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中米ニカラグア  カリブ沿岸地帯に住むガリフナ族の現在

 中米ニカラグア  ガリフナ族の現在を伝える映画
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 東京・市谷のセルバンテス文化センターで6月第1週だけの企画として「フェスティバル中央アメリカ映画」が行なわれ中米4カ国の作品が上映された。
 特色のある作品が並んだが、すでに一般上映された映画、一般公開予定のない字幕のない映画を除くと、ニカラグアの記録映画『ルバラウン』を紹介すべき作品と思った。
 『ルバラウン』とはガリフナ語で「再会」の意。そのガリフナ語を母語とする中米カリブ沿岸諸国にひろく分布するアフロ系少数民族集団について書いておかねばならないだろう。
 ガリフナ族という民族はアフリカに存在しないが、彼らの祖先が、西アフリカ各地から買い集められた奴隷たちであった。ガリフナという名が興きたのは、カリブの島に住みだした西アフリカ出身の多様な民族、しかしその出自がきえうせてしまった人たちの総称である。奴隷船に拘禁されカリブ海上を航海中、ハリケーンにあって船が大破、近くの島に流れ着いた者を父祖とする。奴隷商人の手から逃れた彼らはカリブの先住民の助けを得て、独自に共同体を形成し、先住民アラワク族などと雑婚した。だから正確にはカリブから消滅してしまった先住民の遺伝子もうけつぐ希少な民族ともいえるが、現在の彼らの身体的な特徴のなかからカリブ先住民のよすがを見出すことはできない。
 ガリフナ族の誇りは、奴隷船で運ばれながら一度として強制労働を強いられることなく子孫を繁栄させたが、やがてカリブ地域の覇権をにぎった英国によって、彼らが逃避し、平和な生活を築いている島が植民地化されようとしたときに知力と勇気、ふたたび奴隷になるまいとする捨て身の覇気を力に武力抵抗しつづけた。けっきょく、武力にまさる英国軍に負けるが、服従はしなかった。英国軍もそうした勇猛果敢なガリフナ族を懐柔することはできないとして、当時、離島であった現在のホンジュラス、カリブ沿岸のロアタン島に打ち捨てた。行きたいやつはかつてに努力しろ、という処置だ。
 ガリフナ族は自由の身にはなったものの農耕に適した土地の少ない島で、やがて人口がふえるにしたがって、土地をもとめて島をでていく者がでた。まず対岸のホンジュラス沿岸地帯に住みつき、そこから南北に分岐して現在のベリーズ、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア沿岸地帯に多くの共同体を形成した。
 映画の冒頭で、その沿革が簡略に紹介されている。
 映画はニカラグアのガリフナ族の小村オリノコに住む老人が、祖父母が暮らしていたといわれるホンジュラスの村を訪ねる旅を記録したものだ。
 ホンジュラスのカリブ沿岸地地帯の表玄関はサン・ペドロ・スラだ。そこを起点にラ・セーバ、テラ、トルヒージョと浜づたいに足を運ぶ。この辺りは米国のバナナや果実栽培の多国籍企業が独占的に鉄道を敷設したところで、20年ほど前、乗車した体験をもつが、現在はどうなっているだろう。バナナなどを積載するための鉄道で、客車はおまけというディーゼル機関車に連結されていた。
 先祖帰りの旅となった老人の行程は、困難な祖先の生活を偲ぶものとなった。どこでもガリフナ語とスペイン語でコミュニケーションをとっていく。ある村でこんな歌をしっているか、ガリフナの古歌を歌いだすと、周囲の人たちもそれにすぐ和した。
 現在、米国ニューヨークにベリーズ出身のガリフナ族を中心とする大きなコミュニティーが存在する。その米国在住者も含めてガリフナ族は約30万に過ぎない。しかし、その文化の影響力は大きく、民族音楽プンタはメスティーソの同国人音楽家に土俗的な灰汁が抜かれ、軽快なダンス音楽としてホンジュラスでは主要ポップスとなった。テラからバンダ・ブランカというスターも生まれメキシコを中心に一時、ラテン・ポップス界で注目されたこともある。
 ニューヨーク在住のガリフナ音楽家はあたらしいプンタを創造して本国に逆輸出している。
 映画はたえず海のみえるロードムービーだ。熱帯低地の湿度のたかい地をめぐる旅だ。
 老人がつぶやく、「先祖たちがすみ始めた土地はみな辺境だった。農地は極端に少ない。人口が増えれば、また新しい土地を探して散る。そうして、おれたちはカリブ沿岸一帯にひろがったのだ。貧しさのためだな・・・」
 
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花持つ女たち №51 ヒュパティア (エジプト 天文学・数学・哲学者  ?~415)

花持つ女
 ヒュパティア (エジプト 天文学・数学・哲学者  ?~415)
ラファエロ

  「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことだ」
 ……古代エジプトの学問都市アレクサンドリアが輩出した科学の真の僕(しもべ)ヒュパティアの言葉。
 高名な数学者であり哲学者であった父テオンの子として生をうける。才能を見い出した父はさぞ今日でいうところの英才教育を施したことだろう。
 学問が今日のように細分化せず好奇心の誘(いざな)うまま境界を飛翔することが可能な科学の牧歌的時代の知性の人として記録される。彼女は真実を求めてカテゴリーを軽やかに遊弋し多くの著述を成したとされるが、その大半が消えた。
 
 当時、勃興してきたキリスト教徒たちが自ら信じるドグマによって、ヒュウパティアの知性は「神」を誹謗( ひぼう)する魔女とされ虐殺された。その書は当然、焚書にされただろう。当時、世界最大といわれたアレクサンドリア図書館の70万巻も毀損され失われ
たとされる。

 ヒュパティアによって地球は太陽のまわりを真円ではなく、楕円形を描いて周回していると推測した、という。当時の最前衛の天文学が導いた地動説も、キリスト教はそれを葬り、天動説へ逆行させた。
 ヒュパティアは地中海世界の変貌期に生き、思索し、悲劇的な最後を遂げた。ゆえに伝説となって今日にその名は伝わった。たぐいまれな美女であったともいう。
 
 ルネサンスの画家ラファエロはバチカンの回廊に、その肖像を描いた。 冒頭の絵がそれだ。 バチカン政庁のギャラリー、通称「ラファエロの間」の壁に描かれた大作「アテナイの学堂」のなかに唯一の女性学者として描かれたものだ。キリスト教徒によって「異端」として虐殺されたヒュパティアをラファエロは大胆にもバチカンで“聖性”した。それは大胆な試みであったはずだ。そして、当時の法王庁もそれを許容した。ルネサンスの学問の拡張という時代の趨勢がそれを可能にしたのだろうし、ラファエロの「学堂」にソクラテス、プラトン、ピタゴラスなどそうそうたる知の巨匠と肩を並べて招かれるほど、ヒュパティアの事蹟は当時、よくしられていたということだ。

花もつ女たち №50 トミエ・オオタケ(日本・ブラジル*造形作家*1913~2015)

花もつ女たち
 トミエ・オオタケ(日本・ブラジル*造形作家*1913~2015)
百歳を迎えた日のオオタケ

ブラジルに約150万、世界最大の日系人社会がある。それでも総人口のわずか1%に過ぎない。しかし、たった1%の民族的ポテンシャルはすこぶる高い。それをいちいち書くわけにはいかないのでひとりオオタケの活動に象徴させよう。

 日本名は、大竹富江、京都に生まれ23歳でブラジルに渡った。
 オオタケの表現活動の出発は絵画であった。それも40歳を迎えてからで、それまでは主婦業に専念していたといわれる。しかし、いったん解き放された創造力はまたたくまに拡張、肥大した。

 オオタケの手になる絵画も彫刻、環境造形すべて抽象表現である。たとえば80歳代に取り組んだシリーズ「無題」は100×100cmの正方形画面の連作だが、宇宙の生成の相貌を象徴させたような絵画で、群青系の色相だけで、赤紫系だけ、というふうに意識的な操作によって一個のエネルギーを拡散するような作品だ。この連作を手がける以前にオオタケは現代ブラジル美術を代表する作家として世界主要都市で紹介された。

 オオタケは100歳まで現役だった。晩年とか老成といった、老いを比喩する言葉があるがオオタケには無用だった。
 「無題」シリーズと同時に、巨大モニュメントに取り組んでいた。2008年、日本移民100周年にむけたプロジェクトだ。その記念年には3点の巨大なモニュメントを完成させた。その1点は総重量20トンという彫像だ。
 サン・パウロ市中心部パウリスタ通りに建つ「記念碑」は94歳の作品。赤の鉄パイプは、ブラジルの豊かな地力そのものを形象化しているようだ。
 サン・パウロ市内だけでオオタケのオブジェは25個も設置されている。同市の幹線道路「5月23日通」に巨大な4つの波形モニュメントがある。オオタケによれば、「この地に定住することを決めた日本人の最初の移民から4世代目が生まれていることを象徴する」ようだ。

 ブラジルには数多くの日系人画家、彫刻家、造形作家が活動している。筆者自身の体験でいえば、メキシコ市に在住していた1990年にも日系ブラジル人造形作家の作品を紹介するイベントが小規模ながら持続していたことをしっている。メキシコもまた日系人作家の多い地だ。
 おそらく日本でよくしられているのは“ブラジルのピカソ”とも形容されたこともあるマナブ間部(1924~97)だろう。日本でも2度、大きな個展をひらき、そのひとつは回顧展とよべるものだった。オオタケの大規模な紹介はまだない。彼女の代表作が移動の不可能な巨大オブジェであってみれば仕方がない。しかし、その仕事は日本でもしられるべきだろう。間部より年長者でありながら、その表現はどうみてもオオタケのほうが新しく実験性にも富んでいた。
 今年2月、101歳で逝去した際、ジウマ同国大統領は弔辞を発表した。「百余歳の生涯をいきるなかで本質的にブラジル人となりました」。

バルガス・リョサとノーベル文学賞

バルガス・リョサとノーベル文学賞


 毎年、後半四半期はなにかとノーベル賞の話題が多くなる。
 今年(2010)は中国国内の刑務所に拘禁中の人権活動家が「基本的人権を非暴力で貫いている」として平和賞を受賞した。中国共産党政府は、内政への不当な関与だ、とノーベル財団を批判した。一連の尖閣諸島問題もあるから、日本での対中国イメージは悪化の一途をたどっている。
 個人的な中国観でいえば共産党政府は度し難いと思っている。「中国」が嫌いなのではなく、一党独裁という非民主的な体制を維持するために〈人民〉主体の共産主義思想という妄想に依拠する政府に嫌悪する。中国の長大な歴史にとって、今日の共産党とは、20世紀後期の世界情勢に相応しい新手の〈王朝〉に過ぎない。一党独裁は人民から付託された権利だと強弁できるからだ。その政府が、北朝鮮の「金王朝」の後ろ盾になっているのは同じ生理からだ。いま、漢民族でもっとも正しい行動をしているのは香港の民主化活動家たちだろう。
 一度、『人民日報』の協力を受けて約2週間、北京と上海、そして開発の槌音高きという1990年代の海南島へ取材したことがある。その際の地方の共産党幹部たちの横柄ぶり、教養がまるで欠落した発言と行動、民衆をみくだす態度に辟易したものだ。その1年後、バックパッカーとして個人旅行で香港から広州入りして歩いて旅をした。
  招待旅行が満漢全席の旅なら、後者はファーストフードの旅のようなものであった。
 その両方を実行、体験してみて、この国の政治制度に徹底的な不信感を抱いた。その内実はここに書くスペースはないが、いずれ書くことがあるだろう。……といった具合に年末はノーベル賞の話題に事欠かない。前置きが長くなりすぎた。
バルガス・リョサ

 ここで書いておきたいのは文学賞のことだ。豊潤な現代ラテンアメリカ文学の森、「魔術的リアリズム」として象徴される熱帯雨林の豊潤をささえる大きな才能のひとり、ペルーのバルガス・リョサが受賞したからだ。
 日本では名ののみ高名だが、広大なアマゾン密林にわけ入るような取り止めのなさを感じさせるバルガス・リョサの文学の長編に親しむ者は少ないというのが日本の実情だろう。これを機会にその森にわけ入ってもらいたいとの個人的な思いもあるので書くのだ。
 
 ペルーにとって最初のノーベル賞受賞者となった。その受賞決定と、ほぼ同時期、同国ではじめて天然ガス田が発見された。アラン・ガルシア・ペルー大統領はリョサの受賞とともに、「神は祖国へ二重の喜びを与えた」との声明を発表したものだ。
 リョサは40代前半で国際ペン・クラブの会長(1976~1979)を務めたほどの早熟の才能だった。その当時、すでに『緑の家』『都会と犬ども』(ともに邦訳)の長編で世界的な成功をおさめていた。そして、ペン会長としての職務も堅実にこなしノーベル賞にもっとも近い作家といわれていた。ノーベル賞は目と鼻の先にぶら下がっていた、と言ってよい。それが30年あまり手にできなかった。ラテンアメリカ大陸の矛盾、政変、亡命が作家に紆余曲折を強い、長足の迂回路を取らせることになった。
 理由は色々、とりざたされているが、1990年、ペルー大統領選挙に出馬してからの政治活動が受賞を遠避けたといわれる。政治的に生臭い人間は平和賞の候補にはなっても文学賞にはそぐわないと敬遠される傾向がある。
 その選挙とはアルベルト・フジモリが大統領に初当選した時のものだ。これにリョサは伝統的な保守政党の候補者として出馬、一次選挙でフジモリ票を上回ったものの、決選投票を前に敗北を認めた。決戦投票に進めなかった他政党との連捷工作が不調に終ったからだ。個人候補の人気としてはフジモリを確実に上回っていた。
 その後、フジモリの政敵として国外へ追われ、スペインに活動の拠点をおいた。
 今回の受賞に対して国内の政治的な対立者のなかには、「フジモリが失脚し抑圧の心配が消えたにも関わらず祖国に復帰せず、一度、旅でペルーに入っただけのリョサに、ペルー人の資格はあるのか」といった批判の声も聞かれた。
 1960年代以降、世界的な影響力を行使するようになったラテンアメリカ文学だが、その牽引者はなんといってもコロンビア出身の作家ガルシア=マルケスだろう。彼の詩的イマジネーションに富んだ幻想的現実主義と呼称される文学とリョサの文学とはまったく異質だ。より伝統的なリアリズムの形式のなかに緻密な文体と構成力、そして鋭敏な観察眼で社会矛盾を暴き、現実を鋭くえぐる手法を取った。
 けれど、リョサ文学のなかにあってもっとも大衆的に親しまれている作品は『パンタレオン大尉と女たち』だろう(日本ではなく、スペイン語圏という意味だが)。
 アマゾン辺境地帯の国境警備隊の若い兵士の愛と性を描きながら、国家権力の恣意性を告発する。ここでは通念の娼婦観はなく“聖化”の気配すらうかがえた。この小説はリョサ自らメガフォンをとって映画化されている。近年もリメイクされラテン圏では商業的な成功をおさめた。これを機会に日本でも公開して欲しい映画だ。近作ではクンビア・イキトス派とよばれるペルー独自の濃厚で熱いクンビアも聴ける。サルサやレゲトンばかりが今日的なラテン・ポップスの主成分ではないのだ。
 リョサは文学とどうじにアクティブで優れた社会評論の書き手でもある。思想的なブレはない。大統領選挙へ出馬して破れたことも、文学者の彼にはいささかの瑕疵でもないはずだが、フジモリによって政治的力学における敗残者となることを強いられた。現実政治に関われなかったことが幸いしたかも知れない。フジモリと対立したのは、能弁な日系人学者のなかにポリュラリズム=大衆迎合主義的な臭みを嗅ぎ取ったからでもある。リョサは独裁に陥りやすい、そうした政治姿勢をラテンアメリカから排除していかなければいけないと考えていた。
 リョサはメキシコを半世紀以上に渡って支配していた制度的革命党をアメリカ大陸におけるもっとも巧妙な“独裁政権”と批判し、メキシコ論壇でも注目度の高かい作家だった。キューバの革命政権に対しても歯に衣をつけぬ批判を展開していた。この辺りはガルシア=マルケスとはかなり姿勢を異にする。
 現在、74歳のリョサには政治家としてペルーに戻り活動する気はないだろうが、作家としての活動は精力的に継続させている。日本でもリョサ作品の復刊や、新刊も予定されている。(2010年12月記) 

ラグタイムとショパン

ラグタイムとショパン 
 ジョプリン

 昨夜もショパンを聴いてきた。
 アレクセイ・ゴルラッチ、ウクライナはキエフ出身の22歳のショパン。剛毅かつ自由奔放なショパンだった。“憂国の士”でもあったショパンの憤激というものを聴かされた感じだ。

 今年(2012)は“ピアノの詩人”フレデリック・ショパンの生誕200周年ということで年初から全国各地のホールの壁にショパンのポロネーズやマズルカが染み込むぐらい果断なく演奏された。たぶんクリスマス前後にもう一度、ショパンを聴く。ショパンに始まり、そして終わるのが私の2010年のコンサート行脚である。
 というわけで今年はショパンの生涯、音楽について考えることがやたら多かった。CDも聴きくらべ、あらためてウラディーミル・アシュケナージの解釈に共感をおぼえたことを記しておこう。そのアシュケナージのショパンはソヴィエトを去り、亡命してから録音されたものだった。亡命と同時に、クレムリンは彼の国内における輝かしい公式記録いっさいを抹殺する。そんなピアニストに、ショパンの望郷を重ねるのは安易かもしれない。アシュケナージという姓はなんと彼を象徴していることだろう。ディアスポラのユダヤ人、なかでも東ヨーロッパに定住した人たち、その子孫を意味する言葉でもあるからだ。
 しかし、アシュケナージのピアノにはそうした個人的事情を超越する普遍的な深さがあった。憂愁は思索となって政治の鎖は溶解する。それはロシア革命直後に亡国の人となって創作の泉を荒れさせたラフマニノフの憂愁とは別のものだった。近年、指揮者としての表現活動に傾注しているアシュケナージであることが、彼のピアノのファンとしては少し残念が気がする。

 そんなことをつらつら想いだしている時、ふとした狭間を縫ってラグタイムの軽快な音色が聴こえてきた。
 むろんスコット・ジョップリンのアップライトのピアノだ。1868年、米国テキサス州の農園に繋ぎとめられた奴隷農夫の子として生まれた刻苦の作曲家。10代から酒場で、酔客の心もとないダンスを活気づける職人として稼ぎはじめた。でも、そんな場末のピアノ弾きで終わろうとは思っていない。野心は青年のものだ。本格的に音楽を勉強したいと20代の半ばに黒人専門の大学の門を叩く。そこでショパンと出会っている。むろん、モーツァルトもバッハも知り、学んだ。
 おそらく、ジョップリンは、ショパンの憂愁を、己の体内に宿る血と共鳴させながら、よく表現しえた音楽家だと思う。彼は祖先の地も知らない。奴隷商人によって、家系は歴史の闇に掻き消された。その哀しみを、創作の手段をもった才能がどこかに痕跡を留めようとするのは当然だろう。彼にとって、ピアノは生き延びる手段だったが、それをただの道具にはしなかった。天賦の才能は、やがて時代を先取りするラグタイムを次々と書き一世を風靡する。

 ラグタイムは、シンコペーションと呼ばれるリズム構成の面白さにある。ミニマム形式のなかに私はふと西アフリカの太鼓のリズムを連想する。ラテンアメリカのリズムの豊かさは西アフリカに起源をもつといわれるが、ラグタイムもそうしたリズムの援用だと思う。けれどたくさん書かれたラグタイムのなかで、彼の作品が依然、聴かれているのは、ある種の憂愁だと思う。
 ジョップリンがいくらショパンやモーツァルトを時代の感性に沿って弾いたところで、白人は黙殺した。黒人音楽家の活動の場は限られていた。しかし、ジョップリンにはピアニストとして、作曲家としての自負があった。オペラも書き上演の機会に恵まれた最初の黒人作曲家でもあった。しかし、彼の皮膚は黒かった。
 ……そう聴こえるのだ。彼のラグタイムには当時の最良の黒人演奏家たちのいらだちと悲哀が。リズムの虚飾の内に、その奥深いところに憂愁が潜んでいる。彼ほど安酒場で貧しい者たちの悲哀を若くしてみてきた音楽家は珍しい。彼は貧しさゆえ、黒人なるがゆえの苦悩と貧困を知り尽くしている。

 昔、『ラグタイム』という映画があった。後に、『アマデウス』でモーツァルトとサリエリを描いたミロシュ・フォアマンが監督した秀作だ。彼もまた1968年の、“プラハの春”の民主化運動がソ連の戦車によって圧殺されたのをきっかけとして米国に亡命した才能だった。『ラグタイム』はジョップリンを主人公にしたものではなかったが、ラグタイムの弾くのはジョップリンであった。記憶が正しければ、ジョップリンも助演級の役柄を得て登場し、バッハ? モーツァルト? を弾く場面があった。しかし、その卓抜なパッセージも自重され、ラグタイムのシンコペーションに切り替わるのだった。ショパンも弾いたはずだ。 (2010年12月記)

クストリッツァの才能 映画『フェアウェル  さらば、哀しみのスパイ』

映画『フェアウェル  さらば、哀しみのスパイ』
 クリスチャン・カリオン監督 (2009年・フランス)
フェアウェル 映画

 先日、南米ウルグアイの“世界でも最も貧しい大統領”ホセ・ムヒカに人と思想を紹介した際、彼の評伝映画(?)をボスニア=ヘルチェゴビナのエミール・クストリッツァ監督が撮るらしいという話題を書き加えた。その時、同監督が俳優として主演したフランス映画『フェアウェル』について書きたいと思った。監督の思想性を理解する一作だと思ったからだ。

 『フェアウェル』は1980年代初頭、ゴルバチョフ書記長がペレストロイカを具体的に推進するきっかけともなったといわれるスパイ事件に取材した映画だ。「フェアウェル」とは、そのスパイの匿名だが、通常概念の「スパイ」とは違う。金銭的報酬も名誉も求めず、自己の信念に基づく愛国主義を貫くためにソ連の第1級ともいえる機密を西側に流したスパイだ。しかも、モスクワのKGB本部に勤務する大佐である。その階級から想像できるのは、それなりに国家に貢献し実績をあげてきたと容易に想像がつく履歴だ。こうした存在はもっとも容疑者として捉えにくい。
 当時、ソ連は米国をはじめ西側諸国で頭脳ハンティグした高級官僚、科学者などを情報提供者にして巨大なスパイ網を構築していた。これは歴史的事実だ。モスクワKGBの大佐は、そのスパイ網の情報を確信的に西側に漏洩し、クレムリンの政策さえ変更させたといわれる事件だ。この大佐役に、クストリッツァが扮した。
 大佐は、モスクワ在住の外国人からフランスのビジネスマンに目をつける。大佐の個人的な調査の末に選ばれた人材だった。妻をともなって外国人居住区で暮らすビジネスマンの上司がフランスの諜報機関と直結していたことも大佐は調査済みだ。

 大佐は、上級諜報員としてソ連経済が西側諸国に徹底的に差をつけられている愛する祖国の現状に義憤を感じていた。軍事力だけ突出し、その軍事予算が膨大に膨らみ、国民は潤いに欠けた生活を強いられていた。その辺りの事情は筆者自身、ソ連末期に2度の旅をしているのでよく知るところだ。現在のロシアだけでなくウクライナ、グルジア、モルダビア等、連邦構成国にも行った。
 大佐は人類で最初の宇宙飛行を実現して以降、狂いだした国のシステムを換えるには個人の力の及ぶところではない。しかし、いま新思考を持つ新しい指導者ゴルバチョフを迎え、彼の時代なら変革しうる予感が確信へと変わっていく。抜本的に国を立て直すには軍事国家を一度、ご破算にしなければという確信だ。
 しかし、この個人的な事業は自ら生命を危険に晒すことになるだろし、彼の周辺にまでに波及するだろう。それをしってもためらわなかった。不退転の決意で根気強く、実行していく。最初は情報を小出しにして、フランスの諜報機関の関心を引き、やがて米国CIAも感知することになる。

 そこには007のアクションもなければ美女とのアバンチュールない。何の変哲もない日常光景のなかで歴史の変革に向けた個人的な作為が進行するのだ。この狂言回し役をクストリッツは巨体をすぼめるようにして演じる。
 フランスのビジネスマンは、「見返りになにを求めているだ」と訝(いぶか)る。当然だろう。しかし、大佐はなかなか真意を明かさない。これもまた当然だ。その変わり、「息子にウォークマンとクィーンのカセットテープが欲しい」とつぶやくぐらいだ。

 カリオン監督に、『戦場のマリア』というフランス国内ではヒットした作品がある。『リリー・マルレーン』と似た戦場秘話だが、筆者には甘い映画で、積極的な評価はできなかった。しかし、『フェアウェル』には深い陰影をこめたスパイ心理劇といえるような重さがあった。それはシナリオなら動きの指示しかないような場面をクストリッツはこう動こうという本業の演出業から俳優の自分に異化する力がそこで効果を与えている。カリオン監督に、クストリッツの解釈を変更させる傲慢はなかったと思う。

 監督が本業でありながら俳優としても説得力のある存在感を示す才能にクリント・イーストウッド、ロシアのニキータ・ミハルコフ、日本では藤田敏也、北野武という名を上げることができるだろう。しかし、多言語をこなすという意味ではクストリッツの右に出るものはいないだろう。そこに歴史的に多民族が吹き溜まり、混在して都市を形成したサラエボに生まれ育ち、やがて国境をこえる活動を余儀なくされる個人史が反映されているだろう。クストリッツ監督とおなじサラエボ生まれの元サッカー日本代表チームのオシム監督の個人史に重なる。体型もまた酷似しているのが面白い。ともに、彼らはボスニア内戦期を無傷ですごすことができたが、サラエボに残った家族は生命の危機を味わっている。そういう個人史がクストッツァをして、組織を裏切り、売国奴との汚名も着るかも知れない危険をもくもくと遂行するKGB大佐の内面葛藤をよく創出する演技となったのだろう。オシム監督ではアノ独特のユーモア、シニカルで味わい深い言語録に象徴されていったのだろう。

劇団文化座公演『廃墟』 三好十郎原作

三好十郎作*劇団文化座公演『廃墟』
  演出・鵜山仁
劇団文化座 廃墟

 三好十郎の名が演劇の枠を超えて光輝に満ちていたのは戦後20年ほどの歳月であったと思う。以後、文化座のように批評精神を失わず、商業主義に陥らず活動をしてきた表現集団が、三好の戯曲を繰り返し上演することによって、その息吹を再生してきた。
 私のように団塊の世代の最期に属する者にとっての三好とは、そうした演劇に接することによって、その舞台の感銘を触媒として彼の旺盛な活動の一端を知ることになった。
 おそらく、私が三好の存在を巨(おお)きなものとして意識するようになるのは民藝のヒット作であった『炎の人 ゴッホ』の舞台ではなかっただろうか? 三好がそれを書いたのが1951年であり、直後に民藝が滝沢修の主演で初演している。その後、幾たびも繰り返し上演しているので、それのどれかを観ているはずだ。
 
 以来、私自身がながく海外に居住したことで日本の演劇は疎遠なものになってしまった。
 今回、三好が敗戦直後、焦土の東京に立って構想したと思われる『廃墟』に接して、私のなかで三好十郎の名が否応なく蘇生した。
 『廃墟』は1946年頃の東京のどこか。都心からそう離れていない場所であることは台詞から知れる。
 焼け残った廃屋のような家、家の床には防空壕が掘られていた。いま、その防空壕に土を埋め戻している、という敗戦直後の混乱。その家に身を寄せ合う家族、縁者たちが織り成す晩餐というにはあまりにも貧しい食卓の席での物語だ。
 病身の初老の大学教授、敗戦で釈放されたマルキストの長男、特攻隊の生き残りでいまはヤクザ稼業で自暴自棄となっている次男、空襲で顔に醜い火傷を追った長女、これに長男の釈放をみて家を飛び出してきた人妻、戦前アメリカに暮らしていたらしい男、そして次男の愛人であるらしいダンスホール務めの女、加えて戦争のためか言葉をうしなった乞食の闖入(ちんにゅう)・・・あの時代だから、境遇を超えて一つ屋根の下で暮らしていた、暮らすしかなかった。そういう〈家〉というのは当時の日本には無数に存在しただろう。

 慢性的な飢餓状況のなかでは自尊心すら剥奪される。しかし、発言の自由はあった。三好は、そうした敗戦直後の市井のむき出しの姿、東京裁判が進行していくなかで冷静に焦土の精神風土を直視していた。複眼的に。
 廃墟は再生の出発点だ。建物の再建だけを意味しない。荒廃した日本を再生するために精神風土も鍛えよ、と三好は祈願していた。
 焦土に放り出された知性に虚飾はいらない、自分を晒け出し議論し尽くし未来の日本のために、という想い烈しさが台詞に横溢する。そこには思想の優位性など存在しない。正義の価値観すら右往左往している。マルキストの長男の言葉がむなしい。正義の価値観すらゆらいでいた時代だ。特攻隊崩れの次男の言葉が重い。
 「あんたたちが餓えずになんとか生きているには誰のおかげだ。あんたちが蔑むやくざ稼業で稼ぐ俺の金だろう。理想でなにが喰えるんだ」
 戦後数十年、いや、いまでも時どき描かれることがあるが、映画や小説中にこの「特攻隊崩れ」という若者がよく登場し、ひとつの戦後光景が象徴されるわけだが、この三好の芝居をみていて、「特攻隊崩れ」の原型がここにあったのでは、と思うようになった。坂口安吾の「堕落論」はこうした精神風土を背景に出てくるわけだ。
 *5月29日、東京・駒込、劇団文化座アトリエ公演。

花もつ女たち №49 ジョセフィン・ベーガー 

ジョセフィン・ベーカー
(米国・フランス。歌手・舞踏家 1906~1975)
ジョセフィン

 作家へミグウェイがジョセフィンを指して、「もっともセンセーショナルな女」と語った。パリで彼女のステージに接した作家の前に
「褐色の女神」と現われた。
 米国南部に、ユダヤ系スペイン人の流浪の音楽家を父に、アフリカ系米国人の洗濯婦を母にして生まれた。父の顔はしらない私生児として極貧のなかで育った。後年、彼女が人種差別撤廃運動に関わる背景だ。
 
16歳から踊り子としてキャリアを積み上げ1925年、19歳でパリに「レビュー・ネ グロ(黒いレビュー)」でデビューすると、たちまち時代の寵児となった。長い手足、よく動く活発で雄弁な瞳、全裸同様のコスチュームで“時代”を悩殺したといえようか。
 第一次大戦と第二次大戦の端境期のパリ。世界中から個性的な才能が蜜にあつまる蜂のように群がった。忍び寄る大戦の影薄くしようと誰もが強い照明を与えていた時代。その照明の中心でジョセフィンは野生的な肢体を惜しげもなく晒した。
 この頃、パリで録音されたベーガーの歌はほとんどデジカル化され今日では容易に聴けるが、時代の大気というのはすこぶる濃厚なものでベーガーの歌、そして背景の音楽に“時代”が刻まれている。

 旧大陸で成功した最初のアフロ系米国人女性だったが、母国に帰れば、ただの黒人でしかない。ベーガーは当時の一時帰国の際に受けた、二ガーとしての劣等種族あつかいに憤怒する。そんな抜きがたい人種差別の風土に嫌気をさしフランス国籍を習得することになる。大戦下では自由フランス軍の秘密情報活動に携わった。むろん、無償の危険をともなう。“愛国”的行為だ。戦後、ドゴール時代に同国の最高勲章が授与されている。
 
 ふたりの日本人男 性の養母でもあった。敗戦直後の日本から戦災孤児を養子に迎え育てた。世界中から13人の孤児をあつめて運営した施設「虹の部族」はベーガーの夢の実現ではあったが、理想とは違った。その物語はベーガー晩年のもう一遍のドラマとして紐解かれてよう。  

花もつ女たち №48 清原雪信(画家 1643~1682)

清原雪信 (画家 1643~1682)

 江戸時代を生きた女性画家のなかにあって、雪信の作品は例外的に数多く今日まで保存のよい状態で伝わっている。狩野派一門の絵師であった。
雪信「花鳥図」東博 「花鳥図」東京国立博物館所蔵

 狩野探幽によって創始された江戸狩野派は、徳川幕府の御用絵師の地位を獲得すると、その権勢をえて全国各藩に絵師を派遣し巨大な組織を作り上げた。典型的な男社会であったが、そうした絵師の妻、娘のなかから見よう見まねで絵筆をもつ者がでてくるのは自然の成り行きだし、どの世界にも門前の小僧はいるものだ。雪信もまたそういう娘だった。

 江戸期300年の平安は狩野派人名録に数百人が記されることになるが、女性の名は少ないし、伝記的な挿話が伝えられる才能となれば雪信をふくめて3~4人を数えるのみだ。
 家元制度にも似た世襲制のなかで、伝統的な規矩(きく)を守っていればお家安泰といったぬるま湯の安逸が生まれた。絵は類型化し、そこそこの技量の習得で描ける作品ばかりが蓄積されていった。
 雪信の父・久隅守景は意識的にそうした規矩を取り払い、狩野派にあたらしい滋養を取り込もうとした才覚があった。水墨画にもあざやかな才能をみせた父の後ろ姿をみて育った雪信だから、女だてらに、といった声を無視して貪欲に学ぶことができたのだろうし、父もまた娘に手ほどきをしただろう。

 雪信が遺した絵は多彩だ。屏風絵のような大作もあるし、大和絵の伝統もこなした色彩感にあふれた華麗な絵も遺している。描くことになんらためらいもみせずにのびのびと絵筆を執っているのだ。そうしたことができたのも家内の理解があったからだ。
 しかし、雪信の美質は「鶉(うずら)図」のようなデリケートな筆触で描かれた静謐な雰囲気の絵に表れているようだ。東京・上野の国立博物館には一対の「花鳥図」が所蔵されている。

 結婚後、京都に活動の場を移し、夫の病いなどもあり、文字通り絵筆で家計を支える職業的な絵師として知られるようになる。雪信の作品が多く遺された理由だ。そして、それらの絵は京・大阪、関西の文人たちに尊重されたらしい。井原西鶴は『好色一代男』のなかで、雪信が遊女の白繻子に、秋の野を描いたという挿話をまことしやかに記している。
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