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文庫化されない本のために 5~6 イラン人の本

文庫化されない本のために 5~6
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★

☆005 シリン・エバディ『私は逃げない ~ある女性弁護士のイスラム革命』
☆006 モハンマド・ハタミ『文明の対話』

ノーベル賞受賞者の著作は文学賞を除けば素人には総じて面白くない。けれど、その面白くない本も受賞直後のセールス時に出版社は慌てて刊行するのが風物詩のようなものだ。著作がなければ、科学ライターなどを動員して聞き書き取材などして旬が終わらないうちに店頭に積み上げる。そんな本も当然、面白くない。積年の研究の歳月に比べて余りにも時間を掛けていない著作が良いできであるはずがない。したがって文庫化などはもってのほかとなる。
 日本の自然科学の分野でノーベル賞を受賞した研究者のなかで文庫化にいたった著作をもつのは湯川秀樹、朝永振一郎のお二人だけだろう。お二人に共通しているのは若い頃に学んだ日本人としての素養、和漢の書に通じた知性が文章に味わいを持たせているからだ。
 平和賞受賞者には著作の多い人が多いが、これもなかなか文庫にいたらない。日本で唯一の平和賞受賞者は元首相の佐藤栄作だが、氏が受賞直後だったか、慌てて刊行した著作は講演などを掻き集めた速記録のようなものだった。政界引退後も回顧録は書いていない。アジアの平和賞受賞者のなかで日本で文庫化された著作をもつのはチベットのダライ・ラマ14世ぐらいだろう。それは資料価値もある立派なものだ。そして、ここに一冊、加えたい本がある。
 2003年の平和賞受賞者シリン・エバディの自伝的イラン現代史とでもいうべき『私は逃げない』、サブタイトルは「ある女性弁護士のイスラム革命」。イランで最初のノーベル賞受賞者であると同時に、最初のムスリム女性となった。

 イランのパフラヴィ皇帝独裁が崩壊し、その後、イスラム・シーア派の聖職者ホメイ二ーが神聖統治を統治をはじめた、いわゆるイスラム革命と呼ばれるものだ。その革命の推移を最初は政権内部から、やがて下野して一弁護士として投獄されながらもイスラム女性の人権を守るために不退転の決意で活動に従事した闘いの半生記である。
 シリンはパフラヴィ独裁下で検察官となった有能な公務員だった。そして、その独裁に批判的な立場をとっていた。しかし、女性がその能力にしたがって活動し、仕事をする自由を天賦の権利として享受していた。当時、首都テヘランなど住む都市住民は一部の厳格なイスラム信徒を除けば西欧なみの自由を享受していた。女性はヒジャブどころかミニスカートを謳歌していたのだ。
 ホメイニーの革命それ自体もイランの若い有能な女性たちの献身的な活動から成功した側面がある。しかし、彼女たちはやがて自分の首を真綿で締め付けるようになることをしらなかった。
 シリン自身、ホメイニーの時代に検察官の席を奪われ閑職に就かされ、やがて退職に追い込まれる。と同時に宗教差別的なイスラム法によっ て迫害される女性たちの権利を守るべく一弁護士として立ち上がってゆく。それを著わした本だが、けっして自己礼讃に陥らず、客観的に自己をみつめる聡明さがあるし、事件の事例も客観的な資料にできるだけ依拠して書こうとする努力も納得できる。
 日本ではいっぱんにイスラムの原理主義的な法学を一面的に捉える傾向があるが、その法学も長い歴史のなかでさまざまな流派が存在する。シリンのしたたかさと賢明は、権力がイスラム法学の下に女性を処断しようというなら、自分もイスラム法学を徹底的に学び直して、女性の尊厳をまもる理論武装をするという現実感覚だろう。そのための努力を惜しまない。
 イスラム革命下のイランの内実はなかなかうかがいしれない部分があった。その視界をシリンは公的な弁護士としての職能性から広げるとともに、妻であり母であるという生活人の視点も失わずに書かれている、そのバランスにこの人の聡明さがにじみ出ている。日本でいえばバブルに浮かれていた歳月の同時代史である。

 シリンが平和賞を受賞した当時、イランはイスラム法学者モハンマド・ハタミが大統領が、神権政治のドグマにあきあきした市民の期待に応えるように登場して間もない時期だった。

 ハタミ大統領はイスラム革命によって米国はじめ西側諸国との関係が悪化していたが、「文明の対話」を提言、2001年には「国際連合文明の対話年」とされた。それは世界的なベストセラーになった米国のサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突』への反証であった。しかし、シリンのハタミ評価は低い。
 ハタミ自身、イスラム体制を厳格に維持しようとする派と、緩和を目指す勢力とのあいだで板ばさみとなっていた。シリンは裏切られた、とも書いている。しかし、ハタミ自身にはホメイニー時代に戻ってはいけないと思いながらも、その影響下にある宗教界、軍隊、政界を無視できなという位置でイランの舵取りをしなければならないという治世者の苦悩があったはずだ。それにイラクとの戦争で経済も疲弊していた。

 そのハタミ大統領の著作『文明の対話』が、シリンが平和賞を受賞する2年前の2001年に邦訳されている。「国際連合文明の対話年」ということで出版されたわけだが、この著作が少しも面白くない、少なくとも筆者には。いかにもイ スラム法学者というアカデミシャンの著作という感じで、政治家としての生臭さがない。実に折り目正しい著作であるが、イランを鳥瞰図式的に語っても、地を這う視点はない。イラン民衆の息遣いは少しも行間から立ち上ってこないものだった。しかし、ハタミ時代の評価というものは、むろん、その著作で語られるものではない。やがて、イラン国民が歴史の審判を下すだろう。
 ▼『私は逃げない』ランダムハウス講談社刊。▽『文明の対話』共同通信社刊。
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プーチン独裁下のロシア映画 2  『厳戒武装指令』

t.A.T.uのポップスをBGMにしたチェチェン紛争映画『厳戒武装指令』

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 冷戦末期、ソ連はアフガニスタンに介入して混迷し、共産党独裁の崩壊に繋がった。
 アフガニスタンの親ソ派政権を維持するための武力介入は、ソ連を疲弊させた。
 タタール人の侵入、ナポレオンのモスクワ占領、ナチ・ドイツ軍の侵攻に対する戦いは基本的に平原での戦いであった。勇猛果敢なコサック兵も平原での騎馬戦に長けていた。しかし、アフガンでの戦いは、険しい山岳地帯の地勢をよくしるゲリラ戦のなかで苦闘した。
 ソ連軍には山岳地帯での戦いに対する教典はあっただろうが、実戦から学ぶことは少なかった。ソ連圏の離脱したチトー大統領のユーゴスラビアにソ連が介入できなかったのも、地上戦では山岳戦に長けたチトー軍との戦いをい避けたからだ。
 アフガンの戦いでソ連軍は確かに学んだが、多くの若い兵士の犠牲のうえで血と肉を飛散させて山岳戦の要諦を学んだのだ。代償はあまりにも大きかった。甚大な兵士の死は、やがてソ連そのものを崩壊させたのだ。

 いま、中央アジア諸国の墓地を訪れると、アフガン戦争で戦死した若い兵士たちの墓標が林立しているのをみることができる。彼らの墓標を確かめるために訪問したわけではない、中央アジア諸国に散在する大きな墓地にはたいてい日本将兵の共同墓地があり、その墓参に訪問すると、そこに若い青年像を墓碑に複写した墓が林立して目につくのだ。
 日本将兵の墓とはいうまでもなくシベリア抑留時代の強制労働で亡くなった無念・無慚と望郷の涙のなかで飢えのなかで死んでいった人たちの墓である。近くいけば、それに手を合わせるのは日本人の義務と思う。
 一度、ウズベキスタンの首都タシケント郊外の墓地で、日本の墓参ツアーに出会ったことがある。先日、安倍首相が詣でた墓地だ。
 その墓地には日本将兵とおなじように抑留生活で命を落としたドイツ軍将兵の墓がある。アフガン戦争で命を落とした若い兵士の墓もある。けれど、ドイツ軍将兵の墓に目を留める日本人はいないし、また阿部首相も気がつかなかっただろう。ましてやアフガン戦争で戦死した若者の墓など一顧だにされない。そういう安倍首相の姿、日本人墓参団の行動を地元のひとたちは注意深くみていることを忘れてはならない。

 中央アジアのイスラム国から多くの若者がアフガンの戦場に狩り出された。戦場まで近いということ、同じような風土に生活していること、そしてアフガンのタジク語に通じている者が多いことも理由だった。
 しかし、ハリウッドがベトナム戦争の矛盾、非人道性を早くから映画化したようにはソ連のモスクワとレニングラード(現在サクトス・ペテルブルグ)の二大撮影所はアフガンの負け戦を撮らなかった。
 共産党独裁下ではいうまでもなく表現の自由は封殺され、負け戦さを描くなどもってのほか、という時代だった。映画人は沈黙していた。それがソ連映画界だった。

 しかし、チェチェン戦争では早くから映画が撮られた。政府に批判的な視点からも撮られている。
 アフガン戦争のように封印するのではなく、チェチェン独立過激派のテロを描くことによって、戦争の正当性を訴えられるとおもっているのかも知れない。前に取り上げた『大統領のカウントダウン』などは、その典型だろう。
 〈チェチェン〉はロシア映画に繰り返し描かれることになる。ベトナムが米国人の最大の関心事になったように、〈チェチェン〉はロシアの安全・平和を語る際のキーワードになったからだ。

 ソ連時代、欧米はもとより日本でも〈チェチェン〉を知るものはなかったが、ソ連崩壊後、にわかにロシアでもっとも有名は自治共和国として浮上した。その内戦の苛烈で・・・。
 だから、〈チェチェン〉を記号としてロシア映画を観ていくとプーチン政権下での表現の自由、検閲の許容度が理解できる。あるいは、チェチェンに対する政策の変化、あるいは連邦内の少数民族に対する政策の変容もなんとなくわかってくる。
 
 チェチェンの戦場では、かつてアフガンで戦友だったロシア人とチェチェン人が死闘を交えるということになった。そんなエピソードが語られる映画に『厳戒武装指令』(ニコライ・スタンブラ監督*2002*原題「前進 突撃」 )があった。日本では劇場未公開ままでVHS、そしてDVDでの発売となったため知る人が少なし、まともな批評は日本で書かれなかった。一部、戦争映画おたくがB級アクション扱いで紹介していたぐらいだろう。この映画はまず、プーチンが第2代ロシア大統領に就任して3年目に入った時期に制作されている。

 ロシア軍に徴兵され空挺部隊に志願した孤児院出身の主人公サーシャのチェチェンでの戦いが縦軸として流れ、そのあいだに幾つかの挿話が挟み込まれ、ロシア現代史の歪みが垣間見えるという仕掛けだ。サーシャの戦争という視点からだけみればB級戦争アクションとなるが、むしろ、挿話のほうが興味深いのだ。
 たとえば、映画にアフガンの戦地で同じ釜の飯を食った旧ソ連軍兵士がいま、チェチェンの戦場で敵対しているという現実がある。ソ連軍がアフガンから完全撤退を完了したのが1989年。その5年後には第一次チェチェン紛争がはじまっている。ソ連崩壊直後、エリツィン大統領の時代だ。若き兵士時代、アフガンで戦友だった男たちが、数年後にチェチェンで敵同士となるのはきつい現実だろうし、それは悲劇だ。実際にそんなことはあったはずだ。
 映画はチェチェン人の武装勢力を決して唾棄すべき存在としては描いていない。むしろ、チェチェンの混乱に乗じて入ってきた外国籍のイスラム過激派組織の存在を指弾している。
 また、サーシャの戦友ウラジミールがチェチェン武装勢力に捕獲された後、脱走中の戦闘で戦死するのだが、その父親が息子の安否を案じて、ふと過去を振り返るシーンがある。
 「チェコスロヴァキアの動乱を国は、社会主義を崩壊させようとする帝国主義の陰謀だと教えられ、チェコ人を武力弾圧した。しかし、それはチェコの民主化運動を潰したことだったことを後で知った」と。
 それを聞かされるウラジミールの妹は、「チェコではそんなことがあったの」と世代間の位相が象徴される。
 海外に出てゆく映画で、ロシアがチェコでの“犯罪”を認めた例は少なくとも筆者にははじめて知る。
 チェチェンでの戦闘を描きながら、ウラジミールの妹、その友人たちが享受する青春は、t.A.T.uのポップスをBGMにして描かれる。それもまたロシアの現実であった。

花もつ女たち №59  ティナ・モドッティ

ティナ・モドッティ (写真家 イタリア・米国・メキシコ 1896~1942)

ティナ


 波乱万丈を絵に描いたような燃える生涯を貫徹した女性。
 イタリアに生まれ、少女時代に出稼ぎで米国へ、紡績女工として働き、数年後、黎明期のハリウッドでサイレント映画の主役を演じ、将来を嘱望(しょくぼう)されるも、スター街道から蹴った。自分の演劇観に沿わないというのがティナの言い分。紡績女工時代、労働運動の一環、主義主張の情宣手段として、あるいは自己のアイディンティティを探り覚醒させる表現活動として演劇のもつ力を知った。そんなティナがサイレントなるがゆえ大仰で非現実的な身振り手振りで演じる愚昧(ぐまい)に辟易したということだろう。
 しかし、ハリウッドを出た最大の理由は写真家で愛人であったエドワード・ウェストンとメキシコへ出奔するためであったかも知れない。聡明な少女も恋愛至上主義のラテン女の気性は隠せない。
 ウェストンとの逃避行、メキシコ・シティで生活するうちに写真術を習得、その作品はメキシコ革命後の民衆の現実を切り取って南北アメリカ写真史に永遠に刻まれる才能となった。ウェストンも名も米国写真史に記載される才能だが、ティナには感性の前で脱帽する。
 
 (余談だが、ラテンアメリカ写真史、ということでなら、ティナ・モドッティより先に位置し、作例も掲げられるのが中米グァテマラの写真家ファン・ホセ・デ・ヘスス・デ・ヤス(1846~1917)。いかにもカトリック国の人という感じの名だが、元の姓名を屋須弘平という。むろん、日本人である。屋須弘平という。江戸末期、現在の岩手県藤沢町に蘭学医の息子として生を受け、自身、長崎に留学して蘭学を学び、一時、開業もしたひとだ。その人がグァテマラで写真館を開業した経緯は一遍の叙事詩だが、ここでは主題ではないので紹介にだけ留める。近日中に某誌に掲載した原稿があるので、それを整理して掲載したい)

 閑話休題。アメリカ写真史の序章に名を遺すティナだが、写真作品総数そのものは、これから発見されるものがあったしても百点前後に過ぎない。その最良の作品は1929年2月、メキシコ・シティの個展でほぼ出し尽くされている。個展以後の作品は残照でしかなかった。
 ハリウッドでのスター街道から自ら外れ、写真家としての名声も自ら宙吊りにし、ティナは社会変革の理想を求めて活動家に変身していく。いや、紡績女工時代の労働運動への再帰ともいえるか。しかし、ティナの周囲にはいつも華やかでスノッブの華が咲いている。
 先年、フリーダ・カーロの生涯を描いたサルマ・ハイエック主演の映画『フリーダ』が日本で公開されヒットしたが、そのワンシーンに1929年2月の個展会場の華やぎがあった。壁にティナの写真のニュープリントが実際に掲げられていた。そして、会場のフロアでフリーダとティナがタンゴを舞った。フリーダは男役、ティナは女・・・しかし、リアリステックにそれを描くなら、ともに男のステップを踏もうとしただろう。
 
 「旗をもつ女」という作品がある。個展で発表された作品だ。アナキズムを象徴する「黒旗」を掲げる先住民女性を街頭で撮ったものだ。ティナはその旗持つ先住民女性像は“自由の女神”と解釈された。
 メキシコの貧困、先住民たちの境遇をティナは繰り返し撮った。その一連の写真はティナのヒューマニズムの発露だろう。芸術性と社会性のみごとな融合は直感の美質がなせる業。メキシコ特産の果物・野菜、あるいは日常雑器を雄弁なオブジェとした一連の写真は後続のメキシコ写真家たちに深甚な影響を与えることになる。ティナが提示したメキシコイズムを超克することが求められることになったのだ。

 個展の終了とともにティナは何故か写真を放棄してしまう。写真芸術を否定したわけではなく、写真家たる自分を捨てた。
スペイン市民戦争が勃発するとティナはスペインに渡り共和派の戦列に加わる。そのティナの手にカメラはない。もし、写真家として従軍していたら最前線からロバート・キャパとはまた違った実像を遺してくれたかも知れないが、ティナという女性は、「もしも・・」という仮定を拒んだ才能だ。ゆえに市民戦争に敗れ、敗残兵となって生き延びた末、メキシコに戻ったとき、ティナの美貌は無惨に失われ、余命も3年しかなかった。
 *詳細は、拙著『フリーダ・カーロ ~歌い聴いた音楽』(新泉社刊)の第2部に収録。

中米グァテマラのロック事情

中米グァテマラのロック事情

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 「ロックエスパニョーラ」との固有名詞があるぐらいスペイン語圏におけるロックはやはり現代の音として若者に支持されている。けれど日本ではラテンアメリカのロックをわざわざ聴かなくても歌詞が直入する和製版、あるいは認知度の高い英語圏ロックで充足しているのが現状だ。わずかにメキシコのマナ、カフェ・タクーバや、南米でいえばアルゼンチンのチャーリー・ガルシアやフット・バエスあたりの紹介が少し詳細か、という程度だ。
 これが小国となるとまったく見えないというのが現状だろう。
 先年、中米コスタリカのエディツが本誌(音楽雑誌『ラティーナ』)も企画に参加した中米音楽の〈現在〉を紹介するフェスティバルに参加して、そのクオリティーの高さで聴衆を驚かせたことがある。アートティックな創造 性に聴衆は関心したのだ。
 エディツはすでにコスタリカに及ばず中米ロック界を牽引する実力者で同国では、その影響下にあるグループが幾つか存在する。
 
 今回、紹介するグァテマラのコスモポリ・ジェトもまたエディツに近い音作りだ。
 マヤ系先住民共同体で育まれたマリンバ音楽や、メスティーソに愛好されているクンビア、メレゲン、近年のレゲトンとがやはり主流のグァテマラだが、都市の若者のなかには、そうした大衆性、あるいは非知性音楽を嫌悪して、アートとしてのロックで独自の表現世界を拡張しようという若者は長い内戦時代にも存在していたし、アルバムも発表している。しかし、そのアルバムの録音にグァテマラ国内の技術では限界があると、コスタリカに出かけてアーティストがいた。その背景にはエディツに代表されるコスタリカのクオリティーというものが首都グァテマラ・シティの知性派は知っていたということだ。
 コスモポリ・ジットもまたそうした流れのなかに位置するし、グループ名もいわゆる大衆性という主流に棹をさすような命名だろう。
 グァテマラ・シティ出身の大学生3人が2009年に結成し、2011年にアルバム・デビュー、以来、極めて小さな音楽市場のなかで奮闘してきたという印象がある。
 デビュー作は当時、アメリカのヒスパニック向けのラジオ局で紹介され、注目も浴びた。そんな彼らが最近、あたらしい曲「カハ・ネグラ(黒い箱)」を発表、堅実でアート性も高い彼らのオリジナリティーに触れ、紹介しようと思った。
 
 ギターとトップボイスのルイス・フェルナンド、シンセサイザーとセカンド・ボイスのミゲル・ポルティージョ、そしてサウンド・ミキサーのアレッホ・ポルティージョという構成でもわかるようにアルゼンチン音響派あたりの影響も大きし、歌をあくまで重視するという姿勢ではメキシコのモエニアあたりと の共通性も見出せる。そして、そこにはグァテマラ風土の濃厚なマヤ文化の香りといった固有性はまったく消滅し、ラテンアメリカの都市文化特有の共通性が中米の小国でもまた同じように見られるという光景をコスモポリ・ジットの連中は創造している。その意味では非常に興味深い活動を展開している。

 ラテンアメリカだからといって、表現者たちは土俗性を追求性する義務はいささかもないわけで、自由に創造性を拡張すればいい。ラテンアメリカ発信のコスモポリタン音楽を拡張するのもまた自由なのだ。

シルクロードのキムチの話

シルクロードのキムチの話

 地元、蕨市で月一回、自由参加の読書会をやっている。私が支援する市会議員の肝いりではじめたものだが、そのメンバーのひとりに福島は会津若松出身の在日二世、朝鮮籍の金さんがいる。金さんの息子さんたちは、せでに日本国籍を取得、苗字も替えている。
 金さんはある日、自家製のキムチを読書会に持参、小袋にわけたキムチを参加者にわけた。とがったところのない、まろやかな辛味のじつに品のいいキムチだった。
 私自身、韓国につごう4度訪問している。特段、韓国がすきというわけではないが、中米グァテラマに住んでいるとき一時帰国の際、割安な大韓航空やアシアナ航空を利用する機会が多く、日本に入る前にちょっと韓国に立ち寄ってみようという感じでの訪問だった。値段は同じでソウルはもとより国内旅行してプサンから日本国内に戻ることも可能だった。だから、韓国各地でキムチを食べている。でも、それほどの感銘は受けていない。当時、中米諸国にも韓国系企業はたくさん進出していて、韓国料理の食材店が各地にあってキムチを安く買うことができた。金さんのキムチは一世のおかあさんの味だろう。・・・で最近、金さん家(ち)のキムチととんとご無沙汰なので、それとなくオネダリするために今回は遠く中央アジア、イスラム国にキムチの話を。

 先年、シルクロードの国ウズベキスタンを10日ほど旅した。かつてサマルカンドに勃興したチムール朝が栄えたイスラム国家だ。インドのタジマハール廟は、このチムール朝の末裔が建立したもので、その最盛期は現在のトルコ、イスタンブールまで勢力を広げた。モンゴル以来、世界史的にみて二番目に大きな帝国だろう。
 しかし、この国はソ連邦の支配下に入ってから民族性を奪われた。現在、市の中心部にチムールの巨大な像が建つが、かつてそこにはレーニン像があったのだ。社会主義モンゴルでジンギスカンが貶められたように、ここウズベキスタンでもチムールの偉業は“帝国主義の歴史的体現者”として、共産主義帝国主義(チェ・ゲバラ)のソ連によって貶められた。
 
 ソ連崩壊後、ウズベキスタンは他の中央アジア5カ国とどうよう独立し、スンニ派のイスラム教を国是とする新興国となった。北のカザフスタンとどうよう資源大国で外資の浸透は目覚しい。特に韓国系企業の存在が目につく。むろん、理由がある。
 その理由を探るために首都タシケントから同国西部の町ヌクスに飛ぶ。双発プロペラ機で1時間ほどの距離だ。
 ヌクスといっても日本からまったくみえない町だが、ユーラシア大陸の大湖アラル海の湖岸にアクセスする町といえば少しはわかってくれるだろうか。もし、20世紀美術に興味がある読者ならロシア革命前後、活火山のマグマのように噴き上げたロシア・アヴァンギャルドのことを知るだろう。レーニンが死去し、権力闘争の末、独裁者となったスターリンの時代に弾圧され、迫害され夥しい作品が破棄された。この時代、ひとりのロシア人が自ら蒐集していたロシア・アヴァンギャルドの絵画や彫刻などを、ここにヌクスに送り秘匿した。そして、その存在はソ連崩壊後に明らかになった。その作品をヌクスの国立美術館で観ること、そして、ソ連の計画経済とやらの誤謬で革命前の約半分の湖面に縮小してしまったアラル海の無惨をみることだった。アラル海については、これまでも長い報告を書いていてブログには馴染まないと思い掲載していないが、そのうち時間をみてここに載せるつもりだ。いま、沖縄・辺野古の海が破壊されようとしている。近視眼的な政治が力を振るうとき、自然は抵抗できない。その20世紀の象徴がアラル海の荒廃だ。辺野古でも、その愚をおかしてはいけない。

 いまヌクスの美術館を「国立」と書いた。誤解を生むので慌てて注釈を加えると、正確には「カラカルパクスタン国立美術館」だ。エッ、そんな国があったのかい、と思われるのは当然、ソ連崩壊後、一時“独立”を標榜したが、すぐウズベキスタンの自治共和国となったから、日本からなかなか見えにくい。ヌクスの郊外に華麗、広壮なモスクが建設中だった。その偉容はとても印象深いものだったが、どうじに、そのモスクは半時間ほどの距離にいまも墓守の老夫婦がすむゾロアスター教信徒たちの墓苑があることには感銘深かった。私にとって、その老夫婦は私が親しく話すことができた唯一の信徒であったからだ。
 ヌクスに戻る。町の中心に自治共和国の政庁があり、その周辺に各公的機関が固まっている。しかし、その政庁前の道をラクダがのらりくらりと散歩している長閑さ。しかし、その長閑さにめくらましされてはいけない。くすんだ色の役所の建物は、この地にクレムリンの力が及んだとき、モスク、イスラム教の各施設が解体され、その建材を使って無宗教施設としての役所が建てられたのだ。郊外で建造中の華麗なモスクはヌクスのイスラム教徒たちの歴史への意匠返しのようなものだ。
 政庁から徒歩数分の距離に大きなバザール(市場)があった。夕方の喧騒はじつに活気に満ちていた。人口希薄なヌクスのどこから、いったいこの人たちは集まってくるのだろう、と思うほどの賑わいだった。
 そのバザールの一角にキムチを山と積んで売る露天商がいた。顔立ちは北朝鮮で密かに撮られた市場でモノ売るおばさんにそっくりな感じ。後日、ウズベキスタンの首都タシケントの市場でもおなじようなキムチを売る朝鮮族の女性たちを何組かみることになる。
 キムチは中央アジアのイスラム国に定着した庶民の味になって、すでに久しい歳月を重ねている。

 スターリン時代の1937年、極東の沿岸部に暮らす朝鮮人17万1800人がウズベキスタンとカザフスタンに放逐されるように追いやられた。日本の関東軍の諜報活動に朝鮮族が使われていることを知ったスターリンは、来るべき対日戦争に備え、災いの根は事前に取り除こうと内陸部へ強制移住させたのだ。
 「日本の敗戦で抑留された兵士たちは屋根のついたラーゲリに収監されたが、わたしたちはなにもない荒野に打ち捨てられた。生きた者はかつてに生き延びよ、と放置された。わたしたちは寒さの凌(しの)ぐため地面に穴を掘り、そのなかで生活しはじめたんだ」
 往時の悲劇を生き延びた朝鮮人の古老たちは、そう証言する。
 彼らは生き延びるために懸命に働いた。荒蕪地を耕し畑に替え、白菜を栽培し、やがてキムチを作った。そのキムチがトルコ系のウズベキスタンの民衆に受け入れられた。
 スターリンの犯罪はキムチの伝播をうながし中央アジアの食卓を豊かにしたが、朝鮮族にたいする人権犯罪はまったく償(つぐな)われていない。
 
 独立国家になったウズベキスタンに韓国系企業が進出してきた。そこで現地採用される朝鮮族の人がいた。自然の成り行きだろう。やがてタシケントに赴任した韓国のサラリーマンたちがウズベキスタンの朝鮮族と親しく交わるようなって、「ここの朝鮮族の娘さんたちは、韓国のイマドキの娘と比べたら純粋無垢、純朴そのものである」と語り、噂となって韓国に伝わった。
 ほんとうかどうか知らないが、「ならばウチの息子の嫁に、そのナントカスタンの娘を。なんでもキムチもみな手づくりするというではないか」と言い出す人が出てきた。若い男性も、「嫁探しに観光を兼ねて乗り込もう」となったらしい。そんな話をテーマに韓国ではウズベキスタンにロケを刊行、コメディ映画が制作された。

 ウズベキスタンの朝鮮族は、自分たちを「高麗人」と自称しているらしい。
 スターリンに生活を根こそぎ奪われたとき、彼に手を差し延べてくる国、組織、国際機関は絶無だった。それはそうだろう厳しい報道管制のなかで、それが行なわれたからだ・
 第二次大戦後、朝鮮半島にふたつの朝鮮族の国家が独立しても、中央アジアの朝鮮族は一顧にされなかった。そんな寄る辺なきシルクロードの彼らは朝鮮族ではなく、やがて誰いうともなく「高麗人」と自称するようになった。半島の同朋と一線を引いた。キムチの味はおれたちのほうが上だと思っているだろう。
 「韓国のキムチの多くが中国から輸入されたものだという。そんな安ければどこのものでもいい。保存のため色付けのためと化学薬品てんこ盛りのキムチなんかより、おれたちの自家製キムチの方がずっと美味いはずだ」と。
 韓国男性のウズベキスタンでの嫁探した不首尾に終り、美味しいキムチに舌鼓を打って帰国することになった。

文庫化されない本のために 3~4『聞書き・寄席末広亭一代』『ターニング・ポイント』

文庫化されない本のために 
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★


☆003 『席主北村銀太郎述 聞書き・寄席末広亭一代』冨田均・記述

 都内に現存する4つの落語定席のひとつだが、桟敷をもつのはこの末広亭だけだ。その桟敷の柱に背をもたせ、足を延ばしてペットボトルの濃茶を啜りながら江戸の話芸に耳を傾ける時間はなかなかいいものだ。

 末広亭と浅草の演芸ホール(及び併設の東洋館)がお気に入りだ。
 理由は周囲の猥雑感というか、いかにも下町の賑わいにみたされているからだ。池袋の演芸場もおなじような趣きがある。寄席がはね屋外に出た後、喧騒がないといけない。その点、最低の定席は間違いなく永田町の国立演芸場。何故、あんな場所に作ったのか気が知れない。隣の国立劇場との兼ね合い、付属、同時期への開館という行政の都合から、アソコになったのだろう。となりが最高裁判所という、なんとも興ざめの寄席だ。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。本書の語り手・銀太郎翁が現在の新宿三丁目に末広亭を建てたのは昭和21年。空襲で焼け野原になった新宿に客が集まるのかと危ぶまれる時期に建てたのだ。当時、末広亭から新宿駅までさえぎるものはなにもなく見通せたという。その後、幾度かの改装・改築はあったものの創建当時の面影を色濃くのこす。
 寄席の正面玄関はああでなくちゃいけない、という勘所をおさえているのがいい。浅草の演芸ホールもそうだが、名前は変えて欲しいもんだな・・・。

 末広亭は埼玉の所沢に映画館を建てるための木材を使ったという。敗戦で映画館の建設が中止になったからだ。その木材も所沢に送り出そうと飯田橋の操車場の貨車に載せてあった。空襲を受けたが、その貨車は奇跡的に焼け残った。空襲もなく所沢に向かっていたら、あるいは空襲で焼夷弾を浴びたら、あの末広亭はなかったということだ。・・・そんなことも本書で識った。

 しかし、本書の主題は「末広亭」ではない。
 明治・昭和・大正の三代を豪快に遊びきった男の放蕩記である。その男が東京の悪所通いを赤裸々に語り、歌舞音曲を客視点で批評し、世相を語り、明治東京人のダンディズムを語り下ろした快作といえようか。むろん三代の寄席事情も分かる。

 市井の人の視点から東京の近代を伝える記録は多いが、どうも放蕩者のものはまともな資料扱いをされないようで、本書も久しく絶版のままだ。
 銀太郎翁の奔放な話しぶり、テンポ、息遣いをみごとに伝える記録者・冨田の仕事も褒めらるべきだろう。こうした本は文庫になって広く読まれることはないのだろうが、末広亭辺りでサイドビジネスとして復刻して売店に常備してもらいたいものだ。
 ▽少年社刊行・雪渓書房・発売。1981年7月初版。


☆004 『ターニング・ポイント』アーサー・ローレンツ著/小池美佐子・訳。

 筆者がバレエを描いた映画のなかで、もっとも好きで評価するのが『愛と喝采の日々』(ハーバード・ロス監督・1977)。本書はその原作。映画が良ければ原作も良い、とはならないが本書もよくできた小説だ。これはバレエが好きな人には読んで欲しいし、大衆小説の枠組みながら、20世紀のバレエ、帝政ロシアで育まれ、共産ロシアのなかで伝統の強靭さを確立し、以後、世界のクラシック・バレエ界に影響を与えてゆく真実も、女性の自立、生き方を描くという大筋のなかにきちんと捕捉されている小説として広く読まれて欲しい作品だ。

 日本では映画の公開がきっかけで出版されたが、原作も当初から映画化を想定して書かれたようだ。しかし、いわゆるノベライズのお手軽さを超えている。そして、本書を書こうとした作者のなかに1974年に米国に亡命したキーロフ・バレエの人気プリンシパル、ミハイル・バリシニコフの存在を抜きしては語れないと思う。原作でもバリシニコフを思わせる描写があるし、映画化する時期にはロシア語訛りの英語も話せるようになっている本人自身が助演という重要な位置を与えられている。キーロフ仕込のバレエの芸術性と、男優としてドラマを演じるクオリティーの高さでオスカーの助演男優賞に受賞とはならなかったがノミネートされた。
 本筋は中年女性の葛藤劇。かつて結婚でプリンシパルへも道をあきらめたディーディー(シャーリー・マクレーン)、その親友で独身を通していまもステージに立つ大スター、エマ(アン・ヴァンクラフト)。その二人が再会して、それぞれ自分のターニング・ポイントにおける選択は間違っていなかったか、お互いのいまを認めることによって反芻する。自分の来し方の時間に対する慈しみと少しの後悔。原作ではもろんエマが『アンナ・カレーニナ』を踊り19回のカーテンコールをうけるシーンなどがあるが、映画のエマはいっさい劣らない。女優アン・バンクロフトが踊れるわけがないからだ。
 ふたりが“女の道”をわかった1点、それは恋愛を昇華するか諦めるか? あるいは目の前のスターの階段を昇か降りるか、を決めなければならない青春のその時であった。物語はディーディーの視点から描かれるが、映画ではほど対等な配分だ。バレリーナとして自己実現できなかった悔恨を、エマの踊りで見、3人の子どもの母親としてのせわしない充実の日々のなかで、いつのまにか若き日の悔恨を覆ってきた。
 映画ではエマの踊りのシーンを描けない分、バリシニコフのバレエで観客をじゅうぶんに満足させるという仕組みになっているわけだ。小説も映画もディーディーとエマが主役だが、助演陣のリアリティによって映画は成功し、そして本書が邦訳された。
 バリシニコフは本作で踊れる男優として注目され、やがて『ホワイト・ナイツ』で主役となった。そして、目立たない役だが、ロシア革命後、米国に亡命したバレリーナで、やがてバレエ教師として生計を立てたダカロワという老女が登場する。彼女が小説のなかでだが、「クチェシンスカヤですよ。マリンスキー・バレエ団のプリマですよ。ロシア皇帝の愛人になったほどのバレリーナです」と語る。作者は現在の米国のバレエも革命前ロシアの血を受けて育っているものだと語っているわけだ。(サンリオ刊。1978年初版)

ノーベル平和賞に寄せて  チェニジア移民を描く映画『クスクス粒の秘密』

チュニジア移民たちを描く映画『クスクス粒の秘密』
  ~チュニジアの「国民対話カルテット」のノーベル平和賞の受賞に寄せて

 今年も日本からふたりの受賞者を出したノーベル賞。しばしお茶の間の話題を集めることになったが、ノーベルの遺志をもっとも象徴する平和賞を注目する人は多くなかった。北アフリカの小国の遠い話、というのは一般的な感覚ではないだろうか? しかし、今年3月、首都チュニスのバルドー博物館襲撃事件で日本人観光客が「イスラム国」(IS)のテロによって犠牲になったばかりだ。もう少し注目されるべきだ。
 2011年、同国を23年ものあいだ独裁しつづけたベンアリ政権を倒した「ジャスミン革命」の後、民主化の過程であらたな混乱が生まれた。イスラム系政党による暫定政権と、世俗的政党を含む野党側との対立が生じた。その混乱の間隙を縫うようにISが手を延ばした。
 今回、平和賞を受賞した「国民対話カルテット」はそうした政党に加え、労働組合や経営者団体などの代表を加えて結成された市民組織だ。平和賞の選考委員会は、ジャスミン革命の成果を後押しする意味で、あえて実質的な成果もいまだ道半ばという状況のなかで「カルテット」に賞を与えた。
 
 チェニジアという国が日本で注目されることは少ないので、この機会を利用して一編の秀作を紹介しようと思った。
 いまフランス映画界のトップランナーのひとりなったアブデラティブ・ケシシュ監督が2007年に制作した映画『クスクス粒の秘密』。ヴェネチア映画祭で主要5部門、フランスのセザール賞で4部門で賞を獲得しながら日本では劇場公開されなかった作品だ。監督の名が今日ほど大きいものではなかったし、扱われている主題も地味、日本でしられたスターも出演していないということでスクリーンに掛けられなかった。ところが2013年に同監督の『アデル、ブルーは熱い色』がカンヌ映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞して急遽、DVDでの発売が決まった。
クスクス

クスクスとは北アフリカ、現在のマグリブ諸国モロッコ、チェニジア、アルジェリア辺りが発祥といわれ今日では地中海沿岸諸国で広く食されている小麦粉からつくる粒状の粉食である。映画ではチェニジア人が好む魚をつかった民族料理として登場する。

 舞台は南フランスの港町セート。北アフリカ諸国から移民が多い町のようで、この町の小型船修理工場で働く初老の男スリマーヌがチェニジア出身。工場は不況のあおりで青息吐息、事業縮小の煽りを受けてスリマーヌは解雇される。
 スリマーヌは、長年連れ添ったチェニジア人の妻と離婚、いまは愛人が経営する安ホテルで寝泊りしているという設定だ。解雇とは関係ない。愛人といっても浮ついた存在ではなく、堅実に小さなホテル兼レストランを経営する働き者だ。その愛人の娘もスリマーヌのよき理解者だ。元妻とも、そのあいだにできた子どもたちの交流もまた親密につづいていて、彼はかなりにこまめにふたつの家を行き来する。寡黙だが、なかなかのもて男である。
 スリマーヌは解雇された際に受け取った金を元手に老朽船を購入、自ら水上レストランに改造して開業のパーティーの夜を迎える。それまでの話が映画となっている。これから観ようという読者もいるはずだから結末は書かないがフランスにおけるチェニジア移民たちのコミュニティーがどのようなものが分かるし、そうクスクス料理の調理過程というのもなんとなく理解できる。

 本作が制作された当時、チェニジアはまだベンアリによって独裁下にあった。スリマーヌが解雇されたとき、元妻とのあいだにもうけた二人の息子が、「故郷に帰った方がいいだろう」と諭すシーンがあった。スリマーヌはそれに対して、反論もしなければ、むろん賛同もしない。なにか秘めたものがあるようだが、それはまったく語られない。解雇されても俺はフランスを終の棲家と決めたのだ、という決意表明が水上レストランの開業に象徴されるわけだ。
 開業パーティーに招待された地元の(フランス人)役人たちがアルコールがまわるほどに本音を語りはじめる。彼らがどのように移民をみているか、そのいったんが垣間見える・・・というふうになかなか興味深い映画である。
 パーティーのシーンではスリマーヌの友人たちがチェニジア音楽を延々と演奏しつづける。ときにBGMとなり、ときに話を牽引する役目をになう。
 家族とのたあいない言葉の応酬の積み重ねは見事だ。日常的な言葉の増殖で家族が語れ、それぞれの立ち位置がわかり、スリマーヌの思いも補完されてゆく。

花もつ女たち №58 現代華道界の才媛たち

 今次大戦後、焦土の中で復活した芸術活動のなかで、もっとも劇的な変化を遂げたのは、おそらく華道界であると思う。それは500年の伝統を打ち破る激しく、そしてしなやかに強い“革命”といえるものだった。
 500年の伝統ということでは能楽界の変化も著しいものがあったが、それは津村紀三子の章で書いた。しかし、津村の活動はすでに大戦前からあったということでは、大戦後の変化ということでは華道界は特別なものがあった。敗戦、という衝撃はそれだけ激しく日本の文化を基層から揺さぶるものがあったのだ。津村の活動も敗戦後の価値観の変化という世相のなかでひろく公認されていったのだ。
 
 現代華道の主要な構成要素は、勅使河原蒼風が創流した草月流に象徴されるだろう。いわゆる前衛華道。そこに勅使河原霞(1932~80)という若い女性の才能と献身があったら、激務が彼女の生を縮めたようだ。
 草月流の対極にあったのが京都を主座に500年の伝統を培ってきた池坊。しかし、敗戦後はその池坊すら組織機構そのものに変革が求められた。この時、四十五世専永の夫人として時代の波濤を乗り切るのに大きな役割を担ったのが池坊保子(1942~)。創作家としては凡庸だが人事に長け、やがて国会議員として活動、文部科学副大臣など歴任している。池坊はたえず権力の近くに存在するということで、それを象徴するような女史の存在である。戦時中、他の華道流派が合同で戦闘機を数機献納するのを尻目に池坊だけで、それを超える献納を実現するほどの勢力をもっていたし、また現在もその力は継続しているといってよいだろう。この保子女史の長女・由紀は次期(四十六世)家元の継承者となる予定だ。
 安達流家元・潮花を父にもった安達瞳子(1936~2006)が果たした役割もまた大きい。父から二十四時間生活をともにして学んだ日々の逸話はひろくしられている。父から学びつくすと31歳で、はなれ花芸安達流を創流。現代の生活空間にふさわしい活け花の理想を求めて励んだ。
 安達瞳子

 池坊から出て前衛を超えた華の宇宙観を創造しようと極北の美にいたった中川幸夫の存在の影にも、女性華道家の存在があった。半田唄子(1907~84)である。九州でながい伝統を誇ってきた千家古儀の家元であった。その座を廃絶して中川のは華道に付き添って実現したひとだ。中川の才能を畏敬した唄子は妻となって支え、自らも創作に携わった。
 それこそ“花もつ女たち”の競演は敗戦後の華となった。

プエルトリコの独立問題と映画

プエルトリコの独立問題を扱った映画『テロリストを撃て!』(原題 A SHOW OF FORCE)

 プエルトリコの“良心の囚人”オスカル・ロペスのことを7月初旬に本ブログに掲載してから(原稿そのものは6月初旬記)、米国自治領の島国に少し関心をもつ人が増えたようだ。ラテン音楽ファンには、リッキー・マルティンを筆頭にたちまち両手の指がおれるほどの歌手を数えることができるだろう。往年のラテン音楽ファンならトリオ・ロス・パンチョスの創設メンバーにプエルトリコ出身者がいたことを想い出すかも知れない。
 数日後にノーベル平和賞の発表があるが、ロペスが受賞してもおかしくない。たぶん、候補者の一覧表に彼の名前も記載されているのだろう。
 ロペスのことを書いたり調べたりしている頃、プエルトリコの債務問題は緊急課題として俎上していた。そして、原稿が活字になるころには事実上のディフォルト(債務不履行)に陥った。米国にとっては地方自治政府の経済破綻となるが、財政援助を行なうことはないだろう。かつて自動車の“都”デトロイトが破産したときも連邦政府は助言はしたが救済措置はとらなかった。プエルトリコが州ではなく自治領であるため連邦破産法は適用されないから問題は深刻だ。そして、プエルトリコの独立派は、この経済危機という“好機”を利用して、その声を高くすることもできない。何故なら独立はさらなる経済負担を強いることになるのは明白だから、おいそれとはできない。独立しても、債務を支払う義務は消えないからだ。カリブの小国ハイチは、独立 と引き換えに巨額の債務をフランスに支払いつづけ、今世紀まで最貧国の汚名を強いられた。革命ロシア政府はロマノフ帝政時代の債務を西側諸国に返済しつづけていた。確実にいえることは、米国本土への出稼ぎ者がさらに増大するということだろう。観光も、キューバが米国と国交正常化の道を進むなかでビジネス規模は縮小していくだろうから、先行きは不透明だ。

 プエルトリコの経済問題を課題にするつもりはなかった。ここで書きたいのは、ロペスが活動していた時代のプエルトリコを描いた映画がアメリカで制作されているので、それを紹介することである。
 プエルトリコを舞台にした映画や、プエルトリコで制作された映画というのはけっこうあるが日本ではほとんど黙殺、というか関心をもたれない。
 数年前、ジョニー・デップ主演の『ラム・ダイアリー』という佳作があった。1960年代のプエルトリコを描いた映画で、デップは実在した新聞記者を演じた。プエルトリコの自然環境を破壊する米国企業の経済進出を糾弾した社会派作品だったが、これだってデップが主演していなければ日本で公開されることはなかっただろう、という映画だ。
 スペイン市民戦争後、共和派の人びと、そのシンパの多くがラテンアメリカ各地に亡命した。プエルトリコにもやってきた。市民戦争の勃発期にフランコ王党派に暗殺された詩人ガルシア・ロルカを描いた映画が、プエルトリコに亡命した両親のもとで育った青年の視点から撮られている。この日本公開も知名度のたかい詩人の物語だったから実現したのだろう。米国映画ではなくプエルトリコ映画として公開された。制作資金をプエルトリコの経済界が提供していたが、今回のディフォルトの影響をどれだけ受けただろうか。
 そして、もう一遍の映画がここにある。『テロリストを撃て!』。劇場公開はされなかったがVHSでは発売された。むろん日本ではDVD化されることはないだろう、とおもって急遽、紹介する気になった。オスカル・ロペスを理解する資料になるとおもったからだ。
テロリストを撃て
 1978年、プエルトリコ自治領制定記念式典の最中、独立を志向する3人の過激派が放送塔(プエルトリコでは「東京タワー」的存在)を襲撃・・・しかし、それは罠で、待ち伏せする警察隊によって過激派の2人が射殺される、という事件が起きた。
 この事件は、やがて現状維持派ないしは米国の州昇格を志向する自治州知事を再選させることになる。しかし、その仕組まれた“事件”は女性TVレポーター(エイミー・アーヴィング)の活動によって真相が暴かれてゆく。米国映画だが、立場は、明白に穏健独立派、ないしは自治州での権限を独立国なみに高めようと志向する立場に傾斜している。
 製作・脚本は米国人だが、監督はブラジルのブルーノ・パレット。本作の7年後、軍事独裁下のブラジルで起きたリオ・デ・ジャネイロ駐在の米国大使が過激派に誘拐された事件を取り上げた『クワトロ・ディアス』や、さらに日本でも評判になったリオのスラム街の少年ギャングたちの生と死を東映やくざ映画全盛期の深作欣二監督ばりの実録タッチで描いた『シティ・オブ・マッド』などを撮る才能だ。

 プエルトリコ事情が日本ではよく知られていないということで、劇場公開はなくVHSでの発売となったが、冷戦下のカリブ圏でキューバに近いプエルトリコに浸透するキューバの影響というものに米国、ないしはFBIは神経を尖らせていたか、といったことがよく伝わってくる映画だ。レポーターの上司に名優ロバート・デュパル、主都サン・ファンでFBIのエージェントとして働く、映画では悪役となる男に『ラ・バンバ』などチカーノ役をさまざまなキャラクターで演じきっているルー・ダイアモンド、そして人権派のプエルトリコ検察官にアンディ・ガルシアなどが配されている作品だから、常識的に考えてもB級映画ではありえない。つまり、米国でも1978年の事件は関心事の高いものだったということだ。
 その事件の文脈のなかでオスカル・ロペスたちの活動があるのだ。ということを知ってもらいたいために敢えてVHS版しかない『テロリストを撃て!』を記録しておきたいと思った。

文庫化されない本のために 001~002『炎の画家 横山操』

文庫化されない本のために 1~2
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★

☆001『破滅 ~梅川昭美の三十年』毎日新聞社会部編集
 本書について記そうと思ったのは理由がある。
 参考に、とウィキペディアで「三菱銀行」と検索すると、筆頭に「三菱銀行人質事件」と出てくる。すでに大半の日本人には忘却の事件、戦後昭和の犯罪史の特筆される項目でありながらも、すでに語られることはなくなった。しかし、戦後史を紐解けば、そこにこの事件が異様な相貌をみせて横たわっていることは誰でも知覚できるだろう。そうした人が少なからずまだ存在していて、その証拠として「三菱銀行」と検索すると、「人質事件」が筆頭にでてくるということだろう。検索件数が多い、ということだから。
 そのウィキペディアの「三菱銀行人質事件」の詳細な記述の後半に関連資料として5冊の書籍が紹介されている。しかし、そこに本書が何故か記載されていない。これはどうしたことだろう。
 毎日新聞大阪社会部は事件直後、大阪府警がシャッターの穴をくりぬいて撮影した犯人の写真を入手、全国にスクープした。本書の表紙にも、その写真が象徴に掲げられている。
 事件の概要は今更、書くまでもないが、事件後、大阪社会部はそのネットワークをいかして射殺された犯人・梅川の誕生から銀行に押し込むまでの30年間を丁重にたどって本書にまとめた。梅川の30年をぶれなく綴りながら、16名の記者の仕事は梅川周辺の人びとの戦後の生き様もきちんと記してゆく。梅川が事件をおこさなければ生涯、自分の名、半生なりが絶対に活字化されることなく生涯を終えた人びとばかりだ。また、梅川自身の30年間もまた、タダノ銀行強盗であれば書物の主人公を務めることもなかったはずだ。
 特異な犯罪は多くの衆目をあつめる。そして、そこに名もない市井のひとびとの姿が浮かび上がってくる。

*1979年に本書を初版刊行した晩聲社は、現在は韓国カルチャー応援団のような企画に終始しているようで、とてもシンパシーを感じるものではないが、創立期、まだ中米エルサルバドルの内戦をルポしていたカメラマン長倉洋海の仕事を取り上げたり、統一教会批判の先駆けとなった茶本繁正の取材にも意欲的に呼応して出版、その批評精神に筋を通っていることでしられていた。『破滅』もまた、その文脈のなかで登場したのだろう。しかし、韓流ブームにあやかろうというような企画を安易に立てるようになってから、創立期の覇気は雲散霧消したようだ。
 *本文をアップしてすぐ読者から、「幻冬舎より文庫化されている」との指摘を受けました。確かに同社の「アウトロー文庫」から刊行されていました。この点、不注意をお詫びいたします。但し、本文の主旨を訂正するほどの必要は認められないので、このまま掲載しておきます。

☆002『炎の画家 横山操』田中穣
 先年、中央アジアのイスラム国ウズベキスタンを旅した際、観光の傍ら、近くに「日本人の墓地がある」と知れば、時間の許す限り手を合わせに行った。今次大戦の敗戦で中国本土及び北朝鮮に散在していた日本人兵士・軍属がから不当にソ連邦に“拉致”された。いわゆるシベリア抑留だが、それはジュネーブ協定違反の強制労働だった。満足な食事も与えられず過酷な肉体労働を強いられるなかで多くの日本人将兵が異郷の地に果てた。その人たちが無念至極と眠る墓である。
 合掌したい、すべきと思ったわたしの感情、心根などはここでは吐露する場所ではないので書かないが、その墓地のなかで、ふつふつと頭をもたげてきた想念のなかに、四人の美術家の仕事があった。
 強制労働を生き延び、戦後の日本美術界に名を遺すことになった日本画家の横山操、具象彫刻家の佐藤忠良、洋画家の香月泰男の仕事をそれとなく想い出していた。
 三人のなかで終生、抑留体験を凝視しつづける作品を繰り返し描いていたのはいうまでもなく連作「シベリア」を代表作とする香月だが、ほとんど抑留体験を表出しなかったのが佐藤であり横山だった。
 その横山の生涯を描いたのが本書であり、ここで横山の抑留体験が何故、絵に表象されなかったか、その秘密をしったように思った。そして、その抑留体験も過度に描き込まずに横山芸術の完成を見事に描いた評伝である。
 著者の評伝、それは美術家に限定されるのだが、よくこなれた文章で説得力をもって生き様を辿らしてくれる。たぶん、本書は1970年の後期に一度、読んでいるが、その時はたぶん横山の回顧展を観てから読んだか、観る前の参考として読んでいるはずだ。たぶん、走り読みしたはずだ。生涯をたどるというより、年譜の時歴を追うように読んだに過ぎなかったはずだ。
 いま再読して、横山の幾多の富士、黒色多用の画業、その黒にこめられた意思、右手の自由を奪われ、絵筆を左手に換えてあたらしい抒情の世界へと転成した横山の軌跡を知った。横山の前に川端龍子が存在するが、横山の後に、彼を追う気概はまだ登場していない。いや、気概をもつ日本画家は存在するはずだが、横山の気宇壮大な富士に匹敵する才能をみせていないということだ。

 横山は抑留生活で労働が軽減されるのに役立つ、描く技術をもっていたわけだが、それをソ連兵の前でみせることはなかった。その理由も知った。忠良さんは小器用に描いたらしいが、むろん、それを責めているわけではない。生き延びるためにみな極限状況のなかで懸命に知恵を絞ったはずだし、そうすべきであった。横山が描く技術を用いなかったのは、食の量の増減に関係したということも本書での発見であった。
 横山の巨きな絵をこれから親しみをこめて眺望できるような、そんな気がする。畏怖とか峻厳とか、そんな形容が無縁なところで絵に入りこめるような気がするのだった。
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上野清士

Author:上野清士
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