スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『汚れた心』~ブラジル日系人社会の悲劇を描く

ブラジル日系人社会にもたらした敗戦の悲劇を描いた映画『汚れた心』を撮った
  ヴィセンテ・アモリン監督
汚れた心
 日本の戦争は地球の裏側のブラジルに住む日系人社会にも深刻な影響を与えた。
 1945年8月15日敗戦を受け入れた人たち、この人たちを“負け組”、そして頑なに勝利を信じ信じ込もうとした、いわゆる“勝ち組”とのあいだに惹起された血の抗争があった。同胞同士のテロ行為で多くの死者が出た。この悲劇をブラジル人のヴィセンテ・アモリン監督が撮った。  

 まぎれもないブラジル映画だが台詞の大半は日本語、俳優も日本人。監督は日本語を解さない。そして、日系人社会のあいだでもオープンに語られることなかった悲劇を深い洞察をたたえた人間のドラマとして描いた。
 
 「私自身、自分の国でこんな悲劇があったことを、一編の小説を読むまでまったく知らなかった。小説は日系人が書いたものではなかったので客観性を持っていた。私はこの悲劇に戦争によって翻弄される個人のドラマを描けると思い、小説の映画化の権利を買い準備をはじめた。事件の当事者、日系人への取材は最初は困難でした。黙して語らない、そういう“壁”にぶつかった。けれど、私は、興味本意ではなく、戦争に翻弄された人たちを敬意をもって描くことを理解してもらってから取材ができるようになりました」
 
 アモリン監督は本作の前に、ナチドイツに翻弄される一大学教授の悲劇を描いた『善き人』という映画を撮っている。戦争という大きな状況に翻弄される個人の弱さ、「善意」すらも容易に政争の具とされてしまう悲劇を描いた。

 「人間はみな私的生活を超えたところで、社会的存在として“選択”を強いられることがある。社会が与える強制力に個人はどこまで抗し切れるか、という永遠のテーマがある。私はそれに興味がある。映画の観客の大半は、権力者ではなく市井の人たち。そんな公衆に向って権力と個人の関係を考えてもらいたいとも思っています」
 
 多くの死者も出した敗戦後のブラジル日系人社会は、それでも心の傷を胸底に隠しながら社会的成員として働き、学び、子を育て同国において尊重されるようになった。
 
 「多民族国家のブラジルでは2年一本ぐらい、公用語のポルトガル語がほとんど語られない映画が撮られる。その多様性はブラジル映画の特徴であり魅力だ。この映画はまだブラジルで公開されていません、日本で先行上映され、その評価がブラジルに反映されるはずです。ですから、是非とも、日本で成功させたいと思っていますし、日本人は地球の裏側で起きた同胞の悲劇を知る必要もあると思います」
 
 日本の映画人が今まで何故、こうした日系人社会の抗争を描かなかったのだろう。大戦中、米国における日系人社会の分裂を描いた映画はあった。しかし、ブラジルの悲劇はまだ一顧だにされていない。と思えば、中米のパナマでも、南米のペルーでも、またメキシコ全域に広がっていた日系人がメキシコ市に集められたことなど、大戦中の日系人の物語はまだ文章化されていないことも多々あることに気づく。
 いずれにせよ、日本語をまったく解さないアモリン監督によって完成度の高い映画が提出された以上、日本映画界は重い宿題を与えられたようにも思う。  (2012年春期・記述)
スポンサーサイト

花持つ女たち №42 ラヴィーニア・フォンターナ (イタリア*画家*1552~1614)  職能的な成功をおさめた女性画家

ラヴィーニア・フォンターナ (イタリア*画家*1552~1614)
 職能的な成功をおさめた女性画家

 たとえば米国ワシントン壱にある女性アーティストの作品をだけをあつめた女性芸術家国立美術館の概要が、その収蔵作品ともに日本ではじめて紹介されたのは1990年夏のことだった。96点が紹介された。
 この時、劈頭(へきとう)を飾ったのがラヴィーニアの油彩画2点であり、同展カタログの表紙は、そのうちの1点「貴婦人像」の上半身がトリミングされて飾った。

 ラヴィーニアの生まれ故郷はボローニャ。彼女が生きた16~17世紀の同市には23人の女性画家がいたと記録にあるようだ。という意味では彼女を最初の職業画家とは言い切れないが、少なくともプロとして成功を収めた最初の女性画家のひとりであったことは間違いないだろう。それは「貴婦人像」にそこのことが象徴されているように思う。たいへん立派な作品だ。
 職人としての確かな技巧は疑いない。技巧の充実はすでにして芸術のしもべとして手なずけている。香気に満ちた気品がたたえられている。それは自然に流露している。
 背景の暗色は思索の深さを象徴する。ラヴィーニア30歳前後の作品らしいが、若い芸術家の覇気、男性に伍して、絵筆で立っていくという毅然とした想いのようなものが、いまは名すら逸してしまった貴婦人に託して描かれているように思うのだ。

 こうした肖像画の成功は、やがて当時の画家の名誉であった教会祭壇画の製作に道を開いた。
 それまで男女の裸体をふくむ人間群像が描きこまれることの多かった祭壇画は、慣例的に女性画家が携わることは忌避(きひ)されていた。ラヴィーニアはその因習を実力で克服した最初の画家であった。

マヤのサッカーを解明する新説 チチェン・イツァ神殿都市

マヤのサッカーを解明する新説
マヤ サッカー

フットボール(サッカー)にまつわる話題はラテンアメリカではつきない。特に、メキシコ南部から中央アメリカの北部諸国まで広がったマヤ文明圏では、フットボールは古代まで遡って語られる。

 フットボールの正史では英国を発祥の地としているが、メキシコではマヤのその起源だと主張する。FIFA(国際サッカー連盟)編集・発行の図版を豊富に取り込んだ公認の歴史図説書のなかでは日本の蹴鞠も図版入りで紹介されている。英国を起源とするのは、その地で規格とルールが決められ、それが国際的に拡大し人気スポーツになったからだ。蹴鞠が庶民階級には馴染まなければ拡大しないし、マヤの球技は神聖は神技でとどまる限り、日常化はしなかった。
 しかし、古代球技のなかでマヤ文明圏において重要な球技が競技場の規格、ルール、使用する球に一定の規範があったということでは、もっとも現代フットボールに近いだろう。

 メソアメリカ地域には多くのマヤ神殿都市遺跡が分布し、そこにゴム製のボールを蹴りあったことが確かめられている球技場が必ずある。天然ゴムは原産地は低地マヤ(メキシコ湾沿岸地域の熱帯)とアマゾン流域などだ。ゴムがふんだんに使用できたということでも、球技の発展に貢献したことは確かだ。
 球技場はマヤ文明にとって貴重な祭事場であった。その球技場はその都市の規模におうじて観客席も設けられていた。貴顕は必ず臨席する。考古学者の発掘・再建事業では、主神殿なみに球技場の復元なども慎重に行い、それにともなう新発見もまれではない。
 最近もメキシコ南部、いわゆる低地マヤ地域における、もっとも高名な神殿都市チチェ ン・イツァから注目すべきニュースが飛び込んできた。
 この神殿都市の球技場は規模の広壮さで有名なところだが、ここで再建・修復事業に携わっていたメキシコの学術グループが、壁面建造物の一角から太陽の運行に関するマヤ天文学に関する5つの刻印を発見した。その刻印を解読・解明を進めていた考古学者らが、
 「春分ないしは冬至を示しており、サッカーはマヤにとって掛け替えのない作物であったトウモロコシの収穫に関する神への奉納行事として行われていたことを示している」とする学説を、アメリカ大陸で最大規模を誇るメキシコ市の国立考古学博物館で開催されている「考古学に関する書籍市」で10月4日、考古学者ホセ・ウチム・エレェーラ氏が語った。
 チチェン・イツァの広大な神殿遺跡は暦のそのもといってよい執着性、それの可視化に成功した建築史においても重要な存在だ。主神殿の中央聖壇の両翼に、春分と秋分の日だけ作られる影が、表われる。太陽の運行にそって、その影がうごく。その巨大な影がマヤの最高神ケツァルコアトル(羽毛を持つ蛇)となるのだ。それを建造物に実現した天文学、建築技術のマヤ文明の凄さ、エネルギーに畏怖するしかない。

 マヤ文明で現在、解明されている事実は、 壮大な歴史の10%にも満たないと言明する考古学者がいるほどいまだナゾだらけの文明だ。
 マヤの球技も諸説あるが、これまでは近隣都市国家間で戦われた、一名「花戦争」と呼ばれる、イケニエの犠牲者を獲得しつつ勢力範囲を拡大するための戦争における戦勝祝い、とする説が有力だった。それは今後も語られつづけるだろう。その説とは敗軍の青年たちを捕らえた後、球技に興じさせ、勝ったチームの青年たちが太陽のイケニエにするにふさわしい気力の持ち主として供物になったとする説だ。その犠牲となる青年も、それを高貴な行為だと受け入れた。
 ここにまた、トウモロコシの収穫祈願とすればまた違ったマヤ像が構築される。
 現在、内戦の終わった中米グァテマラでも多くの遺跡で発掘調査が行われており、日本でいえば高松塚古墳の 発見並みのニュースが飛び交っている。隣国のエル・サルバドルも内戦後、ホヤ・デ・セレン遺跡が世界遺産に登録されなど独自の進展をみせている。
 そして、新発見のたびにマヤ文明のナゾが解明されるのではなく、新事実を前にそれまでの説、特に歴史的な時系列が狂い、ますますナゾは深まるというのがマヤ文明の“現在”なのだ。極言すれば、昨日出たマヤに関する研究書も、今日には古くなる……。内戦中にグァテマラ政府が軍部と協力して作成したB4全紙版で4組の巨大な地図を購入した。この地図に数えるのもあきれるほどのマヤ遺跡が記されていた。規模の大小を問わず、掲載されているのだ。その数、数千とかいいようがない。むろん、考古学者が何らかの調査を試みたのそのほんの一部だが、歴代の盗掘者はそのほとんどをあばいているだろう。  (2013年記)

“メレンゲの女王”オルガ・タニョン、中南米ツアーへ

“メレンゲの女王”オルガ・タニョン、中南米ツアーへ
オルガ

 “ムヘール・デ・フェゴ”燃える女、との異名をもつメレンゲ歌手オルガ・タニョンが5月9日、コスタ・リカの首都サンホセ公演を皮切りにチリ、ペルー、グァテマラ、そしてカリブの島国キュラソーを巡る中南米ツァーをはじめる。
 ツアーを題して「ア・ビブラール」。揺らす、震わす、音を発する……あたしの歌で観客を酩酊させると言っているのだ。今年48歳もオルガは枯れないいまも“燃える女”である。

 ツアーに従えるのは、中米ニカラグア出身で現在マイアミを拠点に活動するルイス・エンリケ、プエルトリコの同胞ヒルベルト・サンタ・ロサという豪華版。エンリケもサンタ・ロサともむろんソロコンサートを張る実力歌手だが、オルガ“女王”は彼らを両翼の臣下にした。

 メレンゲはドミニカ共和国の民俗音楽だが、そのルーツは隣国ハイチ。ドミニカに移植され20世紀の後期にはいってジョーニ・ベントゥーラが現代風俗、社会批評を加えた音楽として一挙にドミニカ大衆音楽のメジャーとなり、近隣国へ波及した。国際的な知名度でいえばドミニカ人より、女性ではオルガ、男性ではエルビス・コレスポとプエルトリコ勢が目立つのが現勢。

 オルガのコスタリカ公演は2012年以来、2度目となるが、彼女自身の長期のツアーは珍しい。オルガの外国でのコンサートということでは比較的記憶の新しい2009年9月、キューバ・ハバナの革命広場での「パス・シン・フロンテーラ」平和に国境はない、と題されたコンサートへの参加を想いだす。
 コロンビアのフアネス、スペインのミゲル・ボセ、キューバのシルビオ・ロドリゲスらと共演したものだ。同コンサートにおいてオルガは唯一、米国のパスポートで参加したアーティストであろう。

 昨年暮、キューバと米国政府間で国交正常化のための交渉が開始されることが決まり、相互に政治犯が釈放されるといったことが実現したが、オルガはそれ以前に、自身の米国において興行的に不利益を受けるかもしれないという状況のなかでハバナ・コンサートに参加した意味は大きい。それはオルガ自身が自分の大きさを自覚し、米国の“敵国”キューバで歌っても自分の位置は微動だしないという自負があったのだろう。どうじにカリブ海から緊張を取り除きたいという社会的な使命感もあったかも知れない。
 いま、キューバと米国間の雪解けをみてシイ・フロンテーラを地でいくツアーは「平和」を讃歌のものとなるだろう。

聖鳥ガルーダを映像で“飼育”する野心*映画『ガルーダ』

聖鳥ガルーダを映像で“飼育”する野心*映画『ガルーダ』
  モントン・アラヤンク監督
GarudaPoster3.jpg
 ヒンドゥー教の聖典を解説した書物のなかで、ガルーダは聖なる鳥として次のように解かれる。
 〈その身体は人間の姿をし、頭とくちばし、翼とつめだけが鷲のそれに類似している。顔は白く、翼は赤く、身体は黄金に輝いている〉と。
 もっともインドの生誕地から離れ、遠く飛翔し、各民族の習俗と交わって土俗化していくなかで、ガルーダの姿態も変化した。映像のなかに造形されるとき、その習俗になじんだ姿態になるのは必然だろう。しかし、日本でゴジラを造形し、その卓抜なアイデアと破壊力で国際的に認知されたとき、ハリウッドですら日本版ゴジラを踏襲せざるえなくなる。先行してアイデアを特許化したようなものだ。タイ映画『ガルーダ』は南アジアにおける汎神であった“聖鳥”を先取りしてスーパーモンスターのヒーローに仕立てたことで、映像の特許権を獲得したようなものだ。その意味で神話のなかにガルーダが飛翔する地域で今後、ガルーダを主人公とするとき本作は無視できない先行例となってしまった。

 西欧の植民地支配を免れたタイは、大戦後は死者の出る政乱を繰り返し、少数民族との武力衝突があったにせよ域内では比較的穏やかに経済発展を遂げてきた。おそらくタイ民族を統合する象徴としての国王、王朝の悠久の歴史に対する畏敬の念が民衆のあいだに根付いているからだ。政治的な国論の対立が血を流しても膠着状態に陥ったとき、それを慰撫する言葉は国王から出される。そうして対立も融和されてきた。フランコ将軍の死によってながくつづいた軍事独裁から抜け出したスペインにあって、社民主義の社会労働党が選挙に勝利したとき、その政治的な混乱も沈めたのも国王の権威だった。

 社会生活の平穏は娯楽産業を発展させるのは必然だ。映画はその有力な担い手となる。
 東南アジアでは香港が巨大な中華民族をマーケットにすること映画産業を発展させたが、東南アジア諸国もそれなりに、国内向け産業として発展させてきた。
 本作『ガルーダ』を観て、タイの映画産業の充実ぶりを今更ながらに確認できた。アート性では東南アジアではフランスに大きな影響を受けたベトナム映画のほうが優位にあるだろうが、 娯楽性ではタイ映画だろう。そのタイ映画のテクニイカルな充実ぶりを証明したのが『ガルーダ』だった。

 ガルーダは古代インドの神話を始原とする。火炎のように輝き熱を発する神鳥である。ヒンドゥー教の伝播とともに東南アジア地域まで飛翔したガルーダはタイとインドネシアで国章となり、はるかモンゴルの首都ウランバートルの都市紋章となっている。つまりガルーダの破天荒な神通力はゴジラ並みのパニック映画の主人公として、東南アジアならどこでも使えるわけだ。ヒットすれば、ゴジラ並みにシリーズ化も可能なわけだ。それにタイ映画界は先行して成功した。CG多様のモンスター、パニック映画を散々な観てきた者にとって『ガルーダ』にさほど新味があるわけではないが、完成度は高い。その証拠に国際配給された。

 神話における秘儀性、民族の習俗との関わりなどをストーリーのなかに取り込めばよりアート性が高くなったと思うが、そこまでは到達していない。しかし、ヒンドゥー教の彫塑のなかで静止しているに過ぎなかったガルーダに運動性をあたえた独創、アイデア、デザイン力は映画スタッフの優秀性を証明するし、実写とCDとの合成も見事だし、音響、音楽も効果的だ。
 ストーリー的には、バンコクの地下に眠るガルーダが蘇生し、全貌が明らかにされるまでのミステリアスな前半は独創を感じるが、中盤以降はアクション映画の範疇のなかに収まってしまったのが惜しまれるが、そのアクションシーンは平凡というわけではない。
 ガルーダを取り巻く人間模様だが、主人公はフランス系タイ人女性。美人というより可愛い少壮考生物学者という設定で、このあたりにわかに在りえない、とは思うが、そこは娯楽映画、すなおに楽しんでしまおう。それにかなり魅力的だ。国際的に通用するエキゾチックな雰囲気もある。ただ、ハーフの主人公を主人公に据えてしまうと、彼女の血を遡るようなタイの歴史の奥深さを物語には盛り込むことは至難となってしまう。今後の課題だ。
 その少壮古生物学者リーナを演じたサラ・レッグは注目。

「ククルゥクク・パロマ」のロラ・ベルトラン

「ククルゥクク・パロマ」のロラ・ベルトラン、生地での顕彰
ロラ・ベルトラン

 ラテン歌謡の定番曲「ククルゥクク・パロマ」。この歌をドラマチックな解釈で国際的な名歌として育てたことで知られるカンシオン・ランチェーラの名花ロラ・ベルトラン。その没後19年を命日、メキシコ北部州シナロアの生地クリアカンで顕彰の記念コンサートが3月26日から28日まで開かれた。

 「ククルゥクク・パロマ」はロラ以前に多くの女性歌手が取り上げてきた名曲だが、彼女の歌でいっきに国境を超えた。
 映画、メキシコ映画が黄金期を迎えた時期はロラの最盛期と重なり、スクリーンのなかで演唱したからだ。そして、ラテンアメリカ諸国でも親しまれ大衆化した。最近の「ククルゥクク・パロマ」の演唱も映画のなかにあった。スペインの名匠ペドロ・アルモドバル監督のアカデミー脚本賞など各国の映画祭で高い評価をうけた映画「トーク・トゥ・ハー」。そのなかでブラジルのカエターノ・ヴェローゾが歌った弾き語りの歌は素晴らしかった。彼の歌で名曲にはじめた接した世代もあるだろう。彼の演唱、その骨格もロラ様式を踏襲している。
 さて州都クリアカンで行なわれる記念コンサートでは地元の大学オーケストラが出演、地元の民俗舞踊団ロス・エルマノス・ロメロなども参加し祝祭的な催しとなった。同時に、ロラの遺児たちも審査委員に加わって、「ククルゥクク・パロマ」に特化した歌唱コンクールを行なわれた。なにやら「江差追分」に特化した北海道江差の民謡コンクールを思い出させる。メキシコではかくも「ククルゥクク~」が愛唱されているということだ。

 この機会にメキシコのランドマーク音楽、世界遺産にも登録されたマリアッチ。その歌唱をカンシンオン・ランチェーラというが、その女性歌唱の分野の創唱者といってもいい才能にルチャ・レイエスがいた。悲劇的な自死を迎えたルチャの後の不在を見事にうめたがロラ・ベルトランだった。メキシコ市のマリアッチの聖地といわれるガリバルディ広場には歴代のランチェーラ歌手の銅像が建っているが、女性歌手ではロラだけだ。

 メキシコ映画黄金期に歌手としての成長期を迎えたロラは50年代初頭から60年代、多くの映画に出演している。客演的に歌だけ披露するものも多いが女優として主要な役を演じている作品も多い。
 その共演者にはアルゼンチンから“エビータ”ことエヴァ・ペロンに追い出され失意のなかでメキシコにたどりつきブニュエル映画に出演することになるリベルタ・ラマルケ、フランス映画『フレンチ・カンカン』などにも主演したマリア・フェリックスなど往年の名優たちのリストのようなものだ。「ククルゥクク・パロマ」もそうした映画に主演し歌ったことによってラテン諸国のスクリーンでおなじみの歌となったのだ。全盛期、ロラは「カンシオン・ランチェーラの大使」といわれた。日本ではわ かりやすく「マリアッチの大使」と訳されていただろう。そうした異名が与えれたのも映画の力が大きい。
 今日ではロラの主演した映画が再上映されることはフィルムライブラリーでしかないが、その歌う映像は貴重な資料となっている。
 2008年、メキシコ・ワーナーから239曲を収録した20CDを収めた決定版の歌唱集が発売されている。
 (2015年4月記)

花もつ女たち №42  奥原晴湖 (南画家*1837~1913)

花もつ女たち №42
 奥原晴湖 (南画家*1837~1913)

 今ではほとんど忘れられた南画家 。正確には大衆的な支持を失って久しいということで、美術史的にはそれなりの位置を占め、幕末から明治初年代の記述においては異彩を放っている。晴湖の画業そのものが軽んじられているわけではないが、大衆的な支持を失うと必然、画廊の扱いも減り、マスコミで取り上げられる機会も失う。

 しかし、晴湖の作品は一時的な“不遇”にあると解釈したいし、その画業の大きさを畏敬する在野の研究者も存在する。
 晩年、東京の画房を引き払い、北埼玉の熊谷に移った。その地で約20年余を過ごす。中央画壇の喧騒、いや、明治初年代の新東京の喧騒から逃れ、田園に囲まれた静穏のなか南画本来の理想を求めて精進をはじめる。爽やかな画境に達する。

 晩年の秀作は熊谷、故郷の古河(茨城県)に遺されたということ、東京ではなかなかまとまって観られないということで、晴湖の復権を遅らせているのだろう。しかし、近代日本が生んだ代表的な南画家として、男性が圧倒的に優越的な位置を占めていた南画檀(今日でも状況は変わらないが)のなかで晴湖ほど研鑽(けんさん)を積み、奮闘努力した人もいないだろう。それは起伏に富んだ一編の物語となる。

 『月瀬梅渓図巻』という晩年の秀作がある。
tukigase 奥原 古河歴史博物館所蔵

 東京から熊谷に転住して数年後に描かれたものだ。奥行きの深い山容を描き、初春の澄んだ陽射しのなかに山麓の梅林を望んだ気持ちのよい眺望図。晴湖のひとつの到達をみる思いがする。
 その初春美を眺めていると、士族の娘に生まれ、幼い頃から薙刀(なぎなた)、剣道、柔術に親しみ、長じて断髪、男装で画壇を睨睥(へいげい)した時代もあった晴湖のことなど、どうでもいいように思えてくる。

 明治初年代、晴湖の画塾は現在の山手線・御徒町駅付近にあり、そうとうな屋敷であったと記録にある。なにせ、その最盛期には門人300人を従えていた、そんな勢いのあった晴湖である。女性の身で、である。これだけでも美術史に刻印すべきことだろう。
 その画塾には明治の元勲も訪れていたといわれる。

 晴湖や、南画の衰退は、維新政府のお雇教師であったフェノロサの美術嗜好、ある意味、偏愛でもあったが、それにはじまった。フェノロサは画幅に漢詩を詠い込み記す東洋の審美眼を嫌った。晴湖は漢詩にも親しんだ詩人でもあった。

マルビナス紛争を描いたアルゼンチン映画

マルビナス紛争を描いたアルゼンチン映画「ステイト・オブ・ウォー」(トリスタン・バウアー監督)

DVD.jpg

 陰々滅々とした話だ、と思えば覚悟をもってみられるだろう。
 シリアスという言葉で比喩することも可能だが、そういう醒めた客観性は薄く、話に手触りの質感がある。それは南米アルゼンチン映画の特徴のひとつだ。アルゼンチンに現実にあった〈政治〉を素材にして描くとグレーな寒々とした心象光景となってしまう。

 アルゼンチンはエビータこと、エヴァ・ペロンの死後、ながい政治的混乱期に入る。軍事独裁時代がながかった。スペイン語に「デスアパレシード」という言葉がある。直訳すれば「行方不明者」だが、「政治的に抹殺された死者」という意味ももつ。長い軍事独裁下で多くの民衆が「デスアパレシード」になった。日系人の犠牲者もいる。その軍事独裁政権が崩壊するきっかけとなったのが、1982年4月、南大西洋洋上のマルビナス諸島で起きた武力紛争だった。短期間に多くの犠牲者が出た局地戦争だった。
 アルゼンチン独立以来、主権を主張してきた英国が実効支配する諸島にアルゼンチンが主権を主張して軍事侵攻して起きた紛争だ。日本では「フォークランド紛争」としてしられる。本作は、その「紛争」を描いたアルゼンチン映画。敗者となったアルゼンチンの帰還兵の視点から撮られている。酷寒の地で寒さと飢えに苦しみ、痩せた地を這いずりまわる歩兵の視点だ。
 日本では劇場未公開のままDVD化された映画。日本人にとっては遠い国の小さな紛争ということで、すでに現代史の狭間に埋もれてしまっているだろう。劇場公開しても客は呼びこめない、商業的価値の希薄な映画だと・・・しかし、第二次大戦後、いわゆる西側、市場経済を志向する英国とアルゼンチンが戦火を交えた特異な紛争として歴史に残るものだ。

 アルゼンチンの武力で諸島を制圧すると、当時のサッチャー英国政府は、空母2艦、原子力潜水艦を含む本格的な機動艦隊を送り込んだ。装備に誇る英国軍が装備も低劣で士気もあがらないアルゼンチン軍を対して、苦戦する。3ヵ月の戦闘で英国軍は300人近い死者、約800人ほどの負傷者を出し、2隻の駆逐艦、34機の航空機を失うなど大きな損害を蒙った。アルゼンチン軍の死者は約650人、負傷者1000人以上、失った航空機は100機以上だ。
 という戦績をみればアルゼンチンでその紛争を取り上げれば当然、寒々とした挿話の積み重ねるになるのは仕方がないところだ。

 マルビナス紛争の後、アルゼンチン兵士たちは本国に帰還した後、多くの者が戦争後遺症に悩まされる。300人近い帰還兵が自殺した。異様な数だ。ベトナム戦争後、米軍の帰還兵からも多くの自殺者が出ているが「戦争」の規模からすればアルゼンチンの帰還兵の自殺は異様な比率だ。映画も、ふたりの帰還兵の視点から回顧される。ひとりは自殺し、ひとりは自殺した帰還兵の戦友という立場だ。その戦友が語り部となって戦争が回顧される。マルビナスにロケも行なわれ、戦闘の残骸もある戦跡でも撮影されている。
 紛争では当時のハリア戦闘機や原子力潜水艦など最新鋭の兵器が実戦に投入されたが、そうした事実は映画ではニュースフィルムで経過説明の程度にしか語られず、もっぱら極寒の島で身を竦めながら過ごす歩兵に寄り添って語られる。

 マルビナス紛争は、当時のアルゼンチン軍時独裁政権が経済政策の失敗から国民の目をそらすために冒険的に拙速ではじめたものだが、迎え撃つサッチャー英国政府も労働者に過酷な犠牲を強いた構造改革で陰りをみせていた。そういう両国の政治状況のなかで、いわば起死回生の好機とみて巨額の戦費を調達して交戦に入ったわけだ。
 このあたりは名優メリル・ストリープがオスカーを獲得する名演技をみせた映画『マーガレット・サッチャー』(フィリダ・ロイド監督)のなかでも描かれている。
158027_1.jpg

 『ステイト・オブ・ウォー』のDVDの解説はマルビナスを採用せずフォークランドで統一している。アルゼンチン映画だから、「マルビナス(フォークランド紛争)」ぐらいの表記はしてもらいたかった。スペイン、ポルトガル語圏、つまり中南米諸国ではどの国でもマルビナス紛争が歴史的用語として定着しているのだから。
 アルゼンチン、いや中南米諸国の多くでは、この紛争においてラテンアメリカ諸国の擁護者とみていた米国への不信感を募らせた。米国の主導で創設された米州機構への信頼も急速に冷えた。域内で紛争が起きれば、米国は機構加盟国の立場を擁護することを前提に中南米諸国をまとめたはずだったが、英国に加担した。そういう意味でも同紛争が域内に与えた政治的意味は大きい。また軍事史的にみれば、垂直上昇できる戦闘機ハリアがはじめて実戦の場に登場し、原子力潜水艦(英国)が実戦を交えた等、特筆されるべき戦績を遺すことになった。英国は紛争後、ハリアの生産が加速される。多くの国が購入することを決めたからだ。英国の軍事産業にとって紛争は商業的なデモストレーションの場になったわけだ。
 そして、アルゼンチンの軍事独裁政権は崩壊し、民主化が実現し、エビータも復権した。そして、アルゼンチン国民のなかに根強くあった西欧文化に対する親密感は薄れ、ラテンアメリカにおける民族性を真摯に模索するようになる。
 紛争後、経済の疲弊はつづき、民衆は日々の暮らしに終われ、心に傷を負った兵士たちを忘れた。映画は、そんな兵士たちを復権させる試みともなっている。 (2005年*100分)

花もつ女たち №41 クレオパトラ (王女 エジプト BC70または69年~BC30年)

№41  クレオパトラ (王女 エジプト BC70または69年~BC30年)
クレオパトラ

 2000年、ドイツ・ベルリンのエジプト博物館が所蔵するパピルス古文書のなかから、「クレオパトラ直筆の文書がみつかった」と発表された。同博物館の研究によって“状況証拠”を積み重ねた結果、直筆とされた。

 文書の内容は、紀元前31年、ローマ軍人カニディウスにエジプト貿易にともう関税を免税とするという裁可であるらしが、それは免税特権という賄賂(わいろ)を意味するものらしい。
 クレオパトラは、女王としてギリシャ文字で「かくあらしめよ」と記したのだ。
 「書」の芸として記されたものではないが、そこにクレオパトラ七世フィロバトルという女性の息遣いがこめられているという意味においては、確かに貴重な個人的営為の印(しる)しであろう。
 現在、筆者名が判明している女性による最古の筆跡でもある。

 中国には4000年前、殷の時代の甲骨文に女性の手になるものがあるだろう。しかし、女性名が伝わるのは紀元3世紀、晋の時代の衛鑠(えいしゃく)のもとされる『与師帖』が伝わるのが最古。日本では、7世紀から8世紀末の古今集時代のかな文字の成立期まで待たなければならない。その意味でもクレオパトラの署名は、歴史的に特異な位置を占める。
 「かくあらしめよ」の一句は権力者の言葉としては常套句であろう。

 われわれが古代エジプト文明の栄枯盛衰の歴史をピラミッドや、たぐいまれな独特の様式美をもつ芸術作品の鑑賞を通して知る。それらを作品には、それを作らしめた絶対的権力の大きさが後背の光となっている。そこにクレオパトラもいた。

 「かくあらしめよ」・ ・・細部、詳細の詰めはしかるべき者が処置するであろう、「こんな些事でわらわを煩わせるな」という尊大な響きすら感じるのは筆者ひとりではないだろう。 その時、ふと男を惑わしたとされるクレオパトラの鼻梁のカタチをふと想像したくなる。

北欧フィンランドが対ソ連戦「冬戦争」を描く2本の映画

北欧フィンランドが対ソ連戦「冬戦争」を描く2本の映画
 『ウィンター・ウォー』、『4月の涙』

 ソ連邦の解体後、フィンランドでいまやっとわが民族の英雄たちの戦いを映像で追悼できると2本の映画が制作された。2本とも民族の威信が賭けられている、と思わせる熱さがあった。
 革命ロシア、正確に言えばスターリン独裁時代ということになるが、ソ連共産党政府というものがいかに他民族に対して排他的であり、かつ国境を接する小さな周辺国を貢国としかみなしていないコミュニズム帝国主義というべきものが柱となっていたことが分かる。
 ウィンター・ウォー
『ウィンター・ウォー(冬戦争)』(ペッカ・パリッカ監督)は1989年の制作だ。ベルリンの壁が崩壊(同年11月)前に企画・制作されていたことになる。つまりフィンランド映画人はゴルヴァチョフ政権が進めるペレストロイカによって加速するソ連邦の緩み、東欧諸国の激動、クレムリンの内部分裂等を定点観測しつつ長年、民族的な憤怒の歴史として心の奥底に秘めていたフィンランド民族史に真正面から白夜の光を照射しようとしたのだ。
 1939年~40年の「冬戦争」でフィンランドの多くの若者が雪原に斃れた。ソ連赤軍の侵略に対して戦い抜き、圧倒的な人海戦術で責める赤軍を身を挺して食い止めた「冬戦争」の叙事詩を描いたのは本作。日本で発売されたDVD版は125分だが、本国では195分の長尺版で公開されたということだ。
 侵略するソ連赤軍の総力は兵士50万、2千門の大砲、戦車2千500輌、300機の空軍も加勢というものだった。これに対して映画の冒頭で描かれるが、フィンランド軍というものは、徴集された兵士に行き渡る軍服すらなく、歩兵の平均装備はボルト式単発ライフル銃、戦車はわずか数十両、戦闘にまともに使える飛行機はわずか数十機でしかなかった。兵士に対する訓練すら、まったく不十分といった状況で、若者たちは前線に送り出された。そんな劣悪貧弱なフィンランド軍は赤軍の猛攻に耐え忍び独立を守った。赤軍はフィンランド軍の約10倍の犠牲を払ったという。
 映画に当時の戦争でフィンランド軍が捕獲した武器、戦車や戦闘機も含めて博物館などから引き出され、冬戦争当時の塗装をあらためて施して撮影に狩り出されたという意味において、この映画にフィンランド政府も深く関わっている。その意味でも国家の威信をかけた映画だということだ。それもソ連崩壊と同時に制作されたという意味でもフィンランド民族そのものが、長年、胸底に抱えてきたソ連=ロシアに対する憎悪を解放させた映画とみることができる。
 映画には突出したヒーローというものは登場しない。物語を進行させる語り部といった役を担当する予備役から狩り出された中年兵士が強いていえば主人公となるが、彼も塹壕から塹壕を這いつくばり、爆風に白衣の迷彩服もズタズタにされ、戦死したロシア兵のライフルから銃弾を抜き取り応戦するという地を這う一兵士に過ぎない。次々と斃れてゆく戦友のなかで最期まで戦い抜き、戦場のありようを証言できる数少ない証人として登場しているに過ぎないのだ。英雄とは、この戦争に参加したすべてのフィンランド兵士と監督は語りつづけているのだ。
 圧倒的な物量に対してフィンランド軍がよく抗し切れたのは国土を身を挺して守り抜くという気概、そして地形を把握して地勢をたくみ活用したゲリラ的戦法ということもできる。付け加えれば、赤軍のなかには命令とはいえ、この戦争が、弱小国に対する「侵略」の淀みがあることを感じているところもあったはずだ。それは士気を減じるものだ。映画のなかにもそういう心性をもった若い赤軍兵士を登場させている。
 戦争は、レニングラード(現サクトス・ペテルブルグ)の防衛のためにフィランド南方カレリア地方をソ連に譲渡しろ、というのがソ連政府の横柄な要求ではじまった。それを断固、拒絶したフィンランドに対して、懲罰的に侵攻した戦争であった。後年、ハンガリーやチェコで起こった民主化運動を戦車で押し潰した手法と変わりない。ソ連共産主義というものは、そういうものだった。
 その「冬戦争」の前哨戦というべきフィランド内戦を描いた映画に『4月の涙』(アク・ロウヒミエス監督)がある。
 4.jpg
北欧の小国フィンランドの近代史はスウェーデンから帝政ロシア領へと変移する屈従のものだ。1917年、ロシア革命によってロマノフ王朝が倒されるとフィンランドでは独立の気運が高まり、民族の悲願を達成する。しかし、独立後の政権をどのようにするかで対立した。ロシア革命の影響はフィランドの都市労働者たちは独立を維持したままソビエト連邦への参加を求め、資産階級はスウェーデン、ドイツへ助力を求めた。これによって武力衝突が置き、独立フィランドは内戦へ突入してしまった。この内戦を実相を双方に傾斜しないように描いた作品だ。近隣の大国に翻弄される小国の悲哀はよく描かれているし、日本人には知ることがなかった「内戦」を教えられた。
 ソ連軍の軍事侵攻ではじまった「冬戦争」だが、その時、クレムリンはフィンランドには「内戦」を闘った親ソ派がまだ根強く残存しているだろうという安易な思惑もあったのではないか。しかし、独立後の約20年のあいだに両国をめぐる国際情勢は変化し、フィンランドに民族精神が確立していた。それをクレムリンは軽視した。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
03 | 2015/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。