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[ライナー・ノーツ] リッキー・マルティンのラテンの血

リッキー・マルティンのラテンの血
  アルバム『ライフ』(CBSソニー*SICP918)のライナーノーツ
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 1996年12月、クリスマスの直前、中米グァテマラの酸鼻きわまりない内戦が終結した。リッキー・マルティンがその小国で内戦終期、二夜連続の野外コンサートをおこなった。
 市民を戦闘に巻き込むような市街地でも銃撃戦はなかったが、人権犯罪はまだ続出していた時期だ。コンサートがテロの対象になることはなかったが、そこに駆けつけるファンはそうはいかない。深夜、ときに日付の替わるコンサートが当たり前のラテンのイベント。帰路、どんな危険が待っているか分からない。安全を優先して会場の近くのホテルに部屋 を確保してコンサートに臨んだファンも多かったはずだ。
 メヌード(リッキーが10代に所属していたプエルトリコのアイドルグループ)在籍時代を除けば、リッキーのアルバムが日本で発売されたのは97年、『ア・メディオ・ビビール』が最初となる。ラテン諸国でのリリースから2年遅れての発売だった。そのアルバムから「マリア」や「ボルベール」のヒットが生まれた。筆者は、そのヒット曲、およびグァテマラのコンサートによってリッキーの存在を刻み込むことになった。帰路がけっして保障の限りではない、というコンサートに多くのファンをあつめた彼の巨(おお)きな力の目を見張ったのだ。
 グァテマラでコンサートが実現した前年、リッキーはブロードウェイ・ミュージカ ル「レ・ミゼラブル」に出演し成功を収めた。このステージの成功の後、しばらくハリウッドから「ウエストサイド物語」のリメイク版での主演を熱望する声が出た。その時、リッキーは明快にそれを拒んだ。
 「プエルトリコ、その文化にマイナスの既成概念を与えるような映画に出演するわけにはいかない」と。
 
 日本ではいまだに、「ウエストサイド物語」の人種差別的な側面に目を背け、ミュージカル映画の古典とまつりあげている。いや、米国でもさして事情は変わらない。リメイク版の発想そのものが根強い差別意識を象徴するわけだ。映画では、プエルトリコ人は粗野で向上心もない、社会の落ちこぼれとして描きだされた。リッキーの血はそれを拒否したのだ。多数のオス カーを受賞した映画「ウエストサイド物語」だったが、プエルトリコ系の女優リタ・モレノも助演女優賞を獲得している。そのリタはその後、プエルトリコ人の地位向上などを主張する人権活動に入っている。

 リッキーは安易に“社会的”発言をしない。しかし、ひとたび自分の名声が役に立つと思えば、それを厭(いと)わない。
 プエルトリコに帰属する小さなビエケス島がある。その島で米軍射爆場の撤退問題が噴出した際、リッキーは故郷の大衆行動に連帯した。射爆場撤退、ないしは規模縮小を求め、多忙な日々、時間のなかでインターネットでスペイン語と英語で国際的な支持を訴えていた。2001年のことだ。

 話は前後するが、98年W杯フランス 大会のメインテーマ曲を要請されたとき、リッキーは既成曲の提供を断り、新曲「ラ・コパ・デ・ラ・ビダ」を創った。これは実によく考えられた曲だった。
 ブラジル・バイヤ地方のリズム、サルサやキューバ・ジャズメンたちのピアノの運指、その巧みな強弱のリズム、かすかに聴こえてくるアコーディオン(ごとき音色)には主催国フランスに敬意を表してか、ミゼット音楽の感触も挿入していた。
 「ラ・コパ~」後、リッキーは意欲的に国境を超え、どん欲に音楽のハンターとなってゆく。
 本作『ライフ』はその流れのなかの激流であるかも知れない。音楽的な批評は別稿に譲るが、メヌード時代から脱退までという季節、ラテンアメリカ諸国は悪質な軍事独裁政権が跋扈(ばっ こ)し、内戦、クーデター、ありとあらゆる人権犯罪が繰り返されていた。国境を超えるツアーの日々、いくら目をつぶろうと時代の大気は若い感性を震わせた制したことだろう。そんな時代から蓄えられた音楽的滋養が本作のカロリー源となっていることは間違いない。 (2005年8月記)
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花もつ女たち №64  メアリー・カサット (画家 米国 1844~1926)

花もつ女たち №64
 メアリー・カサット (画家 米国 1844~1926)
カサット

 メアリー・カサットは実に多くの母子像を描いている。そして、その作品はすべてフランス印象主義運動の初期から退潮までの行程のなかに収まるものだ。
 ドガやピサロとともに温和な画風で歩んだ。フランスにあって、印象主義の推移に現在進行形というふうに寄り添った唯一、米国人画家でもある。だから、フランスの美術史などではフランスの画家として遇されることもある。ドガの代表的な肖像画の傑作に「カサット像」がある。同時代の同行者としてドガはそれを描いたのだろう。
 
 印象主義の波が過ぎ去ってみれば、カサット芸術でもっとも個性豊かな領域は木版画であることが瞭然とする。
 色相の限られた木版画は浮世絵 に触発されてはじめられた仕事であった。そこでも油彩で繰り返し描かれた親密な母子像があらたな展開をみせる。カサットの研鑽は寡黙で地味だが堅実に進化する。カサットが求めた美の世界は版画の世界でより純化し、清涼感に満ちたものになる。そこで主張されているのは代償をもとめない普遍的な〈愛〉の存在しか認めない、そういう強い確信がこめられているように思う。
 米国にとって「家族愛」、あるいは「夫婦愛」はピューリタン的理想像である。西欧の政治家はしばしば愛人問題を引き起こす。離婚、再婚、不倫が発覚しても、失脚の要因にはならない。スキャンダルには違いないが有権者は寛容である。しかし、米国では政治生命が断たれかねない不祥事となる。そんな米国でカサットの絵、版画は根強い人 気があるのも当然かも知れない。
 サザビーやクリティーズでたびたびカサット作品がオークションに出され、人気を呼んでいる。そのたびに発行されるカタログはカサット研究に貢献する。

 ひとつのテーマをながい期間、飽かず追究するという行為はつよい意思、それも絶えざる自覚的な力を覚醒していなければできないことだ。いったん弛緩(しかん)させれば、たちまちマンネリに落ち込む。われわれは数多くの美術史にそれをみてきた。美術史は脚注に多くのマンネリズをぶら下げている。
 77歳で白内障を患い制作を止めるが、それまで倦(う)まず母子像を描きつづける。
 カサットの代表作は約20年間のフランス滞在期で成しえたもので、帰国は54歳、1888年。欧州のあたらしい思潮を呼吸し、自立した女性芸術家として母国 では社会参与の姿勢を明確してゆき、婦人参政権運動に積極的に関わっていった。

署名アラカルト №5 挑発的含意型  柳美里

挑発的含意型  柳美里
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 個性的な署名を紹介するコーナーなのに柳女史のそれは誰が読んでも容易に「柳美里」と判読できる。
 そう、文字自体には取り立てていうほどのことはない。けれど、このひと、自著に署名するさい一筆目を必ず上部、裁断されたすぐ下から書き込む。すると必然、文字の配置、レイアウトは細長で書き下す筆でなければ必然、大書となる。そう、いつも余白をめい一杯つかうのである。署名における『隙間恐怖的空間忌避症』的である。そういう署名はしかし、珍しくないのである。
 柳女史の署名は“症状”といったものではないが自己顕示欲というものを感じはする。大書のわりには破調がないぶん結構、神経質な気配がある。
 柳女史が繰り返し書くテーマは家族、在日二世の自分の家族を赤裸々に描き、自身の恋愛問題もためらわず抉る、いわゆる女流として稀有(けう)な私小説家的作風である。でも、この人の描く「私」は瀬戸内晴美(寂聴)さんや宇野千代さんのようなカラリと乾いたところがないし、田辺聖子さんの旦那さんモノのようなユーモア精神も無縁。突き放してはみていない。陰気で、じめついている。そして、署名はそんな小説を、これから読もうとする読者に向かって、なにやら挑発しているような気配すら感じる。なにがしかの底意の気配が。そういう意味では物言う意味深長な署名である。

署名アラカルト その4 日野原重明

その4
 硬軟的教祖型 日野原重明
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 いわずと知れた日野原流老生教開祖の署名である。本業は聖路加国際病院理事長・名誉医院長、だが東京・築地の同院へ親しく通院できるひとは圧倒的に少ないので、日野原流老生教の公布、宣教活動は講演、そして視力の弱った高齢者の目にやさしい大きめ活字による本の大量頒布によって行なわれる。ときどきテレビでお茶の間に語りかけることも厭わない。過日、みた「徹子の部屋」であったか、「私は東京オリンピックまで予定がびっしりだ」と乾いた口調で豪語されていた。2020年ということは109歳ということになる。率直に頭が下がる。

 もう5~6年前のことになるが、都内のマスコミ用試写室で偶然、隣席したことがあった。秘書とか、あるいは付き人といった人もなく、飄々と入ってきて、映画がはじまって約30分ほどして、ツッと立ち上がり、「つまらん映画だ」との判断か、スッと席を離れ、飄々と立ち去った。音もなく入ってきて、音もたてず消えてしまった。痩身で小さな人だから床に加わる重力も少ない。歩行の摺り音も吸収されてしまった感じだった。いま、指折って数えてみると99歳の日野原さんとなるだろうか。

 この人にはどうも「翁」という文字ほど縁遠い人はいない。白衣に聴診器を下げた教祖は、生涯、医業も現役でなければいけないようだ。そして、それを少しも苦にしていていないところはもはや“人間国宝”。健康・明晰を後光とした教祖は無敵である。
 署名は能書の部類に入るだろう。しかし、日野原さんの署名と知らず、差し出されて判読容易なのは「原」の一字だけだろう。「日」などは野牛の両角にしかみえないが、全体のトーンは長調で快活である。自信と確信に満ちている。教祖でも自ら体現している実践性の裏打ちがある。
 「かくありたい」と思う高齢者にとって日野原さんの署名はありがたい“御札”“御守”のようなものに違いない。

プロバカンダとしての「映画」の効用と役目  映画『5デイズ』 レニー・ハーリン監督

圧倒的な戦力の差のなかで、抵抗を強いられた小国の戦争
~プロバカンダとしての「映画」の効用と役目
 映画『5デイズ』 レニー・ハーリン監督
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 2008年8月、コーカサスの小国ジョージア(グルジア)で勃発した「戦争」があった。短期間であったが、国境紛争といった規模ではいえない。確かに、大国ロシアにとっては、ウクライナの東部の一角を占拠するような国境紛争であったかもしれないが、小国ジョージアにとっては国家存亡の危機ともいえる「戦争」であった。
 現在、公開中の映画『独裁者と小さな孫』を紹介し、そこで本作『5デイズ』(2011)にも触れたので、この際、言及しておこうと思った。すでにウクライナ紛争、シリア内戦の深刻化のなかですっかり隠れてしまった5日間で銃火は止むことになった戦争を描いた唯一の映画ということも取り上げておきたい理由のひとつだ。

 公開時の世評はマイナス評価の方が多かったと思う。その最大の批判点としてグルジア政府が軍、その装備など全面協力したプロバカンダ映画だから、というものだ。しかし、それは単純な見方だ、というよりプロバカンダという言葉を皮相的には解釈していない者の批評ともいえない“感想”に過ぎない。
 たとえば現在、ハリウッドで制作されているアフガニスタン、イラン、イラク及び中東諸国の戦場をとりあげた作品の多くが米軍及び有志連合軍のプロバカンダ的側面があることは誰もが認めるところだろう。より具体的にいえばスピルバーグがナチ・ドイツのユダヤ人ジェノサイドを取り上げた映画を制作した後、パレスチナ・ゲリラがミュウヘン五輪の最中に起こしたイスラエル選手団へのテロ行為、その報復に従事するイスラエル特務機関モサドの活動を描いた映画を撮った。そういう厖大な資金力を必要とする仕事の持続性、計画性そのものがユダヤ人 スピルバーグ監督流のプロバカンダの発し方となるのである。
 
 国際政治の現実を直視できない映画批評家の多くは『5デイズ』をプロカンダを切る。ロシアが今日まで、たとえばチェチェイン紛争をクレムリン視点で撮ってきた映画がプロバカンダとすれば、『5デイズ』は小国ジョージアが積極的に抵抗・防御のために制作せざるえなかったプロバカンダなのだ。チェチェン人だって、ジョージア人のようにロシア軍の抑圧的な内政干渉を映画に撮って世界に訴えたいだろう。しかし、チェチェインには残念ながら映画制作のノーハウがなかった。
 国境を接して、巨大な武力をもつ大国が“敵性国家”として存在している状況のなかで、小国が資金をさほど必要としないプロバカンダを絶えず行使することは生きるための便法なのだ。キューバのカストロ前議長、あるいはベネズエラの故チャベス大統領がたえず米国に牙をむいて指弾しつづけ国際的な注視が向くように意図したのは、米国の侵攻の意図を停滞させる積極的なプロバカンダであった。それを怠ったパナマやニカラグア、あるいはグァテマラ、グレナダといった民族主義的な社会主義政権を一度は自立した小国が米国の介入で無残につぶされた歴史的事実を知れば、そのプロバカンダの効用というものがわかるだろう。メキシコのサパティスタ、冷戦時代のセコハン兵器しかないという貧弱な装備で巨大な政府軍と対峙できたのは、インターネットを屈指したプロバカンダの効用であった。現在の「イスラム国」のネットの活用はサパティスタが源流だ。

 米国をロシアと置き換えてみれば小国ジョージアの立場は鮮明となるだろう。ロシア圏から離脱できた途端、手続きが面倒なユーロ入り、あるいはNATO加盟といったことの前に、容易に独立国家として認められるFIFA入りの手続きをとったバルト三国、ラトビア、リトアニア、エストニアという3つの小国の必死の姿勢を思わずにはいられないし、そういう文脈のなかでジョージア情勢を考えれば映画の味方も変わってくるのである。
 本作を批判する日本の安穏な批評家は、台詞も英語だと単純に批判し、ジョージア大統領すらアンディ・ガルシアが演じたハリウッド映画だと指弾する。映画は、戦争で家を失い土地を奪われた民衆が、首都トリビシに難民となって避難生活を送っている状況のなかで撮られている。ジョージアとしては、ロシアの非を世界に訴え抑制することは国策でもあっただろう。そのための一つの方法としてプロバカンダとして映画も必要だったろう。しかし、映画は迅速に世界各地で迅速に公開される必要がある。それにもっとも力があるのはいうまでもなくハリウッドの配給網だ。アンディ・ガルシアという米国人俳優を起用したということで単純に批判する評者がいたが、彼がヒスパニック系俳優であることを忘れている。その彼の思想、政治的立場を象徴する作品に『ロルカ』があった。いうまでもなく、スペイン内戦の最中、フランコの王統軍に虐殺された詩人ガルシア・ロルカを描いたものだ。ガルシアはロルカを演じるためプエルトリコ映画に主演した。ただのハリウッド人ではな い。そして、先に紹介した映画『独裁者と小さな孫』に主演したミシャ・ゴミアシュヴィリはジョージアを代表するベテラン俳優であり、英語も巧みにこなせる人材として『5デイズ』でもグルジア北部領土・南オセチア人という役を演じているのだ。

 ジョージア戦争ではロシアは、ロシア系住民の多いジョージの北部領土を併合するために執った戦争であった。元来、その領土内で支配権を確立するためだけの戦闘であったならば、多少、ロシア政府の言い分も聞こうという気になる。しかし、ロシア軍はグルジア領内に深く入り込み首都トリビシすら窺がう姿勢をみせた。真相はまだ明らかにされていないが、ロシア軍の侵攻が止まったのはNATO諸国がロシア軍に対抗する姿勢をみせたときだった。その時点でジョージアは同国第二の都市ゴリが占領されていたのだ。想像して欲しい、規模はむろん違うが、日本第二の都市大阪が他国占領されると仮定したらどうだろう。実際にそういうことが起こったのだ。

 プロバカンダという言葉をいうはやすい。しかし、どんな言葉にも内実の相違があるということだ。その位相も自己点検することなく批判するのは児戯に等しい。

イランの監督がジョージア(グルジア)で撮った『独裁者と小さな孫』

 独裁者と小さな孫
紛争の連鎖は止まらない。負の連鎖はより凄惨さを増して泥沼化していく。
 本作はひとつの寓話だ。老いた独裁者が一瞬のうちに奈落つきおとされ、小さな孫と陸路、国境をもとめ自業自得の逃避行をつづける話だ。そして幼い孫にはなんの罪もない。あるとすれば、たまさか民衆の怨嗟の声を真率に聞けなかった独裁者の血を受けたということだけ。
 確かに、こんなの独裁者はいただろう。歴史はヒトラーやスターリンという巨悪に目を奪われ、小物の、あるいは国際政治のうえではひとつの駒でしかない小国の独裁者のことは、その権力の座から叩き出されればたちまち忘れ去れる。
 本作の監督はイラン出身だが、映画の舞台はジョージア(旧グルジア)だが、無論、いまの同国の政治を暗喩しているわけではない。ジョージアほどロシアの引力から離脱するために血を流し、領土を奪われた国はない。それがコーカサス地方の小国の現代史だ。しかし、ロシアの引力圏から離脱できたことは確かだ。チェチェインはあれほどの犠牲を出しながら、いまだロシアの銃火の下で統治されている。
 アフガニスタンの国際社会から見捨てられた人々を描いた名作『カンダハル』を撮ったマフマルバフ監督は、独裁という強権のなかの秩序、そして赦し、という問題がみすえらる風土としてジョージアの自然と首府の光景を借りた。ジョージアのたまに書いておくけど、その首府トリビシアは美しい町だ。この町で過ごした4日ほどの日々は忘れがたい。マフマツバフ監督がジョージアを舞台にしようと傾斜した、ひとつの理由にこの国が生んだ20世紀を代表する独裁者スターリンを念頭においているだろうし、映画をみる者はだれだって、かつてのクレムリンの主を想い出す。映画で語らずともスターリンの存在は浮びあがってくる。そういう隠喩の効果も考慮すればジョージアという地は重要な構成要素となるだろう。
 ジョージアにはまた、有能な映画人、それは俳優だけでなく、技術面でもソ連時代からモスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルグ)の二大映画スタジオから離脱した独自のノーハウが育まれていたからだ。同じコーカサス諸国でもアルメニア、アゼルバイジャンにはそれはなかった。
 本作の主人公の独裁者を演じたミシャ・ゴミアシュウィリはグルジア映画界におけるベテランの名優。日本で公開された近作には、北京オリンピックの最中に起きた、ロシア軍によるグルジア侵攻を描いた米国映画『5デイズ』で、コーカサスの複雑な民族問題を体現する父親役と いう難役を演じていた。

 映画の冒頭、礼装の軍服姿の大統領が孫を膝にして、電話一本で首府の明かりを点けたり消したりして、権力とはこのようなものだ、と語るシーンから始まる。その一席の座興が終わった途端、反大統領派による軍事クーデターが起こり、大統領はその座を追われる。それからはじまる苦難の逃避行。映画の大半がこの逃避行を描くのに費やされる。
 そして、安住の家すらない老いてあわれな老人として物貰いのように変装し、孫はその連れ子という役柄を強いられる。その逃避行で否応もなく突きつけられる自身の独裁下のみじめな民衆の暮し。独裁時代の罪と罰。それは法の支配ではなく、独裁者の恣意的な政策によって犠牲となった人の群れだ。
 クーデターの成功によって釈放された元政治犯が故郷に帰る旅と同行することになった。自分が犯した罪のため障害をおった元政治犯たちと逃避行をつづけなれけばいけなくなった。晩年に迎えたひとりの人間として、これほど過酷な旅はない。しかも、その旅も完遂することなく正体はばれ、農民たちの私刑(リンチ)を受けそうになる。その先は書くまい。そこに監督の思いが凝縮しているからだ。約2時間のフィルムの逃避行につきあってから知るべき“事実”であろうと思う。

ホタルの爆発

ホタルの爆発

 12月9日、作家の野坂昭如さんが鬼籍に入られた。あらためて野坂さんのプロフィールをみると私の母と同い年生まれであることを知り、戦中、そして敗戦直後の労苦を思わずにはいられなかった。母は二度の東京大空襲を荒川区で体験し、焼け出され埼玉県南の川口に逃げ延びたのだった。
 そんな少女時代を過ごした母が語る“昭和”は野坂さんが書いてくれた幾つもの小説によって肉付けされた。1967年、直木賞を受賞された『火垂るの墓』『アメリカひじき』は敗戦間際、そして敗戦直後の日本を地を這う声として描きだされた名作だ。昭和という時代を語るとき、けっして忘れてはいけない小説だと思う。しかし、文学的達成というなら、私見だが『骨餓身峠死人葛』あたりではないかと思う。その作品が発表された1969年、現代詩の専門雑誌として当時、多くの読書を抱えていた『現代詩手帖』に、その冒頭部分が当年の代表作、そこでは散文詩という扱いになったと思うが掲載されていたことを鮮やかにいまでも鮮やかに思い出す。そして、70年安保をはさんだ10年ほどが野坂さんがもっとも充実し た仕事をしていた時期となるだろうか。
 野坂さんの訃報は、〈『火垂るの墓』で知られる作家〉といった枕言葉で告げられた。同じ直木賞作品であった『アメリカひじき』でも『骨餓身峠~』でもなかった。むろん、それは社会的知名度の高さということで『火垂る~』となったわけで、文学的評価とは別だ。そして、そこにはジブリ効果というものがあっただろう。多くの人が映画『火垂るの墓』(1988)の感動から野坂文学に近づいただろう。
 
 で、私はというと、その『火垂る』から1990年雨季のはじまり、中央アメリカ三カ国の乗り合いバスの旅で遭遇したホタルの乱舞、狂気的ですさまじい、としか形容のしようのない群舞、爆発的な光の点滅のなかを突き進んだときのことを思い出してしまうのだ。
 
 中央アメリカ、南北のアメリカ大陸をつなぐ地峡に7カ国がモザイクのようにつらなっているが、その乗り合いバスの旅はグァテマラ、エル・サルバドルを経て、陸路、ホンジュラスの国境を超えて同国の首都テグシガルパ経て、カリブ海沿岸にいたる行程であった。そのテグシガルパを囲む、高地をゆっくり走っているときに遭遇した。
 当時、グァテマラもエル・サルバドルも内戦のさなかにあった。白昼、都市部での戦闘というのはほぼなくなっていたが、幹線道路には迷彩服の政府軍兵士が自動小銃の引き金に指を当てたままパトロールしていたし、ときどき市場に乗り付けた武装トラックから飛び降りた兵士たちが通路の売り物を蹴飛ばしながら駆け込んでゆくという光景がみられた時代だった。
 グァテマラでは幾度もバスから下ろされ、両手をバスの横腹について検問を受けたことも幾度かあった。熟練の兵士に検問を受けるのはいいが、おどおどした少年兵士におなじことをされるのは背筋が凍てつく。肝の据わっていた少年の指にかけられた引き金ほど危険なものはない。まるで映画のなかのシーンだなぁと思いつつも、若い兵士の目は険悪で、視線をあわさないように、その動きを注視しなければならなかった。怖いのはたまたま乗り合わせたバスのなかにゲリラ兵士か、そのシンパが潜伏していることだろう。
 内戦国エル・サルバドルから、貧しいがとりあえず戦火のないホンジュラスに入国するとなんとなく気が抜けた。
 国境にたむろす首都テグシガルパ行きの乗り合いバスをみつけとりあえずホッとする。しかし、うとうとなどできない。外国人旅行者はこそ泥のかっこうの標的なのだから、とりあえず終点まで目をあけている必要がある。これは、けっこう辛いことだが仕方がない。バックパッカーの旅というのは幾多の試練をシレンとは思わず鷹揚に受け入れる覚悟がないとできない。
 しかし、偶然、乗り込んでしまったバスはまったくとんでもないシロモノだった。なりばかりおおきな愚鈍な鉄のロバ。走り出して30分もしないうちに減速、サンチョパンサが曳くロバのごとき歩み。理由など分からない。途中、いくどか路肩に止め、運転手はボンネットを開けて点検しているが全然、スピードは上がらない。
 夕刻前にテグシガルパに着きホテルを探すつもりだったが、それは早々、断念。満席の乗客誰ひとり、「もっと早く走れ」とか、「金を返せ、他のバスを見つけるから」といった文句、罵声はまったくあがらない。みなろくでもないバスに乗り込んでしまった身の不運を受け入れているように思える。
 もともと米国でさんざんはしりまわったスクールバスを再利用したものだ。部品は寄せ集め。そんなバスが中米諸国のそこかしこを走り回っている。そんな中古バスが悪路だらけ、積載オーバーで走り回っていれば、バスがもうやってられねぇと悪態ついても座り込むのは当然なのだ。「俺はロスでさんざん走り回って、やっと年金暮しを迎えたとおもいきゃ、何のことはねぇ、鉄くず値段で中米にうっぱられ、ノミ、虱をわかせた汗臭い連中を満載して青息吐息で走らされている。老い先短い俺を鞭打つ。この世に神などいるものか」とゼイゼイいっているバスがのた打ち回っている。バスの悪態ごもっとも、と乗客も納得してからおとなしく揺られている。運転手は、まぁまぁ終点についたら新鮮なオイルをたっぷり飲ませてやるし、プラグもみな取り替えてやるからな、とかなだめ すかしながらハンドルを握っているのである。
 はやばや夕暮れが迫ってきた。この夕暮れをシャワーを浴びたホテルの部屋で迎えるはずだった。
 夕暮れが山のかなたに沈み込んで、街路などほとんどない道をテロテロと走るバス。やがて深い闇のなかを這うように走る。クーラーなどないバスだから、車窓は全開である。その窓から侵入したのだろう。蛇行しながら点滅する小さな光が目のまえを過ぎてゆく。ホッ・・・という感じで光を追うと、やがて車内のあちらこちらに小さな点滅が舞っている。
 あれホタル? と疲れた視覚が感知する。
 ホタルがバスに侵入、と思っていたら、たちまち光は増え、やがて点滅はバスのいたるところではじける。車窓から出した腕に光があたる。顔にもあたる。服につく。髪の毛のなかに入り込んだ感じもする。なんだ、これは・・・ゆらりほらり、幽玄明滅なんてしろものではない。バシビシッ、傍若無人である。道の周囲に無数の点滅、目を防御するようにして、道路の進行方向を眺望すると、遠くの丘か山か、その稜線がわかるど光が点滅しているのである。
 ホタルはゆらりほらり、あっちにひとつ、こっちにひとつというもったいぶったゆらめきがリリカルなのであって、バシビシッときたら、こっともエイ! ヤァ! と手刀で迎え打つしかないのである。バシビシッ、エイ! ヤァ! と乗客は無言でパフォーマンス。そんな時間が10分か15分ほどあったのだ。そのホタルの点滅ゾーンを過ぎたら、もうなにもない。劇的なホタル鑑賞の夕べであったはずだが、あまりにも思いがけない出来事で鑑賞を観照する暇もなく、再び甦るロバの歩みに苛立つのである。すぐ、今晩、これから宿が確保できるかどうかという現実的な心配のまえに、ホタルのスペクタルを反芻する余裕も、ましてや一句ひねろうと気にもならない。いや、あれは散文、ドキュメントの世界だ。けっして俳諧のわびさびで括れるようなことではなかった。

 ・・・という思い出のまま、野坂さんの訃報までホタルの乱舞の記憶として20年以上、抱えてきたのだった。友人知人にその体験を幾度となく話もした。で、野坂=火垂るの墓=ホタルの連想でバス旅行のことを思い出していたら、あのホタルのこと一度も文章にしてこなかったことに気がついた。そこで、あれは、なんという種類のホタルであったのかと、いろいろ調べはじめた。と、なんと、それはホタルではなかったのだ。メキシコから中米地峡、南米北部にだけ生息するヒカリコメツキムシであったのだ。腹部の左右に発光する小さな点がある。
 日本にも約600種のコメツキムシがいるというからかなりメジャーなムシである。世界には約10000種! それぞれの環境にたくましく適応して子孫繁栄させているつよいムシということだ。日本のコメツキムシは光を放たない。だから、知らなかった。光を発しながら飛ぶ昆虫はホタルしかいないと思い込んでいたから、20年以上、ホタルの記憶として留めていた。
 野坂さんの訃報ではじめて私の記憶は是正された。
 この20年間、ホタル乱舞の幕間談として聞くはめになった友人・知人にはここで深くお詫びする次第である。ひとつ慰めがあるとすれば、エイ! ヤァ!と手刀でこたえた私の仕儀は正しかったことだ。ヒカリコメツキムシは栽培植物の根や地下茎を食う害虫である。で思う。あの異常とも思える繁殖であの付近の農作物はそうとう被害がでたのではないかと。まずしい農民の多いところだから、それは大変、深刻なことになっていたのではないかと今更、思ったところでなんの気休めにもならないのだが、やはり思わずにはいられない。

 中米暮しの13年間、エイ! ヤァ! と昆虫群と戦い、グチャ! ベチャ! と踏み潰したキモイ戦いを幾度も体験してきたのである。思い出すと背筋にむしずが走るような記憶もある。暇をみてこれからも記録しておこう。

花もつ女たち №63 レオノール・フィニー(アルゼンチン/イタリア 1907~1996)

花持つ女たち 
 レオノール・フィニー (画家*アルゼンチン/イタリア 1907~1996)
フィニー

 ミステリアスで蠱惑(こわく)的な霧のベールとして、演劇的な人生を送った巫女(みこ)。描く世界は魂のあでやかな官能の劇場。
 フィニーにとって描くべきビジョンは最初から明確だった。ためらいはなかった。だから、絵画修行は流麗な筆致を学ぶための古典的な技法の習得であり、シュールレアリスムの象徴的なイメージの操作、豊爛と抑制への鍛錬であり、そして嗜好にあった文学、演劇、音楽などをどん欲にむさぼり喰らうことだった。フィニーが描く女性の裸体の美しさ、その決め込まない肌の質感は古典的な修練を経て習得されたものだろう。画面全体の破綻のない均整美もアカデミシャンとしてのフィニーの存在を教える。
 フィニーの描く女たちはいつも素肌をあらわにした。その素肌に感情をこめるには、それを慈しむ平静からの感性が必要だったろう。
 おそらく演出なのだろうが、自画像写真もまた両肩をあらわにした、しどけない姿である。
 舞台装飾、香水の容器、映画や演劇の衣裳デザインなどへの傾斜はそうした彼女の嗜好に忠実な創作美の僕(しもべ)であった。
 アルゼンチンの首邑(しゅゆう)ブエノスアイレスで生をうけたのはイタリア人の母がその国の伊達男を追って、その新興都市に棲(す)みついたから。住むではなく棲みついた、と書いた。ブエノスアイレスでの営みは、恋の加熱期におけるつかの間の出来事であったからだ。乳飲み子フィニは母と一緒にイタリア・トリエステに去った。男は追ったが、ふたりを取り戻すことはかなわなかった。外航船の船乗りたちが飲んだくれる港の酒場からタンゴが醸成されていった時代のエピソード。
 当時、オーストリア=ハンガリー帝国の港町であったトリエステの環境がフィニーの感受性に大いなる刺激を与えた。早熟だったフィニーは幼いときのお絵かき、落書きの延長から、少女の内的告白を絵筆で吐露しはじめる。独学である。それから芸術的騒擾の坩堝(るつぼ)にあったパリに出る。
 技量は20世紀の女性画家のなかでも秀でた存在であっただろう。ラテン系のシュールレアリスムの女流画家に筆者も偏愛するレオノーラ・キャリントンがいるが、幻視の画家としてはフィニーを並べる。
 フィニーの絵画は確かな職人的技巧で表出される。その世界はあくまで静謐(せいひつ)でありながらも常に挑発的であり、異性に対しては攻撃的な装いもみせる。それもレオノーラに似ている。
 イメージの秘話は謎めいているから、みるものは心地よく翻弄されてしまう。

 男性はいつでも客体でしかありえない世界。フィニーは絵の世界ではいつでも権力をもつ巫女であり、男は助祭でしかない。男はフィニーの前ではいつも心もとない客体である。それはフィニーにとって愛の対象ではなかったからだろう。

バレエと映画 5  『ロパートキナ 孤高の白鳥』『マイコ ふたたびの白鳥』

二つの注目すべきバレエ映画 来春、相次いで公開
 『ロパートキナ 孤高の白鳥』『マイコ ふたたびの白鳥』

 2作とも「白鳥」がサブタイトルで形容されている。しかし、ロパートキナはサン=サーンスの「瀕死の白鳥」、マイコはチャイコフスキー=マリウス・プティパ「白鳥の湖」。ともに女性監督による現役、プリンシパルを主人公としたドキュメントだ。
 バレエのドキュメント映画を批評するのはむずかしい。というより矛盾を抱えている。評者はどうしても知名度の高いバレリーナに注目してしまうし、バレエファンならなお更だ。また、興行的にも知名度の高い主人公を据えた映画はよりキャパシティのある劇場で公開されるのは必然で、宣伝に経費をかけるから試写の回数も必然、多くなり批評家の目に触れやすくなる。 
 しかし、映画批評としてみればプリンシパルとしての技量は等閑視される。否、しなければならない。映画批評家にはプリンシパルのギャランティーは関係ない。たとえ、「瀕死の白鳥」をバレエの至宝と育てたアンナ・パブロワを描こうが、同時代のニジンスキーを描こうが、映画として駄作なら批判は受けるのである。たとえスクリーンで至高の美を捉えたとしても、それは映画の完成度に貢献する1パーツでしかない。
 その意味では、70分という短尺の『マイコ』(オセ・スペンハイム・ドリブネス監督)を評価したい。マイコとは大阪出身のプリマ・西野麻衣子。現在、ノルウェー国立バレエ団に所属する。以前、ドキュメント映画『バレエ・ボーイズ』を取り上げたことがあったが、舞台は同じバレエ団だ。ノルウェー映画である。その意味でも興味深かった。
 西野さんは15歳で英国ロイヤルバレエスクールに留学。1999年にノルウェーのバレエ団に入団し、その6年後、東洋人初のプリンシパルに抜擢された努力家だ。
マイコ

 172cmという日本人バレリーナとしては長身。日本国内でより欧米で活躍できる逸材だった。彼女が英国に留学する経費は両親が自宅や車を売って捻出された、といった逸話なども紹介される。彼女はそんな両親の献身にこたえるべく不退転の決意で練習に励んだ刻苦の才能とも紹介される。彼女をとりまくいくつかの挿話を織り込みながら主題は、プリンシパルの座を自ら降りる危機、しかし、ひとりの女性にとっては至福の瞬間、まさにターニングポイントを迎えた西野さんを描く。

 以前、米国映画、バリシニコフも出演した『愛と喝采の日々』を紹介したことがあった。
 女性バレリーナの恋、結婚、そして出産をあきらめて名声をほしいままにしたプリンシパルと、結婚・出産を機に自ら栄光の階段を降りたバレリーナ、そのふたりの友情と相克、そして和解を描いた作品だった。そういうことはバレエ外史として世界各地で起きていることだろう。しかし、ドラマとして描かれることはあっても、実録として記録された映画として『マイコ』は貴重な作品になった。むろん、彼女が現役のプリンシパルとして、その芸術をまず披露できる、見映えする映像が撮れたという点がクリアされているからこそ映画は迫真のドラマになった。
 プリンシパルの年間スケジュールはほぼ前年に決まる。その決定に沿って共演者の配役なども決まっていき、公演にそなえて綿密な練習スケジュールも立てられる。まさに、そうした時期、劇場の公演日程が印刷された時期、西野さんは妊娠する。伴侶はノルウェー人。
 バレリーナとして長いブランクが生じる。妊娠・出産によって肉体のバランスも崩れ、筋力も落ちる。それを妊娠前の状態に戻すのは至難の業なのだ。
 カメラは、そんな西野さんに寄り添いながら、同情めいた質問などせず追いつづける。ときに冷徹と思えるほどカメラは辛らつに西野さんの焦燥すら描き出す。ながれる汗、荒い吐息、苦痛・・・練習、肉体のケア、練習、また練習。映画では明示されていないがゲネプロを数日後に控えた某日という段階でも失敗してしまう、あの黒鳥姫オディールの32回のグランフィッテ。しかし、本番で見事に魅せる。映画はちゃんと最後に見せ場を用意してあった。それは、長い両手がしなやかに舞う見事な舞いであった。
 そう、筆者が敬愛してやまないニーナ・アナニアシビリに次ぐ、という思いが映画を見終わった直後に、湧いてくる。しかし、ニーナの舞いはもうみれない。引退してしまったからだ。もう、52歳になるのか……。余談だが、ニーナの上げ潮期、20代前半だったと思うが、モスクワのボリショイ劇場で接している。『白鳥の湖』ではなく『ドン・キホーテ』だったが。

 『白鳥の湖』で白鳥と黒鳥を演じることは、まったく相反する女、その感情を表現する至難の役だが、西野さんは長いブランクを超えて挑戦し、演じきった。むろん、バレエ団は西野さんの代役も用意していた。その代役の動きを注視する西野さんのお腹は膨らんでいた。そんなシーンも捉えている。そこに余計な言葉も入らず、稽古場の熱気だけがBGMとなっていた。
 
 数年前、ナタリー・ポートマン主演の映画『ブラック・スワン』を取り上げ、批判したことがある。表題はむろん『白鳥の湖』の黒鳥からきている。老いたプリンシパルに替わって来期は、有望な新人のきみにと選抜された少女ニナの物語。そのニナ役をナタリーを演じたわけだが、そのニナという名を聞けばバレエファンなら誰だってニーナ・アナニアシビリを想い出す。しかもアナニアシビリの引退公演は米国ニューヨークでの公演『白鳥の湖』でもあったのだから。そうバレリーナにとって長丁場の古典はターニングポイントに相応しい名作なのだ。
 
 西野さんは幸福な人だ。まだ開花にほど遠い娘の才能と意思の強さだけを信じ、惜しみなく援助を与えつづけた家族、そして“主夫”の座もいとわない旦那さんにも恵まれて。しかし、彼女もそう長くはバレエ団の主座に君臨してはいられないだろう。そう遠くない将来、プリンシパルの座をみずから明け渡すことになるだろう。それが残酷な宿命だ。だからバレエは美しい。散りゆくの花のいっときの華を鑑賞するばかりなのだから。
 『ロパートキナ』(マレーネ・イヨネスコ監督)について語る余白はなくなった。ポスターのコスチュームは「瀕死の白鳥」のもの。制作、営業サイドはロシア、マリインスキー・バレエのプリンシパルを「白鳥」に象徴させたようだが、映画ではウリヤーナ・ロパートキナは静かな語りながら、日本でというより、ロシア以外では定番とはなっていない『愛の伝説』への執着を繰り返す。その熱意につられたように映画の冒頭と最後は1961年、マリインスキーの前身キーロフ劇場時代に初演された同作を舞うロパートキナを映し出す。彼女が語っているわけではないが、おそらくパブロアによって完成された『瀕死の白鳥』のように、〈私自身は『愛の伝説』を古典として完成させた〉という思いがあるのだろう。
キナ2
 映画はいままで外国人の映画クルーの侵入を拒んできたキーロフ=マリインスキー劇場がはじめて受け入れたということでも注目されている。今年上半期にモスクワ・ボリショイ劇場に外国人としははじめて英国人映画クールが入って話題となった映画が公開されたが、『ロパートキナ』はフランス人クルーである。
 おそらく近年の原油価格の下落で経済的に苦境にあるロシアの現状をみれば、公的援助はかなり厳しくなっているのだと思う。背に腹はかえられないと、どういう名目化はわからないが映画制作サイドからマリインスキー、ボリショイに金が流れているだろう。それが現実だ。ソ連邦が崩壊したときおおきな打撃を受けた両劇場だったが持ちこたえた。政治的な危機を乗り越えて、いままた経済危機にあるとも思える。

日韓共同制作『颱風綺譚』

演劇 日韓共同制作『颱風綺譚』
颱風綺譚

 演劇の美点は少人数で臨機応変に対応できるということだ。それは時代とリアリスティックに切り結ぶことができるということでもある。本作の公演にそれをみた。
 「反日無罪」という嫌な言葉が韓国と中国にある。その対語は“親日有罪”か。日本でも韓流ブームは去り、中国観光客の“暴買い”を歓迎しながらも、その経済力と軍事力に違和感を抱く。ここ数年、一衣帯水の距離に横たわる由々しき亀裂だ。本作は、日韓の演劇人がそうした状況を直視し、共同制作するなかでお互いの歴史観をぶつけ合って共有可能な新しい歴史観ができないものか、という試みである。まず、その姿勢を歓迎したい。
 2000年前後のある時期、日韓の学者が集まって共同で「歴史」教科書を作ろうという試みがあった。それは見事に破綻するのだが、そこに集まった善意に満ちた学者たちであるだろうし、よこしまな野心とか、自らの民族性を抑制しようという自制心ももった人たちであったと思うが、頓挫したのだった。公刊されることを前提しての作業となれば、私的な思いは、公的な認識の前に掻き消されるということだ。そこに「文化」が登場してくる隙間がある。風通しのよい隙間だ。それが、ここでは「演劇」というかたちでともかく実現した。

 シェイクスピアの『テンペスト』がテキストに採用された。地中海の絶海の孤島で展開される話が東シナ海に置き換えられた。日韓の古典を捨てることによって客観的な距離が生じ、「綺譚」というファンタジーのオアシスのなかで「歴史」が攪拌された。
 日本の要人を乗せた客船が台風で難破し、生き残りの乗客たちが孤島に漂着してはじまる劇だが、その台風は、李王朝時代の元貴族の妖術によって引き起こされた、という有り得ない仕掛けだ。妖術の成果としてはじめるわけだから、芝居はその妖術師の思惑のなかではじまっていくしかない。その意味では、これは韓国側の重点が置かれるかな、とも思うが、思えば1930年代の状況では韓国民衆は朝鮮総督府に組織的な抵抗などできない。抵抗の夢想はできても現実化などできない。結局はありえない妖術という額縁のなかでおさまっている芝居だから、意地悪く言えば、韓国側のごまめの歯軋りのようなものだ。妖術によって難破された日本人たち、そこには軍人もいれば政府要人もいるわけだが、孤島の先住者であった李王朝の囚われ人、俘虜といった立場になる。しかし、韓国の絶対支配者階級としての矜持はある。下級船員の生き残りの日本人が状況にすぐなじんでいくようにはいかない。そういう様々な立場の人間が、それぞれの母語でやりあうわけだ。
 確かに、台詞のなかに多くの歴史的用語が徘徊する。それを日韓それぞれの俳優が母国語で、時にはむき出しでぶつけ合う。その緊張感がなんとなく心地よい。台詞の多くは、双方には正しく通じていない。韓国語の台詞は、ホリゾントに日本語訳が映し出される。日本語台詞は、韓国語訳が映し出される。観客は台詞は認識できる立場だが、舞台上の演じては意味不明の言葉でしかない。そういう意味では実験的要素のある作劇だ。
 結局、ここではなにか高邁は理想とか、未来志向の何かが語れているわけではない。しかし、違いをちがいと認め合う姿勢のなかでしか、融和への道は切り拓かれない、と主張しているように思えた。少なくとも、観客は自らが抱える歴史観を、それぞれの尺度でもう1度、再考してみようか、という気になったと思う。それだけでも本作は成功といえるのかも知れない。
▽12月4日、埼玉県・富士見市民文化会館「キラリ☆ふじみ」にて。
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上野清士

Author:上野清士
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