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花もつ女たち №30 女俳諧師たちの旅

女俳諧師たちの旅・・・隠れた日本女性の旅

 イザベラ・バードが英国ヨークシャー州で1831年に生まれる約100年前、日本では鎖国の世の江戸時代の巷に多くの女性俳諧師が活躍し、そして諸国を経巡って発句し、紀行句文集を多数公刊していた。
 その大半が当時の支配階級である士族や皇族ではなく市井の女たちであった。
 明治以降、加賀の千代女という俳諧師の作品を除いて、ほとんど歴史に埋もれてしまったが、俳諧史のなかでは繰り返し言及されていた。しかし、散文を本流とした近代の「日本文学史」のなかでは傍流に追いやられた。
 近年、江戸時代の市井の女たちが自らの生活実感を芸術表現として俳句を活用した意味、あるいは俳句という文学を掌中にすることによって自立した女俳諧師たちの存在を見直そうという研究者、そのほとんどは女性研究者だが成果を確実にあげている。
 ここでは、旅をつづけた女俳諧師について 紹介しておきたい。
 芭蕉の旅が、各地方に散在して住む門下を訪ね、句会を開くなどして歩きながら旅費を稼ぐものであった。同時に地方に一門の拡張をはかり勢力を成すことでもあった。旅は仕事であり、芸術表現になくてはならない場であった。
 俳句を生業として自立させた俳諧師はよほどの蓄えでもない限り、生きるためにも旅をしなければならなかった。芭蕉もそういう人であったし、旅をしなければ作品は生み出せなかった、ということだ。われわれが知る芭蕉の句の多くが、紀行句文集『奥の細道』などに収録されていることは誰でも知るとおりだ。
 諸九尼という女俳諧師がいた。

  夢見るも仕事のうちやはる雨
  けふはみな筆を時雨にそめにけり

 彼女の旅は五十も半ば過ぎてから芭蕉の足跡を追うようにはじまった。九州・筑紫の人で、大きな庄屋の娘として生を享け、長じて近在の小庄屋に嫁いだ。空白だからけの前半生はそれだけ を伝える。しかし、旅する俳諧師と出会うことで人生は一変する二度と故郷にもどることはできないという不退転の決意で駆け落ちする。京都や大阪で暮らすことになるのだが、夫と死別すると生きるために俳諧師となる。それ以外の道は閉ざされていた。そして生きるために旅をつづけた。代表作の紀行句集『秋かぜの記』は芭蕉の旅を追体験もした約半年の旅であった。57~58歳という年齢での旅であった。女宗匠として句会では点者をつとめながら旅費を稼ぎながらのものだった。そういう旅をくりかえした。
 諸九尼以上に旅に明け暮れたのが田上菊舎尼。その生涯のほとんどを旅の空で過ごした。
 公刊された作品『つくしの旅』『九州行』『一聲行脚』『吉野行餞吟』『九國再遊』の表題をみている だけでも旅の人であったかがわかるだろう。現存するのはわずかだが旅の途上、絵も描いた。
 このふたりの他にも句集を公刊したことで名の残った職能的女俳諧師の名に、星布尼、此葉女、燕志女、琴上などが俳諧史に記されている。もし、鎖国という時代でなければ、菊舎尼などは知の拡張を求めて海外に飛躍していったかも知れない才能だ。
 イザベラに先行すること百年、日本には俳句を通して自立し、旅をすることによって自己拡張を求めた女性が多数存在した。それは文芸史だけでなく女性史のなかでも世界的に特筆するものではないだろうか。
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花もつ女たち №29 イザベラ・バード(英国・旅行家*1831~1904)

 イザベラ・バード(1831~1904)は19世紀後期に世界を旅することによって自立を求めた英国人女性。22歳から70歳までひたすら世界を旅しつづけた。
 旅をすることによって人間を大きくしていった。旅を記録するため最初は自らの文才に頼った。風俗・自然など描写は文章だけだったが、より正確に記録しようとスケッチをはじめ、わがものにする。しかし、画家になることは本分ではない。やがて写真撮影・現像など当時の最新の技術を修得していった。しかし、写真師と立つこともまた本文ではない。また、夫が医療伝道家であったため、彼女自身、医学にも多少、心得があったことで過酷な旅でも重篤な病に冒されることはなかった。しかし、地域医療家にもならない。当時、男にはあった旅装だが、女にはそれがないため彼女自ら工夫も重ねている。けれど、第一大戦下、女性の服装を締め付ける“拘束”から解放したシャネルのようにもならなかった。
 イザベラが次々と習得していく技術はすべて、旅をより拡張するための手段に過ぎなかった。すべて、彼女の一対の脚のための“用の具”となっていった。
 「女にできることは女がする権利」とは彼女の心情だ。
 まだ女権と いうことを声高に言わなければ何事も前に進まない時代に南米と南極を除く大陸を歩いた。
 日本にも開港から20年目の1878年に来日し、東北地方を歩いて縦断し北海道入り、アイヌの集落に入り、ともに生活するなかで記録を取った。文化人類学者としても先駆的な位置に立つ人でもある。その記録『日本奥地紀行』は現在も明治期の日本を客観的に記録した証言集として第1級の資料価値をもち版を重ねている。
 英国本国にいるときは病弱といわれた。150センチにも満たない小柄な女性であった。
 それが旅に出るための準備をしているあいだにいつも元気になった。当時の旅は今日ではまったく考えられないほどの困難をともなっていたはずだし、女性であるがためにこうむった性的差別もあっただろ う。そした旅の途上でも、夜毎、その当日の記録を留めるために明かりを灯しつづけた。意志堅固な人でもあった。
 
 イザベラの紀行集、評伝、そして踏査した地図をみながらあらためて思うことは当時の大英帝国の勢力、世界帝国としていまだ拡張しつづ けていた時代の人だということだ。
 英国の影響が希薄な中南米、東欧からロシアは未踏査のまま遺されている。サハラ以南のアフリカも未踏だ。
 大英帝国の繁栄と英語の流布という政治的要因を抜きにしては語れないイザベラの旅だが、しかし当時、彼女に同伴したり、後継者を自認する女性が英国に現れなかった。当時のフツウの女性はもとより、進取の気性に富んだ女性にしても、イザベラの事業は仰ぎみるもので、あまりにも遠くに輝く明けの明星だった。
 「史上屈指の旅行家」という栄誉はやはり彼女の類まれな個性、才能を活かした努力の賜物と言うしかない。紀行作家として確かの目があったからこそ、その著作は古典となりえた。
 「社会で与えられる自由に満足せず、それ以上の自由を求める女性のパイオニアであり、不便な地域、危険に満ちた地域を楽しんで旅をした、恐れ知らずの旅行家」。(オリーブ・チェックランド著『イザベラ・バード 旅の生涯』川勝貴美訳より)

橋本勝さん*ニッコリ笑ったテロリズム

インタビュー 橋本勝さん

 風刺を「ニッコリ笑ったテロリズム」と評した詩人がいた。橋本勝さんの作品をみるたびに、それを思い出す。
 テロリストはたいてい若い、血気盛んな青年であり、懐剣は鋭い、というのが芸術の世界である。
 橋本さんは10代の後半にはすでに作品を発表していた。その頃の風刺性は成熟こそすれ、70歳を迎えたいまもいささかも衰えていないように思える。

 橋本さんの作品に筆者がはじめ触れたのはいまは存在しないATG映画のプログラムに掲載されていたB5判ほど誌面の3分の1大で掲載されていたイラストであった。そこで観た橋本流ともいうべき鋭敏な線、するどい風刺性、限られた紙幅に要約された象徴性……最近著でも、それがいささかも変わらない。

 「すこぶる単純な動機からです、描きはじめたのは・・・気にいった映画、好きな映画、自分の感動を自分なりの方法で伝えたい、と思いました。それがぼくの出発でしたね」
 
 橋本さんが絵で批評した映画はたいてい社会派、分かりやすく古典的名作でいえばチャップリンの『独裁者』。むろん橋本さんもチャップリンへの敬愛も強く、繰り返しチャップリン映画を取り上げている。
 こうした映画に対する批評は橋本さんの重要な仕事となっていき、いまも続いている。映画の試写室で良くお会いするし、その後でお茶しながら、見てきたばかりの作品を語り合う時間をもつことになる。それは充実した時間だ。

 60年代後半から70年代、日本は政治的 な季節だった。当時、デビューしたばかりの橋本さんが社会風刺に手を染めるのは必然だった。それ以降、橋本さんは連綿と描きつづけている。40年以上の活動歴だ。そして、いまも表現力はいささかも衰えない。

 「ぼくは年金もないですから死ぬまで働くしかないですよ」と自嘲気味にいうが、おそらく、そうした生活の切迫感、飢餓感も作品にいまも鋭さを与えているのだと思う。だから、橋本さんの描く社会風刺はテロリズムの刃を持っている。

 「いま新聞などにある時事漫画は風刺性はまったく希薄ですね。あれは時事漫画ではなく、“時局”漫画です。だから、その時局が経過してしまえば存在価値がなくなるんです」。卓見だと思う。

 橋本さんの視点は時局を一度、客観視して未来を見つめる。だから、その作品はいまも今日的な力を持つ。
 この新著の前 に橋本さんには『20世紀の366日』という著書がある。1年366日を歴史的な事件で日めくりのようにした作品だが、そこには確かデビュー当時の作品が収められているぐらいだ。つまり約40年という歳月を経ながら、力を失っていない。

 「社会風刺画家の義務のようなものを感じて2001年の元旦から毎日一点、作品を描き出したのです。そして、1年が終わったら、1冊の本にまとめはじめたのです。2003年まで本にしましたが、出版不況のなかで頓挫しました」 

 しかし、橋本さんは描きつづけた。
 その21世紀の作品群から厳選した366日(枚)が本書である。橋本さんの仕事は現在進行形でいまもつづいている。
 ▽第三書館刊。1400円。

ガルシア=マルケスも愛したバジェナードを次代の音楽として育てるカルロス・ビベス

ガルシア=マルケスも愛したバジェナードを次代の音楽として育てるカルロス・ビベス
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 コロンビア・コスタ地方原産のリズム、バジェナード。
 その豊穣な基層をいささかも損なわずにポップス化し、国の境いを越境させ、汎ラテンアメリカの人気歌手になったのがカルロス・ビベス。すでに51歳(1961年生まれ)となった。もう大御所といってもいい、かな・・・。でも、身体的なリズム感はデビュー当時のように軽やかなままだ。
 ビベスの歌と活躍ぶりがコロンビアから、たとえば筆者が長年暮らした中米グァテマラの古都にも聴こえてきて、その存在を知りえたのは1990年代前半期だったが、最初のグローバル・ヒットは、1997年の「テンゴ・フェ」、99年の「エル・アモール・デ・ミ・ティエラ」あたりだろう。その2曲の成功によってビデスの人気と名声は確立した。ビベス30代の成功ということで遅咲きのように思われ、苦節何十年といわれそうだが、歌手以前の経歴は人気俳優である。コロンビアはメキシコと並ぶテレノベラノ量産国であって、俳優として早くから成功したビデスは多忙を極めたという事情がある。
 90年代に歌手としても不動の位置を確立したビデスは、それから20年、バジェナードのカリブのアフロ的風味をさらに美味にし、香辛料をまぶして活動を持続してきた特異な才能だ。
 ガルシア=マルケスの名作『百年の孤独』のなかで「悪魔のアコーディオン弾き」と登場するぐらい、コロンビア・コスタ地方のランドマーク的音楽としてバジェナードの存在は大きい。マルケスが描いた老歌手にして「悪魔のアコーディオン弾き」は実在の音楽家である。彼自身を登場させた映画まである。マルケスのバジェナード愛好は幼児体験であって、彼の体内の音楽なのだと思う。
 バジェナードはコロンビア原産音楽として、クンビアとならぶ。
 さてビベス。7月6日から28日(2014)までプエル・トリコと米国国内をツアー後、8月から9月まで南アメリカ諸国、ヨーロッパ諸国と大規模ツアーを慣行することになった。米国では主要8ヵ所で行なわれるが、いずれもショービジネスの本場ばかりだ。その記者会見がおこわなわれた首都ボゴタでの席上で、6月30日、85歳で死去したバジェナード界の大先達レアンドロ・ディアスを称賛するともに、ツアーでディアスの作品をビベス流解釈で取り上げることも発表した。
 ちなみにディアスの代表的な作品は、「ラ・ゴタ・フリア」「ラ・アマカ・グランデ」「アリシア・ドラダ」「マチルデ・リナ」などがある。いずれもバジェナード音楽の重要な遺産だ。「ラ・ゴタ・フリア」はビデスで名 演でも知られる。
 ビベスの大規模ツアーには、彼の子2男2女も同行する家族ツアーとなるようで、仕事は家族に囲まれてするのが最高という姿勢だ。
 「自分の音楽はいつもコロンビア民族のメッセージと思っている。そして、兄弟愛、さらに愛と平和のメッセージなんだ」
ビベスの向日性の音楽を自ら評した言葉だと思う

花もつ女たち No28  お葉(永井カ子ヨ)モデル(1904~1980)

花持つ女
 お葉(永井カ子ヨ)モデル(1904~1980)
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 「お葉」とは竹下夢二がつけた名、当時の感覚ではいわゆる源氏名。その夢二の名作といわれる黒猫を胸に抱いた女性を描く「黒船屋」のモデルがお葉。「宵待草」など夢二絵に繰り返し登場し当時、素性は知れずとももっとも有名な日本女性のイコンとして巷間に知れわたった。
 そのお葉が、夢二に見初められる以前、責め絵画家として一世を風靡した伊藤晴雨のモデルを務めていた。いまふうにいえばSMのM女モデル。
 あらためてお葉の略歴などを調べると12歳のときには東京美術学校などでヌードモデルを職業としてはじめていることを知る。いまでいえば中学生か。晴雨のモデルになったのも、その頃で、15歳で夢二と知り合うまで勤めている。今日、晴雨絵もすっかりメジャーになってしまい秘画めいた気配も薄れた。
 しかし、現代でいえば女子中学生に過ぎない年齢の少女が〈性愛〉の秘儀、妖艶ともいえる絵のモデルをこなしていたことに驚嘆する。
 夢二も晴雨もいわゆるアカデミックな画家でなく大衆嗜好の絵師だが、明治洋画史に名を残す藤島武二もお葉を選んだ。中国服姿の令嬢像「芳恵」はあまりにも有名だ。
 モデルは可変体。画家、彫刻家、写真家、あるいはファッションデザイナーたちの恣意でいくらでも変容させられる。しかし、その要請に十全にこたえ、表現者に仕事をよくさせるのは、豊かな感性だろう。
 晴雨に「妖艶」、夢二に「感傷」、武二に「気品」、これすべて10代の少女お葉の仕事であったことに今更ながらに驚嘆する。
 いまモデルを生業とする女性はあたまいるけれど、お葉を超えるモデルはまだ出ていない、としか言いようがない。
 晩年は佳きお婆ちゃんとして平穏に過ごしたと評伝は書く。

ラテンアメリカでの〈9・11〉

 ラテンアメリカでの〈9・11〉
ビクトル・ハラ
 (写真はビクトル・ハラ)
 毎年、〈9・11〉が近づくとさまざまな思いが湧いてくる。個人的には二ユーヨークのツインタワーの崩壊余波で、長女がメキシコ市の拙宅に遊びに来るという予定は米国の飛行場閉鎖で中止になったという小事を思い出す。
 また、ラテンアメリカの政治や経済、文化活動を定点観測してきて筆者にとっては、やはり〈9・11〉は1973年9月11日、チリのサルバドール・アジェンデ大統領の人民連合政権がピノチェト将軍による軍事クーデターで流血のなかで崩壊した、その日として刻まれる。
 それから40周年を迎え、今年もさまざまな行事が行なわれた。
 チリは軍事クーデターによって3つの大きな才能が同時に失われた。それも世界的な才能である。
 ひとりは、大統領本人が執務室で戦いに倒れ、民衆歌手ビクトル・ハラは、拘束されたサッカー場でギター持つ手を打ち砕かれた後、射殺され、ノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダは自宅で不可解な死を遂げた。詩人はクーデターから数日後に急死する。
 また軍事クーデターによって多くの才能が国外に流出した。民衆歌手、そして民俗音楽研究家であったヴィオレタ・パラの子で歌手アンヘル・パラなどがメキシコに亡命した。メキシコは多くの亡命者を受け入れた国として現在、チリから賞賛されているが、それを反映するように9月30日、メキシコ市のアウデトリオ国立劇場で〈9・11〉で無惨に仕事を断ち切られた3人の業績を顕彰するイベントが行なわれた。
 これにはチリからフォークグループの大御所キラパジュン、インティ・イジリィマニが参加し、メキシコからはクーデター後、チリの民主化を訴えたロス・フォルクロリスタスらもステージに上がる。
 キラパジュン、インティ・イジリィマニともに、アジェンデ政権樹立前夜、民衆の政治運動が高揚するなかでチリの大学生たちが民衆の声、人民連合の勝利を訴えて結成したグループだ。電気もない僻村でもアジェンデ支持を訴えるため、彼らはアコーステック音楽を追求した。クーデター後は当然、軍事政権下では活動できず、生命の危機に晒されることになるのでパリに亡命、そこを本拠に世界各地で軍事独裁に反対する国際世論を高めるために公演をつづけた。日本にもやってきた。それは単に政治的プロバカンダの主義主張が優先するものではなく、高い音楽性で聴衆を獲得した。当時、キラパジュンのステージを水道橋の労音会館ホール(当時)で接している。
 キラパジュン、インティ・イジリィマニともチリが民主化された後も今日まで音楽活動をつづけていた。しかし、長い歳月は音楽内容を変えた。キラパジュンは社会参与の姿勢を第一義としたが、インティはアート志向を高め観客を選ぶようになった。歳月は亡命者の姿勢を変える。
 メキシコ公演では、軍事政権下での人権犯罪を糾明も訴える。非合法で殺された犠牲者の数さえ、いまだ特定されていない現状があるからだ。そして、チリの悲劇を忘れるなとラテンアメリカの歴史に刻もうとも訴えるようだ。
 ラテンアメリカでは、〈9・11〉はニューヨークの悲劇ではなく、アジェンデ政権が武力で倒された日として記憶する者が多い。

映画『ある愛へとつづく旅』、そして旧ユーゴ分裂後の内戦を描いた作品

映画『ある愛へとつづく旅』セルジオ・カステリット監督
ある愛へと


 旧ユーゴスラビア連邦共和国解体後、連邦に加盟していた各共和国が独立を巡って小競り合い、そして内戦へと発展した。まずスロベニアで勃発後、同国は旧ユーゴ連邦のなかで最初の独立国となった。つづいてクロアチアが、さらにボスニア・ヘルチェゴビナ、そしてコソボへと戦火は飛び火し、さらにセルビアはNATO軍の空爆まで受けることになる。なかでももっとも深刻な状況を呈したのボスニア内戦だった。かつて東欧で唯一、冬季オリンピックを開催した首都サラエボの市街地を戦域として、無数の悲劇が繰り返された。戦火の激しかったところでは多くの悲劇が繰り返された。当然、映画の素材を無数に提供することになった。サラエボ舞台に何本もの秀作、映画が撮られた。この秋(2013)、公開された映画『ある愛へと続く旅』も、その秀作の系譜に位置づけられる作品だろう。

 主演はスペイン映画界、というより西欧映画界を代表する女優ペネロペ・クルス。本作では、イタリア人に扮する。
 クルスはこれまで筆者が覚えている限りスペイン女は当然だが、イタリア、フランス、ギリシャ人、米国人、さらにアルバニア人女を演じてきた。活動の場は世界大という屈指の国際俳優だ。
 なかでも印象的だったのは、ソ連崩壊以後、さしもの独裁体制を維持できずに国境を開き市場経済を導入したアルバニアの疲弊に耐えられず、経済難民としてイタリアで働く貧しいアルバニア女性を演じた映画『赤いアモーレ』での熱演だった。その映画によって筆者などはアルバニアの経済疲弊の内情を公立病院の設備などを通して具体的に知ることとなった。そういえば最近観たフランス映画『黒いスーツを着た男』に旧ソ連邦のモルダビアの疲弊が酷いことを知り、パリにはモルダビアからの経済難民でつくる小さなコミニティーまであることを教えられた。

 むろん、ボスニア内戦下で西欧諸国に亡命したボスニア人も多い。
 本作『ある愛~』は、『赤いアモーレ』のセルジオ・カステリット監督とふたたび共同して制作した秀作だ。カステリット監督は俳優でもある。『赤い~』は主人公アルバニア女に恋する医師を好演し、本作ではイタリア陸軍将校役だ。しかし、映画はクルスのものである。彼女の好演がなければ本作は成立しなかったはずだ。
 『ある愛~』のあらすじを紹介すれば次ぎのようになる。
 ローマに暮らすジェンマ(ペネロペ・クルス)に、ある日、青春時代の一時期を過ごしたサラエボから突然、ボスニア人の男友だちゴイコから電話が掛かってくる。サラエボに来ないか、と。
 ジェンマは16歳の一人息子ピエトロとの難しい関係を修復するため、自分の過去を訪ねる旅にでることを決意する。現在のジェンマは40代半ばという中年女性だが、これをクルスは演じ切っている。そして、素顔のままさらせる学生時代のジェンマ役、結婚後の30前後、そして40代と三つの世代を見事に演じ切る。
 そのジェンマの学生時代の旅に見出したユーゴ時代のボスニアには他の東欧諸国にはみられない「自由」があったことが描写されていて面白い。当時、欧米はむろん、日本でも流行ったロックがセルボ=セルビア語(?)で流れていたり、ピッピー文化そのものがあったことを知る。サラエボ冬季五輪直前の日々。その時代にジェンマは米国から来た写真家志望のディエゴ青年と出会い恋に落ち、やがて結婚する。
 結婚後のディエゴは写真家としての野心を封印し、退屈だが生活のための広告写真家として働いている。ふたりは子どもを熱望したが、ジェンマはこどものできない身体だった。ふたりのあいだが少しづつきしみはじめる。ディエゴはユーゴ解体後の不穏なボスニアからのニュース映像をみながらサラエボの旧友たち を心配し、また写真家としての充実感を取り戻そうとひとり旅立つ。その後を追うジェンマ。そして、戦火のサラエボでふたりは人道支援活動にはいる。
 ボスニア内戦を通じて、男と女の愛について、生みの親と育ての親の葛藤。内戦下の不条理のなかで子を孕み生み、父親の存在すらしらず育てる男と女・・・ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチが撮った『サラエボの花』の主題も母性愛、そして人間の存在のありようを見つめた佳作だったが、本作もボスニア内戦という異常な季節を生き延びた人々の体験を通して突きつけてくる人間愛そのものをテーマとしているものだった。
 サラエボに平和は訪れてからすでに12年が経つ。昨年、そのサラエボ及びボスニア国内を車で走りまわった。サラエボ市内にはまだ銃弾の痕を無数に残す集合住宅、焼け焦げたまま残骸をさらすビルなどがあった。そして、一時、臨時墓地となったオリンピック競技場も復活していたが、その競技場をまるで囲繞(いじょう)するかのように林立する白い墓標に声を失った。墓標の没年はたいてい1990年初頭の記していた。若い死の群れがそこに刻まれていた。
 
映画『サラエボ、希望の街角』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督(2010年・ボスニア)
映画『サラエボの花』 ヤスミラ・ジュバニッチ監督(2006年・ボスニア)ジュバニッチ監督にはお会いした。誠実で聡明な  女性だった。質問には真正面から答えてくれた。しかし、言葉の枝葉の部分に容易に言葉にできない、あるいはしたくな いものが停滞しているような印象を受けた。初見のジャーナリストに答えるべき事柄はこれまでという見えない線がそこ  にあるように思えた。笑顔は冷たいという印象だった。同監督は砲火の下、サラエボに留まっていた一市民でもあった。
映画『あなたになら言える秘密のこと』イサベル・コイシェ監督(2005年・スペイン) 哀切極まりないドラマだが、愛の志向を描いて心に染みる。
映画『沈黙の戦場』クリスチアン・ミリッチ監督(2007年・クロアチア)第二次大戦中、ナチドイツと共同戦線を張ったクロアチアの右翼軍の存在を明らかにしている。
映画『最愛の大地』アンジェリーナ・ジョリー監督(2011年・米国)
映画『パーフェクト・サークル』アデミル・ケノビッチ監督(1997年・ボスニア=フランス)
映画『セイヴィア』ピーター・アントニエヴィッチ監督(1998年・米国)米国内のイスラム教徒を憎悪する兵士が、ボスニアでセルビア側に属して戦うなかで、自分の反イスラム観が否定されていき、セルビア極右私兵たちの人権犯罪を告発する。
映画『ウェルカム・トゥ・サラエボ』マイケル・ウインターボトム監督(1997・英国)
映画『ノー・マンズ・ランド』ダニス・タノヴィチ監督(2001年・ボスニア、スロベニア、イタリア他)
映画『ブコバルに手紙は届かない』ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督(1994年・ユーゴスラビア、イタリア他)クロアチア国境、セルビアに面した最大の町ブコバルの約8割が内戦で破壊された現実を若い夫婦が内戦で引き裂かれる現実を描く。
映画『非常戦闘区域』ダニエル・カルバルソロ監督(2002年・スペイン)コソボの紛争地に平和維持部隊として派遣されたスペイン部隊の話。
映画『ビフォア・ザ・レイン』ミルチョ・マンチェフスキ監督(1994・マケドニア) ユーゴ解体後、もっとも早く映像化された内戦映画のひとつ。秀作である。
*後、2,3作、書き落としているはずだが。割愛。元サッカー日本代表のオシム監督に焦点を当てた記録映画『引き裂かれたイレブン』も忘れがたい印象を残す。彼はサルビア出身のボスニア人、内戦勃発期に内戦でボスニアの敵国となったセルビア・ベオグラードのチームの監督にして、ユーゴスラビア代表の監督でもあった。それから政治亡命し、戦火のサラエボに遺された家族とは数年、会えないという状況がつづく。そうした政治的な困難時代を過ごしたオシム物語だ。

花もつ女 №27 吉本せい (興行師 1889~1950)

吉本せい (興行師 1889~1950)

 テレビ、いま吉本興業傘下の芸能人たちのいわゆるしゃべくりが席巻している。個人的に嫌いだ。ウルサイ。演技ではなく教養の底の浅さが丸見えだ。最近、浅草演芸場に月1~2度、江戸前の落語、そして漫才、いわゆる色物といわれる神楽、奇術、紙きり、はたまた講談ありの約4時間ほどを堪能している。そして、日本の話芸は素晴らしいと思う。寄席は落語が主流であるべきだ。そういう目で吉本の営利を支える漫才は嫌いだが、それが商業行為である以上、ここまで育てた一代の興行師・吉野せいを無視するわけにはいかない。好かないが認めないわけにはいかない。

 大衆芸能の巨大勢力となった吉本の創業者が吉本せい。吉本興業は無借金経営の超優良企業だ。そんな企業の創始者に対して、浮草稼業をイメージさせる「興行師」でもあるまいと思うが、自他ともに認める「えげつないまでの大阪商法」で成り上がった、せいのやり方は人間臭いし前近代的。数多(あまた)ある、せい評伝も「興行師」と書くのは理にかなっている。
 創業者と書いたが厳密いえばせい34歳のとき死別した夫・吉兵衛は生前、大阪市内の劇場をどん欲に買収し、今日の基礎を築いた実業家。当時、従業員たちは、せいを「御寮さん」と呼んでいた。彼女の内情の功を世間はみていた。しかし、控えめだが堅実に夫以上の働きをしていた。苦労人であった。類いまれな商才があったし、骨身を惜しまなかった。
 せいの評伝は、そのまま大衆芸能史を織り成す。
 落語=寄席を基盤にして経営基盤を安定させた後は、時代の風をすばやく嗅ぎ取り漫才に傾斜させる。エンタツ・アチャコはそのドル箱だった。過日、戦前の吉本が資金を出したエンタツ・アチャコ主演映画をフィルム・ライブラリーでみたが、その洗練された手法になかなか感心させられた。
 映画、ラジオと大衆娯楽が変遷していく時代をその都度、先取りし対応していく吉本せい。
 娯楽が徹底的に排斥された戦時下も乗り切り、やがて戦後のテレビ時代に飛躍する土壌を耕した。
 女性に参政権が与えられていない時代に企業家として陣頭指揮したせいを、世間は「女だてらに」とも「女ならでは」も言い立てたが、並みの根性ではひとくせもふたくせもある浪速芸人を巧みに使いこなすことはできなかったはずだ。また、非情さもあわせもっていた。せいにつぶされた芸人もまた大勢いたようだ。   

花もつ女 №26 ビオレッタ・パラ(チリ 歌手・1917~1967) 

花持つ女
 ビオレッタ・パラ (チリ 歌手・1917~1967) 

 ラテンアメリカの革命は歌とともにやってくる、といわれる。
 日本でも同じみのメキシコ俗謡「ラ・クカラチャ」はメキシコ革命で活躍した女性兵士たちへの讃歌であり、情宣歌であった。キューバ革命も歌があり、そのキューバから支援されたニカラグアのサンディニスタ革命戦争当時には「ギターをもったゲリラ」という言葉も生まれた。エル・サルバドルのファラブンド・マティ革命軍の秘密放送は「カサス・デ・カルトン」というフォークロックではじまった。チリで初めて社会主義政権が誕生する前にも多くのフォークローレ、民衆の歌が生まれた。その歌が豊潤に生まれるようにチリの音楽畑を耕し、肥沃な地にしたのがパラだ。もっともパラが社会主義者であったかというとそうではない、強いて言えば社会的公正を求める民衆派。

 パラは歌いながらチリ全土を歩いた。民衆のあいだに歌い継がれている楽譜のない歌を採譜して回った。実践的音楽学者ともいえる。
 パラによって発掘され記録されることになった多くの歌はチリの無形文化財となった。
 その宝を滋養にしてアジェンデが指導する学生たギターや民族楽器をもって人民戦線の周りにあつまり地方キャラバンを開始した。多くの学生が地方から辺境へとギターをもって長足の旅をつづけた。電化されない地方でも歌えるアコースティック・サウンドで。パンチョ・ビジャやサパタが活躍したメキシコ革命当時と変わらない。そこにパラの歌、彼女が採譜した民謡があったのはいうまでもない。

 パラはそうした民謡を聴かせるライブハウス、チリではベーニャと呼ばれる飲食できるテント小屋を作り経営した。しかし、ビジネス向きの才能は持ち合わせていなかった。立地条件を考慮するまえに自分が気にいった景観のある不便な場所にベーニャを作った。最初のものめずらしさが過ぎれば客足は遠のく。経営は頓挫、どうじに恋人も失い、絶望して頭部をピストルで打ち抜いた。……と書けば、いかにもありそう、ということになるが、もっと複雑な思いもあったかも知れないし、そうした激情性もあったことは確か。 パラの葬儀にアジェンデも参加した。
 
 パラはまず歌手であったが、表現欲求は烈しく、内なる声にうながされるまま手芸、刺繍、とくにタペストリーを創作していった。特に独創性に富んだタペストリーはパリ・ルーブル美術館に買い上げられ収蔵されている。絵画や彫刻にも手を染めた。生きるほど表現活動を拡張した。
パラの歌は自殺で完結しなかった。子どもたちが継承した。ピノチェット軍事独裁下では、その子どもたちはメキシコに政治亡命、メキシコ市にベーニャを建て、母国で闘う民衆をために母パラの歌を演奏した。
 パラ、それはラテンアメリカ女の熱情の在り方を象徴するような、その生き様そのものが一篇の叙事詩であった。

中米ホンジュラス   ガリフナ族伝統の音プンタを受け止める同国音楽家

中米ホンジュラス
 ガリフナ族伝統の音プンタを受け止める同国音楽家
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 中米ホンジュラス。日本からもっとも見えにくいラテンアメリカの小国だ。最近はW杯ブラジル大会へ出場、善戦したことからサッカー・ファンには注視されているのかも知れない。近く日本代表との親善試合も予定されている。
 このホンジュラス……こと「音楽」では意外に親密な接点をもっている。
 たとえば日本で製造されているマリンバの素材はホンジュラス産の良質なローズウッドがほとんどだ。しかし、その木材だけで、ホンジュラスの音はほとんど入ってこない。

 2008年、民音主催「セントロアメリカの風」公演でホンジュラスのカリブ沿岸地方から出てきた優れたユニット、ギジェルモ・アンダーソンとセイバーナが紹介されたことぐらいだろう。
 そのユニットの名でわかるようにカリブ沿岸都市ラ・セイバを拠点としている。メンバーのなかに同国カリブ沿岸に共同体を広げているアフロ系民族ガリフナ族のミュージシャンがいた。同国の最良の音楽はいつもカリブ海の潮の香りを乗せて内陸部の首都テグシガルパに吹き寄せる。
 ガリフナ族とは西アフリカに起源をもつ。例のごとく奴隷船に拘禁されカリブ海上を航海中、ハリケーンにあって船が大破、近くの島に流れ着いた者を父祖とする。奴隷商人の手から逃れた彼らはカリブの先住民の助けを得て、独自に共同体を形成した。奴隷船で運ばれながら、一度として奴隷労働に狩り出されることなく子孫を繁栄させ、中米地峡のカリブ沿岸地域にひろく分布する独立の民となったアフロ系。したがって、その伝統祭事にカトリックの影響は希薄なため文化人類学的な研究対象とされてる人たちだ。伝統音楽プンタなどはその象徴だろう。
 今回紹介するのはホンジュラスでは良くしられたギターリスト、グアジョ・セデニョ。彼もまた同国カリブ沿岸の最大都市サン・ペドロ・スーラを拠点とする。14歳から地元のホテルで演奏活動をはじめたが、その音楽は欧米音楽の焼き直したもので欧米ポップスのホンジュラス的消化というものだった。同国では人気を得ても、外に出ることのない非民族的なものだった。彼のギターは模倣から出発したのだろう。それでロックギターリストとして同国では実力を認められた。最近、そのグアジョ・セデニョが同国でにわかに注目を浴びている。それはカリブ沿岸のガリフナ族の伝統音楽に豊かな鉱脈があることに気づき、自分の音楽のなかに積極的に吸収しようと研究し、すでにその成果を自身の演奏で聴かせているからだ。
 そのグアジョの動向をつたえる記事のなかに先年、来日公演したギジェルモ・アンダーソンの名が出てきたので目に留まったのだ。
 「アンダーソンは僕の父親の親しい友人だった。彼が優れたギターリストを探しているというので、僕が彼と一緒に仕事をするようになって長い時間、過ごすようになった。外国に行ったよ。その影響でガリフナ音楽とも触れ合った。いま、ガリフナのミュージシャンと一緒に新しいホンジュラスの音楽を創造中だ」
 ガリフナ音楽を「プンタ」という。もともと葬祭のセレモニーとして踊られていた音楽から派生したものだ。
 このプンタをソフィスケートしてラテンのダンサブルな音楽として鋳なおし、メキシコに出て活動、一時期、ラテン世界で人気者なったバンダ・ブランカというグループがいた。「ソパ・デ・カラコル」などは中米で大ヒットしたが、そのバンダ・ブランカもラ・セーバの出身だった。グアジョ・セデニョはブランカたちより更にクオリティーの高い音楽を目指しているようだ。 
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