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バルトーク・ベラの晩年  ~没後70周年を迎え

バルトーク・ベラの晩年  ~没後70周年を迎え
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 2年前の3月下旬、季節外れの大雪に見舞われたブタペストに滞在していた。
 投宿したホテルの近くに、ネオルネサンス様式のブラペスト歌劇場の威容があった。ドナウ河両岸の観光スポットに向かう道すがら歌劇場の前を幾度も行きつ戻りつした。シーズンオフの劇場は重い扉に閉ざされたままだ。その扉の横に劇場内を見学できる小さな扉があって、スーベニールのお店に直面するという配置だ。
 歴史を刻みこむ重々しい回廊の奥からバルトーク・ベラの音は立ち上ってこない。耳を澄ませば、リストのピアノ、マーラーの歌曲が聴こえてくるような気配はあるけれど、バルトークはそこにない。彼の盟友ゾルタン・コダイの音も存在しない。バルトークの歌劇『青髭公の城』の初演の場であったと知っても、劇場ファサードの扉はバルトークを閉ざすばかりだ。

 バルトークの音楽は劇場の近くを流れるドナウ河が市街地に入る手前の村落、流れる先の肥沃な大地で民衆が育てた民俗音楽の泉から水を引き滋養としたものだ。そう、それに間違いないのだが、バルトークがマジャールの自然に分け入り採譜の旅に汗を流す前に、ポルトガルの旅の途上、ジブラタル海峡を越えてアフリカに渡り濃密なアラビア音楽の音色に浸っている。
 バルトークはその音楽に魅了される。おそらくウードを中心にしたマグレブのアンサンブルだろう。そして一日5回、中空を流れるアザーンの祈りの旋律にも耳を澄ましたことだろ。
 西欧のアカデミズムが育てた音楽とまったく異質な響きとリズムに霊感を与えられたということだ。
 バルトークは後年、回顧する。
 「私はかつて知ることのなかった生命の燃焼による昂揚感に充たされると、広く散逸し、当時何の脈絡もないように見えていた土着の歌を関連づけて編み上げた音楽分布図を、さまざまに思い描いていたのだ」(*)
 
 
 ハンガリー民謡の採譜がバルトーク芸術の母胎、温床、という形容は繰り返しきかされてきたものだが、作曲家をしてそれを駆り立てる動機を与えたのが北アフリカの大地にあったことは不勉強かも知れないが、見落としてきた。バルトークは最初の短いアフリカ行の後、再度、旅装を整え採譜して回るのだ。
 バルトークの盟友コダイは、ハンガリーの土俗音楽の蒐集に充足したが、バルトークは違った。最初から国境を越える好奇心の赴くままに歩を進めた。ハンガリーをベースキャンプに国境をまたぐ。

 そんな作曲家が死んで70年を迎えた今年、各地の演奏会場で例年になくプログラムにのることになった。けれどバルトーク・プロだけの演奏会はない。モーツァルトやショパンのようには客が呼べないという実益性からだろう。
 しかし、晩年の傑作であり難曲の『管弦楽のための協奏曲』の演奏回数が目立つ。しかもアマチュアのオケが取り上げているのが目立つ。日本の音楽レベルは高い。アマでも難曲に挑戦する力がある。

 バルトークの最晩年は米国ニューヨークにあり、そこで客死した。
 遺言でソ連の影響下にあるような祖国に埋葬されたくないと記した。『管弦楽のための協奏曲』の一部にソ連のショスタコーヴッチの交響曲『レニングラード』の一節が批判的、いや揶揄的に登場する。そのスコアは瑕疵(かし)だ。芸術音楽としてみれば不用だが、作曲家の民族性、反骨がそれを記した。20世紀前半、国際政治に翻弄された小国に生きた芸術家の苦悩が没後70周年の今年、蘇生するのだった。 

 バルトークが米国に事実上、亡命生活を求めた際、携行したトランクのひとつが紛失した。そのなかに、バルトーク自身が採譜した膨大なルーマニア民謡のコレクション、手稿が失われた。しかし、多くのトランクの一つにもルーマニア民謡のコレクションがあったらしく、それの研究を米国ではじめている。もともと、米国でのあらたな生活を決意させた要因のひとつに、ハーバード大学で収蔵され、適任者がいないまま放置されていた中部ヨーロッパの民族音楽コレクションをコロンビア大学に貸し出し、そのコロンビア大学からの研究費用をバルトークの生活に役立てるという具体案があったことだ。
 バルトークは民族音楽にはじまり、終わった特異な作曲家であった。
  *アガサ・ファルセット著『バルトーク晩年の悲劇』(野水瑞穂・訳/みすず書房刊・1973)
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花持つ女たち №53  マリア・イスキエルド(画家*メキシコ 1902~1955)

花持つ女たち №53
 マリア・イスキエルド(画家*メキシコ 1902~1955)
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 ラテンアメリカの風土は人の営みをまるごと呑み込んでしまう。
 青春の訪れは早く、たちまち去ってゆく。
 少女たちは概して早婚、母なることを急ぐ。乳房は男の愛撫(あいぶ)に応えていた柔らかな肉は、幼子へ献身する母乳の泉となる。けれど、したたかな女たちは子への献身と、異性と自らの欲望に忠実な器官としていかす。そうやって彼女たちは急ぐようにして青春を磨り減らして老いてゆく。
 
 マリアの生涯をみてゆくとラテン女の典型像が結ぶ。ただし、彼女には芸術的霊感を受け止め、それに導かれた生を送ることができた。しかし、その生活もけっして経済的余裕を生みだしたわけではない。霊感はコーマシャリズムとは無縁な孤高の高みを歩いたからだ。その作品を通してマリア53年の苦難の軌跡な浮き彫りされる。
 メキシコの風土性、そのなかで生を享けた女たちの吐息に耳を傾ける。自分の体内に渦巻く吐息を客観視するためにマリアは絵筆で腑分けするのだ。
 マリアの心象光景に駆りだされるのは日常雑器、メキシコの大地が育む農作物、平凡なガラクタ、あるいは調度品。写実的に描かれながらも、ささやかに歪みを加えながら描かれている。いっけん理解しやすいようでいて難物の極み。
 一度、視線を絵に落とせば、なかなか解放させてくれない粘着性もある。論理的思考の強制ではないか。感覚的なもので、そこでは経験値による知識は軽侮なものとなる。そんな感じ(といっても未見の人にはいささか判断できないものであることは重々承知で書く)の絵ばかり描いて、生活はいつも困窮していた。
 
 当座の金を工面するために大きな絵を適当な大きさに切って額装し、売りやすい価格を設定するという画家にしてみれば自裁ともいえることも自らに強いたのだった。


 マリアが本格的に絵の勉強をはじめたとき、すでに三人の子をもつ母親であった。
 その時代の教師であったディゴ・リベラ(フリーダ・カーロの夫)は、「彼女はすでに完成した画家だった」と評している。
 学びはじめてすぐマリアの作品はギャラリーに展示され、遠くニューヨークのギャラリーで“有望な女性新人画家”と紹介されるべく一群の作品が送られた。
 しかし、専門家の批評の高さは経済的な労苦を解消するには至らなかった。終生、財布のなかは満たされなかった。
 
 最期の7年間は、利き腕が麻痺するという半身不随のなかで、生活の糧を得るために描きつづけなければならなかったマリアであった。
(マリア・イスキエルドはじめメキシコ、ラテンアメリカの女性画家に関しては、拙著『フリーダ・カーロ ~歌い聴いた音楽』(新泉社)の第2部にそれぞれ章立てて掲載しているので、ご興味のある方は参照されたい)

ドイツの女優ニーナ・ホス

 昨日、試写でニーナ・ホス主演の新作『あの日のように抱きしめて』を観てきた。公開は来月中旬なので、その辺りで批評を書こうと思う。2012年の映画『東ベルリンから来た女』で日本に広く存在感を示した知的で怜悧な印象をうける女優ニーナ・ホスが主演した映画である。監督も『東ベルリン~』を撮ったクリスティアン・ベッツォルト。同監督には『東ベルリン~』公開前にインタビューをしていて、このブログにも掲載しているので参照されたいが、今日は忘れないうちと思い。ニーナが2008年に主演したドイツ・ポーランド合作映画『ベルリン陥落 1945』についてメモしておきたいと思った。

1945ベルリン陥落
▽「ベルリン陥落 1945」2008年・ドイツ・ポーランド映画 マックス・フェーベルベック監督
 冷戦終結、東西ドイツ併合後のドイツ映画は、旧東ドイツの歴史、そこに生きた「東」ドイツ人の心の襞に分けは入ろうという心性を隠さなくなったし、なりより戦争に敗れたドイツがこうむった悲劇を民衆の視点から描きなおす主題が顕著に出てきていると思う。ハリウッド映画あたりに叩かれつづけたナチ時代のドイツだが、いつまでも叩かれ続けているわけにはいかない、という思いを強く感じるようになる。
 本作もまた、ソ連兵占領下のベルリン市民の日々、とくに女性立場からソ連占領の是非を問うようにリアリスティックに描かれたものだ。これには原作があった。1911年生まれで2001年死去のドイツ人女性の手記が、1954年にアメリカ合衆国で出版されて売れた。1945年4月20日より6月22日までの日付となっている。1959年、署名入りで西ドイツで出版されたが、手記をまとめた女性に対して非難がなされた。彼女の死後、署名を明かさな いということで再出版となった。そういう曰くつきの本だ。

 1945年4月末のベルリン侵攻してきたソビエト軍兵士らの強姦および敗残兵狩り、そして、ドイツ人市民とソ連軍兵士の対話をリアリスティックに描いた映画である。

 ソ連兵士によるベルリンでの日常的な強姦についてはかつてドイツの女性監督ヘルマ・サンダース・ブラームスが『ドイツ・青ざめた母』に描いていた。ソ連兵士は東では満州の日本人婦女子を暴行し、西ではドイツ女性たちを犯していた、ということだ。

 本作は、その事件のいわゆる精神への殺人というものがどういうものであるか、を克明に描いている。この映画はポーランドとの合作である。ポーランドもまたソ連崩壊後、ソ連政府の決定として行なったポーランド士官級兵士を根こそぎ抹殺するという愚挙を指弾した映画『カティンの森』を制作しているが、その意味でも本作が合作になったのはうなずけるところがある。

 この映画に、ロシア語に堪能なジャーナリスト役をニーナ・ホスが演じた。夫は出征したまま生死不明だ。
 彼女もまたソ連兵士にレイプされるが、この異常な時代の“罪”として彼女の精神は均衡を保つ。笑顔はみせないが、この時代をなんとか生き延びてやろう、そしてこの目でみたこと、自分のうちにおきたことを寸分見逃さないという冷徹な強さをもつ。ソ連将校とも一時的な恋愛関係に陥る、しかし、それが本物の愛であるのか、勝者に取り入ることで現在の苦難をやり過ごせると計算する自分の心の反映なのか・・・その辺りは彼女自身、定かではない。そんな複雑な心理をよく体現できる女優さんなのだ。その演技力は後年の『東ベルリン~』、そして新作『あの日の~』に引き継がれた。
 ふと、私的な感慨がわく、ニーナ・ホスなら、あのレニ・リーフェンシュタールを過不足なく演じ切れると・・・・・・。

グァテマラ映画『火の山のマリア(イシュカヌル)』

ベルリン映画祭で受賞した
グァテマラ映画『イシュカヌル』
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 グァテマラ映画『イシュカヌル』(邦題「火の山のマリア」)が各国で評判になっている。
 同国の“文化”がラテンアメリカ地域を超えて国際的な話題となるのは1992年、同国先住民キチェ族の出身のリゴベルタ・メンチュウがノーベル平賞を受賞して以来だろう。
 30歳前半だったハイロ・ブスタマンテ監督(現38歳)が初の長編に挑戦した『イシュカヌル』がベルリン映画祭で新しい視点を提出する画期的な作品に贈れるアルフレッド・バウアー賞を獲得したからだ。
 今までアンジェイ・ワイダ(ポーランド)、アラン・レネ(フランス)といった巨匠が獲得してきた賞だ。
 表題は、同国第二の言語集団カクチケル族の言葉で「人吹く山」。実在する活火山で、天気の良い夜などは太平洋沿岸からでも溶岩の流れる様子が煌々と眺望できる。この山麓でコーヒー農園の小作農として働くカクチケル族の17歳の少女マリアが、親から押付けられる結婚を拒否、先住民女性としての誇りを抱きながらも共同体の因習から抜けだそうと葛藤する物語。ストーリーはシンプルだが、ハイロ監督がカクチケル語やマム語(同国先住民言語のなかでは三番目に使用人口が多い。一番はリゴベルタ・メンチュウ女史の母語であるキチェ語)も学びながら先住民習俗、民族宗教、そして文化を学びながらシナリオを書下し、フランスからの資金援助を受けて丹念に織り上げた詩情豊かな作品だ。
 グァテラマ映画が国境を越えてスペイン語圏で話題になったのは36年の長い内戦が1996年に終結したが、その数年前に中国系グァテマラ人が監督した長編映画以来だろう。その作品は、同国で唯一の民族主義的な社会主義政権を樹立したハコボ・アルベンス・グスマン大統領が米国CIAの介入によって倒された時代を描いた作品で、その映画が一般公開されたことは、グァテマラ民衆に内戦が近いと実感を与えるものだった。何故なら、グスマン大統領が武力クーデターに倒されたことから内戦が始まった、と同国では認識されていたからだ。
 その映画を通って今度は、グァテマラの主要民族であるマヤ系先住民を主人公にした先住民言語による叙事詩が完成したことで、この国はやっと民族性をスクリーンに映し出すことができたといっていいだろう。

 「資金は少ないけど時間と情熱だけはふんだんにあったからね」とは受賞後の監督の言葉だ。
 俳優も実際のカクチケル族のマリア・メルセデス・コロイが主人公の少女を演じる他、舞台そのものも実在のカクチケル族の集落だ。
 本作、ベルリンで評価される以前、スペイン、メキシコ、コロンビア、コスタリカ等、各地の映画祭でグランプリ、またはそれに準じる賞を獲得してきた。すでに国際的評価を得ている映画だったがグァテマラ国内で上映される機会がなく、ベルリン映画祭での評価の後押しを受けて8月にやっと上映されることになった。あるいは公開が前倒しになる可能性もある。国際映画祭の価値というのは、そうした実際の興行的な力を発揮することで明らかになる。現在、そうした力を持つ映画祭は米国のオスカー、カンヌ映画祭、そしてベルリン映画祭だけではないだろうか。
 グァテマラだけでなく中米各国の映画興行は米国資本のシネコンの進出で、メキシコのように映画制作の多い国では上映スクリーンを優先的に保障する規定があるが、中米地峡諸国のように生産本数が極端に少ない国には、そうした制度は存在しない。米国資本の商業性が優先されている。という事情から『イシュカヌル』は先行して国際的な評価を持って国内上映に結びつけたともいえる。
 グァテマラはマリンバの国。第二の国歌といわれる「ルナ・デ・シェラフ(シェラフ(現ケツァルテナンゴの古名)の月」もマリンバで演奏される。メキシコ南部からニカラグアまでがマリンバ文化圏、つまりマヤ系先住民生活圏で育まれた音楽。本作のなかでもマリンバの音が上ってくる。その乾いた情感溢れる響きは、木製の反響筒からかもし出される。日本や欧米使われる反響筒は金属製だが、中米では木製。マリンバに使用する木材を中米ホンジュラスから輸入する日本だが、マリンバそのものは輸入されていない。(2015年6月記)

オマル・シャリフ、逝く

 映画「アラビアのロレンス」は70ミリとシネラマ・サイズで、ともに1度づつ観ている他、通常のシネマスコープサイズやビデオを観ている。「ドクトル・ジバゴ」も70ミリの公開時にみている。ともに英国の名匠デヴィド・リーン監督作品だ。都内に70ミリサイズの映画を上映できる映画館が複数あった時代の映画人、それが故オマル・シャリフの全盛期となるか・・・。
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 (恣意的な余談を書くことができる場が、ブログだから、いま、思い出すままに都内にあった70ミリ上映可能だった今は無き映画館を記憶にたどって書いてみよう。すべて70ミリ映画を観たところだ。
 有楽町駅周辺に、丸の内松竹、丸の内ピカデリー、有楽座、築地にむかって松竹セントラル、東劇、京橋方面へいくとシネラマ専門館、テアトル東京があった。松竹セントラルもシネラマ対応劇場で、ここでシネラマ版の「風と共に去りぬ」などを観ている。テアトル東京は約1年間、「ウエストサイド物語」を上映したところだ。ここの最終上映作品がマイケル・チミノ監督の「天国の門」だった。「ディア・ハンター」後の大作として期待されながらも大コケした作品だ。新宿にはミラノ座があった。渋谷、池袋にはなかった。渋谷パンティオンが上映可能だったか? 映画館とは違うが、いまはホテルとなってしまった浅草国際劇場もレビューの間に松竹映画の新作を上映することがあったが、あのステージは十分、シネラマを公開できる大きさがあった。・・・・私も古い時代の人だな、とつくづく思ってしまう。
 余談の余談だが、松竹セントラル内に日本ではじめての公式のビートルズ・ファンクラブが作られた。そこを連絡所としていた時期は短かったはずだが、当時の同劇場支配人が熱心な女子校生たちの熱意におされるようにして設けたものだった。余談の余談だが、その最初のファンクラブのメンバーの一人が私の最初の妻だった。ビートルズの東京公演をファンクラブ幹部の特権だろうか、なんと2度参加している。彼女は詳しく語ることはなかったが、なんらかのコネクションがあったはずだ!)

 「アラビアのロレンス」(1962)を70ミリの大スクリーンで最初にみたときのアノ冒頭近くの広大な砂漠の光景、3分の長回しの有名なシーンを忘れがたい。その3分と独占したのが砂漠と太陽と、そしてオマル・シャリフだった。砂丘の稜線から点となって登場し、やがて蜃気楼のゆらぎのなから姿をあらわすベドウィンの若き酋長アリ、それがオマル・シャリフだった。ロレンスを演じたピーター・オトゥールより、オマル・シャリフの方があざやかな印象を遺した映画だった。
 3年後、リーン監督の代表作のひとつとなる「ドクトル・ジバゴ」に主演する。オマル・シャリフが出演した映画のなかでもっとも好きな作品だ。
 ノーベル文学賞を受賞しながら授賞式に参加することがゆるされなかったソ連の作家パステナークの原作を映画化したものだ。ロシア革命の否定的要素が濃厚に綴られていたためソ連国内では発禁、ひそかにイタリアに持ち出されて出版された小説だった。ソルジェニーツィンの「ガン病棟」が現れる前のソ連時代という政情だ、パステルナークは当局に「受賞辞退」の信書を書かされている。「ドクトル・ジバゴ」がロシアで刊行されるのは彼の死後27年を経てからだ。
 青年医師で詩人であったユーリー・ジバゴの愛の物語がロシア革命の動乱期のなかで展開される。アリ酋長とはまったく異質な心の内を沈黙で語る演技を要求される役をオマル・シャリフは見事に演じた。

 「ドクトル・ジバゴ」から4年後、オマル・シャリフはアルゼンチン人を演じる。
 エルネスト・チェ・ゲバラである。名優ジャック・パラスがカストロを演じ、当時のハリウッドにあって社会派の一角を担っていたリチャード・フライシャーがメガフォンを撮った。この映画「ゲバラ!」は、日本のゲバラ・ファンにはすこぶる評判が悪い。
 シャリフ
 チェ・ゲバラがボリビアの山中で敗走中捕縛され、射殺されたのが1967年10月だ。つまり、映画「ゲバラ」は彼の死から、さほど経っていない時期に映画化が机上にあがっていたということだ。資料がまだ十分に揃わない時期にこれだけの映画が制作されたということで注目される。この映画の後、数本のゲバラ映画が制作されるが、オマル・シャリフはチェ・ゲバラを最初に演じた俳優としても記憶されてゆくだろう。
 革命戦争の非情さを体現したコマンダンテとして描かれている。けっして英雄的に描いているわけではない。後年のゲバラ映画が踏み込まなかった領域、たとえば、革命直後、バチスタ独裁政権の残党、人権犯罪を犯したとされる元兵士、秘密警察官を容赦なく粛清していくシーンがある。革命直後の混迷期の悲劇として描かれるわけだが、革命事業を維持し継続させ、大国米国からの圧力を跳ね返すため、ソ連に要請してミサイル基地を建設させる計画を立案したのもゲバラだが、そうした事情も描かれている。
 ゲバラがソ連にもとめた賭けは、やがて「キューバ危機」へと発展するのは周知の通りだ。後年のゲバラ映画は描いていないところだ。
 従軍医師として参加し、やがて有能な兵士、またたく間に軍事指導者となり、カストロの片腕になっていき、革命成功後に閣僚として参画した推移、そしてボリビアでの失敗。そのボリビアでの負け戦が、ゲバラの自著「ゲリラ戦争」にもあったことも、また史実。ボリビアの将校が語る、「俺たちはあんたの書いた本に学びながら、あんたをおいつめたんだ」。あんたは自分で自分の首をしめたようなものだ、と。歳月は自分の書いて本すら“敵”となる。それを慫慂とうけいれるゲバラを演じた。
 オマル・シャリフが造形したゲバラ像は、その後のゲバラ俳優に大きな示唆を与えずにはいられなかっただろう。

 晩年、オマル・シャリフはパリ在住のトルコ人として、再び元気な姿をみせる。
 2003年のフランス映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」。71歳のオマルにとって、この映画が最後の秀作となった。
 善意あふれる映画だが、ここには映画に関わった人たちがけっして声高く訴えるのではなく、ヒューマニズムのなかに溶け込まし、現在の中東地域の紛争のなかで“宿敵”のように図式化されているイスラム教徒とユダヤ教徒の軋轢をこんなふうに希釈したいという思いが伝わってくる。
 舞台はパリの下町、娼婦たちが白昼から徘徊するような界隈を中心に描かれる。そこに住む、ユダヤ人の父子。頑迷偏屈な父はいつも一人息子を疎んじ、やがて仕事がうまくいかなくなった父は出奔し、鉄道に飛び込んでします。遺されたモモ少年を養子に迎え入れるのが万(よろず)屋といった小商いの初老のトルコ人イブラヒム叔父さん。叔父さんはパリでは身寄りがないようだ。彼は幼いときから少年を付かず離れずと見守っていた。その少年の父が死ぬと、外国籍であるために難行しながら、やがて少年を養子に迎える。そして、店を処分してトルコの田舎に車で帰還する。
 旅の過程スイス、バルカン半島を南下し、ギリシャからトルコへと車はひた走る。その道程でイブラヒム叔父さんの社会観、世界観がうかがえる短い台詞が印象的だ。
 叔父さんが帰依しているらしいのだが、コンヤ市でイスラム神秘主義を象徴するスーフィイズムの旋回舞踊の祈りの場に出て行くシーンなどがあって興味深い。日本でも世界各地の民俗舞踊を紹介する公演などで演じられたことがあるが、基本的に宗教儀礼であるのだからステージ、というのはいただけないと思いながら接したことがある。この映画はその意味では親しく旋回舞踊を見物できる貴重な映像でもある。
 かつてコーカサスの神秘主義思想家グルジェフの思想をテーマにした映画が紹介されたことがあるが、そこでも旋回舞踊が登場した。スクリーンでは私には2回目の見物となった。・・・と雑駁だが、そういう映画だ。補記すれば、本作のBGMには60年代後半のポップスが頻繁に登場する。ビートルズやローリング・ストーンズのヒット曲ではなく、その周辺、たとえば米国西海岸で活動し、日本でも一曲だけヒットしたウィリー・ゴメスとサムジャシャムの曲も聞ける。日本でヒットした当時、米国のポップスという紹介だけだったが、実は彼らはチカーノ、メキシコ系米国人で、メキシコのロック史ではメキシコ人アーティストとして紹介されている。1篇の映画からほんとうに多様なメッセージを受け取れるものだ。
 
 ジンギスカンも演じた。そう、歴史上の人物を演じつづけてきたという意味では米国のチャールトン・ヘストンに比較できるだろう。しかし、ヘストンのように男ぶりが強調されるようなマッチョな役柄は自ら排していた。ゲバラの役作りもまた喘息もちでありながら、それを気力で乗り越えようとした男として演じている。  合掌。

花もつ女 №52 梶原緋佐子 (画家 1896~1988)

 九十一年の長寿を全(まっと)うした緋佐子の世界を眺望するれば、京の女人風俗、市井の女を描きつづけ、熱心な愛好者に恵まれた生涯となるだろうか。

 筆者にとって緋佐子画として立ち上ってくるのは、大正時代に20代の若い筆が描いた社会の底辺に働く、貧しい女たちの生き様を切り取った作品。
 美術批評の視線でその時代を鳥瞰すれば、京都画壇の若い画家たちの一部に官能的で退廃的な作風がみられた時代となるだろう。淪落(りんらく)の女たちを描く若い女性画家も出た。当時の大正デモクラシーの高揚、社会的現象を知れば、若き鋭敏な感性が庶民の実相を描写しようと働くのは“時代の子”としての必然でもあったからも知れないし、若者たちの精気は社会矛盾から目を逸らすことができなかったということだろう。
 古着市
 「古着市」は緋佐子24歳の筆が描きとめた初期の代表作である。
 そこには官能も退廃もない。緋佐子の世界には終生、その甘美な毒の要素は入りこむことはなかった。
 「古着市」の女に描き込められているのは、生きてゆくことの困難さに押しつぶされそうになっている女の気配だ。「古着市」の2年前に「暮れゆく停留所」という作品に通じるものだ。それは停留所のベンチで1日の疲れを人知れず慰安しようとしている女を描いている。22歳の女性が描いたとは思えない生活臭の濁りが留められていると思う。
 そうした美しくもない女、絵としても綺麗とはいいがたい一群の作品を発表した後、緋佐子は時代の風俗のなかに独自の美人画を描きつづけることになる。
 昭和の時代に入ってチマ・チョゴリ姿の朝鮮美人像を描いた「機織」(1933)がある。植民地に残る伝統の美しさを愛(め)で清涼な世界を造形した。
 そうした匂いたつような美人画を眺めつつ、筆者はいつもブーメランのように大正の一時期に描いた下下の女たちの哀歓に引き戻されてしまうのだ。

 昭和に入るとプロレタリア文学の隆盛に牽引されて美術の世界でもさまざまな動くが出てくる。おもに洋画の世界で、一群のプロレタリア美術運動のなかから労働者に寄り添い、貧しい民衆の目線から見た(と作家たちがいう)世相画の類いが生まれるが、今日、そうした絵が美術館の壁に並ぶことはまずない。プロレタリア絵画など今日、まったく顧みられることがないからだ。アノ時代、何千、何万だかしらないが描かれたプロレタリア絵画と称する作品のなかで、緋佐子の「古着市」「暮れゆく停留所」ほどの観照を強いた作品はあっただろうか? 在りえない、としか答えが見つからない。

 

マケドニア映画『ビフォア・ザ・レイン』ミルチョ・マンチェフスキ監督

映画『ビフォア・ザ・レイン』ミルチョ・マンチェフスキ監督(1994)
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 旧ユーゴスラビア連邦の解体とほぼ同時に起きた民族紛争は、戦後、チトー大統領の下での「平和」と「繁栄」を自ら根こそぎ掘り返すような自虐的とも思える惨状を呈した。
 民族浄化の名の下に行なわれた大量虐殺の現実に、昨日まで“ユーゴ人”として民族協和を標榜してきたことがまるでウソ、偽善だったと思わせるものだった。最近も国際欄の片隅にコソボの現職国会議員がスロヴァキアの空港で「人権犯罪」の容疑で拘束されたり、ボスニア=ヘルツェゴヴィナで起きたムスリム系住民の大量虐殺事件の審議が国連でぶりかえすなど、まだまだ解決されていない「ユーゴ問題」があることをしる。

 ユーゴ紛争の激化は、無数の悲劇の断片を拾い集めるように多くの映画が生まれた。本作もその一編である。
 日本でこれまで公開され、DVD化された映画はほぼ全作、観ていると思う。労作、秀作、佳作と評価しうる作品が多かったことはベトナム戦争映画の比率より格段に高いと思う。しかし、民族対立の根の深さ、血涙を滲ませる悲劇を描きながら本作のような映像美をもった作品はなかった。芸術、というなら本作は突き抜けた格調の高さがあると思った。

 マケドニアの首都スコピエ出身のミルチョ・マンチェフスキ監督の初の長編劇映画ということだが完成度の高さは処女作の域を突き抜けたレベル。1994年、35歳のときの作品ということでは旧ユーゴスラビア諸国での内戦が終息していない時期の制作ということで、そうしたキナ臭さが反映しているわけだが、映像は美しく格調すら感じさせる。
 おそらくスコピエを出た後、米国に渡り、そこでCMや音楽のビデオクリップを制作するうちに母国の現状を憂慮し、マケドニア人として、あるいは民族が融和していた旧ユーゴ時代の懐旧もこめて監督自身のマケドニア観、さらに民族浄化、内戦の愚を批判したのだろう。リサーチもよく行なわれている。民兵たちが手にする不ぞろいの銃器はみなセコハンだ。チェコあたりでライセンス生産したと思われるAK-45や、イスラエルが対ゲリラ戦用に改良したウジーなどが出てくる。中米紛争が終局を迎えた直後からパナマ経由でニカラグアやエルサルバドルなどで不用になった銃器がバルカンを目指したことは知られている。バルカンの紛争では銃器の博覧会の様相を呈したわけだが、その縮図として監督は農民民兵にそれらを手にさせている。

 旧ユーゴ解体後、各共和国が独立を目指した際、各地で凄惨な内戦が激化したが、マケドニアはその戦火から免れた国として、独自の“平和”を標榜していた。しかし、映画では正教会系マケドニア人と、国内に3割程度、居住するモスレム系アルバニア人との対立があったことを描き出している。ボスニアやコソボなどの紛争の影でマケドニアの民族対立は目立たなかったというだけの話だろう。

 映画による批判はいくら巧妙に描きはしても政治にダイレクトには結びつきはしない。しかし、描かずにいられないという静かな熱気が節度よく抑制された映像のなかで悲劇が語られてゆく。それはうわ面の批判でなくじわじわと胸に染みこんでゆくような説得力があった。処女作にしてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞など世界の映画祭で賞賛されたのはよく納得できる。

 3つのパートから成立し、1「言葉」、2「顔」、3「写真」となっていて冒頭の1の挿話は、3の終話とつながりメビウスの輪となって映画は永遠に輪廻転生を繰り返すように仕掛けられている。ここで筋書きなどは書かない。話の建て筋はこれまで繰り返されて描かれてきた旧ユーゴの民族間憎悪を基底にしているからだし、監督の主張はそこにないからだ。本作への批評も語りやすい“悲劇”や“政治”通して語っているが、意図されているのはもっと象徴主義的なものだ。

 草原に囲まれたマケドニア正教会の修道院の美しい光景、その修道僧らの生活を映し出す冒頭の映像はほんとうに美しい。
 昨年、訪れたクロアチアもボスニアも自然はほんとうに美しい。ハンドルを握っての長距離走の旅だった。その旅行で当初、スコピエ入りも予定していたのだが、時間の都合がつかなかった。私個人の残された宿題だ。
 
 監督は祖国の自然美を愛でるように写しながら民族対立の根の深さを描きだす。その根を堀り、根こそぎ除去するのはバルカンの地では不可能なのだという諦観が監督にはまたあるように思われる。それが映画にエンドを設けないメビウスの輪のように捩れながら面の交わらない手法を選択したように思われる。秀作である。 (そういえば突然、思い出したが、マケドニアで『グッバイ20世紀』(1999年/アレクサンドル・ポポフスキ監督)という狂喜乱舞のカルト的駄作が撮られている。本作と対極にあるような映画だが、バルカンの“火種”の底に人間心性の狂気が存在しているのだ、というメッセージを覚えた。ロマンチックな狂気を肯定したところに芸術は飛躍する。

*旧ユーゴ諸国の内戦を描いた映画については、「ある愛へと続く旅」(2012)を紹介したブログにまとめて掲載しているので是非、参照を。

シネマート六本木の閉館  ~日韓関係の冷え込みは文化交流の発信地も凍てつかせた

シネマート六本木の閉館
 ~日韓関係の冷え込みは文化交流の発信地も凍てつかせた


 ひと月ほど前、東京・六本木交差点近くにあった地上4階地下2階の映画施設「シネマート六本木」が閉館した。
 そこは韓国映画の日本の発信基地であった。
 最盛期にはスクリーンも5面ほどあったと思う。1階の広いフロアにはカフェテラス、そして韓流スターのさまざまなグッズを展示即売するコーナーもあった。壁に大型のモニターが設置され韓国映画の新作を紹介する予告編がたえず流されていた。

 4~5年ほど前まで、そのフロアには終日、韓国の映画俳優ファンの女性たちがたむろしていたものだ。それが、ここ2年ほど閑古鳥が鳴いていた。客といえば、地下のマスコミ用試写室にやってくるマスコミ関係者ばかりだった。かくゆう筆者もその一人だった。
 韓国から輸入された新作映画は、その試写室でお披露目された。その新作映画が試写室で掛かる本数がここ数年、漸減しつづけた。日本で公開される映画が少なくなれば、必然、グッズ販売の品数も少なくなる。少なくなれば客足も遠のく。悪循環の様相を呈していた。試写に参加するため通うことで、日本で急速にファンを失っていく韓国映画の凋落を定点観測したようなものだ。韓国映画にとって日本市場はむろんドル箱であった。だから合作映画も多かった。

 その合作映画の象徴的な作品は『力道山』だったと思う。日本市場を視野に制作費を計上しようと思えば、朝鮮総督府時代の近現代史を史実を素材に制作することはなかなかできなかっただろう。
 韓国人にとって、普段の反日言動からすれば「三一万歳事件」や「伊藤博文暗殺事件」、あるいは豊臣秀吉治世時代の「文禄・慶長の役」の英雄・李舜臣の物語などは描きたいところであるはずだ。韓国でベストセラーになり、日本でも翻訳された李将軍の物語「狐将」は優れた読み物だった。これは是非、映画化して欲しいと思った。
 歴史劇は制作費が嵩み、それを回収するのは至難だ。
 回収にあたって日本市場は無視できない、と計算するなら、おいそれとは手がだせない史劇モノとなるのだろう。
 日本人の登場しない李王時代モノは繰り返し制作されている。そのなかには見ごたえのある作品も少なくない。そのなかの1本が人気男優ペ・ヨンジュが主演した『スキャンダル』だった。日本ではあまり語られなかったが、当時、朝鮮王室に浸透していたカトリック影響も示唆されていることに筆者にとっては貴重な資料的価値を提供してくれた映画だった。
 映画は手っ取り早く、韓国人の心情や文化事情を映し出す鏡だった。
 ポピュラニストの前大統領が拙速に竹島を訪問して領土問題化し、それが慰安婦問題と相乗して日本人の対韓感情は悪化、さらに韓国社会の制度疲労とでもいうべき大型客船の遭難、地下鉄事故、今なお終息をみない中東呼吸器症候群(MERS)で後進性を露呈するのをみて、観光しようと思う日本人は激減した。筆者も4度、韓国を訪れているが、とうぶん行くこともあるまい、と思っている。最近の世界遺産の登録問題では、日本人の多くは韓国政府から冷や水を浴びせられたと思っただろう。そんななかで大衆娯楽路線で日本に浸透した韓国映画は、その日本「大衆」から忌避されてしまったのだ。

 韓国映画人の創作力が衰えたとは思えない。日本で知れたスターたちも健在だ。
 MERSで混乱する前に計画されていた中国・上海の映画祭には多数の韓国映画の上映が予定されていた。韓国映画人も中国市場にむけた最良のショーケースになると、多くのスターを送り出す予定だった。しかし、中国はMERS感染を恐れ、映画祭直前に韓国映画人の受け入れを拒否した。韓国映画人にとっては泣き面に蜂だろう。

 2ヶ月ほど前、同館の試写室で韓国映画の新作『国際市場で逢いましょう』という佳作を観た。朝鮮戦争後の荒廃から立ち上がり、漢江(ハンガン)奇跡と呼ばれる経済復興、発展を成し遂げた現代史を一家族の物語のなかに象徴させた力作だった。その映画が、閉館した試写室でみた最後の韓国映画であった。
国際市場

 韓国映画の発信基地が失われたことで、映画における韓流ブームは終焉したと思う。システム的に多くの韓国映画の試写を一箇所で行なえていたものが、こんご、都内各地の試写室の日程表とにらめっことなってしまう。文化の市場を回復するのは容易ではない、再興されなければいけないと思うが、ここ数年で亀裂を生じさせた責任を、日韓双方を天秤に掛ければ、どう勘案しても韓国政府に責任があるように思えてならない。

カリブ海の米国自治領プエルトリコの独立運動家オスカル・ロペス

米国のカリブの自治領プエルトリコの独立運動家オスカル・ロペス
  ~マンデラを超える“良心の囚人”
オスカル・ロペス


 5月下旬から6月にかけて断続的に米国ワシントン、ニューヨーク、ロスアンジェルスなどの主要都市、そしてプエルトリコの主都サンファンで一政治犯の釈放を求めるデモ行進が行なわれた。

 プエルトリコはカリブ海北東部に浮かぶ人口370万の島国。カリブ海ではキューバ、イスパニョーラ(ハイチ、ドミニカ共和国)、ジャマイカに次ぐ面積をもつ島国。1898年以来、米国に編入されている領土だ。

 現在、プエルトリコには民族政党が自治政府の議会で活動している。
 米国への州昇格をもとめる新進歩党、現状維持のまま自治権拡大を目指す人民民主党。この両党が二大政党制を確立し、これに現在の状況を植民地として捉え独立を志向する独立党が加わる。
 プエルトリコ人は米国への納税義務がない代わりに、大統領選挙の投票権をもたない。しかし、米軍基地や射爆場のため自治体が二分されたところもあり、米国の軍事戦略の一翼を担っているのは確か。パナマ運河地帯にあった中南米域における最大の米軍基地のから多くの機能がプエルトリコに移され島民の負担は増大した。アメリカにおける沖縄といわれる。
 しかし、2012年に行なわれたプエルトリコの地位変更を巡る住民投票では州昇格派が多数派となっている。それも事実だ。
 しかし、米国議会では、その承認のための審議を行なっていない。プエルトリコ民衆は自分たちの土地の使用権に対して大統領選挙の場で発言することを封じられているのだ。

 スペインの植民地であったことから住民の過半数はヒスパニックで母語はスペイン語。宗教はカトリック。ハワイの先住民がそうであったように歴史的文化的な背景は米国本土とは著しく異なる。
 州昇格派の大半は豊かな米国経済と連動することによる実益を考慮するが、できなら「独立」が望ましいと考えている人も多い。自治権の拡大を求める人たちも本音は「独立」だ。だから、少数政党に過ぎない独立党を存続させ急進的な活動を支えた。同党がプエルトリコの心性を体現しているからだ。
 
 独立活動がもっとも激しかったのは1950年代で、島内では多くの衝突が起こり、米国本土でのテロ活動も展開した。現在の独立党はその流れを汲む。冒頭の政治犯とは1981年、米国の支配権を武力で覆そうと計画したとされる独立運動家オスカル・ロペス・リベラ。当時、プエルトリコの植民地状態を、国際世論に訴え、関心を呼び覚まそうとした急進的な活動だった。米国司法当局によればプエルトリコの民族解放戦線FALNが100件以上のテロを行なったとしている。そのFALNで主導的立場にあったとして逮捕されたのがロペスであった。すでに32年、獄中にある政治犯だ。

 1999年、当時のクリントン大統領はロペス同時期に逮捕されたFALNのメンバー16人の減刑を行なった際、ロペスも減刑対象者になったが、ロペスは減刑の対象にメンバー2名が欠けているとして自らの減刑を拒否した。気骨のある活動家である。

 5月から6月にかけてのデモはワシントンでは数百人規模のものだったが、6月15日のサンファンのデモは数千人規模に拡大、米国の植民地主義政策への抗議デモとなり全米でも注目された。

 ロペスは現在、世界的に注目される“良心の囚人”となっていて、その釈放を求める声はノーベル平和賞を受賞した南アフリカの大司教デズモンド・ツツ、中米グァテマラの先住民人権活動家リゴベルタ・メンチュウをはじめ内外の多くの著名人からあがっている。プエルトリコ内でも、政治的主張を異にする政治家たちもこの問題では連帯していることは注目に価いしよう。
 その背景には6月29日にプエルトリコのガルシア知事がテレビ演説で、「公的債務は返済できない」と財政危機の現状を訴え、約720億ドル(約8・8兆円)の債務について返済期日の先延ばしを訴えるほどまでに悪化した経済状況への苛立ちもあるだろう。債務は米国の対プエルトリコ政策の反映と受け取られているからだ。
 主力産 業の観光業が低迷し、米国本土へ流出する人口が加速し、税収が悪化していることなどが要因だ。米国がキューバと国交正常化を目指して協議している現状はさらに観光業への圧力となる。もともと観光資源の豊かなキューバには革命以前、もっとも多くの米国人観光客を集めていた。
 財政悪化にともなう緊縮財政でさらに景気が冷え込んでいるなかで、ロペスの不退転の民族主義的な独立志向が再注目されていることになったのだ。
 しかし、独立で財政がにわかに好転するわけではないのがプエルトリコのジレンマかも知れない。
 
 毎週土曜日、プエルトリコのスペイン語新聞にロペスが孫娘に送る手紙を掲載している。「海が呼吸する場所」と題された手紙はいま、世界のさまざまな言語に訳されて感動を読んでいる。
 海とともに独自の文化を育んできたプエルトリコ人が、潮の香がまったく遮断された獄中で人生の最良の歳月を過ごすことを強いられた人権活動家の強さとどうじに望郷の思いの深さをしる。それは南アメリカで27年間獄中生活を強いられたネルソン・マンデラの歳月を超える。   

ニカラグア映画考

 前回、ニカラグアのカリブ沿岸地帯に住むガリフナ族の老人が出自を求めて隣国ホンジュラスのカリブ沿岸地帯を旅する一種のロードムービー『ルバラウン』を紹介した。
 東京在住の日本語の達者なニカラグア人女性が丁寧な字幕を入れてくれたドキュメントだった。けれど、この映画がDVD化され市場に出ることは無論、一般上映される機会もありえないので紹介を試みた。
 ついでに、いわゆるコアな映画ファン、あるいはラテンアメリカの文化にアンテナを張る人たちがどれほどニカラグアを映画を通して理解しているのだろうとネットで検索するとまったくお寒い限りだった。まぁ、交流の希薄な現状からすれば仕方がないが・・・ネットの冒頭に出てくるニカラグア在住の方が書かれた報告で、ケン・ローチ監督の『カルラの歌』が、ニカラグアを描いた唯一の作品ではないか、という一語いは正直、あきれてしまった。
 以下、かつて、ここでメモランダムに取りあげたニカラグア素材の劇映画の紹介文を採録しつつすこし追補してみた。

▽『アンダー・ファイアー』 『カルラの歌』『アルシノとコンドル』、そして、『ウォーカー』
 ニカラグアではじめて制作された本格的な劇映画は『アルシノとコンドル』であっただろう。ニカラグア・サンディニスタ政権が全面的に肩入れした映画ということで、最初から立場が明確で、教条的ではないが反米色の濃いドラマだった。監督は当時、母国チリのピノチェット独裁政権から亡命していたミゲル・リッテン。当時、サンディ二スタ政権を支持していたキューバでサウンドトラックが制作されたと思う。前のめりな誠実感が先行する映画だった。

 コロンビアの作家ガルシア=マルケスの友人でもあったリッテン監督だが、その作風は魔術的リアリズムには遠い作劇。監督は、芸術は現実的な政治(かれは民衆というのかも知れないが)に従属するという立場らしく、確か、どこかの国際映画祭の審査員として作品選出した際、芸術性をめぐって日本の某映画監督と論戦になったことがある。その日本人監督はとても穏やかな人だったが、その人をして、反発を起こさせるほどリッテン監督の思想性は亡命者として生きる強さを反映したものかも知れないが、柔軟性とは無縁だったらしい。

 むしろ政治性ということでは米国ハリウッドの資本が若手の才能を見出すために低予算での映画を製作させたB級映画に、サンディニスタ革命政権の打倒をめざし、隣国ホンジュラスから攻め込む米軍支援のコントラ軍の一兵士となったヒスパニック米国人兵士の“回心”を描いた映画『ラティーノ』(バスケル・ウェクスラー監督/1985)のほうがわかり易く説得力があった。しかし、日本のづクリーンでは上演されずVHSで販売されただけで注目されなかった。

 ケン・ローチ監督は、英国映画の“良心”という評価がある。それは主にアイルランド問題を主題にした数作の作品に対する評価として生じたものだが、『カルラの歌』もまた虐げられた者の立場から撮られた作品だった。弱者の視点から政治悪を眺めれば、たいていの映画は“良心”的にみえてくるものだ。そういう安易さを感じる作品だったが、良心的な映画であることには間違いなかった。 あまり評価されていないニカラグア内戦期を描いた映画に『アンダーファイアー』があった。ハリウッド映画らしい善意にあふれた映画だが、敵役の配分も滞りなく説得力にみちた大衆性ももった作品だった。
 当時、人気のあったニック・ノルティを報道写真家として主役置き、ジーン・ハックマン、そして、フランスの名優ジャン=ルイ・トランティニアン、さらに当時、上昇期にあったエド・ハリスが独裁政権下の雇われ軍人という“悪役”を好演していた。演技陣だけみても相当な資金を投入した作品だ。日本でも単館公開の枠を超えて各地で公開されている。映画ファンのニカラグア理解は『アンダーファイアー』からはじまったといえるだろう。
 1983年の映画だから、私自身が後年、幾度かニカラグアへ取材で赴くことなどまったく想定していない時期に観たわけだ。
 ニカラグアの自然、町の佇まいとは、このようなものであるかと映画で感得していたわけだが、実際に現地に訪れてみれば、ずいぶんと様相が違うのだった。映画はメキシコで撮影されていた。当時も現在も、中米、キューバやドミニカの話でもメキシコで撮影される機会が多い。日本でも評判になったオリバー・ストーン監督のエルサルバドル内戦の悲劇を描いた『サルバドール』もそうだった。その点、ケン・ローチ監督は撮影条件の劣悪さを承知の上でニカラグア現地で撮影しているのは、このリアリスト監督のこだわりといえそうだ。それは評価する。

 メキシコで撮影されることが多いのはラテンアメリカの映画大国であり俳優も技術陣も充実していることと、その自然の多様さが中米らしく撮影できるからだ。かつてハリウッド映画の「ターザン」もメキシコ市郊外で撮影されていた時代があった。

 さて本作『アンダーファイアー』は、サンディスタ革命が成立する直前、内戦下のニカラグア入りした報道写真家が、民衆の英雄となっているゲリラの指導者を求め、奥地へ旅をするという縦筋の前後左右に、内戦下の諸相を描いたものだ。ラジオ・キャスター(ジョアンナ・キャシディ)との恋愛挿話も挟みこみながら飽きさせない。
 当時のソモサ軍事独裁政権を米国は支援していたわけだが、本作はゲリラ側に立った視点から撮られている。

 ニカラグアという国は中米にあって、パナマと並ぶ野球国で、少年たちはサッカーより野球に夢中になっている国だ。そんな大リーガーを夢見る投手志望の若者が内戦下にあっては、手榴弾を遠投するゲリラ兵士となっていること、そして、それが禍して戦死するといった挿話なども適宜配され、ニカラグアという国へのリサーチはそれなりに消化されている。
 音楽は誰が書いたか知らないが、ケーナ、サンポージャを巧み使っているのが印象に残った。128分。

 後年、名優としての評価を勝ち得た時代になってからエド・ハリスはニカラグアを武力制圧し、ニカラグアの大統領に就任した米国人弁護士ウイリアム・ウォーカーを演じている。映画『ウォーカー』がそれ。ニカラグアを描いた映画のなかでは現在の最高傑作ではないかと思う。
 ウォーカーは『風と共に去りぬ』の最終巻に登場する。おそらく、スカーレット・オハラの物語として読む日本人読者のほとんどがウォーカーの挿話を呼び飛ばすか、歴史上の人物と認識しないまま読了してしまうのだろう。
 マーガレット・ミチェルの思想性、南部州にとって奴隷制度は必要なものであるはずだった、という立場は、そのウォーカー観に反映されていた。
 『風と共に~』の訳者は、日本人読者の理解を助けるべく巻末に「注釈」ページを設けているが、翻訳初版から何十年経っているのかしらないが、ウォーカーに関する評価は別として、死去の地など歴史的に明白な事実を間違えたまま現在も訂正されていないことで、いかにニカラグアが日本人にとって縁の薄い国であるかが良くわかる。
 映画『ウォーカー』の監督はアレックス・コックス。スペイン語も話す米国人監督で俳優だ。メキシコでもアート性の濃い映画に出演している個性的な才能だ。コックス監督は映画『ウォーカー』の歴史劇を、20世紀後半の米国の対中米政策へ敷衍しつつ批判的に描いていた。その能動的な批評はベトナム戦争、あるいは湾岸戦争以降の世界にも引用できるものだ。名優エド・ハリスのウォーカーの狂気を快演した。それはラテン諸国でアングロサクソンへの侮蔑的呼称となる「グリンゴ」の悪辣そのものを体現していた。 ケン・ローチの感傷的なアプローチなど冷戦下の中米では甘い。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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