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バチャータを牽引するロメロ・サントス

バチャータを牽引するロメロ・サントス  ~ドミニカ系米国人
ロメロ・サントス

 ドミニカ共和国の音のランドマークはメレンゲだが、バチャータの人気もファン・ルイス・ゲリラと、その一統4:40(クワトロ・クワレンタ)のグローバルな成功で、注目されるようになった。いま、そのバチャータの世界で最大の人気者になっているのがロメロ・サントス。4月の中旬、中米グァテマラ、エル・サルバドルをツアー、熱狂的なステージを展開した。
 
 もともと中米地峡諸国はファン・ルイス・ゲリラの最初のグローバル・ヒット『バルブッハ・デ・アモール』を受け入れた地域だ。内戦期、政情不安定な地域のなかに、その曲は清涼飲料水のように大衆に浸透したのだった。
 そのファン・ルイスの都会的な香りのするバチャータの涼味を継いだロメロ・サントスの歌が中米で好まれるのは必然だった。サントスのツアーは中米から南米ペルーへと足が延ばされた。
 
 サントスのヒット曲のひとつ「プロプエスタ・インデセンテ」はタンゴのバンドネオンの音が巧みに取り込まれた都市感覚のあふれたもの。「ユウ」というヒット曲は90年代の風通しのよいリズムで歌われるノスタルジックな風味のバチャータ。ともかく心地よいのは特徴だ。
 
 ドミニカの豊かな自然美の香りがただよってくるサントスのバチャータだが、彼自身は米国ニューヨーク・ブロンクス生まれの米国人だ。そんな彼が両親の血をたどって自己表現手段としてバチャータを選択、米国ヒスパニック社会で成功し、ファン・ルイスをして後継者と言わせた実力者となった。

 ラテン・ポップスの世界では、ファン・ルイスの成功以来、サルサやメレンゲ、あるいはレゲトンのような音の厚みのある音楽に食傷した層が、より歌詞に力点をおいた心地よいバチャータのリズムに身を浸したいと思う層がふえているようだ。
 ひと頃、リッキー・マルティンの人気に迫るかと思われたエンリケ・イグレシアスなどはいま、サントス的なバチャータを歌っている。昨年のヒット曲「エル・ペルデドール」などはエンリケ解釈のバチャータであった。

 ドミニカ出自のバチャータもファン・ルイスの成功と、米国生まれのドミニカ系青年たちの新しい感覚を取り入れて現在、ラテン・ポップスのメインストリートを闊歩しはじめたように思う。その雄弁な先行者がロメロ・サントスに間違いないだろう。
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ペペ・アギラール、マリアッチ、一方の雄

ペペ・アギラール、一方の雄
 *前回、アントニオ・アギラールを紹介したので、その子ぺぺについても書き継いでおこう。
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 やはり恰幅のいい男が似合う。それがメキシコ大衆音楽のランド マーク、マリアッチ(ユネスコの文化遺産に指定されれている)、その歌唱と してのカンシオン・ランチェーラ の担い手は美形ではなくヘフェ (統領)といった風格が欲しい。
  メキシコ牧童の盛装チャロが似合 う風貌が求められる。ぺぺはそれ を完璧に身につけている。
 
 現在、カンシオン・ランチェー ラの男性歌手における左右の両翼がアレハンドロ・フェルナンデスとペペ・アギラールだ。
 5月31日、メキシコ市でもっ ともキャパシティの大きなアウデトリオ・ナショナル劇場での公演を控えるぺぺが最近、米国ロスアンジェルスで地元マスコミの取材を受け、自らの芸能生活を振り返る興味深い発言をしていた。
 ランチェーラ界で一世を風靡し た父アントニオ・アギラールと、メキシコ映画の華であった母フロ ール・シルベストレとの間に生まれたサラブレットのペペ。しかし、両親の名の大きさ重石となったか、 “怒れる若者”は両親に反発してパンクロックバンドを結成、都市部の若者からそれなりの支持を受ける活躍をした。
 しかし、所詮、彼にとってのパンク は寄り道であった。ある意味、虚勢。体内に受け継いだ遺伝子に呼び戻されるように破れジーンズを脱ぎ、よれよれTシャツを捨てると、チャロに着替え朗々とランチェーラを歌いだし、たちまち才能を開花させた。
 「ロックを捨てのはあくまで私 自身が決めたことだ。周囲から強いられたことではない」
 アレハンドロも偉大なビセンテ・フェルナンデスの子だが横道に、カンシオン・ランチェーラの王道から逸れずに人気者になった。
 「これまでの25枚のアルバムにはロック 時代のものもあり、私の芸歴そのものを物語っている。むろん、私 ひとりが選択した音楽とはいえないが、その成功でお金が入り、どうじ周囲の雑音もおおくなった。私ももう46歳。これから作曲にも力を注ぎたいと思っている」
 すでにグラミー賞も、ラテ ン・グラミー賞を複数獲得している実力派だが、日本では知る人は少数。アレハンドロがグロリア・エステファンをゲストに迎えてマイアミで制作したアルバムがソニーから発売されているが、ペペの本格的な紹介はまだないのが残念だ。

 時代はすでにペペ、アレハンド ロを継ぐ才能を育てなければいけない時期に入っているが、まだ二人を脅かすような突出した才能は出ていない。 

アントニオ・アギラールを讃える国家規模のイベント

アントニオ・アギラールを讃える国家規模のイベント
アントニオ・アギラール

 7月7日、アントニオ・アギラール(1919~2007)を讃えるイベントがメキシコ市の国立ベイジャス・アルテス劇場にカルデロン・メキシコ大統領をはじめとする各界著名人が参加して行なわれた。

 大戦後、メキシコ音楽を牽引したランチェーラ(*)、しかも演技もできる有能な人材が陸続と輩出した。メキシコ映画黄金期である。
 ペドロ・インファンテ、ハビエル・ソリス、ホルへ・ネグレテ、そしてホセ・アルフレッド・ヒメネス。しかし、インファンテが飛行機事故で夭折するなど、みな病死などで若死にした。それ以後、ビセンテ・フェルナンデスが登場する間隙をひとりランチェーラ界を支えていたのがアントニオ・アギラールという大きな才能だった。
  *日本でよく知られるマリアッチとは、歌手をささえる独特の顔楽器編成をもつ伴奏集団をいう。その伴奏にあわせて歌をカンシオン・ランチェーラという。

 フェルナンデスの全盛期もアギラールは玄人受けする歌手、俳優として独自の道を歩いた。日本の紹介がほとんどなかった才能だが、唯一、メキシコ映画『価値ある男』が紹介された時、アギラールは助演男優として注目を浴びた。映画は全盛期の三船敏郎がメキシコ南部サポテカ先住民の粗野な農夫役を演じたドラマだった。アギラールの存在が日本で知られたのは、その時だけだろうが、メキシコでは誰もが知る大スターだった。これまで、さまざまなところで顕彰されてきたアギラールだがメキシコ芸術の本拠地として知られるベイジャス・アルテス劇場で讃えられるのははじめてのこと、遅きに逸した観もある。

 生涯1500曲の歌を録音し、100本以上の映画に出演した。映画では製作も担当し、自ら書き下ろした脚本も少なくない。共演者リストをみればメキシコ映画界の名優たちが網羅されている。そういう大きな才能だった。 また人権問題に関心深く、メキシコにおける人種差別問題の解消にも尽力したことでも知られる。それは米国におけるラティーノ系市民に対する差別的状況に端を発し、マーチン・ルーサ・キング牧師の暗殺事件にも影響された。そうした人柄もメキシコ国民に広く愛された大きな要因だろう。

 ベイジャス・アルテス劇場の祝賀行事では同劇場のオーケストラがアギラールの往年のヒット曲を演奏し、メキシコを代表するテノール。フェルナンド・デ・ラ・モラが歌った。またサカテカス州の出身ということで同州知事も参列し、アギラールの子でアギラールJrがサカテカスの歌を披露するというプログラムも組まれた。
 生前、日本でほとんど紹介されることのなかったことが悔やまれるが、メキシコ大衆音楽史に欠かすことのできない才能であったことをあらためて強調しておきたい。彼の息子、ぺぺ・アギラール(1968~)はいまやランチェーラ界を背負って立つ中堅、いや重鎮といってもよい貫禄をもったアーティストとして育っている。映画には父ほどの関心を示さず歌一筋で活動している。  (2012年7月記) 

キューバ=コスタリカ国交問題

 コスタリカとキューバの文化交流

 昨年12月、キューバと米国間の半世紀以上に及ぶ国交断絶状態に終始符が打たれた。正確にいえば、国交回復にともなう事前作業が継続中、となる。この流れは些少の軋轢(あつれき)があったとしても途絶するものではない。
 この両国間の急接近によって、これまで親米派としてキューバと国交断絶状態にあったラテンアメリカ諸国も、ホワイトハウスの傘のなかでハバナに公館を開設してゆくだろう。
 以下の拙文は3年前に書いたものだが、親米国家、中米コスタリカにこんな挿話があったことをあらためて紹介しておきたいと思う。

   *   *   *

 意外に思われるかも知れないが中米コスタリカとキューバには正式な外交関係はない。冷戦時代の負の遺産がいまだ生きていて途絶している。
 両国の関係が途切れたのは、キューバに革命政権が樹立した後、米国は革命キューバを米州機構(OAS)から除名した。その際、メキシコを除く南北アメリカ諸国も米国の圧力でキューバとの外交関係を断った。ソ連邦が崩壊し、冷戦の影響下で深刻な内戦を繰り返した中米諸国に平和が訪れても、コスタリカにはキューバに対して批判的な保守政権がつづいて関係改善が遅れた。日本でもよくしられコスタリカの政治家にオスカル・アリアスがいる。中米諸国の和平化に貢献したことでノーベル平和賞を授与(1987年)された政治家だが、アリアス政権時代にもキューバは敵国とみなしていた。ちなみにアリアス氏はラテンアメリカの元首としてはじめてのノーベル賞受賞者である。当時、コスタリカの南の隣国パナマはキューバとの国交を早くから樹立、定期便が飛んでいた。パナマ運河を米国から返還させた卓抜な外交手腕を発揮した故オマール・トリホス将軍によって国交回復が実現していた。
 しかし、冷戦後、外交努力は双方とも力を入れていて、その努力の成果とでもいうでき文化交流事業が9月14日、コスタリカ独立記念日にハバナで実現した。
 コスタリカ、キューバ双方の文化省の協力で実現したもので、コスタリカ民俗舞踏団がハバナを訪れて公演を行なった。文化交流から外交関係の復活をしようという試みである。その舞踏団公演を前にキューバ側でも、コスタリカとは古くから友好関係があったことを歴史的な事実に基づいて解こうと、同国ではホセ・マルティとならぶ歴史的英雄である“青銅のタイタン”ことアントニオ・マセオ将軍が中米の独立を目指して戦った史実を取り上げ、「1891年から95年までコスタリカのグアナカステ州に滞在し、小部隊を組織してスペイン植民当局に戦いを挑んでいた」と強調。両国は、「独立」「解放」という共通目標をもって連帯していたことを史実を明かした。
アントニオ・マセオ

 友好文化事業にはマセオ将軍が滞在したこともあるニコヤ州の小学校の児童たちもハバナに招かれた他、コスタリカの音楽家、民芸創作家などアーティスト40人も参加、コンサートなども行なわれた。(2012年9月記)

花持つ女たち №47 エミリー・ウングワレー (画家*オーストラリア/アボリジニ 

花持つ女たち №47
  エミリー・ウングワレー (画家*オーストラリア/アボリジニ 1910頃~1996)
アボリジニ

 エミリーの絵はギャラリーの人口光で観るのではなく屋外で、かつ陽が天頂にあるときに鑑賞するのがふさわしい。
 砂漠を背景に底知れぬホリゾントとなった悠久の地平線をうがつようにエミリーの絵は置かれるべきだ。そして、その絵はかつてに光に抱かれながら素朴な語らいをはじめるだろう。
 
 エミリーはオーストラリア先住民アボリジニ女性。近代の国民管理システムの矛先がまだ砂漠の民まで届かなかった時代にエミリーは生まれた。ゆえに生年は詳(つまび)らかではない。推定である。その誤差がどれほど のものかにわかに判断しにくい。ある善(よ)き日、月満ちて、大地の意思として誕生したのだった。

 エミリーが絵筆をとったのは1988年。80歳(?)近い老女が、神がかりのような情念をもって突然、描きだしたのだという。それは死ぬまでつづいたといわれる。でなければ、88年から96年というわずか8年のあいだに老いた女が3000から4000点といわれる途方もない数の作品を描けるわけがない。大作もたった2日で仕上げていた、という証言もある。
 描くことに倦(う)むことはなかった。まるで肺腑から取り出すようにイメージを吐き出しつづけた。

 いわゆる抽象絵画であるけれど、アボリジニのボディペインティング、民族楽器、工芸品、あるいは狩猟用ブーメランに描かれた呪術的な紋様から発し 、やがてバティック(ろうけつ染め)の制作を手がけ、カンパスに向かったという意味では、民族意匠の延長線上にある仕事だろう。

 自然との親密な生活を80年近く送ってきた老女の体内にやどる無尽蔵の生活譜は、民族5万年の遺伝子と呼応して祈りとなり、その印しとして描かれた、ということだろう。文明社会から流入された廉価な絵の具の使い勝手の良さがエミリーのイマジネーションに火を点けたのだ。

 今日、アボリジニ出身の表現活動は目覚しい。音楽の分野ではさまざまな動きがあるし、日本公演を行う音楽家たちもいる。そのなかで多くの女性画家が誕生している。エミリーのほかにたちまり片手の指はすぐ折れる。みな例外なく大地への畏敬(いけい)から詩的イ メージを育んでいる。

マプチェ族のヒップホップ 南米チリ

マプチェ族のヒップホップ 南米チリ

 南米チリの音楽といえばいまだに日本ではビオレッタ・パラ、ビクトル・ハラといったヌエバ・カンシオン系の歌しか認知されていないように思う。二人とも偉大な才能であり現在でも尊重されていることに間違いないが、チリでも音楽は生々流転している。ビクトル・ハラを惨殺した軍によるピノチェット独裁時代にもポップス界は賑わっていた。メキシコのオルタナティブ・ロックの雄カフェ・タクーバの音づくりに貢献したのはチリのロック・グループであった。
マプチェ族の旗
マプチェ族を統合する“民族旗”

 そんなチリから同国最大の先住民マプチェ族出身のヒップホップのグループの活躍の報が届いた。コレクチーボ・ウェ・ネウェン、マプチェのマプドゥング語で、「新しい力の集団」という名だ。活動拠点は南部アラウカニア州。チリにおいて大半のマプチェが住む“先住の地”だ。約60万がチリ、約30万がアルゼンチン南部に住んでいる。
 コレクチーボ・ウェ・ネウェンのリーダー、ダンコ・マリアンは、「音楽を通じて民族のアイデンティティ を確立したい」と語り、ヒップホップのリズムで、チリ政府によるマプチェ族に対する弾圧的な政策に抗議していく、ということだ。
 マプチェに対する抑圧的な政策はチリの独立前も後も続いている。今年1月3日にもマティアス・カトリレオという学生がアラウカニアの住宅街で警察官に射殺された。彼は、同国の資本家たちが環境を無視して、マプチェの地を乱開発を行なっていることに対し、実力で止めようと活動していた。

 マプチェ族といえば、ラテンアメリカ史に少しでも関心を持つ者なら、コロンブスの時代から19世紀の後期まで、他民族の侵略に抵抗しつづけた勇猛果敢な誇り高き民族として知られる。チリがスペインの植民地となる以前も、アンデス高地から領土を拡張するインカ帝国軍の侵入に対して戦っていた。

 現在、チリは中道右派のバチェレ大統領下にあるが、世界有数の資産家として知られ、市場経済主義者だ。
 二〇一〇年に大統領に就任すると、マプチェに先住特権のある森林地帯を広範囲に埋没させる水力発電所建設を提言したが、先住民だけでなく環境保護派の猛反対を受けた。急進的なマプチェ活動家は乱開発を阻止しようと、企業経営の林地や倉庫などに放火するなどして抵抗した。これに対し、政府は軍政時代の“負の遺産”ともいえる「反テロリスト法」を拡大解釈し、活動家を容赦なく逮捕し、刑務所に収監した。いま、マプチェ族が発信する活動詳報をみると、軍や警察との抗争、集団行動を写した多くの写真をみることになる。社会批評を果敢に発することができる“言葉”の音楽としてヒップホップが現代マプチェ族の若者のあいだから生まれるのは時代の要請というものだろう。おそらく、マティアス・カトリレオの事件などは歌詞の素材となっているだろう。
マプチェ族
マプチェの伝統音楽の演奏は、民族を結束させる重要な要素

 殺されたそのカトリレオさんは獄中の同胞と連帯していた。彼の遺体は警察に引き渡せば証拠隠滅される恐れがあるとして、活動家が隠している。現在、事件解明のためにアムネスティ・インターナショナルを含む非政府組織が連帯することが確認されており、そのメンバーにはピノチェット元大統領を人権犯罪の容疑で訴追した元裁判官も参加している。  (2012・1)

花もつ女 №46  タルシラ・ド・アマラル (画家*ブラジル 1886~1973)

花もつ女 №46
 タルシラ・ド・アマラル (画家*ブラジル 1886~1973)

 20世紀前半、ブラジルの広大で豊饒なる大地にふさわしい表現を求めて民族主義的なマニフェストが高らかなに木霊(こだま)した。それまで旧宗主国ポルトガル経由で流入していたイベリア半島の西欧的様式の亜流として充足していたブラジル文化を地母神の力を借りて「独立」させようと気運が盛り上がり、ひとつの運動の渦となる。
 テーゼは、『パウ=ブラジル宣言』(1924)や『人喰い宣言』(1928)というすこぶる能動的な「宣言」のなかに要約された。そうした運動に渦中にタルシラ・ド・アマラルがいた。
 
 ド・アマラルは、もともとアカデミズムが強いうるテクニックをきっちり修練し学び、やがてキュビズムやフォービズムの先例を受け、これによって祖国の深層を抉(えぐ)れると自覚的に手練の手法としていった才能である。
ド・アマラル

 大地にどっしりと腰をすえた量感あふれる『黒人女性』のような女性像を繰り返し描いた。そのいずれもが地母神そのものといった豊満さを象徴する。思考より肉体である、と宣明するような生命賛歌であった。母性を象徴する乳房は極端にデフォルメされ、豊穣なブラジルの富を表象する。
 そうした「母なる大地」を女性像に仮託して描きつづけたのはド・アマラル20代から30代の時期だった。早熟な開花であったが、運動の熱狂が過ぎるにつれ精彩を欠くことになった。
 「新思潮」も後進によって否応なく過去のものとされていく、あるいは乗り越えられてゆく。一時代前の「新思潮」のなかで獲得されたフォルムに執着してアイデンティティを見出した者が類型化を重ねてゆくとき停滞が起きる。ピカソのようにたえず変化し、自己増殖を重ねない限りよどみが起きる。ド・アマラルの後半生の仕事に多くの言葉を費やそうとしないブラジル美術界そのものは健康である。
 しかし、『黒人女性』をはじめとするド・アマラルの初期作品群の熱気あふれる絵は、ブラジル現代美術史の劈頭(へきとう)においていつも言及される。その栄誉だけは不滅のようだ。

世界で最も貧しい大統領の“威厳”  南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領

世界で最も貧しい大統領の“威厳”
 南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領
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 いま書店の児童書のコーナーで評判になっている絵本がある。『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という。
 南米ウルグアイの前大統領ホセ・ムヒカ氏が2012年、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれたリオ会議(地球環境の未来を決める会議)における演説に感激した日本の絵本作家が作成したものだ。ムヒカ氏は社会民主主義者として国の舵取りをした。

 リオ会議での演説はそこに出席していた参加者を等しく感動させ、即各国語の字幕がつけられてインターネットで世界中に拡散した。ムヒカ氏の演説のキーポイントは、
 「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」で象徴されるだろう。現在のグローバリゼーションの弊害を要約している。
 「残酷な競争で成り立つ市場経済の仕組みを放置したまま、『世界を良くしていこう』、共存共栄が可能だという議論は可能なのか? ほんとうにできるのでしょうか?」とリオ会議そのものへの疑問も投げかけている。ここは地球環境の危機を議論し改善を模索するために世界の叡智があつまっているのかも知れないが、「われわれの前に立つ巨大な危機は環境の危機ではありません、現在の政治そのものが危機的な状況なのです」とも言い切っている。

 ムヒカ氏の演説は10分足らずの短いものだ。そして平易で小学生の高学年なら容易に理解できるものだ。つまりあらゆる言語に即、翻訳できる言葉であった。だから、たちまち世界中から感動の輪が広がった。日本では素敵な絵本が生まれたが、地球のどこかで同じような絵本が生まれているのかも知れない。
 「私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと」、それが人間本来の姿だと説く。それを阻害する消費経済を呑み込まれた現代社会の仕組を変えなければ、「環境」も破壊されつづけ、人間の幸福を育ている大地そのものが喪失すると語っているのだ。

 ムヒカ氏の言葉が平易で説得力をもったのは大統領任期中にそういう生き方を実践したことだろう。確信と自信に満ちた人の言葉はたいてい簡素なものだ。懐疑的なまま発せられる言葉ほど難渋に、ぬえのような言葉になるのが政治家の言葉だが、ムヒカ氏には無縁だ。
 ムヒカ氏は、晩年のトルストイが田舎に蟄居し求道者的に赤貧を求めたのではなく、てらいなく質素の身軽さ、生活の充実を楽しむ大統領であったからだ。そう、そうした生活を楽しんでいた、いや現在も満喫しているのだ。
 大統領職の給与のほとんどを寄付し月1000ドル前後で首都モンテビデオ郊外の小さな牧場に住み、中古のビートルを自ら運転して大統領官邸に通っていた。護衛もつけずに“通勤”できる大統領なんてそうそういない。それだけ国民に愛されていた証拠だ。
 大統領任期中は労働時間の短縮、食糧の輸出国として安定した経済運営を実践、域内の経済的な危機にも柔軟に対応した。またカトリックが国教である同国で人口妊娠中絶、同性結婚を合法化したことも特筆される。
 ムヒカ氏の政治活動の揺籃期は反政府武装組織の闘士であった。武器をもったアクティブな活動家であった。といっても当時のウルグアイは圧制的な軍事独裁下にあり、人権は政府軍によって圧殺されているなかでは武器を取って戦うしかなかった。当時のウルグアイの政治状況はサルサの歌手であり俳優のルベン・ブラデスが主演した映画が当時、日本でも公開されている。ムヒカ氏は軍事独裁下で獄中生活も体験している。そして不退転の闘士として民主化時代を迎え国会議員となった人だ。彼の資本主義批判は左翼ゲリラであった当事から揺れていない。しかし、現実政治家であった彼はベネズエラのチャベス大統領のようには極端な反米主義は採らず、市場経済の果実は活用しつつ、農業国としての生きつづける道を模索し食糧輸出国としての優位性を持続させた。
 
 ウルグアイでは大統領職の再選は認めていないので、この3月、惜しまれながら退職した。その退任の日、多くの市民が大統領官邸を去るムヒカ氏を称え、市民にもみくちゃにされながら街頭行進を行なった。その様子もまた世界中に発信された。

 ムヒカ氏をめぐる最新の情報は旧ユーゴスラビア時代から社会風刺性のある作品で世界から支持をあつめていたボスニア=ヘルツェゴビナのサラエボ出身の映画監督エミール・クストリッツァが、ムヒカ氏の生涯を映画化するという話題だ。父セルビア正教徒、母ボスニアのムスレムを両親にもった監督が左翼反政府武装組織の活動家として政治に関わり、大統領職に至ったムヒカ氏の心と思想を問う。クストリッツァ監督にはすでにアルゼンチン・サッカーの“国民的英雄”マラドーナを数年かけてルポしたドキュメンタリー映画『マラドーナ』(2008)がある。ラテンアメリカは親しい大地なのだ。そして、ウルグアイはサッカーW杯の発祥の地でもあり、その第一回大会に、ユーゴはヨーロッパ勢として参加した4カ国のひとつであった。

映画『フリーダ・カーロの遺品 ~石内都、織るように』

事前のリサーチ不足を露呈している
 映画『フリーダ・カーロの遺品 ~石内都、織るように』 小谷忠典監督
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 この映画を“成功”というなら、フリーダ・カーロ美術館のスタッフがフリーダの遺品、ほとんどが彼女自身が身につけ履き、不自由な身体を支えたコルセットなどの撮影に石内都さんを選定、依頼した時点で決まっていると思う。
 美術館のキューレターはみな女性である。そのスタッフが世界中にアンテナを張り巡らして約1年、石内さんのヒロシマで被爆死した人びとの衣服を撮った連作「ひろしま」の強い印象の故、依頼することになった。
 石内さんは美術館でフリーダの衣服を撮りつづける、約3週間。それの作業を中心にドキュメントした映画だ。その作業そのものが雄弁なエピソードなのだ。それだけで魅せられる。しかし、映画制作のスタッフは語弊があるかも知れないが、付け焼刃的にフリーダの民族衣装の源を求めてメキシコ南部オアハカの太平洋沿岸の町フチタンに赴く。そこに住む先住民女性は現在も民族衣装を日常着として過ごしているフォトジェニックな町だ。そこにカメラを持っていけば〈絵〉は撮れてしまう。ちなみにフチタンは榎本殖民団で明治期に入植した日本人の子孫が住んでいる町だが、それは映画とか関係ないので割愛。
 映画だけでなく、あまたの日本人が書く拙速なフリーダ論は、その独創的な衣裳はオアハカ出身で先住民の血をもつ母親との繋がりを求める。しかし、母親とフチタンとはまったく関係ないし、その母親が民族衣装を日常着にしていたわけではない。むしろ嫌悪していたと思う。
 そもそもフリーダと着衣との関係はそれ自体、今日的な言葉でいえばフリーダ一流のインスタレーション。フリーダが生きていた頃、すでに彼女が住む首都圏でメスティーソ(混血)の女性が民族衣装を着ることは珍しかった。彼女自身、それを積極的に選び取るようになったのは壁画画家ディエゴ・リベラと結婚して以降のことだし、一時、離婚した時期にはフリーダはそれを脱いでいる。そして、彼女の絵画の多くが夫ディエゴに訴える内定告発だった。ディエゴなしでは成立しなかった世界だ。フリーダの作品の大半は肖像画である。そして、そこには必ず眼力の強い両目が描かれる。それはディエゴを見つめる目なのだ。ディエゴに問いかける視線なのだ。
 メキシコに7年暮らし、フリーダの住まいだった美術館と同じ区内に住んでいた筆者からすれば、彼女の芸術はひとつの強固な独創であることに相違ないが、ディエゴなくしては絶対に成立することも、存在しないものであることは皮膚感覚として分かる。美術館と同じ区内にディエゴが私財を投じて建てた先住民遺物を蒐集した大きな博物館がある。フリーダの衣裳はディエゴの火照りなのだ。ディエゴ自身もそれを良く知っていて、死後、フリーダのそうした衣裳の類いを遺言で封印したのだ。衣裳に附着しているはずのふたりの関係性の密度が薄れ、時の濾過を経るまで公開を禁じたのだ。それは58年の歳月に及んだ。
 だから、石内さんの作業は時の濾過を経て、フリーダの〈個〉のみが残った、それを抽出する作業であったのだ。故に、カメラは石内さんの作業を見つめればいいのだ。それは真摯な対話劇であり、映画スタッフが取材して挿入したシーンはおのずと、その対話劇への批評になってしまうので、それは慎重に排除すべきだったし、前に書いたようにフチタンの取材などは内的必然を欠いている。
 石内さんは衣服の綻び、修繕跡、皺、小児麻痺の後遺症で左右の足の長さが違ったフリーダがそれを隠すために行った痕跡などを対話しつづける。その成果はやがてフリーダを媒体とした新しいアートとしての写真として結実し賞賛された。
 カメラは石内さんにより執着すべきだったと思う。撮影のあいまに取材できるほどフリーダの振幅は小さくない。どうせ撮るなら、ディエゴが描いたフリーダの姿を紹介し、その民族衣装を撮る石内さんの作業と融合させるという手法であったろう。事前のリサーチ不足がこれほど露呈しているドキュメントも珍しい。 上野清士

国際シンポジウム「アジアの女性アートを考える」

国際シンポジウム「アジアの女性アートを考える」
  ~アジアをつなぐー境界を生きる女たち 1984-2012展開催記念
   *古い原稿だが、送稿原稿に残っていたのでここに採録することにした。
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                                               ユン・ソクナム(韓国)の「ピンクルーム」。
                 会場のエントランス付近にもうけられたインスタレーション。壁をほど同一大のピンクの切り絵で一面覆い、床はピンクのビーズで敷き詰め・・・遠目には女性らしい華やかな色彩の空間だが、近づくと「悪意」がこめられているのではないかと思うほどの“痛点”にみちたものだ。ピンクの光沢のある布を張った椅子からは鋭利な刺が突き出している。床のビーズも鋭利に尖りいびつで、とても踏み込む気にはならない。椅子の足は尖り、居心地が悪そう、というより実用の具であることを拒否している。壁に張ってある薄い紙の切り絵はまるで女たちの積年の苦悩、悲哀がこめられた壁だ。ピンク、という女〈性〉の象徴的な「色相」を逆手にとって、そこに対峙するときに発せられる「色彩」が批評となっている。小林秀雄は『近代絵画』のなかの印象派論で「色相」と「色彩」の違いを簡略に分かち、そこに印象派の美術史的象徴を見出していたが、「ピンクルーム」はその雄弁なインスタレーションの象徴的な傑作だと思う。作家の有吉佐和子は『最後の植民地』で、現代女性論を展開していたが、冷戦の終結とともに各地で勃発した内戦、国教を超えた宗教対立のなかで「ピンクルーム」は鮮血に満たされるようになった。いまも各地で止血剤がまにあわないほど流されている。(上野)


 15カ国50作家111作、総計204点がすべて今を生きるアジア人女性作家の作品。同時代の触感と匂い、熱まで発している活気的かつ刺激的な企画展だ。福岡、沖縄、栃木、そして三重という地方美術館の熱意で実現した。2月24日には出品作家が参加するシンポジウムが行なわれ、活発な発言が交わされた。

 ▽『アジアをつなぐー境界を生きる女 1984-2012』展を推進した小勝禮子・栃木県立美術館学芸課長談
 
 当館ではこれまで持続的に女性アーティストの仕事に注目し企画展を試みてきました。
 最初は西洋美術史における女性像や女性画家の作品を概観した『揺れる女/揺らぐイメージ フェミニズムの誕生から現代まで』(1997)、日本近現代に活動した女性画家と作品を紹介した2つの企画展『奔(はし)る女たち~女性画家の戦前・戦後』展(2001)、『前衛の女性~1950-1975』展です。その一方でアジア美術の蒐集・紹介などに力を注いできた福岡アジア美術館の仕事、スタッフから示唆され、西域アジアの現代作家に関心を持つようになりました。三重県立美術館にはインドネシア、マレーシアの現代アートに興味をもつスタッフもいて、こうして地方美術館共同主催ということで本企画が実現したわけです。
 本展は5つのカテゴリーに分かれています。
 作家の出身国・地域で別けるのではなく、現在の女性を取り囲むさまざまな同時代的なテーマを設け、国籍に囚われず、個性的・独創的な手法で課題に取り組む作家の仕事を集めました。それは多種多様、多彩で取り付く島のないような印象を与えるかも知れませんが、それでいいと思うし、それぞれが何かを感じ取ってもらいたい。アジア、いや世界の女性が置かれた立場は複雑でひとくくりできるような状況ではないからです。ありのまま感じて欲しいんです。


▽会場から
 東は日本から、西はパキスタンまで、それぞれの国、地域で現在進行形で活動する女性作家たちの仕事は深い息遣いを秘めていて刺激に富む。男の視線で眺めれば、居心地の悪さも感じる気配も濃密にある。
 アジアの伝統的で因習的な女性差別の現状を告発する作品は、この地域の定番的なテーマであろう。そして、これは今後、数十年も女性アーティストによって繋がれて行くものだろう。
 フィリピンや韓国の作品には外貨稼ぎのために国外に出稼ぎにいった体験を持ち、出稼ぎ先で作家になったアーティストたちがいる。出稼ぎ先の文化に影響を受けながら、出自の民族性、その個人史をみつめる視覚は痛々しい。
 貧しいベトナムの農村から台湾に多くの女性が嫁入りした。そんな実態も本展から教えられた。
 しかし、メッセージ性の強い、そうした作品もいわゆる使い古された手法で表現されているのではなく、あくまで美術表現における前衛性を主張している。それが今日的問題と果敢に切り結んでいる。5つのカテゴリーは以下の通りだが、その区分けに企画者の熱意が表象されていると思 う。「女性の身体~繁殖・増殖・魅惑と暴力の場」「女性と社会~女性/男性の役割、女同士の絆」「女性と社会~ディアスポラ、周縁化された人々」「女性と歴史~戦争、暴力、死、記憶」「女性の技法、素材~『美術』の周縁」「女性の生活~ひとりからの出発」。

▽シンポジウムから
 栃木県立美術館の集会室で開催されたシンポジウムにはほぼ満席近い約100人の一般参加者を迎えて開かれた。
 シンポジウムは、シンガポールで女性アーティストとして先駆的な活動を展開してきたアマンダ・ヘンさんが「シンガポールのフェミニスト・アーティストであること、自身の活動について」と題する発言からはじまった。
 「私の生まれ育った家は中華文化、儒教的な伝統が濃厚に生きていた。当然、女の立場は屈従的なものだった。そんな家のなかで女である自分を考えるようになった。それが私が表現活動の基盤です。私が活動をはじめた頃のシンガポールの現実は女であることが、そのまま創作活動をさまたげた。大きな困難をともなうものだった。女を受け入れる美術学校はあったけれど、そこで学ぶ女性の意識は趣味的な領域から出るものでな かった。そんな状況のなかでフェミニズムと関わり作品として具象化していくことは即、政治的にみられるものだった」と発言、女性アーティストの置かれた位置はいまもさして変らないと批判的に現状を報告した。
 ベトナムのヴィデオ・アーティスト、グエン・チン・テンの作品『再録画されたテープの編年史』を紹介した川端道子さんの報告で、ベトナムではいまだベトナム戦争の実態は国家機密扱いとなっていて、その全貌はまだ明らかにされていない」と社会主義国特有の情報管制があるとの発言に会場は一瞬、どよめいた。フランスとの独立戦争、米国軍の侵攻に対する戦いという抵抗の歴史、そして長い困難な戦いを生き抜いたベトナムにあって、戦争の勝利が決して民族主義の高揚といったものにダイレクトに繋がっていない事実が、そこにある。 『~編年史』はかつて戦争に従軍した人へのインタビューや、戦没者の墓など日常的に可視できる素材のみを使って1973年生まれという若い世代が試みたベトナム現代史への能動的な批評行為であった。
 金恵信さんは、韓国から出稼ぎ看護婦としてドイツに渡り、やがて、自らの体験を批評的に表彰化する作品を生み出し、世界的なアーティストになったソン・ヒョンスクの作品を紹介しながら、個人的体験が優れた表現として提出されるとき、現実社会の矛盾を鋭く批評し、世界性をもつことを明らかにした雄弁な報告だった。
 いずれの報告を聞いていても、女性の視線が捉えうる社会矛盾というものがあり、それを批評化する行為そのものが「作品」となっていることを知る。女性の肉体を通過し、ろ過される営為のなかでいっかい分解・溶解され、そして再構築化されされるという作業の道筋もあきらかにされたような気がした。大変、刺激的で示唆に富むシンポジウムだった。 (2013年3月記)
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Author:上野清士
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