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映画『ジプシー・フラメンコ』 エヴァ・ヴィラ監督

ジプシー・フラメンコ  エヴァ・ヴィラ監督
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  シンプルでジプシー・コミュニティーへの情愛に満ちたドキュメント。
 原題「Bajari」はスペイン・ジプシーたちの言葉でバルセロナを指す。
 バルセロナはガウディのサグラダ・ファミリア教会を中心とする観光の
 ランドマーク、五輪を開いた都市の経済的繁栄でもないバルセロナだ。
 大都会の片隅にどっこいおいら達も生きているぞ、という意味の小バ
 ルセロナだ。東京でいえば足立、葛飾、台東区あたりの片隅。
 フラメンコは作為なしで写し録音しただけで絵になる。フラメンコ主題で
 数編の秀作を撮ったカルロス・サウラ監督などは、その効用を熟知した
 上で演出し商業的な 成功を収めた。しかし、本作はそうした手法とは無
 縁のところでフラメンコの日常性の描いている。
  たとえば冒頭、屋外の布張りスクリーンに往年の名作映画『バルセロ
 ナ映画』が上映される。それをみながらジプシーたちがそれぞれの感想
 を声高に話す。スクリーンに合わせ踊りだす者もいる。映画はそんなふう
 に自然体のフラメンコを紡ぎだしてゆく。その映画が上映されるのは撮影
 の直後に急逝した舞踊家カルメン・アマジャの生誕100周年を記念した
 企画が本作であるからだ。
  カルメンはフラメンコを芸術に高めた名手として知られる。本作にはカル
 メンの血を受け継ぐ実の姪とその娘も 登場する。あともにフラメンコ舞踊家
 だが広く認知されているわけではなかった。しかし、カルメンに捧げる新
 曲を発表する舞台を企画した歌手の一人が、姪とその娘を抜擢する。
 「カルメンの熱い血は受け継がれているはずだ」と。  
                                    *映画『バルセロナ物語』はもう日本では観られない。スペインではDVD化されているが一部のファンが輸入版でみているぐらいだろう。『バルセロナ物語』とは、日本で公開時のタイトルで、原題は「Los Tarantos」という。フランメンコの一形式をいうが、「狂気」「錯乱」の意味もある。内容からして、おそらく両義語として、原題がつけられたと思う。しかし、この映画は先年、亡くなったアントニオ・ガデス売り出し期のフラメンコが定着されている作品としてDVD化され、カルメンの名は共演者としてクレジットされているだけだ。それがスペインにおけるカルメンの位置づけだと思う。その意味ではカルメンの 再評価として本作が作られた意味はある。ただし映画『バルセロナ物語』そのものは凡作、フランメンコ・シーンとジプシーの集落を描いたシーンぐらいしか興味をそそられない。
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映画 アフリカを描く 『ケープタウン』 ジェローム・サル監督

映画『ケープタウン』ジェローム・サル監督
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 17世紀、海上貿易の拠点としてオランダによって港湾が整備された南アフリカ共和国有数の都市ケープ
タウン。アフリカでもひときわ富が集散する地だ。その富に巣食う犯罪組織、貧困問題は港湾都市の属性だ
ろう。いわゆるサスペンス・アクション映画のステージとして、港は多くの映画で立地条件の良い場所として
選ばれてきた。南アのケープタウンではこれにアパルトヘイトの苦味が添加される。
 本作で指弾されるのは化学兵器に転用可能な薬物の研究・開発で巨万の富を得ようとする犯罪組織だが、
その組織の成り立ちはアパルトヘイト時代に発している。映画では黒人人口の激減を画策した白人政権によ
って密かに開発が進められたプロジェクトに端を発すると解かれる。
 しかし、1994年、アパルトヘイトが廃止され、マンデラ大統領の政権ができる前に開発は中断され放棄さ
れた、はずだった。しかし、計画に携わった研究者たちは金になる木として根を残し裏ビジネスとして計画の
完成を急いだ。
 この犯罪組織の摘発に身体を張って乗り出すズール族出身のアリ・ソケーラ刑事(フォレスト・ウィテカー)
自身、その少年期、アパルトヘイト時代に心身に傷を負った犠牲者のひとりだ。
 マンデラ政権が誕生し、国旗も国歌もこの国の主要人口であるズール族を象徴するものに変わり、W杯ラク
ビー大会、W杯フットボールを開催し、国のイメージを変えることに成功しているように思える。しかし、人の心は
“革命”で血が入れ替わるわけではない。
 1945年8月15日は確かに日本を変えた。今日の経済的繁栄は8・15をターニングポイントとするが、そ
の日をまたいで過ごす人の心性まで変わるわけではない。アパルトヘイト時代、制度的に貧困を強いられた
黒人層がいきなり豊かになれるわけはない。ソケーラ刑事の母親は相変わらずスラム街に住みボランティア
活動に献身している。
新型の薬物を開発する組織は被験者にスラムの子どもたちを利用する。スラムの子どもが数人行方不明に
なったところで誰も気にはしない、という現実もある。アフリカの貧困者を被験者とする欧米の製薬会社の罪
を問い、暴いた映画にジョン・ル・カレルの長編を原作とした映画『ナイロビの蜂』という力作があったことを思
い出す。
 本作で暴かれる犯罪組織の幹部はアパルトヘイトに巣食った高級軍人であり、黒人の命を羽毛の軽さに
しかみなかった化学者たちだ。
 マンデラ政権は新しい国づくりの出発において「国民和解」を説いた。そして、実行した。それは讃えるべ
き高邁な理念の実施であった。
 しかし、旧悪は問わない、という政策によって、黒人への弾圧を常態化していた警察も軍隊も罪に問われ
なかった。矛盾のある国民和解でもあったが、国際社会は賞賛した。しかし、傷を負った生身の人間の心の
支えにならない。 ソケーラ刑事が所属する警察の署長はかつてスラムのソケーラ少年たちを追い回してい
た。それを知っていても水に流せ、とマンデラ政権は主張したのだ。そして、南アフリカ共和国という国は赤
道 以南のアフリカ諸国のなかで有数の経済大国になった。
 本作にはアクション映画の小気味よいリズムもなければカタルシスもない。重く不快な現実を直視しろと
迫ってくる。ダークサスペンス。映画だから、やがて犯罪組織は壊滅することになる、ソケーラ刑事の生命
と引き換えとして。結局、同刑事の命はアパルトヘイトの残滓によって奪われた。南アの現実を垣間見たよ
うに思った。
 ソケーラ刑事を演じたフォレスト・ウィテカーは、かつてジャズ・サックス奏者チャーリー・パーカーの短い生
涯を演じた映画『バード』で名を上げた米国俳優だが、本作でもアパルトヘイトの傷を引きずる黒人刑事役を
渾身の役作りで好演していた。  

映画『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』 ステファニー・アルゲリッチ監督

映画『アルゲリッチ 私こそ、音楽!」
   ステファニー・アルゲリッチ監督
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 アルゼンチン出身のマルタ・アルゲリッチ、現代クラシック音楽世界にあって女性では内
田光子と並ぶ偉大なピアニスト。16歳にして2つの世界的コンクールで優勝、しかも数日
のあいだにそれを成し遂げた強心臓、そして美少女であった。爾来、彼女は王道を闊歩す
る。24歳でショパン・コンクールに優勝したときは、すでに未婚の母であった。
 監督の名を注視されたい。そう監督はアルゲリッチの三女である。
 三人の娘は皆、父親が違う。「学校に行くのは止めなさい」、個性を潰すわ、と喝破する
母を娘ステファニーが妥協なく撮った評伝〈母〉であり、稀有な芸術家の魂を探る旅となっ
ている。イサム・ノグチの母も、「学校」否定派だった。芸術的感性を押しつぶす場でしかな
い、と。
 天才を母にもった子どもの苦悩、ツアーで不在がちな母という存在を受け入れた子どもた
ちの証言。監督ステファニーはふたりの姉にも語らせ客観性と批評性を高める。実の娘た
ちによって自らの母性が暴かれるシリアスな物語でもある。中国系米国人との間にうまれ
た長女リダは、母の愛をほとんど受けずに託児所で育った。しかし、リダはけなげにも率直
に“偉大”な母を仰ぎ見るように育ったようだ。彼女はやがてヴィオラ奏者になる。はなやか
なヴァイオリンを選ばず縁の下の力持ち的ないぶし銀の輝きを持つヴィオラを自己表現の手
段としたリダに愛惜の情を感じる。
 アルゲリッチにとってはけっこう辛らつな描写もあるが“偉大な芸術家”は取り戻せない真
実として受け入れ、監督にいっさい口を挟むことなく公開となった。アルゲリッチの住む場の
磁場は異次元なのである。

映画「マルタのことづけ」 クラウディア・サント=リュス監督

映画「マルタのことづけ」  クラウディア・サント=リュス監督
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 大状況を語るのは容易だ。天下国家を論じて談論風発となるのは習い性。けれど、最近、妻との会話
が少なくなってしまった。妻の対応が白々しい、何かあるのか、けれど、うっかり訊(き)けない。娘の化粧
が少し派手になったような気がするが、さて、理由を訊いてよいものだろうか? といった日常的些事に関
わることは人はとたんに寡黙になるものだ。
 小説でも穏やかな日常、さしたるドラマもない時間の流れを描い て読ませるのは至難の技だ。庄野潤三
という作家がいる、その文学 世界はそうした淡々と流れ来ては去る日常を描いて心に染みる世界を構築
する。時折り荒れたニュースから目をそらすように庄野文学の行間に身をゆだねたくなる。本作はそんな庄
野文学に通じる穏やかさ、人のぬくもりが掌(たなごころ)のなかで確かな手ごたえとして感じられる珠玉
の名編に違いない。
 不治の病に侵され、死期を悟っている46歳のマルタ(リサ・オーウェン)には3人の娘、そして末っ子に小
学生の息子がいる。みなそれぞれの立場、身の丈に応じたやり方で早晩、訪れるであろう母の死を受け入
れる心の準備をしている。夫と呼べる存在、父親として子たちに手を差し伸べてくる男はま ったく不在。見
事なまでに無視されている。
 メキシコに限らず、ラテンアメリカ社会ではよくある母を中心とした小宇宙。顔のない男たちはマルタをいっと
き愛し情熱的な日々を送った後、妊娠を機に・・・去ったようだが、そのあたりはよくあるケースとして映画では
まったく捨象する。父親という存在は まったく影すらない。このあたりウェットな日本の家庭劇とはいささか趣
きを異にしている。乾いているが、喉が渇くようなザラザラ感ではなく、湿度の低い熱帯高原の爽やかな大気の
軽さだ。
 冒頭、母マルタと子どもたちの情愛を根底にした遠慮のないやりとりが重ねられ、なんとなくこの一家の家庭
像というのが無理なく構築される。そのなかにスーパーマーケットの実演販売員の26歳のクラウディア(ヒメナ・
アヤラ)がマルタの隣のベットにやってくる。盲腸ということですぐ退院となるのだが、彼女には家族はなくボーイ
フレンドもいない。さしたる目的ももたず、ただ日常のむなしさを押し殺して生活をしているという感じだ。こうした若
者の寒々とした光景は世界共通の都市光景だろう。
 そんなクラウディアがマルタ一家となんとなくかかわりをもち、ちょっと年長者ということでマルタの子どもたちの
生活にかかわりを持ち、日常的些事にてらいもなく淡々と手を差し伸べていくことで家族的な紐帯が芽生えてくる。
 マルタの死は家族にとっては一大悲劇であるに違いない。しかし、他人にとってみれば、ちょっと憐れみを誘う
だけで、やがて自分の日常のなかで忘れてしまうようなことだろう。クラウディアが登場しなればそれだけ のこと
だ。しかし、彼女はマルタと約束したわけでもないのに子どもたちとの関わりを保つ。ほっておけないというほどの
善意ではなく、自分の心の空隙を埋めるためだ。無意識だけど、クラウディアのなかに、なんとなはなしに“生きが
い”のようなものが芽生える。自分のためではなく、あかの他人の子どもの生活に少し寄り添ってみよう、そこに仕
事をする意味も出てきたような気がする。そんな心の小さな変遷、かすかな波動といったものが繊細にだが、確実
に伝わってくる作品なのだ。
 監督にとって初の長編ということだが、これだけ見事な作劇をみせた才能は並ではない。いま活況にあるメキシ
コ映画界だからこそ生まれた才能かも知れない。  
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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