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原節子さんの訃報と松竹創業120周年

 原節子さんの訃報と松竹創業120周年

 築地の松竹本社内の試写室にいった。原節子さんの訃報に接してからはじめて築地に行った。
 現在、松竹のマスコミ用試写室は東劇の3階にある。僕が13年、海外に暮らしている間に築地周辺も様変わりして、東劇もビルのワンフロアを占めるという、なんとなくビジネスライクな雰囲気で、わくわく感のない劇場になってしまった。最近は、シネマ歌舞伎、NYメトロポリタン劇場の歌劇ライブ映画の企画で知られる。
 僕が日本を出る前、松竹の試写室は現在の東劇の道路を挟んだ真向かいにあった。往年の映画ファンならシネラマも上映できた松竹セントラルの威容を想いされるだろう。ここでシネラマ版『風と共に去りぬ』などを観ている。その劇場裏側から地下に入ったところに試写室があった。そこで多くの映画をみた。でも、何故か「寅さん」映画をそこで観た記憶しかない。それには理由はあるのだけど、本日の話題ではない。
東京物語

 で、原さんの訃報を知ってからはじめて松竹の試写室に入ってみると、東劇の正面、ビルの3~4階あたりをしめる場所に大看板「松竹120周年祭」があった。それは10月初旬からはじまっている記念イベントの宣伝であった。9月に原さんは亡くなっていたというから、その直後にはじまった記念企画ということになる。
 この大看板は歌舞伎座方面、つまり銀座から築地にむかって歩いてくる人、車中に向かって掲示されているもので、僕はいつもそこに築地警察の前あたりから歩いてくるので気がつかなかったらしい。
 で、あらためて、その看板を観て、原節子さんの松竹における存在感といったものを思い知ることができた。歴代の松竹映画の名シーン16点をコラージュした看板だ。そこに原さんは4作も登場しているのである。そして、その原さんは小津安二郎映画のなかのものだ。松竹宣伝部は原さんの存在は小津映画においてもっとも輝き、小津作品は原さんを得て芸術となったと主張しているようだ。そして、それに間違いないだろう。ついでいえば、男優では笠智衆さんだけが2作の名シーンに登場している。いずれも原さんともに配されている。1本は、原さんの父親役、もう1本は名作『東京物語』義父役である。松竹は小津映画に象徴される、ということがしみじみ納得できる大看板であった。
 
 小津映画も、原節子さんの現役時代に僕は、それを見ていない。小学生から中学生という時代で、当時にみても退屈していたと思う。小津映画に親しく接するようになったのは20代の終りで、現在、銀座プランタンの裏通りあたりにあった銀座並木座で年に2度ほど企画されていた小津映画特集においてだったと思う。その並木座も消えて久しい。確か、雑居ビルの地下にあったはずで、キャパシティの小さなところだった。
 そこで僕は、自己人生のなかではじめて、小津作品を通して、諦観、といったことをしみじみ感得させられていたのだと思う。
 人生、といったことを文字づらではなく、日本人としての生活実感をともなって味えと教えてもらったようにも思う。抽象的な言語が映像を通し、無駄な言葉を配して、染み込んでくるような、そんな感じだ。たとえていうならモーツァルトやバッハの音楽に包まれたとき、言語で解釈することをやめていながら、なお明瞭に感動を意識している自分がいるという、そんな瞬間に出会えるのが小津映画だろう。でも、持続する生活のなかで人はじたばたとぶざまなに動きつづける。解決などしないし、諦観することも至難だ。でも、ふと何かに立ち戻りたいとき、ふと小津映画をみようか、という気になる。小津映画が各地で再映され、特集企画が繰り返し企画されているのは、たぶん日本人の生き方は、といった永遠の命題に対する何かを小津映画に見たいからではないのか。そして、小津監督自身、最後まで模索していたのだ。
 そして、小津監督の葬儀への弔問を最後に公の場から姿を消し、半世紀以上、私生活をまったくのぞかせなかった原節子さんの身の処し方に、僕などは日本人の美しさを見出すのだ。

 「そんなものだよ」
 「そんなものかぁ」
 「うん、そういうものなんだ」
 「そうなんだ・・・」

 といった台詞があったような、なかったような・・・。でも小津映画では、いつもそんな台詞が重ねられる。
 川端康成の「雪国」でもおなじような台詞が重ねられるところがある。川端はそれを「余情」という言葉で、その会話をうまく英語に訳せない、理解できないというドナルド・キーンに語っている。小津映画にも、その「余情」がある。それを丁重につむぎだしていた。原節子さんの台詞で、笠さんの台詞で・・・。
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かつて「人民寺院」事件というカルト集団の大量自殺があった

かつて「人民寺院」事件というカルト集団の大量自殺があった
 ~映画『サクラメント ~死の楽園』の公開に際して
人民寺院あ

 1978年11月、南米ガイアナという国でその事件があった。37年も前の事件だが、いまでも酸鼻な死臭が甦ってきそうな人間悲劇。当時、大量自殺事件として国際的な耳目を集めった。しかし、いかに巨(おお)きな事件であっても、歳月はその重みを失っていく。私自身、記憶の彼方に追いやっていた。それが1本の映画に接して蘇生した。
 米国南部では現在もさまざまな新興宗教団体が生まれ、そして多くの教団が肥大したり衰退したり、あるいは消滅するといったことが大宇宙の星のように繰り返されている。ジム・ジョーンズという、さしてカリスマ性があるとか思えない男が創始した人民寺院が肥大しつづけ、やがて917人がたった1日間、教祖自身もふくめて大量自殺して消滅した。
 映画『サクラメント』はその大量自殺事件に触発されて制作されたものだ。
 ホラー映画に分類されるのだそうだ。それはないだろう、と言いたい。
 事件は実際にあり、きわめて人間的なものであったのだし、ホラー映画特有のCG技術をほとんど使っていない作品が何故、恐怖・怪奇映画なのか。この映画がまったく人民事件を再考するというような視点がなく、多くの米国人の脳裏に刻み付けられている事件への記憶を呼びさまし興行に結びつけようとした凡作と断じて間違いないだろう。しかし、あの事件はなんだったのか、と私自身は書棚の隅から埃のかぶった1冊の本を引き出させる効用はあった。

 その本の表題は、『自殺信仰』といい、サブタイトルに「『人民寺院」の内幕とガイアナの大虐殺」とある。絶版になって久しいので、おそらく入手は困難だろう。で、この本の内容を語るとともに「人民寺院」の異様さも記すことができそうに思う。
 まず、内容以前に特筆されることがある。大量自殺のあった1978年11月18日、その事件を目撃したジャーナリストの米国帰還から、わずか半月ほどで出版され、翌月には邦訳も刊行されるという異様な早さで読者のもとに届けられたのが本だった。それだけ米国のみならず世界的な関心が事件に注がれていた、といってよいだろう。本書には各国での反応も記録されている。
 事件から速攻というべき早さで原稿がまとめられたのは、それまでの取材の蓄積があったからだ。教祖の生家から幼児期、少年期、そして宗教団体を興こし、なぜ急速に発展したかということも詳細なデータで語られている。教祖がいかに多くの人心を掴む卓越した能力があったか、あるいは蓄財システムの巧妙、マスコミ操作のうまさ、さらに政治的な影響力を醸成する機動力なども解明してみせる。事件が起きる前から「人民寺院」の本部がおかれたサンフランシスコの一部のジャーナリストはさまざまな証言をえてカルト集団の危険性を取り上げていた。しかし、教祖は、そうした批判勢力を弱体化するため信徒を動員し「世論」を形成した。その辺りもよく描かれている。
 教祖は最初の活動の拠点インディアナポリスで人権委員会理事を務め、サンフランシスコでは住宅開発公社理事という公職についていたのだ。いかにマスコミの批判を無力化することに長けていたかがわかる。
 カーター大統領が選出された選挙では信徒を動員して集票活動を組織、大統領就任式に教祖たちは招待されていたのだ。
 映画はそんな教祖のことを何ひとつ語らない。

 南米ガイアナに信徒たちのコロニーを建設し、そこに“ユートピア”を建設しようと考え、実行にうつすわけだが、その計画自体は“本気”であっただろう。しかし、米国で教団の活動に不穏なものがあると報じられるようになると“ユートピア”は逃避地となっていく。そして教祖は、現世での天国が実現しないのであれば、死後の世界にそれを達成しようと信徒たちに指針を与える。そこでは狂気の世界がコロニーを覆う。教祖は独裁者となり、信徒の生殺与奪の権利を行使する。
 やがて、そのコロニーから脱走した信徒によって実態がマスコミに漏れるが、それも黙殺される。しかし、一度、漏れ出した水は元には戻らない。そこにガイアナで射殺されるレオ・ライアン下院議員が登場する。
 多少、有権者向けのジェスチャーもあったといわれるが、米国民主主義の美点と果敢さを体現する議員であることは事実だ。刑務所の実態を探るため自身、服役囚として潜入するということも厭わない議員だった。そんなライアン議員がガイアナに乗り込み自分の目と耳でコロニーに実態を調査することになった。こういう国会議員はわが国では田中正造翁、以降出ていないのでは……。

 教祖ジム・ジョーンズはもはやこれまで、と死にいたる毒薬をあおることを信徒に告げ、多くの信徒が「自らの意思」で教祖に従ったのだ。むろん、逃げ出す信徒、毒薬をあおることを拒否する者もいたが、彼らの大半は射殺された。ライアン議員は、コロニー視察中、米国に戻りたいと嘆願した信徒たちを連れ出す過程で、射殺された。

 本書の巻末に収録されている精神医学者・小田晋の長文の解説も読みごたえがある。
 カルト集団は「人民事件」以後も世界各地に生まれている。排他的な秘密結社の内実を取材するのが至難であり、ときに生命の危険もともなう。実際に「人民寺院」事件では犠牲者が出た。本書は生命を賭して取材されたものだ。その意味でも貴重な仕事であるし、今日の宗教的原理主義の台頭を考察するときの切実な資料価値があると思う。翻って、映画はより真摯に教祖の病理なり、信徒たちのよるべなき心性を抉るべきだった。 
 *マーシャル・キルダブ+ロン・ジェイヴァーズ共著。新庄哲夫・訳。講談社発行。1979年1月刊。映画『サクラメント』の公開は11月28日から。

プーチン独裁下のロシア映画 3  『チェチェン・ウォー』 

プーチン独裁下のロシア映画 3 『チェチェン・ウォー』 
映画 チェチェイン・ウォー

 チェチェン紛争を描いたロシア映画のなかでは、もっともシナリオが練り上げられた作品が本作『チェチェン・ウォー』(アレクセイ・バラバノフ監督)だろう。この後に、ロシア映画におけるチェチェン紛争映画の微温的な姿勢を指弾するような映画『あの日の声を探して』(ミシェル・アザナビシウス監督/2014)が登場する。
 『あの日の声を探して』ではチェチェン語の音というはこういうものであったか、と親密感をもって語られている。
 ロシア映画のチェチェイ人はソ連邦の隷属の民という位置づけで、かつての公用語としてのロシア語に帰依しているというスタンスだった。その隷属から救ったのが『あの日の声~』であった。が、いまはまだ2002年のロシア映画を診断しなければならない。
 
 原 題は「戦争」。紛争とか内戦でなく「戦争」としている。この表題のつけ方は、プーチン政権が内政問題として欧米諸国からの批判を交わそうとした意図を明確に批判するものだ。『あの日の声~』の監督もチェチェンを国際戦争と位置づけている。
 プーチン政権は北京オリンピックの最中、世界が競技に夢中になっている時期にコーカサスの小国グルジアに武力侵攻した。その「戦争」を国境紛争と糊塗した。小国グルジアにとって国家存亡の危機だったが、大国ロシアにとっては国境紛争とみなそうとした。ロシアはこの後も、ウクライナ領のクリミア半島、東部国境地帯の強引な併合などもそうだ。だから、本作の監督が表題を「戦争」としたのは大きな意味があるし、その表題に「戦争」の醜さ、あるいは現代の「戦争」の特徴をシンボライズする意味で、そう命名したともいえるだろう。

 映画は、「人質」問題に集約されている。
 いうまでもなく今日の「イスラム国」は恐怖の常套手段として人質を残虐に処刑する。処刑執行者も仲間内での“肝試し”の通過儀礼のようにプログラマ化されている。
 小国、資金、兵員、装備に限界のある武装勢力が、大国、巨大な軍事組織に抵抗する手段として「人質」を確保し、それを担保にさまざまな作戦を取り、あるいは身代金を強奪する方法は軍事独裁政権が中南米諸国を覆っていた当時、反政府武装組織が繰り返し、有効な作戦として選択していたものだ。イスラム過激派の専売特許ではない。
 ただ、これまでの「人質」の処遇の仕方とはあきらかに違う。「イスラム国」は、人質の交換ということに興味を示していないかのように思える。だから、繰り返し、多くの人質を処刑し、その画像をネットで流しつづける。「国」ではないから、ジュネーブ協定の箍(たが)すら無視されている。

 閑話休題。映画に戻ろう。
 本作で人質となるのは、チェチェンの独立武装組織に拘束されたロシア軍のイワン軍曹(アレクセイ・ツアドブ)と、グルジアでシェークスピア劇上演のためグルジアで公演旅行中に拉致、拘束された英国人俳優の男女となる。この映画がロシアの検閲を通ったひとつにロシアと領土問題を抱えるグルジアとチェチェイン分離主義者たちとを結びつけていることもあっただろう。しかし、いうまでもなくグルジアはロシアと同じように東方正教会の教義を国教とするキリスト国であることは忘れてはならない。
 
 囚われたイワンと英国人男性ジョンは、武装勢力から身代金を調達するため解放される。もし、期限まで身代金が調達できなければ、ジョンとともに人質になった恋人の女優をレイプして殺害すると強迫される。イワンは英語が話せるためジョンが英国に出るまでの手助け要員として解放されたわけだ。
 映画はジョンが身代金調達に難渋するロンドンでの撮影も行なわれている。必然、ジョンは恋人の釈放をもとめて政府に掛け合うが、「テロ集団との駆け引きにはいっさい応じない」という立場を崩さない。そんなジョンに某テレビ局が、これからロシア、チェチェン入りしてからの行動をいっさいをビデオ撮影してくるなら、その身代金の一部を肩代わりしようと申し出る。これはリアリティーのある話だ。そして、ジョンの素人カメラのアングルはルポルタージュのリアリティーのある画像を映画に挿入することができた。この辺りの作劇もうまい。

 ジョンは200万ドルを確保することはできなかったが、ともかく期限までにゲリラたちの根拠地を戻らないといけないとロシア入りし、道案内のためにイワン軍曹の助力を求めて、彼の住むシベリアの辺境に旅をする情景も映し出される。映画がチェチェンの乾いた風土だけでなく国境をまたいで動くので退屈させない。季節のよいシベリアの光景は美しい。
 イワン軍曹は殺されず解放されたのはいいが、故郷にもどっても仕事があるわけでもなく、生きている充実感がない。そんな心の隙間にジョンの懇請が忍び込む。今度は死ぬことになるかも知れない。しかし、そこには現在(いま)生きているという実感があることをイワンは知っている。

 ゲリラの根拠地に侵入した二人、そして武装勢力に反感もつチェチェン人農民の青年たちの果敢の行動で人質となった女優を解放するところまでたどり着くも・・・その先は語るのは辞めよう、これから観る読者のために。
 

花もつ女たち №61 シュザンヌ・バラドン (モデル、画家 フランス 1865-1983)

シュザンヌ・バラドン (モデル、画家 フランス 1865-1983)
バラドン 自画像1927年

 バラドンの名は、自ら絵筆を執らなくてもルノアール、シャバンヌ、ロートレットの絵のなかで永遠の生命を持っている。バラドンはモデルとして一群の印象派の才能のまえで仕事をしてきた。フランスのモデル女としては、キキにならぶ逸材だった。
 ドガの仕事とも協働している。そのドガがバラドンに絵描きとしての天賦の才能を見い出した。ドガはバラドンがふと描きとめた馬の動態に瞠目(どうもく)した。馬の筋肉の動きまで描き出されたようなデッサンに、彼女の鋭い観察眼、そして、それを描きとめる線の確かさをみたのだ。
 「サーカス団で馬と暮らしていたから、そんな の描くの簡単よ」とバラドンはドガの前で言い放った。19歳の少女の言葉である。
 一枚のデッサンがきっかけでバラドンはドガのモデルをつづけながら本格的に絵を学ぶが、すでに他者に侵食されない固有の世界を彼女はもっていた。絵を習いはじめれば、それが仕事に結びつくような腕前になることはバラドンにとって重要なことだった。やがて、モデルとしての仕事も加齢とともに減っていくことは必然であったからだ。父不在であったバラドンにとって、生き抜くことが闘いだった。
 10歳で裁縫師見習いとして働き出し、子守り、ウェートレス、そしてサーカスの曲芸師に・・・・・・肉体が女として成長して以降、より見入りの良い仕事として裸体を晒すモデルとなった。娼婦であっ たという説もあるが、そんな若いバラドンにとって裸体を晒すことは、さほどの羞恥ではなかったのかも知れない。そこは芸術の“前衛”の都パリであった。
 勝気な少女は、世間の冷たい視線を撥ね返す強さをもっていた。そして、恋多き女。フランス文化史に名を遺す才能たちと浮き名を流す。
 18歳で男子を出産。父親の名は不明。バラドンが隠したわけではない。当時、DNA鑑定などできなかった時代、彼女自身、複数の男たちとの交渉を重ねていたため父親を特定できなかったのだ、と伝記作家は書く。ルノアールの子、という説もある。
 男の子は長じて、パリの街路を憂愁の気配をとどめた抒情で謳いあげる画家ユトリロである。

 ユトリロ30歳の肖像を、バラドン56歳が描いた。バ ラドン円熟期の傑作。絵の中のユトリロは髪も、口ひげの手入れもよく、なかなかおしゃれで神経質そうだが明晰な頭をもつ青年にみえる。伝記は、当時のユトリロは極度のアルコール中毒で暴力沙汰が絶えず、警察にやっかいになること日々だったと記す。母性愛は最愛の息子に、かくあれと「理想」を求めたのかもしれない。あふれる親密な気配はバラドンの絵の特徴である。
 ユトリロのパリの街路は、画家の心象光景だとすれば、いつも淋しい。寂寞と冷たい乾燥した風邪が吹いているようだ。けれどバラドンの描くパリの街路は石畳はいつも光を受け止めているように思う。
 バラドンが画家として多作だった時期は、息子ユトリロより3歳年下の画家ユッテルと同棲していた1909年前 後。そのユッテルに、「小学生でも描ける絵」とかつて酷評されたユトリロの絵が、はじめて公に認められた時代でもあった。

 *冒頭の絵はバラドンの自画像。60歳を過ぎてからの自画像だが、その像から彼女のおおなる覇気、前傾姿勢がみえる。バランドは今日も“ユトリロの母”と形容されがちだ。大正末期にはすでに日本でも紹介されていたユトリロに比べると、バラドンの本格的な紹介は1972年までまたなければならなかった。『バラドンとユトリロ展』という名で開催された企画はユトリロ人気もあって全国7都市で開催された。総数200点強という本格的なもので、ここではじめてバラドンの作品が80点以上、紹介されて認知度が高まったといえる。そこにはバラドンがモデルとして活躍していた20代の多数のデッサンも紹介されていた。そして、本文中に紹介したユトリロ30歳の肖像画も紹介された。

映画 アフリカを描く 『禁じられた歌声』と砂漠の遊牧民トゥアレグ族

映画『禁じられた歌声』と砂漠の遊牧民トゥアレグ族
  *本稿は、11月18日の続篇として読んで欲しい。
 
 映画の紹介などでは混乱を避けるためもあるのだろうが、物語の舞台となった古都ティンブクトゥを一時的に支配したのは「イスラム国」という扱いだが、正確には、イスラム原理主義を信奉するアザワド解放民族運動がまず支配権を掌握したが、これに対立するアル・カーダ系の武装組織がアザワドを駆逐し、古都の象徴であった聖廟を破壊した。
 古代からサハラ砂漠を行き交う交易路の中継地として栄え、1500年頃に繁栄を極めたと記録にあるが、西欧諸国の進出によって砂漠を経由しない交易路が開発されて衰退していった。けれど街の象徴というべきモスクなどがある歴史地区は日干し煉瓦などで建てられた砂漠という過酷な環境に適応した独特の景観美を遺された。その形態はバルセロナでサグラダア・ファミリリア大聖堂を計画するガウディに大きな啓示を与えたとするものだ。

この街の主要な民族がトゥアレグ族といい、アフリカ地域では現在、国をもたない最大の民族集団だ。そのトゥアレグ族の急進派が組織したのがアザワド解放民族運動だ。映画では、このアザワドと「イスラム国」に比較がまったく行なわれていない。たとえば、「イスラム国」は歌舞音曲を禁じたが、アザワドたちは「歌」そのものを民族解放運動を鼓舞する重要な教宣活動とみなしているのだから、禁じるわけはないのだ。
 映画にギダンというゲリラ兵士役で出演しているイブラヒム・アメド・アカ・ピノ自身、トゥアレグ族である。彼が自らTamikerestという音楽集団を組織、フランスとアフリカのマリ共和国のトゥアレグ共同体で活動している。イブラヒム自身、かつて銃をもつゲリラ兵士であった。
 そのイブラヒムも登場する興味深い記録映画が先行して日本に紹介されている。タイトルを、『トゥーマスト』という。サブタイトルは、ずばり「ギターとカラシニコフの狭間で」。
 トゥーマスト
北アフリカの砂漠地帯の遊牧民にトゥアレグ族は、日本からはまったくみえない先住民族だが、総人口は550万を数える。ニジェール、マリ、アルジェリア、ブルキナファソ、リビアの国境が接する周辺地帯に住む。彼らが国をもつことができなかったのも西欧諸国の私利私欲の植民地分割のためだ。
 トゥアレグ族は各国に散在して住むため自前のマスメディアを持たない。だから、「独立を訴えるため音楽がいちばん有効な手段なのだ」と訴える歌手を主人公にしたものだ。

 20世紀前半、メキシコ革命が起きたとき、その情宣手段とされたのが音楽だった。それをコリードという。日本でも良くしられる「ラ・クカラチャ」はその革命から生まれた。マスメディアが発達していない国、地域では昔も今も音楽は有力な武器となる。インターネットも携帯電話も普及していない地域の独立闘争はいまも肉声なのだ。そんなことを教える映画であり、イベントであった。
 「イスラム国」のテロによって、日本人も犠牲となったが、その歴史的な背景をみるとき、そこに住む民族を無視し、自分たちの利害だけで国境を割った西欧諸国の“罪”があぶりだされる。それは現在、アフリカ地域における政治的な混乱でもおなじことがいえる。
 

「イスラム国」とサッカー

「イスラム国」とサッカー

 パリの同時多発テロでフランス対ドイツとの親善試合が行なわれていたサッカー場が標的になった。自爆テロの目的は試合を観戦していたオランド大統領の究極の目的としていたのかも知れない。
 同大統領は、「シリアで計画され、ベルギーで組織され、パリで実行された」と語った。ベルギーの首都ブリュッセルのイスラム教徒が多く住む街は以前から過激派の温床と知られ、武器の密売も行なわれていたことも周知の事実だ。そのブリュッセルで今月17日に予定されていたベルギー対スペインの試合が政府からの要請で中止されることになった。

 サッカーが“国技”のような国で試合が急遽、中止になるほど事件の波紋は大きいということだ。影響が大きいからテロの標的になったともいえるが、「イスラム国」がサッカーそのものを禁じていることは意外と知られていない。彼らは英国起源で西欧諸国のイスラム諸国への侵略、植民地化とともに中近東地域に根を下ろしたサッカーを排斥する。
 シーア派聖職者の神聖国家を目指したイラン、パレスチナ解放機構(PLO)のパレスチナでもサッカーに興じることは自由だった。いや、むしろ奨励されたといっていい。パレスチナが国として、FIFA(国際サッカー連盟)に加盟し、現在、日本代表とどうようW杯のアジア予選を闘っている姿はドラマそのものだ。パレスチナのサッカーをドキュメントした1巻の本が日本でも刊行されているぐらいだ。しかし、「イスラム国」はそのサッカーをも禁じた。

 12月下旬、劇映画としてはじめて「イスラム国」の侵攻、イスラム原理主義的な恐怖支配を描いたアフリカのモーリタリアで制作された映画『禁じられた歌声』が日本でも公開される。制作はモーリタリアとフランスの合作だが、舞台はマリ共和国の古都ティンプクトゥ。2012年頃、「イスラム国」の侵攻を受け、短期間、占領された。その占領下の町で、サッカーが禁じられた日常が描かれている。ティンブクトゥとは砂を固めて建造された“美しい砂の街”として世界遺産に登録されている。
禁じられた歌
 サッカーに興じれば誰でも鞭打ち30回の刑に処す、子どもも容赦しない。それが「イスラム国」の“法”だ。
 映画は、「イスラム国」の北アフリカ諸国や中東地域の各都市、村落への侵攻などを描いた最初の劇映画となった。
 映画のなかで少年たちが、運動場でみえないボールを蹴りあって遊ぶ光景が映し出される。エアーサッカー、と冗談を言っていられない。その懸命なむなしさが伝わってくるから悲劇だ。
 サッカーが西欧起源でダメと教義の徹底性をいうなら、彼らの主要武器である自動小銃カラシニコフは、彼らが敵国としたロシアでソ連時代に制作が開始されものだ。武器も自分たちで開発しろ、と言いたくなる。

文庫化されない本のために 7~8 モーツァルト関係書

文庫化されない本のために 7~8
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★

☆007 高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』
☆008 H・キュング『モーツァルト/超越性の痕跡』

▽高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』

 小林秀雄の「モーツァルト」論で語られる作曲家の像はヨーゼフ・ランゲの筆になる、あの未完成の肖像画である。
 小林がどこから引用したものかは知らないが、小林がモーツァルトの音楽を聴き、その芸術について語るとき、彼の脳裏にあったのはランゲ筆の像であることはまちがいないだろう。1789年頃の肖像といわれるからモーツァルトの死の3~4年前の像ということになる。
 ややうつむき加減で大きく眼を見開いたモーツァルトの横顔はほぼ完成し、胸から下部が余白のままに残された未完成作品だが、肖像画としてはほぼ完成しているものだ。下部はクラヴィィーアに向かって弾奏しているか、作曲している最中を描いたものと推定される作品だ。
 現在、このランゲ筆の肖像を含めて、真正といわれるモーツァルト肖像画が14点遺されている。そして、その肖像画はみな美術史にほとんど無視されている画家か、アマチュアによるものだ。

 本書は、その14点を巡って「肖像画」論を展開する。14章プラス1章で、その追加の1章は肖像ではなく音楽に触発されて描かれた絵をかたるエッセイ的文章となっている。
 著者は音楽研究家でないから、取っ掛かりとしてモーツァルトを語りながら、美術評論家としての筆が各章で自在に進み、たちまちモーツァルトとも音楽とも無縁なところで美術論が展開される。
 本書は、モーツァルトの音楽を常識的に知り、その幾つかのフレーズを口ずさむことができる美術愛好家といったあたりの人がもっとも良く味わえるものだと思う。

 私自身、本書つうじて、いろいろ確認できて面白かった。
 たとえば、作曲家としての創作が充実していた時期の肖像画としてドラクロアの「ショパン像」や、アングルのデッサン「パガニーニの肖像」があったことをあらためて確認した。ショパン像は音楽のイメージから想像するものに大変、近いと思う。パガニーニの超絶技巧の演奏ということで、映画などではすこぶる個性的に描かれたりするけど、アングルのそれからは、かなり全うな常識人という印象を受ける。音楽史的には小さな存在かもしれないがケルビーニの肖像もアングルが描いている。女性画家による作曲家像として好きな作品にバラドン(ユトリロの母)の「エリック・サティ像」も忘れがたい。

 あるいはドル紙幣など、米国にあふれる建国の英雄にして初代大統領のワシントン像が流布した縁起なども教えられて面白かった。ギルバート・ステュアートという、画家としては三流の売り絵、注文絵描きが、生活のために売れるワシントン像を大量に描いた。しかも、同じような肖像画。画家は、オリジナルとしてまず描き、注文はすべて、その模写、レプリカを描きつづけた結果、極めつけのワシントン像になってしまったという話など・・・そんな話がふだんに収められている。文庫にしても面白いと思うのだが。(小学館刊*1996年)

▽H・キュング著『モーツァルト/超越性の痕跡』(内藤道雄・訳)

 数多(あまた)あるモーツァルト書のなかで、これは日本人には容易に書けない類いの論集だと納得させるのが本書。少々、乱暴に概要を書けば、モーツァルトの音楽、その芸術のなかにカトリックもプロテスタントも超越した「神への理性的な信頼に支えられた現実的な人間存在」への信頼、あるいは賛歌の内実に迫ろうというものだろう。

 モーツァルトの父レオポルトは青年期、イエズス会士から約12年間、教育を受けている人で、子ヴォルフガングにもカトリック教育を熱心に施している事実を著者は語ってゆく。そうした文脈からモーツァルトの作品を取り上げて、彼の信仰の姿勢を語る。
 また、モーツァルトのカトリック信徒としての生活を認めながらも、それは教条主義的なカトリシズムではなく、「プロテスタント的ではない啓蒙化されたカトリック性」と書く。
 おそらく宗教改革以降のキリスト教圏の作曲家あるいは音楽家にとって、その音楽性に対して、このような本がそれぞれ書かれているものだと思う。ただ、邦訳までされるのは、その極一部でしかないということだろう。“売れる”モーツァルトだから邦訳が出たということだろう。
 本書がプロテスタント系の宗教書の刊行を生業とする出版社から出されたことも示唆的だ。一般の出版社が容易に手をつけかねるモーツァルト論を出してくれたことに感謝したい。同じ出版社からはカール・バトルの『モーツァルト』も出版されているが共に少部数の刊行である。

 本書を正確に論評できる立場ではないが、一読書子としてモーツァルトの聴き方にあたらしいベクトルが与えられたことは確かだ。訳注や解説ページを除けばB6判で80ページにも満たない論考だが、その実質は大変、深い。(新教出版社刊*1993)

花なもつ女たち №60 グランマ・モーゼス  (素朴画家*米国 1880~1961)

グランマ・モーゼス
 (素朴画家*米国 1880~1961)

モーゼス


 グランマ・モーゼス、モーゼスお婆ちゃん……もちろん愛称。日本風にいえば雅号ということだろうが、でもニュアンスはだいぶ違う。日本画家の雅号は師匠が与えるものか、自らの絵心を託すように命名するものだが、モーゼスお婆ちゃんは、孫たちの呼びかけにこたえたものだ。

 本名をアンナ・マリー・ロバートソンという。27歳のとき、農夫と結婚し生涯、農婦として充足した生涯を送った人だ。だから、彼女の視界にはいつも広々とした農場があった。半世紀におよぶ歳月、農場の四季の移りかわりを掌のなかでみてきたひとだ。
 アンナ・マリーが農場の主婦の座を嫁だろうか娘にだろうかゆずってから、余暇に絵筆を執ったのだ。まったくの独学、いわゆる素朴画家として自らの楽しみのために描きはじめた。描かれるのは農場をめぐる自然とひとびと。写生などしなくても知り尽くした農の光景を思うまま、興にのせて描いたものだろうが、祭や人びとの生活をみつめた絵はそのまま米国農業の博物誌ともなっていた。
 おおらかで気持ちよい絵だが、筆の運びはいつも丁重で、抑制も効いている。評伝など読むと、家族のセーターなどを編んでいるとき、あまった毛糸をつかって刺繍画を制作していたという。主婦としての手仕事をしているうちに、省略と構成力を身につけていたのだろう。その刺繍画は仕上げるそばから孫や友人にプレゼントしていたという。それは評判のよい個性的な作品であったろう。
  
 米国に限らず、アメリカ大陸は開拓につぐ開拓の歴史だといってよい。開拓地ではたらく人たちはなんでも自ら手づくりをする必要に迫られた。商店などはるか彼方にしかないような地で生活する人たちにとって、身につけるすべてが手作りだったりする。そこから独自のフォークアートが生まれた。モーゼスお婆ちゃんの刺繍も絵もその延長にでてきたものだ。
 通信販売網の充実は19世紀の最後期になって米国のシアーズ・ローバック社が創業されてやっと発達の足がかりとなったものだ。モーゼスお婆ちゃんが生まれて6年後の創業だから、お婆ちゃんの子ども時代は、生きるための知恵として家族のなかでさまざまなことが伝承されたのだろう。
 
 親密な田園風景。木々の一本一本の表情まで知りつくしたもの。その木のなかには苗木から育てたものがあったかも知れない。その木の生長をみてきた農婦は、木の表情をおろそかには描けないだろう。
 そんなモーゼスお婆ちゃんの絵が美術商の目にとまったのは80歳のときで、お婆ちゃん別に名声などいささかも望んだわけでもないが、たちまち全米で知られることになる。
 健康でつまやかに平穏に生きてきた充足感があふれた絵。なにより、モーゼスお婆ちゃんの絵には清涼な透明感があると思う。それは神への感謝といったものが他意なく、彼女の心象として映し出されているからだと思う。

映画『アララトの聖母』を再評価。『消えた声が、その名を呼ぶ』の公開で見直したいアルメニア人たちの想い

映画『アララトの聖母』を再評価。新作『消えた声が、その名を呼ぶ』の公開で見直したいアルメニア人たちの想い。

   *本稿は、映画『消えた声が、その名を呼ぶ』評の続篇と書いた。まだその前評を読んでいない読者は、先に読んで欲しい。
 アララット


 新作『消えた声が、その名を呼ぶ』(原題THE CUT)が訴求する声を聴いた筆者は否応もなく2002年のカナダ映画『アララトの聖母』(原題Ararat・アトム・エゴヤン監督)を思い出す。 アプローチの手法がまったく違うから簡単に比較はできないものの、民族間に横たわる悲劇的な過去、あるいは加害と被害の問題、復讐の負の連鎖といったことを考える場合、『アララト~』が問いかける意味は大きい。

 エゴヤン監督は、「なぜ(アルメニア人)虐殺が(トルコ人に)事実として認められないのか、なぜその拒絶はいまも続いているのか、そして拒絶を続けることがどんな結果を生むのかという問題を、すべてこの映画で描かなくてはならなかった」と語っていた。監督は「現在」の位置から1915年、オスマン・トルコ帝国領内で起きたアルメニア人虐殺問題を考察し、カナダという移民国家のなかで、隣人にトルコ系カナダ人、アルメニア系カナダ人が混在する社会から歴史が現在進行形で心を蝕む問題を取り上げている。
 監督は、おそらく世界の大半の人びとが1915年の悲劇を知らない、仮に知っていても歴史項目のような簡素なものであって、そこに血が通っていない、という前提で製作していると思う。故にトルコ人の見方も取り上げている。アルメニア人として、悲劇を語る際もその立場、環境によってさまざまな受け止め方があることも語っている。それをドキュメントではなく、創作の劇として描く手法を取っているので話は輻輳し、時間軸も1915年、1930年代、そして現代と3つの時代が錯綜する。おそらく、時間が縦にしか流れないテレビドラマの延長のような映画しか見ない人には、この物語はカオスとしか受け止められないのかもしれない。むろん、そのカオス、混沌を与えるだけでも十分、があるだろう。20世紀初頭に西アジアの一角でジェノサイドがあり、現在も悲劇が再生されているようだ、と認識させるだけでも大きな意味があるからだ。
 1915年の悲劇は劇中劇としての映画制作の場面で濃密に描かれ、ときにリアリステックな歴史的シーンが佳境に入っていくときに、カメラは引かれ、それがセットのなかで行なわれている作劇だと示されたりする。その引かれた監督たちや、映画をサポートする歴史顧問といった人たちの現在の問題、心性がまた映画に肉付けされる。そこで100年前の悲劇はいまも世代を繋いでいきながら深刻に再生されつづけていることも語られる。

 『消えた声が~』を語る際、シャンソンの大御所アズナヴールをアルメニア系フランス人と書いたが、本作『アララト~』では穏やかな熱い民族の血をうけつぐアルメニア人としてのサロヤン監督役を見事に演じている。アズナヴールのアルメニア名はアズナヴーリアンという。彼78歳の時の好演だ。映画とはいえ父母たちの世代が辛酸を嘗めた歴史の真実をあぶり出す映画監督の役というのは、それなりにしんどいことだったと思う。当時、アルメニアの駐ユネスコ大使という職に就いていたアズナヴールにとって本作に出演することは、単に仕事をこなすというものではなかったはずだ。おそらく民族の血のなせる役として取り組んだと思う。
 そのサロヤン監督が、アルメニア人の虐殺をサディステックに指揮するトルコ軍将校役を演じたトルコ系カナダ人の男優を評して、「この映画に出演することは彼に とって大きなプレッシャーだったはずだ。これを俺からの感謝として上げてくれ」とシャンペンを取り出す印象的なシーンがあった。
 衣裳を脱いだトルコ系の俳優と、アルメニア人スタッフとの会話も興味深い。
 「あなたが迫真の演技をすればするほど、あらためてトルコ人への憎しみが強くなっている自分ることに気がつく」とアルメニア系の青年。
 「俺を殺した、と思うか?」
 「・・・・」
 「おれはこの国に生まれたカナダ人だ。きみもこの国にうまれたカナダ人だろう」とトルコ系の俳優は言う。
 
 『消えた声が~』では書かなかったが『我が名はアラム』など知られる米国を代表する作家ウィリアム・サローヤンもアルメニア系であって、映画は、同じ芸術表現者としてサローヤンを顕彰する意味で映画監督の名をサロヤンとしているだろう。
 大戦前から大戦後まで米国の美術シーンをその独特の抽象表現で個性的な世界観をしめした画家アーシル・ゴーキーもまたアルメニア系だ。ゴーキーのアルメニア姓はアドヤン。そのゴーキーの最晩年の代表作『芸術家と母親』(1926~34)は映画『アララト~』を象徴する画像として象徴されるし、ゴーキーがアトリエでその絵に取り込む様子も写し出す。その絵は映画のポスターにも使われている。
 ゴーキーがその絵を描くために参考としたのが唯一の残された母親とゴーキー少年が並んだ写真。その写真を撮ったのがトルコ兵士に殺され父親であり、といったことは、サロヤン監督の映画で語られる。映画の発想はその絵を基点としている。

トルコ映画『消えた声が、その名を呼ぶ』 ~オスマン・トルコ帝国末期のアルメニア人大虐殺を描く

オスマン・トルコ帝国末期のアルメニア人大虐殺を描く映画『消えた声が、その名を呼ぶ』

 消えた

 ヒトラーがユダヤ人に対するジェノサイドを政策目標として机上に載せたとき、側近たちを納得させるため、「いま誰がオスマン・トルコのアルメニア人に対する大虐殺を問題にしているか。つい最近のことだ。生き残った証言者もたくさんいる。人はわがことに関わりなければ誰も記憶を封印し、無かったことにしてしまうものだ」といった意味のことを“参考意見”としたのはあまりにも有名な話だ。
 映画『消えた声が、その名を呼ぶ』はそのアルメニア大虐殺の史実を“加害国”トルコの監督が撮った。それはたぶん日本の映画人が南京事件、慰安婦問題を真正面から取り上げるのに等しい。そのトルコ人監督の名をファティ・アキンというが、本作の試写をみたトルコの友人のひとりは「 石をぶつけられるぞ」といい、もうひとりは「花を投げてくるよ」と言ったという。つまりトルコでは南京事件や慰安婦問題とおなじように現実政治に影を落とす問題なのだ。
 現在、トルコはEU入りを目指しているが、いつも反対に、回っているのがフランス。同国には多くのアルメニア系住民が暮し、アルメニア人に対するジェノサイドに対し公式謝罪をしないトルコを指弾しつづけていて、時に政府の政策に大きな影響を与えている。シャンソンのシャルル・アズナブールやポップ歌手シェルビー・ヴァルタンなどがアルメニア人である。20世紀クラシック界の“帝王”といわれたドイツの指揮 者カラヤンもアルメニア系だ。現在コーカサスの回廊に位置するアルメニア共和国内の総人口298万だが、その人口を越えるアルメニア人が世界各地に散在している。その震源が1915年のオスマン・トルコによるジェノサイドであった。
 
 映画は第一次大戦下、トルコ領内の小さなアルメニア人集落の成人男性に対する強制徴用からはじまり、やがてアルメニア人社会全体に覆ってゆく迫害と拡大する。それは大戦にドイツと軍事同盟を結び、敗色が濃厚になっていくほどに、アルメニア人たちの悲惨はました。
 映画では飢餓と病いで地獄絵図となった難民キャンプの様子も映像化されている。そうした過酷な状況を奇跡的に置き延びたアルメニア人の鍛冶職人ナザレット(タハール・ラヒム)が強制労働に狩り出されている間に故郷を追われて行方不明となった二人の娘をさがしてシリア、レバノン、キューバ、アメリカへと旅する物語だ。難民となったナザレットに正式なパスポートはない。国境を越えるのも不法越境。それは生命を賭けた旅路だ。そして、それはそのまま今日のシリア難民問題や、北アフリカ諸国から地中海に羅針盤なしで乗り出した船に満載された難民たちの姿に重なってゆく。
 映画では大戦前から難民となって海を渡っていたアルメニア人たちの姿も描かれる。そうした人びとの助けでナザレットの旅は保障されたといえる。米国の寒村で娘のひとりを探し当てるナザレットだが、現実は過酷なものだった。
 
 かつて筆者は、アルメニアの首都エレバンに独り旅したことがある。郊外の小高い丘に アルメニア女性と登ったことがある。アルメニア人が等しく崇める霊峰アララット山を眺望するために。アララットの峰とは旧約聖書のなかで「ノアの箱舟」が漂着したとされるところだが、その聖なる山は現在トルコ領土となっている。それは東京の人間が、他国の領土となってしまった富士山を眺めるということに等しい。アララットの縁起でもわかるようにアルメニアは歴史上、もっとも古くキリスト教を“国教”とした国だ。
 そして、この国がコーカサスの回廊に位置したため北と南に台頭する強国の圧政を絶えず受けてきた。首都エレヴァンの広壮な国立博物館があるが、そこでみた巨大な展示物を思い出す。それは古い教会の内壁をそのまま移築展示したもので、アルメニアを占拠した支配者が変わるたび、宗教画の装飾が変ったことを象徴するもので、幾層もの漆喰を剥いで、各時代の絵を見せるようになっているものだった。アルメニアそのものを象徴するものだった。筆者が訪れた当時はまだソ連邦の支配下で外国人が宿泊できる数軒のホテルのレストランのメニューは、右半分がぶどうの蔓から発想を得たいわれるアルメニア文字、左半分がロシアのキール文字というもので、食事のたびにえらい苦労をしたことを思い出す。その時、英語で助けてくれたのがアララット山を眺望しに丘に登った女性であった。
 クレムリン支配下のアルメニアから「剣の舞」でしられる作曲家ハチャトリアン、独特の色彩感で母国の自然を描きつづけたサリヤンが出た。いま彼らの位置はどのようなものになっているのだろうか?

 映画のなかでトルコの役人が、「キリスト教を捨てイスラムに改宗するなら強制労働は免れる」生命は保障されるという二者択一を迫るシーンがある。背教者も出る。しかし、大半が棄教を拒み、そして命を落とす、殉教。100万とも150万ともいわれる犠牲者の多くのはそうした棄教を拒んだ殉教者たちだろう。
 勇気をもって自国の負の歴史を直視した若い監督ファティ・アキンに敬意を表したい。  
*12月26日、東京地区公開後、全国順次公開。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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