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花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ(バレリーナ*ロシア)

花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ (バレリーナ*ロシア 1925~2015)
マイヤ・プリセツカヤ

 もし「ロシア革命」なるものの美点をあげるとすれば、まず第一義にアジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域において民衆の自立自尊、独立への機運などを誘発したことだろう。これにつづくのはヒトラーのファシズムの浸透を東の壁となって防ぎ、押し返し崩壊させたことだろう。そして、逆説的な美点となるがロシア・バレエの豊穣を世界各地に放散したということだ。むろん、日本も例外ではない。日本のバレエの基礎は革命を逃れた白系ロシア人のバレリーナ、または講師によってつくられた。革命前からフランスを中心に活動していたディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の精華は革命によって西側に拡散した。冷戦下ではルドルフ・ヌレエフがパリに、バリシニコフが米国に亡命してバレエ芸術をさらなる高みへと導いた。しかし、マイヤ・プリセツカヤはモスクワ・ボリショイに留まった。
 審美眼の欠片ももちあわせていない党官僚からさまざまな嫌がらせ、抑圧を受けながらマイヤは“鉄のカーテン”を越えようとはしなかった。スターリン時代に父親は政治犯として処刑され、母親も禁固刑を受け、その母親とともに僻遠の地にもじ通り流刑されるという辛酸をなめながらも最後までソ連市民のパスポートを捨てなかった。しかも、彼女は帝政ロシア時代も革命ロシア下でも差別され、時には血の弾圧も受けてきたユダヤ系ロシア人であった。
 むろん理由はある。もし、海外公演中に外国公館にでも駆け込めば、当該国ではみなもろ手をあげてマイヤを受け入れただろう。しかし、それをしなかった。亡命すればモスクワに残った母親(すでに政治犯として前科がある)や親族に生命が脅かされることは確かだろう。ただし、マイヤがそれを選べば家族はそれなりの覚悟はしたと思う。その後、作曲家の男性と結婚したことがきっかけで亡命の意思は遠のいただろう、マイヤが外国公演中、夫は“人質”となってロシアで仕事していたから・・・。だが、筆者はマイヤが一度も亡命の意思をもたなかったのはバレエのデーモン、悪魔の存在だと思う。
 マイヤを育てると同時に抑圧もしたボリショイ・バレエ団。その劇場の舞台そのものが彼女を外に向かわせなかったのだと思う。ボリショイの広いステージはゆるやかな傾斜がある。高低差70センチ。マイヤの舞踏芸術はボリショイのステージから生まれたのだ。たとえば、マイヤの代名詞というべき「瀕死の白鳥」は、闇・・・観客席から見て左奥隅に悄然と佇んでいる光景からはじまる。つまり傾斜のいちばん上から下降しながら舞うのである。マイヤの「白鳥の湖」「ドン・キホーテ」「スパルタカス」「アンナ・カレーニナ」「カルメン組曲」もみなボリショイのステージで熟成されたのだ。
 作曲家のプロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらが冷遇されながらもロシアの大地を捨てることがなかったのは、その地に彼らの音楽の源泉があったからだ。ラフマニノフが亡命後、生彩を欠いてしまったのは、ロシアの大地から切り離されたからだ。パステルナークやソルジェニツィンが亡命しなかったのも同じことだ。言霊も大地に宿るのだ。そして、マイヤの舞踏も・・・。
 「瀕死の白鳥」・・・マイヤのそれは“瀕死”にみえない。どっこい生きているぞ、という強い意思が漲っている。表題を逆説的に捉えることで、マイヤはステージから雄弁に、ロシアの良心は共産党独裁下で息たえだえだがまだ死んだわけではない、と自己主張していたようにも思える。その瀕死の白鳥はベルリンの壁の崩壊を鳥瞰し、ソ連邦の解体も見届けたのだ。
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署名アラカルト 6 アルドル的創作型 本谷有希子

署名アラカルト 6 アイドル的創作型
本谷

 今次芥川賞を受賞したということで、まずはおめでとう、との祝賀を兼ねて。
 ペンネームがひらがななら、まぁ、こんな署名もありだが、「本谷有希子」というペンネームであれば署名は必然的に創作型となる。
 「もとや」という下さがりの曲線が、「ゆきこ」の文字に重ねあわされ互いに融合している署名である。これは筆者、なかなかの工夫とおおいに悦にいっているものだと思う。たぶん、しばらくはささやかに悦に酔いながらしばらく、この署名を書きつづけるのだろう。
 今回は、あえて献呈先の名前の入った署名を選んだ。「鈴木サン」ということだからプライバシーの侵害にはなるまい。鈴木さんは、たしか日本で2番目に多い苗字であったし、わたしの可愛いガールフレンドのひとりも「鈴木ちゃん」だ。しかし、この「鈴木サン」、この署名本を手放したのだろうか? もしかしたら、芥川賞作家となったことを知って、処分するんじゃなかったとか思っているのではないだろうか? 本はこうして経巡り、本書は愛知県瀬戸市に住む方へと流れてゆくはずだ。一時的に私の手元にあった。『あの子の考えることは変』という中篇小説本なのだが、手元に滞在中、1時間足らずで読みきれた。若い女の子のつぶやきがそのまま表題となった中篇小説は、地方から東京に出てきて一人暮しをする若い女の子の「孤独」をいまどきの言葉づかい、小道具類多用して描いた一種の都会風俗小説。「孤独」と書いたが、この時代の若い子たちの孤独はけっこう猥雑で喧騒もあり、乱雑で多弁でもある色彩のなかに埋もれている。孤独は哲学の領域ではなく世相の範疇だといった気配があり、結末の死の気配も唐突に訪れる。たぶん、ある年代から上の人には、その「死の気配」も感じられないと思われるフレーズで進行する。というより、そもそも中高年はこの小説を手にしても、すぐ視線は停滞し、読了適わずになると思われる。
 私も立派な高齢者ではあるけれど、40歳年下の「鈴木ちゃん」のお陰で、こんな小説にもついていける“教育”をされた。芥川賞作品はまだ読んでいないが、まずは「鈴木ちゃん」の感想を聞いてから読むことにしよう。

花もつ女たち №65 ベティ・ペイジ

花もつ女たち №65 ベティ・ペイジ (モデル*米国・1923~2008)
 ベティ

 本連載でモデル嬢を取り上げるのは2人目。以前に、美術学校のモデルから伊藤春雨、竹久夢二、そして藤島武二のモデルを勤め20代前半で現役を退いた「お葉」こと永井カ子ヨ(1904~1980)を取り上げたことがある。ベティ・ペイジは「ボンデージ・モデル」の草分け的存在として紹介される。ボンデージ・マグと呼ばれるSM系の雑誌やアンダーグランドの16mm映画に主演していたからだ。しかし、ボンデージ・モデルというなら、お葉のほうがはるかに先行者であり、晴雨では妖艶な少女、夢二の絵では可憐さを、そして武二のタブローでは気品すらかもし出していた。それらの絵は芸術である。しかし、ベティがモデルとなった作品は永遠に芸術とはなりえない。米国1950年代のサブカルチャーを一閃、光をはなった存在、というのがベティに対する正当な評価であろう。ベティとお葉の仕事を比較するとき、あたらめて日本の性文化・風俗の奥深さをおもわずにはいられない。お葉をベティよりはるかな先行者と書いたが、江戸時代に遡れば、そこに豊饒な浮世絵の世界があり、その春画に登場した無名の女たちの存在に思いいたさないわけにはいかなくなる。
 しかし、ベティは米国という経済力をもった大国に生きたということで世界的な影響を与えてしまった。それは彼女の預かり知らぬことだが、結果的にそういうことになってしまった。
 ベティは学歴のないお葉とは違って、奨学金を受けてカレッジに進み、卒業後、英語教師を勤めたこともあった。早すぎる結婚が彼女に最初の挫折をもたらすが、それを苦にしたわけではない。むしろ、主婦の座から解放されハイスクール時代から憧れだった女優を目指して俳優養成所に通いだす。この授業料と生活のため、実入りの良い仕事としてヌードモデルとなった。その過程で当時、ボンデージ系雑誌を発行していた写真館の経営者の勧めでボンデージ・モデルとなった。そして、そんな雑誌を通して、好事家のあいだでアイドルとなる。しかし、当時の米国はポルノグラフィーを麻薬より有害とするような国会議員がいた時代だ。雑誌は摘発され、彼女は引退し、やがてプロテスタント系教団の布教活動に入ってゆく。
 ベティがモデルと活動していたのは5年たらずだ。お葉とほとんど変わらない。そしてともに後半生のほうがはるかに長い市井生活があった。
 卑猥とされ指弾をうけたベティの露出度の高い衣裳は、いまやマドンナやジェニファー・ロペス、レディ・ガガあたりがステージで着用している。卑猥の基準は変わり、進みもすれば退行もする。
 ベティを社会は糾弾し追放したが、彼女の裸体を楽しんだのも、けがわらしいと排斥したのも、ともに男性であり、男社会といえる権力機構であったことを確認しておきたい。

 遺されたベティの写真は相当量、破棄された後に残ったものだ。それをみていると、彼女の姿はSMでいうところの「女王様」の役柄が与えられている。そして、その役柄を楽しんでいるようにも思える。いやしい仕事をしているといった退廃の気配はなく、快活ですらある。それを魅力的というかどうかは個人の自由だが、彼女がもう少しましな写真家や画家などに出会って、そのモデルとなっていたらと思わずにはいられない。お葉は、ベティは真反対で晴雨の「責め絵」のなかの被虐像として定着させられた。
 しかし、ふたりとも平凡で、それなりに穏和は生活を営んで生涯を終えた。

ギリシャ悲劇『王女メディア』公演 圧倒的な存在感を示す平幹二郎

圧倒的な存在感を示す平幹二郎『王女メディア』
   ~幹の会+リリックプロディース公演『王女メディア』
メディア

 平幹二郎の圧倒的な所作に魅せられた。82歳の平に女の盛りの熱情と悲嘆の両極が体現されていた。その演技は水々ともいえるものだった。
 「王女メディア」、身も心も、一身を捧げた夫であり一国の王イアソンの不実、裏切りへの復讐として自ら腹を痛めたふたりの愛児を殺(あや)めた王女を描くギリシャ悲劇。2400年前、詩人エウリピデスがメディアに血涙とともに呪詛する「地を這い、もの思うすべての生き物の中で私たち女ほど哀れな種族はない」という台詞とともに永遠の激情劇となした芸術。
 平幹二郎率いる「幹の会」が主催した本公演はすべて男優のみで演じられた。
 歌舞伎を見慣れた日本人にとって、それはまったく違和感なく溶け込める世界。しかし、ギリシャ悲劇として、たとえばギリシャ国立劇場の女性演出家が2000年前後、斬新な手法でメディアを再造形したり、ギリシャ人マリア・カラスが朗唱しない女優として演じたメディアなど、すでにわれわれは様ざまな〈おんな〉の永遠の呪詛を知っている。その意味では男優のみでの舞台は実験的ではあっても、けっして驚きという領域のものではない。 しかし、歌舞伎の女形の動きを「女優」がけっして真似できないように、ギリシャ悲劇の女形もまた女優が真似のできない動きを伴っていないと、それは未完成としかいいのようのないものだと思う。

 平のメディアの衣裳は歌舞伎の衣裳と見まがうような大胆で斬新であり豪奢感もある。王女の威風を象徴しながらも、自ら王女の座から降りた廃位の喪失感もただよう見事なものだった。この衣裳に身をつつんだ平は、脂粉を念入りに凝らしてはいるが、けっして厚塗りとはいえず、平の地の表情がそのままうかがえる。その平がメディアを象徴して呪詛の鬼になる。確かな実在感をともなって鬼気迫る世界を造形する。しかし手勢となる助演者たちは「芝居」をしているに過ぎない。平が2400年の歳月を遡る女の悲嘆として語っているとき、助演者たちは「芝居」、それも「新劇」特有のイントネーションで演じているに過ぎなかった。それが耳障りだった。
 平の演技を堪能していると、この悲劇は極限すれば助演者などいらない。字幕だけで事足りる。メディアの独り舞台で十分だ。平にはそれだけの力があると思った。82歳の平が若い助演者たちを圧倒し、まったく寄せ付けなかったから、そういうのだ。筆者は芝居前半から平の芸術しかみていなかったし、彼の“叙事詩”しか聴いていなかった。それは詩人・高橋睦郎の修辞に富んだ言葉の芸術として心地よく鼓膜に響くものだった。
  *1月9日、東京グローブ座で。

世界遺産にコロンビア・コスタ地方の民俗音楽登録バジェナートが登録*『百年の孤独』

世界遺産にコロンビア・コスタ地方の民俗音楽登録バジェナートが登録~パナマにも波及
 ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のBGM音楽
アコ

 2014年4月、死去した20世紀後半のラテンアメリカ文学を象徴した作家ガルシア=マルケス。その文学的な営みはカリブ沿岸の架空の町マコンドを舞台に人間の悲喜劇を魔術的リアリズムの手法で独自の世界を築き、それを時代と国境を超越させて普遍化することだった。
 その象徴的作品は言わずと知れた『百年の孤独』だが、その物語のBGMはバジェナート、空気の吸い込み弁に微妙な仕掛けをしたアコーディオンの音色だった。
 『百年の~』にも「悪魔のアコーディオン弾き」としてバジェナードの歌い手であり稀代のアコーディオン弾きにして放浪の老音楽家が登場する。おそらくコロンビア音楽が普及していない日本にあっては、その老音楽家はマルケスが造形した架空の人物として読まれたのだろうが、現実に生き、多くの名作を残し、多くの作品を録音した実在のコロンビア音楽家であった。小説では物語に普遍性をもたせる意図からだろう、バジェナート音楽とは書いていないが、明らかに『百年の~』 を書きつづけた作家の頭のなかで響いていた音色はバジェナートであった。
 そのバジェナートが昨12月1日、ユネスコの無形文化遺産に2011年のメキシコのマリアッチについで登録された。ラテンアメリカ伝統音楽では4件目となる。生前のマルケスにこの朗報を伝えたかった。
 昨11月29日、アフリカ南西部ナミビアの首都ウィントフックで開催されたユネスコの会議に登録申請され、討議の末に決まったものだ。
 バジェナートが世界遺産に登録されたことで中米地峡の小国パナマでもおおきな話題となっている。日本ではしられていないがパナマの民族音楽もバジェナートなのだ。考えてみれば当たり前のことで、パナマ運河建設のため米国によって文字通り、コロンビアからもぎり取られた独立した国だから元々、その地にバジェナートが根付いていた。現在も多くのバジェナートを演奏するグループが活動し、アルバムのリリースも多い。
 パナマでいかにバジェナートが根付いているかを象徴する事例として、たとえばこの国の守護聖母はカリブ沿岸ポルト・ベイヨ、この町の創建はスペイン植民地時代の初期にまで遡り、その頃に建造された広壮な要塞はユネスコの世界遺産に登録され、その要塞の近くにある教会の“黒い聖母”がパナマの守護人だ。メキシコのグァダルーペの聖母のような存在である。そのグァダルーペの聖母への讃歌がマリアッチで歌われたりするように、パナマではバジェナートで敬愛されているのだ。
 毎年一回、首都パナマ・シティで国内外のバジェナート奏者たちが集まって大規模な演奏会が開かれる。同国出身で国際的に知られる歌手といえば、いうまでもなくサルサのルベン・ブラデスだが、彼がそのバジェナートの演奏会がある時期にパナマに滞在していれば表敬訪問し、老演奏家たちを称える。それほどパナマ民衆に根をおろしている音楽である。
 独裁者ノリエガ大統領の時代、米国の経済制裁で疲弊した時期、バジェナート奏者たちは北の隣国コスタ・リカでアルバム制作を同国の首都サン・ホセで行い母国に持ち帰って販売していた時代もあった。パナマでは、いかなる状況下でもバジェナートは民衆の心を掴んでいた。その意味ではさまざまな音楽が群雄割拠するコロンビア以上かもしれない。
 いま、世界遺産に登録されたことを享け、パナマの音楽家たちの活動が期待される。  

[ライナー・ノーツ] ルベン・シメオ&シエナ・ウインド・オーケストラ『トランペット・サーカス』

ルベン・シメオ&シエナ・ウインド・オーケストラ『トランペット・サーカス』
 *avex-CLASSICS AVCL25365のライナー・ノーツ
ruben 2

 ルベン・シメオは1992年、スペイン北西部ガリシア地方、大西洋に面した港町ビゴで生まれた。まだ16歳、初々しく聡明な少年だ。
 ビゴはカトリックの聖地として名高いサンティアゴ・デ・コンポステラからそう遠くない。ルベンのお父さんとガリシアの地と文化について、本アルバムの録音時間のあいだに短い雑談をした。
 スペインは地方によって際立った特徴がある。日本語では地方性というが、スペインでは自由自治性というべき“独立”志向と思えるほどの強いコントラストをもつ。ゆえに中央政府(マドリッド)から独立しようという機運がくすぶる州が幾つもある。その象徴がバスク州でありカタルニア州ということになる。ス ペイン北部州は、いつでも武器をもち戦おうと思っている民族主義者が大勢いるはずだ。「スペイン語」と書くけど、それは首都マドリッドを中心にした公用語であって、戦闘的な独立闘争で知られるバスク地方にはバスク語が生きているし、バルセロナを中心とする北東部はカタルーニャ語文化圏である。フラメンコをスペインのランドマークのように日本で語られているが、南部アンダルシアで育まれたもので、バスクやカタルーニャ、そしてガリシア地方では元来、疎遠なものだ。
 ルベンの生まれたガリシア地方は海でカトリック国のアイルランドと、英国を飛び越えて繋がり、その歴史的痕跡が深い。ケルトの影響を受けたバグパイプ音楽が根付いているガリシア地方でもある。ガリシアではバグ パイプとはいわずにガイタという。そして、聖地サンティアゴ・デ・コンポステラに守護された地方ゆえ教会音楽の普及度も高い。そこでは教会堂の外で信者たちが奏する簡素な吹奏楽団を発達させた。この吹奏楽団の古い形式は「新大陸」に運ばれ、植民初期時代に創建された「新世界」の古都に根付いた。ときには先住民共同体にも根付き、セマナサンタ(聖週間)で街頭に繰り出してくる。
 カトリックに縁遠い日本人の感覚では、スペインのトランペットというと闘牛場で吹かれるファンファーレのような音色を想起しがちだが、本来は宗教的な規範によって営まれた信者たちの祭礼のなかでより際立っているものだ。
 「自分もトランペットを吹くんだ」とルベンのおとうさんは語った。若 いときから吹奏楽団で吹いていたという。彼の兄弟もまたトランペット奏者。つまり、ルベンは幼いときからトランペットは玩具として生活のなかにあった。その「玩具」で遊ぶ息子の天分をおとうさんは見抜いたのだ。
 「自分を超えてはるかな地平に立つ才能であるかもしれない」と。おとうさんは活動の一線から退き、8歳の息子に賭けた。
 それから今日までルベンは堅実に修練し、実績を重ねた。ローカルな演奏会を着実にこなし、やがて国境を超えた。その才能の基層はガリシアの教会音楽なのだ。
 やがてフランスの巨匠モーリス・アンドレの目に留まった(耳に留まった)。近年は弟子をとらないことで知られるアンドレだが、ルベンを磨けば光る宝石の原石だと理解し禁を 破った。しかし、日本でのデビュー作となった本アルバムはアンドレ的古雅さからは遠く、ルベン父子の民俗的色調に傾斜した内容になっていると思う。それは収録された曲から感じられると思う。

 プロローグは、R=コルサコフの「熊蜂の飛行」。人口に膾炙(かいしゃ)した名曲を掲げ、聴き比べが容易という利点を活かし、「並みのうではないぞ」とまず認識させる。ゆえにこの曲のもつ軽やかな飛翔感より、技巧感が優先されているように思う。
 つづくラファエル・メンデスの「マカレナ」はトランペット独奏の定番曲となっている名品。演奏者がときに腕自慢的にあざとく披露しつつ、かつフィエスタの華やかな色彩感もあって演奏会でよく取り上げられる作品である。メキシコ出身のメ ンデスが持ち前の循環呼吸の超技巧を披露するために書き上げた作品である。このメンデスという名人はメキシコ大衆音楽のランドマーク、マリアッチ楽団に欠かせないトランペッターとしてプロ活動をはじめ、そのあまりにも雄弁な音色でマリアッチの枠を超えてしまった。メンデスの影響力は大きくメキシコ及びアメリカ大陸はいうにおよばずスペインにも達した。ルベンのおとうさんはメンデスのレコードを親しく聴いた世代だろう。ルベンの「マカレナ」は難易度への挑戦より、闊達で明るく祝祭的な雰囲気をとてもよく表現しているだろう。
 3曲目もまたトランペットのソリストなら誰でも取り上げる定番曲、ジャン=バティスト・アーバン(アルバン)の「《ヴェニスの謝肉祭》交響曲」。金 管楽器の教則本としてあまりにも有名な『アーバン金管教本』に収録された難易度の高い名曲である。
 以上の3曲であますところなく実力のほどを示し終えたルベンは、4曲目以降、本題に入るという編成で曲の順番が設けられているように思う。
 4曲目の「マリベル~スペイン幻想曲」は現代スペイン音楽を代表するフェレール・フェランのよく知られた作品でスペインではコンサートでよく取り上げられる。華やかさの額縁のなかに、フラメンコ艶、闘牛場の賑わい、情熱と哀歓が織り成されたスペイン的色彩で調和した作品として再三、取り上げられる。この曲を演奏していれば、さすがのルベン少年、早くおかあさんの待つ家に帰りたいと郷愁を掻き立てられるのでないだろうか。5曲目 は、Th・ホックの小品「愛の夢」。甘美さのなかに清楚さをただよわせた作品として宴の場などで演奏されるが、ルベンも抑えた演奏でよく応えている。6曲目は「コンチャ・フラメンカ」。コンチャとは「貝」のこと。表題の由来はわからない。
 7曲目「VIVA! ナバラ」はスペイン北部の民俗音楽ホタの面影の残る作品。バスク人のピアニストで作曲家であったホアキン・ラレグラの作品でピアノ曲として書かれた。ラレグラは「ツィゴイネルワイゼン」のサラサーテと親交があった人だ。邦題をつければ「ナバラ万歳!」となる。スペインからの分離独立を求める過激な運動のあった地だが、作品にもどことなく民族の困難な歴史の悲哀、それでも闊達に生き抜いてきたという民族の矜持が包みこまれ た曲だと思う。ときどき軍隊の隊列行進を思わせるフレーズが出てくるが、それは戦闘の描写であるかもしれない。ナバラでの演奏の機会が多いルベンにとっては必携曲になっているのだろう。感情表現の難しい曲だと思うが、これも無難にこなしている。
 8曲目に本アルバム中、もっとも野心的な挑戦を仕掛けたと思われる曲がある。コーカサスの小国アルメニアの現代作曲家アレクサンドル・アルチュニアンの「トランペット協奏曲」である。アルメニアは旧ソ連邦に属していた小国だが、音楽的には見落とすことのできない重要な国である。たとえば誰でも知るヘルベルト・カラヤンの先祖がアルメニア人であるが常識的には「剣の舞」のハチャトゥリアンが思い出されるだろう。アルチャニアンは 、ハチャトゥリアンを継ぐ世代である。民族音楽を取り込んだ作品を書きつづけながら、それと平行して現代的な色彩感に富んだトランペット、テューバ、あるいは金管楽器による多重奏曲を次々と書き、手薄な金管奏曲のレパートリーを豊潤にした異才である。世界中の金管奏者は彼に足を向けては寝れないだろう。
 「トランペット協奏曲」は1949年の作品でスターリン独裁時代に創られた。社会主義的な規範が音楽界を圧していた“冬の時代”だが、そんな停滞した時代の淀みを感じさせない。アルチュニアンの旋律は清涼感と高揚感があって気持ちよい。モスクワ音楽院の卒業作品だったカンタータ「祖国」がソ連邦国家賞を受賞し、その自信と意欲が硬直し窮屈な時代の風潮を無視することが できたのだろう。ルベンは、この協奏曲で自分の門出を祝い、かつ未来のかぎりない地平を眺望するような野心を、謙虚な感性のなかに包み込んで聴かせる。本アルバム中、最長で難曲でもある。
 おとうさんが作曲した最後の作品はガーシュウィン風のジャズ・ティストで、グリュサンドが際立つ小曲「マリのための幻想曲」。現在、ルベンの生まれ故郷ビゴに住む7歳年上の姉マリの明るいキャラクターにヒントを得て作られた作品ということだが、「毎晩、これだけは一吹きし、調子を確認せよ」とおとうさんが提供した“宿題曲”のようなものだ。トランペット吹きとして経験から導き出された練習課題を退屈しないように演奏できるように配慮された愛情あふれる父性愛に満ちた作品といえようか。
 録音に立ち会ったとき、私の前に、そのおとうさんが座っていた。自分で手を入れた譜面をたどりながら息子の演奏を聴いていた。それは、数小節の採録であったが、演奏が終わったとき、ルベンはおとうさんをみた。「良かったかな?」と視線がただよう。おとうさんは手を叩いてそれに応えた。緊張のなかにも、そんな親密な交流を目にしていると父子鷹、といった古い言葉を思い出す。鷹の子は早晩、親鳥から離れ空高く舞って去るのが宿命である。

 モーリス・アンドレのレッスンを受けていると先に書いたが、それは技術的な指導であるより前に、トランペッタ独奏者としての心構え、帝王学のようなものが優先されているように思う。師アンドレの敷いた道を率直にたどるとは思えないのだ。アンドレの最良はバロック音楽の優雅と沈静であると思うが、ルベンにはアルチュニアンなど新しい金管楽曲の馴致と普遍化という21世紀に出立した演奏家としての課題があると思うのだ。さらにロシアの若いトランペッター、セルゲイ・ナカリャンコフが意欲的に取り組んでいる、映像とのコラボレーションも視野に入っていると思う。
 しかし、スラブの宏大な大地が育てたセルゲイと、イベリアの太陽が育てた感性とはまったく違う。なんとはなしに次世代のトランペット音楽の演奏光景の彩が、そんな若いふたりが先行して色づけするのではないかと夢想する。 (2008年5月記)

変なヒト その3

変なひと 3

 その人は常磐線松戸駅西口、北風吹き抜けるコンコースにいた。
 喫煙コーナーでタバコを吸っているとコトコトコトトントンという乾いた音がする。リズムカルといえばそうなるけど正確にリズムを刻んでいるわけではない。不快ではないけど、それで気持ちがなんとなく高揚するといったコトコトコトトントンではない。コトコトコトの強さも一定ではないし、トントンの間にもズレがある。
 なんだ、と音のするほうに目をやれば初老の男が段ボールのミカン箱のようなものを台に、その上におもちゃのような小さな太鼓、でんでん太鼓の少し大きめのものを二つ並べて小さなステックで叩いているのだった。彼の後ろに小さなラジカセがあって、そこから流れる音 楽にあわって叩いているらしい。けれどラジカセが奏でているであろう音はまったく聴こえない。出力の小さなラジカセだし、周囲の喧騒にかき消されているようだ。
 コト、トントン・・・たまに工夫もある。トントン、ペシャ・・・とステックが外れて段ボールにあたったようだ。愛嬌があるといえば、そうなるが、ご本人、いたって気まじめに叩きつづける。リズムに合わせて頭を振るとか、足で調子を執るとかもしない。その足元にマックのMサイズの紙コップが置かれているので、そこに投げ銭でも集めるつもりかと思いきや、フタがある。なんだろうな、あの人と思っているうちに私、所用を思い立ち、その場を去り、数分後、そこに戻ってくると、かのステック叔父さんはいなかった。意外にこの手の変なヒトは多い。松戸駅は年に2~3度しか利用しないので、まぁ合うこともないだろう。残念である。

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その3

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その3

 『魂の贈り物』では、ここ数年の共働者であったセルヒオ・ジョージとオスカル・ゴメスが5曲、半数ずつプロデュースを担当し、セリアの歌を媒体にして実力を競っている。ということでも、この「新作」が、それを言うと辛気臭くなる「遺作」というようなものではなく、セリアが前傾姿勢で取り組んだアルバムであることが了解できる。
 メキシコ及び中米諸国の音楽に長いあいだ肩入れしてきた筆者にとって、エル・ヘネラルが参加した冒頭の曲「エジャ・ティエネ・フエゴ(彼女は火を放つ)を推し出したい。サルサのルベン・ブラデス以来のパナマのビックネームとなったエル・ヘネラルが、スペイン語ラップ(最近ではレゲトンという言葉を当てるようだが)の錬度を熟成させた巧みさでセリアを活気づかせる。カリブのアフロ系音楽において主唱者を活気づかせるための応答部を担当する合唱や助唱者の存在は伝統的に重要な要素である。それはアフリカ西海岸地方の伝統音楽にルーツがある。
 エル・ヘネラル、日本ではまったく無名の存在だが、すでに7~8年前から中米諸国ではフィエスタにおける定番曲となっている「ムエベロ」や、クリスマスソング「ジングルベル」を絶妙なアレンジで聴かせる「ジングルベレレ」、南アフリカのミリアム・マケバの名曲「パタパタ」を換骨奪回した曲など日本でも聴いてもらいたいと思っていたところへ、思いがけず「遺作」の冒頭曲でエル・ヘネラルの存在が日本で知られることになった。
 4曲目の「アイ・ペーナ・ベニータ(ああ、苦しみよ)」も野心作だ。スペインの伝説的な歌手ロラ・フローレスの長女ロリータとの競演で、フラメンコのカンテをたくみに混在させて味わいのある応答歌に仕上げている。厳密にいえばロリータの歌は、フラメンコの土壌を耕したアンダルシア歌謡コプラである。それにセリアが唱和する。フラメンコ・ギターが違和感なく管楽器のきらめきに乗って演奏されている。
 最近のロリータは正直言って、実妹ロサリオの風下に立っている。ロサリオの活躍は目覚しく、2枚のアルバムを連続ヒットさせているばかりか、今夏、日本でも公開されたペドロ・アルモドバル監督の映画『トーク・トゥ・ハート』で女流闘牛士という難役を好演もしている。その妹の活躍に少々、水をあけられている気配だが、ラホ(ひびわれ)、荒く野生的な声の魅力では一枚も二枚もうえのはずだ。ここままで収まらない力を秘めた実力派だ。ゆえのセリアに請われた。セリアに即していえば、コプラ風味はラテン歌謡の重要な構成要素だが、サルサ系歌手が積極的に取り上げることは珍しい。その意味でもセリアの好奇心は最晩年でもいささかも枯れることはなかったということだ。

 筆者はラテン音楽ファンなら誰もしるようなセリアの履歴を追う記述は抑えたつもりだ。前作、前々作・・・のライナーで書き尽くされているし、「新作」でセリアのファンとなったアナタに、魅力的な『シエンプレ・ビビレ』(2000)、『ラ・ネグラ・ティエネ・トゥンパオ』(2001)を是非、入手して欲しいとの下心もあったからだ。と同時に、真に偉大な歌手は、歌そのものが自立、いや屹立しているものだ。天性、人知れぬ努力、それまでの軌跡そのものがすべて呑み込まれているもので、芸そのものをわたしたちは享受すれば良いのだ。スペイン語圏を主要な活動地、あるいは市場としてきたセリアは歌そのもので勝負してきた。キューバ革命後、亡命してあらたな地で再出発した歌手は他にも大勢いる。苦難は黙って歌の肥やしにすればよい。セリアを支えてきたラテン圏の市民は、まずなにより彼女の歌そのものを愛しつづけてきた。
 ラテン・グラミー賞を3年連続で受賞しているとか、クリントン前大統領から栄誉賞を授与された、とかいう話題はアルバムのセールスに大した影響を与えない。というより、新聞を購読する余裕のない庶民に愛されつづけてきた、という事実を重視したいのだ。ラテン圏の都市、街角で暮らす無数のストリート・チルドレンたちがセリアの歌、たとえば「ジョ・ビビレ(私は生きてゆく)」を耳にする。
 「いま想い出したよ、あの時、解き放された青空を探していた時、何人の友を失ったか、どれだけ涙を流したことだろう。でも、私は生きてゆく、ふたたびみんなに出会うために」。この歌の「私」は、アタシにもオレにも自在に置き換えられるものだ。
 「遺作」の最終曲、ボーナストラックとして選曲された歌「ジョ・ビビレ」は、生きがたい日常をなんとかやりくりしてゆく庶民のしたたかさを声援し、鼓舞するものだ。明日への希望を失うな、と語りかける『魂の贈り物』そのものである。

 セリア・クルスと、ムチシマス・グラシアス!
 これから、わたしたち自身がAZUCAR! と自ら鼓舞していかねばならない。「ア、スカ~ル!」・・・こんな調子でいいかな、セリアよ。(2003年夏記)

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その2

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』 その2
 
 AZUCAR!
 セリアがそれを発するとき、そこの紺碧の空が晴れ晴れと広がる。
 その空を奥行きの深いホリゾントとし、その前方に丈高いサトウキビがカリブ海から吹く寄せる風を受け止めて撓(たわ)み、あたかも大海のうねりのような光景がザァーと音を立てて広がってゆく。しかし、セリアは、アスカール! の真実を語ってことはない。
 徹底した芸人であったセリアは、けっして社会批評的言辞を歌に持ち込むことはなかった。彼女の宿命的とも言える芸人根性が人を楽しませることを天命としていたからだ。いかなるときも陽気さを失わず、そのステージはいつもフィエスタ(祝祭)であった。笑顔はセリアの売りであった。
 セリアのスペイン語は元来、ハバナの下町で培われたものだ。彼女の地言葉はコメ・エセ、「S」を食べる。つまり、「S」の音が発音されない、という意味で、かなりクセの強いものだったはずだ。しかし、残された録音を聴く限り、キューバをはじめとするカリブ諸国特有のイントネーションは希薄だ。特徴のあるスペイン語には違いないが、スペイン語族なら明瞭に了解できるのである。セリアにとって母語のスペイン語は歌の源泉であったし、心のなかを象徴する言葉そのものであった。英語を完璧に話すセリアだが、同じキューバ系移民の米国人歌手グロリア・エスティファンのように英語歌詞で歌ってグローバル市場にでていった行き方はしなかった。

 抜力蓋世(ばつぜんがいせん)という言葉がある。
 気力が人に優れてあふれ漲(みなぎ)っている、という意味だが、歌のフィエスタを司るセリアは、まさに疲れをしらない太陽の巫女であった。
 もう、セリアがそんなフィエスタを主宰することはなくなった。永遠に・・・。けれど、彼女が後世に遺贈した厖大な歌がアルマ=魂は時空を超えて生き延びて行くはずだ。遺作となってしまった本アルバムの表題は誰が命名したのだろうか・・・。『REGALO DEL AKMA(魂の贈り物)』。おそらく死期を予感しはじめたセリアは、長年のファンへの返礼として、これを制作したのかもしれない。
 遺作に違いないが、しかし・・・セリアの死期を確かな予感として企画されらものではない。あくまで次作への発展を期待させる現在進行形の「新作」として発表されたものだ。
 たとえば、「新作」の共演者として迎えられたパナマのエル・ヘネラルの起用にもそれは象徴されている。セリアは彼の実力を見込んで選び出し、あわよくば旬の養分を吸い取ってわがものにしようという野心すらうかがえるものなのだ。
 ここ数年でいえば、セリアの正統な後継者となるはず、そういう立ち位置も自覚していると思われるプエルトリコ出身のインディアがいたし、マーク・アンソニーとの競演もあった。そう、共演ではなく、若いマークとのあくまで技を競う“競”演であった。若手を押し出す場を提供しても、歌の道ではあくまでプロであって、年齢など考慮せず、あくまで実力で競う気概をけっして忘れなかった。それが生涯現役を貫いたセリアの天晴れ、なのだ。 (つづく)

[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物』 レガロ・デル・アルマ その1

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』
 EPIC EICP 291『REGALO DEL ALMA』のライナー・ノーツ
セリア・クルス

 セリア・クルスに涙は似合わない。
 太陽の光によって輝く月ではなく、太陽そのものであったセリア。カリブの海を一点の翳りもなく染め抜く熱帯の旺盛な太陽そのものであったセリア。その太陽が永遠に水平線の彼方に没したのだった。7月16日のこと・・・。セリアにふさわしい盛夏のその日に。享年78歳。
 セリアの追悼に涙はいらない。友人をあつめロンを用意し、クーバリブレをつくってグラスに注ぎ、彼女の歌で踊るか談笑を活気づかせているほうがふさわしい。笑顔で送り出そう。「ご苦労さまでした。これからパライソ(天国)の椰子の木陰にハンモックを吊ってユア~ンユオ~ンと休んで欲しい」と、グラスを鳴らそう。

 ・・・・・とは言っても、死は粛然たる事実。セリアの太陽を追うことが永遠に閉ざされてしまった大きな欠落感。けれど、セリアは78年の歳月をかけ国境を政治を、民族、そして世代を超えて無数の人びとの胸を熱しつづけてきた、その熱はそれぞれの胸のなかにいましばらく熱度を失わずに生きていくのだろう。その焔(ほむら)は一人ひとりがそれぞれの生を終えるまで鮮やかな明度を保ちつづけるように思う。それを心火(しんか)という。
 セリアが私たちに遺贈してくれた作品の総量は圧倒的なものだ。そのカリブ音楽の遺産は稀代の放蕩息子といえども消費尽くせないもののはずだ。セリア自身がいささかも出し惜しみせず放射してきた歌に込めた熱量の総体は月へと反照射できるほどのものだ。

AZUCAR!
 アスカール! セリアの必殺フレーズだ。
 「砂糖」、転じて甘味や美味といった意味も。しかし、セリアがそれをキューバ訛スペイン語特有の撥舌音とともに発するとき、彼女自身の万感の思いも込められている。歌の調子の良さで、出来の良さ、あるいは共演者たちの巧みや充実した演奏への賞賛として、リズムを活気づかせるフレーズとして直球型で投擲されるものだが、同時に祖国キューバへの愛着がどうしようもなく息づいているものなのだ。
 首都ハバナから少し郊外へ車を飛ばせばよい。そこは一面のサトウキビ畑。革命は、砂糖の量産をエルネスト・チェ・ゲバラが率先してマチェテ(農民の小刀)を振り鼓舞することによって前進したようなものだ。キューバの銘酒ロンがサトウキビから誕生したように、セリアにとってアスカール! は出自のキューバそのものも象徴する。
 しかし、セリアは1959年のキューバ革命後、祖国へ一度も戻らなかった。当時のメキシコで汎ラテン圏音楽の美点を音楽のマチェテで貪欲に刈り込み、独自の世界を構築していたソノラ・マタンセーラたちとともに充実した活動を行なっていたのだった。その時から、セリアは亡命音楽家の道を歩むことになった。
 当時、メキシコは中南米諸国の大半が米国の圧力に屈して革命キューバとの国交を断つなかにあっても友好関係を維持していた。ラテンアメリカの盟主という自覚からだったが、同時に米国もメキシコをキューバの窓としておくことを容認していたのだ。
 革命キューバを信任したメキシコだが同時に、反革命派のキューバ人の滞在も認め、音楽家たちの就労も黙認した。そのなかにはマンボ王のペレス・プラードのようにメキシコ国籍を収得するものが出てきた。セリアもまた米国に安住の地を見い出すまでメキシコを一時的に活動の拠点とした。
 セリアとソノラ・マタンセーラのメキシコの活躍は、やがてメキシコ直産のキューバ音楽グループ、ラ・ソノラ・サンタネーラを生み出してゆく。セリアもサンタネーラとの録音をメキシコに数多く残している。
 セリアにとってメキシコは、人生の転機を無事にやり過ごすことを暖かく許容してくれた土地であった。セリアは生涯、そのことを忘れなかった。8月19日にはメキシコ市内の教会で、メキシコに住むセリアの友人たちがあつまって特別ミサを捧げたことは銘記されて良いだろう。 

 ハバナの一角にで生を受け、音楽を育み、スター街道に送り出してくれた母国キューバに別れを告げたセリアにとって、アスカール! は望郷のキーワードであったかも知れない。しかし、そこには故郷喪失の悲哀の通奏低音はない。湿っぽさはまったく乾いている。遠くの離れた故郷を思う心は高音でなければ届かない、と主張してようだった。それは同時に、革命キューバから逃れ米国、メキシコ、中米・カリブ諸国に離散したいった同胞たちに向かって、異邦での暮しを少しでも風通しのよいものにすることを使命と考えたセリアの呼びかけにもなった。といって、筆者は革命キューバを否定するつもりはまったくない。しかし、いかなる政治体制も完璧ではありえないし、共産主義という統治・経済システムを嫌う人たちの自由は尊重されるべきだと思う。もし、セリアが革命直後のキューバに戻れば、その歌の力は革命プロバカンダの道具と使われ、反米を唱える広告塔になったかもしれない。
 一芸人に徹したセリアは公に革命キューバを語ることはなかった。ただ行動、亡命という終極の選択でそれを示しただけだ。
 日本でよく言われることだが、サルサとは、革命後、リアルタイムでキューバ音楽の前衛が米国に流入していかなくなった時代に在米のプエルトリコ人たちは創造し発展させていったもの、という見解はある側面を語っているに過ぎない。
 メキシコはリアルタイムでキューバ音楽は流入していたし、メキシコから陸続きに北上することも可能だった。米国には昔もいまも多くのチカーノ(メキシコ系米国人)がヒスパニック社会の主要民族集団として存在している。
 革命後もキューバ音楽家たちは西欧諸国への巡業をつづけていたし、各地に録音も残していた。その音を米国で入手することは可能だった。問題は、革命後のキューバ音楽に大きな変化が生じたことだ。時の勢いは避けられない。革命の息吹きを吸い込んだ若いキューバ人たちが、あらたな時代の音楽の担い手となってゆくのは必然だった。ヌエバ・トローバを名乗る一群の若い才能が出てきた。そして、キューバの新しい顔になり、汎ラテン圏で愛唱される名歌も生まれていった。革命後もキューバ音楽は相変わらずスペイン語圏で愛好され、尊重もされてきた。キューバの音楽的嗜好は革命後、変質したのだ。その変質・変容を米国のラテン音楽愛好家たちは許容できず、キューバ音楽の多様性を取り込んだサルサに伝統と新しさを見い出していった、ということだ。
 そして、そのサルサの黎明期から完成期、さらに現在の熟成期問わず、その中心にセリア・クルスという大輪が、いつも瑞々しい芳香を放ちながら君臨していたのだ。
 セリアの死の少し前から米国で彼女の伝記映画の制作が準備中だった。彼女の死によってシナリオの見直しが行なわれているはずだ。セリア役には、彼女の友人であった名優ウーピー・ゴールドバーグが演じることになっている。その脚本のために、セリアは長時間インタビューに応じていた。もし可能なら、そのインタビューの全容が活字化されるとラテン音楽史における貴重な資料となるずだが、もしかしたら、そこに亡命の真の動機も語られているかも知れない。 (つづく) 
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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