けるなど当局の嫌がらせを受けた。そんな挿話も映画で丁重に描かれている。
 今だから語れるという後日譚だが、ポーランド人には、まだまだ生なましい記憶となっている時代と人物だ。存命中である人間を描くのは表現者として勇気 のいる行為だ。それを今年87歳になるワイダ監督は挑戦し、ポーランド人共有のワレサ評伝とした。
 監督は、「彼を描くことは自分の義務」だったと語っている。大戦下、ナチドイツ占領軍に対して市民が武装抵抗をはじめたワルシャワ蜂起、その悲劇を描く映画『地下水道』からワイダ監督のフィルモグラフィーははじまる。ワルシャワ蜂起の失敗は、ソ連が意識的に蜂起する市民に援助を与えなかったことが大きい。ソ連は大戦後、ポーランドを衛星国家として呑み込むために、民族派、自由主義思想の人材がナチの手で抹殺されることを“戦略”とした。ワイダも取り上げた、ソ連によるポーランド将校数千の虐殺事件もそのような文脈で起こった。ワイダが映画『カチンの森』ではじめてソ連(=ロシア)を告発するのは、ソ連邦が解体した後であったのは当然だ。
 ワイダは母国の歴史を材に真摯なドラマを創ってきた。ワレサと「連帯」を描くことで時代と母国を批評しつづけてきた表現者ワイダは、彼自身のなかで、やっと「冷戦」が終わったのだろう・・・そう思った。   

ピート・シンガー逝く

“フォーク・ソングの神様”といわれたピート・シンガーが1月27日死去した。享年94歳。
近年のピート・シンガー

70年アンポ世代(古い言葉だ!)にとって彼の存在は、ベトナム反戦という時流を背景として、
日本でも盛んに歌われた「花はどこへ行った」はじめ、「天使のハンマー」「ターン・ターン・
ターン」などのヒット曲メーカーでもあったプロテストソングの牽引者というものだろう。
 
 ピートの死はメキシコ、キューバをはじめ中南米諸国でも大きな紙面を割いて報道された。キ
ューバの「グアンタナメラ」をはじめラテンの名曲を米国に紹介したことでも知られるが、それ
以上に彼の音楽歴の初期からメキシコとの深い関わりがあった。
 ハーバード大学に奨学金を得て入学した秀才であったが、政治的にラジィカルな姿勢、そして
フォークソングの革新を模索するなかで勉学は愚かになって中退することになる。そして、向っ
たのがメキシコであった。
 欧米の画家や彫刻家、写真家が革命直後のメキシコで展開されていた壁画運動に賛同、支援す
るように、ピートもまた“革命”の高揚に浸ろうとメキシコ入りした。当時のメキシコには、美
術面だけでなく民衆文化そのものを変革しようという高揚があり、ピートは、そのひとつの集団
である人形劇組織に参加しメキシコ各地を巡業した。
 このメキシコ時代に親しく接することになった12弦ギターの活用といったかたちでピートの
音楽世界を拡張する。
 おそらく、メキシコ時代における思想的な体験が、後年、ベトナム反戦、マーチン・ルーサー
・キング牧師らが主導した公民権運動への連帯、そのなかでゴスペル・ソングであった「ウィ・
シャル・オーバーカム」を誰にでも歌える曲としてアレンジして広めるなど、政治活動と歌の運
動とを連動させることとなったように思う。ソビエト共産主義への嫌悪を抱きつづけたピートは
80年代にはポーランドの自主管理労組「連帯」の支持を表明し、積極的に資金集めのためのコ
ンサートも開いている。
 近年の忘れられない活動として、2009年1月、オバマ大統領の就任式記念コンサートでブ
ルース・スプリングスティーンらと、ピートと並ぶ米国フォーク歌手の象徴ウディ・がスリーの
歌「わが祖国」を歌ったことなどが記憶に新しい。環境問題への取り組みでも知られていた。
 90歳代にはいっても社会活動家としても歌手としても現役だったのだ。

 余談だが、ピートの妻トシ・アーリン・オオタはドイツで日本人の父と米国人の母との間に生
まれた日系米国人であった。昨年、91歳で死去した。その妻を追うようにピートは逝った。 

パコ・デ・ルシアの死

パコ・デ・ルシア、カンクンで死去
パコ・デ・ルシア

 2月26日、フラメンコの枠を超えて20世紀後期のギター音楽の世界を拡張しつづけたギターリスト、
パコ・デ・ルシアが毎年、乾季の滞在地ろ決めているメキシコ・ユカタン半島の景勝地プライヤ・デ・カ
ルメンの病院で心臓発作のため死去した。享年66歳。
 すでに遺体は故郷のスペイン・アンダルシア州のアルヘシラスに戻った。
 「世界の芸術とアンダルシアにとって埋めようのない損失だ。彼を追悼するため町では喪に服すことに
した」と地元首長が言明するなかでの物言わぬ帰還であった。
 スペインでは当然の反応であろうが長年、メキシコの代表的なリゾート地に住んでいたためメキシコで
も惜しむ声は連日、マスコミを賑わした。特にパコ・デ・ルシアと同郷の詩人エンリケ・モンティエルが
訃報に接して、「メキシコは彼にとってはもう一つの祖国であり、母なる大地であった」と語ったことも
注目された。
 メキシコの自然、そして豊かな音楽土壌から滋養と慰安を得たことは確かだが、それに留まらず広くラテ
ンアメリカの音楽世界を虚心に聴き、触れフラメンコ音楽の活性を貢献しつづけた。現代フラメンコは音楽
ともにパコのギターとともにアルチザンの芸からアートの領域に入ったのだ。
 ブラジルからボサノバのエッセンスを吸収し、今ではフラメンコ音楽の定番になっているカホンをペルー
のコスタ地方から導入した功績はひとりパコのものだ。
 メキシコ出身、米国でギター1本でロック・ギターでロックをアートにしてみせたカルロス・サンタナは
同じステージで競演した体験を回想しながら、「豊かなイマジネーションの汲めどもつきない才能にあふれ
た真に偉大な音楽家であった」と語り、キューバのヌエバ・トローバの大御所シルビオ・ロドリゲスは、
「哀しいことだが、彼には新しい生が与えられた。それは天国にとって新たなフィエスタのはじまりなのだ」
と吟遊詩人らしい表現で追悼した。キューバのラテン・ジャズ界の大御所ロス・バンバンのリーダーもまた、
アイロニーに満ちた言葉を送っている。かつて、“ギターをもったゲリラ”と畏敬されたニカラグアの国民
的な歌手ルイス・エンリケ・メヒア・ゴドイは、「彼の音楽はスペインを出て欧州の国境を越え、ラテンア
メリカに甚大な影響を与えた」と語った。
 こうして書き出したら切がない。リッキー・マルティンなどポップス系のアーティストもツィターにそれ
ぞれ惜別の言葉を書いている。また、中南米諸国の文化省周辺からも公式コメントが発表されている。
 20世紀後半の大衆音楽はロックを筆頭にギターが主流になった時代だった。
 多くの才能が輩出したが、音楽の領界を越えて多大な影響を行使しつづけた音楽家となると、それほど多
いわけではない。パコ・デ・ルシアはわずかな高峰の一峰、名峰そのものであった。

 ここで余談をゆるしてもらえば筆者がメキシコ滞在中だった1900年代後半、日本のフラメンコ雑誌か
らパコにインタビュー取材できないかという依頼があった。メキシコDFからカンクンまでの飛行機代も出
るというありがたい仕事だった。伝を頼って連絡はできたが、本人とは直接交渉できず、秘書であっただろ
うか、「カンクンにいるあいだは仕事はせず、純粋に休暇に充てている」ともっともらしい理由で婉曲に断
れたことを思い出す。当時、パコがメキシコで1年のうち数ヶ月をすごしビーチサッカーに興じる日々を過
ごしていることは広く知られていなかった。だから、何故、日本人が知っているのか、といぶかしくも思わ
れただろう。しかし、惜しい機会であった。パコから取材を断れた数ヶ月後、カンクンまで行き客船に乗船
、船上講師を務めるという仕事が舞い込んだ。このとき、押しかけてみようか、ふとと思った。某音楽雑誌
の編集長がパコの友人であったから、そこから手を回すかと思った。しかし、それもくだんの編集長が海外
出張中で連絡が取れず、計画倒れになってしまった。いまは手元にある半ダースほどのCDアルバムが筆者
にとってパコのすべてであった。


チリ映画『グロリアの青春』

映画『グロリアの青春』
セバスティアン・レリオ監督

グロリアの青春
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 女性、特に中高年層は喝采を贈り、若い世代にはヤル気を起こさせる溌剌と鋭気に満ちた佳作。どんより気
分が落ち込んでいる女性なら適度なカンフル剤になるだろうし、中高年層のなら回春剤となるかも。
 グロリア(パウリナ・ガルシア)の青春とは58歳。演じるガルシアの実年齢は53歳。キャリアウーマ
ンの青春だ。青春だから恋もすれば情事もある。ちょっと無軌道に羽目をはずすこともある。
 しかし、58歳の青春は荷やっかいだ。離婚した夫もいるし、ふたりの間に生まれ育った子どもたちは成
長し、結婚もすれば、子(孫)もいるわけだ。子にとってはいつまでも母であり、別れた旦那との関係はあ
くまでも元妻。送ってきた歳月だけの荷はリアリズムで肩にかかる。でも、生ある限り前に向きに生きよう、
生きなければいけない、と決意したグロリアの「青春」は眩しい、そして重い。二度目の「青春」は人生の
反芻をもたらす。
 すでに酸いも甘いも噛み分け、仕事も責任ある地位にあり、それなりの収入もある。経済的に自立してこ
その青春なのだ。それに前半生が蓄えた教養も捨てがたい。
 ある食事会で、誰かが自己紹介で、「テオ」と発する、それに「ゴッホ」と答えて思わず笑いが起こるシ
ーンがある。後期印象派の画家ゴッホを経済支援しつづけた献身的な弟で画商だった弟の名だが、そんなや
りとりがさりげなく交わされ、グロリアの生活環境はインテリジェンスに満ちていることが象徴される。
 ストーリーはいたって単純だ。
 グロリア行きつけのダンスホールで初老の男性ロドルフォ(セルヒオ・エルナンデス)に誘われ意気投合、
一夜をともにする。離婚以来、グロリアはそんな“遊び”も繰り返している。男の目を惹くために身だしな
みも怠らない。髪型、化粧、服、口紅ひとつおろそかにできない。
 ロドルフォも1年ほど前に離婚、妻と娘の生活を扶助している。そんな事情も呑み込み、グロリアは逢瀬
を重ねるようになる。彼は大人の男性が気晴らしに遊べるアミューズメント施設を経営する実業家。最大の
売りは模擬弾で戦争ゴッコができる広大な自然か。この模擬弾は映画の最後半で効果的に使われる。ロドル
フォの前歴は海軍将校。教養もあれば資産もある。
 グロリアにとっては理想的なパートナーだが、何かにつけ元妻の存在を気づかされてしまうのが疎ましい。
でも、好きな気持ちは替わらないがグロリアにしてみれば、若い女が年上の既婚男性と不倫しているような
ザラザラした気分もある。いまさら不倫でもないもんだ、と面白くない。
 ロドルフォと大人の恋をしているわけだから性的な交渉もある。ベッドシーンがあり、一糸まとわぬグロ
リアの姿もスクリーンに大写される。かつて美貌を誇ってきたベテラン女優の歳相応の肉体をセクシュアルと
はやはり感じない。けれど欲望があれば誰だってセックスする権利はある、他人がとやかくいうことではない。
この勇敢と思える体当たりの演技が賞賛されていることも付記しておきたい。これがあって中高年層女性を鼓
舞できるというものだ。
 やがて、グロリアは元妻との関係に踏ん切りをつけないロドルフォを見限る。別れはさびしいが、もう媚
びない。諦観に年相応というものはないと思うが、別れに感傷を過度にもちこまないだけの己を知る、とい
うことか。その天晴れなシーンも共感度を増すことだろう。
 チリの映画ということでふと年表みる。
58歳グロリアにとって10代から30代にかけての青春期はピノチェト軍事独裁時代の真っ只中にあった。
そんな世代にとっての現在とは、青春のリセットの時期なのかも知れない。ロドルフォがもし元陸軍将校で
あったなら、陸軍大将であったピノチェトを思いださせ、チリでは拒否感も出ていたかも知れない。海軍将
校であったことで許されもする。そんな暗喩もなんとなく映画に込められているように思える。   

北朝鮮の強制収容所に生まれ育ち、脱出した青年

映画『北朝鮮強制収容所に生まれて』
 で北朝鮮の過酷極まる非人権的状況を証言したシン・ドンヒョクさん。
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 シン青年は聡明だ。人権などまったく無視された強制収容所で生まれ、6歳から奴隷労働を強いられた。居室には家具一切ないという生活だった。寝具はおろか、食器すらないという暮らし。生活そのものが拷問のようなものだ。母と兄が理不尽な理由で目の前で処刑された。悪夢ような現実のなかで生きる意志を絶やすことなく脱走に成功、中国に越境して自由の身になった。その意思の強さは今、人権活動家として世界を飛び回る活力に転化しているようだ。
 「過去の悪夢に脅かされています。こうして話をした日の夜は眠れないことも…」
 しかし、仕事だ、質問しないわけにはいかない。
 「映画の撮影から5年が経ちました。この間、求められるままに各国の人権団体の招きを受け話をしてきました。国際会議にも幾度も参加した。いま、偵察衛星を通して自分がいた収容所の様子が分かります。それをみていると自分が暮らしていた当時より規模が拡大しているのです。罪もない人があらたに収容されたているということです。金正恩は外国へ留学した体験があります。世界は多様で自由に満ちていることも、人権ということも知っている人間だと思い、わたしは状況は改善するだろう、と期待した。しかし、現状は逆だ、ますますひどくなっています。自分としては無力感を覚えるし、国連をはじめ国際機関は何をやっているのだと怒りも覚えます」
 「故郷が恋しい」、つまり収容所にもどりたい、と映画で語っていましたね。いまもその気持ちは変わりませんか?
 「現実に帰れるわけではないです。しかし自然は美しく川の水はおいしかったし、星空は美しかった。いま、映画に出て、まるでスターのように扱われていますが、とても不本意です。農民として野良仕事したいと思っています。いま私が住んでいる韓国の人たちは平和な社会に住みモノに恵まれていますが、価値観の多様化に悩んでいるように思います。自殺者が多いのに驚きます。収容所の暮らしは本能的に生き残るためにだけ生きていた、のだと思います。人間は痛みには耐えられるけど、餓えには耐えられません。餓えないための努力が生き延びた理由です」
 収容所での暮らしは、「心が純粋だった」とも語っていますね。
 「お金という存在をまず知らなかったです。ですから、裕福とか貧しいということも知りませんでした。ですから、物質的な欲望はなにもなかった。だから、いまでもお金の上手な使い方がなかなか身につかず苦労しています。31歳になりました。わずかな印税と、時どきソウルの食堂などでアルバイトしながら収入を得ています。脱出してから恋もしましたが、振られて傷つきました。いまはそういう存在はいません」と語ったが、通訳氏によれば25歳の独身女性と一緒に今回、来日しているという。  
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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