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映画 アフリカを描く イタリア映画「海と大陸」 エマヌエーレ・クリアレーゼ監督

映画「海と大陸」エマヌエーレ・クリアレーゼ監督
海と大陸

 自分自身が体験した壮絶な出来事。それも生死の境いを行きつ戻りする神にすべてを委ねたような時間。自力ではどうしようもい過酷な状況。自分の周囲では次々と溺死してゆく。それを再び(演技とはいえ)再現しようとする行為とはいかなるものなのだろう。
 本作の舞台は地中海に浮かぶイタリアの離れ小島リノーサと、その周辺の海。直線距離ではイタリア本土より、北アフリカのチュニジア、リビアに近い。この海域はローマ帝国創設前からさまざまな理由で難民が行き交う。
 いま、イタリアの沿岸漁業は漁獲量が減り、漁業で立ち行かなくなったところが多いようだ。リノーサ島の漁業も不振を極め、陽光きらめく自然を活かして観光で生き延びようとしている。そして北欧諸国からの観光客でそこそこにぎわっている。ただ、アフリカにあまりにも近いため南からロクな装備ももたないボロ船に北アフリカ、中東諸国の難民を乗せて島の周囲を回航している。経済的な不況といえば南欧も同じだが、しかし、さらに南の諸国では飢餓が這う。
 多くの不法越境者を乗せた難民船はしばしば海難にあう。運よく島に上陸できたものもすぐ拘束されてしまう。無事に入国できるものはほんの一握りなのだが、越境者の群れはなくならないどころか増える一方だ。これは欧州だけの問題ではない。南にメキシコと長大な国境をもち、カリブ海に突き出た半島をもつ米国が抱える問題でもある。それが今日の現実だ。
 現在、ということでいえば、キューバ=米国国交回復の潮流のなかで、キューバ沿岸から駆け込むようにフロリダ半島を目指すキューバ人が族生している。国交が正式に恢復すれば、米国はキューバ難民の受け入れをいまのように許容しなくなるだろうという思いからだ。今なら、他の中南米諸国からの難民よりキューバ人は、反カストロ政策の一環として米国は優遇しているからだ。また、「イスラム国」の台頭で隣接した諸国も難民の流入に困惑している。
 そういう国際状況を直截的に反映しているのが本作だ。
 冒頭に記した体験の持ちぬしエチオピア出身の女優ティムニット・Tというが、彼女は本作で出産を間近に控えた急死に一生を得たサラという役で出演しているのだ。むろん、女優体験はいままでにないわけだが、本作では初演とは思えない内に憂愁と諦念を抱えた女性を演じきっていた。
 イタリアでは難民に便宜を与えていけない。発見したら警察に通報しないと罪に問われる、ことになっている。それは非情なものだが、不法越境者の流入に悩む欧州諸国では必要悪だろう。難民対策のために厖大な予算を計上し、国内での社会福祉予算を削らなければならないとしたら、政権維持のためにも参政権をもたない難民を切るしかない。それが現実だろう。
 映画は、サラを匿(かくま)い、出産の手助けをする貧しい漁民家族の話なのだ。その日常のドラマに名もない民衆の法に縛られない人道・博愛・・・といった言葉では語りきれない感情の機微、人としての道、というような人間の原初的な発露を淡々と描いて、胃の腑におちてくる比重の確かさを感じさせる。秀作である。        
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ルベン・ダリオとエルネスト・カルデナル

中米ニカラグア
 グラナダの詩祭、ルベン・ダリオとエルネスト・カルデナル

 ニカラグア第4の都市グラナダといえばスペイン植民地時代から中米を代表する古都だった。
 16世紀中期に創建されたときから中米地峡南部地域の宗教と文化の中心地として栄えた。
 19世紀後期、南北戦争で敗れた南部州にはおおくの奴隷制維持派が行き場を失った。そうした層に支持された弁護士がいた。ウィリアム・ウォーカーである。彼は、その南部の支持者から資金をあつめ、私兵ともにニカラグアを侵略した。ニカラグア人を奴隷として“輸出”しようと目論んだようだ。そのウォーカーの私兵によって焼き払われるまでグラナダは創建当時の古雅さが保たれていたという。
 それでも現在のグラナダはいまも大聖堂を中心に昔の面影を良く伝えているし、中米一の大きな湖ニカラグア湖岸に至る道の遊歩道にかつての繁栄の面影がみえる。
 この古都からニカラグアを代表する人材がたくさん輩出したのは当然の成り行きだった。
 なかでも詩人ルベン・ダリオ(1867~1916)は同国ばかりか近代スペイン文学を代表し、文学史に特筆される。スペインの詩人ガルシア・ロルカに大きな影響を与えたといわれる。ダリオの名はニカラグアでは国立劇場の名に遺されるほの国民的詩人である。その詩人の生誕地に設けられたのが「詩の国際フェスティバル」。今年(2014)は2月17日から23日まで開催される。会場はコロニア様式の建物に囲まれた独立広場だ。詩祭にはフランス、ドイツ大使館も後援する。
 今年はスペイン語文学を代表して例年、ノーベル文学賞の候補となっているエルネスト・カルデナル(1938~)を讃える企画となっていて、ポスターにも彼の肖像が描かれている。
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 カルデナルはカトリック最左派の「解放の神学」派に属する聖職者として、しばしばローマ法王庁の逆鱗に触れる政治的活動を実践してきた人であり、その中心的活動地は、当時の軍事独裁政権を圧制を避けたニカラグア湖に浮かぶソレンチナーメ群島であった。そこに住む半農半漁の貧しい民衆への識字教育などの実践活動報告は日本でも翻訳されている他、後年ニカラグア素朴派といわれる一群の農民画家を生み出した絵画運動の報告は日本でも画集となって刊行された。その群島に3日ほど滞在し、カルデナルの別邸に隣接した簡素なホテルであった。
ニカラグア農民の素朴画

 カルデナルの詩業の紹介はいまだ本格的に行なわれていない。筆者の知る限り詩集『深き淵より』一冊のみ刊行されているだけで、それもキリスト教専門書を扱う出版社の企画で、ひろく読まれているとは思えない。
 ニカラグアというとサンディニスタ革命関係の本が多く、そのなかで紹介されるカルデナルは、革命政権に文化大臣として入閣した闘う聖職者というイメージが先行している。比喩・隠喩に富んだ象徴主義的なカルデナルの語法が翻訳を困難にさせていると伝え聞くが、今年の詩祭のプログラムのなかでは、カルデナルの詩に曲をつけたコンサートも用意されている。
 けっして、スペイン語圏では「難解」とは捉えられていないように思う。邦訳が至難というのは、カルデナルが民衆に密着して活動してきた聖職者が捉えた言語世界が、アカデミックな正書法を規範とする辞書的なスペイン語に馴染まないからだと思う。そうした民衆言語で語る「聖書」の読み解きを主題にした『愛とパンと自由を--ソレンチナ-メの農民による福音書 』は詩人としての感性にあふれた清新な感動を呼び起こす書物だった。

花もつ女たち №33  プーラン・デーヴィー (インド*盗賊団首領/政治家)1963~2001

プーラン・デーヴィー (インド*盗賊団首領/政治家)1963~2001

 事実は小説より奇なり、というが彼女の劇的な生涯こそ、そう形容するに相応しい。自伝が世界的なベストセラーになり、評伝映画が制作されヒットしたのも、その事実の力だ。
 プーラン・デーヴィーとはヒンディー語で「花の女神」の意。しかし、彼女の別称は「盗賊の女王」。下層カーストの出身でヒンズー教を信奉している限り職能的に、インドでは下位労働とされる搾乳者、あるいは牧夫の地位に甘んじて暮らすことを強いられる。貧農の家庭に生まれ育ち、差別と別紙のなかで子ども時代を過ごす。
 いや、日本的な意味での子ども時代は彼女にはありえなかった。
 11歳で結婚を強いられ、夫の暴力を避けるようにして、生きるために盗賊団に加わるしかなかった。それも10代の半ばのことであった。
 それまでの労苦、非人道的な扱い、女性の尊厳などまったく無視された歳月のなかで、彼女をして不退転の戦闘者にさせた。
 少女の身で盗賊の女王となった彼女にとって、その“盗賊”行為は、上位カースト者たちの不当な重圧を跳ね返す階級闘争でもあった。しかし、彼女にはその自覚は明確にはなかった。まだ文字も読めない少女だった。彼女が陣頭指揮して襲ったのは、当然、資産家、富裕 層など上位カースト者たちであった。盗んだ金は貧民に与えている。そうした行為は彼女を英雄視する層を生み、生きた伝説上の人物とした。義賊・・・。
 しかし、敵対する貧しい農村で暴虐を働き、殺人もいとわなかったことも事実で、彼女に対する毀誉褒貶が出てくる土壌となる。けっして義賊ではない。
 彼女の真実が世界的に知られるようになったのは恩赦の約束とともに警察に自ら投降し、はじめて刑務所に収監され、落ち着いて自分を語れるときを持ってからだ。
 彼女の安らぎは刑務所に入ってはじめて実現したのだった。
 殺人も重ねた彼女の刑期は政治的取引によって11年だった。
 釈放後はインドの公民権運動の活動家となり、ヒンズー教から仏教に改宗、下位カースト者たちの復権も目指した仏教再生運動に参加する。1996年には社会主義者党から出馬し国会議員に当選したが、盗賊時代に襲った村から報復され、暗殺された。38歳の波乱に富んだ、あまりにも短い叙事詩そのものの一生であった。

バンダ音楽の老舗エル・レコード  結成75周年を迎え

バンダ音楽の老舗エル・レコード
 結成75周年を迎え
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 日本ではまったく紹介される機会がないが、メキシコでバンダといえばマリアッチに並ぶ大衆ポップスの 定番。定番音楽だから人材は豊富、 次から次へとメキシコ北部各地から 新しい才能が出てくる。
 スーザフォーンやチューバといっ たブラスバンドでおなじみの大型金管楽器が活躍し、時にはその演奏者も吹奏しながら踊るというバンダのステージはビジュアル的にも面白い。フィエスタ好きのメキシコ民衆に愛好される要素のつまった音楽だ。ただ体力的に男性勢が圧倒的に優勢で女性バンドが極端に少ないのが難点か。
 さて、このバンダ音楽の牽引者が クラリネット奏者で作曲家であった故クルス・リサラァガ。彼が出身地シナロア州マサトランで結成したのがバンダ・エル・レコード。大衆音楽としてのバンダはクルスと、エル・レコードともにはじまる。古い音源
をたどると、歌うグループというよ りインストメンタルを主力にした活動をしていてマンボやルンバが流行 れば、それをうまくバンダ音楽に編 曲して時流にのっているという印象だ。
 もともとカトリック教会の祭礼 用の素人音楽集団として発足したバンダ音楽は現在も各地にのこってい て、セマナサンタ(聖週間)などには植民地時代の形式をそのままに演奏集団が存続している。
 メキシコの南のグァテマラではこのカトリック祭礼の際のバンダの原型が現在でも各地でみられる。
 
 この1月、エル・レコード結成7 5周年を迎えた。現在のリーダはクルスの息子ポンチョ・リサラァガが勤める。
 メキシコでは一世を風靡し たグループというものは日本の家元制度ではないが、グループを解消せずにその名を同族が継承していくことが多い。ト リオ音楽しかり、マリアッチ楽団しかり。
 現在のエル・レコードは無論、歌 モノ中心でヒット曲を出し続けている。75年の歴史のなかで多くの人材が交替し、特に生命線のトップボイスの起用には細心の注意を払っている。いまならレゲトンもこなせる人材ということだろう。
 昨年、そのトップボイスが交通事 故のため活動を中断したとき、予定された公演をゲスト歌手として人気者ジェニー・リベラがその穴を埋めたということがあった。ジェニーもメキシコ大衆音楽専門レーベルフォノビサの看板歌手だ。そうした人気者が急遽、駆けつけるほどエル・レ コードは権威のあるグループなのだ。
  「私たちは神からチャンスを戴き、 これまで恵まれた活動 をしてきた。これからも皆さんに請われる限り私たちの音楽で楽しんでもらいたい。それが私たちの目的であり喜びだ」
 とは75周年を迎え、新聞のインタ ビューに答えたポンチョの言葉。こんな謙虚さもエル・レコードの大衆的人気を支えているのもかも知れない。  

ジョーン・バエズ、メキシコへ“里帰り”

ジョーン・バエズ“里帰り”公演
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  最近のジョーン・バエズ

 ジョーン・バエズといえば“フォークの女王”として1960年代後半から70年代前半、日本でも多くのファンを獲得し、彼女の影響下から加藤登紀子や森山良子といった才能が発掘されたのだった。
 いまでも彼女の透明感に満ちた、癒し系(といった形容は当時なかったが)の声で歌われた「ドナドナ」「朝日のあたる家」、ボブ・ディランの名曲「風に吹かれて」は日本では当時、バエズの歌でよく聴かれていたと思う。そのディランの才能を認め、自分のステージに上げて紹介したのもバエズだった。 
 そのジョーン・バエズのメキシコ公演が“里帰り”というと読者は奇異に思われるかも知れない。
 日本ではほとんど語られることはないが彼女はメキシコ系米国人なのだ。父親はスペイン陶器の影響を受けたタラベラ焼き、その陶製のタイルで外装された美しい町並みを持つプエブラ市の出身だ。町の中心部、旧市街がユネスコの世界遺産に登録されている美しい町だ。
 父親アルベルト・バエズはメキシコでも原子物理学者として著名で、特に社会運動家としても知られている。それは自らの才能を軍需産業への協力を宗教的理由で拒否したからだ。そのアルベルトの両親がメゾジスト派の敬虔な信徒だった。詳しい話は伝わっていないがカトリック宗派で占められているメキシコにあっては、その信仰を貫くことは困難だったのだろう。両親は、国境を超えテキサス入りし、やがてニューヨークに辿り着き、そこでアルベルトが生まれた。そうした祖父母、父親をもったジョーン・バエズが長じて、ベトナム反戦、公民権運動に関わり、特に米国南部メキシコ系の移民農業者たちの組合指導者セサール・チャベスとの連帯活動に参加したことなどは必然的な活動だったのかも知れない。
 日本では知られていないがジョーン・バエズはメキシコの代表的な俗謡「ラ・ジョローナ」、チリの民謡歌手ビオレッタ・パラの代表曲「人生よありがとう」なども録音している。
 当然、4月1日のメキシコ市中メトロポリタン劇場を埋めた聴衆の前で披露した。
 今年、73歳となった彼女の声はまだ艶を失わず、気品に満ちたメゾソプラノは健在だった。日本ではすっかり忘れた存在となってしまったが、彼女が歌いはじめてから訴えつづけてきた反戦、民族融和、貧困問題など遠大なテーマであるがゆえ到達点のみえないものだ。だから、歌える限り、普遍的な人類愛をいまも訴えている。
 メキシコ公演では 日本のわれわれにもおなじみの初期の代表作はもとより、ジョン・レノンの「イマジン」もバエズ流の解釈で歌いあげた。  (2014・4月記)

花もつ女 №32  ワレンチナ・テレシコワ(宇宙飛行士 ロシア)

 ワレンチナ・テレシコワ (宇宙飛行士 ロシア 1937~)
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 1963年6月16日、ボストーク6号に搭乗、世界初の女性宇宙飛行士となった。
 地球周回48回、70時間30分飛行した。初の非軍人宇宙飛行士でもある。
 19年後に二代目の女性宇宙飛行士が誕生するまで、テレシコワの名は、個人識別用のコールサイン「チャイカ(かもめ)」とともに女性の地位向上の世界的なシンボルとなった。翌64には『私はかもめ』という表題の記録映画も制作されている。いわゆるプロバカンダ映画だが同年12月には日本でも公開されている。たぶん、公開時に筆者も観ていると思う。しかし、まったく記憶にない。
 テレシコワはロシア人というより「ソ連人」とあったというべきだろう。
 宇宙飛行後、しばらくして自伝『宇宙は拓かれた大洋』を書く。大戦中、父親は対独戦争で戦死、貧しい少女時代を過ごし、紡績女工として勤労生活などを綴った、その克明な記述は貴重な時代の証言となっているが、共産党礼賛には辟易した。それでもスターリン没後、フルショフ時代初期の“雪解け”の季節の若々しさを行間に感じさせるだけの清新な雰囲気にはあふれていた。
 けれど、ソ連邦が崩壊、言論統制が解けた後にさまざまな真実が明らかにされるなかでテレイシコワ自伝の信ぴょう性は大きく揺らいだ。
 宇宙飛行そのものも「万事好調」ではなく、飛行中にそうとうなパニックに陥ったことが客観的資料によって示され、自伝のなかで「最愛」の彼(宇宙飛行士)との婚約・結婚は政府方針の政略であったことまで判明した。その彼とは子をもうけながらも離婚している。
 初の女性飛行士という偉業は、「わたしはかもめ」というフレーズとともに永遠不滅だが、ソ連人としての個人生活は幸せではなかったようだ。

グレンツェン・ピアノコンクール

グレンツェンピアノコンクール
 ~日本のピアノ演奏の水準を下支えする

 毎年、著名な国際コンクールに上位入賞者を送り出している日本のピアノ界。それはピアノ教育が幼児期から充実していてはじめて実現できることだし、ピアノ愛好者の裾野も広く地味豊かだという証拠だ。
 その裾野の土壌をさらに豊かにしようと、毎年、滋養を与えているのが全国規模できめ細かく予選を組む「グレンツェンピアノコンクール」だろう。

 1990年、鹿児島県の大隈半島に位置する小さな町で、そのコンクールは産ぶ声を上げた。
 当初の全参加者はわずか110名。
 「ワープロ片手に九州県内をくまなく回り、文字通り東奔西走して普及に全力投球したつもりでしたが結果はみじめなもの惨たんたるものでし た」と語るのは同コンクールを主催してきたグレンツェンピアノ研究会の井上増實さん。新参のコンクールに対する反応はまったく冷ややかなものだった。「後悔」すらしたようだ。
 しかし、井上さんはあきらめなかった。薩摩人としてのプライドか執念か。薩摩人の男意気を称して“薩摩っぽ”といい、その性格を猪突猛進ともいう。20年前の井上さんといっても、けっして若くない。還暦を翌年に控えた59歳。並みの人間なら新事業を立ち上げようとは思わないだろうし、余生、という人生の第二ステージへの気持ちが傾斜しているのが自然だろう。ましてや九州の田舎から全国発信できるピアノコンクールを、と誰が考えよう。しかし、井上さんは前傾姿勢を自らに強い実行した。畏敬すべき行動力だ。
 スタートの蹉跌(さてつ)を教訓に、井上さんは「歯を食いしばり」、地道な努力を重ね 、回を追うごとに参加者を増やしていった。井上さんも「右肩上がりで参加者は上昇した」と自負を込めて強調した。
 今年2012年には全国130会場に約4万の参加者を数えた。
 本コンクールの特徴を井上さんの言葉で語れば、「幼児より大学生、一般人までピアノを愛するすべての年齢層に光を当てていることです」となる。
 幼児コース、小学生低学年・高学年コースとカテゴリー化し、課題曲も、「幼児コースなら五度音程内で動き、主に単純なゼクエンツを使用しているものから選曲」するなどきめ細かく選定する。コンクール部門コースは12もある。こうした配慮が広く認知されるようになり、参加者にとって間口の広いコンクールとなっているようだ 。
 しかし、全国各地で予選をおこない、カテゴリーが多いということは、同時に会場の確保、審査員の数も比例増となる。現にコンクールのホームページに紹介されている審査員の数だけでも約90名を数える。
 「お子さんたちの年齢に応じ、感性を大事にし難易度や、演奏時間の長短などを配慮した結果、必然的に課題曲も細分化され多岐に渡り、結果として審査員の数も多くなりました」と明快に、そして当たり前の成り行きです、というふうに答えてくれた。
 確かに言葉でいえばそれだけのことだが、事業としての煩雑さは大きくなるが、井上さんにとってコンクールが成功すればと苦にならなかったようだ。
 発足から20年、コンクールを牽引してきた井上さんの79歳となった。けれど井上さんが目指す高みはまだ先にあ
り、現在はまだ登攀 中にすぎないという。井上さんはこんなことも言った。
 「演奏時間や難易度に拘束されず、自由で大らかな表現が可能な課題曲を設定していきたのです」と、それは、おそらく世界中のコンクール主催者が望むことだろう。見果てぬ夢のようなものだ。いまだ誰も実現していないことだ。

 九州の南端から発し、東京築地の浜離宮朝日ホールで入賞記念コンサートを開くまでに育てた井上さん。この人が牽引者となっている限り、多彩な課題曲が並んだコンクールも夢でないように思えてくる。
 最後に、地方発信のコンクールとして地元鹿児島で全国大会を開くことは考慮されているのか、と訊(き)いてみた。
 「むろん心情的には実施したいと思います。けれど、参加者の大半が東京での演奏を願望していらっしゃいます」
 本コンクールも参加者の立場に立てば答えはそれしかないようだ。浜離宮朝日ホールはご存知のように室内楽演奏会場として定評のあるところ。ピアノが良く響くホールだ。コンクール参加者は誰だって、そこで自分の音を確かめてみたいだろう。 (月刊『ショパン』誌掲載。2012)

注目! エリサベッツ・グリマルド 中米パナマ

注目! エリサベッツ・グリマルド
エリザベッツ


 中米パナマから正統派、聴かせる女性歌手エリサベッツ・グリマルドが現れた。しかも、まだ19歳。
 パナマではすでにリス、との愛称で通用するほどビックな存在だが、この国のアーティストはルベン・ブラデスやエル・ヘネラルのように米国に出ていかないとボーダレスの人気歌手にはなれない。市場規模があまりにも小さいため、この国のトラディショナルなパナマ風クンビア、バジェナードの名手たちも経済的には実力にふさわしい待遇を受けているとは思えない。
 1995年、パナマ運河のカリブ海側の出入り口の港町コロンで生まれたリス。コロンには3度ほど訪れたことがあるが、行く前にいつも、「気をつけろ」といわれるぐらいパナマでも治安の悪い港町として有名だが、(実際にはそんなことは全然ない)こんな美少女が隠れていたかと思ってしまう。
 彼女の才能に気づいた母親によって8歳のときに本格的に歌の勉強をはじめ、10歳のときに同国の人気番組「カンタ・コンミーゴ」のコンテストで第2位となって一躍、注目された。当時のビデオが残っていて、
当時、リスは2人のアフロ系の少女とトリオを組んでいた。3人が交互に歌うのをみていても美貌ではリスは図抜けて目立つ。
 16歳になるとTVドラマ『スエーニョ・ベラーノ』に主演。主題曲も歌って大ブレーク。これでパナマでの人気を不動のものとした。
 16には思えない歌唱力、歌詞をドラマ化する才能を身につけた早熟の才能だった。(ほんとうに達者!)
 すでに、『スエーニョ・ロトス』『カハ・デ・レクエルド』『アトラポ・ラ・イルシオン』『メ・マタラ・ラ・デスタシア』といった良質な
ポップスのヒット曲をもっている他、『クイタテ・ラ・マスカラ』ではパナマの歌手らしくバジェナードのアコーディオンを効果的に使いながらレゲトンも聴かせているのは、やはり現代のラテン歌手だ。そして、パナマの音楽層の厚さもあらためて確認できる。
 ミス・ユニヴァーサル級の正統派美女でもあるエリサベッツでもある。思えば美女多産国コロンビアから分離独立したのがパナマであった。容姿も恵まれたは可能性無尽蔵の若き才能を米国ヒスパニック社会がほっておくはずはない。
 最新のニュースで、米国ニューヨークのフィルム・アカデミーに12月に臨時入学、歌、ダンス、演技などを勉強することが決まった、とパナマの新聞はわざわざ伝える。おそらく英語力を身につけることが最優先だと思う。リス、という愛称は往年
の大スター、リズ・テーラーと同じだ。リズなみの美女であることも確かだ。今後の活躍には目が離せない。 

映画『アマゾン大冒険』(ティエリー・ラコベール監督)

映画『アマゾン大冒険』(ティエリー・ラコベール監督)
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 スクリーンの高温多湿の気配を堪能しながら筆者はいろいろな思いに捉われていた。そのほとんどがラテンアメリカで暮らし旅した思い出だが、アマゾンはまだ未踏ということで憧憬は膨らんだ。映像は感性の高揚をもたらす。

 映画の黎明期、目端の利いた興行主たちは大きな撮影機材を肩に世界の大自然、その驚異 、珍しい風俗、秘境などを撮って公開し儲けた。その撮影者の視線の好奇心に満ちた喜びのふるえまでみてとれる。
 その役割がテレビに脅かされるようになっても、大自然を眺望するにはスクリーンの奥行きのある大きな画面はまだまだ魅力があった。しかし、すでにこの地球から秘境とか人跡未踏といった表現で語れるところはほぼ失われた。北極も南極も幾度も踏破され、高峰の頂きにゴミが散乱する時代になってしまった。
 しかし、アマゾンにはまだ人の侵入を拒んでいる場所が無数に残る。それは永久に守られるべき自然だが、いまやその環境すら危うくなっている。そういう現実もみせているのも本作である。
 本作は基本的にファ ミリー映画。
 だから環境破壊とか自然保護といったスローガンを前面にだしていない。ありのまま無垢な目でアマゾンを眺望しようという視点だ。
 けれど現代人 の視線にはいわずもながの知恵が付きすぎている。過剰ですらある。
 そこで本作の主人公、というより狂言回しか、一匹の小猿、その名もサイと呼ばれるフサオザルのオスを登場させた。
 ドキュメンタリーだからストーリーはない。強いて言えば、ブラジルの都会育ちで少女に飼われていたサイが輸送中の飛行機が事故にあって、アマゾンの大自然の懐深い地に不時着。飛行士たちは死亡し、サイは待ったなしで生きてゆくための闘いに投げ出された。といっても小猿、大自然の「恐怖」を知らない。出会うものすべてが新鮮な体験であり、驚きだ。カメラはそんなサイの好奇と恐怖、そして彼の食欲そのものを追う。
 生き延 びるため捕食活動は欠かせない。
 都会ではエサとして与えられたものだが、ここでは自前で調達しなければならない。
 ジャングル生活初心のサイが、やがて本能 の命じるままに自然とともに生き抜く知恵を身につけていく。その過程の日々がサイの視点から描かれていく。そこに人の目ではない、フサオザルという小哺乳類の目でみようという試みがあり、スクリーンのその視線の反映となっている。サイにはそれこそ人間的なサル知恵があるわけではない。自然破壊とか環境問題といったすこぶる人間的な関心には無関係だが、現実にはサイもやがて脅かされる、という等閑視の視線。スクリーンも「問題」を強調することはない。
 サイが、アマゾンで生き延びていける知恵を獲得する後半部、ジャングルに突然、荒廃した大きな空間に踏み込む。いぶかしげなサイの視線の先で少女が微笑ん でいた。貧しい開拓者の娘であった。娘の家族が森を焼き払ったのだろう。映画はそれを指弾するのでもなく、ありのままに映すだけだ。
 
 1994年、ハリウッドのヒスパニック映画人の精神的な支柱であった故ラウル・ジュリア、日本では一般的に「アダムス・ファミリー」シリーズあたりでお馴染みだが、彼がこん身の演技でアマゾンの農民シコ・メンデスを演じた映画『バニシング・シーズン』。長編テレビ映画として制作され有料テレビ網にのって各国で放映された。アマゾン自然の保護を貧しい農民の立場から訴え、指導者として政府、開発業者と対峙し命を奪われたシコの物語はアマゾン保全の声を世界に伝播させた。もう一つのアマゾンの語り部として是非、参照されたい。  

チョコレートの苦い話

チョコレートの苦い話
(4年ほど前に書いたものだが、本ブログに掲載していなかったので採録)
カカオ アフリカ児童労働

 今年もまたバレンタイ・デーということで幾つかの義理チョコがそれぞれ趣向を凝らした容器に袋、そしてリボン付きでやってきた。いくつかはホワイト・デーということでなにがしかの返礼をしなければいけない。返礼はチョコレートでなくても良いようだが、それを考えるのもまた煩わしい。

 日本におけるチョコレートの販売総額は4000億円といわれる。このうち約4分の1がバレンタイン・デー需要ということだ。菓子業界にとって欠かすことのできないイベントになっていることが分かる。

 チョコレートの世界的普及に多大な貢献をしたのは無論、スペインである。トマトやじゃがいも、サツマイモ、あるいはトウモロコシと同じように原産はメキシコ以南のラテンアメリカの地。
 エルナン・コルテス率いるスペイン征服軍がメキシコ中央高原に君臨するアステカ帝国を滅ぼしたのがことがきっかけでヨーロッパに知られるようになった。チョコレートの名はアステカ帝国の公用語ナワトル語チョコラテがスペイン語に流用されたことによる。

 アステカ帝国の貴族たちが愛飲していた液状のものが起源。現在でもメキシコでは街頭で売られている。これがスペインを通じてヨーロッパに入り、やがて固形化され、砂糖を大量に混入することによって今日、世界中で好まれる嗜好品となた。
 現在のカカオ生産の主力はメキシコではなく西アフリカの沿岸諸国。日本に入ってくるカカオの80%はガーナ産。日本のチョコレートに「ガーナ」と冠した銘柄があるのはご存知の通り。第2位は南米のベネズエラとなっているが、その量は10%に過ぎない。日本のチョコレートはガーナによって支えられているわけです。
 もっとも最大のカカオ生産国はおなじ西アフリカのコートジヴォアールで世界の40%を生産しているといわれる。カカオの生産に特化したモノカルチャー経済の国だ。サッカー強国のカメルーンもまたカカオに特化した国。いずれも旧宗主国はフランス。つまり西アフリカ諸国のイビツな経済構造は植民地時代にフランスが押し付けたものだ。フランス帝国主義の罪はいまだに根強く尾をひいている。
 チョコレートには大量の砂糖が必要だ。
 その砂糖の一大生産地がカリブ海のキューバでありハイチ、南米のブラジルなど。つまり、チョコレートとはコロンブスの“発見”によってはじまる大航海時代の象徴的な産物というわけだ。
 アメリカ大陸やアフリカの大半がイギリスやフランスなど西欧の植民地となったためモノカルチャーが横行し、それぞれの栽培農作物が廉価になったためにチョコレートは世界に流布できたのだ。
 廉価ということは、それに携わる労働者たちの賃金が安いということだ。だから成人男性より、なんの技術ももたない少年たちが駆り出されている。
 チョコレートの原料となるカカオ栽培は西アフリカの貧しい少年たちの労働によって担われている実態は知られていない。約30万の子ども達が一日12時間以上の長時間労働に苦しんでいるといわれる。
 チョコ特有の芳しい苦味も、アフリカの少年たちの低賃金労の苦悩の味だとしたらバレンタインなどと浮かれてはいられない。チョコの販売が伸びたところで少年たちの賃金があがるわけではないのだから。
  
 先年、東京・六本木の美術館で現代美術のイベントとして「チョコレート」というのがあった。その企画展のこともどこかに書いたのだが現在、所在不明。能天気な日本の現代アート作家たちがチョコレートの可変性を駆使して、都市空間に相応しい造形作品を出品しているなかで、外国からの招待作品として西アフリカのカカオ畑ではたらく少年労働をドキュメントした写真のシリーズがあった。その1枚に、
 「一生に一度、ぼくはチョコレートをたべてみたい」とのキャプションがあった。
 少年は自分たちが収穫するカカオが「チョコレート」という美味なお菓子となるらしいことしか知らない。手にしたことはおろか目にしたことすらないのだ。日本で百均シッョプで無造作に並んでいるチョコレートも西アフリカの少年労働者たちには高嶺の花なのだ。 
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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