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ラクビーW杯 インビクタス(屈服しない)者たちの勝利の時間差

インビクタス(屈服しない)者たちの勝利の時間差
 ~ラクビーW杯における南アフリカの1995年、そして20年経って

 今更、ここで繰り返すまでもなく実に感動的な試合だった。
 80分の終了間際、ゴール前でペナルティーを獲得、ここでPGを選択していれば同点で終了、引き分けに持ち込むことができた。しかし、PGを選択せず果敢にトライに挑戦、勝ちにこだわった。しかもロスタイムでのなかの選択、反則を犯せば、その時点で負け、となる薄氷のなかで挑戦、、、、後は書くまい、、、、

 この最後の3分はこの試合の凝縮、象徴そのものであった。事実は小説をより奇なりというが、それを衛星放送のテレビの画面、インターネットを通して世界同時体験をさせたといってよいだろう。まるでスポーツ映画のクライマックスそのものの展開であった。
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 ここで映画好きのラクビーファンなら誰だって2009年に制作されたクリント・イーストウッド監督の映画『インビクタス』を思すだろう。

 インビクタスとはラテン語で「征服されない」「屈服しない」という意味だが、日本代表のロスタイムの展開はまさに「屈服しない」者たちの勝利であった。
 そして、負けがきまった瞬間からはじまった南アフリカの選手、そして同国ラクビーファンは否応もなく1995年、ラクビーW杯をはじめて自国開催、W杯初出場、そして初優勝というミラクルを演じた、あの栄光が遠く去ったことを痛切に噛みしめたことだろう。

 今回、イングランド・ブライトンのスタジアムに翻った国旗は日章旗と、南アのレインボーフラッグだが、その南ア国旗は1995年のW杯の主催で世界に認識させたものだ。もう、アパルトヘイト時代の西欧の植民地であったことを思い出せる以前の国旗の存在など忘却の彼方だ。
 95年の南アの代表チームにアフロ系選手はたったのひとりしかいなかった。2015年、それが様変わりした。実力本意で選ばれたであろうというナチュナルな配分である。南ア・ラクビーの成熟であるともいえるだろう。

 95年、何故、ミラクルを演出することができたか、それはアパルトヘイトが撤廃され、25年の獄中生活から解放されたネルソン・マンデラが大統領に就任し新たな国家再建の事業、それは幾多の苦難を乗り越える民族和解の道を開拓することであった。その象徴的なイベントとしてマンデラはW杯に価値を見出だした。
 同国の人口構成をまったく反映しない代表チームに、国民は冷ややかだった。マンデラもそれを十分承知の上で代表チームを激励した。
 「きみたちが新国旗の下で国民の期待にこたえて勇敢に戦う姿こそ大義であり、民族融和の象徴となる」と。
 この時、選手たちはそれまで国のアパルトヘイト政策のため国際試合を禁じられモチベーションのあがらない状況で練習を積んできたことの弛緩を一挙に絞ることになる。しかし、基本的な実力がなければそうそう国際試合に勝てるものではない。それを後押ししたのが、試合を重ね勝利すごとに多数派のアフロ系ファンが声援を送るようになった。その声におされるように決勝戦まで勝ちすすんだ。
 マンデラの政権基盤づくりにラクビーW杯は大いに貢献したのだった。勝利を重ねるたびに世界は否応もなくうち振られる新国旗レンボーフラッグを認識するようになったからだ。

 それから20年、マンデラは故人となり、民族和解は進んでいるとはいえ、貧富の格差はいっこうに縮まらず、相変わらず白人層が国富の多くを占有する状態のなかで、アフロ系労働者の失業率は相変わらず高く、犯罪もここ数年増加の傾向にある。1995年、あたらしい南アの夜明けもすでに古色に染まりはじめている。

 経済政策で有効な手が打てず、といった状況のなかで、もはやラクビーが求心力となるほど南アの現実は甘くない。もう国民にはラクビーに甘い“夢”をみなくなった。今回、日本戦で最終盤で手痛い逆転を食ってしまったのは走りきった後の残余のエネルギーを再燃焼させる発火剤が南アになかったからだ。日本にはそれがあった。

 いま、南アの代表チームに必要なのは宿舎で映画『インビクタス』を観ることではないのか? そこには南ア・ラクビーの原点があるのだから。映画でマンデラを演じたハリウッドを代表するアフロ系男優モーガン・フリーマンは、マンデラ自身が、インタビュー記者に答えて名をあげたことで実現しているのだから。
 
 今、世界中のひとが20世紀の偉人としてネルソン・マンデラの闘争の生涯をしるだろう。しかし、現在の南アの大統領の名を知る者はかぎりなく少数派だろう。
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バレエと映画 4 2本のバレエ映画『ボリショイ・バレエ』『バレエボーイズ』

 華やかに気品をそなえ、激しい跳梁と美しい静止の連鎖に満ちたバレエを、映像があますことなく追い表現できる技術が完成して以降、多くの映画が生まれた。そして、この分野の映画はまだまだ欧米偏重である。日本にダンス映画はあっても本格的なバレエ映画は生まれていない。伝統の力の差だろうが、といって日本のバレエ界が貧困というわけではない。むしろ、豊潤といっていいぐらいだ。邦楽の舞踊世界にそれは劣らないが、それはまたの機会として、最近、つづけて観た2本のバレエ映画を紹介しておきたい。

 すでに公開がはじまった『バレエボーイズ』は少年たちがバレエを通して成長する姿を描いたドキュメント。バレエ界では辺境ともいえるノルウェーから届いた佳作。
バレエボーイズ
 少年を主人公にしたバレエ主題の傑作は英国が先行した。サッチャー政権下、エネルギー政策の転換で多くの炭鉱が閉山した。その時代、炭鉱離職者問題は英国では大きな社会問題となった。映画『リトルダンサー』は職を失った炭鉱労働者を父にもつ少年が、父が期待するボクサーの道を外れ、しなやかな意志でバレエを学びはじめる話。社会性とバレエが見事に融合した作品だった。その少年はやがて名門ロンドン・ロイヤルバレエのプリンシパルとなる。
 『バレエボーイ』の3人の少年たちも名門からの声が掛かることを期待して13歳から16歳までを練習に励む日々をつづり、一人だけロイヤルバレエから声が掛かる。それまでの努力と研鑽の日々に容赦なく甲乙つけられてしまう世界。名門から声が掛かってもデビューを意味するわけではない。少年たちの成長物語のなかにバレエ、否、自己実現するための刻苦を冷徹にみつめた秀作だ。大戦後、バレエを革新的に牽引しているのは男性舞手たちだろう。シルヴィ・ギエムや、賛美者と批判者の声高いゆえに革新的といえるピナ・パウシゥの振り付けなどの活動は特筆すべきとしても、やはり男性舞手たちを先導者とすべきだろう。

 しかし、伝統的なロシア・バレエはやはり女性舞手にスポット浴びせる。といってロシアからはヌレエフ、バリシニコフはじめ多くのロシア男性舞手が西側に流出、亡命して大きな仕事をパリやニューヨークで行なった。
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『ボリショイ・バビロン』。いうまでもなくモスクワの中心に建つロシア・バレエの殿堂、そのボリショイで2年前、芸術監督が覆面の男に硫酸を掛けらるという事件が起きた。恋人を主役にしてもらえかった腹いせに犯行に及んだ、と言われた。事件は世界中に流れ、筆者も日本の新聞で読んだ。映画はその事件の真相を英国の映画陣が取材するという手法で舞台裏からボリショイを描いた貴重なフィルムだ。
 当時、筆者が贔屓にしていたニーナ・アナニアシヴィリはすでに後景に退いた。彼女のデビュー期、ボリショイで『ドン・キフォーテ』でその清楚な華やぎに魅せられている。
 ファッション界を俗に「綺麗な女たちの醜い世界」というが、バレエもまた優雅な舞台の醜悪な世界ともいえる過酷さがある。しかし、その舞台の袖から眺める、いや、記録上、カメラが捉えたステージはやはり完璧な美に満ちている。断片的に取られた舞台袖からのアングルから捉えたステージすら絵になってしまう。それがボリショイの力だと今更ながらに驚嘆する。
 ロシアは秋がいちばん美しい季節。“黄金の九月”という。そろそろボリショイの新しいシーズンがはじまる。その時期にあわせて公開される映画だ。
 
 余談になってしまうが、最近のバレエ映画の傑作といえば、『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』で音楽映画の素晴らしさを造形したヴィンダース監督が撮った3Dの『Pina/ピナ』(2011)だったろう。しかし、ヴィンダースははたしてピナの世界をダンスのカテゴリーで撮っていたのだろうか?

映画“館”ファンのための映画『シネマの天使』

映画“館”ファンのための映画『シネマの天使』

 この映画、けっして秀作というわけではなし、社会的な有用性があるわけでもない。よって試写を観てからいかが処理するかと思っていた。制作者たちの熱意はしっかり受け止めていたし、何がしかの応援をしたいと思っていたが、いまひとつ前傾姿勢になれなかった・・・そうこうするうちに日が経ち、気にはなるけど重圧も感じない日々のなかで忘れかけていた。
 ところがである。昨日、たまたま入った喫茶店でコーヒーをのみながらお店の新聞、それもふだんほとんど手にしたことのない『東京新聞』を手にしていたら、〈あの人に迫る〉という読みきりの連載記事があった、そこに「地方最後の名画座・岐阜・ロイヤル劇場総支配人・磯谷貴彦」とあって、旧作の日本映画専門にフィルム上映をつづけている映画館の総支配人ぶりをインタビューしているのを読んでしまった。

 世に「映画」ファンは多いだろう。しかし、家庭でVHS(ないしはBETA)が視聴できるようになってから、微妙はことになった。映画は好きだけど、「わけのわからないおじさんの横に座るのはいやだ」「わざわざ行くの面倒くさい」(磯谷弁)という若者たちは、レンタルDVD、あるいは小さな画面のスマートフォンで満足してしまう。それは映画を観る、ということにならないと大人が言ってみても、それはせん無いことになってしまった。だから、本稿のタイトルで「映画“館”」としたのである。
 ・・・というわけで、映画“館”ファンのために孤軍奮闘する磯谷さんにエールを送りつつ、新作映画『シネマの天使』についてやはり紹介しなければという気になった次第。

 *   *   *

  映画を“私の大学”と言ってふむふむと首肯できる方ならたぶん、この映画に泣かされるかもしれない。
 物語はきわめて単純だし、出演者たちもそこそこの演技し、脚本のできも及第点だろう。というより物理的な時間の制約がこの映画に最初から縛りを掛けていたのだからもろもろ仕方がない。
 それでも、試写の行われた、京橋のマスコミ用試写室で海千山千のマスコミ関係者、かつ映画批評を手がける、ふだん冷ややかに映画をみるのが習い性となっている者たちが終映後、拍手が沸く現場に遭遇したのだった。数年ぶりのことだ。拍手した人も本作がけっして秀作とは思っていないはず、たぶん、自らの郷愁をくすぐられてのものも多かったはずだ。
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 広島県の福山市、私の好きな瀬戸内の古都。ここに創業122年の映画館が時代に流れに抗しきれず閉館が決まった。日本最古といわれた映画館だった。その名も「大黒座」という。いかにも風雪100年を耐えた貫禄ある館名である。少し前ならダサいといった感じだが、いまとなるとかえって斬新さを感じる。この大黒座が昨年、閉館した。その閉館が決まってから急遽、企画されたのが本作だ。その時点では回顧的な記録映画になる予定だったのが、劇映画へとギアチェンジされたのだから、じっくりと企画を醸造する間もなく制作されたのだ。完成度にはおのずと限界があるのは仕方がないこと。

 映画館そのものが主人公となった名作にわれわれは『ニューシネマ・パラダイス』というイタリア映画を持っているが、『シネマの天使』もある意味で 映画史に記録される作品になるはずだ。それは実在の大黒座そのものをステージとし、しかも更地にするための重機が映画館そのものを破壊する過程まで撮られてゆくのだ。物語の虚構と実際に進行してゆく閉館の過程のリアリズムの混在がなんともいえぬ効果を生んでいるのだ。
 劇映画である以上、創作の虚構がうまくないとしらける。そのために配役されたのが、不思議な老人役をぼうようとこなすミッキー・カーチス。彼が大黒座に永年、棲みつづける“シネマの天使”なんだ。このあたりはヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』の借用である。
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 福山市民の多く、映画を観るかぎり大半、といった感じだが、大黒座にまつわる悲喜こもごもの思い出が実際の福山市民が語る。そんな光景が違和感なく劇映画のなかに溶け込んでゆく。重機で映画館は壊されてゆくが、大黒座で観た映画、大黒座で過ごした青春の思い出は消えない。それはすごくよく分かる。新宿歌舞伎町にミラノ座の幻影はいまもあるし、銀座のシネラマ専用館・テアトル東京がホテルに変わっても、筆者の記憶は最後の上映作となった『天国の門』の記憶とともに生きているし、『風と共に去りぬ』をシネラマ上映してくれた築地の松竹セントラル、その道路またいだとこに位置していた東劇・・・少年期、埼玉の川口で成長した筆者には川口駅周辺にあった7館(!)の映画館があった場所はいまでも指差しできるくらいだ。
 
 『シネマの天使』の主人公は消えゆく映画館そのものである。そこで働く従業員の愛惜、その人たちをつつむ福山市民の懐旧は助演者である。それだけをスクリーンに眺めていた。やがてスタッフ、キャストの名が綴られてゆくタイトルロールのその横に21世紀に入ってからだろうか、全国から消えていった映画館の写真が次々に写されてゆくのだった。これに涙腺が緩んだ。しばし、それを押しとどめることができなかった。私は拍手できなかったけれど、拍手した多くの“マスコミ関係者”はそのとき職能を忘れて、たぶん、映画と関わってきた自分自身を褒め上げ、もう少し付き合っていこうと鼓舞する拍手であったのかも知れない。
▽時川英之・監督。

ドミニカ共和国   メレンゲの祭典に国境を越える参加

中米・ドミニカ共和国
  メレンゲの祭典に国境を越える参加

 女子バレーの世界大会をテレビ観戦していた。バレーの試合を観るのは好きだけど、日本国内で開かれる国際大会はあまりにも日本びいきでテレビ局が盛んにそれを煽っているように思う。好ましい愛国主義はいいが、度が過ぎれば排他主義だ。
 その試合はドミニカ共和国のナショナル・チームとの熱戦だった。この大会に出場した国のなかで距離的にも精神的にももっとも遠い国だろう。だから、試合開始前にでもドミニカ共和国について少しぐらい視聴者に情報を与えるべきだと思った。
 いま筆者は、ドミニカ「共和国」と書いている。理由は、ドミニカと書くと、筆者の感覚でいうと同じカリブ海の島国ドミニカ国を指すからだ。英連邦の「共和国」よりさらに小さな国だ。昔、広島東洋カープに「共和国」の選手が入団した。そのときの記者会見だったか? 当の選手のテーブルの前に「ドミニカ国」の国旗がすえられたのだ。よく「ドミニカ国」の国旗があったと関心する一方、これは選手にとっては屈辱的なことだろう。その選手が憤慨して席を立ったとしても、それを批判することはできない。批判されるべきは球団だろうし、その場を設営した企業だろう。そう、日本ではことほど左様にドミニカについては無知である。
 無知だけでは済まない。かつて、戦後日本は中国大陸から引き上げてきた家もなければ仕事もない日本人の集団をろくな調査もせず、やっかい払いと「共和国」に移民させ、飢餓に陥れたことがあった。「共和国」についてなにもしらず、当時の大統領が東郷元帥の胸像を執務室に飾るほどの親日家だというようなうわさぐらいで日本政府は移民計画を進行させた結果の悲劇だった。その大統領が国内でどのような立場にあるのか、政局もまったく無視したのだ。
 バレーの、そう「共和国」選手の頑張りをテレビ観戦しながら、その試合会場から横溢する“日本”の過剰に辟易しなら、そんなことをつらつらと思い出していた。

 その頃、8月下旬だが、「共和国」の首都サントドミンゴでは「フェスティバル・デル・メレンゲ」が開催され、9月25、26日には同国のリゾート地プエルト・プラタで延べ30アーティストが参加して開かれることをしった。

 日本でメレンゲ、といえば洋菓子レシピとなるだろうが、ラテン音楽、特にカリブ地域の音楽を少し知る者なら濃密なリズムで構成されるメレンゲの音がたちまち立ち上ってくるはずだ。
 メレンゲはドミニカ共和国(以下、依怙地にならずドミニカと書く)の音楽の定番である。バチャータを加えて、ドミニカの車の両輪にあるような二大音楽だ。
 白人系及びメスティーソ層から多くの才能が出て人気を獲得しているバチャータより、同国の人口を反映してアフロ系音楽から発生したメレンゲが民族音楽的な位置に立っているのは当然の成り行きだ。
 同フェスティバルは同国観光省と砂糖キビから醸造される酒ロンのメーカー、ブルガル社とが共催とのことだが、同フェステバルの主旨を発表する記者会見の席上で、わざわざ「会場となるプエルト・プラタはブルガルの故郷だ。ドミニカ生まれのロンは優れた力をもつドミニカ音楽のように世界50カ国以上に輸出され愛好されている」とリップサービスも。
 メレンゲはまずハイチの黒人奴隷のあいだに生まれたメリングエから発祥した。砂糖黍畑で過酷な労働を強いられたアフリカ人たちのあいだの夜の慰安となった音楽から発生し、ドミニカに浸透して同じようにアフリカ系住民のなかで育まれメレンゲとなった。

 フェステバルの出演者選び、構成はメレンゲのビックバンドを率いるディオニ・フェルナンデスが、“メレンゲの王様”との偉名をもつホセイート・マテオらの協力を得て充実したステージを作った。

 ドミニカからカリブ周辺諸国に拡散したメレンゲは現在、アメリカへ流入しやいすということもあるが米国自治領プエルトリコのアーティスト、つまりオルガ・タニョン、エルビン・コステロたちの土俗的熱気がぬけた都市音楽となったメレンゲが国際市場に出ていて、日本に入ってくるメレンゲの主流でもある。しかし、ドミニカのより濃厚なメレンゲも聴かれるべきだろう。
 同フェスティバルにメレンゲ中興の祖、あるいは“ドミニカの声”とまでいわれたジョニー・ベンチューラの名がないのが寂しい。1990年代には同国の国会議員をつとめ、1998年から2002年まで首都サント・ドミンゴ市長を務めてステージから遠ざかることになったが、思えば今年75歳。すでに一線から退いているのだろう。余談だが、ベンチューラが所 属したドミニカ革命党(PRD)は社会主義インターに所属し、歌手ではなく政治家として日本訪問も実現している。
 ベンチューラ
同フェスティバルはそんなベンチューラのメレンゲを子守唄にして育った世代が大挙、出演した。  

キューバと米国の国交正常化で変わる「文化」

キューバと米国の国交正常化で変わる「文化」

キューバと米国の国交正常化というカリブ海をめぐる大きな変化を前に、革命後、母国に戻らず異郷で果てたキューバ人たちのことを思った。

 革命前から一線で活躍してきた老音楽家たちの晩年をドキュメントした映画『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』が世界的な大ヒットして数年後、ハバナに国営レコード会社エグレムを訪問したことがある。東京の音楽雑誌社の依頼でキューバ音楽のCDを販売したいので、輸入可能なCDのリストの提供などを受け、営業担当者と私的なルートを確保することだった。当時、ソ連邦崩壊の煽りを受けてキューバ経済は混乱、電力事情は悪化し、外貨を稼ぐための観光業を優先にした政策のなかで関連産業はインフラは改善したものの国内産業は疲弊したままだった。キューバの電話事情は極端に悪く、市内からの電話ですらうまく 通じないこともあって、個人的な関係を築くという前近代的な商慣行はまだ有効だった。

 キューバは革命前も現在も音楽大国だ。特に革命前の米国はキューバ音楽家がもっとも活動していた国で、米国で稼いだドルを国内に送金していた。現在のラテン音楽、特にポップスの定番サルサとレゲトンだろう。サルサは、米国とキューバの国交が断たれた後、新しくリズムを創造してくるキューバ音楽の豊饒がなくなった後に、ニューヨークで活動するプエルトリコの音楽家がキューバの亡命音楽家たちとのソン、ダンソンなどを取り込みながら新たに創造した音楽だった。プエルトリコ音楽市場はカリブ海域の政治的変化によって大きく飛躍したのだった。それはリッキー・マルティンで頂点になるまでつづき、現在もドミニカ音楽のメレンゲも吸収しながらつづいている。

 エグレムで提供を受けたリストのなかに革命直前、メキシコで公演中だったセリア・クルスは革命後の祖国を嫌って帰国せず、サルサの草創期から歌い、サルサの完成に寄与し、後年、米国籍を習得し、現在ニューヨークの墓地に眠る。日本で有名な”マンボの王様”ペレス・プラ ードもメキシコ公演中に革命に遭遇、やはり帰国せずメキシコ国籍を習得した。そして、プラードはメキシコ人としてメキシコ市中の墓地に眠っている。メキシコ市中心部、マリアッチの聖地ガリバルディ広場の斜め前に、メキシコ大衆音楽の“殿堂”といった位置にあるブランキータ劇場というのがある。そこのフロアにはプラード楽団の日本公演のポスターが掲示されているぐらいだ。
プラード

 戦後のプロ野球で初の黒人選手として阪急ブレーブス(現オリクッス)や近鉄で10年、俊足巧打の内野手として活躍したロベルト・バルボンも来日後、革命に遭遇、日本の永住権を獲得した。野球国にキューバから多くの選手が米国に流れたことは周知の事実・・・そのひとりひとりには掛け替えのないドラマがあった。

 革命後もキューバから多くの才能が米国に流出した。音楽家、野球選手だけでなく作家や美術家、そして俳優や企業家も多い。いま米国に在住する才能たちは悲喜こもごもあたらな状況を迎え、帰国、一時帰国などさまざまな選択肢に揺れていることだろう。そして、キューバと米国のいわずもながの復活によって、キューバ国内の芸術活動は新たな時代を迎えるはずだ。 

舟越保武彫刻展から

 9月上旬、平年なら残暑の厳しい季節ということになるが、今年は8月下旬にいっきに気温が下がってから暑気とほとんど無縁な日がつづいている。地球の温暖化の下、すでに「平年」という言い方は通用しなくなりつつあるのかもしれない。

 振り返ればうだるような暑気のなか、今夏もまた、仕事柄とはいえ多くの映画を観、絵画や彫刻に触れ、コンサート会場に詣でた。すこし旧盆が過ぎたら湿度の少ない山間の集落に涼をもとめ小旅行しようと思っていたのもつかの間、急速に夏は手の届かない時空に過ぎ去ったようだ。そうしていま、今夏、さまざまな五感のふれあいをふるいにかけてみると、そこに残っているのが舟越保武の回顧的な規模の彫刻展だった。それは「まなざしの向こうに」とサブタイトルがついていた。
 舟越

 わたしにとって舟越の彫刻は、とても静謐で無骨なほど誠実な仕事から生まれてきたものだという印象があった。むろん、回顧展を見終わった後でもその印象はいささかもゆるぎない。
 同時代の代表的な具象彫刻の作家に佐藤忠良さんがいる。宮城県に生まれ北海道で少年期を過ごした人だ。舟越さんも岩手に生まれ、そこで少年期を送った人だ。わたしのなかでおふたりとも北のすがすがしい冷気が少年期の感性を磨いたのではないのかと思ってしまう。まず、そういう印象のなかにおふたりの作品はわたしのなかで屹立している。

 佐藤さんとは生前、小体育館のようなアトリエでくつろいだインタビューをしたことがある。舟越さんとはお会いすることはできなかった。
 佐藤さんはけっこうフットワークの良い人だった。多弁でもあったし、社会を辛らつに批評する眼力もあった。しかし、作品にはそうした通俗は入りこまい人だった。舟越さんがどういう人であったかしらないが、熱心なクリスティアンだったということで、その造形精神は通俗の塵を払いつづけるしなやかな意思のなかにあったように思う。多くの作品がそう語っている。

 舟越さんの作品中、もっとも公的な成功をおさめたのは1962年に全貌が示された聖フィリッポ教会「長崎26殉教者記念像」だろう。いまでもなく豊臣秀吉の命、キリシタン弾圧のなかで殉教した日本人信徒をふくむ外国人宣教師たちの最期の日々を象徴するものだ。この殉教者のなかにメキシコ出身の修道士フェリペ・デ・へススがいるのだが、それはメキシコ市近郊の町クエルナバカの中央聖堂のフレスコ壁画にも描かれていたため、メキシコ暮しをしていたわたしには舟越さんの創像はやはり気になっていた。
 その「~記念像」はわたしがラテンアメリカ暮しをするまえに一度、観ている、いや「見ている」といったほうが正しいだろう。長崎湾にうかぶ炭鉱の島の閉山の取材の帰り、足を延ばして「見た」だけに過ぎないからだ。炭鉱はいま「世界遺産」とか騒がれている軍艦島を望む島の炭鉱だった。

 回顧展では、教会から「記念像」をもってくることができないので写真、エチュード、下書き等、そして岩手県立美術館所蔵の合成樹脂による聖人像などで語る構成となっているが、それらの作品をレイアウトした空間はどくとくの沈思の気配があった。そう天草四郎が貧しい農漁民らを率いて徳川幕府のキリシタン禁制に“聖戦”をのぞんだ島原の乱を象徴する「原の城」もあって、それが一個の作品として名作展示されているのではなく、「殉教者像」との連続でそれをみると、また異質の気配を覚える。

 しかし、その舟越回顧展での最良の美は、わたしにとっては1970年代最終期から1980年代を通して制作された、歴史上の(西欧の)聖女もふくめた若い(日本の)女性たちの頭部像だった。そこに絶対美、在るがままの崇高な気配すらただよう、あるいは孤高の美が見事に時の刻みを止め、永遠の美をとどめていた。具象彫刻を観て、そうした感動はすぐる年、ルーブルで観た「ミロのビーナス」以来、味わうものだった。そのフロアではまったく建物を囲繞する猛々しい夏のおごりは地に沈んでいた。
 その一連の像を連作のように造形していた舟越が、そこにたどり着く前の作品群、習作期から1960年代までの作品はそれはそれで見事な完成度を示しているのであるけれど、作家はモデルとなったひとの生活感、内なる心根をなんとか表出しようと熱意、作為、あるいは作家の野心まで想起されているもので、なんとなく湿度の高い像というものだった。感心はするものの心をゆさぶるようなものではなかった。
 1980年代にはいると作家は無我のなかでつかんだ〈美〉そのもの、そして〈美〉のはかないことを知るものだけが、その〈美〉に永遠性を与えようと作為したときに生まれる衝動としての創造性、造形精神のカオスとしての芸術行為を感得した舟越そのものの精神がそこに在るように思えた。

 しかし同時に、わたしは日本の明治以降のカトリック受容史の限界も舟越にみてしまう。
 カトリック受容がラテンアメリカのようにとき夥しい殺戮があり、弾圧・迫害の血にまみれ、阿鼻叫喚の地獄があり、強姦や淫欲もあった猥雑な人間なまみの野卑がむき出しになった歴史、それと比べると教養主義的な弱弱しさを舟越作品を透して日本知識人の脆さもまた感じてしまうのだ。ゆえに日本ではカトリックは知識人の営為によってしか流布せず、所詮、新興仏教教団のバーバリズムに打ち克つことは所詮できないことだった、としか思わずにはいられない。美術館であらためてそんなことも考えてもいた。
 そして、〈美〉の絶対性によって、そうしたカトリック通史の雑念を洗ってもらいたく、その感動をとどめたく、一巡り回顧展をたどった後、そのフロアに立ち戻り、その後は、ほかの作品に視線を遊ばせず美術館を出たのだった。
 
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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