スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

花もつ女たち№35   エバ・ペロン (アルゼンチン 女優・政治家 1919~1952)

花持つ女
  エバ・ペロン (アルゼンチン 女優・政治家 1919~1952)

 エビータ、と書いたほうが通りがいいだろう。
 しかし、マドンナの映画や劇団四季の『エビータ』で有名、と書いたらアルゼンチン人はたいてい怒るだろう。
 “聖女”なのだ。
 多くのアルゼンチン、とくに庶民層の胸奥に慈悲深い聖女として生きている。
 エビータに批判的な政治家もうっかり公言はできない。政治生命に関わるからだ。
 15歳で生地の鄙村から首都ブエノスアイレスに出ると、若さと美貌を武器に、男を最大の手段としてのし上がってゆく。いや金のなかった少女エビータはブエノスアイレスに自宅に帰る男に交通費を出させて出奔したといわれる。
 男の、たぶん下心をたくみに突き、その男の力をかくも有効に活用し功なり遂げた女性も珍しい・・・と書いたらアルゼンチン人のなかには怒る人もいるかも知れない。
 ハリウッドは娼婦だったエビータをマドンナを通して描いた。けれどアルゼンチン人の多くはエビータの前半生を、聖女が歩まねばならなかった屈辱、苦行と理解しているようだ。エビータはそれに神の御加護で耐えたのだ。その苦行は神の御意思だ、と。
 結果がすべてだ。
 貧しい民衆のために慈善事業を組織化し実践、そして、夫ペロン大統領の支持基盤を安定させた。
 1947年には婦人参政権を実現させた功労者であった。
 有権者の大多数が貧困層であった同国にあって、民衆を引きつける扇動者として辣腕も振るった。貧しい子ども時代を過ごした彼女はお金の効用を知りすぎていた。高邁な理想があったわけではない。夫の権力を支えることによって、自己実現の道が切り拓けることを知悉していた。
 しかし、神は“聖女”に長命を与えなかった。
 若くして頂点を極めたエビータに不治の癌を子宮に巣食わせた。最晩年は病いをおしての政治活動であった。それが大衆にひたむきな姿、神々しい印象を与えた。33歳で夭折。 
スポンサーサイト

フリーダ・カーロ欧州展、好評のうちに終了

欧州各都市をまわったフリーダ・カーロ展、好評のうちに終了


 フリーダ・カーロ(1907~54)の生誕100周年を記念して2007年、メキシコ市で新発見、新資料を含めた今日、考えられる最高規模の回顧展が開かれた。
 その記念年を前に人気女優サルマ・ハエックが体当たりでフリーダ演じた評伝映画もヒットし、フリーダの劇的な生涯とその作品は世界的に注目された。日本でも生誕祭を前に繰り返しフリーダの絵を前面に押し出したメキシコ絵画展が幾度か開催されていた。私自身、フリーダはもとより同時代を生きたメキシコの魅惑的な女性画家、写真家、舞踊家などをあつめた『フリーダ・カーロ~歌い聴いた音楽』(新泉社)を"生誕100周年”に便乗して一冊、上梓してしまった。
 
 それから7年を経た現在、日本でのフリーダ・ブームは一段落したが、メキシコでの回顧展に及ばないまでも、海を渡るという規模では充実したフリーダ展が欧州主要都市を巡廻したあ。。イスラム圏でははじめとなるインスタンブールでの開催もあった。その欧州展の最後の地となったイタリア・ローマはクィリナーレ宮殿、現在の大統領官邸内の展覧会場で今年3月から開催されていた『フリーダ・カーロ展』が8月末、終幕となった。延30万人が会場に足を運んだ、とメキシコ各紙は誇らしげに書く。

 同展には死の直前に描かれたスケッチが展示された。生誕100周年を前に発見されたものだ。
 フリーダには遺そうという意図はなくゴミ箱に捨てたものを、当時、フリーダの家で働いていたお手伝いさんが取り出し秘匿していたものだ。捨てた"作品”だから日付けが記載されていないので、厳密にはなんともいえないが、「遺作」であるかも知れない。その「遺作」も、フリーダの主要作品がみな自画像であったように、それも痛切なポートレートであった。自画像の両側に、月と太陽が沈んでいく構図であった。それは自分の生命が地平線にいまや沈まんとする自覚から描かれたものだろう。フリーダは最後まで自分を凝視しつづけていたのだろう。
 76点のフリーダ作品、夫ディエゴ・リベラの作品60点、そしてふたりの生活を撮った記録からアート性の高い写真80点という構成だった。作品はメキシコはもとより米国、欧州諸国から集められた。(日本にも名古屋市美術館に、「死の仮面を被った少女」(1938年)が所蔵されていることを記しておこう。生涯点数の少ないフリーダの作品が日本にあることは誇りとしていいだろう。)
カーロとリベラ フリーダの「青い館」の二階の廊下にあたるとこに据えられたフリーダのベット。晩年の写真だろう。夫ディエゴとともに。

 欧州各地の大気にさらされたフリーダの絵はやっと彼女が愛して止まなかった母国メキシコの大気のもとに帰還する。フリーダが生まれ死んだ「青い館」(現美術館)にもまた生前の姿に戻るだろう。 (2014年9月記)

映画『グランドピアノ』 エウヘニオ・ミラ監督

映画『グランドピアノ』エウヘニオ・ミラ監督

グランドピアノB

 独裁者フランコ総統の死後、長年、堰き止められてきたスペインの“自由”の水が流出し、やがて奔流となり、いまは大河となって悠々たる流れとなっているように思う。
 スペインのアートシーンは現在、実に多様多彩、変幻自在の万華鏡をみるような思いがして眩い。特に映画という媒体はフィルムに載せて音楽・美術・ファッションを詰め込み送り出してくれるから定点観測するには絶好の対象物。本作はサスペンスの醍醐味を「音楽」を滋養としたする。
 
 その音楽とはピアノ曲、様式は20世紀音楽の潮流に位置づけられる緊張度の高いピアノ協奏曲ないしは、ピアノとオーケストラのための狂詩曲といった感じに仕上げられている。しかも、そのピアノは通常の88鍵の下に9鍵の低音部を拡張して97鍵盤をもつベーゼンドルファーModel290インペリアルが使用される。
 20世紀を代表するピアニストであり作曲家であったブゾーニの求めてよって製作されたピアノだ。バッハのオルガン曲を編曲する際、低音部に通常のピアノでは出せない音があったために考案された。映画の表題は、このピアノを象徴する。
 
 このピアノを映画の準主役として語るために作曲家ビクター・レイエスは事前にスコアを書いた。シナリオの要請に応じて、その特色ある中低音の9鍵を活かすスコアを用意しなければならない。管弦楽との融合、協奏部もおろそかにできない。音楽は陳腐であってはならない。
 主人公トム・セルズニック(イライジャ・ウッド)が稀代のピアニストという設定だから「難曲」に……。で、その曲はラフマニノフ、スクリャービンあたりの影響を濃く受けた仕上がり。スペイン映画、スペイン人キャストということで評者は、20世紀
スペインのピアノを象徴するフェデリコ・モンポウあたりを意識した曲を聴けるかと思ったが、それは心地よく裏切られた。

 映画の進行上、ピアノが沈黙し管弦楽だけの間奏がしばしば出てくるスコアだ。ピアノを弾奏するシーンでは主人公であるピアニストの内面葛藤を表出し、間奏のシーンではピアニストをステージから放し舞台裏を走らせるように仕上げている。
 しかし本作は音楽映画ではない、あくまでサスペンス映画なのだ。音楽そのものをキーワードとしたアイデアに富む娯楽作だ。本作を観ながら筆者は1998年に日本ファンタジーノベル大賞を受賞した長編小説『オルガニスト』(山之口洋)を思い出していた。
 カトリック聖堂のパイプオルガンの仕様を把握し、バッハのオルガン曲を熟知した上で描かれたサスペンス小説であった。鍵盤とペダルの複雑が絡みあいで送風する空気圧が変化する。それの変化にあわせて起爆装置が稼動するという発
想は実に巧みであった。行間にあふれるバッハに呪縛されながら読むことの喜悦する味わえた。
 『グランドピアノ』のキーワードも鍵盤上にある。それがプラス9鍵を使った箇所、最終楽章に演奏技術上、至難の技を要求する難所を設け、もし誤打すれば、ピアニストの最愛の妻が殺害される、という仕掛け。そのピアノ曲約1時間あまりだろうか、その前後の挿話は別として、本編はあくまで、そのピアノ曲が初打されたときから動く。
 
 主役のウッドは、世界的なヒット作『ロドー・オブ・キング』のホビット役で良く知られる俳優だが、本作では、そのほとんど
をピアノの指を取られながら、つまり極めて限られた閉鎖空間のなかで複雑な感情表現を強いられるという難役に取り組んだ。
 幾多の俳優が配されているが、主役と助演陣のあいだには隔絶した開きがある。ウッドはホビットのイメージを懸命に払拭しようとしているのか、『ロドー・オブ・キング』以降、実に多様多彩な役柄に挑戦している。もう少し脚本を読み込んでからオファーを受けたら、と思う作品もあるが、それもまた俳優としての履歴の出発にあまりにも大きなあたり役を取ってしまった俳優の必要な寄り道なのかも知れないと思う。 (2014年記)

ドキュメント映画『よみがえりのレシピ』  渡辺智史監督

ドキュメント映画『よみがえりのレシピ』  渡辺智史監督
web_yomirepi_0.jpg
 津軽三味線の名人・高橋竹山さんは津軽地方を中心に活動してきた人だ。より竹山さんの足跡にそって書けば、門付けで村から村へと経巡って生き延びてきた芸人だ。その竹山さんが、「家から三里四方で採れる食物を食べていることが人の生活だ」、健康維持の秘訣だ、と語ったことがあった。本作をみながら筆者は竹山さんの言葉を思い出していた。
 
 映画に登場する野菜はすべてみちのく山形の地でしか採れない在来野菜ばかり。山形の気候・風土が育んできた、この地でしか採れないきゅうりやカブ、イモ、豆類ばかりだ。この地でしか採れないということで、いまふうにいえば広く市場販路は開拓できない。大量に売れなければ、農家は売れる作物の栽培に切り替える、生活のため。けれど、種を絶やしてはいけないと人知れず苦心して毎年、少量だけ山形特産の野菜を栽培をつづけてきた生産者がいた。
 その一人が語る。「東方の地は幾度も飢餓に襲われている。干ばつの季節でもちゃんと育って飢えを凌いでくれた作物は絶やしてはいけない」と感謝の気持ちが種を遺したと・・・・・・。
 いま、こうした在来種が民俗の文化遺産として見直されている。姫路城や東照宮ばかりが世界遺産ではない。日本の農民が幾世代も超えて伝えてきた在来作物はかけがえのない民族遺産だ。
 山形の在来作物を価値を見直し、新しいレシピを考案して世界的な評価をうけているシェフ奥田政行が本作のナレーターのように登場する。
 奥田さんは、生産者の努力に報いるように若い世代の嗜好に合うように独自の調理法を考案、それを地元で開示し、全国に発信する。それによって地域の文化遺産は守られる。作る、食べる、そして相互に感謝する心があるとき料理は文化となる。そんなことが教えられる素朴な食感を味わえる美味しい映画だ。 (2012年記)

竹島と日本人~猟師・中井養二郎/2月22日、「竹島の日」には中井翁の継承を

竹島と日本人~猟師・中井養二郎 
  2月22日、「竹島の日」には中井翁を継承せよ

*下記の文章は、2013年1月に書いたものだ。本日2月22日、「竹島の日」をめぐるさまざまな報道を目にして、にわかに拙稿のことが思い出された。転載しておきたい。

りゃんこ島  中井翁が自ら手書きして農務省に提出した「りゃんこ島図」


 明治末期、島根県隠岐島周辺でアシカ猟を営んでいた猟師に中井養三郎(1864-1934)という人がいた。当時、アシカの皮と油が珍重されていた。このアシカの猟場が当時りゃんこ島と呼ばれていた現在の竹島であった。中井はアシカの乱獲を恐れ、資源保護を訴え1904(明治37)年7月、農務省水産局に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を、中井自ら手書きした「りゃんこ島図」とともに提出した。これが、現在の日本政府による竹島領有県主張の有力な根拠となるものだ。

 当時のりゃんこ島、竹島は毎年5月頃になると数千のアシカが繁殖のために集まってきた。このアシカに目をつけて猟をはじめたのが中井である。日本沿海だけに棲息したニホンアシカという固有種である。
 日露戦争前の時勢がアシカの皮と油を高騰させ、それまで中井の独壇場であった竹島のアシカ猟にあらたに参入する猟師が増え乱獲をはじめた。
 それまで資源保護のために牝や子に手をつけなかった中井だったが、新規参入者たちは短期間の利益を求めて見境ないのない猟を行なった。そこで中井は自らの独占的権益と資源保護を考え、さらにそうした保護を有効にするためにはいまだ領有がはっきりしていない、りゃんこ島を日本領土として正式に認め、政府は内外に領有権を宣言しろ、と訴えた。それが日露戦争開戦の年であった。
 当時、りゃんこ島と呼ばれていたのは、1849年、フランス船リアンコールトの船員が小島の連なりを発見し船名を取って「リアンコールト列岩」と名づけたことから始まるといわれる。この名称の変遷には多くの資料があるが、ここでは中井の事跡にそって紹介するに留める。
 中井は島根県所属隠岐島司・東文輔の紹介状をもって農務省を訪れ、「貸下願」を提出するが当初、相手にされなかった。内務省、外務省にも日参、陳情をつづけたが功を奏さなかった。その中井の「貸下願」を海軍省水路部が関心をもった。アシカ猟ではなく領土編入そのもに関心を持ったのだ。
 避けがたい日露との海戦の主戦場を日本海と想定する海軍省として無関心ではいられなかったからだ。東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を迎え撃ち勝利したのは翌年5月、竹島の西南沖のことである。
 1905(明治38)年、中井の「貸下願」は、「北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島ヲ西北八十五浬ニ在ル無人島」として島根県所属隠岐島司の所轄と決まった。そのとき「竹島」と正式な呼称が与えられた。しかい、中井の独占は認められなかった。そのためアシカの捕獲量は増大したようだ。
 日露戦後、アシカの皮、油の需要が減り、猟での実入りも少なくなった。しかし、資本投下した事業者は利益を確保するために量を求めて乱獲に走り、アシカの生態数を激変させた。やがて、竹島でのアシカ猟そのものが中断し、ふたたび静寂の島になっていった。

 現在、韓国がヘリポートや埠頭、警備隊宿舎などを建造し権益を主張しているが、一連の建造によって竹島のアシカは絶滅したといわれる。そのあいだ韓国政府は信じられないが、もっとも自然破壊に手に加える軍事的施設を建造しながら、「天然保護区指定」をしている。韓国という国は法を作って魂こめずの国であることは一連の人命無視の人災で象徴される。人の命を軽んじる国がアシカを配慮することなどない、ということの例証。竹島の自然を破壊しても“領土保全”を図ろうというのは、この国のバーバリズムだろう。
 これまで竹島問題を自然保護、エコロジーの立場から「政治」抜きで論じられることはなかったが、かつて希少種ニホンアシカの繁殖地でもあった自然の宝庫としての竹島を再生する論議があってもいいだろう。日韓の論争に自然保護の観点を加える必要はないだろうか。
 
 今日、中井養二郎のくわしい事跡を手軽るに読むことはできないようだ。筆者が中井の詳しい活動を知ったのは故・駒田信二さんの『近代奇人伝』に所載された評伝であった。絶版になって久しい旺文社文庫にそれがあった。かつて日本人なら誰でも廉価な文庫で中井伝を読むことができたのだが…… 。こうした評伝を再販することも「竹島の日」の活動とすべきだろう。

スペイン領内の英国領土ジブラタルの紛争

スペイン領内の英国領土ジブラタルの紛争

 地中海と大西洋をつなぐ海の要衝ジブラタル海峡の存在は誰でも地理の教科書で知るところだが、そこに6・5Km2の英国領が300年間も存在していることは意外としられていない。いま、この小さな地を巡ってEUを巻き込んだ騒動が起きている。
ジブラタル  ジブラタルの恒久的支配を想定していると思われるジブラタル通貨。エリザベス女王の肖像を刻みつけるのは英国植民地における常道だ。

 10月22日(現地時間*2014)、英国ジブラタル自治政府が北アフリカのアルジェリアからポルトガル経由で海を埋め立てるため約二五〇〇トンの石を運び込み、あたらな紛争に発展しそうな気配だ。
 スペイン・イベリア半島南東端、ジブラタルの地は1713年から英国の支配下にある。英国が海外にいまだ維持する14の海外領土のひとつだ。スペイン王位継承戦争の講和の際、結ばれた1713年のユトレヒト条約で英国領有が決まった。それから300周年を迎え、スペインとしては今年を返還への道筋をつくる年としたかった。
 しかし、英国は、そんなスペインの思惑をあしらうように恒久的支配を企図してか、ジブラタル空港の海に7月、コンクリートブロックを埋めて人工の環礁を造った。スペインはこれに抗議し、漁民から漁場を奪い、環境も破壊したとしてEU本部を巻き込む騒動となった。
 スペイン政府は英国のジブラタル領有は陸地に限られたものであって領海の使用は認めていない、という立場だ。現に国際的なインターネット辞書ウィキペディアは、「領海0」と記載されている。
 スペインは対抗措置として国境通過税を徴収、スペイン国内に住むジブラタル出身者に対する脱税調査などを実施等、国内法の整備で圧力を掛けられる手段を講じている。むろん、そうした措置に英国は反発し、EU域内の自由な移動を保障するという原則に反していると抗議する。
 騒動から紛争に拡大するのを恐れたEUはスペイン、ジブラタル自治政府、英国の各政府が話し合いの席に座ることを求め、実効ある解決策を講じるべきという姿勢だったが、そんなスペインの妥協的姿勢を冷笑するように、石材を運び込んだ英国に対し強行姿勢を取らざる得なくなるだろう。
 大戦中、ジブラタルを軍事要塞化したことによってドイツ海軍は著しく作戦行動に難をきたした。「地中海の鍵」と呼ばれるのは、そうした軍事的な要諦の地だからだ。
 英国がジブラタルをみすみす手放すことはないだろうし、南大西洋上にアルゼンチンと戦火を交えた離島フォークランド(スペイン語名マルビナス諸島)の領有権問題も抱えており妥協しにくい立場にある。また国内的には英国は北アイルランド問題だけでなく、スコットランド独立問題を抱え、スペインにはカタロニア州やバスクの独立問題が頭痛の種だ。そうした動きを抑制する意味でも小さな領土ジブラタルは、国内の民族主義運動の推移に影響を与えかねない大きな問題なのだ。
 ギリシャの経済問題だけでなく領土紛争もまたEU分裂の火種となりうる。

花もつ女たち №34 美空ひばり

花もつ女たち №34

美空ひばり (歌手*1937~89)
   戦後昭和の象徴的歌手

 歌や映像が再生可能な時代における日本で最大の芸能人。好き嫌いの感情を超越して屹立する存在だ。それは思想信条、生き方への共感・反発など関係なく、戦後文学の最高の書き手であったのが三島由紀夫であるように、ということだ。
 美空ひばりを筆者はマリア・カラスと並べることにも躊躇しない。
 歌手とはいわずに芸能人と書いた。映画162本に出演、その半数以上が主演級という仕事の量を知るからだ。映画の全盛期、東映時代劇で一人二役、しかも若衆と町娘という異性を見事に演じ分けた才能はプロの演技者のものだ。『たけくらべ』(五所平之助監督)は美空ひばりが歌わなかった唯一の主演映画だが、女優として優れた演技力をみせていた。歌わないということでは、永遠の恋人であった中村錦之助(当時)が制作・主演した映画『祇園祭』(山内鉄也監督)がある。後半生は舞台劇にも精力的に取り組んでいた。
 1945年、敗戦の焼け跡からブギウギのリズムに乗って躍り出た少女歌手は8歳。そして亡くなったのは89年、昭和の最終年、平成元年のことだった。文字通り戦後昭和の復興と繁栄を体現した歌手だった。
 歌を世につれ世は歌につれというが彼女のために用意されたような言葉だ。
 スターは幾多の毀誉褒貶の渦に巻き込まれる。彼女もまた例外ではなかった。しかし、そんなスキャンダル、ゴシップの類いで脆く崩れるような芸でなかった。
 1988年4月11日、東京ドームで「不死鳥コンサート」を開く。病床から通う舞台。39曲を歌い尽くした。救急車を控えてのステージだった。映像が遺る。病いの気配もみせない立派なものだった。
 敗戦直後、絶望の日々を送る大衆に彼女は歌でエネルギーを与えた。平成の閉塞状況のなかで希望の「歌」を見い出させない現在、あらためて彼女の存在の大きさを知る。

“エル・トリ”は俺たちのものだ メキシコ・ロックのカリスマ

“エル・トリ”は俺たちのものだ
AlexLora_245px.jpg

 W杯ブラジル大会……これまでのジンクス通り、アメリカ大陸で開催される大会は中南米勢の活躍が目立つ。わがメキシコも2勝1分、引き分けは優勝候補筆頭のブラジルと対戦だったから、かなり期待がもてる。本誌が店頭に並ぶ頃には結果が出ているだろうが、期待しないわけにはいかない。
 その堅守、速攻を持久力の高さとともにみせているメキシコナショナルチームの愛称が“エル・トリ”・・・・・・・だが音楽ファンにとっては、メキシコ・ロック界ばかりでなくロック・エスパニョールの重鎮、アレックス・ロラ率いるところの名籍エル・トリである。メキシコ代表の活躍に一喜一憂するメキシコにあって、もうひとつ“エル・トリ”の闘いもまた注目をあつめている。
 メキシコでもかつてオリンピックが開催されたが、その直前にメキシコのロック界は反社会的表現として弾圧の対象となり、逼塞を強いられた。「トラテロルコの虐殺」。
 ロック冬の時代にも灯火を掲げていたのがエル・トリだ。その活動暦はすでに45年に及ぶ。そのエル・トリのアレックスがサッカー界に噛み付いた。
 「俺たちが長年の活動によって築き上げてきたエル・トリの名を、勝手に代表チームの愛称として登録するのは肖像権の侵害だ」というのが趣旨だ。
 しかし、エル・トリはメキシコ国旗の三色も象徴する呼称でもある。アレックスたちエル・トリのメンバーはたちまち賛否両論の渦のなかに巻き込まれた。先ごろ、エル・トリをアレックスとともに支えてきた妻で歌手のチェラが、「もう騒ぎはたくさん、うんざり、この件は司法当局に委ねた」と記者会見。メキシコ代表の活躍によって、さしもの反逆児アレックスの意気もトーンダウンしたのかも知れない。
 アレックスだって、エル・トリという呼称がメキシコを象徴する元来、普遍的な存在であることぐらい分かっているだろう。しかし、アレックスのエル・トリは民衆の叫び、権力に抵抗する民衆の熱情から出ているものだ。権力者も資本家も統合する意味でのエル・トリが代表チームの愛称となってしまうことに対して異議申し立てせざるえなかったのだろう。どう決着がつくかは分からないが、アレックスの怒りはおそらく無視される。しかし、彼らはそれをバネにしてあらたなプロテストとしてロックを作っていくだろう。そういうしたたかを持続しえたからこそ現在もメキシコ・ロック界を牽引しているのだろう。  そのあおりでメッセージ性の強いロックは地下に潜った。
 そのロック冬の時代にも灯火を掲げていたのがエル・トリだ。その活動暦はすでに45年に及ぶ。
 そのエル・トリのカリスマ的指導者アレックスがサッカー界に噛み付いた。
 「俺たちが長年の活動によって築き上げてきたエル・トリの名を、勝手に代表チームの愛称として登録するのは肖像権の侵害だ」というのが趣旨だ。
 しかし、「エル・トリ」そのものはメキシコ国旗の三色も象徴する呼称でもある。日章旗を「日の丸」というごとく。
 アレックスたちエル・トリのメンバーはたちまち賛否両論の渦のなかに巻き込まれた。先ごろ、エル・トリをアレックスとともに支えてきた妻で歌手のチェラが、
 「もう騒ぎはたくさん、うんざり、この件は司法当局に委ねた」と記者会見。
 メキシコ代表の活躍によって、さしもの反逆児アレックスの意気もトーンダウンしたのかも知れない。
 アレックスだって、エル・トリという呼称がメキシコを象徴する普遍的なものであることぐらい赤ん坊のときから分かっている。
 しかし、アレックスの「エル・トリ」は民衆の叫び、権力に抵抗する民衆の熱情を意味しているのだ。権力者も資本家も統合する意味でのナショナルな三色旗としてのサッカー代表チームの愛称となってしまうことに対して異議申し立てせざるえなかったのだろう。どう決着がつくかは分からないが、アレックスの怒りはおそらく無視されるだろうが、彼らはそれをバネにしてあらたなプロテストとしてロックを作っていくだろう。そういうしたたかを持続しえたからこそ現在もメキシコ・ロック界を牽引しているのだ。  (2014年6月)

メキシコ音楽の祭典「オーケストラ・コンサート」

メキシコ音楽の祭典「オーケストラ・コンサート」

 意匠に富み刺激的な音響の世界にどっぷり浸れた至福の時間を過ごした……と冒頭に賛辞を記したのは筆者の拙い私評に退屈し、途中で活字から目を離してしまう読者に、それだけは伝えておきたかったからだ。

 クラシック系のコンサート、特にオーケストラの定期演奏会ではしばしば「委嘱作品」の初演の場に出くわすことがある。ピアノやヴァイオリンのソロ・コンサートでも初演曲はよくある。しかし、オケによる初演には仕込みに時間が掛かることを知っているから、出来映えはさほどでないと思っても・・・なんとなく演奏後、拍手に力がこもってしまうものだ。ご苦労さん的なねぎらいの拍手である。しかし、当夜の交響によるメヒコイズムの豊穣に贈られた聴衆の拍手は新鮮な世界に誘ってくれたことに対する率直な謝辞として心から拍手することができた。私の周囲に座っていた聴衆の拍手からも私はそのように感じていた。
 当夜の白眉はカルロス・チャベス「ピアノ協奏曲」。
カルロス・チャベス

チャベスの唯一のピアノ協奏曲だ。マヌエル・マリア・ポンセとともにメキシコ楽派を確立した作曲家であり、メキシコ交響楽団との設立とともに正指揮者となってメキシコの色彩感を創出していった才能だ。手勢のオケをもつことによって自前の創作もよく練り上げられるといった恵まれた環境を維持した人でもあった。その手勢の音を鍛えあげることによって生まれたのではないかと思わせる「協奏曲」であった。
 難曲だ。そして、ピアニストに絶え間ない緊張と打鍵の明晰な強さを最後まで強いる。体力もいる剛直な作品だ。これを練り上げ、堅牢な世界を築き、聴衆を説得するまでの感興に満ちた演奏をものにするにはそうとうな練習がいると思われる曲だった。
 ピアニストのゴンサロ・グティエレスはそれをみごとに達成していると思った。3楽章、約35分の曲ということでは通常の形式だが、冒頭から最後まで強い打鍵でほとんど間断なくピアノは演奏しつづける。それはオケとの協奏というより競奏ともいえる。第3楽章にはハープとの応答するながい展開がある。通常、装飾的効果を高めために断章しか与えられていないハープを、チャベスは雄弁な声として聴かせる。それはまるで男(ピアノ)女(ハープ)の熱情を展開しているように思えた。この作品をハーピストが聴いたら是非、演奏したいと願うことだろう。そして、20世紀のピアノ協奏曲としてもっとプログラムにあがって良い作品だと思う。そう思わせるだけの弾奏をグティエレスは見事に展開していたし、ホセ・アレアンは短時間でよく東京フィルハーモニー交響楽団にメヒコイズムの滋養を添加したものだと思った。ピアノは鍵盤楽器という名の指による打楽器であるというテーゼをグティエレスは10本の指を撥として証明しているのだった。この後に、ピアノ線を直接叩くジョン・ケージの世界が待っていた。

 メヒコイズムの芳香がもっとも強かったのがシルベストレ・レブエルタス交響詩ともいうべき二つの作品『センセマヤ』と『マヤ族の夜』だった。
シルベストレ・レブエルタス
 オープニングで『センセマヤ』を、フィナーレに『マヤ族の夜』で構成したプログラムはできすぎといった観もあるけれど、その祝祭的音色は聴衆をメキシコ民族主義といったものを感得させるのにはとても効果的なものだった。おそらくメキシコ革命の熱狂をもっとも深甚にうけとめながら作品を書いた作曲家がレブエルタス。
 表題でもわかるように古代マヤ文明にメキシコ文化の始原を求めた作曲家はマヤ族だけでなく、メキシコ諸先住民の伝承習俗に残る音響の世界に耳を傾けた。先年、日本でも公演が行なわれたメキシコ国立民俗舞踊団のヤキ族の舞踊ナなどを彷彿させる多彩な打楽器の響きもあれば、センチメンタルな笛の音色が印象的な慰安の世界を造形していた。

 メキシコ楽派のもう一方の雄ポンセの『ヴァイオリン協奏曲』について書くスペースは残されいないが、国民的な古典歌謡「マニャニータス」の主題が活かされた第3楽章をもつ作品でメヒコイズムを体現しながらも古典的骨格をもった19世紀ロマン主義に正統につらなるものだった。
 今後、日本でも積極的に取り上げていって欲しい作品ばかりであった。心地よい興奮を熱した身体を会場から送り出してくれたアンコール曲も気が利いていた。アルツーロ・マルケスの『ダンソン第2番』、大戦後のメキシコ楽派を代表する作曲家で、もっとも良く知られた曲ではないかと思う。ダンソンとはいうまでもなくキューバ起源、メキシコ湾岸都市ベラクルスに定着したダンス音楽の定番。メヒコイズムてんこ盛りの至福の時間だった。 
 *2014年3月30日、東京オペラシティコンサートホール 

自前の〈聖書〉で語らねば、声は届かない――染田秀藤氏の「書評」を読んで

自前の〈聖書〉で語らねば、声は届かない――染田秀藤氏の「書評」を読んで
No.2910 ・ 2009年03月21日
              
*下記の文章を「図書新聞」に書いたのは日付で示した通りで、私自身、すっかり忘れていた。
 ふとしたきっかけで再読する機会があり、一読した後、自分の仕事に対して遅まきながら宣伝にもなるし、また日本のアカデミズムのぬるま湯につかり、自分の専門領域に“侵入”してくる新参者を研究のひろがりと評価せず、学恩をもって入ってくる後輩すら忌避するような「学者」が存在している現実があり、全体とはいわないまで根強くあるという示す文章だと思い、ここに採録することにした。こうした「書評」の「書評」というような断簡墨片はいつのまにか忘却されてしまうので、ささやかな自分のアルチーボに並べておくことにした。
yjimage (2)


 表紙の光沢が失われ、手垢にまみれ、傍線や書き込み、指の脂が染みつき、思索の営みが歳月となって刻まれた〈聖書〉ほど美しいものはない。
 中央アメリカ地峡諸国にあまたある教会堂につどう信者たちの〈聖書〉を照らす光りは、熱帯の天頂から放たれ幾度かの屈折を経たものだ。
 筆者はカトリックに帰依するものではないが、そうしたほころびかけた〈聖書〉に敬意を払わずにはいられない。ここでいう〈聖書〉とはまた、それを生きる支えとした座右の書でもあり、生業の“道具”として自分を活かしてきた言霊の詰まった各人各様がかかえている書物も意味する。
 中米グァテマラの古都アンティグアは、この国が激しい内戦で陰惨な殺戮がつづいていたときも外国人バックパッカーを引き寄せていた。ここに寺小屋規模のスペイン語日常会話を教授する私塾が林立していた。ユネスコ指定の世界遺産都市でもあるアンティグアには軍隊が駐屯し、反政府武装組織の前線を押し下げていた。
 この町に日本人旅行者の溜まり場があった。そこに旅行者が読み捨てた日本の本が旅行者が暇にまかせて手づくりした書棚に並んでいた。手垢のついた本をならべた書棚は貧しいが本の回転率だけは高かった。
 その多くはラテンアメリカ諸国への旅の指南書であり、それに類するものが多いのは当然だが、そのなかに岩波文庫版『インディアスの破壊についての簡潔な報告』もあった。
 旅人のなかには旅の恥は掻き捨てと、中米では貴重きわまりない日本語文庫から本を持ち出し、出立したまま帰らない者もいた。『簡潔な報告』も持ち去られるときもあった。けれど半年ほどの月日が経てば、また新たな『簡潔な報告』がひっそりと書棚に収まっていた。
 ラス・カサスの「平和的改宗化」が実践された地グァテマラであってみれば、旅人の関心を一時的にあれ惹きつけ、征服時代の聖職者の活動を知りたいと思うのだろう。しかし、実際にラス・カサスが「平和的改宗化」を実践した地に赴くものはほとんどいない。
 グァテマラには観光地がそれこそ無数にあって、かぎられた日数の旅ではマヤ神殿都市の大伽藍を見物するだけで旅程は尽きてしまう。そうして、『簡潔な報告』は日本人溜まり場の書棚に押し込まれる。

 拙著『ラス・カサスへの道――500年後の〈新世界〉を歩く』の書評を本紙(2008年11月15日号)に寄稿された染田秀藤氏は、アンティグアの小さな書棚の常備書ともいえた『簡潔な報告』の訳者であった。
 『ラス・カサスへの道』が店頭に並んだのは8月上旬(2008)だった。そして、中南米の歴史に誠実な関心をもって執筆活動をつづけている作家、研究者の方々が拙著を手にし、書評の労を幾人もの方にとっていただいた。染田さんの拙著への書評が本紙に掲載されたのは一連の書評が出揃ったかなり後のことである。
 本紙の編集者が拙著の批評を染田さんに任せたのは妥当な成り行きであったと思う。現在の日本ではラス・カサスに関して、もっとも多くの著書を出しておられる先達である。書評の字数も異例の長さであった。通常の新聞書評の3~4倍の長さであったろうか。書評というより客観的にいえば、拙著をめぐる“簡潔な報告”であった。染田さんは末尾でご自身の書評を「駄文にすぎない」と記していたが、ラス・カサスに関わって仕事をされてきた人しか書きえない内容を含むもので、「駄文」とは言いがたいものだった。 染田自身、「駄文」とはひとつの修辞と自覚されていただだろう。

 ラス・カサスの仕事と生涯について考えようと思う者なら一切ならず染田さんの訳書、そして幾多の著作を筆恩として尊重しているはずだ。筆者も例外ではない。それは後学者の誠実な態度というものであろう。
 グァテマラに長期滞在を決め込んだ時、『簡潔な報告』をバックパックに忍ばせた。その訳者によって拙著が批評された、という第一報を聞いたときは深甚な慶びを覚えたものだ。しかし、それは染田「書評」を読むまでの話であった。
 その「書評」はいくつも出た書評のなかで唯一、否定的なトーンに満たされたものであった。同時に、『ラス・カサス伝』(岩波書店)をはじめ多くの論考を重ね、16世紀に活動した聖職者の研究におけるわが国における第一人者と自他共に認めているであろう染田さんは何故、自ら著した本を手に、自ら刻印した自身の仕事における字句を敷衍しつつ拙著を論じようとしなかったのか素朴な疑問を覚えた。
 「学術書としてではなく、教養主義的な紀行文として読めば、それ相当の価値のある興味深い作品」というのが拙著に対する評価の集約であるようだ。私はもとより「学術書」を書くつもりはいささかもなかったし、学窓の徒でもない。付け加えれば「教養主義的」なるものは忌避したい。拙著を評して「教養主義的」と書かれたのも染田さん唯一人である。

 歩くことによってしか得られない思索のあり方がある。
 まず現場に立って眺めること、足元を見つめること、地面の色、緑の濃さ、太陽の輝き、山の稜線、そして大気の流れ匂い……それを体感することは一冊の本を読み終えた以上の何かを示唆してくるものだ。だから、ひとはモーツァルトに憧れウィーンを訪れ、ビートルズをしたってリバプールに足を延ばし、ドストエフスキーの後姿を求めてサンクト・ぺテルブルクを徘徊しようとし、ゴーギャンのマドンナを求めてタヒチに赴こうとする。
 私は、ラス・カサスの墓を詣でようと、マドリッド散策から書き出した。誰が読んでも、この本が「紀行」であることは書き出しの数行を読めば分かることだ。
 それでも最近送られてきた読者カードのなかで、ご高齢の牧師さんからいただいた「机上の論理ではなく著者の人生・生活に裏打ちされた説得力のある論述です」といったご感想を読むと、「学術」的アプローチでなく、汗して歩くことによって見えてくる事実を丁寧に書き込むという方法を取ったことが正しかったと今更ながらに納得するのである。カトリックの修道女と記した方からもほぼ同様のお言葉をいただいている。こうした評価は、インターネット上でも散見することができた。

 そのインターネット上に、染田さんは、「図書新聞」に掲載した自身の書評を転載し、かつ、同新聞にはなかった数行を書き込んでいる、と人から教えられた。それが字句訂正といった代物ではなく、新聞で掲載した書評を自ら否定するような「書き込み」を施しているのだった。それは、次のような一節である。
 「デマゴーグ的言説がモザイクのように嵌め込まれた作品と言わざるをえない」
 ふつうこのようなフレーズを使って書けば、取り上げた「作品」の全面否定ということになるだろう。重い言葉である。
 思い違い、勘違い、あるいは資料の探索の方法で至らなかった故の間違い、といった瑕疵ではなく、染田さんは拙著をウソや詭弁のモザイクと決め付けているだった。その重い言葉をあえて使用された染田さんは能動的な選択行為をしたのだと思う。であるなら、何故、「図書新聞」に発表されたときに拙著を十全に否定されなかったのだろかと思う。一冊の本をめぐって短日時で評価が激変するということは通常、考えられないものだし、長年、ラス・カサスをめぐる研究に専心されてきた学者の矜持からしても、そんなに揺らぐものではないだろう。
 しかし、現実として染田さんは新聞で活字化したこととまるで違った書き込みをわざわざしているのだった。そして、「デマゴーグ」という言葉を使用されるほどの確証があるなら、拙著全体に対する批評をご自分の知見で展開するのは最低の誠意であるはずだ。
 「図書新聞」を読んだ限りの時点では、それは染田さんの拙著に対する評価のすべてだと思いもした。多々、反論もあったが、ラス・カサス研究の権威の「批評」として尊重することにした。それに私は学者ではないのだし、フリーランスの物書きの現実問題としてラス・カサス一人に関わってはいられない事情もあった。
 染田さんの書評を読んだ当時も、私の頭にあったのは、その少し前に訪れ取材してきた中央アジアの失われつつあるアラル海のすさまじい荒廃の様相であった。つい20年ほど前まで激しい波濤が岩を噛んでいたという岸壁に立った。眼下に赤さびた漁船が砂漠に沈んでいた。水はどこにも見えない。蜃気楼の幻影さえ拒絶するような白濁した地平線の広がりがあるだけだった。20世紀最大の環境破壊といわれるウズベキスタンとカザフスタンにまたがる元大湖が消滅しつつある現実・・・という「事実」は、いくらでも活字で読めるし、消滅の速度も統計資料から読み取れる。
 しかし、その荒涼たる様までは想像できない。いや、ある程度は知識の翼を広げて、体験の気流に乗せて想像することはできる。現場はいつもそれをことごとく裏切る。ラス・カサスを書こうと思ったのも、そうした裏切られることの〈快感〉がともなう現場感覚であった。
 染田さんは書評のなかで、「ラス・カサスが足を踏み入れることができなかったアンデス」の地におけるラス・カサスの影響を書いていた。例証としてそれを書き込むことまで否定しないが、ラス・カサスが実際に歩き活動した地において、その影響はいくらでも見い出せる。何故、ラス・カサスが赴かなかった地を選ぶのか、にわかに了解できなかった。
 ペルーから〈解放の神学〉の大いなる呼びかけがあったとしても、ラス・カサスが歩いた道からそれを求めるのは「紀行」の常道であると思う。そして、私はラス・カサスが歩いたニカラグア、エル・サルバドル、グァテマラ、そしてメキシコから殉教した司祭も含めて幾人ものラス・カサスにつながる聖職者たちのことを書いた。その部分は拙著の後半部においてもっとも量多くして書き込んだところである。けれど、染田さんはそれをまったく無 視して、「ラス・カサスが足を踏み入れることのできなかった」地からわざわざ敷衍していたのだ。
 メキシコ・チアパスの古都サンクリストバル・デ・ラス・カサスは反政府武装組織サパティスタの蜂起の地だが、その地の初代司教はラス・カサスであり、先住民布教に手を染めた地であった。町の名の興りはラス・カサス司教から来ている。そうした中米の地での今をまったく顧みずに、いきなりペルーを持ち出されても著者としてはいささか戸惑うのである。 染田さんの意図もすこぶるあいまいだ。
 染田さんが「図書新聞」でわざわざ書評の労をとった、と知ったとき、筆者はそこで、ラス・カサスに関わる書き手の一人に上野清士という中米滞在体験者があらたに加わったと、多少の異論・反論があったとしても、それも百家総鳴に育っていくための一里塚として迎えようという大先達の懐の深さ、度量の大きさを示すなにかが書かれていると思った。しかし、その期待は完全に裏切られたのであった。
 さらに染田さんは「図書新聞」への寄稿に飽き足らず、ご自分のホームページで、ご自身の仕事を否定するような訂正を加えていたのだった。それは人から教えられてはじめて知ったことだが、そのやり方は闇討ち、背後から切りつけるようなアンフェアなやり方だと思った。
 本稿の冒頭で、私は中米の教会の一隅でみた手垢にまみれた〈聖書〉に触れ、ひとにはそれぞれ大切な書物があることを記した。染田さんにとってのラス・カサス研究の結実は翻訳ではなく自ら著した『ラス・カサス伝』であろう。
 染田さんは拙著『ラス・カサスへの道』を批評する際、ご自分の手垢でまみれているであろう血の通った自著を用いず引用せず、そればかりか評伝の存在すら読者に伝えることもなく書いていた。
 染田さんが拙著の批判に使ったのは自著ではなく、まだ邦訳のないイサシオ・ペレスの研究書であった。つまり、大半の読者がその原著にアクセスもできず、入手の労を取るのはスペイン語に精通した者しかいないという、いわば読者の判断を塞いだ地から批判するという論法を用いていた。それもアンフェアな態度ではないのか。
 染田さんの主著『ラス・カサス伝』は評伝である。人の事跡を書くのが評伝である。その要諦は文献探索だけでなく、足で書くものだと私は思っている。
 染田さんが書かれた評伝は時系列にラス・カサスの足跡を知るには好個の書である。しかし、文献探索を基にした机上の仕事である。丹念なお仕事であることは確かだが、そこに立体感はなく、ラス・カサスが生きた感覚は感じられなかった。16世紀人としては稀有な旅程を重ねた旅行人との歩幅も感じることはできなかった。
 だから私は歩いた。 できるだけラス・カサスのように歩いてみようと思った。ラス・カサスの足跡は一歩一歩、踏み込まれて刻まれただろう。驢馬に騎乗しての旅程も長かったことも知っている。馬上に降りそそぐ熱帯の陽光、異民族・異文化の地を歩くものに特有の故しらずもたげてくる恐怖感というものもあったはずだ。砂埃が立つ、歩行の吐息があり汗も流れる。 染田評伝は日時を精緻に書き込んでいる。しかし、そこには肉付けがないと思った。取材で得られるべき呼吸がないと思った。私は、その呼吸をできるだけ書き込んでみようと思った。そのためには歩くしかないと思った。そして、それは特別なことではなく多くの物書きが当たり前にやってきたことだ。
 歩くことによって16世紀の道はかき消され20世紀につけられた道しかないことも知った。400年もたてば道筋は変わり、熱帯雨林の細道はたちまち乾季と雨季の連鎖のなかでかき消される。むかし、パナマ地峡を縦断した「カミノレアル」王の道といわれた公道はインカ帝国の金銀財宝を運んだ道として史書に記載されるが、そんな道など跡形もなく消えている。ラス・カサスの歩いた道の多くも消えている。しかし、染田評伝はまず地図の検証が行なわれていない。それは自分の足をつかっていないからだ。幾つもの間違いを発見したし、拙著の冒頭に書き込んだようなラス・カサスの遺骸とスペイン市民戦争との関わりの挿話も見い出すことができた。それを染田さんはそれをまったく無視しているが、ラス・カサス研究の心眼にはならないもののスペイン史をめぐる重要なエピソードだと思って書き込んだ。そうしたことがたくさんあった。それは驚きであると同時に貴重な発見<であった。
 しかし、私は歩くことによって知ったこと、それをダシにして日本で唯一のラス・カサス伝の著者である染田さんを批判するつもりはまったくなかったし、現に拙著なかで、そうしたことは記していない。

 染田さんは拙著について、「問題なのは、著者が五〇〇年という時間の経過を無視し、表面的な事象に目を奪われ、ラス・カサス思想の現代性や普遍性を深く問いただしていない点にある」と書いていた。
 むろん、私は時間の経過を無視してはいないし、私なりの方法論でラス・カサスの現代性を問いかけたつもりである。傍題に「500年後の〈新世界〉を歩く」としたのも、500年の歳月の連鎖を認知しての作業であったからだ。だから、ラス・カサスから現代に引き継ぐ歳月のなかで生起したことを、ラス・カサスが歩いた地にできるだけ即して取り上げようとしたのだ。
 中米の地での聖職者の活動は、この地の植民地時代、独立、中米連邦の創設と崩壊、英国の進出、米国の覇権、そしてソ連の影響力の行使などさまざまな政治的駆け引きとは無縁ではありえなかった。それがこの地の500年であった。それも〈への道〉に即してできるだけ語ろうとしたし、読者の大半はそう読んでくれたと思う。何故、染田さんが拙著を評して上記のように書くのか、その意図がまったく理解できない。 染田さんが「500年」と強調するのであれば、ご自身の労作の評伝は、それこそ文献主義に陥り、現代への架橋はほとんどない。そういう自らの評伝を棚に上げて、私への書評をかくも辛らつに描く意図はなんだろう。
 染田さんは拙著への批判にアンデスの地の影響を持ち出しているが、アンデスを持ち出すのであれば、その地から出てきたボリビアのアイマラ族出身のモラレス現大統領まで語るべきだろう。染田さんも書いているが、「キリスト教中心主義やヨーロッパ中心主義」への批判が必要との認識は、例えばモラレス大統領の施政の苦闘に繋がるものだし、現在進行形の問題として日々、苦慮していることは承知のことと思う。ボリビアも「ラス・カサスへの道」から外れる行程であったために、私はモラレス大統領には触れていない。その代わり、モラレス大統領と政治的な同志であることを宣明しているベネズエラのチャべス大統領にそれを求めて、私は示唆した。ベネズエラの地にラス・カサスは足跡を残した。
 チャべス大統領は、みずからの体内にながれる〈血〉の自覚に500年の民族混交のゆらぎと混迷の歳月の堆積を見い出し、それを公言している。
 また、中米の地の聖職者の活動にもそれを見い出し、それも書いた。グァテマラではカトリック教会とマヤ先住民の土俗的な宗教の和合をルポした。和合の過程は先住民と征服者、先住民司祭とカトリック司祭との暗黙の500年の闘争史そのものであった。そういう私の記述が拙著の眼目のひとつだと思っているが、そうした記述をことごく無視して、「ラス・カサスが足を踏み入れることがなかった」アンデスの地をいきなり持ち出され批判されても困るのである。
 私はいま、とても残念な思いをしている。染田さんの拙著に対する書評は、染田さんの著作を緒口にラス・カサスへの関心を醸成していった多くの読者に対する裏切りではないのか。そして、染田さんの翻訳を通して『簡潔な報告』を読んだ私自身に対する大いなる裏切りにもなっていると思った。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
01 | 2015/02 | 03
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。