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ナタリア・ラフォルカデ、チリへの想い

 メキシコポップス界の精鋭ナタリア・ラフォルカデ、故国チリへの想い
ナタリア

 ナタリア・ラフォルカデ、デビューアルバム『natalia lafourcade』が日本でも即、発売されたメキシコの若手女性歌手として記憶される。このデビュー・アルバムのライナーノーツは私が書いた。
 そのアルバムの日本発売から間もなく日本公演も実現させた。メキシコ・ポップスの俊英。デビュー当時(2003年)17歳だった少女ナタリアも今年、28歳。2年前に制作したアルバム『ムヘール・ディビーナ』は往年のボレロ歌手にして作詞作曲家であったアグスティン・ララに捧げられたアート性豊かな作品として評価され、ラテングラミー賞で確か2部門にノミネートされた。そのビデオ・クリップのなかで歌う姿には、女の成熟した色香のただよっていた。

 そのナタリアが4月に発売された音楽雑誌『YA』で父の国チリへの思い、私的な旅の思い出を語って注目された。
 ナタリアの父ガストンはチリに民主革命を起こした故アジェンデ大統領とその政権の熱烈な支持者であった。1973年9月11日、軍事クーデターが起きる2日前、偶然、チリを出ていたため弾圧、あるいは虐殺から逃れることができたチェンバ
奏者であった。
 「父はよくビオレッタ・パラ(チリの国民的歌手にして音楽学者)の歌を弾いてくれたの。わたしが歌を作るようになったとき、彼女の音楽に知らないうちに影響されていたことを知った」

 軍事独裁下のチリから多くの市民が国外脱出、メキシコも多くの政治亡命者を受け入れた。ビオレッタの息子アンヘル・パラなどは有名でメキシコ市内にチリ民族音楽を聴けるベーニャを開いた。

 ナタリアの父はメキシコにあって、「チリ人オルガン・チェンバロ奏者連盟」を組織し、チリに民主主義が復活することを願いながら演奏活動を続けていた。母ナタリアもピアニストだった。そんな音楽的環境に恵まれたナタリアがクラシックの道に
進まず、メキシコ市井の若者たちの感情を歌い込んだ作品でデビューした。最初から完成度が高かったのは両親から受け継いだ血であろうか。

  「昨年、78歳の父に付き添ってはじめてチリを旅し、父の兄弟、親族に逢い、民族料理を食べたり、自然を堪能した充実した旅だった」
 ナタリアはビオレッタの名作『グラシアス・ラ・ビダ』に托して自分自身を語る。もし、父がチリに留まっていたら、私自身の生もなかった、「人生よ、ありがとう」と。
 冷戦時代の中南米諸国の政治的な混乱によって生じた悲劇の残滓は、まだナタリア世代の体内に生きているということをあらためて認識した。  (2014年4月記)
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花もつ女たち №39 レニ・リーフェンシュタール(映画監督・写真家*ドイツ 1902~2003)

花もつ女たち
 レニ・リーフェンシュタール(舞踏家・俳優・映画監督・写真家 ドイツ 1902~2003)
レニ

 20世紀の歴史にほぼ重なるように101歳という長寿を全うし、5つの人生を見事に生き抜いたレニ。その生涯は生前からすでに“神話”の世界に飛翔していた。

 たぐまれな美貌と健康、そして才気に恵まれたレニ。
 ダンサー、映画女優、映画監督、写真家、水中写真家という履歴が残っている。その職歴は10代から晩年へと流れる太い線だ。つまり最晩年に、「水中写真家」というプロフィールが加わるのだ! 驚異的な履歴ではないか! そう、生きざま、そのものがたぐい稀な〈表現〉活動であった。

 30代でナチ党大会の陶酔的記録映画『意志の勝利』、ナチ五輪といわれたベルリン大会の記録映画『オリンピア』を撮り生きて〈負〉の伝説となったレニ。『オリンピア』は古代オリンピックにおける肉体美の全的な蘇生でもあった。
 大戦後、必然、ナチとの関わりが問われた。レニ自身、ヒトラーに心酔した時期があったことを認めつつも、党員にならなかったことは実証されている。ふたつの映画はナチ党の緊密な共同作業であったことは確かだが、表現者としての主導権はあくまでレニのものだった。大戦期、世界中の映画人は多かれ少なかれ翼賛体制のなかで仕事をしていた。映画とは金の掛かるものだ。物資統制がきつくなればなるほど映画は権力の影響を受けやすい。黒澤明監督だって時局映画をとっていたし、戦後、「ゴジラ」映画で特撮技術を花咲かせる東宝映画のスタッフはハワイ・マレー沖海戦の特撮技術で基礎を作った。勝ち戦の側にいた映画人は、レニの仕事、才能にただ嫉妬したに過ぎない。ナチを断罪する拳で、レニを映画界から追放しただけだ。

 連合国の裁判でレニは無罪とはなったが、ユダヤ人社会はむろん、多くの大衆は放免しなかった。容赦しない批判を浴びせた。ドイツ映画界はレニの才能を唾棄した。いや、世界の映画界が彼女の才能を葬った。

 しかし、『オリンピア』を批判して、これを超えるオリンピック映画は今日まで生まれていない。そればかりか記録映画の先駆的成果として現在も世界各地で上映されている。
 『意志の勝利』もそうだが、『オリンピア』の完成度の高さに、世界の映像作家は呪縛されている。レニ自身、2本の映画への自負があった。私は市川昆監督の『東京オリンピック』をレニのそれに次ぐオリンピック映画の傑作だと思っている。しかし、その市川監督の映像にもレニの影響は顕著に、そして随所に登場する。
 レニは、天文学的な毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされた。しかし、レニは一歩もたじろがなかった信念の女性としても一驚に値する。

 62歳、アフリカ・スーダンでヌバ族と出会う。親密な信頼関係を築いた後、ヌバの若者たちの求愛行為そのものまで撮った。71歳で編んだ写真集『ヌバ』は世界10カ国で出版された。日本では出版を機に、石岡暎子さんの素晴らしいレイアウトで写真展も開かれた。筆者とレニとの出合いはその写真展での衝撃から生まれた。2本の映画はその後に観た。

 レニに感性の老いはなかった。
 『ヌバ』の成功はレニに旺盛なエネルギーを注入したようだ。
 71歳であたらしい表現領域をもとめて海に潜る。71歳でスキューバ・ダイビングのライセンスを修得すると水中写真を撮り始め、やがて2冊目の写真集に昇華する。
 
 101歳、波瀾多き、そして、限りなく充実した生ある時間に終止符を打つ、そして“神話”の世界で永遠の生を享けた。

顕彰「インディア・マリア」シリーズとその人   Maria Elenaという女優

顕彰「インディア・マリア」シリーズとその人
  マリア・エレナという女優
インディア マリア

 今年のオスカーはメキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが「バードマン」で監督賞と作品賞、彼の出世作「アモーレス・ぺロス」以来のスタッフが脚本、撮影賞を受賞。メキシコのマスコミも連日のように報道しているが、そのなかで長年、メキシコ大衆に支持されてきたコメディ映画シリーズ「インディア・マリア」で体当たりでの演技で主役をつとめてきたマリア・エレナ・ベラスコが2月14日、胃がんの手術を受けていたことが約1週間過ぎたとことで報道された。

 ことし、74歳になるマリア・エレナだが、昨年には当たり役「インディア・マリア」シリーズの最新作「モクテスマの娘」に元気に主演していた。シリーズ10作目だった。
 同シリーズ最初の作品が1968年の「エル・バスタード」で、マリア・エレナ28歳で射止めた当たり役だった。以来、年季を重ねるごとにマリア不動のはまり役となり、マリア・エレナ、すなわちインディア・マリア役に同化して語られることになる。渥美清さんの“フーテンの寅さん”のようなものだ。日本では1作も公開されていないのが残念だ。
 しかし、ヒットシリーズ「インディア・マリア」は寅さん映画のようには新春とお盆映画というようには量産されなかった。制作されればそれなりの興行成績は見込まれたはずだが、70~80年代のメキシコ映画は低迷期であった。ごたぶんにもれず観客はテレビに奪われていた。そんな時代にメキシコ大衆映画の灯火をまもってきたのが男優でカンティンフラス、女優でマリア・エレナとなる。ともに下層社会の生きる民衆とともに生きるという姿勢を貫いた役で圧倒的な支持を得てきた。
 
 「インディア・マリア」のマリアは、メキシコ市の富裕家庭に住み込みで働くシルビエンタ、つまり「女中」、お手伝いさん、というような境遇ではくなく、雇い主の胸先三寸でいつでもクビにされかねない地位だ。マリアは、その下働きの視線でメキシコに現にある民族差別を描いていた。しかし、それはけっしてス トレートな批評というものではなく痛快に笑い飛ばす視線があった。
 現在も週末、たまの休暇も懐具合はいつもとぼしく遠出もできず、何時間もファミレスで粘ることもできないシルビエンタの女の子たちは、地下鉄ターミナル駅周辺に三々五々あつまり、同郷の友人たちとおしゃべりに花を咲かせて時間をやり過ごしている。週末は家族が水入らずで過ごす時間として、他人のシルビエタたちは家を追い出されるからだ。こうした光景は西欧諸都市でも見られる光景だ。イタリア・ローマの映画で有名なテルミナ駅(終着駅)周辺ではフィリピンから出稼ぎに来ているシルビエンタたちがたむろす光景を見かける。

 「インディア・マリア」はときにやんごとなき理由で変装し、先住民衣裳をいっとき脱ぐことはあっても、日常着はすべて先住民女性の衣裳で通す。マリア・エレナはコメディアンとしてしられるが、おそらくその姿勢は笑いを通して現実批評する、したたかな女優であったと思う。

 メキシコ大衆音楽のメッカ、ブランキータ劇場の踊り子として22歳で芸歴を出発させ52年もの間、働きつづけいま、休息の季節にきたのかも知れない。是非とも自愛の療養生活をして欲しいものだ。  

 *「マリア・エレナ」というと日本のラテン音楽ファンならロス・インディオス・タバハラスの名曲を思い出すようだが、是非、もうひとりのマリア・エレナを知って欲しい。余談だが、ついでタバハラスの「マリア・エレナ」についてデータを調べていたら、いまや日本でのみステージ活動をしているテケテケテッのザ・ベンチャーズが、高齢者向けなのだろう、タバハラスの「マリア・エレナ」の佳きリリカルな味をそのままに90年代から自分たちのレパートリーにしていることを知った。佳品である。

チャヤン、4年ぶりのアルバム(プエルトリコ)

チャヤン、4年ぶりのアルバム

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 地元プエルトリコに限らずメキシコ、カリブ・中米から南米諸国、そして米国のヒスパニック層でも絶大な人気のある歌手
チャヤンが4年ぶりに新作アルバム『エン・トド・エスラレェ』を発表した。
 先行して同アルバム収録の「ウマノス・ア・マルテ」のヴィデオ・クリップ、チャヤンがファッションカメラマンに扮して歌う軽快なポップスだが、6月に先行して発表されている。

 スペイン語圏では同じプエルトリコ出身でいえばリッキー・マーティン並の人気者のチャヤン。何故か日本では1枚のアルバムしか発売されていない。けれど、ヴァネッサ・ウィリアムと共演した映画『ダンス・ウィズ・ミー」(1997年)が公開されていて一定の知名度はあるし、米国に亡命したサンチャゴ・デ・クーバ出身の青年役をこなし、俳優としての実力をみた。その映画のタイトルでも分かるようにチャヤンのダンスパフォーマンスはそれだけで客を呼べる創意とダイナミズムがあた。
 彼のバイラは、10代の少年アイドルグループ、ロス・チコス時代から定評のあるものだった。ちなみにチャヤンは、リッキー・マーティンが所属していたアイドル・グループ、メヌードのオーディションも受けている。このときの成績も合格ラインだったが年齢が若過ぎて落とされたという逸話が残っている。つまり彼はローティン時代からすでにスターであった。
 
 4年ぶりとなるアルバムの発表の席でチャヤンは、「アルバムの制作に打ち込めなかったのは母が前作の制作から4月後に死去したからだ。私の心の傷はなかなか塞がなかったからだ」と語っている。
 今年、46歳になる男としては少々、感傷的だと思うが、ラテン男の母に対する思いというのは聖母信仰とならんで日本人男性にはなかなか理解できない重さがあることは確かだ。
 しかし、「沈黙は破られた」と地元メディアはチャヤンの新作を好意的に迎えている。
  「新作アルバムの素材はこの4年間の私の〈心〉そのものだ。どうか、私の歌を聴いてください、そして私と一緒に踊ってください」とも語る。
 収録曲には、「母なる大地」という表題もみえるし、「二つのハートが踊る」といった歌もあり、そんな歌にチャヤンの母への思いが託されているのだろう。
 むろん、先行して発表されたビデオ・クリップでも衰えをしらないパフォーマンスをみせている。その姿は4年前とまったく遜色のない精気に満ちている。またヒットするだろう。  (2014・5記)

花もつ女たち №38 アマリア・ペラエス(キューバ 画家 1896~1968)

花もつ女たち №38
 アマリア・ペラエス(キューバ 画家 1896~1968)

 ハバナには音楽があふれている。同時に熱帯の太陽と心地よく呼応する多彩な公共美術がそこかしこに在る。
 この時代、音はインターネットで即発信できるが、質感をともなう美術はそうはいかない。故に日本では、キューバ美術の紹介は音楽に比べ、著しく遅れている。
 けれど冷戦時代からキューバ美術を迎える市場が〈敵〉米国にはずっと存在し、その評価も高い。だから、米国にはキューバ美術を紹介するギャラリーは幾つも存在し、英語による発信も多い。しかし、日本の市場はそれを受信しない。ヨーロッパのサザビーズ、クリスティーズも定期的にキューバ美術の出展数の多いオークションが定期的に開かれている。
 
 フロリダ半島のマイマミにはリトル・ハバナというキューバ及びラテンアメリカの亡命者、多くは経済難民だが、彼らが暮らす一角がある。そこもキューバ音楽が溢れ、公共的空間の美にハバナからの移植様式がある。むろん、亡命した音楽家もいれば美術家も活動している。

 ここで紹介するアマリア・ペラエスは近現代キューバ美術における最高の画家のひとりと言って過言ではないだろう。アマリア的色彩は固有の美だ。
 いっけん抽象に見えながら、あくまで意思的な具象的造形美を演出する。アマリア絵画の特徴のひとつに形態を縁取る黒く太い線がある。たぶん教会のステンドグラスの枠から着想をえているだろう。それもハバナの大伽藍の聖堂に光を取り込むために設けられたステンドグラス。けっして西欧の和やかな温帯の太陽のそれではなく、カリブの海の頭上で輝く熱帯のそれだ。影はより濃くなる。

 アマリアは革命前のカトリック風土のなかで育った。西欧への留学も体験し、太陽の違いを肌でしる。
 キューバではステンドグラスを透過しながら減光する過程で、光は屈折して歪み、照らし出された物体は刻一刻と変容する。アマリアの静物画は時の経過そのものを一枚のタブローに定着させようという野心を感じさせる。その〈野心〉はあくまでリリカルな諧調にとどまる。観ていて気持ちのよいおおらかさを感じさせる。アマリアの太陽は、物体から鋭角をとりのぞく溶剤かも知れない。だから、アマリアの絵は太陽の果実のようだ。緑濃いキューバ自然への讃歌ともなっていよう。
 
 ハバナの市中、海に面した一角にホテル・ハバナリブレがある。その建物正面はアマリアの青い壁画で覆われている。カリブの紺碧の海と空と呼応する。太陽といつもなごやかに対話しているように、そこにある。

花もつ女たち №37 ティナ・モドッティ(写真家 1896~1942)

ティナ・モドッティ (イタリア・米国・メキシコ 写真家 1896~1942)

 波乱万丈の生涯を、20世紀前期の世界史の綴れ織りのなかで過ごしたといってよい女性だ。
 イタリアに生まれ、少女時代に出稼ぎで米国へ渡り、紡績女工として働きはじめる。
 この時代、イタリアから米国をはじめ米大陸に多くの経済難民が押し寄せた。この時代の米国裏社会、禁酒法時代に形成されるのがイタリア系のマフィア組織だ。米国にわたっても実入りのよい仕事にめぐり合わない移民たちの不満の受け皿となっていた。

 ティナは数年後、その美貌と野心、捨てるもののない青春の傲慢さを武器に黎明期のハリウッドに希望を賭ける。主演作も撮った、将来も嘱望された。しかし、サイレント映画の固定された演技は、自分の演劇観に沿わないと蹴り、恋人とともにメキシコに渡る。恋の逃避行。
 その恋人はのちに米国写真史に名を遺す才能だが、メキシコ現代美術史ではティナに写真を教えた男として記載される。ティナは、実作をはじめるとどうじに、その感性で師である恋人の写真を凌駕した。
 ティナが生涯に残した写真は、埋もれた作品があったとしても最大100点前後でしかない。写真芸術の開拓期であったとしても少ない。
 ティナ写真の最良は1929年2月、メキシコ市の個展で発表された作品につきる。以後の作品はすでに残照となっている。先年、日本で公開された映画『フリーダ』をご覧になった読者がいたら、ちょっと思い出してほしい、この個展の会場シーンに多くの時間が割かれ、ティナとフリーダ・カーロが踊るシーンがあった。ティナの絶頂期でもあった。
 ティナの代表作の1枚に「旗をもつ女」がある。アナキズムを象徴する黒旗を掲げるメキシコ先住民女性を撮ったものだ。黒旗がかすかな風をはらんで先住民女性の身体に同化しているような見事なカットだ。ティナはこの「旗をもつ女」を“自由の女神”と解釈した。
 メキシコの貧困、先住民たちの苛酷な境遇をヒューマンな視点で撮った一連の写真はティナ芸術の最良だ。芸術性と社会性を見事に融合させたのティナの天賦の美質と感性であって、書物の蓄積ではない。生理的な直感・・・。

 メキシコを象徴する日常雑記、静物を雄弁なオブジェとした一連の写真は後続のメキシコ写真家及びラテンアメリカの写真家、とくに民族派の若き才能に深甚な影響を与えた。いや現在なお影響を与えている。同じようなオブジェ写真を、彼女の師であった米国人写真家もほぼ同時期に撮っている。しかし、なんという違いか? それはもう光を捕らえる一瞬から、まるで入射角度が違うのではないか、と思えるぐらい変質する。異質だ。
 しかし、ティナは個展の成功を尻目に写真を半ば放擲(ほうてき)する。
 スペイン内戦が勃発すると、ティナはカメラを捨てて共和派の戦列に加わりフランコ王党派に銃を向ける。同内戦で不滅の報道写真を撮ったとされるのがロバート・キャパだが、もし、ティナがカメラを手放さなかった、いったいどんな写真を撮っただろうか、とも思えるが・・・スペインの戦地に赴く船のなかで写真家である自分を捨てていた。
 共和派の敗戦でティナを欧州大陸を彷徨することになる。辛酸をなめる。
 メキシコに病いを抱えて戻ってきた頃は、すでに美しかったティナの面影すら失われていた。その時期の写真が数枚残る。メキシコに帰国後、ティナは3年しか生きていなかった。享年、46歳。

花もつ女たち №36 津村紀三子(能楽師)

津村紀三子 (能楽師*1902~1974)
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 世阿弥を開祖とする能楽は600年間掛けて女人禁制の高い壁を築き上げた。その禁制を自らの芸の深さで解いたのが津村紀三子である。
 その生涯はまさに荒蕪地を地を這うようにして道を切り拓いた血の滲むような悪戦苦闘の歩みだった。
 もっとも紀三子には既成の能楽界に対抗する気はなかった。自分自身の能をやりたいみせたいという私的な欲求があっただけだ。しかし伝統の鎖は彼女を始終、締め上げつづけた。
 男性の演者しか想定しなかった能楽は、その衣裳ひとつ能面ひとつみな男性の肢体を平準にして作られている。現在でもそうだ。身の丈150cmにも満たない紀三子が従来の衣裳をまとえば皆、自分の肢体にあわせる工夫をしなければならなかった。能面もしかり、そのままつけても面はずり下がり、視界を閉ざされた闇のなかで舞台を勤めたこともあった。
 
 紀三子の年譜には無数の「初」が付く。彼女がひとつ演じればたいてい女性で初の、ということになった。女性を受け付けない能楽界に対し、自らが演じようとすれば囃子方、謡もまた女性で固めなければならない。彼女は自ら演じる必要から自ら「緑泉会」という組織を作る。そこで弟子たちを育てる。彼女は優れた師範でもあった。そして、能のなかに女性が演じ
ることの蓋然性を謳うべく、自ら創作にも手を染めた。老いさばらえた小野小町を描いた「文がら」。

 いま、女性に門扉を開いた能楽界だが紀三子のほどの技量をもつ才能はまだ出ていない。 
 かつて三島由紀夫は女能楽師の舞台などみたくないと言った。それは彼の女性差別意識といった次元の低いところから出た言葉ではなく、彼独自の審美眼がいわせたものだ。それは、歌舞伎に女性が不在であることによる審美眼が育まれた、ということと同じ意味だ。だから、津村の苦闘があった。差別は闘えるが、伝統が育んだ「審美眼」とは容易に闘えない。能衣装は身の丈に合わせられる。能面づくりもできるだろう。しかし、あたらしい「審美眼」を生み出すことは至難だ。おなじ能楽に、もうひとつの「美」を造形して並存させるということだからだ。観阿弥、世阿弥父子もそんなことは一語半句、書いていない。津村の苦闘は世阿弥の時代まで遡らなければない命題だったのだ。津村の後継者が容易に育ちにくいのは、先達の苦闘がまだ記憶の時代にあるからでもある。

書評 『放浪の聖画家 ピロスマニ』 はらだたけひで著

書評 『放浪の聖画家 ピロスマニ』 
           はらだたけひで著
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 日本におけるピロスマニ受容は映画から始まる。
 まだグルジアがソ連邦の構成国であった頃、かの国で叙事詩的な評伝映画制作され岩波ホールで公開されてからだ。それ以前に、いわゆる素朴画家として、その分野では良く知られていたフランスのアンリ・ルソーなど
の傍系資料的に紹介されていた程度だったが、映画の公開でにわかに光を放ちはじめた。
 
 本書の著者はその映画の公開に岩波ホール職員として関わった。そして、絵本作家でもある著者が掌のなかであたため熟成させるように画家の生涯を描き出しのが本書である。
  
 名声を求めるのでもなく、コーカサス山系の山の民グルジア人として、同胞(はらかた)、生活を支える豊かな風土をただ描きたいように描いた民衆画家の足跡を自分が歩む道しるべのごとく豊富な作例をあげながら起伏の多いグルジアを旅して綴る。
 かの映画に触れて評者もピロスマニに惹かれた。彼の豊かな黒に惹かれた。墨に五彩あり、というが、その絵の世界にも同じような豊饒をみた。
 絵の黒に憂愁と、それに相反するような愛惜をみたのだ。その二律離反さが宿るもの確認したくて二度目のソ連旅行の際、グルジアの首都トビリシを訪れた。冬の孤独な一人旅だった。当時、外国人が宿泊できるホテル内の表記もぶどうの蔦から生まれた(?)といわれるグルジア語文字とロシアのキール文字しか併記されていない時代だった。
 ピロスマニの黒・・・それは映画を見たときから強い印象を受けたものだった。黒に憂愁と愛惜をみた。その黒が評者には謎だった。本書の著者がその黒に言及する。
 それはギャラリーでの鑑賞ではうかがい知れない部分だ。それが評伝を読む快楽でもあり、発見だ。一書にまとめるということは、そうした読者の疑問に答えることだ。著者は書く・・・。
 絵の具の黒ではなくグルジアでムシャンバと呼ばれる馬の背に敷く動物の皮、その地色と。何故、彼はこれをキャンバスにしたのだろう、と著者は筆を進める。そんな手法でピロスマニ芸術の特異性と風土に密着した世界を紐解いていく。  
 著者とともに小さな山国の穏やかな日々のなかで旅程を重ねたことを思いだしながら感慨にふけった。    (清士)
▽集英社新書・1200円

砂漠の遊牧民トゥアレグ族の独立運動

砂漠の遊牧民トゥアレグ族の独立運動
safe_image.jpg映画『トゥマスト』

 現在、中東地域最大の焦点となっている「イスラム国」の特徴のひとつに、国境をまったく異に介さない活動をつづけていることだ。彼らは中東諸国の国境線が西欧諸国の政治的・経済的利己主義から生まれたものという見方があるからだ。そして、それは正しい。その「イスラム国」の戦闘においてもっとも勇敢に応戦しているのがクルド人の武装組織「ペシュメルガ」だ。イラク、シリア、あるいはトルコのクルド人も参加しているのだろう。女性戦闘員も含め士気あがる武装組織に対し、米国をはじめ英国、フランス、ドイツが武器供与及び軍事顧問を派遣している。・・・そして、いったん和平なり、戦闘疲れの停戦が合意された後、そうした武器は拡散し、また地域の不安定化をもたらす。それは歴史が繰り返し証明してきたことだ。
 クルド人は国をもたない最大の民族だ。約2800万がトルコを中心に中東諸国に住む。彼らは「イスラム国」との戦いを通じて、自分たちの自治区の確保、そして独立を祈願して戦っている。だから、強いのだ。
 
 ・・・と同じように北アフリカの砂漠地帯のベンベル系の遊牧民にトゥアレグ族がいる。
 日本からはまったくみえない砂漠の民族だが、総人口は550万を数える。
 ニジェール、マリ、アルジェリア、ブルキナファソ、リビアの国境が接する周辺地帯に住む。彼らが国をもつことができなかったのも西欧諸国の私利私欲の植民地分割のためだ。アフリカにおける国をもたない最大の民族だ。
 このトゥアレグ族の活動を描いたドキュメント映画『トゥーマスト』の公開を前に、東京・渋谷のアップリンクで日本では初めてと思われるトゥアレグ族の政治的な現況、文化などを紹介するイベントが行なわれた。
 トゥアレグ族は各国に散在して住むため自前のマスメディアを持たない。だから、「独立を訴えるため音楽がいちばん有効な手段なのだ」と訴える歌手を主人公にしたものだ。「トゥーマスト」とはそのバンド名。その主人公もかつて武器をもってニジェールやマリの政府軍と戦った。しかし、いまは自動小銃をギターに持ち替えて活動している。
 ラテンアメリカに“ギターをもったゲリラ”という言葉がつい最近まで説得力をもって語られていた。その代表格が中米ニカラグアのサンディニスタ革命政権を支えた歌手カルロス・メヒア=ゴドイだろう。チリのシンガーソングライター、ビクトル・ハラはピノチェットの軍事クーデターの際、ギターを持つ手を打ち砕かれて惨殺された。「トゥマスト」は現在、最前衛にいる“ギターをもったゲリラ”である。

 20世紀前半、メキシコ革命が起きたとき、その情宣手段とされたのが音楽だった。それをコリードという。日本でも良くしられる「ラ・クカラチャ」はその革命から生まれた。マスメディアが発達していない国、地域では昔も今も音楽は有力な武器となる。インターネットも携帯電話も普及していない地域の独立闘争はいまも肉声なのだ。そんなことを教える映画であり、イベントであった。
 「イスラム国」では不幸にも日本人が犠牲となったが、その歴史的な背景をみるとき、そこに住む民族を無視し、自分たちの利害だけで国境を割った西欧諸国の“罪”があぶりだされる。それは現在、アフリカ地域における政治的な混乱でもおなじことがいえる。 
 トゥアレグ族もまたイスラム信徒だが、アフリカの西方で受容されたとき、冒頭に掲げた写真のように、その正装は女性は顔を表出し、男性が顔を覆う民俗風俗となって定着した。女性は歌舞音曲の担い手でもある。イスラム習俗の多様を象徴する民族である。

 トゥアレグ族のことを意識しはじめてから、まったく偶然だが、1950年代にアメリカの女性音楽史家ソフィー・ドリンカーが書いた『音楽にみる女性史~その社会学的考察』(音楽之友社・絶版)という本を読んだ。ここに有史以前の女性音楽家たちの存在と推論を構築するために、著者は当時のトゥアレグ族の女性たちの習俗研究を用いていることだった。50年代であったか、その資料も不十分なものであったと思われるが、繰り返し言及しているとことをみると、著者になんからの啓示を与えたことは確かだ。現在は、埋もれてしまっている本だが復刊を望む一書である。 (2015年2月記)

セルジュ・ラトゥーシュ「消費社会からの脱出」

講演会
 セルジュ・ラトゥーシュ「消費社会からの脱出」

 フランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュ(パリ南大学名誉教授)が提唱した脱成長理論は、いま世界の覆っているグローバル経済の構造的矛盾を克服する新しい経済理論として世界的な注目を集め、「新しいコミュニズムの仮説」とも言われる。その思想を自らの語る講演と、日本でラトゥーシュ理論に賛同し研究者を集めた講演会が5月24日(2014)、東京恵比寿の日仏会館で行なわれた。

 「1958年、米国の経済学者ガルブレスが『豊かな社会』という著書を書き世界的な注目を集めた。それは消費社会のまやかしを批判する書として先駆的な価値があり、経済成長の限界を主張したものだった。
 ガルブレスの予見は、フランスにおいては1968年の5月革命や、2008年のリーマンショック後の混乱を言い当てるものだった。
 ガルブレスの予見から約半世紀のあいだに西洋文明はいくたびも経済的な危機を繰り返し起こしてきたし、地球の自然環境は悪化するばかりだった。こうした危機的状況を救うには、有限の地球資源を構造的に無駄づかいするしか経済成長できない仕組み、矛盾を問い、脱却しなければならない。日本は明治維新以来、西洋型の消費社会に入っていき、おなじような矛盾を 抱えることになった。
 私がいう消費社会とは成長が成長を促す止めどもない経済システムを指している。
 「成長」という信仰に支えられたシステムだ。それは無際限の資源の搾取であり消費である。人間に必要なものはわずかしか生産せず、生活にさして必要でないものを、あたかも必要であるかのように見せかけ、人に消費意欲を生じさせ、依存を生み出すシステムだ。
 生活に対して必要でないものを大量に生産し、それを買わせるためにはCMが必要になる。モノの大量消費のためにはCMは不可欠な存在だ。何故なら、もともと生存に必要でないものを買わせるわけだから、消費者に幻想を与える必要があるからだ。
 そうした幻想に惑わされた消費者は、購入資金が足りないとクレジットに容易にア クセスできる仕組みを企業は用意した。不況のなかでもクレジットやリボリングで消費者に金を提供し、借金地獄に追い込むシステムだ。
 現在、パソコンは必需品となってしまった。それは故障もするし消耗もする。しかし、故障を修理するより、新型を買った方が安いというシステムができている。絶えず新しい機種を作り出し買い替えという“消費意欲”を造形し、消費を刺激する。古いパソコンはすぐ使えなくなり、反故となったパソコンはただの有害物となって先進国ではもてあましモノとなり、途上国に送られて処理されている。
 消費社会とは大量に必要でもないものを生産し、それを作り出すために資源を搾取して自然環境を破壊し、さらに不要になったモノは有害物質となり、その破棄の過程で自然を汚したり、人を病いをもたらすシステムだ。
 私たちはもはや「簡素な豊かさ」を求めるしか生存できない時代に来ている。
 地球の財力を守ること、必要に応じて使うことでしか自然は再生しないだろう。生態系の破壊は地球大に拡大している。人間が生き延びるためには大胆な再建案が必要だ。
 そこで私たちは現に地球上の各地で実践されている真の豊かさをもとめる運動に注目する。それらの動きは現在、みなバラバラに行なわれているが、その地域の特殊性に応じたやり方で自然環境を阻害しない脱成長運動である。それはまったく統一する必要はない。多様性こそが力なのだ。(2013年5月)

西谷修・東京外国語大学教授
 日本は東日本大震災で多くのことを学んだ。特に原発事故による被害は日本における消費生活というのを抜本から見直された。被災地では人が助け合いながら被災直後を生き延び、都市では節電のなかで暮らしを工夫するなかで、ひとそれぞれが生き方を問い直しなどをしてきた。原発が作り出す大きなエネルギーは都市の夜を照らし出し、さまざまな家電商品を稼動させ生活の快適さを与えていたと思い込まされていた。そのことを原発事故で知らされた。原発は快適さどころか社会を根底から破壊しうるものであることを示してくれた。そうした状況のなかでラトゥーシュ氏の一連の著書が翻訳され、消費社会は麻薬への依存のような構造を示してくれた。
 現在の経済システムは100年先などみない 。1年どころか上半期といった時間で動く。そんなシステムからは地球の未来を到底、見通すことはできない。
 
ラチューシュ氏の新著『〈脱成長〉は、世界を変えられるか?』
 同氏の前著『経済成長なき社会発展は可能か?』で提示した理論の実践的な例を世界各地の活動を紹介し、さらに無駄に消費しない価値観の創出として、「贈与・幸福・自律」の多様性を模索する。カテゴリーでいえば経済学の著書であろうが、アジアで唯一のノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・セン氏の著書がそうであるように領界を超え、経済学の論述で語られた文明論としても読める。グローバル経済の弊害が露呈するなかラトゥーショ氏の「経済成長なき社会発展」論は、もうまったなしで、この時代に生きる人間に対する警告であるかもしれない。 作品社刊。2400円。
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